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2024-02-24

第58回教職神学セミナー「キリストを伝えるーキリスト教と公共世界」




ルーテルの「教職神学セミナー」がこの2月13日、14日と4年ぶりに対面で行われた。会場はルーテル市ヶ谷センター会議室。ウイルス禍前は2泊3日はとって、ゆっくりと学びと交わりを深めたが、今回は久しぶりの対面ということで1泊2日の集中プログラムとなった。





テーマは「キリストを伝えるーキリスト教と公共世界」。

私は基調講演「ルターと公共世界」を担当させていただき、前座としてセミナー全体のイントロダクションをさせていただいた。

そして続いて、ゲストスピーカーにお招きした福嶋揚先生から特別講演「資本新世のキリスト教〜資本主義の神学」をいただいた。福嶋先生のお話は、ご自身もおっしゃっていらしたが、かなり大胆でラディカルなプレゼンテーションであったと思う。現在の資本主義世界の先をどのように私たちの未来として描いていくのかということに関わって刺激的な問題提起をいただいた。福嶋先生の講演についても改めて私なりの受け止めと感想をのちに記したい。

2日目は盛り沢山でまず李明生先生に説教者のための聖書研究ということで「隣人愛が向かう先はどこか -新約諸文書から-」で講演、また現場からということで白川道生先生に特別講演➁「今、ここにある公共性~教会に顕在する、公の場~」、そして最後は宮本新先生「公共世界における宣教~カサノヴァの公共宗教論を手掛かりに」という講演でまとめをしていただいた。


とりあえず、私がお話しした「ルターと公共世界」のレジュメを以下に置いておく。

大きく4つのまとまりで限定したお話をしたので、できれば今後このブログで、それぞれでお話ししたポイントをまとめ、また時間の関係で話すことができなかったことを補って私自身のこのテーマでの学びを整理しておきたいと思うが、ここではレジュメのみ。


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2024・02・13                                                                            ルーテル 教職神学セミナー

ルターと公共世界

日本ルーテル神学校 石居基夫

1.  はじめに

(1)公共世界とは

公共(Public)⇔ 私事(Private) ← 近代・市民社会の形成とともに

他者と共に生きる領域 全構成員の共通の関心と課題、基本的人権、

他者性、多様性、差異性、中立性、公平性、自由、民主主義 ☞ 福祉

 

(2)神学の射程として

「公共」の神学 「公共」のために 「公共」を問う cf.稲垣

教会も信仰者も日常的に生きている基盤としての「公共世界」の問題

国家の支配、資本主義経済の世界支配(グローバリズム)による「公共」の危機

危機をもたらす「力」の持つ宗教性(偶像・マモン)を問題として

   

 

2. 私たちの問題

(1)ルーテルの包括的宣教における「公共」

教会における伝道と共に、幼保、教育、福祉の働きを展開 

ルーテル学院←「神の民」育成、福祉・心理の対人援助へ

法人会連合⇔各法人の将来に向けて ルーサラン・キリスト教主義とは

 

(2)公共世界に向けて

戦争と平和、宗教と国家(靖国、天皇制)←20世紀後半の課題

被災地支援、臨床宗教師、スピリチュアルケア←21世紀、とりわけ3・11以後に

原発、沖縄、多様性、生命倫理、環境倫理 

 

 

3.ルター

(1)神の二様の支配と悪魔的勢力との戦い  cf. U. ドゥフロウ

    律法:(神の左手の支配、世俗的支配、国家)

       この世の平和、正義、公平を実現する⇔  悪魔的諸力 

                         (罪、悪魔、死、律法・神の怒り)

   福音: (神の右手の支配、霊的支配、教会)   

         キリストの義が与えられ、赦しに生かされる

 

 

 

(2)神の世俗的支配における「三つの機関(秩序と立場)」 社会教説 cf. 倉松功

   国家(politia):教会(ecclesia):家政(oikonomia)

   すべてのキリスト者がそれぞれの秩序に立場をもち、召命(ベルーフ)を生きる

  教会はみことばによって預言者的に参与し、また具体的な奉仕者を派遣する

 

(3)全信徒祭司と協働

   すべての信仰者が神の御業への参与・協働に生きる

   創造の業 他者と共に生きる世界、必要な物、関係 ← 「小教理問答」使徒信条

   救済の業 隣人への奉仕(ディアコニア) ← 「キリスト者の自由と奉仕」

 

 

4.近代以降の枠組みから新しいカタチを描くために

(1)近代市民社会の形成と公共 の中でのキリスト教信仰

   宗教改革以後のキリスト教的一体世界の崩壊 

  近代国家は多様な信仰の共存を内包する⇔信仰は私的領域へ

  市民革命以後の市民による「公共社会」の自覚的形成と参与

 

(2)国家と資本主義の支配

   現代における国家と地域社会の「公共性」との矛盾 

   自由と平等の相剋、格差と犠牲の必然、

   産業革命後の資本主義経済の圧倒的支配

⇔人間性疎外と自然の搾取の論理

 

(3)現代日本の中で

   19世紀敬虔主義における宗教的個人主義をいかに超克するか。

     →ドイツ敬虔主義の脈絡におけるディアコニア運動の形成の批判的検証

     (シュペーナー、フランケ、ツィンツェンドルフ、ビュヘルン

       今日のいのちと尊厳、多様性を支え、ケアする営みを

神の恵の働きの中にもう一度捉えなおす

 

創造論と終末論のただなかで、救済論を軸にしながらも、包括的神学思考をする

  Politiaとoikonomiaの間に立つecclesiaの意味と可能性

  

            Cf.キリスト教自然神学の再考へ(稲垣久和、マクグラス、)

 

2021-10-28

ルター研究所 クリスマス講演会 「マグニフィカート」 

 ルター研究所の講演会企画のご案内。

例年秋に行ってきたルター研究所主催の講演会。

今年は 12月12日日曜日の午後1時から、オンラインでの開催を企画している。

内容は、ルターの「マグニフィカート」。ルターによって書き上げられたのが、1521年だったから、今年はちょうど。その500年の記念の年ということになる。

宗教改革500年を記念し、ルーテル教会とローマ・カトリック教会とはエキュメニカルな交わりと協働を一歩も二歩も踏み出したといって良いだろう。しかし、マリアについてのカトリック教会伝統の敬虔は、ルーテル教会にはなかなか受け止めにくい性格を持っている。実際、こうしたマリア信仰に象徴されるカトリック神学の構造こそ、ルターはじめ16世紀以後の改革者によって最もクリティカルに論じられたテーマそのものだ。ルターがいわゆる宗教改革的三代著作「キリスト者の自由」「教会のバビロン捕囚」そして「ドイツキリスト者貴族にあてて」を著したのが1520年。その1520年から執筆を始め、翌年、あの有名なウォルムスの国会を挟んであのワルとブルク城で仕上げたのが、この「マグニフィカート」。そこには、マリアの賛歌を丁寧に講解するルターの信仰が極めてよく表されている。




 ルターはマリア、特にこの「賛歌」をうたうマリアには深い慰めと力を受け取ったことと思われる。ただキリストによる救いのみに信頼を置き、本来のキリストの福音が揺らいで見えた当時の神学と教会的慣習に疑問を持って改革を呼びかけたルターであったが、当時の宗教的な権威からもまた世俗の権力からも否定され、自身の破門と帝国追放という厳しい状況の中で命の危険にさらされ、最も弱い者の一人として貶められていた。その窮状の只中で、ルターはマリアの信仰に深く自らを重ねていったことだろう。キリストを身籠るという思いもよらぬ出来事に、受け取らねばならなかったあらゆる非難と陵辱を覚悟し、命の危険にさらされることを覚悟しつつ、ただ、神の御心がこの身になりますようにと身籠った命を受け取ったこと。しかも、神の大いなる御業への信頼を歌うこの賛歌にルターが何を受け取っていったかが想像される。

しかし、そうであればこそ、改めて、「マリアとは誰であったか。いや誰であるのか」と問いかけつつ、そこに生きられるいのちの喜びと悲しみ、その叫びまた希望を賛歌として記録した聖書の世界を今一度深く問い返すべきなのかと思う。今だからこそ、私たち自身が「マグニフィカート」に聞く意味を深めたい。

限られた時間の中で、どのように深めることができるかわからないが、ぜひ、お聞きいただければと思う。

ルター研所長の江口再起氏による基調講演「待つということー現代世界とマリア」をお願いし、そのあと加藤拓未氏によるバッハの「マグニフィカート」紹介を挟んで、シンポジウムを行う。シンポジストは滝田浩之氏(「マグニフィカート紹介」)、多田哲氏(「ルターとマリア」)そして安田真由子氏(「聖書・女性・マリア」)を迎える。司会は私、石居基夫。


オンラインはzoomのウェビナーによる実施となるので、改めてURLなどはお知らせしたい。

乞うご期待


2021-08-09

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 6

6.   その他・実践の課題

実施においては各個教会の伝統を重んじてといわれる。ルター派的な穏健で緩やかな実践課題を示している。たとえば、小児倍餐の問題では、子どもがどのくらいの年齢に達したときに初陪餐を迎えるのかというきわめて実際的な課題であるが、これも一応の指針を出しつつ、地域教会の実情から出発するように配慮がなされている。ちょうど、ルターが一種陪餐から二種陪餐の適切性を論じつつも、実際の改革においては、急進的な方法を退けたことが思い起こされる。

また、この指針では、陪餐者のアルコール依存症やアレルギーなど困難がある場合の一種陪餐の可能性も述べている。(UMG44C,D)それを積極的にすすめているのでないにしろ、たとえ一種であっても不十分ではないことをはっきりと述べるのである。これも、ルターの二種陪餐の主張と方向は全く逆ではあるけれども、基本的にルターの考えに沿っているといってよい。[8]

しかし、同時にそのことが現場の中の単純な多様性ということで解決のつかない問題になってきていることも事実であろう。神学のひとりあるきではなく、実践と共に現場から発想する、もしくは現場を神学することが大事なことだと確認したい。



[8] ルター「キリストの聖なるからだ」著作集1集 1巻 636ページ

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 5

5.   宣教の働きへ

エキュメニカルなコンテキストがこの新しい指針において重要なものであると同時に、宣教のコンテキストが積極的に取り入れられていることはきわめて重要である。とりわけ、そのことをこの指針全体に、つまり、単に聖餐のみならず、みことばと洗礼と聖餐という恵みの手段全体にかかわっていることとして「第IV部 恵みの手段とキリスト教の宣教」という独立した項目をもって書かれているところには大きな意義がある。すなわち、みことばとサクラメントは、そこに集うキリスト者の集まりにおいて「神がその教会を宣教へと力づける」(UMG51)というのである。このことによって、神の恵みの手段がわたしたちを神ご自身の働きへと生かす目的を持つことを明瞭に示しているといえよう。

ここで、聖餐に限って読み取ってみると、次のようなことが言われていることは、聖餐のコイノーニアとしての性格を基礎としながら、さらに一歩踏み込んで、なにが課題となってくるのかということを大変鮮やかに浮き彫りにする。

 

聖晩餐はキリストの体と血によってわたしたちを養い、また、この地上で飢えに苦しんでいる人々があることにわたしたちの気づきを与えるのである。礼拝からの派遣は、感謝のうちに、わたしたちを、神の聖なる賜物においてわたしたちが見たものから、神が愛されたこの世へ仕えることへとわたしたちを送り出す。(UMG51A)

 

このサクラメントが、単にそこに集うものに対する恵みの手段であるということにとどまらず、その働きを通して、その恵みに与ったものたちをさらに巻き込みながら、神ご自身の宣教が力強く進んでいくように、世界に対する神の恵みの働きそのものであるということのようでさえある。

 さらに、この神の恵みの働きの聖餐に与る私たちがどのように生かされていくのかについて、この指針は次のように言う。

 

恵みの手段としての聖餐は、神が憐れみと罪の許しを与え、わたしたちの日々の務めとこの世における働きへと信仰を生み出し強めたもうメシアニックな祝宴が、神のこの世界すべてに実現される正義の日を望むようにわたしたちを駆り立て、そして、来るべき永遠の命への復活への確かなそして堅い希望を与えるものなのである。(UMG54)

 

 サクラメントに与るものが、この世の課題に心向けるように動機付けられ、そして、希望をもってその課題に生きていく新しい生への招きがこの聖餐の礼典の本質となっているのである。

 また、この礼典の終末論的視点が強調され、神の救いのみ業が、宇宙論的広がりを持ち、全被造物の救いがこの礼典において祝われ、また教えられていることが指摘されていることは興味深い(UMG54A)。こうした視点は、宗教改革の当時には十分に展開されたとはいえない側面であろう。しかし、現代のわたしたちが直面をしている深刻な問題にかかわって、この礼典のもつ包括的な救いの視点を明らかに示すことが意図されているのである。

 そして、この終末論的希望に基づいて、キリスト者一人ひとりが向き合っていくこの世の具体的な問題との取り組みを、ルターの著作を参照し、神の愛された世界の中に実現していく愛の交わりと具体的な分かち合いのコイノーニア的性格に基礎付けながら述べている(UMG54B)。この世のさまざまな問題や困難に対して、神の普遍的な恵みのみ業から生かされるキリスト者が「戦い、働き、いのり、そして、もしそれ以上にできないということであるとするならば、心からの共感をすべきである」ことが示されるのである。

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 4

4.   エキュメニカルな課題

すでに、アメリカのルーテル教会はカナダ・ルーテル教会、モラビア教会、アメリカ聖公会、改革派教会、およびキリスト合同教会とフル・コミュニオンの関係をもち、またカナダ合同教会、合同メソジスト教会とカトリック教会とエキュメニカルな対話をもっている。そうした実際のエキュメニカルな対話の成果と実践の中で、ユーカリスティック・ホスピタリティーの原則を明示している。 (UMG49)

さらに、他教会の聖餐への参加については次のように言う。 「キリスト教会の普遍的本質のゆえに、ルーテル教会員はキリスト教の他の教派の聖餐(感謝の祭儀)に参加してよい。」(UMG50)

つまり、このルター派の聖餐の実践は単に各個教会の場所において、キリストの恵みを受け取るということだけを示すのではない。むしろ、普遍的な教会の一致を示し、具体的に食卓の一致、フル・コミュニオンの聖餐の一致をエキュメニカルな対話のめざすところとして位置づけるのである。(UMG50A)

ここで重要なことは、聖餐のコイノーニア(交わり)の理解をはっきりと位置づけているところである(UMG36A)。

ルターは、とりわけその初期において「交わりとしての聖餐」の理解をもっていた[5]。この理解は、後期においてはやや後方に退いたといえるが、しかし、ルターからなくなってしまったものではない。その実際の交わりの姿が、この礼典に参与するものに具体的な恵みであるばかりではなく、また一つのしるし、約束、そして課題としてのコイノーニアを示すものとなるといってよいだろう。その点で、ここでコイノーニアとしての聖餐の性格を明らかにしていることはルター的な神学に基づいているということがいえる(UMG38C)。ちなみに、赤木氏によれば、カルヴァンの聖餐理解は、キリストを交わりにおいてみているが、ルターはキリストの現在を客体的・対象的に捕らえると比較している[6]が、その指摘は必ずしも妥当なものとは言いがたい。むしろ、キリストとの交わり、またすべての聖徒、キリスト者との交わりが聖餐の本質であることが考えられている。

このコイノーニアの理解こそ、エキュメニカルな教会の対話の中での聖餐の持つ課題をよく示しているといえよう。実際、WCCでは1993年サンチャゴ・デ・コンポステーラで開かれた、第5回信仰職制世界会議で、コイノニアがクローズアップされ論じられるようになったという。神田健次によれば、そこでは、およそ三つの側面が論じられているといっている。第一に聖餐の交わり、第二に、人間共同体が内包している差別や分断を克服する、コイノーニアの包括性。そして、第三に教派分裂を止揚する、相互陪餐の課題である[7]。キリストを中心とした教会の一致は、まさにキリストを分かち合い、そのからだとされた一人ひとりのキリスト者が確かにそれぞれに違いを認めつつも、必要な部分として尊重しあい、主の愛の証と実践を生きることなくしては、起こらないだろう。それだけに聖餐における一致を求める姿勢を明確に示していることは意義深いことだといえよう。

 



[5] ルター「キリストの聖なる真のからだの尊いサクラメントについて、及び兄弟団についての説教」第1集1巻 「結論するところ、このサクラメントの実は交わりと愛とであって、これによって私たちは死やいっさいの災難に対し力づけられるのである。この交わりは二様である。一つは、私たちがキリストおよびすべての聖徒たち≪との交わり≫にあずかることであり、いま一つは、すべてのキリスト者をして、いかなる方法においてであれ、彼らと私たちにできるかぎり、私たち≪との交わり≫にあずからしめることである。こうして、自分自身の利己的な愛はこのサクラメントによって根だやしされ、あらゆる人間の共通の利益となる愛を導入することになる。こうしてまた、この愛の変化によって一つのパン、一つの飲み物、一つのからだ、一つの共同体ができるのである。これがキリスト教における兄弟としての真の一致である。」657ページ。

[6]赤木善光『宗教改革者の聖餐論』教文官 2005年 102ページ

[7] 神田健次『現代の聖餐論:エキュメニカル運動の軌跡から』 日本基督教団出版 1997年271-274ページ

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 3

 

3.   信仰によって受け取る

ルターは、聖餐論の展開のなかで、キリストの現在をとりわけその物質的な要素と結びついた見えるみことばの客観性として論じているのだが、同時に、これが執行され、あるいはそれを受けるという行為によって自動的に救いへの効力となるような事項的効力を否定している。これは、中世の私唱ミサに見られるように、司祭がミサを捧げる行為そのものが功績として救いに役立つものとする考えに反対したものである。このサクラメントは、信仰において一人ひとりに受け取られなければならないのである[4]。

この「恵みの手段の用い方」の実践指針においては、聖餐が洗礼を受けたものがその信仰において受け取られるということをはっきりと述べている(UMG37)。具体的には、聖餐に与ることを堅信と結びつけてきた教会の実践を改めたことを確認し、小児陪餐を奨励する実践的課題を見ているといえよう。ただ、その場合に、洗礼を受けたことが自動的に聖餐をうけるということにならないように、注意を喚起している。つまり、聖餐は、その年齢に応じた聖餐の理解をもって受け取ることが必要ということである。もちろん、聖餐が形式ばかりになるのと同様に、信仰が単なる知的な承認となることも避けられなければならない。ただ、信仰がその聖餐のうちに与えられる神の賜物に対する信頼を表すことがなければならない(UMG37F)。そのための教育的な取り組みを強調する。洗礼前の準備教育で、聖餐についても教えられるべきであることを明言している(UMG37A)。また、嬰児や子どもが洗礼を受けた場合、保護者と洗礼親にその教育にかかわる責任があることを語る(UMG37E)。

こうした実際の意図とは別に、たとえば未受洗者に陪餐するといった、日本の一部のプロテスタント教会で実践されている問題に対し、この洗礼を受けた者への陪餐の原則ははっきりとした指針であることは間違いない。

また、日本の現状とも重ねて考えるべきもうひとつの問題として、未受洗者に対する言及は極めて実践上の配慮に満ちている。

 

もし、未受洗の者がキリストの現在を求めて聖卓へ進み出て、誤って配餐を受けた場合、その人物もまた牧師も恥をかくことのないようにすべきである。むしろ、キリストの愛と憐れみの賜物がほめたたえられるのである。そして、本人が教会の信仰を学び、洗礼を受け、その後に信仰において聖餐に与るように招かれる。(UMG37G)

 

アメリカのルーテル教会において、さまざまな文化・宗教の伝統を背景にした人々への配慮が重要になっている現状を反映し、こうした初めて教会に来た人々への対応を配慮したことが明文化されたことは意義深い。日本のような宣教地では当たり前のことでといえば、そうではあるが、こうした意識がどのように教会の中に位置づいているかは、なおさら大切な視点である。実際には、教会に慣れている者たちだけの実践になってしまっていないだろうか。開かれた教会であるために、具体的にどのような対応ができるか、十分に配慮していく必要があるだろう。

そして、小児陪餐については、さらに詳しく踏み込んで言及している(UMG38)。初陪餐の年齢については、さまざまな教会の実践を踏まえ、なお検討を要するとしながら、それぞれの教会で一貫したポリシーが作られる必要を述べている(UMG38C)。



[4] ルター「キリストの聖なる真のからだの尊いサクラメントについて、及び兄弟団についての説教」第1集1巻 653ページ

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 2

 

2.   キリストのリアルプレゼンス

第二に確認されることは、キリストのリアルプレゼンスの問題である。神の恵みのわざ、賜物としてのサクラメント理解に加えて、ルターの聖餐理解のいわば中核であり、また宗教改革陣営でもっとも深刻な論争となったキリストの現在の理解がここに示される。 

「この礼典において、十字架にかけられよみがえられたキリストが現在し、そのまことの体と血とを、食べ物と飲み物として与えられた。この現在は、神秘である。」(UMG33)

ここで注意したいことは、キリストの現在がこの聖餐の出来事に結び付けられ、同時に物素としての食物と飲み物、パンとぶどう酒に結び合わされているということである。この二つを、区別することなく一息で言い切っている。つまり、この聖餐においてキリストが現在されるということは、単純にパンとぶどう酒としての「物」として存在するということを言っているばかりではなく、むしろそれを与えたもう行為者としてのキリストの現在を含んでいるということであろう。しかも、聖餐におけるキリストの現在は、その礼典のさまざまな名前が示すように(UMG36)、聖書の中のさまざまなキリストの祝福の食事の主がその行為者として現在するということであって、単に物としての対象としての現在ということに限定されていない。

赤城善光は「ルターおよびルター派は、くりかえしキリストの実在を力説したが、その場合、リアリティは客体的・対象的リアリティとして把握されていたのではあるまいか」[2]という。たしかに、ルターの言い方を見るならば、スコラの実態変化の教理を明確に退けているにもかかわらず、この「物」としてのパンとぶどう酒においてキリストが現在するというリアリティへ固執している。

しかし、それは単純に、キリストをそこにおいて客体化もしくは対象化しているのではないかというのであれば、おそらくはっきりと否定しなければならないだろう。ちょうど、キリストご自身が礼拝され、あがめられるためではなく、むしろ、仕えるために来られたのと同様に、ルターは聖餐においてキリストの現在が起こっているのは、むしろ、それによってキリストが私たちの信仰のために働き、仕えてくださっているというのである。つまり、そこでも主体はキリストご自身なのであって、そして徹底的に「私のため」「私たちのため」に働かれるのである。

赤木のような誤解を、ある意味ではっきりと否定する見解といってもよいだろう。さらに、ルターは、聖餐においてキリストは礼拝の対象というのではなく、むしろ、キリストがわれわれを犠牲としてささげられるとまで言う[3]。これは、物素に結びついた意味でのキリストの現在について語っているところではないが、この聖餐の私たちに対するキリストの主体性を明確に言い表すものであるといってよい。つまり、聖餐においては、神の救いの恵みにわたしたち一人一人を与らせるためのキリストのみ業が起こっていることを示しているのである。そうであれば、確かにそれは礼拝されることもありうるであろうが、しかし、むしろ、そのキリストの働きのリアリティを受け取ることが、キリストのリアルプレゼンスという表現の持つ意味だというべきであろう。

また、その現在の「どのように」は神秘という。

 

キリストの現在の「どのように」は、他のいずこにおいてもと同じように、このサクラメントにおいても、説明されえないままである。サクラメントにおいては見える媒介物が用いられていてさえも、この現在は隠されたままなのである。この地上の要素は、神的現在にふさわしい媒体であり、かつまた、これ、すなわち私たちの生活の日常的な物がすでに始まった新しい創造に参与してもいるのである。(UMG33B)

 

この「どのように」を説明不可能なことというのは、カトリックのスコラ神学による実体変化の教理に反対しつつ、パンとぶどう酒がキリストのからだと血「である」ことを主張したルターの立場を示している。キリストがまことの人でありつつまことの神であること、あるいはキリストによる義認のもとで罪人である私たちがそのままに義人であるということと重ねて考えることができるだろう。パンとぶどう酒は、そのパンとぶどう酒であるままで、しかし、同時にキリストの体と血なのであるという信仰の神秘を表している。

さらに、そのキリストの現在の神秘とともにここで着目したいのは、このパンとぶどう酒が聖餐のつまり、復活のキリストの体と血に用いられているということが、新しい創造に対するこの世の物質の参与として描かれているということである。この終末論的な視点が明確に示されることで、聖餐の本質をより大きな神の救済の道筋のなかに位置づけるものとなっている。つまり、この聖餐の恵みの中には、単に罪の赦しというわたしたちの個人的な救いの次元ばかりではない、いわゆる終末の待望とまたそこでの全被造物に対する救い、つまり宇宙論的な救いの次元が開かれていることが示されているということになる。ルター自信にこのような視点がどれだけ明瞭であった言及は極めて重要といえよう。

 



[2] 赤木善光『宗教改革者の聖餐論』教文官 2005年 102ページ

[3] ルター「新しい契約、すなわち聖なるミサについての説教」第1集2巻 168ページ

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 1

 (この論文は、2006年6月に行われた「牧師のためのルターセミナー」に発表したものだが、未発表のままであった。今、コロナ禍にあって、実践的に制約を受ける事態になり、私たちルーテル教会においてもさまざまに礼拝、そして、説教、聖礼典について問い直されている。そこで、この論文が何かの役に立つのではないかと思いここに掲載することとした。いささか古くなって見直しも必要かと思いつつ、手を入れる時間もないため、当時のままにすることをお許しいただきたい。)


  アメリカ福音ルーテル教会は、約30年にわたって愛用されてきたLutheran Book of Worship(1978)いわゆるLBWに代わって、2006年の秋Evangelical Lutheran Worshipという新しい式文を出版した。この式文の改定は長年の礼拝改革の取り組みの成果である。そして、この式文が編纂されていく過程で、教会全体においてこの取り組みを進めるのに大きな役割を演じた「礼拝のための諸原則」(Principles for Worship)が2002年に出版されている。これは、2001年の1月から2004年の9月までに出版された全10巻の礼拝改革運動を進めていくための文書・資料の中でもとりわけ重要なものといってよい。

この諸原則の項目内容は以下の通りである。

 

序

言葉とキリスト者の集まり

音楽とキリスト者の集まり

説教とキリスト者の集まり

礼拝の場とキリスト者の集まり

付録 恵みの手段の用い方

 学びと応答

 

この内容に示されるように、この「諸原則」はルーテル教会の「教会」理解、すなわち「キリスト者の集まり」という教会の基本的な理解を通奏低音としながら、礼拝の主要な要素を神学的に検証し、礼拝においてどのようにそれらが用いられ、働いていくのかということの諸原則をあらわそうとするものであることが分かる。キリスト者の集まりは、聖霊によって礼拝に集められ、そこでみことばを礼典によって養われ、またこの世へと派遣されていく、神の宣教の大きな働きの中に動的に参与するものと理解されている。つまり、この文書によって、今回の礼拝改革が、宣教に向かう教会、そこに集い集められ、また散らされていくキリスト者に与えられる礼拝という理解のもとに進められているということが分かるのである。

また、この「諸原則」の付録(Appendix)として収録された「恵みの手段の用い方」(The Use of the Means of Grace)はこの「礼拝のための諸原則」へ発展する基礎となった文献で、1997年のELCAの全国総会で採択されたものである。つまり、この新しい礼拝式文が出版される10年前にその改革を進める神学的指針のはじめの取り組みを行なったことになる。さかのぼるとさらにその6年前に、礼拝改革のための基本的な宣言を総会は採択しており、礼拝刷新の運動が教会全体の時間をかけた取り組みであることを教えられる。


この論文の目的はその指針の出発点にもなった、「恵みの手段の用い方」(the Use of Means of Grace, 以下UMGと略記。)という極めて実践的関心において書かれた指針の聖餐についての記述を検証し、ルターの聖餐理解とどのように共鳴しつつ現代ルーテル教会の直面している課題と取り組んでいるかということを論じようとするものである。

  その実践的な課題は、礼拝における聖餐の頻度とか、聖餐式において信徒奉仕者がどのように関わることがゆるされるのか、また小児陪餐の実際の課題などがあげられるだろう。これらは今日の日本のルーテル教会の直面している課題とも共通する課題である。また、アメリカの教会が実際に様々なレベルで他の諸教会とのエキュメニカルな交わりを形成していることや、世俗化した社会の中での教会またその宣教的課題があることもここに反映していることが分かる。それゆえ、日本のルーテル教会がこれから取り組むべき礼拝に関わるもろもろの課題に実際的に取り組んでいくため、多くのことを学び取っていくことができるわけだが、こうした実践の指針の中に、どのような神学的な理解が現れているのかということを、ルター神学という立場で検証することがこの論文の狙いとするところである。

 

1.   聖餐の主体

まず、ルター派の聖餐理解として、最も重要なことのひとつといってよい聖餐の捕らえ方が最初に示されている。「私たちの主イエス・キリストの食卓において、神は信仰を養い、罪を赦し、私たちを福音の証人へと召し出される。」(UMG31)つまり、この聖餐が、神によってなされるみ業であることをはっきりと述べるのである。

恵みの手段としてこの聖餐について述べているのであるから当然のことではあるが、神の恵みのみ業として理解される。そこには、この聖餐が人によるものではなく、神の主体的な恵みの業であること、つまり、犠牲であるよりも賜物であるという性格を確認しているといえよう。これは、ルターの聖餐理解が中世のそれともっとも明瞭な違いとして提示してきたところである[1]。

確かに、この原則においては明確な言葉によって「犠牲」の側面を否定してはいない。しかし、その原則の背景として示されているところは、明らかに、そして積極的に賜物としての性格を強調している。

 

ここで、わたしたちはキリストの体と血とを受け、罪の赦しといのちと救いの神の賜物を受け取るのである。これらは、信仰を強めることのために信仰によって受け取られるべきものである。(UMG31A)

 

   この聖餐の行為的主体者としての、神の位置づけがはっきりとすることで、この聖餐が、神の恵みのみ言葉を結びつくものであることが示されてくる。

それゆえ、司式者としては、教会の一致とまた実際の神の働きを示すために、按手を受けた牧師がこの聖餐の司式を行うこともっとも適切であることを示している。牧師が特権的に、そのことによって聖餐式を行う特別な力を持っているというのではなく、むしろ、神ご自身が働かれるということ、また教会の普遍的なつながりをシンボリカルにも示すものとして、按手を受けた牧師がふさわしいと言っているのである。(UMG40A)

そして、また信徒もその必要に応じて、様々な補佐をすることが求められている。(MG41)しかし、ここで重要なことは、信徒による聖餐式の執行ということについても言及されていることである。ある教会で長い期間にわたって聖餐式が行われないままであるというような状況は避けるように、一定の期間について、その特定の場所においてであればよく訓練をされた信徒が聖餐式を執行できるように、教区の司教による権威付けを行うべきとの見解が示されているのである。(UMG40)

   ただし、こうした一連の表現には、ルターが示したような全信徒祭司性やすべての会員の持つ聖餐についての同等の権利が委託されるといったトーンは弱いように思われる。現実的に、主教職から司祭・執事という三職に特別の位置づけをもつ伝統的な聖公会との具体的交わりを持っているアメリカの教会の実践的な判断がここに盛り込まれているともいえるだろうか。

   しかし、いずれにせよこうした実際には礼拝においてと同様聖餐式の神の主体性、またその賜物としての性格が確認されることは、この聖餐の理解を深めていくための第一のことであるし、そのことから導き出されてくる一致の方向性を示していくものとなっていると考えられる。


追加:

本文中でも特に引用中をつけていないのだが、肝心の The Use of Means of Grace は、現在以下のURL で閲覧もダウンロードも可能となっている。


https://download.elca.org/ELCA%20Resource%20Repository/The_Use_Of_The_Means_Of_Grace.pdf

一応、その内容は以下のようになっていて、その一部、聖餐とところについてはタイトルを訳してみたので、参考にしていただければと思う。 

The Use of the Means of Grace 
内容
Preface: The Triune God and the Means of Grace
三一の神と恵みの手段
Part I: Proclamation of the Word and the Christian Assembly
 みことばの宣教とキリスト者の集まり
Part II: Holy Baptism and the Christian Assembly
 洗礼とキリスト者の集まり
Part III: Holy Communion and the Christian Assembly
 聖餐とキリスト者の集まり
Part IV: The Means of Grace and Christian Mission
 恵みの手段とキリスト者のミッション(宣教・使命)
この内容からも分かるように、この文書が「諸原則」の基礎的な文献となり、一貫したテーマが現れていることがすぐに見て取れる。
この中から具体的にはパートIII の聖餐についての指針を中心に紹介したい。
その中身は以下のような項目になっている。
31    聖餐とは何か
32    イエス・キリストが聖餐を与えられた
33    イエス・キリストはこのサクラメントに真に現在される
34    聖餐礼拝は、みことばと典礼的食事の両方を含む
35    聖餐式は毎週祝われる
36    聖餐式は多くの名で呼ばれる
37    聖餐は洗礼を受けた者に与えられる
38    初陪餐の年齢は多様でありうる
39    聖餐式はキリスト者の集まりにおいて起こる
40    牧師(教職者)が聖餐式を司式する
41    信徒奉仕者は多くの働きの中で仕える
42    準備が勧められる
43    聖餐は神のことばと祈りによって聖別される
44    パンとぶどう酒が用いられる
45    配餐は一致と尊厳を示す
46    司式者はそれぞれの礼拝において配餐を受ける
47    パンとぶどう酒は重んじて扱われる
48    教会は参加できなかったものに聖餐を準備する
49    この教会ではすべての受洗者が招かれる
50    ルーテル教会はキリストの食卓の一致を待ち望む

また、「礼拝のための諸原則」(Principles for Worship)も、同様にオンラインで得ることができる。



[1] V. ヴァイタ『ルターの礼拝の神学』岸千年訳 聖文舎 1969年 43-82ページ