2013-12-27

首相の靖国参拝に抗議! (更新8、2014・2・20)

安倍首相は、2013年12月26日に靖国神社への参拝を強行した。
 
 首相の説く「積極的平和主義」の実現を目指している一連の動きのなか、「やはり」と思ったが、この暴挙にも断固反対する。

 M. ニーメラーの後悔*を繰り返してはいけない。それぞれの時と所で、声をあげていくべきだと思う。

若い学生たちにも考えてもらいたいのだ。
 今の若い人たちは、政治に興味を持たないといわれる。しかし、本当にそうだろうか。情報の入り方が今までとは違う。SNSなどを通じても時事問題に結構いろいろな意見が挙げられて、受け取っているし、考えているのではないか。そういう中で、しっかりと自分の考えを持ってほしい。自分の頭とことばで生きてほしいと思っている。今なら、間に合う。二度と戦争をする国をつくってはいけない。それが、歴史のなかで多くの戦争のためにいのちを落とした人々の魂とともに、平和に向けて生きる、唯一の道ではないのか。

今回の、安倍首相の行動。
 
 もちろん、現在の外交上、国際世論の中、孤立化する最悪のタイミングであることもその理由としてあげられようが、何よりも、靖国は意図としても結果においてもアジア侵略をすすめた天皇制軍国主義による先の戦争の精神的な支柱であり、その戦争においてA級戦犯となったものを含む「英霊」がまつられている神社であることを考えなければならない。つまり、何か戦没者の慰霊の施設などではなく、はっきりと大日本帝国が国のために犠牲となるように国民を教育し、鼓舞し、強制する戦略のためつくられた宗教施設だった。
 確かに「靖国で逢おう」という合い言葉によって、多く若者が戦地に赴いた。それは美談として語られるべきものではない。赴かざるを得ないように洗脳されたと言ってよいし、そうしなければ、社会的に生きられない状況が作り出されていたのだ。いわば、そうした戦争推進のために英雄伝説を現実に描いてみせたのが靖国神社の実態といえるだろうか。
 今は、もちろん国家の施設などではなく、一宗教法人に過ぎない。
 この靖国を首相が参拝するということがどういうメッセージになるかは、自明のことだ。単に政教分離の原則に抵触するということばかりではなく、そのことも含めて、先の戦争を推進したイデオロギーに対しての肯定、復古を懸念されるのは当然だろう。かつて、小泉純一郎元首相は参拝を個人的な「心」の問題だと言い放った。安倍首相はこれによって「中国、韓国の人々を傷つけるつもりはない」という。首相である以上、そういうことばでごまかしは出来ないのではないか。
 過去の歴史認識の上にたって、何をしてはいけないかということが分からないというのなら一国の舵を取るものとしての資質の問題だ。しかし、おそらく、そんなことが分からないはずはない。その意味を理解して、なおこれを行っているから最悪なのだ。

 この道の行き着く先には、日本を再び戦争の出来る国としようとするあからさまな意図が見えている。特別秘密保護法の制定、首相の靖国参拝、沖縄の米軍基地辺野古移設決定とつづいた。すぐに愛国心を養う教育問題に介入する。改憲論を持ち上げ、9条をなし崩しにする。自衛隊を軍隊にする。やがて徴兵制もありか。これが、積極的平和主義という名前のもとに、一方では意図して国際的緊張を演出して、世論的にも右傾化を呼びこんで、大きな流れをつくる意図だろう。経済的な上昇気流がなお衰えを見せていない今のうちに、急速に舵をきった安倍首相の本音は、いったい、いつの「日本を取り戻す」ことなのかは明らかではないか。

カトリック教会は日本カトリック正義と平和協議会の名前で、いち早くこの安倍首相の行動に抗議声明を出している。(12月26日)
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/131226.htm

いずれNCCも抗議声明をだすだろう。
ここに今後の動きも更新していこう。
NCCは年末ですぐには動けないか?

日本バプテスト連盟は、以下の抗議文を理事長名で出した。(12月28日)
http://www.bapren.jp/uploads/photos/685.pdf

日本同盟基督教団も、「教会と国家」委員会名での抗議声明を出しました。(12月29日)
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=742

日本ホーリネス教団が、教団委員長並びに福音による和解委員会委員長の名前で抗議声明を出しました。(12月31日)
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=745

日本長老教会は社会委員会委員長名でいち早く12月26日の首相の参拝合わせてに抗議声明を出していました。(12月26日)
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=741

日本キリスト改革派教会は、教団と代表役員・大会議長の名前で抗議声明を出しています。(12月30日)(1月27日に確認)
http://www.rcj-net.org/statement/statement_against_prime_minister_2013Dec30.pdf

日本キリスト教協議会、NCCが議長書簡を首相宛に出したことを公にしました。
(1月27日) (1月29日に確認)
http://ncc-j.org/uploads/photos/117.pdf

日本YWCAは、首相の参拝と同日に抗議声明を出していました。(2月20日確認。遅くなったことお詫びします。)
http://www.ywca.or.jp/pdf/201312261.pdf

日本キリスト教会も、参拝の翌日、靖国神社問題特別委員会委員長名で抗議を明らかにしています。(2月20日確認、遅くなりました。)
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=746



*マルティン・ニーメラー牧師がナチズムの横暴に抗し切れなかった自らを悔いたことばとして、知られる。(下記参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%8C%E6%9C%80%E5%88%9D%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%82%92%E6%94%BB%E6%92%83%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D

2013-12-24

ルター研究 別冊1号 

『宗教改革500周年とわたしたち 1』


http://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/72999

2013年の今年、宗教改革500周年(2017年)を4年後にひかえて、ルーテル学院大学のルター研究所(鈴木浩所長)は、このタイトル「宗教改革500周年とわたしたち」で毎年連続のセミナーを開くこととし、その第一回目を6月に開いた。その成果をまとめる形で、ルター研究も今年から毎年一冊ずつ別冊として連続発行される。

第一号の内容はつぎの通り。鈴木所長の「まえがき」に続いて、
①徳善義和
「問題提起:ルターの現代的意義を問えばー『宗教改革五〇〇年と私たち』を考えるために」
②江口再起
「ルター・プロテスタンティズム・近代世界ー宗教改革五〇〇年のために」
③江藤直純
「ルターの宣教の神学と今日のルター派の宣教理解(1)」
④ティモシー・マッケンジー
 「『ルーテル教会信条集(一致信条書)』の邦訳の歴史的背景と意義」
⑤高井保雄
 「ルター、エラスムス、エンキリディオン、悔い改め」
⑥徳善義和
「ルターの讃美歌考—『バプスト讃美歌集』(一五四五年)に見る」

六番目の徳善先生のルターの讃美歌集についての論考は、単に讃美歌についてというばかりではなく、礼拝について、また信徒の信仰教育や信仰生活についてルターがどのように考えていたかということに学ばされる。これはセミナーではなされたものではないが、プラス・アルファーとして加えられ、ルター宗教改革の礼拝に関わる側面を補った形ともいえる。
全体として読み応えがあるばかりではなく、これに刺激されていろいろな研究の可能性と必要を思わされるところだ。
ルーテルの牧師・神学生は是非手に取って目を通していただければと思う。そして、宗教改革の現代的な意義をそれぞれに宣教の現場から神学していただければと思う。
(来年のセミナーにも是非、大勢参加されたい。それについては、後日お知らせする。)


2013-12-19

闇の中の光は (クリスマス説教)

闇の中の光は(日本ルーテル神学校 クリスマス礼拝 12・17)

第一朗読 イザヤ9:1、5
福音朗読 ルカ2:1〜7

 アドヴェントは、クリスマス前の4週間の時、ヨーロッパではちょうど冬至に向かって日が短くなっていく中、闇が広がっていくその季節にあたります。義の太陽、世の光イエス・キリストの誕生、そしてまた再び来たりたもう主の約束を憶えるクリスマスに備える時を過ごします。
 毎日ロウソクをともし礼拝をする習慣から、日曜日ごとに毎週一本ずつ4本のロウソクをともしてアドヴェントを過ごすようになったのは、19世紀になってからといわれますから、そんなに古いことではないようです。しかし、アドヴェントそのものは、もともと主の顕現(公現)として祝われたクリスマスに洗礼式が行われるので、そのための準備がなされ、悔い改めと断食を守っていたことがその季節の過ごし方であったようです。クリスマスへの準備をし、礼拝を重ねながら、主が再びおいでになる救いの時に、ふさわしい者であるように自らの信仰を整えるために、この季節を過ごしました。
 冬の闇の中で、主のご降誕の時、そして、また来るべき世の救いを待ち望む季節を過ごしてきたのです。
 
 暗闇の中、救いを待ち望む。

 私たちを覆う暗闇。いったい、どんな暗闇のなかに私たちはたたずんでいますか。一体どんな闇に不安や恐れを感じているのだろう。一体、どんな闇が私たちを蝕んでいるでしょうか。

 聖書の記すクリスマスの出来事は、この闇の世界の広がりを大変印象深く背景にしながら、神の救いの輝きを記しています。神の栄光、しかしまた、その神に敵対する闇の力。その対比は、例えばヨハネ福音書が鮮やかに描いています。

「光は、暗闇の中で輝いている。」

 先ほど読んでいただいたイザヤ9章は、アッシリアに滅ぼされた神の民イスラエルの絶望を闇と呼び、その闇の支配にさらされたガリラヤの地に輝く光を救いのしるしとして預言しています。

 その暗闇は、神を受け容れることの出来ないもの、神の御心に逆らう力、また神から引き離す力なのです。そして、その力はいつでも、私たちを捉え、いのちを奪い、死の支配、闇の支配をもたらそうとしているのです。あのアダムを誘惑し、その息子カインをして弟アベルを殺すようにしむけたその力は、あの時を同じように私たちを捉えようと戸口で待ち構えているのです。
 その闇の力は、具体的、実効的に私たちに不安と恐れをもたらします。
 マタイ福音書は、主の誕生の知らせに際しユダヤのヘロデ大王が、その闇の力の虜になっていたことを伝えています。自らの地位や権力の座が脅かされる不安にかられ、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。闇の力が一人に権力者の心を蝕み、その地方一体に闇を深めたのです。ヨセフとマリアは幼子を抱き闇の中をエジプトへと逃げ、難民となったと記されています。
 一方、また福音書記者ルカは、主のご降誕が当時のローマ世界の人口調査の時であったことを記します。皇帝アウグストゥスが世界支配を徹底させ、税を重く課すために人口登録をさせたその時に、ヨセフとマリアはその登録のために長い旅を強いられました。彼らは長いたびの果てふるさとにたどり着いたにもかかわらず、そこに彼らを受け容れる宿はなく、ようやく厩に休む場所を得て、そこで主がお生まれになることになったと伝えています。
 貧しいヨセフとマリアには、世のにぎわいと忙しさの中で一夜の場所さえ与えられなかったのです。顧みられることがなく、あたたかな場所もゆっくりした広さもなく、動物のえさや糞尿のにおいの中におかれたのでした。街の人々は、その事に気遣うこともありません。闇はすべてを覆っているのです。

 マタイもルカも、主の誕生の時を大変具体的な歴史の一こまとして記しています。時の権力者が何をして、人々の生活の中に何をもたらしたのかということを伝えています。そこに闇の支配が広がり、人々に恐れと不安がもたらされ、弱く小さな者、貧しい者たちが顧みられることなく、そのいのちが奪われ、悲しみが広がっている。そうした当時の様子を伝えているのです。おそらく、その闇の力は、一人の権力者だけではなく、むしろ、そこで生きている一人ひとりをそっと虜にしているのです。だから、いのちが奪われたものがあり、だから、居場所を与えられないものたちがあったのです。

 闇は、いつの時代にも、私たちを押包もうと広がっています。
 いま、私たちは、どんな闇の中にあるのでしょう。誰のいのちがうばわれているのか。居場所が与えられないままなのは誰ですか。誰が不安と恐れの中におかれていますか。いま、どんな闇が何を秘密にし、なにをしようとしているのでしょう。私たちは、いま、この時に闇の広がりがあること知るのです。

 けれども、その闇の中にこそ、光が輝き、一人のみどりごが与えられ、新しい始まりをもたらしたと聖書は私たちにつたえるのです。そして、そのとき、ヨセフもマリアもそのいのちを守る勇気と力を与えられました。いえ、そのいのちが光として、彼らを生かし、導いたと言ってよいでしょう。そのいのちの輝きは、彼らにその暗闇の中にあっても長い旅を歩ませ、絶望ではなく希望を与え続けたのです。幼子にまみえたあの東方の学者たちは導かれて、権力に屈することはなかったのです。羊飼いたちは、自分たちと同じように動物のにおいにまみれた赤ん坊のイエス様の誕生に、神様の顧みが自分たちに及んでいることを知らされました。よろこびと賛美を表し、慰めと誇りをもってその羊飼いの生活にかえっていきました。

光は闇の中に輝いている。闇は、この光を覆い隠すことは出来ません。
それは、この光の確かな力なのです。

 私たちを蝕む闇の力は、世界の中に不安と恐れをもたらしています。しかし、同じ闇は、すでに私たちのうちに働いて、欲望と傲慢、ねたみやうらやみ、争い、利己心となってうごめいているのです。それが、私たちを主の御心から引き離すのです。それが私たちをむなしくするのです。それが私を滅びへと向かわしめているのです。

 しかし、それにも拘らず、神様はあなたを愛されます。それにも拘らず、この闇の只中に立ちすくむ私たちとともにおられることを神様は約束され、引き受けられることとされました。それにも拘らず、この悪しき思いに腐り、臭を放つ私の内なるまぶねに主はおいでになられたのです。それが神のみ子の誕生、神の受肉、クリスマスの出来事なのです。

闇の中に光が輝きます。

 そうして主が私たちにこそ宿り、いま私たちを新たにし、腐りいくものの上に朽ちることのないキリストの義を着せ、生かしてくださるのです。神様のまなざしに守られて、私たちの中に慰めとよろこび、深い安心が与えられるのです。愛せないでいる私が愛する者とされ、信じない私が信じる者とされ、死んでいた私たちが生かされるのです。恐れている私たちに勇気が与えられ、絶望の中に希望することが与えられるのです。自らの過ちを正し、神のみことばに聞いて立ち上がり、倒れているものに駆け寄り、苦しむものの傍らにあるように、私たちはキリストのいのちを生かされていくのです。

さあ、この暗闇の中、主のいのちの光を輝かしましょう。
「今日ダビデの街で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」のです。
闇の中の光は、私たちを新しくし、他者のためにこの光を輝かすように、私たちを召し、そして遣わすのです。

2013-12-14

「今、神学するとは」によせて

今、神学するとは…

『福音と世界』2014年1月の特集のタイトルだ。

              

教派を超えた10名が、今日の神学、とりわけ日本における神学の課題や可能性について論じている。私も拙文を寄せるよう声をかけていただいたのだが、むしろ一人の読者としてこの特集の発行を楽しみにしていた。
 一人ひとり、限られた誌面のなかではあるけれど、自分の神学的視座を表現されていて、大変興味深く読むことができた。もちろん、現代の日本にあっての神学的課題を述べるということだから、全く独自のものが表現されているというより、たぶんにそれぞれの主張は重なってくる。日本の神学は、これまで欧米中心で、翻訳と解釈、その応用・適用という方法をとってきただろう。その時代を必ずしもすべてマイナスに捉えることではないけれど、そうした西欧、特にドイツと、後にアメリカに追随する神学が、日本人である私たちの信仰、その生活、あるいは現代の課題に本当に向かい合うものとなり得ているのかという反省が語られる。そして、アジア・日本という具体的な宗教的・文化的コンテキストをふまえつつ、今の私たちが直面している地球規模の環境問題や生命倫理の問題などに取り組む必要があるという課題を確認している。そのために自分たちの神学の基礎を今一度確認し、教会の内向きな神学ではなく、世界に対して積極的にその責任を担う神学の必要が述べられている。
 その神学がどのような性格のものであるか、どんな基礎を持つと考えられるのか、論考を寄せられた一人ひとりのその語りのなかに、個性的なその基礎構造のようなものが見えてくるように思う。

 しかし、そもそも「神学」という言葉に何を思うだろうか。
 ここ数年、それまでどこか忘れかけられていた「哲学」という学問がにわかに取り上げられ、たくさんの本が出版されている。『14歳からの…』といった若い世代へ訴えるもの、『ソフィーの…』というミステリー小説のようなものがそのブームを促しただろう。難しい哲学者の言葉を分かりやすく編集、解説を試みたものも予想以上に売れたようだ。哲学というものへの入門書、手引き類いは、古今の哲学者、その哲学をやさしく解題するというものばかりではなく、むしろ「哲学する」ということそのものへの招きとして書かれたものも少なくなかった。いったい誰が読むのだろうと思う哲学史における『普遍論争』のようなものさえ熱心に読まれたようだ。

 さて、それで「神学」は?
 キリスト教やその歴史、文化を解説する特集雑誌や新書はよく売れている。しかし、売れるものはどちらかと言えば、神学の専門家でない人、もっといえばクリスチャンでもない人たちによって書かれたものばかり。牧師や神学者が書いたものにはなにか警戒心が働くのか、入門的なものでもなかなか売れない。そもそもキリスト教信仰を前提にするものである「神学」は、「哲学」以上に近寄りがたいのだろう。
 そのことは、しかし、やはり「神学とは教会やキリスト教の人たちのものであって、自分たちには全く関係のないこと」と断じられているということでもある。信仰のない者には所詮関係のない話と思われてしまっている。それは、裏を返せば、キリスト教が現代の生に何を提示しているのか、何を語っているのか。その発信がなされていないということに違いない。路傍伝道をするかどうかは別にしても、今を生きる人々に訴える力を持たない私たちの「ことば」を今一度問い直す必要があると思う。本当は、クリスチャンに限定した神学などというものはないのだろう。その神学の必要を、誰にでも伝えられるように責任を感じていたい。
 
 取り上げるべき課題については、私自身は二つのことを例にして緊急の問題と呼んだ。一つは「核の支配」、今ひとつは「天皇制」。「核の支配」は、今回の原発事故によって、図らずもそのほつれがはっきりとして、関心が寄せられている。しかし、そんな懸念さえもなし崩しにしていこうとする「力」が働いている。また、天皇制の問題。これはまた、今の天皇・皇后が懸念される「力」を牽制するように発信されるものも見えたりして、なかなか直接的に論じることが躊躇われるほどだ。しかし、個人的なことがどうであるかではなく、「天皇制」というものの持っている根本的な問題に、しっかりと向かい合っておく必要がある。良くも悪くも、影響力を持つ宗教的な祭司としてたてられる「象徴天皇」の制度は、いざという時必ず担ぎ出されるに違いない。靖国問題も結びついている。国旗や国歌がそうである以上に、私たちに究極的な関わりを求めるシンボルは、国民を個人よりも全体の中に吸収させ、国家のために「コントロールのもとにおこう」とするだろう。すべてが「秘密」のうちに決まり、黙らされたまま誘導されることのないように、私たちは目を凝らし、必要な声をあげていなければならない。

 さて、こうした神学的な課題へ取り組む基礎として、私自身はかねて「いのち学」ということで取り組んでいる。今回のエッセイには書き切れなかったのだが、被造物全体とのつながりや、個人としてのいのちの尊厳などをしっかりと聖書的に基礎から捉え、今の私たちの「生」の危機を見つめ、生命倫理を含めた現代的な課題に応えていくための方法論といってもいい。日本人の宗教性を含めて、現代のいのちの問題を神学的に検証していく必要がある。

 今回は本当にわずか10名の小さな発題だった。しかし、課題を共有しているはずの人たちはたくさんいる。特に「神学者」と言わず、信仰の生に苦悩しつつ真摯にみことばに聞いて、自分たちの営みを問い続ける信仰者はたくさんいるのだ。その私たちは、どんなふうに連携し、ともに学び、神学の「ことば」をきたえていけるのか。
 せっかく教派をこえた論者の声が寄せられたのだ。その次の一歩も作れないだろうかと、密かに思っていたりする。

2013-12-09

特定秘密保護法成立に反対する そして…

 2013年12月6日の参院本会議で、「特定秘密保護法」は可決され、成立した。
この法案の成立に関しては、それぞれの立場から反対の声は大きく、特にその成立に向けての性急な国会運営、審議不十分さ、そして数に任せた強行採決のあり方には与党に対する支持・不支持を超えて懸念が表明されている。
 キリスト教界からも、早くからこの法案が民主主義の根幹に関わる問題であることへの懸念、反対の意見が表明されてきた。この法によれば「安全保障」のため、あるいは「外国の政府および国際機関との交渉に不利益」になることなどを理由に国民が確かな情報得ることがゆるされず、かえってそれを知ろうとすれば処罰の対象となりえる。
 おそらく、そうした国家の大切な秘密があることは当たり前といえるのだろう。けれど、その「当たり前」はどういう意味で考える「当たり前」なのか。その前提が「国民の主権」に基づいているのか、そうでないのか。「基本的人権」にもとづいているのか、そうでないのか。そこが問題なのだと思う。この法案は、何がその秘密になるのか、その内容とその対象の決定、またそれを確認するチェック機能も曖昧なまま、政府の一存ですべてが決まっていくというところに異常さがある。だからこそ、歴史を知る者は、これが戦争への一歩となることを懸念し、「平和主義」に逆らう法案であると反対する声明が出されてきている。

 法案によれば、おそらく原発の事故によってもたらされている様々な危険、日本におけるアメリカの基地問題、近隣諸国との間にあるとされる領土問題とそれによってもたらされている緊張関係などについての情報が秘密とされる可能性がある。私たち国民が、今、非常に関心を寄せ、これらの諸問題を処する政府の対応に様々な意味で確かな情報に基づいて意見を表明して、日本の進む方向性を民主主義的な方法で決めていかなければならないと思うことがらについて、国民には情報が知らされず、秘密主義に基づいてすべてが動いていくことが多いに懸念される。

カトリック教会の日本カトリック司教協議会は常任司教委員会の名前で12月7日付けで強行採決に反対を表明している。
http://www.jccjp.org/jccjp/home_files/2013.12.7himituhogohouBp.pdf

日本聖公会は、正義と平和委員会が11月18日付けで法案の成立に反対している。
http://www.nskk.org/province/seimei_pdf/himitsu131118.pdf

日本バプテスト連盟は、靖国神社問題特別委員会名で12月2日付けで本法案の廃案を求めている。
http://www.bapren.jp/uploads/photos/681.pdf

日本キリスト教協議会は常議員会名で11月22日づけで法案への反対を表明している。
http://ncc-j.org/uploads/photos/106.pdf

また、教派を超えて牧師たちが署名によってこの法案への反対を表明するサイトも立ち上がっている。「特定秘密保護法に反対する牧師の会」
http://anti-secret-law-pastors.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html?spref=fb&m=1

 私自身もそれぞれの関係の中で、この法案に反対の立場を表しているつもりだけれども、個人のブログにおいても、これを明らかにしておきたい。
 そして、たとえこの法を廃案に導けなかったとしても、今から何が起こるのか、その一つひとつに目を見張らせていかなければならない。また、次の世代に向けて私たちにとって何を大切なこととしなければならないなのか、伝えていかなければならないと思う。しっかり知ること、そして、その確かな情報に基づいて考えること、判断すること、その意見を表明すること、責任を負うこと。しかし、意見の違う他者があることも認めること。そして、何よりも弱い立場にある人々を守るように行動すること。それはきっと日常の中でいつでも私たちが大切にしなければならないことだろう。その根幹が揺らぐことのない社会を作るのは、私たち自身だと思うのだ。決して、これが、戦争への一里塚だったなどということにしてはならないのだ。

(私たちルーテル教会は、教会として、あるいは個別の委員会においても意見の表明に至っていない。関係するであろうと思われる諸委員会から意見を表明するということについて十分に機能的になり得ていない向きがある。しかし、実際には個々の牧師、教会員の意識が低いと言う訳では決してない。それぞれの関係から声は上がっているし、行動にも参加している。ルーテルの者としては忸怩たる思いもあるが、教会は委員会や個人名であれ社会的問題に対応した意見表明をしていく必要は十分に確認されてきているし、かつては靖国の問題などにおいて実績もある。近くは、震災後の原発の問題についても意見を表明した。ただ、時事刻々と変化する課題に、タイムリーな発信がなされていない。今総会期の常議員会ではこの社会問題に関する教会の対応あり方の問題についても確認され、今後のためにどのような整備が必要であるかの検討がなされているとも聞いている。いずれにしても、情報化社会であって、今は様々に連携・連帯が作れるし、また個人的にも意見の表明は可能になっている。この時代だからこそ、どういう形で諸問題に対応する形を作れるか、しっかりと模索していく必要はある。)






2013-12-06

アウグスブルク信仰告白とその解説

 宗教改革者のルターの信仰理解を簡潔に述べ、教会が様々な特色を持ったり、違いを持っていたとしても、キリストの教会として一つの交わりをもってお互いに認め合うために最低なにが告白されなければならないか。

             


徳善義和先生による解説は、おそらく神学校の「信条学」の講義ノートがもとになったものだろう。充実したその内容は、神学生にとってはルーテル教会の神学の基本の基を学ぶには最適だ。ルーテル教会の信仰理解と言うことばかりではなく、その成り立ちを考えてもエキュメニカルな神学の基礎として今日改めて評価をしながら、新しい歩みを築いていく基礎ともなろう。
 1980年がアウグスブルク信仰告白450年だった。その前年にこの新書判が発行されている企画にも意欲を感じないではいられない。1983年のルター生誕500年を経て、ローマ・カトリック教会との対話はさらに深まり、1999年の「義認の教理に関する共同宣言」の調印にまで進んだ。宗教改革500年を目前にして、今一度この信仰告白の研究と評価が求められよう。
 ルーテルの神学生には、もちろん必読中の必読書。既に手に入る状態ではないから、古書店で見つけたら、躊躇せず買ってほしい。再販が企画されるべきか。むしろ、データにして、アップし、共有できるようにしておくと良いのだが…。

『牧会者ルター』

 ルターによる宗教改革の神学は、一人の信仰者としてのルター自身が、人生の歩みの中で福音によって生かされていくその試練・格闘の経験から出発している。神学的な論争は、主として当時のローマの教会とスコラ神学、また熱狂主義的運動に向けられているが、その神学の根っこは牧会的であり、実践的な魂の配慮に満ちている。
 そんなルターの牧会者として姿、またその神学を人生の様々な視点において浮き彫りにし、今日の私たちの信仰生活にも直接いきてくる神のことばに立つルターの信仰と神学を伝える一冊。石田順朗先生による『牧会者ルター』。聖文舎によって出版されていたものが2007年に教団出版から復刻されている。

                

神学生は必読の書。牧師の本棚にも必ずおいておきたいもの。

2013-11-30

『教会とはだれか』

神学生への推薦図書
石居正己の『教会とはだれか』。

                 


現代の日本の教会における宣教というコンテキストの中で、最も必要な神学的考察の一つの結実を著した書。ルター神学に立ち、「教会」という一つの視点を軸に書かれた良書。
礼拝、説教、サクラメント、罪の告白と赦し、職制、宣教、奉仕、教育。極めて実践的かつ本質的な教会理解を丁寧に論述する。信仰者としての私たち一人ひとりが、キリストの体であり、すなわち教会として生かされ、遣わされていることに気づかされる。

正己は専任として大学と神学校での教育にたずさわっている間は、なかなか書物をまとめることがなかったが、引退後、長年の神学研究をまとめて幾つかの本を書くことを計画した。その一冊目がこの本。引退してからも、実際には神戸の神学校や京都地区の牧会委嘱などが続き、十分な著作の時間をとることは難しかったようでもある。この本は引退後約10年の時を経て、ようやくまとめられたものだ。

神学校でも、何度も学習会や授業で取り上げられている。神学生には必読書の一つとして推薦したい。

2013-11-22

隅谷三喜男 『日本の信徒の神学』

日本人としてキリスト教を信仰する。そこでどんな問題に出逢っているのか。信徒にとって切実な課題を信仰の道筋の中で考える。日本の神学の世界は、どうしても西欧の神学の翻訳的な取り組みから抜け出せないところが多い。

隅谷氏の取り組みは意味深い。


               

第一部は、日本人とキリスト教という少し大きい視点から、10編ほどのエッセイがまとめられている。日本人がどういう宗教性をもっているか、またそういう日本人がどのようにキリスト教と出逢い、その信仰にどんな日本的な特徴が見られるのか、そうした問題に向き合って、歴史的なことから現代の問題にまでわたって自由に語り出される。
第二部も、〈日本の信徒〉の「神学」というタイトルで括られたやや短めの10編のエッセイをまとめている。視点は「信徒」が信仰を持って生きるその日常生活、具体的な生きられる信仰の姿に絞られた問題意識を語られる。信徒がどういう問題に出逢っているのか、そこでどんな風に信仰をいきるのか。生きるべきか。社会学的な分析の視点をもって、今日の日本の教会と神学に問題提起を行っている。
「神学」というものが生きられる信仰に奉仕するべきものとするなら、こうした「信徒」の視点は何よりも大切であるし、また「神学」が決して専門家集団の役に立つのかどうか分からないように難しい議論だけに終始するものであってはならないということを知らされる。
神学生は必読の書の一冊。

2013-11-19

『ルターの祈り』

1976年、当時の聖文舎から出版された『ルターの祈り』がリトンから復刊された。
信仰とは何かという問いに、最も単純にそれが祈りであると答えるルター。そのルターが折に触れて祈り、また人に教え、示した祈りが集められたものだ。


いっぱんに「祈り」と言えば、何かを願うこと、祈念すること、強く思うことと言った意味で用いられているかもしれない。しかし、キリスト教における「祈り」は神との対話である。ルターはその対話の相手である神に徹底して信頼を寄せ、その神のまなざしの中に自分が何者であるかを深く受け止めつつ、直面する問題についての助けを求めている。そして、究極的には神の憐れみと愛に生かされていく信仰を求めていると言えるだろう。
一つひとつの祈りのことばに目をとめると、その祈りが祈られた状況に思いをめぐらせる事が出来る。宗教改革者、あるいは偉大な神学者と言うより、一人の信仰者として素直な信仰のことばに教えられることは多い。

2013-11-18

「恐れずに」ルカ19:11〜27

説教「恐れずに」ルカ19:11〜27 (2013・11・10の保谷教会での説教)

 今日の聖書の個所は、イエス様がムナのたとえをもってお話しになられたところです。10人の僕たちが主人から商売をするように勧められてそれぞれ一ムナずつを与ります。主人の命令に聞き従い、ある者は10ムナ、別の僕は5ムナを儲ける。そして主人に報告をすると、その儲けに応じた報いを受け取ります。
 しかし、その中の一人は、
『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』といって、とっておいた一ムナを差し出した。すると、主人は、この僕をしかり、預けた一ムナを取り上げ、他の者に与えます。

 少なくとも、無駄になくしたのではなかったのだから、それなりに一ムナを評価しても良いのではないのでしょうか。商売というのは、儲ける者があれば、失敗する者もあるわけで、大きな借金を抱えることにでもなれば、それは返って主人に損失を与えることにもなる。この僕は、自分が商売の才能がなかったのではないか。危ない橋は渡らずに、預かったものを守るのが精一杯と思ったかもしれません。
 けれど、「それなら」と主人はいうのです。せめて銀行に預けておくべきだったと。イエス様の時代の銀行といっても、実際には両替人か、高利貸しの類いでしょう。あるいは王の財産を管理するなかで、銀行に似た働きがなされたようです。けれど、とにかくそうしたお金を専門に扱う仕事があって、それに預けることでわずかばかりの利益を生む方法があったのでしょう。自分が商売をせずとも、それを託し運用することも出来たはず。つまり、一ムナを預けられたものは、どのようにしてでも、それを運用すべきだと言われているのです。
 一人ひとり預けられる額は一ムナずつです。このたとえを聞く私たちは、マタイ福音書のタラントンのたとえと同じようになにかの才能が与えられているということのたとえとして聞き取ることも出来ますが、誰にも与えられた「いのち」を意味するように聞いてみることが出来るでしょう。皆に等しく与えられたいのち。それは、用いなければ、いのちを生きたことにならないのです。しまっておいては、だめなのです。

 この僕はそれを用いることができませんでした。だから、その一ムナは取り上げられてしまいます。彼は預かったその一ムナさえ、ついに自分のものとすることが出来なかったのです。なにも用いることが出来なかったからです。
 その理由は何かというと、「恐ろしかった」と言っています。一体、彼はなにを恐れたのでしょうか。
 その商売をすることが危険を伴うことでしょう。なにもかも失う可能性のあること。そういう危険をおかすことを避けたのです。失うこと、傷つくことを恐れる思いでしょう。
 しかし、本当に恐れたのは自分の主人のことでした。預けないものを取り立て、まかないところから刈り取る、その厳しさの故に彼は恐れた。それは、すべてを奪い取る厳しさを思わせるこの恐れは、死への恐れのようにも思われるのです。

 私たちは、神様から生きるようにと託されたいのちを生きるのに、この僕と同じように何かを恐れるのかもしれません。何かを目的にして、時間を費やし、人と関わり、自らを注ぎ出す生き方をすればするほど、傷つき、そして、私たちは自らを失うような危険のなかにおかれるのです。あるいは、また自分が何事かに取り組めば、必ずその評価を受けるということになる。どう見られているのか。否定的なまなざしを受けるのは不本意ですし、深く傷つくものです。それらはあたかも自分を失うことのように思われて恐れるのかもしれません。
 
 それはしかし、本当に神様によって託されたいのちを生きることになっていないのではないか。恐れて何もせずに、それを隠していては、もっていてももっていないのと同じことになってしまうのです。だから、恐れずに自らを注ぎ出して、危険を冒しても生きるように。このたとえは、厳しい言葉を通して、生きることの本質を伝えているように思います。
 
 しかし、それでも、私たちはやはり恐れるのです。自分の無力なことを知っているからです。10ムナ、5ムナばかりかわずかでも稼ぐ力がどこにあるだろう。そういう自分ではないし、運だっていいほうじゃあない。いったい、傷つくことも恐れずに、大胆に、自らを危険にさらす勇気はどこから来るのでしょう。

 福音書記者ルカはこの主のたとえによる教えを、ルカ自身に語られた慰めと励ましとして聞いています。ユダヤ人からも、ローマからも迫害を経験しているルカは、神様の救いを待ちわびる信徒たちとともに主のみことばに、いえ、主の働きそのものに励ましと力を受け取って生きているのです。
 その特徴はマタイのタラントンのたとえにはない一つの要素によって、見事に照らし出されています。その要素は、この僕たちに自分の財産を預けて旅に出る主人が、単なる旅に出たのではなく、王の位を受けることのためであったことが記されるのです。それぞれの働きの報告を受けて報酬を告げる王となって還って来た主人は、かねて王になることに反対する者たちに厳しい裁きを語ります。

 しかし僕たちは、王の僕であることにおいて守られています。ルカは、厳しい王の裁きのあることを示していますが、王の僕であるということこそが何よりも確かにそのいのちを保証するものであるということを示しています。僕であることの確かさから、恐れを取り除くように励まされるのです。

 では、一体どのようにして、王の僕であることなのでしょう。
 このたとえは、預かった一ムナを用いることによってのみ、王の僕であることが明らかになるというのです。
 主の僕として、一ムナを、このいのちを用いるというのは、信仰を生きることであり、また誰かにキリストの愛をもって働くことです。ザアカイがそうであったように自らを改めて人のためにもっているものを用い、注ぎ出していく。富める若者に言われたように、貧しい人々のために施し、あの善きサマリア人のように、困っている者があれば助ける隣人となること。主は、そのように自らのいのちを用い、主の愛の実りを求めておられる。
 私たち自身が、そのために自分を注ぎ出すことが出来るかどうか。きっと、私たちは、なかなかそうはなれないとたたずんでいるのかも知れないのです。だとしたら、私たちは主の僕ではないということなのでしょうか。私たちは、自らが何者であるか知らされてくるのです。
 
 けれども、ルカはまさにそこでこそ聞き取るべき福音が示されたのだと、この福音書を記しているのです。つまり、そのたたずむ私たちを主の僕として生かすように、取り戻してくださる。それが実は、私たちの主の愛なのです。それこそが、私たちの主イエスのこの旅の意味なのです。
 イエス様は、これからエルサレムに入られる。このエルサレムにおいて待っているのは受難の出来事です。そこで主は裏切られ、裁かれ、十字架にいのちを奪われる。その苦しみ、その痛み、恐れと不安のすべてを主ご自身が生きてくださるのは、私たちの深い恐れを自らのうちに抱きしめてくださるためです。

 そうして、まさに私たちが傷つき、恐れ、たたずむその場所に主が共にいてくださることになったのです。私たちが生きること、いのちを注ぎ出すこと、ある働きを担うこと、人を愛すること、小さな手を差し伸べる時、そのどんな時にも恐れ、また傷つく、その私たちの心を確かにご自分のものとして、私たちを捉えてくださる。支えてくださる、そして、私の背中を押してくださる。私を主のものとして生かしてくださる。

 福音書を書いているこのルカは、あの十字架を前にして、恐れ逃げ出した弟子たちが新たに生かされた奇跡を見て来ました。その恵みの奇跡をルカは福音書とそして使徒言行録のなかに書き記しています。主を裏切って逃去ったあの弟子たちが、あの恐れのうちに一つの部屋に閉じこもり打震えていた弟子たちが、ゆるされ、励まされ、主の者としていかされ、宣教の働きに生きたのです。おそらく、ルカは、ルカ自身にもこの主の力、勇気、生きる恵みを受け取ったに違いありません。だからこそ、分かち合いたかったのです。このたとえが語られた後の主イエスの旅こそ、私たちを決して見放すことなく、主の僕として生かすための旅であること、そうして主の僕とされる私たちに、恐れず生きるように強く招く主の招きであることをルカは聞き取っているのです。
 
 私たち自身のうちには見いだされない、生きる勇気、信仰の力、注ぎ出す愛の力は、ただ、主がこの私に働いてくださって私を主の者として生かしてくださることによるのです。
 そうして、あなたたちは主の者なのです。あなたたち自身のことについては、何一つ心配する必要はありません。だから、恐れずに、あなた自身のいのちを用いて生きるようにと招き、私たちを生かしてくださる。その主の招きを聞いて、その励ましの中、恐れずに、私たちに与えられた一ムナを、このいのちを用いていく者とされたいと思うのです。

2013-11-11

フロマートカ『神学入門ープロテスタント神学の転換点』

プロテスタント神学を学ぶのであれば、20世紀神学をまなばない訳にはいかない。しかし、この20世紀神学を学ぶには19世紀自由主義神学を知らなければならない。



いわゆる危機神学とも呼ばれたバルトを筆頭とした20世紀初めの神学潮流は、カント以降の理性主義・合理主義を背景とした近代的知性に宗教、すなわちキリスト教信仰の存在意義を「人間」主体において位置づけた自由主義神学の大きな崩壊とそれへのアンチの姿勢のなかで形成されて来た。その神学の転換を見つめ、あの第一次世界大戦で傷ついた人々、また牧師や神学者のなかで、どんな神学的営為が営まれたのか尋ねるには絶好の一冊だと言えるだろう。
 ルターやカルヴァン、ツヴィングリあるいはウェスレー、クランマー。プロテスタント神学の祖に学ぶことは多い。しかし、現代神学の課題にしっかりと向かい合うためには、二千年に及ぶ神学の歴史はもちろんだが、とりわけ私たちの神学の足場を知るべきだろう。21世紀。これからの神学を切り開くために、20世紀神学の大きな転換を学ぶことは欠かせない。そのための入門書として、是非一読をすすめたい。

2013-11-01

ティリッヒ『永遠の今』 神学生の必読書④

 パウル・ティリッヒの三つの説教集のうち最後に出版されたもの。出版後、比較的早く日本にも翻訳が紹介されたものだ。

永遠の今 (1965年) (新教新書)

永遠の今

 パウル・ティリッヒは、組織神学三巻の著作をもって、やや難解な存在論的な神学を展開したことで知られる。その哲学的な言葉遣いは、おそらく関心を持つ私たちの気持ちを萎えさせるかも知れない。しかし、彼の神学は、私たち人間の生きる状況を深く掘り下げ、本来あるべき姿と実際の姿の差異を本質に対する実存の窮境であると見定めながら、そこに問われると問いに聖書のメッセージがどのように答えているのかを深く尋ねる。その相互の関係を「相関の方法」と呼び、新しい神学の形を提示したのだ。
 19世紀自由神学の流れと新しい20世紀の神学的な営為を結びつけようとしたと言ってよいだろうか。シュライアマッハ以来のキリスト教を人間の宗教性の中に位置づけ、意味付けなら、合理主義・理性主義の近代の流れなかで信仰の価値を求めて来たあり方に対して、K・バルトはその欺瞞と人間に対する楽観主義に反対し、神のことばに出発点を置く神学を改めて掲げた。おそらくティリッヒは、そうした歴史の流れをふまえつつも、人間が本当に神のメッセージの前に立つということが起こるためには、メッセージを受け取る私たちのなかに、本当にそのメッセージが必要であるということを掘り下げておく必要があるし、また、必ずその答えを求める人間実存があることを捉えていなければメッセージは届かないという問題意識が彼独特の神学を形成させている。
 今、21世紀を迎えた私たち、改めて、この「相関の方法」を深く学ぶ必要があると思う。難解な神学という印象だが、じっくりと説教集を読むことで、深く教えられることがある。既に絶版だが、古本で手に入れたい。神学生は必読。

2013-10-27

説教「神のことばに」(宗教改革記念日)

説教「神のことばに」(ヨハネ8:31〜38)

「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」
 自由であること。それは、わたしたちの人間の究極の願いといってよいでしょう。実際わたしたちは、いつも不自由を感じているのかもしれません。あれをしたい、こういうことをしようと思っても、身体的にも、能力的にも、経済的にも、社会的な関係などにもわたしたち自身縛られていること、自由にならないことを知らされるからです。
 そして、それは、「わたしがわたしである」ということ故の限界、不自由なのです。もう少し能力があれば、もっと元気だったらやれたのに、お金があれば良かったのにとか思う。こんな時代に生まれなければ、とか、こういう人と出会っていればとか。わたしたちは、自分が自分であるばかりに、かなり不自由な思いをもっているということなのかも知れないのです。
 本当は、わたしがわたしであるということこそ、かけがえのないことのはずなのに、わたしがわたしであるばかりに、わたしたちは自由でないと感じてしまうのかもしれません。

 さて、イエス様は、ご自分を信じ、従ってくる弟子たちに、「あなたがたを自由にする」といわれましたが、それはどういう意味なのでしょう。わたしたちの日々感じている不自由さについてではないようです。主は、わたしたちがわたしたちでない者になれると言われている訳ではありません。イエス様は、わたしたちを捉えるもっと大きな力があることについていわれているのです。
 イエス様は、罪をおかす者は罪の奴隷だといいます。つまり、わたしたちが罪の虜になっているといわれているのです。
 イエス様の語られたことばを、もう一度見てみましょう。「わたしのことばに留まるならば、あなたがたは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理をしり、真理はあなたがたを自由にする」。
 主のことばに留まること。このことが弟子であるために、まず必要なこととされています。逆に、主のことばに留まらないでいるなら、わたしたちは主の弟子ではないのです。そして、その主のことばに留まらないでいることこそ、わたしたちを神様から引き離す罪の問題なのです。
 「主のことば」とは、なにか。イエス様が、私たちに教えてくださったことは、「神を愛し、隣人を愛すること」です。ヨハネ福音書では、互いに愛し合うべき事を教えられたことが記されます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」「わたしがあなたがたの足を洗ったように、あなたがたも互いに足を洗うように」、主はわたしたちに語られます。「人のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はない」といわれて、わたしたちを愛することを命ぜられる。
 そのことばに留まるとき、わたしたちは主の弟子となり、真理をしり、真理がわたしを自由にすると、主はいわれるのです。

 そういわれたとたん、これは、わたしたちには無理なことだと、思われて来ます。わたしたちは、そのように生きられないでいるからです。いや、たぶん出来ればそうありたいといいながら、出来ない理由があるのです。忙しいから。こういう事をまかされているからと。自分を不自由だと感じて来たことを持ち出して自分を正当化する理由にさえするのです。もうすこし余裕があれば、力があればと違ったのにと。そうして、わたしたちは、神のことばに留まることが出来ないでいる。まさに罪のとりこになっている。あの良きサマリア人のたとえに出てくる祭司やレビ人こそ、わたしの姿なのです。

 とすると、イエス様がいわれていることは、もうどうにもわたしたちには、関係のないことになってしまうかのようです。わたしは神のことばに留まることが出来ず、主の弟子となれていないのですから、わたしは真理を知ることもできず、罪の力から自由にもなれないでいるの。負のスパイラルですね。
 わたしたちは、あのパウロとともに、一体罪の体からだれが救ってくれるのだろうか。と嘆かずにはいられない。

 宗教改革者マルティン・ルターは、おそらく、その自分が神様の御心から離れてしまっているということを徹底して見つめた人だと思うのです。自分の罪の問題を考えたのです。最も厳しい修道会として知られるアウグスチヌス隠修士修道会の修道士となったルターは、誰よりも熱心にその修道院の生活に取り組んだ一人であったと言えるでしょう。とりわけ、自分の罪についての告解に繰り返し取り組んで、自分の部屋と告解のための部屋を何度も往復したと言われます。つまり、熱心になればなるほど、その熱心さが神様のためというのではなく、自分のため救いのためからではないのかと、自分の罪をおぼえたというのです。
 ルターは、結局、そういう自分中心的な心からどうしても自由になることが出来ない。神様の御心からはなれている自分自身の姿を知るのです。神のことばに聞き、従おうとする他ならぬこのわたし自身が、神様から遠ざかっているものであるのではないか。そう思われる。ここに負のスパイラルがあるのです。ルターはそのどうにもならなさのために、神を憎むほどであったと言います。

 しかし、そのルターは、聖書のみことばに、神のことばにさらに聞き続けました。いえ、神のことばは、そのルターに語り続けられたのです。そして、ルターは気づかされました。みことばに従い得ない自分だからこそ、イエス様がわたしたちのところにおいで下さって、十字架にかかり、わたしたちをゆるし、捉え、生かしてくださったのだ。それが福音であり、それがわたしたちを生かすたった一つの恵みであることを聖書はかたっているのだと。
 今日の箇所でいうなら、自分が神のことばに留まるのではなく、神のことばが、自分にとどまってくださるということなのです。自分が主の弟子であろうとし、みことばに留まろうとしたその時にこそ、わたしたちは、そうなり得ない自分を見いだす。しかし、それこそが、じつはわたしたちの真実なのです。嘘偽りのない姿に他ならない。それがまず知られる。しかし、そればかりではない、その嘘偽りのないわたしを神様はそれでも愛し、赦し、新しく生かすようにイエス様をわたしたちに送ってくださったのです。それが神の真実。
 ルターは、あの中世の終わりに、この神の真実、キリストの恵みのみがわたしたちを救うということ、福音をもう一度教会の中に響かせるために宗教改革の呼びかけをしたのです。
 ルターのこの福音の理解、キリストの救いに生かされた喜びを共に分かち合ってきたルーテル教会の伝統の中で、わたしたちは、いまどのように、この福音を聞いているのでしょうか。

 姜尚中氏、国際政治学者で東大で教授をされていたのですが、この春に「心」という小説を公しました。「心」といえば、夏目漱石を思い起こすかたもあるかと思いますが、実際、その影響があるかもしれません。大学生の主人公と先生である姜氏自身のメールのやり取りが軸となって小説は書かれています。この青年が大の親友を病気でなくします。一緒に生きて来た親友の「死」ということが突然にこの青年の心を捉えます。また、その親友の最後の願い、思いを寄せる彼女への告白を伝えないという裏切りをしてしまうのです。そのこともあって、この青年が親友の死に出逢いながら、自分自身の中にある醜さにも苦しみつつ格闘する。おりもおり、あの3・11の大きな被害が起こり、青年は津波で流された遺体を引き上げるボランティアをします。死を見つめながら、生きるということを深く考え、姜尚中氏自身がメールのやり取りを通した交流をし、そのなかで、この青年の心の成長が見いだされていくという小説です。

 青年は、生きること、死ぬこと、愛すること、そしてその中で自分自身のエゴや、矛盾を感じて生きていきます。悩みながら、青年は、愛したいと思っても、本当に愛する事が出来なかったり、変化もしていく。そういう現実をあるがまま、いまはだきしめて生きていくしかないのだと、この青年はいうのです。
 そうなのだと思う。わたしたちは、結局は愛する事なんか出来ないままでいるのかもしれない、そういう自分を抱きかかえて生きていく以外にない。
姜氏は、この小説を通じて、「生きろ」というメッセージを届けたかったのだと思います。いや、姜氏自身が若くして死んだ息子から残されたそのメッセージを聞き取った小説だったということかもしれません。
 
「それでも、僕は受けいれたいんです」
青年は言った。
すべてを抱きしめていこうとしている。
「その丸ごとが、結局「自分」ってものなんでしょう?」
すべてを抱きしめて、生きるつもりなのだ。(272ページ)

 しかし、いろんな矛盾をした自分をありのまま抱きかかえる力、引き受けていく力は、どこから来るのでしょう。小説はそれを描いてはいませんでした。わたしたちは自分を引き受けていかざるを得ないのだというところでその覚悟が出来た青年の成長を描いて終わるのです。
 
 けれど、わたしたちは、神のことばに聞く者です。わたしたちは知らされます。自分がどのような者か。わたしたちは、本当に弱いものでしかないのです。この自分を抱きしめていかざるを得ない。でもその力は、わたしたちのうちには必ずしもないかも知れない。このすべてを抱きしめる力は、わたしたちにない。過去の罪がわたしを攻め、深い痛みとなり、力を奪いもする。だから、破れてしまうのです。絶望するのです。
 しかし、神のことばはさらに語りかけるのです。その自分自身を抱きしめる力のないわたしたちを主が抱いてくださるということを。あなたをゆるすと。それがもう一つのそして、たしかにわたしを生かす神の真実なのです。弟子たちが、パウロが、そしてルターが生かされた福音、この神の真理とは、このキリスト・イエスの恵みです。そして、その真実が、この限界をもつ、わたしを生きる力となる。このわたしを生きることを喜びとする力を与えるのです。このわたしを引き受ける自由を、与えるのです。
 神のことばにきき、神のことばに留まろうとするわたしたちは、しかし、この神のことばに抱かれ、神のことばがわたしを生かす。
その恵みに信頼をし、このわたしを、精一杯に引き受けて、主の御心への感謝を表していきたいものです。

2013-10-20

「あきらめないで」

説教「あきらめないで」(ルカ18:1〜8)

 「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教え」、と書き出される今日の聖書の箇所は、イエス様が「神を神とも思わず、人を人とも思わない裁判官のたとえ」を通して、弟子たちに熱心に祈るべきことを教えられている、分かりやすい所と思います。ちょうど、ルカの11章のところで、「主の祈り」に続いて、祈ることを教えられている、その箇所とも重なる主題があるように思う。熱心な祈り、執拗に求める祈りに、神様は必ず答えてくださるという約束が語られているのです。

 けれども、実際私たちが経験するところは、「熱心に祈っても、神様はすこしも聞いてくださらないのではないのか」という現実です。ちょうど、私たちは身近なところで大きな災害を繰り返し経験しています。ニュースを見ているという立場であれば、ただ胸をいためるばかりですけれど、しかし、直面している方々には、もっともっと切実な思い、叫びがある。どこにも救いが見いだされないままに、助けをもとめても答えは見えず、絶望が広がる。時が無情に過ぎていく。力を失い、希望を失う。むなしさの中にたたずむ。
そうした現実を私たちが生きるものであることを思う時に、この執拗な祈りへの招き、いやそれに神様が答えてくださるのだということばにはいささか戸惑いを覚えない訳でもありません。

 しかし、今日の箇所は、実はまさにこうした私たちの問いや戸惑いに対する答えとして、わざわざ記されている箇所だというように思われるのです。福音書記者のルカは、直前の17章の後半で、イエス様がファリサイ派の人の問いかけに答えて「神の国」について教えられた直度に語られたものとしているのです。神の国はいつ?
 「神の国」。それは、当時のイスラエルの人々にとっては具体的なユダヤの王国の再建をすぐにイメージさせた言葉ですが、しかし、その意味するところは神様の救いの実現の事です。
 独立を失い、大国に滅ぼされ、支配されている。そうした厳しさを歴史の試練として経験して来た人々は、一体いつになったら神様の救いに与って、心安らかに過ごすことができるのか。そういう切実な思いで、「神の国」を求めて来たといってよい。
 救いの実現への切実な問いを、福音書記者ルカは、自分たち自身の切実な思いとしているのです。この描かれている場面は、イエス様がエルサレムに向かっている、つまり十字架に向かうその旅の途上での教えとして記されています。しかし、書いているルカはその十字架の出来事から40年ほど経って、この福音書を書いています。その時にも、未だに神様の救いは、完成していない。「神の国」へのあこがれとともに、その到来の遅いこと、神様の救いの見えないことを嘆き、「いつになったら救われるのか」という問いが人々の中にある。人々は天に昇られたイエス様がもう一度おいでになる、その主の再臨と終末の救いということがいつ実現するのか、待ちかねているわけです。
 そういう状況にある中で、一体イエス様は自分たちに何を教え、しめされたのか、改めて聞き取るようにと、ルカはこれを書いているのです。
 
 イエス様はいわれます。「気を落とさずに、絶えず祈る」ようにと。まさに気を落とさざるを得ない状況の只中にあって、この励ましの言葉がかたりかけられている。不正な裁判官のたとえをもって、裁判官はこのやもめ求めの声に嫌々であろうと動かされるものだといいます。まして、神は、私たちの叫びもとめている声を聞かないでおられることはない。神様は速やかに求めに答えてくださる。そのことへの信頼を保ち続けるよう「絶えず祈る」ように励まされている。それが今日の聖書の箇所の最初にかたりだされているところです。

 けれども、実は、この聖書の箇所が私たちに示している大切なことは、そこではありません。この箇所の一番おしまいの部分に示されているのです。つまり、絶えず祈り、神様の約束へ信頼するように語り、励ましながら、イエス様は、その最後に何をいわれているかというと、「しかし、人の子が来る時、はたして地上に信仰を見いだすだろうか」と結ばれているのです。イエス様は、弟子たちに対し、私たちに対し、「あなたがたには、最後まで信頼し続ける信仰があるか」と問いかけられているのです。

 本当は、私たちがこの現実の中で、一体神様の救いはどこ?と、いつ?と尋ねているはずだったのです。しかし、その時に、イエス様が私たちに問うている。私たちは問われている者なのです。「その時に、信仰はあるのか」。

 このことばは、「地上に信仰を見いだすだろうか。いや、見いだすことが出来ないだろう」という反語的な表現です。ある意味で、主のまなざしは非常に厳しいものだと思う。
 けれど、それは、イエス様が私たちの現実をよく知っておられるということでもあります。私たちの有り様はきっとそうだろうと思うのです。救いを信じたいのです。あきらめることなく、気を落とさずに、主の救いに信頼をしたい。けれども、どうにも私たちは、疑いや迷い、不安や恐れにとらわれてもしまう。お前たちには、芥子種一粒ほどの信仰すら、みいだされないのではないのか。気を落とし、絶望するものなのではないのかと、主は言われているのです。
 しかし、イエス様はその現実を良く知っておられて、なお、私たちに救いの確かさを語られている。不正な裁判官のたとえでも、このやもめには何か自分に有利に裁判をしてもらう根拠があるか、というとそんなことは最初から全く問題にはなっていません。この裁判官は自分がこれ以上煩わされるのはかなわないと、そのやもめのために裁判を行う。まして神様は、私たちへの愛をもってくださっているのだから、私たちの罪にも拘らず、いや、私たちの不信仰にも拘らず、赦しと憐れみをもっていてくださることを疑うことは出来ないと、いわれる。
 つまり、信仰はないのか、と問われて、私たちにこれが私の信仰ですと申し出られるような確かな信仰なんてないに違いないのです。私たちはそういうものでしかありません。
 あきらめちゃうんですよ、耐え切れないもの。そんなにお行儀のいい信仰者じゃない。「神様どうして たすけてくれないのか。助けてくれなかったのか」と、そういう嘆きを抱かざるを得ないのが私たちなのであって、いつも喜んでいなさいといわれても、どんな時にも喜んで、希望をもってなんていう信仰者のお手本みたいなことにはなれない。
 そうだろう。それが私たちのありのままの姿だと、主はとうの昔に知っておられるということです。
 いや、だからこそ、主はこれから十字架に向かわれるのです。その私たちを絶望の只中で、捉えてくださるために。生かすために。神様は、イエス様は、そういう不信仰な私であることを知っているからこそ、私をどこまでも捜し求めてくださっている。あきらめないでいらっしゃるのは、わたしたちではなくて、神様のほうなのです。
 私たちが神も仏もないものだと、あきらめ、叫びたくなる、その現実の只中においで下さって、私を捉えてくださる。
 「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と、叫ぶ、その私たちの場所にイエス様がいてくださる。それが十字架の意味です。それこそ、私たちをどこまでもあきらめない、神様の御心だといえるだろうと思う。それが私たちに救いをもたらすイエス・キリストの真実・信仰(ピスティス)なのです。
 私たちを求め、私たちが信仰をすら失う、その場所にイエス様がいてくださる。私たちがあきらめと絶望のなかにある、その時にも、私たちをあきらめ、見放すことのない神様の愛がある。
 それがルカもまた聞いていた、主の最も大きな慰めであり、希望であったに違いない。あのエルサレムの神殿がローマの侵攻によって崩れ落ちていく絶望感の只中で、ルカの心に尚働く慰めと力。それこそが、すでにあの十字架においてしめされた救いではなかったかと、ルカは私たちに対する神様の速やかな答えであること、この絶望の只中に見いだすことの出来る神様の愛の確かさに気づくように促しているといえるでしょう。
 私たちの信仰が失われていくような、救いの見えない状況の只中で、私たちの信仰への問いかけとともに、「たとえあなたがあきらめようとも、私は決してあなたをあきらめることはない」とイエス様のみことばが、その真実がこの福音から響いている。

 この恵みの声に包まれ、新しい一週間、主に生かされてまいりましょう。

(日本福音ルーテル刈谷教会での奉仕)


2013-10-06

「看取りの心と場」

毎年開催される、ルーテル学院大学、コミュニティ人材養成センター主催の講座「いのちの倫理と宗教」。今年の主題は「看取りの心と場」です。

http://www.luther.ac.jp/news/130919/index.html

 「ホスピス」など終末期医療ということが注目されるようになって、死と向かい合うということが特別に意識されはじめたのは、80年代の終わり頃からでしょうか。90年代、山崎医師による『病院で死ぬということ』が出版され、某テレビ局アナウンサーが自らガン闘病を公にしたことも「死」と向かい合うこと、最期をどのように「生きる」のかという課題、その可能性を広く考えさせる事にもなったように思います。かつては、家で家族に見送られて死ぬことが当たり前だったかもしれませんが、現代は病院で最期を迎えるということが一般的であればこそ、そのあり方について改めて問い直すということになってきたのです。
 しかし、近年はまた逆に病院で死ぬという事ばかりが選択肢ではなく、ホスピス的なことも含めて在宅での終末期のケアを実現することや、住み慣れた施設のなかで最期をすごすというような取り組みも多く見られるようになって来ました。超高齢化社会は、すべての人を病院で看取るほどの余裕もないからこそ、今一度、生涯の終わりを日常の延長のなかで迎えられるような仕組みが考えられているという事かもしれません。
 そこで、こんにちは「看取り」ということも多様な「場」が考えら得れるということになってきました。そうしたそれぞれの「場」において、本人、家族の中にどういう心の状態が見られるのか。そのことにどのように寄り添い、また援助する事ができるのか。そういった問題を考えてみたいと思っています。
 講師には、医師であり牧師である黒鳥偉作氏、ホスピスでソーシャルワーカーとして働く吉松知恵氏を迎え、江藤直純神学校長と私、石居も加わって一緒に考えていきます。
11月18日までに申し込みを!



2013-10-02

神学生必読書。アウレン『勝利者キリスト』

神学生の必読書。
グスタフ・アウレンの『勝利者キリスト』。研究の基礎は贖罪論の類型論的研究だ。古典的贖罪論、法廷論的贖罪論、そして主観的贖罪論。キリスト教神学史をたどり、この三つのタイポロジーによって、キリストの十字架による贖罪理解の特徴を捉える研究だ。こうしたタイポロジカルな研究は、ルンド学派の特徴のひとつ。この研究をもとに、中世末の宗教改革者ルターの贖罪理解について、それが通常理解されて来た法廷論的な理解よりも、古典的なものによっていると主張し、大胆に切り込む。

勝利者キリスト―贖罪思想の主要な三類型の歴史的研究

もちろん、単純に古典タイプといっている訳ではない。そこにルターの独自の視点があることを明らかにしたアウレンの貢献が見られるのだ。
こうしたアウレンの見解に対し、同じルター研究の第一人者の一人アルトハウスは異なる見解を提示することになる。ルター理解を進めていくうえで、非常に重要な論争と言っても良いだろう。
 すでに80年以上前の研究だが、この研究の重要性は変わらない。ルター研究という意味でもこの書は勧められるけれども、タイポロジカルな研究が、神学の深みを探る醍醐味を教えるものでもあって、神学生には必読の一冊。

2013-09-27

ルター研 「秋の講演会」 2013

 10月20日、ルーテル学院大学ルター研究所主催で秋の公開講演会が開かれる。
日本福音ルーテル大岡山教会を会場として、午後三時半から開かれる予定だ。
               (場所=http://www.jelc-ohkayama.org/map.html
今年の総合テーマは『宗教改革500周年とわたしたち』。春に行われた研究所主催の牧師のためのルターセミナーと同じテーマで、これから2017年まで、毎年このテーマでセミナーと講演会を連続する。その第一回目ということになる。
 今年の講演者は、徳善義和先生と江藤直純先生のお二人。
徳善先生の講演タイトルは、「日本におけるルター研究の歴史」、
江藤先生の講演タイトルは「ルターの宣教の神学と今日のルター派の宣教理解」。



今年、つい先日、ルーテル学院大学の図書館の未整理資料から、歴史的な書物が発見された。1630年印刷のルター訳新旧約聖書。一般にメリアン聖書と呼ばれるものの本物。美しい挿絵入りで、これを見るだけでも楽しい。どんないきさつでこれが図書館に存在することとなったのかは、未だに謎のままだが、日本ルーテル神学校の図書館だからと、どなたかに寄贈いただいたものなのだろうか。小さな神学校・大学ではあるけれど、ルターに関することなら、日本ではここで一定の研究成果と資料、また見識とチャレンジを得ていくことが出来ると認められるものであってほしい、またそうありたいという祈りが、一つの形をとったものであるように思う。
 連続の講演会、今年から17年までなら5回にわたるが、現代の教会の宣教という課題に応える、あるいは、そこにチャレンジする講演が期待できるだろう。楽しみでもあり、責任も感じるところだ。ぜひ、おいでいただければと思う。




2013-09-26

神学生の必読書。田川『イエスという男』

神学生の必読書として。
 マルコ研究で著名な田川健三氏によるイエス研究。聖書学者としての類いない研究熱が、氏の極めて強い個性によって一つの形をとったイエス理解の本。
                 

 おそらく、教会ではなかなか聞くことのないメッセージを聞くことになる。
時代、地域、社会のなかに生きた人間イエスを探求しながら、そこでイエスが何をして、何を求め、また何を語ったのかということを浮き彫りにする。聖書学の最新の成果というよりも、田川氏自身の緻密な聖書学的研究の成果を示していると言ってよい。加えて、氏の独自の視点が貫かれた筆遣いは、ユダヤ階級社会の体制に対する逆説的反抗者としてイエス像を描き出し、キリスト教によって著しく神格化したイエス像を糾弾する勢いだ。そうして、イエスの「生」そのものを描き出すことで、本当のイエスとの出逢いの意味を受け取ることができると考えているのだろう。
 独自の視点をどう評価するかは、人それぞれだろう。しかし、キリスト教への徹底した批判的視点を、どのように受け止めるのか。神学生なら、必ず読んで考えるべき書物の一つ。「これ、チャント読んだ?」の質問に、どう応えるか。そこが、もっとも大切なポイント。もちろん、キリスト教を批判するのみで、自ら田川とともにイエス教?、もしくは田川教を自称するなどということになるのなら、なにをか言わんやということだが…


2013-09-23

神学生の必読書① 『キリスト者の自由 訳と注解』

神学生(ルーテル)に向けて、推薦する本を紹介していきたい。
その第一冊目は、徳善義和先生が書いてくださっている、マルティン・ルターの古典的名著である「キリスト者の自由」の翻訳と解説の書だ。

                                                                    

 本書は、はじめ新地書房という出版社から30年ほど前に『全訳と吟味』として出版されたものだ。後に、出版元がなくなって教文館から、もともとの副題であった「愛と自由に生きる」をタイトルにして再度出され、さらに構成を改めて2011年に今の形で出版されたのだったと思う。

 ルターは、当時のアカデミズム世界のラテン語でも神学的著作を続けたが、同時に信仰の事柄を一般の人々とも分かち合うためにドイツ語でも著した。幾つかの著作はその両方で出版されている。1520年に著した「キリスト者の自由」もラテン語、ドイツ語両方で書かれている。内容は基本的に同じものだけれども、言葉の違いは当然に異なるところがあるということだ。ルター本人がもともとどちらの言葉で考え、書き下ろしたのか。これには議論が分かれる。しかし、少なくとも、ルターが母語であるドイツ語で、また一般の人たちにも分かち合うことを考え、書いている場合に、より中心的なメッセージが伝わってくるということもあるだろう。自分たちの言葉で、神様の言葉に取り組む。これはルターの基本的な信仰の姿勢だった。だから、聖書のドイツ語翻訳にも取り組んだ。自分たちの生きている、その生活の只中で、その言葉で神様の言葉を受け取っていく。ここには、神学ということの一番大切なことがあると言ってよいだろう。

 日本でルターの「キリスト者の自由」と言えば、岩波からだされている石原謙氏の翻訳が長く親しまれている。しかし、出版後、佐藤繁彦氏がこれにはかなり多くの批判を展開したらしい。ドイツ語訳といっても、現代ドイツ語からではなく、ルターの時代のドイツ語として読む必要があると言う点とラテン語本文との比較検討、ならびにルター著作全体からその主意を読み取っていくことが必要だということが、佐藤氏の石原氏への批判だった。佐藤繁彦氏はルーテル神学校で長く教えられたルター研究の第一人者だ。これもまた考えさせられることだ。時代の中で、言葉も変わる。その時代のコンテキストを捉えなければ、神学は生きたものとならないのだ。
 
 徳善先生のこの翻訳は、もちろん、16世紀ドイツ語、日本で言えば室町時代の古文ということになるが、そこからの翻訳、またラテン語との比較研究によって、新たな理解も拾い上げられている。
 さらに、その注解の内容は、長い徳善先生の研究と神学校での講義から生まれたと聞いている。教会の宣教という神学の現場や今日の日本というコンテキストにあって、徳善先生が取り組んで来られた成果がこの注解には込められているように思う。

 私が神学生になった年に、最初のものが出版されたので、入学時にいただき、以来の私の座右の書といっても良い。後にFEBCで先生がこの内容を丁寧にお話くださる放送をされた時、お相手役もさせていただいた。(http://lib.febcjp.com/ty101_t/
 神学生には必読の書。4年生までに、この解説をくまなく読通して、理解を深めてから自らの神学的研鑽を確認し、卒論に取り組んでほしい。

 

2013-09-03

ルターからの贈り物 一日神学校2013

毎年、9月23日に行われる伝統の一日神学校。
今年のテーマは『ルターからの贈り物〜Lutheran Legacy 500 』。4年後の2017年、宗教改革500年記念に備えての企画だ。
                   
                  


プログラムは以下を参照
http://www.luther.ac.jp/news/130725/index.html

午前中、ルター研究所の鈴木浩所長と高井保雄先生と石居でシンポジウムとなる。どんな話になるか自分でも楽しみだ。
ルターの「宗教改革」と言われるけれども、中世西欧のキリスト教的一体世界における歴史的出来事。つまり、むしろ「宗教」という枠組みのなかでの「改革」に留まらない決定的な歴史的変革の出来事というより広いパースペクティブで捉えるべきだろう。

具体的に、それは教会中心的な中世社会の終焉における社会改革運動とも言ってもよいか。ローマ・カトリックという教会の支配と神聖ローマ帝国という世俗の支配の中央集権的な体制は、その基盤を失い、また、新しい個の出現と地方から構造が胎動するなかにおこってくる歴史の産物でもあろう。科学や理性の時代の到来、活版印刷術による新しい情報社会、そして航海術による地球規模の新しい世界の広がり。世界が大きく変わっていこうとするその只中で、決して明るい未来を望むことの出来なかった世紀末の暗い死の影に包まれたルターは、純粋に中世の精神に生きつつ、「この世に生きる」ことの確かさを求めた。だからこそ、それは神との格闘であったし、だからこそ、これは宗教改革なのであった。
やがて、その信仰の軌跡は、神学の基本的な構造を書き直すことになるが、それは確かな形をとって、礼拝の改革、信徒の具体的な信仰生活への変革をもたらしたし、それは教育・福祉という当時の社会における公共のシステムに新しい変革をもたらした。
やがて、これが近世の始まりと呼応する。

ルターからの贈り物とは、単にルターが何を始め、なにを遺してくれたのかという事をあげつらうのでは何にもならない。その時代における人間の最も深い「危機」をどのように生きようとしたのか、そして、また生きる力を与えられたのか。その格闘に学ぶところにあるのではないか。そんな事を考えている。




2013-08-28

るうてる法人会連合 第10回総会

昨日と今日(8月27−28日)はるうてる法人会連合の第10回総会が大久保の日本福音ルーテル東京教会を会場に開かれ、それに出席させていただいた。
基調講演には白浜で自殺者救済の働きを展開されているバプテスト教会牧師の藤䉤庸一氏を迎えることが出来た。http://jimotoryoku.jp/shirahamarn/
藤䉤氏が語られた実践を支える枠組みは、必ずしもルーテルでのモデルになる訳ではないかも知れない。しかし、とにかくその実践そのものは、目の前にいる助けを必要としている人に手を差し出すその働きが、周りの人たちを巻き込むようにしながら、展開をしていく。それを担う確かな情熱を、「覚悟」という言葉で表現された氏の思い、その信仰の姿に学ぶものは多いだろう。

講演の後、法人会連合がどのように新しい課題に向かい合っているのかを問い、考えていくためのシンポジウムがあって、私も参加させていただいた。今のルーテルの学校法人、特にルーテル学院大学が今どんな働きを展開しようとし、またどのような課題を持っているかということについても話させていただいた。福祉法人を代表しては、東京老人ホームの高橋睦氏、教会を代表して白川道生氏がそれぞれ発題を行った。

ルーテル教会は、1893年に日本での伝道を開始し、全国に教会を生み出して来たが、それとともに幼稚園や保育園、福祉施設、学校などをつくり、教育、福祉の分野で先駆的な働きを築いて来た。こうした様々な働きは、その専門性をもってより良い世界を実現することを目指していると言ってよい。信仰の言葉で言うなら、「神の国と神の義」の実現に向けてそれぞれが働いて来ていると言ったら良いだろうか。

例えば、ルーテル学院大学であれば、対人援助の専門職の養成ということを目指し、福祉や心理の分野で働く人材を養成している。人間やいのち、世界についてのキリスト教的な理解を持って、人々が人生のなかで様々な問題にぶつかり、生活や心、魂に大きな痛みや困難を抱える時に、その一人ひとりを援助することが出来るような人材を育てることを目指している。
つまり、教育は人材育成、福祉では具体的にいろいろな困難のなかにある人々、孤独や苦しみの中にある人々を支え、ともに生きるようにはたらいている。

教会は宗教法人となるが、教育については学校法人、福祉の働きは福祉法人という日本の法律的な枠組みの中でその存在が規定されているし、独立した働きである。
その働きの多様さと全国の広がりは下のHPで確認される。
http://www.lutherans.jp/

こうした様々な働きは、いずれも神様のみことばによって具体的な人々のニーズを見いだされたところで、とにかく人々を助けようという思いが形になっていったものだ。
保谷にある東京老人ホーム、またベタニアホームという母子施設も1923年、今から90年前の関東大震災で多くの人々が被災して、居場所を奪われてしまっていたので、その人たちを助けようという働きがその始まりである。ルーテル教会がそれぞれの施設をつくり、その思いと働きを継続的な責任ある形として来たのだ。

今、諸施設も学校も、信仰者によって全てが運営されている訳ではない。クリスチャンでない人々も、あるいは異なる信仰を持つ人たちも、ともにその働きを担ってくださっている。しかし、そういう様々な人々と一緒に働くことで、教会のなかに神様から示された働きが形になり、それぞれの地域社会また日本の中で大切な働きとなっている。
そうしたことをルーテルの仲間としてお互いに確認し合い、今の日本、世界に必要とされていることは何か学び合い、また新たな展開をつくっていく必要があるのではないかと、その協働を目指したものがこの「法人会連合」だ。

今回、この法人の第10回の総会に出席させていただき、私自身は大学教育と言う現場で、いま働きが与えられているが、全国のこうした働きと結びついていることを誇りに思うし、また、そこで必要とされている問題にしっかりと向き合い、自分の研究と教育に生かしていく必要があることに自覚が与えられた。

現実は厳しく、教会も教育や福祉の現場も、その働きを継続することにはいろいろな課題に直面している。その苦しい現実の中でどのような意味ある働きを続けるのか。その働きに結ばれていることへの喜びややりがい、あるいは誇りといったものを確認出来る法人会連合でありたい。そのために、私たちはそれぞれの現場で、責任を担う、当事者であることへの「覚悟」を持たねばならない。




2013-08-18

聖公会ールーテル合同礼拝 2013

 2013年9月14日の土曜日、日本聖公会と日本福音ルーテル教会とのエキュメニカルな交わりと宣教協力の具体化のために、合同の礼拝をいたします。
 2008年のペンテコステに聖公会とルーテルの国際的な対話の諸文書が翻訳出版され、その記念として合同礼拝が聖公会の聖アンデレ教会で行われました。それから、早いもので5年が経ちます。委員会レベルの対話では聖餐に関する学び、実践的な交わりを重ねています。また、両教会の神学校でも継続的な交わりを持っています。しかし、より具体的に、そして実際的な宣教の協力を考えてゆくためには、より多くの交わりを各地域で展開して行く必要があると考えて来ました。

今回は、日本福音ルーテル教会の東京教会を会場にして、合同の礼拝を行います。こうした積み重ねが、それぞれの地域に教会での交わり、合同礼拝などの取り組みを生み出してゆければよいと考えられています。
 2017年に宗教改革500年記念の年を迎えますが、ルーテルとカトリック、ルーテルと聖公会、そして聖公会とカトリックそれぞれの対話・協働の働きが重ねられているので、この年には3教会の合同の礼拝も行えたらと願っています。おそらく、そのための具体的な取り組みが来年度には実現することになるでしょう。
 21世紀を迎えて、国とか文化を超えた交流が常識となる一方で、経済的な格差問題を軸に分裂・分断、対立・争いが絶えることなく繰り返されています。キリスト教の中から、今の時代にむけて一致・協力、平和などのメッセージを具体的に示してゆくためにもエキュメニズム(教会一致運動)の責任は大きい訳ですが、そのためにもこの合同礼拝の取り組みが、一つのステップを踏んで行くものと考えたいのです。

2013-08-15

8月15日に 「平和」へ向けて生きる

多くの戦争犠牲者のことを憶え、平和への思いを新たにする日。

ここのところ、死者との交わりについて書かれたものを数冊続けて読んだ。
姜尚中氏の『心』、いとうせいこう氏の『想像ラジオ』、そして、森岡正博氏の『生者と死者をつなぐ―鎮魂と再生のための哲学』。いずれも、死者の声を聞こうとしている。それを求めている。あるいは、そのことが、生きることを問い直し、本当に大切なものを取り戻す一歩になると訴えているようだ。

 戦火のなかで、一体、どんな声が叫ばれたか。どんな思いが断ち切られたか。
 それは、私たちと同じ日常を生きていた一人ひとりの魂の声なのだ。

私たちは、今日、改めて、私たちは誰とともにこの生を生きているのか、思い起こしたい。それは、ただ「生きている」人々の事だけではなく、すでに「死んでいる」人々も含めて、私たちのいのちがどこからつながり、どんな思いや祈りを引き継ぎながら、生きているのかという意味で、私たちが、誰とともに生きているのか、問うてみるということだ。

お父ちゃんやお母ちゃん、じいちゃん、ばあちゃん。おじさん。おばさん。具体的なつながりの中で、思い起こしながら、この生を、「今、生きること」を受け取っていきたいのだ。

戦後63年、原爆を、戦争を知らない世代は、日本の公教育ではすっぽりと近・現代が抜け落ちていて、本当に戦争の恐ろしさを知らないで育って来た。しかし、3・11の大きな災害と事故は、大規模ないのちの危機について深く考えさせることになった。若い世代も、改めて大量のいのちが奪われる恐ろしさを感じはじめている。生きることの価値を今一度確かめようとしている。だからこそ、今、私たちは何を求めているのか、自分の問いをまず確かめよう。

世界規模の経済的危機が、おそらくナショナリズムを喚起している。権力者は格差社会の鬱憤を仮想の敵をつくる手法で、相も変わらず、こうしたムードをあおろうとしているかのようだ。国際的な関係の中で演出される危機。それは真実なのだろうか。

私たちは私たちの問いを確かめ、私たちの求めているものが何かを確認しよう。「いのち」から「平和」へと結びつけ、世界の人々、民族、文化、宗教が共に生きることへと、私たちの軸足を運ぼう。そのために私たちが聞くべき声はどこにあるのか。

そういえば、少しまえに、葬儀礼拝の問題を論文で取り上げた時、その一番最後に死者との連帯ということを書いたことを思い出した。石牟礼道子氏の『苦海浄土』をひきながら、死者の声を聞くことを、私もまた強く考えたのだ。

http://ci.nii.ac.jp/els/40006997569.pdf?id=ART0001236055&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1376519187&cp=

けれど、そこで私は単なる死者との連帯で終わるのではなく、キリスト者は、まずこの人間的な私たち自身、生きているものも既に召されたものも、主のとりなしと浄めが必要であることを忘れてはならないと記した。私たちの、生(なま)の思い、生(なま)の声はまた、あまりに人間的で、怒りや憎しみの連鎖と化すこともあり得るからだ。

そうだ。単に死者の声を聞くだけではない。その先に、何よりも確かな、主の声を聞く。あの十字架に死にたもうお方の声を聞かねばならない。あの十字架で私たちを死んでくださり、そして、復活のいのちへの道を示されたお方。その声に聞く。それは、決して他の大勢の死者の声をないがしろにすることではない。他でもなく私たち全てを死んでくださったお方なのだから。そこからが私たちの新しい、軸足の定まるところと心得たい。

平和を願い、私たちがそのために何を生きるか。そのことを、今日、あのお方と考える。

2013-08-14

『生者と死者をつなぐ』(森岡正博)ということ

 生命学を提唱し、「いのち」の問題に真摯に向かい合う森岡氏のエッセイ集。
 半数近くは、2010年度に書かれたものだが、半分は3・11を経験した私たちが「生きる」ということについて抱く深い問いと困難を正面にすえながら書かれたエッセイだ。
 
                    

 「誕生肯定」「哲学的アニミズム」など新しい概念を用いながら、これまで宗教的な言葉でのみ語られてきた「生きること」の深みにある問題への答えを模索する。森岡氏は、宗教を否定はしないがそれ以外の道で確かな言葉を、自分の頭で考えながら、紡いで行かなければならないという使命感にも似た思いを持っている。かねて「無痛文明」という言葉によって、現代社会の文明批判を展開して来た思いも改めて確認しつつ、私たちの世代が経験してきた「いのち」への問いに取り組んでいる。
 以前紹介した『宗教なき時代を生きるために』に記されているように、氏は決して宗教嫌いではない。しかし、敢て宗教を選ばない道を選んだと言う。だからこそ、「死」という現実を見据えながら、生きる意味を問い、死をこえた「いのち」の豊かさをみいだそうとする営みは「生者」と「死者」との交流、その共生の形を見いだす試みに至っている。「脳死」の問題に深く関わってきた氏の視点は、単なる科学的な生命活動や活動主体としての個人に留まるのではなく、他者との関係の中でこそ生きるものである人間の生の「まるごと」を見ようとする。
 はじめて示された「哲学的アニミズム」という視点は、未だ熟していないが、どんな風に結実してくるだろうか楽しみでもある。
 
 

2013-08-09

『想像ラジオ』(いとうせいこう)の描く世界

 想ー像ーラジオ。DJアークによる軽快なトークとやや古いナンバーを聞かせてくれる番組は、死者たちの、死に切れない魂が交流する世界を描き出す。3・11のあの被災者の断ち切られた生の現実に、あの時圧倒された私たちは、二年半を経て、「復興」という言葉の中で何をみているのか。いつの間にか何か大切なものを忘れていないか。そんな問いかけを「死者の声を聞く」というテーマをもって、想像の世界を描くことで発信した作品といえるだろうか。

                 

 生きとし生ける者、死という現実によって必ずこの世での生を終えなければならない。しかし、その「死」という現実に直面するのは、その死にゆく本人ばかりではない。私たち人間の特殊性は、「共に生きている」という一事にある。だから、関わりの中にある人々は、一人の死の現実に共に直面するのだし、共に部分的に死んでいく。別の見方をすれば、死んでいくものは、その一部の生をまた生きている人々のなかに遺していくのだともいえる。
 もちろん、かけがえのない一人の「いのち」の問題を軽々に他者との関係の中に解消してしまったら、その「個」の「生」の唯一性が軽んじられる危険がある。だから、その人、一人の「いのち」であるという客観性、その自然、その尊厳性を見失ってはならない。けれども、私たちが「関係的存在」としてあるという事もまた忘れてはならないのだと思う。そして、そうした関係のなかで、私たちは生から死という事実の重みを見つめながら、死者は既にないものとするのではなく、死者も共にあるという単純で素朴な私たちの感じ方を大切にしてよいのではないか。死んだ者を軽んじることは、結局は生きる者を軽んじることにもなる。
 そんな死者と共にあるという言い方が、「つまらない」感傷、執着や未練だとして、単なる思い出の中に閉じ込めずに、おそらく人間の文化は長い間その死者とともにある世界を日常としてきたのだろう。現代は、いつのまにか、この世界は生者のものだけになってしまったし、「個」人主義的になってしまったし、そうしていつのまにか「人間」を軽んじる世界になってしまったのではないか。
 この仏教でいえば、中有とか中陰という生者が死者の世界へ移っていく間の状態であろうか。日本の神道的な言い方では、死んだものの霊が新しく、また荒々しい「荒魂」状態から和らいだ「和魂」へと移行する間の時か。せいこう氏は作中で、「魂魄この世にとどまりて」という状態であると描く。
 ただ、こういう世界を描くことで、私たちの存在を深く見つめ直し、生きるということの奥深い「魂の問題」を捉えている。第二章のなかで、作者自身が登場人物を通して、このように死者の声を聞くという言い方が、本当に生きることの現実の問題に答えるのか、また死者とその死を深く受け止めようとしている家族の思いに土足で入り込んでいくことにならないか、など議論して見せてくれるのも重要だ。

 (その不思議な世界にたつ視点は、読むものをある意味では拒絶するだろう。5章立てになっているが、それぞれの描かれる世界がなにかということも、つながりや組み立ても分かりやすくはないかもしれない。でも、分かるということではなく、感じることから読み進むほうがふさわしい。小説としては、なかなかの完成度に感じた。姜尚中氏の『心』や2008年の天童荒太『悼む人』にも似た問題意識を感じたが、独特な手法は、好き嫌いが分かれるかも知れない。)
 
 「木村宙太が言ってた東京大空襲の時も、ガメさんが話していた広島への原爆投下の時も、長崎の時も、他の数多くの災害の折も、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか?しかし、いつからかこの国は死者をだきしめていることができなくなった。それはなぜか?」
 死者の声を聞く想像力こそが、未来の世界を拓く創造力となるという問題意識は、なめらかなDJアークの語りを包む悲しみのベールへの共感から生まれるのだと思う。


2013-08-04

『死を見つめて〜よりよく生きる』

ルーテル厚狭教会で『死を見つめて〜よりよく生きる』をテーマにお話をさせていただいた。「死」という普遍的テーマは、「生きる」ということを深く知る手がかりという性格を持っているが、どちらかと言えば、それについてわざわざ取り上げることは「タブー」とされて来た。しかし、近年は敢て積極的に語られるようになって来たと言ってよいだろう。そうした現代の「死」をめぐる文化を探り、死を見つめることから生を求める今日の日本人のスピリチュアリティーを探りながら、キリスト教信仰における生を深く考察してみた。特に十字架におけるキリストの死と復活が何を私たちの信仰のいのちに与えるのかということを考えてみた。
お集りいただいた方から、すばらしい証をいただき、私自身が教えられ、また導かれた思いを深くした集会だった。

以下、講演のレジュメ。
             
0. 死を知る人間
 宗教、哲学における普遍的テーマとしての「死」
 ソクラテス、プラトン
 パウロ、アウグスチヌス、ルター、パスカル、
 キェルケゴール、ハイデッガー、バルト

1. 「死ぬこと」を積極的に語る文化?
(1)死への備え
  「病院で死ぬということ」「葬式無用論」「平穏死」「エンディングノート」

(2)死を受け止めるスピリチュアリティ 
  「大河の一滴」「葉っぱのフレディ」「千の風になって」

(3)「死」から「生」を問いなおす
   映画『おくりびと』(滝田洋二郎監督)、天童荒太『悼む人』など


2. 現代における「生きること」の課題
   〜天童荒太『悼む人』(文藝春秋 2008)をヒントに 
(1)死者を忘れる=生が軽んじられること?
   「悼む人」が生み出された世界

(2)関係の希薄化
   誰を愛し、誰に愛され、誰に感謝されたか

(3)求められる和解
   関係の崩壊と心の傷


3. 生を支える三つの柱
  小澤竹俊『13歳からの「いのちの授業」』(大和出版 2006)をヒントに
(1)時間の柱
   過去から未来へ  (死と時間を超えて)

(2)関係の柱
   家族・友人  (神との関係)

(3)自由の柱
   自立と自律  (魂の自由)


4. 死を見つめること 
  姜尚中『心』(集英社 2013)をヒントに
(1)生きることの意味
   無意味な死と無意味な生?

(2)どこかが間違っている
   正しいことと間違っていること、白と黒、右か左かを弁別できるのか?

(3)自然と人間の知恵
   自然を支配し、コントロールできるか? 相克のなかで 


5. 信仰における生 
(1)愛された人間の生 
   神に愛されて、求められた生 
    (参照:フランクル『夜と霧』)

(2)赦しと悔い改めの生 
   キリストの愛によって、新しく生きる 他者のための生
    (ルター 「キリスト者の自由〜自由と愛に生きる」)

(3)人間も被造物もともに希望に開かれている
   終末の約束が今すでに (ローマ8:22)
   被造物に対する責任も (創世記2:15)

2013-07-27

姜尚中氏の『心』を読む

   
久しぶりに「小説」を読んだ。姜尚中氏の『心』。小説ではあるけれども、姜氏自身が一人の若い青年と出逢い、交流をするのだが、その青年を主人公としたストーリーである。姜氏とのメールのやり取りを軸として、この青年をめぐる出来事が描かれる。登場人物にはきっとモデルがあるのだろうが、全くのフィクション。ちょうど、「3・11」を挟んでのやり取りとなっていて、リアルタイムな話題はこの小説が何を訴えたいかということをよく表している。
 夏目漱石の『こころ』と同名のタイトルで、読み始めるとその手法においてもよく似ていることに気づかされる。漱石の『こころ』も「私」という一人の青年が「先生」と出会い、と「手紙」による交流によって小説を構成されている。最後の章は特に有名で「先生」自身の若い書生時代の人間関係が描かれ、漱石のエゴイズムの探求を示す一遍だ。
 姜氏の『心』では、漱石とは異なり、青年をめぐる人間模様に焦点が当たり、「先生」である姜氏のそれに戻ってくることはない。この青年が親友(「心友」)の突然の病死や東日本大震災での多く人々の「死」と向かい合うことで、「生」を深く捉えていく青年の「こころ」の成長を描く作品だ。
        

この作品のメッセージは「生きろ」ということだろう。
自然と人間、あるいはさらに人間の中の自然と自然をコントロールしようとする人間の知恵、それぞれの要素が深く絡み合っての相克を抱きかかえている現実。自分の自然な感情や思いに忠実であることに身を任せることも、またあれこれと心を配り、幸せを思い描いて妥協や打算も働く人間のこころの働きも、そのどちらかに偏った判断を下すことを避け、その複雑な人間の現実を抱きしめる。
死や生に向かい合う誠実さを持たねばならないが、その誠実さをも相対化して、したたかにしなやかに自分のありのままを、まず愛おしみ、全てを引き受けて生きろと…。

青年は、「死」のちからとの格闘を続け、姜氏とのやり取りを支えにしながら、人間の生きることの深みを捕まえていく。死と隣り合わせにあることへの恐れをはっきりと自覚したが故に、生きることのすばらしさと喜びのあることへと向かっていく力を身につけていく。

姜氏は、今の青年のこころに、どうしても伝えたいメッセージをこの小説に込めている。それは、今はかなわぬ、姜氏自身の「息子」への思いだろう。いや、その息子から受け取ったいのちへのメッセージだったに違いない。

小説として、必ずしも高い仕上がりとは言えないのかも知れないが、この小説のなかにはたくさん学びの「要素」もあるのだ。
大学生に是非読んでほしい。



2013-07-02

『対決から交わりへ』…宗教改革500年をカトリックと合同で

LWFとカトリック教会の国際対話委員会は、義認の教理に関する共同宣言の後、この宗教改革500年をともに「記念(commemorate)」するために準備を重ねてきているが、その特別な行事をともに守るための基本的な合意と方針が一つの文書にまとめられた。

それが From Conflict To Communion 『対決から交わりへ』の文書だ。この訳語が良いかどうかも確認していくひつようがあるが、とりあえず、このように訳しておこう。
少なくとも「communion」という時には、教会の中で単に「交わり」ということが意味される以上に信仰的な一致と共同を成り立たせる関係が意識されてきたし、それはあの信仰者のキリストにおける交わりであり、救いをともにいただく「聖餐の交わり」と結びついて理解されてきた言葉だ。もちろん、未だ両教会のあいだに聖餐の交わりは実現していないし、500年の記念という年を迎えてもなかなか難しいだろう。けれども、それに向かっているのだという意識を強く表した文書のタイトルといえよう。それだけに、この文書の持つ意味は大きい。

既に二年ほど前にこの100ページあまりの文書は委員会において決定されていたようだが、ようやくこの6月17日に正式にカトリック教会とLWFの両教会から公表され、同時に出版、そして、ウェブ上でもPDFファイルで公開された。もちろん、無料でダウンロードできる。下は、LWFによるダウンロードのためのURLだ。

http://www.lutheranworld.org/content/conflict-communion-0

公表が遅れた理由が何によるのかは分からない。しかし、いずれにしてもそれだけ、この文書の持つ「意味」が大きいということを示唆するものではないだろうか。

この文書、日本のカトリック教会と日本福音ルーテル教会のエキュメズム委員会が中心になって、いずれ翻訳されることになろう。ただ、こうした話題を委員会の翻訳作業を待っていては、両教会でこのニュースを受け取り、本当にこの2017年を特別な年として記念する事の準備をするのに遅れをとる。是非、原文ででもみていただける事をお勧めしたい。

基本的には、これまで、特に第二ヴァチカン公会議(1962−65)以降、カトリック教会は諸教会との対話を重ねてきたが、その成果は様々な形となってルーテル教会とのあいだにも大きな新しい関係を結ぶことになってきたわけだが、その一連の流れを確認しつつ、今の時代にともにこの年を憶えるということの意義を確認した文書である。

1999年の10月31日に「義認の教理に関する共同宣言」がカトリックとLWFとで共同調印されて世界に公にされ、大きな共同礼拝を持ったことは記憶にも新しい。たどれば、1980年にはアウグスブルク信仰告白450年、1983年にはルター生誕500年を期に両教会はルターの信仰とまたその神学的関心について、イエス・キリストを証するものとして認め、またカトリック、プロテスタントの遺憾に拘らず、この人物もまたそのメッセージも無視することは出来ないことを確認してきた。

いま、この2017年をともに「記念する」ということは、現代という脈絡の中でルターの宗教改革の出来事を捉え直し、またその意味を深く学ぶことで、あの宗教改革という歴史的な出来事が、現代おけるキリスト教会全体に意味があることを受け止めていこうとするものであることが確認されている。

特に、「2017年の500年記念」ということは三つの脈絡の中で特別な意義があるものとされている。(以下は、原文の翻訳ではなく、私が読みながら考えている所なので、そのようにご理解いただきたい)

1. 現代のエキュメニカルな時代のおける最初の周年記念であるということ。
もちろん、ここでいう「周年記念」百年を単位にしての事であるけれども、1917年との明らかな違いということに着目してしている。繰り返すが、第二ヴァチカン以降、ルーテルとカトリックだけではなく諸教会の対話が進み、具体的な成果もあげてきた。リマのようなマルチラテラルな成果もそうだが、バイラテラルな一対一の教会間でも成果を重ねてきている。そうした流れの中で、この500年という年があるということだ。

2. 次に、グローバルな時代における最初の周年記念であるということ。
これは、やはり20世紀の後半から21世紀になって、グローバル化が進み、地球規模で一つの世界として情報化もすすみ、また経済や政治的にも、また環境的な課題においても東西。南北が一つとなってものを考える時代になっているということであろう。いろいろな宗教世界の存在や対立についても心いためるところが大きいし、また宗教的多元主義も、こうしたグローバルな時代だからこそ生まれてきたものでもある。キリスト教というものが相対化されるのがこの時代の現実でもある。この時代に宗教という視点において、キリスト教会の歴史的な「宗教改革」という問題を捉え、そして、この500年を「共に」するということの意義が確認されているのだろう。

3. そして、あたらしい宗教的運動がおこってきていることと、同時に世俗化の進展ということの両方を体験していること。
現代の複雑さを思わされるが、一方では科学的なものの見方と物質的文明の徹底した世界において、人間の様々な分野での宗教的な役割ということは世俗的な事柄の中で取り扱われるようになってきたし、そうしてより効率的で合理的な世界を求めてきたのかも知れない。しかし、そうした世界の中に改めて宗教的なものの重要性やスピリチュアルな世界への関心も高まり、そうした取り組みが新たな形をとってあらわれていているということでもあろう。キリスト教会のなかでいえば、ペンテコスタルな運動やカリスマテティックなものが世界的に大きな運動になってきていることもあげられる。そういう時代のなかでのキリスト教会の大きなメッセージを示す機会となっているということがかんがえられているのだろう。

歴史的な意義を、教会の脈絡というよりも、より大きな現代の脈絡の中で捉えるからこそ、カトリックとルーテルが「共に」この時を記念するということの特別さを知ることが出来るのだ。

これからも、この文書一つひとつ読みすすめながら、関心のあるテーマを、それぞれにお分ちしたいと思う。

http://luther2017.blogspot.jp/2013/06/500.html


2013-06-24

「死をどう迎え、葬儀をどうする」

 6月22日の土曜日は日本福音ルーテル大阪教会を会場にして、「関西一日神学校」が行われた。招かれて、このテーマでお話しさせていただいた。土曜日にもかかわらず、関西の各教会から70名を超える方々にお集まりいただき、しかも大変熱心にきいていただいた。この問題の関心の高さを思わされた。会場でも、また個人的にもご質問をいただき、全てに十分お応えしてお話しすることはかなわなかったけれども、とても豊かな学びを私自身がいただいた時間だった。

 午前と午後に、それぞれ90分二コマというたっぷりとした時間をいただいたので、午前中の枠では、「私たちの死の現実と信仰」を考えるつもりで、「I. 死にゆくこと、看取ること」と題してお話しさせていただいた。一人称の死、つまり自分自身の死と向かい合うということと、「二人称の死」としての愛する者の死を看取る経験をどのように信仰において捉えていくのか。日本の宗教文化、そして現代という時代の中に生きる私たち自身の課題に迫ることを試みた。死に向かい合う魂の問題を問い、全ての人に見いだせるスピリチュアルな課題、ニーズを掘り起こしながら、キリスト教が伝えるべきものが何か、十字架と復活のキリスト二おける救いの約束と希望を学んだ。
 また、午後の枠は「葬儀」ということを考えるために「II. キリスト教の葬儀」としてお話しさせていただいた。これまで同じようなテーマで学ぶ機会があっても、なかなか90分まるまる話させていただくことがないので、たっぷりとキリスト教の葬儀についておはなしさせていただいた。喪の大切さを考えながら、実際的なことも含めてキリスト教葬儀というものについて学ぶことができた。また、「葬」ということは決して牧師の業ではなく教会での出来事であるので、教会が普段から、何を学び、準備すべきかということについても、少し具体的な提案もさせていただいた。

 関西は、父、正己が人生の終わりの時間を過ごさせていただいたところ。多くの教会でお手伝いをさせていただいた。そして、多くの方々に祈られ、支えていただいてきた。教会の方々へは、葬儀以来、それぞれの教会に私が招かれた時にはご挨拶もさせていただいたけれども、なかなか機会もなかったので、今回は皆さんにご報告もかねてお話することができたことは、私個人としても良い時間をいただいたことに本当に感謝したい。また、父が最後のときまで大切にして生きてきた「教会」に対する思いを、私自身も思い起こしながら、皆さんにお分かちさせていただいた思いもある。キリストにある赦し、慰め、希望に生かされるものでありたい。

 葬儀といえば、先だってBSで放映されたこともあって、映画「おくりびと」が思い出される方も多いだろう。あの本木君演ずる小林大悟の納棺の儀式の美しさにいやされ、生前には長くほどけることのなかった死者と遺されたものとの間のわだかまり、もつれた糸がゆっくりと解けていく、その「時」に魅了された方も多いに違いない。
 実際には、納棺師を依頼するなど滅多にないのが普通。あのような見事な業にお目にかかることは少ない。しかし、逆にいえば、臨終から葬儀、火葬など全ての葬の行程に牧師が寄り添い、祈りを持っていることは、いやしに満ちた日本のキリスト教の葬儀の特徴だろう。
 本木君のような美しい納棺の儀式は出来なくとも、牧師は司式者として場を整え、祈りの言葉、みことばの力によって、癒しのミニストリーを務めあげるもの。その所作もまた洗練された「ことば」においても、ある種の「美しさ」が「葬」という最も深い混沌の闇に神様のみ業を映し出すものとして求められるように思う。牧師はそういう司式者でありたいものだ。





2013-06-05

ルターセミナー 徳善発題を受けて

 この6月3日から5日まで、ルーテル学院大学ルター研究所の主催で、「牧師のためのルターセミナー」が三浦にて行われ、28名の参加者が与えられた。
2017年、私たちは宗教改革500年を迎える。ルター研究所では、この牧師セミナーでは  「宗教改革500年とわたしたち」このテーマのもとに今年から5回のシリーズで「ルター研究」を深めることとした。いま、私たちが「ルター」を学ぶということがどういう意味を持っているのかを問い、また確認しつつ、現代の教会と社会に向けてその成果を発信していきたい。その第一回目が今年のセミナーだ。

(この参加者は例年の約1.5倍。ルーテルのみならず、ナザレンから、また日基教団からも参加者が与えられたことも特筆すべきだろう。教派を超えて、学びと交わりを深める事が出来たことも、この「牧師のための」というセミナーにふさわしいし、それに加えて宗教改革500年に関連したテーマにもふさわしいことだったと思う。)

 このセミナーの第一の発題は、ルター研究所の初代所長で、ながく私たちを導いてくださってきた徳善義和先生で、「ルターの現代的意義を問えば」と題し約1時間の講演をいただいた。それに引き続き私たちは意見交換、討議を行い、これからの私たちのルター研究、あるいは、ルーテル教会の課題を見いだしていこうとした。
 発題そのものはすでに完全原稿にしていただいている。おそらく秋には、他の発題とともに『ルター研究 第11巻』として出版されるはずであるが、発題のあとの私たち参加者の討議も含めて、私がうけとった「生もの」をここに記録したい。故に、これは発題の正確な記録ではない事をお断りしたい。私が聞き、受け取ったものであって、言葉遣いも含めて、先生の発題とは別物である事をご理解しておいていただきたい。
(写真のスタンプは参加者の方からの提供)

 この徳善先生の発題では、ルターがあの時代の中でキリストの福音のために教会の改革を呼びかけた批判原理を、どのように現代のルター神学のなかで捕まえて、時代の課題に取り組むのかという問題提起をいただいた。
 ルター自身の歴史性、ルター研究の歴史性をしっかりとふまえ、ルターの宗教改革を捉える。そうして、今を生きている私たちが現代においてルターを研究し、ルターからまなぶということそのものを批判的に検証する必要がある。つまり、ルターを自分の神学的主張を肯定するために参照するのでは、ルターの改革の意図を生かす事にならない。むしろ、あのドイツの16世紀という時代を批判的に捉えた宗教改革の「批判原理」をもって、現代を生きる自らを検証する。そうした作業を経てこそ、現代という脈絡のなかでルターを継承するということを意義あるものとすることができるのであり、教会の歴史的な責任性を担うことが出来るということだ。
 ルーテル教会がルーテル教会として、ルターの現代的意義を問う時には、ルターの批判的原理のもとで、自らを顧み、今の自分たちはこれでいいのかと問う事の出来る教会でなければならないということだろう。ルターをまつりあげるのではないし、ルターに帰るのでもない。ルターを相対化しつつ、しかし、そこから学ぶ私たちがルターを超えて、この歴史のなかで、明日に向けて新しい一歩を記すことが必要なのだ。

 徳善先生が、まず宗教改革の基本原理という視点の中で取り上げられたテーマは宗教改革的な福音原理の確認の必要性であり、ルターにおけるその展開を「みことば」、「洗礼」、「聖餐」「鍵の権能」、「奉仕者」、「祈り」「十字架」という教会の持つべき七つしるしに見て紹介された。つまり、教会が教会であるという事のために最低限必要な事は何か。一般に、アウグスブルク信仰告白の第7条から福音の純粋な説教と福音に従った聖礼典の正しい執行ということだけが言われてきているかも知れないが、ルターは教会が負っている務め、その働きが何であるのかということを、この教会の「しるし」として述べている。そうした「しるし」を私たちの教会はどのように今持っているのか。その事が問われているということだろう。これらについては、また、改めて考察をしたい。

 これらを前提にして、ルターは人間の生の三分野に(家政 oeconomia、社会 politia、教会 ecclesia)おける諸課題へと取り組むべきことを繰り返し語っているという。徳善先生は、ルターの荒野の誘惑に関する説教やキリストの降誕に関する説教などにおいて、人間がこの三分野において、誘惑や悪魔的な力と戦う者である事を語っているという。つまり、パンの欲望、世俗権力への欲望、宗教権力の欲望との戦いである。家政、社会、教会という三つの区分において、人間は究極的には神の主権と支配のもとにありながら、人間の肉の思いがあらゆる機会を捉えてこれを乱用するのだから、こうした生の諸側面においてキリスト者がキリスト者として向かい合い、担っていくべき課題があることを示された。
 具体的に改革の時代のなかで公にされたルーテル教会のアイデンティティーを形作る事となった改革の告白文書、アウグスブルク信仰告白や小教理問答などが、あの時代に個人的な信仰生活の領域、社会的・政治的な脈略、さらに教会の改革と一致などのその諸領域にどのような意味を持つ者であったかという事を確認しつつ、現代のなかで必要な新たな理解・解説をもっていくことが必要だろうということも確認した。信仰告白文書は、歴史的な告白文書であり、そこに確かにルーテルのアイデンティティーを確認できるものだと思うが、それに新たな私たちの歴史的場所での告白ということが生まれてかまわない。「今、ここ」という状況の中で、私たちの教会が神の前で自らを確認し、公に告白することが求められ、また必要だといわれる事態があるなら、歴史的な一致信条に固執するのではなく、自らの告白を加えていく可能性があるのではないか。

 そして、そこで考えるべき具体的課題は何かについては、私たち自身が改めて「現代」という脈絡のなかで考えるべきことを提案された。参加者の討議の中で出てきたことも含めて、考えられてきたところを以下にまとめてみたい。
 すなわち、「個人の信仰生活」について、また今日の「エキュメニズム」を含む「教会のあり方」についてはもちろん、社会の諸問題への実践的、「倫理的な課題」に対する責任性を自覚し、ルーテル教会、またそこに生きる私たち自身が、自ら問いかけられているものとしてどのようにその課題を見据え、取り組んでいくのか。また、今日、「宗教的なもの、スピリチュアリティー」というような課題が人間にとってどういう意味をもっているのかという問いや必要が言われているのであれば、そこにキリスト教はどのように貢献し、またルター派として発言していくことが出来るのか。これも一つの責任をもっていくべきことであろう。教会に救いを求めてくる方々が複雑化した社会のなかで抱える心の課題への取り組みも、教会としての必要な関わりもあろう。
 いずれにしても、あの宗教改革の時代にキリストの福音を揺るがし、それを曇らせる、様々な働きを社会のなかにも、個人の信仰生活の中にも、そして教会そのものの中にも見いだしたルターが、神と悪魔との戦いの戦線に信仰をもって臨んだとするならば、いまの私たちの「敵」とはなにか。そうしたことを時代の中に感じとり、「非人間化する力」と相対する必要がある。(もちろん、「原子力」の課題もここ具体的な問題の一つだろう。私は常々「核」の問題こそが現代の偶像であり、また悪魔的力とかんがえてきたのだけれども、その事にどう向かい合い、何を語るのかということが今こそ問われているに違いない。)
 16世紀とは異なった今日という文脈のなかで、私たちは誰と共に立ち、何に向かって戦い、何を問い、何を語るものとしてルーサランたらんとするのか。そうした「告白的課題」の前にあることを深く自覚させられた。
 ルターの現代的意義を問うならば、自らが問われるものとなる!





2013-05-24

今、死にゆく時間をともにすること


昨日、日本福音ルーテル社団(JELA)のプログラムの一つ、リラ・プレカリアで表題の副題をつけた講演をさせていただいた。「日本人の死生観とキリスト教信仰」を大きな主題として、現代の日本で死を迎えるということがどういう現実であるのかということを探りながら、そこにキリスト教の信仰はどういう支えを見いだしていくのか、また、その神様の救いの働きへの参与を看取リの中でどんな風に具体的に与えられてくるのか。ということを考えてみた。リラ・プレカリアの音楽の賜物についても、少しだけ触れることが出来た。
以下は、項目レジュメ。

1. 伝統的な死生観(死の受容システム)
(1)自然志向型の霊性
(2)共同体志向型の霊性
(3)母なるもの
2. 現代の「死にゆくこと」
(1)医療技術に囲まれて
(2)失われた共同体(コミュニティーの崩壊)
(3)求められるより良い準備
(4)あらためて問われる伝統的死の受容システム
3. 死にゆく時間を生きるために
生きることを支える三つの柱
 時間の柱・関係の柱・自律の柱 
 死にゆく時間:全ての柱が弱まる時に信仰は何をみいだすのか
(1)明日を失う
(2)具体的な関係のなかで
(3)死と向かい合う自己
(4)死にゆく者のための時間
4. 死からいのちへ 具体的な関わりをとおして 
(1)分かち合われるみことば
(2)「死」にまさる「いのち」の確かさ
(3)時間的なものから永遠へ

3の始めに紹介したのは、生きることを支える三つの柱だが、これは、小澤竹俊氏による『13歳からの「いのちの授業」』による。小澤氏は在宅ホスピスの現場で多くの患者と家族を支える医師だが、同時にその働きから、「いのち」の大切さ、その意味についての深い問いを学ぶための授業・講演を各地で行っている。





2013-05-16

『私たちの死と葬儀〜キリスト教の視点から』(本のひろば 特別号)

 キリスト教関連の新しい出版を紹介する「本のひろば」の特別号で、死と葬儀に関連して短く書かせていただいた。


 近年は、死や葬儀に関連する本が一般書店からも続々と出版されていて、学ぶことは多い。キリスト教の信仰をもって、私たちがこの現代の日本において「死」や「葬儀」という問題を考える時、大切にするべきことは何か。いったい、私たちは今の時代にどんな風に生きて、そして死んでいくものなのか。
 聖書そのものからキリスト教の死生観や死に関わる教義的な説明をする本も実はいくつも出版されてきているのだが、いろいろなものを読んで、学ぶための一助となればと思って書かせていただいた。一般的なことではなく、自分が死に直面していかざるを得ない。その現実とどう向かい合いながら、信仰を生き抜くのか。どのような希望と約束が与えられているのか、確認することが出来るように書いてみた。また、いくつかの参考にさせていただいてきた本も紹介している。ただ、紹介したい本はもっと沢山あるので、このブログを通しても改めて何冊か紹介していきたい。
 この冊子は一般に販売されるものではないので、キリスト教関係の書店などで、何か本をお求めいただき、お尋ねいただければと思う。(「本のひろば」は、30ページほどの冊子で、毎月発行され、年間の講読料1300円ほどである。)

2013-05-09

教区50周年に考える


 今年は、ちょうど日本福音ルーテル教会東教区50周年ということで、この54日に記念大会がひらかれた。しかし、この50年記念は、東教区に限ったことではもちろんなくて、日本福音ルーテル教会が1963年に教会の組織を整えて、九州教区、西教区、東海教区、東教区の4つの教区を誕生させたということである。だから、今年は北海道特別教区をのぞく4つの教区は、それぞれにこの50年の節目を記念し、様々な催しを企画している。
 50年を記念し祝うことで、この歩みについての神への感謝をもって、それぞれに喜びと新しい宣教の力に満たされる。それはそれですばらしいことだと思う。けれども、そのことだけで終わったのでは、この50年を記念することにならない。むしろ、この時にこそ、「教区」の存在意義と展望を新しい宣教の大きなビジョンのなかに問い直すことが必要なのではないか。





教会合同と教区制
 教区制が布かれたのは、1963年、東海福音ルーテル教会と旧日本福音ルーテル教会との教会合同の時である。この教会合同には、もともと、日本ルーテル教団、西日本福音ルーテル、近畿福音ルーテルもともにその合同の道を模索したという経緯があったわけだが、それも含めての合同ということであれば、かなりしっかりとした教区制としての体制が整えられたことだろう。この合同においては準備の段階からそれぞれの海外のルーテル教会による宣教によってもたらされた伝統が、その宣教母体との関係を維持しつつ日本の一つのルーテル教会として成立できるように、地域ごとのまとまり(部会)を形成して合同することが計画されてきた。この考えが教区制成立の基礎にある。結論から言えば、合同そのものも当初の計画通りにはすすまず、限定的な合同ということに留まった訳で、新しい教会の姿は期待された数的基盤を持つことは出来なかったが、すでに教会関係の文書事業などでの協力関係の中にあった日本のルーテル諸教会が新しい宣教の基盤を求めた動きがあったことは今日においても引き継がれている。
 しかし、いずれにしてもこうした教会合同の中で全体の組織を教区制によって整える時に、実はそこの教会理解の根本的な問題を抱えることになった。
 すなわち、東海福音は旧日本福音ルーテルと根本的に違った考え方を持っていた。東海福音ルーテルの伝統は会衆派制にあると言われ、各個教会における信徒・会衆の自覚的・主体的信仰生活に重きを置く。各個教会こそが教会としての自主・独立の単位であって、教会の本質を各個教会において考える教会論に立っていた(東教区50年シンポジウム、北尾一郎牧師談)。もともと、東海福音ルーテルの宣教母体となったALCアメリカルーテル教会は、ドイツ系のルーテル教会が軸となって、デンマークやノルウェー系のルーテル諸教会との合同によって出来た教会だ。このALCは後にLCAとの合同で現在のELCAを組織することになる訳だが、その合同の話し合いに入る前まではミズーリシノッドとの交わりも深く、基本的にはより保守的なグループであった。17世紀敬虔主義の流れを強く持ち、主体的な信仰生活とその自覚の中で教会を組織する各個教会主義を重んじる傾向が強いということになる。
 それに対して、旧日本福音ルーテル教会は監督制とまでは行かないけれども、小会・中会・大会というより大きな教会の組織単位をもつ長老派制の考えに近く、各個教会における意思決定よりも上位に位置づく全体教会の方針を重んじる制度を持っていたという(同、北尾師談)。ただし、それでも厳密な意味で監督制を持っていた訳ではない。もともとは宣教師会が中心に日本の宣教についての全体の方針や意思決定などを行ってきた仕組みを日本人牧師が引き継ぐ形で、教会が成り立ってきたことによるだろう。全体教会が一つの教会として法人格をもち、宣教の主体として諸々の計画の実現にむけた意思決定を行ってきた旧日本福音ルーテルは、東海の考える各個教会の自主独立の精神に比べるとはるかに中央集権的な性格と持っていたということだろうと思う。
 教区制は、それぞれの宣教母体との関係とその独自性を尊重しつつ、一つの教会となるための行政区分として機能する一方、東海の考える基本的教会理解を教区において保ちつつ全体と調整をしていく中間的な制度をもって合同に資する形と結果的になったといってもよいだろう。

教区制度と教会性
 とにかく、日本福音ルーテル教会はその合同教会という性格から、実はその教会の制度的な成り立ちについては、いい意味で言えば融通無碍な、悪く言えば曖昧ではっきりとしない点が見られる。
 教会憲法上、成り立ちは全体教会が各教区を置く形をとり、監督制のような方向を取っているのであって、それは各個教会を軸に考える道筋とは異なる考え方である。しかし、実態としては教区には法人格もなく、宣教の主体としての位置づけは弱い。ただし、教区は全体教会とともにその地域における独自の目的のために牧師を招聘できるものとされた。つまり、その意味で限定的ではあっても教会性を持つ。
 しかし、あくまで宣教の主体は、各地域教会、つまり各個教会に置かれており、牧師は任命制ではなく各個教会による招聘と応諾の原則が保たれている。教区は各個教会が牧師と代表を選出し教区としての総会を持っているが、この教区と全体教会との関係においては、各教区の教区長が全体教会の常議員会を組織するということによって成り立っているということではあっても、全体教会との連携について特別な規則はない。また、教区長も、全体教会の総会議長も各個教会の牧会には直接介入する権利はない。各個教会が基本となって弱い教会を支え合う連合体を形成して教区、そして全体教会を形成しているかのような性格を持っている。各個教会はより上位の意思決定に従うという構造にはなっていないし、また、監督・指導を受けていくというヒエラルキーもない。
 つまり、規則上は、全体教会から始まり教区が置かれるように監督制のような組織形態を持っているにも拘らず、現実的な面では各個教会主義的な色彩が強いと言わざるを得ない。全体教会は方策を立てても、その方策を実行するための任命人事権は全体教会にはない。全国総会の選挙によって決まる総会議長初め常議員、各常置委員はえらばれるけれども、その議長にも常議員会にも各個教会の牧会的な問題に介入する特別な権威は与えられてはいない。
 そのために、宣教の主体が各個教会という原則がある意味で支配的な教会の構造を持っているということになるが、それでは、各個教会がそれだけの実力を持っているのかということになると極めて基盤の弱い現実が見いだされる。そもそも宣教師によって開拓され、会堂を与えられ、その奉仕によって維持されてきた小さな教会が沢山たてられてきた現実を思えば、各個教会が自立した財政的基盤と役員会組織をもっているかといえば、必ずしもそういう始まりではないし、その教会に対して自主自立した教会経営、宣教の主体としての役割を期待するにはなかなか厳しい現実がある。

アスマラ宣言と教区自立
 19694月、日本福音ルーテル教会の内海季秋総会議長は、エチオピアのアスマラにおいて行われたJCMにおいて、海外からの日本伝道に関わる一般会計への支援について1974年末までに補助金をゼロにすると宣言した。日本の教会の自給を目指す意気込みを表したものであるが、これを受けて本教会は自立路線をとることになる。同年の6月からの常議員会では、この自給自立路線を公式に方策として位置づけ、各個教会と教区ごとの自立計画が立てられた。
 1972年の総合自立計画は、それまでの局制を廃して合局制をとり全国レベルでの取り組みと教区ごとの取り組みをわけながら、全体の自立計画を策定し、教区主導の宣教と自立路線が策定されることとなった。
 教区における一種教会が二種・三種教会の自立を支援する教区ぐるみの自立という方策に具体化する。各個教会における自給自立一辺倒ではなく、それぞれの教会の特殊性を考慮しながら、諸教会を維持し、なおかつ教区内の自立と連帯によって、全体の自給を実現していく方策は、教区という一つのまとまりをより具体的な宣教主体として表すものであったと言えるだろう。こうした宣教方策の方向性は、80年代にはさらに成長する教会を標榜することになる。

教区と宣教の主体
 基本的に、日本福音ルーテル教会の宣教主体は、各個教会にあると考えられてきている。新しい開拓伝道は、地方教会の宣教の展開のなかで生み出されてきたか、あるいは非常に熱心な牧師や宣教師の働きによって、ある地方一体に教会の種子がまかれていくという形で展開されてきたと言えるだろう。
 こうした各個教会、牧師や宣教師の働きから全体教会として大きな宣教計画のなかで開拓伝道が企図されたのは、1965年から66年にかけて「大伝道計画」が実施にきろくされるだけではないだろうか。ニューミッション計画の中で、海外からの支援が限定されて用いられるという外的要因がたぶんに影響しつつも、「全国レベル開拓伝道計画」が全体教会のもとにたてられ、取り組まれたのは、おそらく後にも先にもこの時に限られているかも知れない。土地・会堂(多目的)・牧師配置を同時実施する計画で、北九州黒崎・四国高松・岡山・八王子・北海道釧路の5か所で着手され、結果的には、8カ所に限定されて資金的な行き詰まりもあって終息する。
 その後は、東教区に見られるような教区主導の宣教の姿が見いだされる。教区内募金の用地取得制度による、いわゆる鶴ケ谷方式の開拓伝道(1972)、また、地域のいくつかの個教会と会員の資金借入による共同融資による、新規用地取得制度の藤が丘方式の開拓伝道(1983)がそれである。しかし、教区主導といっても、極めて限定された形で展開され、以後同様の方式による取り組みは続かない。
 実際に、80年代のはじめに都内のある教会が建物の立て直しを機に、新しい宣教の展開の必要性を考えて教区に移転の問い合わせをしたが回答が得られなかったという。つまり、教区には新たな宣教の展開を考えていく受け皿がそもそも存在しないのである。つまり、教区は宣教の主体としては成り立っていない。地域の各個教会の連絡と調整役に留まり、教区主体のプログラムは墓地関係や諸々の研修計画など極めて限定的な取り組みとなっているのが実情である。

PM21とこれからの教区
 80年代の後半には教区及び全体教会としての自給についての一定の成果を見せてはいても、宣教全般については停滞傾向、青年の不在、受洗者数の減少などが顕著になる。90年代に入ると、各教区の宣教の状況には不安が満ちてくる。東教区の教区常議員会がいち早く、こうした全国規模の将来的見通しについて統計的な資料をもとに厳しい評価を出しながら、東教区の責任を自覚して具体的な方策を模索した。この現実の見通しに対しては信仰的な希望が少ないと牧師・信徒からの批判を受けたほどだ。それ故に、こうした現実対応の大胆な計画ということは全体の中にうまく噛み合なかった。しかし、当時の東教区常議員会の厳しい分析はほぼ正しかったことが後には明らかになる。
 そして、70年代からの標榜された自給自立のみちは、同時に計画がスタートする収益事業によってまかなう方式を取ってきたのであり、全体の財政は辛うじて自立したように見えたているにせよ、それは、一般会計に留まるのであって、宣教の体制を整える全体的機能、あるいは土地建物などにかかるものは収益の果実に頼らざる得ないものであったし、この体質が今日に深刻な課題を残すことにもなった。
 また、こうした自給自立の方針は教区の基盤の脆弱化を招いたし、教区の自立を標榜するがために人事が財政に主導されるという弊害をもたらすことになったといってよい。教区は教区の独自性をもって宣教を考える主体としては機能しえないのだ。むしろ教区内における自給をまかなうために牧師給の負担を抑えるように人事を考えざるを得ない状況になっている。兼任体制は隣の教会といってもその距離が非常に遠い地方から始まらざるを得ない皮肉を結果したのである。
 2002年の教会総会は、90年代からの深刻な教会弱体化の見通しから、出来る間に体制を整えるべきと判断し、模索された新しい方策PM21を採択した。これは、全国レベルで取り組むべき、次世代育成、信徒教育、そして牧師のレビュー制度と継続教育の課題を本教会主導で取り組み、同時に、教会の組織的変更を進めて、教区を軸に考えた宣教方策を、全体教会に一元的に集約することはずの方策である。
 そもそも、63年の合同とともに行政は4局制をとったが、70年代には合同局制へと移行した。それも次第に実態が弱体化し、全体教会の中央集権的体制を軽量化しするために合同局制を排して、教区を軸にする方針へと90年代半ばに実行に移されたはずだった。しかし、90年代に予測された将来の教区自立の見通しはくらく、少子高齢化はしっかりと統計的に見通されたことがその後のPM21の方策を模索させることになったのだ。宣教力を集中させて、予測される危機を乗り越えていこうとするものだ。
 つまり、教会組織の再編をおこなって教区は廃止の方向をとる。各個教会は、複数で合同し新教会、もしくは教会共同体を形成する。そうして、弱体化した各個教会の組織的転換を図り、各個教会、教区、全体教会という三階建ての構造を解体して、シンプルで集約された教会組織体を形成する方針だった。各教区はすでに兼任体制を取らなければ、教区としての自立が成り立たない状況もで、本当に必要な宣教の体制を整えることができないし、また、現実的に牧師の数も少なくなってきたために、新しい組織体制を整えることが求められた。この方針は全体教会の基本的な合意に至って、採択されたはずだったが、当時まだ各個教会の運営にも、教区としての人事体制にも余裕のあった東教区は独自の宣教方針を掲げており、全体教会との歩調は必ずしも整ってはいなかった。
 結局、新教会の組織もしくは教会共同体の組織化は一元化されずに、各個教会の自由な判断にまかされることになり、この大きな教会改革の基盤が崩された。そして、PM21の後半は基本的にはこの方策の見直しという方向になり、方策の多くは中途半端なままに終結し、第6次宣教方策に引き継がれた。しかし、この間PM21についての十分な検証はなされていないし、結局教区主体の宣教体制に戻っているように見えながら、その基盤の弱体化はますます深刻化しているのが実情だ。

 教区は自給自立の路線において一定の役割を果たしてきた。しかし、今はむしろそのことによって弊害がもたらされていないか。宣教の主体として、教区はそれぞれの教区、地域における各個教会を支え、新しい宣教を展開するためにどのよう働いているのか。
 今、私たちがこの教区の50周年の記念において、どのように教会の組織を整えるのか。教区はどういう道をすすむのか。実際、そのことこそが問われているのである。宣教する教会としての自覚とそのための具体的な方策に歩みを進めていくための50周年でなければならない。これは、単なるお祭りで終わらせるわけにはいかない。

 東教区50周年記念大会の締めくくり、派遣聖餐礼拝はほんとうにすばらしい礼拝であったと思う。「派遣」というテーマがはっきりと表され、集まった私たちは恵みに満たされて喜びと感謝のうちに新しい歩みへと押し出されたと思う。その燃える心があの時だけに終わるのではなく、それぞれの教会の宣教、一人ひとりの生活の中でみことばを分かち合い、隣人に仕えていくあゆみへと結ばれていく必要がある。そのために教区はどうあるべきなのか、教会組織はどんな形をとることがよいのか。私たちが次の世代にむけて自らを整えるべきときなのだ。