2023-07-05

臨床牧会セミナー「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」4



基調講演の趣旨をようやくした内容を3回にわたって、このブログ上に掲載してきた。

実は当日の資料レジュメには、最後の部分で限られた講演の時間では話すことができないけれども、最初に共有すべい現実を詳しく考えることができるためにと以下の項目を挙げていた。実際に、講演の中でもその内容に関わってお話しした部分もあったし、今回その要旨をまとめるというために、ここで考える要素を少し加えて御指名した部分もあった。

ただ、今後私たち(キリスト教会・牧師たち)がこの現代の「暗闇」という事態を考える手がかりとなるように、そのレジュメに示した項目もブログ記事として残しておくこととしたい。

ご参考までに・・・・



4.現代の「暗闇」の特殊性 (ここからは講演では話さない)

(1)世界の状況

   新型コロナが炙り出した現代の暗闇 

格差世界 関係の希薄化 そして分断 (等質性世界・対立構造)

   ネット社会 新しいコミュニケーション 匿名化・非人格化

   商品と流通の変化 普遍的価値が席巻する 地域性の崩壊

   

(2)宣教の困難 ⇨ (自信喪失)

   ニューエイジの個人主義的宗教性 

   キリスト教世界の中での分断 社会派―福音派? リベラル−ファンダメンタル?

   キリスト教の普遍的価値への問い 絶対性の否定 (多様性が求められる世界)

   宗教そのものへの抵抗感・恐怖感

   

(3)各個教会の現実

   少子高齢化 担い手の不足 財政的課題 活動の停滞

教会員の保守的?傾向(教会の「伝統」)と社会(牧師の意識?)とのギャップ

ウチとソト?意識 ⇨ 差別構造の温存 認められない多様性 居場所ない部外者

 

(4)人間関係の困難

   牧師―牧師 ミニストリウムが非成立 (引退教職の難しさ)

   牧師―信徒 甘えの構造? 信頼関係の構築は?

   信徒―信徒 関係の希薄化 

 

(5)抱え込みすぎる牧師

牧師の兼牧・兼任 ⇨「牧師」の仕事化・効率化 

牧師の強すぎる使命感・責任感(生真面目のゆえ)、恥の意識と問題の隠蔽へ

   社会的リソースとの連携?の乏しさ 

2023-07-04

臨床牧会セミナー「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」3

3.牧師が求める助けとは

こうした教会の置かれている暗闇の深淵において、牧師は日々忙しく「仕事」に追われ、 「牧師である」というよりも「牧師としての働きをいかにこなすか」ということで身を粉にしている。求められることは多いが応えきれず、失敗を恐れ無難にこなすことに懸命となり、霊的にも満たされることがない。だから牧師はいつでも自分の働きも、また信仰そのものにおいても自信が持てないし、不全感を持っている。現場の牧師たちが、暗闇の中に悲鳴をあげているのではないか。

教会も神学校もその現実に応えようと苦慮し、こうしたセミナーや研究会を企画する。し かし、牧師たちの積極的な参加を得ることは難しい。牧師にとっては、再教育とか研修とか言 われると、多忙さに加えてこれ以上はできないと腰がひける。いや、そもそもこうした研修の場が、癒しや喜び、励ましを得ることよりも、何がしかの評価を受けるような感覚に陥るのではないか。研修やセミナーに参加することで自らの至らなさに気付かされる一方、そこで具体的な力や助けを得られるのかという思いもあろう。牧師としての正しい務めやあるべき姿を学ぶ中で、自分自身に否定的な評価を受け取ってしまうことさえあるかもしれない。

教会にはある種の規範が働いていて、信徒も 牧師も毎週の礼拝と教会と信仰生活を規則正 しく送り、祈りと奉仕に熱心であることが求められ、それを喜びとする明るく元気で聡明な奉仕者が評価される。弱さを見せられず、苦しく悲しい人が行きづらい場になっているのではないか。そして牧師もまたそのような価値意識や規範に縛られているのかもしれない。

だから、実際に、私たちは教会においても、あるいはこういう研修においても人の目を気にしないではいられないし、自分の問題や家族の問題といった暗闇を誰にも打ち明けることができずにいる。そこに、神の福音を分かち合う力は湧いてくるのだろうか。私たちは祈り合うことができていないのではないか。互いに深く霊的に助け合えないままになっているのではないか。本当に助けがほしい人が、この場に参加することができないのではないだろうか。

本当に必要とされているのは、現場の牧師たちに対する牧会的関わりであり、支援的スーパービジョンだろう。けれども、これまで教会にはそうした経験も乏しく、作られにくいのが実情なのだ。引退教職や経験豊富な先輩牧師がその知見から意見をする時、きっと若い牧師たちの助けになり、教会のニーズに応えるものとなるとの善意で発言されていることだろう。けれど、そのことが現場の責任を生きる牧師たちに 本当に必要な支援となっているのか、よくよく考えなければならない。助けたいという意図とは別に、牧師たちをある種の評価と管理抑圧の システムの中に身を置かしめているのかもしれないのだ。現代社会が私たちの中に染み付かせた問題かもしれない。

だとしたら、教会は本当に福音的諸関係の結び方、確かな支援となる関わりのための、知識と技術を身につけていかなければならないように思う。


自分にとって、何が問題なのか 何が必要なのか

私たちは、同じ時代に宣教と牧会の務めに生きるものとして、互いにこの管理抑圧的評価社 会という仕組みから解放され、真の福音に与り、確かな支援的関係を構築し実践していくことが必要なのだと思う。牧師も信徒も現実社会に、共に生きることの本当の喜びを味わえるよう に、自らのうちに信仰を息づかせるスピリチュアルワークが求められる。

もちろん、そうしたことがなかなか実現できないこの今の私たちの只中においてだって、神は働かれる。神の牧会はどんなときでも起こるはずであり、拙い私たちの働きや交わりにおいてただって間違いなく福音は働いている。

しかし、私たちの内なる暗闇に必要な助けを互いに差し出し合える関係を作ることが必要なのだ。霊的にも、神学的にも、実践的にも豊かなものを作り合えるそのような交わりを私たちが始められるかが問われている。そのことが、教会の宣教と牧会をこれからの社会に対して意味のあるものとするのではないか。

2023-07-03

臨床牧会セミナー「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」2

基調講演②



2.牧師の抱える現代の「暗闇」

私たちの経験している暗闇とは一体何か。 まず一つには現代の「生きづらさ」からくる問題の深刻さがある。2000 年代になってもたらされた急速な社会変化は、人間関係のあり方を変えてきた。成果と生産性が求められる評価社会は格差を作り、あらゆるところで余裕をなくし、人間関係を引き裂き、とりわけ社会的弱者に皺寄せがきている。虐待、DV、ハラスメント、差別やいじめなど、教会の中では屈折した在り方で隠されてきたかもしれないが、夫婦、親子といった諸関係が破綻していることも決して珍しいことではない。

牧会において、私たちはこれらの複雑で深刻 な問題に出会い、簡単には解決することのないままに抱え続けることになる。そしてこのよう なケースでは心理、福祉、法律、あるいは警察 といった外部機関の支援や連携が不可欠となってくる。重い課題に対しては、相応しい専門職との協働が必要なことは間違いない。

では、こうした現代の暗闇に関わる牧師職の 専門性とは何か。この現実に切り込んでいく 「神学」が十分に熟成されていないことが二つ目の問題として見えてくる。たとえば、性や結婚、家族という問題について、現代の多様性に向き合うための神学的な言葉を十分に持っているだろうか。日々格闘している牧会の現実、その諸課題を分析し、実践を批判的に検証し、そして再構築していくための神学が弱いのだ。 「ジェンダー・ジャスティス」とか「ポリティカル・コレクトネス」といった言葉が世俗/一般社会を組み替えていく言葉として力を持っているのに比して、具体的に今の私たちの教会や信仰の実践を問い、また支える神学の言葉が熟成されてきていないように思われる。

さらに言うならば、この神学の貧困ともいうべきその根底のところで、そもそも「暗闇」に生きる信仰そのものが問われている。これが三つ目の問題である。つまり、なぜキリスト教信仰なのか。それは、今の世界を生きることの中にどのような役割や意味を持っているのか。過去においては、先進的欧米の文化や人権・民主主義などの価値の源泉としてキリスト教が求められたかもしれないし、禁欲や他者への奉仕を謳う敬虔主義が意味をもっていたかもしれない。しかし、二つの世界大戦のみならず、環境問題、ジェンダー、人種差別の問題、植民地主義の問題などにおいて保守的役割さえも果たしてきた欧米のキリスト教は 20 世紀後半からその責任が問われ、限界性も指摘されてきた。 日本はそもそもプルーラリズム (多元主義世界だからキリスト教信仰はすわりが悪いが、改めて「信仰の権利問題」を実感してきているのではないか。

本来は、私たちの実感しているこれらの課題に、聖書もキリスト教の伝統もしっかりと向かい合う力があるのだが、それを受け取るスピリチュアルワークとしての信仰生活、教会生活が十分に営まれていない。

以上、私たちの「暗闇」の実情を三つの視点で考えてみた。

2023-07-01

臨床牧会セミナー「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」

 2015年の第一回から隔年で開催してきた臨床牧会セミナーも今期で5回を数える。今年のテーマは「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」とした。

その全体について報告はDPCニュースレター10号に載っているのでぜひご覧いただきたい。そして、そこに掲載されてもいるのだけれど、このセミナーでさせていただいた基調講演を、ここに直接読めるように転載をさせていただこう。長いので3回に分けて、転載したい。少し考察したものなど、それぞれに加えたり、修正をしたいと思っているところもある。とはいえ、新しいものではないので、ニュースレターでご覧いただいていれば、それに越したことはない。

また、当日の発表時にはレジュメのみを用意して語ることはなかった第二部がある。それについては、この連載の後にできる限り文字化してみようとも思っている。これは、全く新しいものとなるので、合わせて読んでいただけると嬉しい。

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基調講演:「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」

「光あるうちに光の中を歩め」。けれども現実は厳しい。牧会者として立たされながらも、 牧師自身が深い闇の中で立ちすくみ、助けを必要としていることを思う。他教派でも私たちの教会・教団でも、牧師たちがさまざまな理由から一時的に牧会の現場を離れざるを得なくなったり、退職となったりするケースも見られる。一律に語ることはできないが、宣教・牧会の現場の厳しさを思い、その「暗闇」を考えたい。

 

1.「暗闇の中」の牧会者〜教会の現実

私たちが宣教の務めに召されていること。それは、神の福音を宣べ伝え、分かち合うために 他ならない。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ 1:5)と言われるとおり、牧会とはこの世の普遍的な「暗闇の中」において光を灯す務めである。すなわち、牧会者は私たちの罪や悪の現実に向かい合う者である限り「暗闇の中」にあるのは当然のことなのだ。宣教も牧会も、その働きは神ご自身の御業であり、私たちはその 神の働きに用いられ、またその業に共に与るものである。どんなにその闇が深くとも、牧師は神の牧会を目の当たりにし、その証人とされていく。その意味で、暗闇の中にあったとしても、本来、牧会者ほど恵まれた者はない。

ところが、近年私たち牧師・教会を巡る状況は大きく変化してきていて、その闇が一段と深くなってきているのではないかと思う。たとえば、1990 年にはまだ牧師・宣教師の数は教会の数に比して多かったが、今では 3 分の2にとどまっている。このような牧師数の急激な減少のため、牧師たちは全国どこにおいても兼任・兼牧が避けられない。それによって牧会そのものが深刻な危機の中に立たされている。私たちは日曜日の礼拝と諸活動の中での関わりの中で牧会のために必要な情報を得たり、訪問に備えたりするのだが、多忙さはそれを妨げている。

加えて、年にも及んだCOVID-19 の影響は、それぞれの教会での活動、とりわけ食事を伴う交わりを失わせ、教会員の相互牧会の機会を減少させた。牧師は信徒の霊的ニーズをなかなか把握できず、そもそも距離を置くことが求められて、訪問は病院、施設、家庭を問わず困難になった。牧師と信徒が共に与る神の牧会そのものが成立しづらくなってしまったのである。

これは、確かに感染症による特別事態なのだが、同時に現代の私たちの生の現実が露わになっているということかもしれない。

今日「孤立する私」が常態化して、本来あるべき教会の「交わり」が成り立たず、信頼どころか関係そのものが失われている。もちろん、 それぞれの地域の各教会ではこれまでどおりの小さな教会の群れが守られており、そこで長く積み重ねられてきた関係は強固に私たちを 結び合わせている。けれど、決して新しい関係は切り結べないままにその交わりは次第に小さくなっていく。長くそれを担ってきた人たちがかろうじて活動を継続しているというのが実情で、世代交代は難しいし、新しい来会者はそれを担っていくほどには教会の交わりにコ ミットできず、おそらく期待もできない。

私たちがこの 3 年間に教会を守るために手にしたリモート/オンラインという手段は、ある意味で個々の信徒・求道者のニーズに応えていくものとなったかもしれないが、この「孤立する私」の現実を打破できたとは言えず、むしろ ますますそれが既成事実となってしまっているのかもしれない。

教会のこの現実は、そこで営まれる牧会の深刻さ、困難さとなっているわけだ。これが今の社会の闇の深さということかと思う。



                                                                                                                        2は次回に転載する。