2016-09-28

『幸いのために』(2016年 ルーテル学院創立記念礼拝 説教)

         貧しい人々は、幸いである、
          神の国はあなたがたのものである。
         今飢えている人々は、幸いである、
          あなたがたは満たされる。
         今泣いている人々は、幸いである、 
          あなたがたは笑うようになる。   (ルカ6:20・21)


 ルカ福音書の中にあるイエス様のことばです。二千年前のユダヤ社会でのことですけれども、そこにはたくさんの貧しい人々があり、生きていくために苦しみや哀しみを抱えている人たちが大勢居ました。一方では裕福で、そして安全・安心で宗教的にも社会的にも立派な人たちが居たのですけれど、それは、本当に一握りの特権的な人たちでしたでしょう。そういう人たちだけが神様の祝福を得ていて、他の人はそれには値しない人たち、だからこんなに苦しみがあるのだと差別されていたような時代です。
 その時に、イエス様はその目の前にいる、一人ひとりが神様の祝福、幸いのなかにあるのだと宣言される。慰められ、癒されて、あなたこそが喜びの神の国にある。そうあるべきだから、そうなのだと宣言されるのです。

 イエス様による、神様からの「幸い」への宣言、約束は、神様の国が実現する時にそこでかなえられることの確かさの故に、まだその実現を今目の前に見ていなくとも、その喜びが生き生きと私を変えていく。ルター研・所長の鈴木浩先生流にいえば、一億円の宝くじ、当選したならそのくじを見て、まだ銀行にいって受け取っていなければそのくじはただの紙切れですけれど、1億円が確かに自分のものだともうわくわく大喜びするでしょう。銀行と紙切れが保証する、すぐ無くなるかもしれない一億円ではなく、確かな「幸い」をくださるのは神様で、イエス様のことばがそれを保証するわけですから、こんなに確かな喜びはない。そういう祝福が宣言されているわけです。
 その「幸い」は確かに約束されている。
 けれども、今すぐにはここにないということも確かでしょう。哀しみも苦しみもその現実がそこにある。それなら、その「幸い」をこの時にもなんとかして、その一人ひとりに実現していこうと神様のみ業に仕えるようにする。それが宣教の働きです。神様の約束のことばを告げ知らせる教会や牧師の働きとともに、社会福祉の働きというのは、その「幸い」を具体的に保証していこうという一つの働きだといってよいでしょう。
 
  今からちょうど40年前、1976年に本学は大きな決断を形にしました。それは、それまで神学大学、神学校としてルーテル教会の牧師を育てるというその学校の教育・研究において、「社会福祉」の働き人を育てることを使命として、はっきりと位置づけたことでした。神学部、神学科の中に「キリスト教社会福祉コース」が誕生しました。
 社会福祉は、ルーテル教会がこの日本に伝道をはじめた当初から、教会の大切な働きの一つとしてきたものでした。1919年にモード・パウラスという女性宣教師の働きによって九州熊本の地に慈愛園がたてられ、高齢者やさまざまな生活の困難を抱える人たちへの社会的支援をつくっていきます。その後各地で老人ホーム、母子寮や保育施設、障がい者の施設などが、教会や信徒の働きによって産み出されていったのです。ですから、その現場にその働き人を送り出すことは、当然に考えられたことだったと言ってよいでしょうし、それぞれの現場で人材は求められてきたのです。そうした思いに応えるようにして、この大学は福祉教育をはじめます。

 本学の百年史に、実は、このキリスト教社会福祉コースをつくり、やがて社会福祉学科を立ち上げていったこと、また、キリスト教とカウンセリングコースから臨床心理の教育を産み出していった近年の取り組みが記録されています。まとめられた江藤直純学長が、その時代を記した項目のタイトルは、「人間の『幸い』のための教育への展開」です。
 イエス・キリストが、さまざまな困難を生きる人々に、あなたがたは「幸い」と宣言された。神様によって造られ、いのちを与えられた一人ひとりが、その神様の約束される「幸い」に生きるのは、当然のこと。それが、この世界の中で確かに実現されるための教育をここに展開をしているのだと思う。

 1976年に入学した、キリスト教社会福祉コース第一期生は11名。全員がいずれかの教会の牧師先生の推薦をもらって、当時の日本ルーテル神学大学に福祉を学びたいとやってきた学生たちでした。ズラッと並ぶ神学、キリスト教の科目も神学生と一緒に机を並べて履修しなければならないということもありました。聖書もいいけれど、社会福祉をちゃんと学びたいという強い思いや、逆にキリスト教にしっかりとたったところで福祉を教えてほしいとか、学生たちもそれぞれに自分たちの思いをぶつけ、教員も真剣にそうした学生と議論を交わしながら、一つひとつつくられていった社会福祉の人材教育でした。
 
 先日の一日神学校でもこの福祉教育40周年を記念し、感謝の企画がございました。キリスト教社会福祉コース草創期から牽引してくださった前田ケイ名誉教授をはじめ歴代の福祉のコース主任、学科長の先生方に市川一宏先生がお尋ねくださるようにして、本学社会福祉教育の使命とまたその課題、そして展望をお話くださったのです。

 そのなかで、なによりも印象に残りましたのは、やはり、教会が先駆的に取り組み、支えてきた社会福祉の中で、その専門性を高めるために福祉の現場に即した実践力をつける教育を担ってきたという自負があふれていることでした。そして、もう一つは、私たちの福祉教育は、キリスト教に基づいた全人的・包括的な人間理解を軸にして、個人を尊重し、一人ひとりを大切にするワーカーをたくさん送り出してきたし、卒業生が本当にそれぞれの現場・地域で確かな福祉の担い手となってくださってきたということへの感謝の思いでありました。

 「キリスト教に基づいた福祉」というと、それは、なにか特別な宗教的動機や義務感のようなものがあるのかと誤解されるかも知れないし、慈善事業だとかキリスト教の偽善じゃないかと揶揄されるということもあったので、あまり強調することははばかれるといわれたこともあります。しかし、やはり本学では、一貫して、私たちはこのチャペルで、学生も教職員も神様のみことばによって支えられ、導かれてきたと思っています。
 私たちが社会福祉の教育や、臨床心理の教育をするのは、もちろん、学生の皆さんがそういう専門を身につけて、将来に羽ばたいていってほしいとねがっているということであります。けれども、その働きを担う人材をおくりだすことは、この世界で、たくさんの人々が苦しみ、悩み、生きるいのちの尊厳が奪われているという現実のなか、その一人ひとりに「幸い」を実現していかなければならないという使命を思うからです。
 二ヶ月前に相模原の障害者の施設で、決してあってはならない事件で、何人もの尊い命が奪われました。世界を見れば内戦で、また飢餓や迫害で、大きな災害で、今もいのちに危険が迫っている。そういう現実がある。そのなかに、神の幸いの宣言と、そしてそのことの実現を是非とも伝え、守っていかなくてはならないのです。
 この使命を託される私たち自身も、たくさんの悩みや哀しみを抱えている存在でもあります。だからこそ、このチャペルにおいて、生きることの本当の支え、神に愛されているという確かさに私たちも出会い、そのみことばの慰めと力に満たされていたいと思う。そうして、私たちに与えられたこの使命を高く掲げて、神の祝福、「幸い」のために、それぞれの歩みを進めていきたいと思うのです。 アーメン。

2016-09-22

「このひとりを」(2016年度 一日神学校 開会礼拝説教)

今年4月、熊本で大きな地震が起こりました。熊本は107年前、この神学校がはじめられた場所、多くのルーテル教会があり、九州学院と九州ルーテル学院の二つの学校もあります。慈愛園をはじめたくさんの福祉施設がある。私たちルーテルの者にとっては特別なところだと言ってよいのです。
 大きな揺れに、本棚から、戸棚から物が崩れ落ちて、ひどい状況になってしまったのをなんとか片付けていた矢先に二度目の激しい揺れが未明におこります。まるで床下から身体を突き上げられるようだったと、多くの方々がいわれます。この本震が本当に深刻な被害を生むことになりました。皆さんのご存知のとおりです。
 そんな中で、私たちルーテル関係の教会、学校、施設は、それぞれ被災しながらも、直後から近隣の人々の避難や生活の支援の働きを担うことになりました。どうしていいかわからない人たちが家から飛び出してきて、すこしでも安心できる場所、足りない物資を求めてくる。その人々を、教会や施設は自然な形で受け止めていくことになったでしょう。
 口でいうのは簡単ですけれども、腹をくくらねば実現していかない。
 自主的避難所となった健軍教会では、礼拝堂に4〜50名の方々をうけいれました。牧師は役員と相談しながら、一つひとつ教会の取り組みとして決断としていかれました。相談をうけた教会の方は、「先生、やりましょう」と二つ返事だったそうです。節目節目に新しい取り組みをされるとき、「これをやらないでいる理由は無いですよね」といってひきうけられていく。ご自身も被災されている中、そうして、二か月、三か月にわたって三度の食事を提供し避難所、炊き出しが続けられ、困難を抱えている人たちと共に生きる実践がなされてきました。「やりましょう」「やらないでいる理由は無いですね」って。

 ここには、神の愛に生かされた信仰が本当に確かな形になっていく姿を見ることが出来るように思う。そして、きっと、これまでルーテル教会が産み出してきた福祉の働きも同じように、その時々に、困難を抱えている人たちを目の前に、このひとりを助けたい、支援したいという思いが形になっていったということだろう。東京老人ホームもベタニアの母子寮もあの関東大震災後の支援から生まれていったのです。
 お読みいただいた箇所。イエス様が十字架におかかりになられる前、最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗う場面で語られた言葉です。

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネ13:14)

足を洗うということは、当時のイスラエルでは奴隷の仕事です。弟子たちは、驚いたことでしょう。なぜ、主が足をあらってくださるのか。けれど主はご自身で身を低くして、私の歩みのその足下を清めてくださったのです。疲れているこの足、汚れているこの足を手に取って、愛おしむように洗いぬぐってくださる。イエス様は繰り返し、神が私たちを愛し、生かしてくださる恵みを教え、実際に人を愛するべきこと、仕えるべきことを教えてくださいました。しかし、今こうして、具体的な姿をもって、実際にイエス様が弟子の足を洗うということをなさって、弟子たちとの関係を新しく刻まれました。弟子たちは、頭のなかに愛についての教えや考えをいただくのではなく、身体をもって、何をすべきか、その実践の力をいただいたのです。
 同じように、私たち一人ひとりはイエス様によって愛されて、そのみ手に抱かれ、生かされます。この一人を愛してくださる。愛された私たちの経験が、感謝となって、私たちは新しく生かされ、だれかを愛していく実践となる。
 ルーテル教会が大切にしてきたことは、おそらくこの実践の力ではないかと思う。1893年に宣教をはじめる日本のルーテル教会は、ただ教会をつくってきただけではありません。学校を建て、社会福祉の働きを広げていきます。神の愛に生かされた感謝が、奉仕を産み出していくことを、一つひとつ大切に育ててきたのです。

 今年、私たちルーテル学院は福祉教育をはじめて40年目を迎えています。この大学が福祉の働き人を現場に送り出すことを使命としてきたのは、キリストが弟子の足を洗う、その姿をいただいたからといっても良いでしょう。神さまの私たちに対する愛は、私たちを新しく生かしはじめるのです。とるに足りない私たちの存在を主が慈しみ愛してくださった。そこに私たちの感謝と奉仕が生まれてくる。だから、この大学の福祉教育では、このチャペルを通して神の愛を伝え、一人ひとりを大切にする人材教育として、それぞれの現場で、社会で、実践力をもってこの一人を愛する神の働きに仕えていくような働き人を送り出してきたと思う。そのような教育の場が与えられ、40年導かれてきたことを心から感謝をもって喜びたいのです。

 今日は、このチャペルにパイプオルガンが与えられ、共にその音色の中で神様の愛を受け取っていただけていると思います。後で、詳しくご紹介いただくことですが、このパイプオルガンも、一人の信仰者が御自分の人生に神の愛をいただいたことへの深い感謝をあらわされ、その恵みに導いてくれたルーテル教会、その牧師を育てる本学のチャペルへ是非オルガンをと捧げられたものに、多くの人々が賛同して形になったものです。
 
 神の愛に対する感謝は具体的な形になり、また次の人々に神様の愛を伝え、そうして感謝と愛が広がっていく。小さな一人一人の力が合わせられていくのです。その一つの形がこのオルガン。私たちは、その証人となっていますし、その広がりの輪に加えられているのです。

 健軍教会に避難をされていた方達は、それぞれに自立されてそこから旅立っていかれたそうですが、最後までなかなか行き先が決まらなかった人たちは、介護の必要な高齢者、障がい者、心の病を負った人、外国人だったといわれました。社会的弱者の人たちです。日本の社会のなかに埋もれている人たちがあるのです。教会が、そして、私たちが、誰と共に生きるか、誰のために働くか。そのことを改めて教えられているように思う。そして、「このひとりを」主は決してお見捨てになることはありません。だから、私たちもその主の働きの中に、生かされていきたいのです。そして、そのための働き人を育てたい。
 
 この神学校・大学がたてられ、教育を託され、こうして福祉の40年があり、またパイプオルガンを与えられた感謝を思うとき。ルーテル学院の使命を改めて皆さんと共に心におくことができ、本当にうれしく思います。
 どうぞ今日一日、この一日神学校において、この神の恵みを皆さん分かち合っていただければと思います。そして、私たち一人ひとりが、「やりましょう」「これをやらない理由はないですね」と、主の呼び掛けに応えていくものとなりたい。神の愛への感謝を生きて現していく者となっていきたいと思うのです。

2016-09-17

子どものためのグリーフ・サポート・グループ ファシリテーター研修会

 デール・パストラル・センターでは、「だいじな人をなくした子ども」と「だいじな人をなくした子どもの保護者」の集まりを主催しています。

(絵本「くまとやまねこ」(酒井駒子絵)から)

 大切な家族の一人を失うことは、生活も、心も、そして魂も大きく揺さぶられます。もちろん、それは大人も子どもも同じです。その哀しみ、喪失の深い空虚感、死についての恐れや不安などが癒され、大切な自分の一部が失われたような状況を、新しい自分として受け止め生きるには時間が必要なのです。そして、きっと静かにその自分をあらわして、受け止めてもらうことができたなら、新しい自分を生きていくための力になるでしょう。
 グリーフケア、悲嘆の癒しのための、このあつまりでは、子どもとは遊びを通して、その保護者の方とは語り合うことを通して、死を悼む自分に向き合う時間を持っています。
 その時間を提供するためのファシリテーター(その時間を過ごせるように準備し、共にその時を過ごす支援者)が足りません。そのために、少しその大切な働きを知っていただきながら、その働きを共に担ってくださる方を、研修によって育てていきたいと思っています。

そのための研修会のご案内です。(文責:石居)

研修日時:2016年10月22日(土) ・10月29日(土)10:00~17:00
会  場:ルーテル学院大学203教室
対象者 :定員10名
参加条件:①及び②が研修の参加条件となります。
①18~55歳までの方で、子どもに寄り添う活動に参加する気力と体力をお持ちの方。
②2日間の研修すべてに参加でき、グリーフ サポート活動(奇数月第4土曜日、年6回)に
関心のある方(この活動に加わっていただくときには、交通費が支給されます)。

*研修後に実践活動(子どもの集まり)参加希望者には面接(一人10分程度)を行います。

研修内容:
1日目
自らの喪失に気づく。
グリーフワークに関する基礎知識、子どもの死の理解と表現のし方等。

2日目
子どもと接するための大切な技法とその練習。
   
研修担当:
ダギーセンターモデルの研修を受けたグリーフサポート研究会のメンバーが行います。

参加費 : 5000円 (学生:1500円)  *当日、受付にてお支払ください。

当日の持ち物:筆記用具、昼食や飲み物を各自持参。動きやすい服装でおいでください。

問い合わせ先:atsumari.g.7830@softbank.ne.jp
申込先:
ルーテル学院大学事務管理センター内「グリーフ サポート研究会」メールボックス
又はatsumari.g.7830@softbank.ne.jpへ下記の内容をお届けください。こちらから、ご連絡いたします。

締め切り日:2016年10月8日  *締め切り後に担当者よりご連絡いたします。

                              日本ルーテル神学校 
                              校長  石居 基夫

http://www.luther.ac.jp/news/160920/index.html

2016-09-09

ルター研究所 秋の講演会 2016

 今年も、ルター研究所主催で講演会が計画されている。
 宗教改革500年を控えて毎年一回、五回連続でシリーズ化した「宗教改革500周年と私たち」の第四回目。今年のテーマは『キリスト者の自由」だ。ルターの数ある著作の中でも最も多く読まれているものの一つといえるだろう。1520年に書かれ、宗教改革的信仰の神髄を著したもの。現代の私たちは、この書をどう読むのか。
6月に行われた牧師のためのルターセミナーで、研究発表した所員のなかから、今回は二人が選ばれている。ルターの信仰的な格闘を、現代の脈絡のなかで味わいたい。
 どなたも歓迎!是非、おいでください。




ルーテル学院大学・ルター研究所主催
秋の講演会 シリーズ「宗教改革500周年とわたしたち」第四回
テーマ:キリスト者の自由

日時:2016年11月13日(日)14:00〜
場所:日本福音ルーテルむさしの教会
    (東京都杉並区下井草1−16−7、JR中央線阿佐ヶ谷駅下車)
入場無料

講演:1.「だれにも服さない自由な主人であると同時に、だれにでも服す僕」
                  講演者:鈴木浩所長
   2.「『キリスト者の自由』における悪の問題〜現代社会に生きる魂の問い」
                  講演者:石居基夫所員


 現代日本に生きる多くの人たちは、もしかしたら、日常の生活においてなにも不自由のない「自由さ」を生きているように見える。生活のあらゆるニーズにはコンビニエントな充足があるのだ。ここ十年で誰もが手にすることとなったITのネットワークは、私たちが時も場所も超越し、あらゆる隔てを乗り越えて結び合い「自由」な往き来を可能にしたかに見える。
 しかし、そこに本当の自由はあるのか。
 ルターがあの中世の末に生きた。それまでの世界がガラガラと変化していくなか、過去の因襲から解放されていく。それは、しかし同時に生きる個(孤)として世界に投げ出されていくということでもあった。一方では確かな自由の予感を感じながら、しかし、同時に他方本当の自分を見つめて恐怖に捉えられたその深い魂の問いを生きざるを得なかった。
 そうであれば、その時に、「キリスト者である」というただその一点において「自由」を語ったことの意味を、現代のなかに捉え直すことに意味があるのではないか。
 そんな問題意識をまとめてみたい。

一日神学校2016『感謝から奉仕へ〜愛はとなりびとに』

今年の一日神学校は、9月22日。



例年は23日に行われるが、今年は秋分の日の祝日が22日なので、それに合わせた日程。

テーマは、感謝から奉仕へ。

(全体のプログラムは、以下のアドレスにアクセスしてください。)
http://www.luther.ac.jp/news/160721/index.html

今年、私たちルーテル学院、大学と神学校は、宗教改革500年を来年に控えそれを前祝いするように、大きな喜びと感謝に満たされています。
 一つはこの学校の社会福祉教育が40年の歩みを重ねてきたことです。1987年に牧師養成のための神学大学・神学校に新しいキリスト教社会福祉コースが誕生しました。ルーテル教会は日本の地に宣教をはじめた時から教会とともに教育と福祉の働きを各地に作ってきました。神様が私たちすべてを愛し、生かされる福音を具体的にこの世において展開していくための教会の使命でありました。だからこそ、本学においても、牧師の養成ということに加え、福祉の分野に専門性と実践力を持つ人材を育て、送り出すことをその一つの使命としたのです。その歩みが40年。主に導かれてきたこと、すばらしい卒業生を送り出して来られたことを感謝したいのです。
 もう一つは、本学のチャペルに新しいパイプオルガンが与えられたことです。これは、あるひとりの信徒の方が、音楽教師としてお働きになられたご自分の生涯に神様の愛をいただいたこと、その恵みの導きをルーテル教会を通して与えられたことに感謝して、オルガンのためにと大きな献金を本学にいただいたことがはじまりです。その思いに本学の後援会が賛同して全国の教会の皆さんからもお捧げをいただいて実現いたしました。これまでのオルガンは古くなって修理もままならなくなってきておりましたので、この新しいオルガンが与えられたましたことは本当に大きな喜び、感謝に絶えないことです。
 今年の「一日神学校」は、この恵みをいただいてきたことに、まず深い感謝を表したいのです。そして、そこから新たに私たちの使命を確認して、神と世に奉仕する働き人を送り出していきたいのです。神様のみ業は、私たち一人ひとりに大きな愛を注いでくださいます。その恵みが私たちに働いて、新しい奉仕の業がうみ出されてくるのです。
 今年も、どうぞ、この一日神学校においでください。