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2020-06-10

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ④

【伝統的神学と】
こうした神学の課題に取り組むとき、私は、二つのことを考えるべきだと思っている。
まず初めに、従来の伝統的神学にしっかりと学ぶ必要がある。そして第二に、これと相矛盾するようにも見えるが、伝統的な神学に対して、私たちはいつでも批判的であるべきだということだ。この二点についてここで詳しくは論じることは必要ないだろう。神学はどの時代にも、その向き合う現実の中で、神の福音を聞き取り、現実に抗しても実現すべき福音宣教のために言葉を紡いできた。だから汲み取るべき神学的格闘の成果が伝統的神学の中にある。しかしまた、こうした神学的営為はいつでもその時代の子でもあって、歴史的限界性をもつのだ。その時代の人間のことば、人間の考え、文化の限界性の中に置かれている。だから、いつでも相対化されるべきだし、批判的検証を必要とする。
だから、より古いものが純粋であると断ずることもできないし、新しいものが優れているわけでもない。しかし、長い歴史に耐えてきた教義には、鍛えられた神学の重みがある。丁寧にその教理をめぐる歴史的議論を確認していくなら、私たちは新しい議論などが果たして可能なのだろうかとさえ思う。だからこそ、しっかりと学ぶ。


それでも、大事なことは、この大きな時代の転換点の中で、神学的にも実践的にも、既製の何かをもって対応しようとすることの危険について知っておくことである。新しい時代が到来している中で、権威的に何か一つを絶対化して主張をしようとすると、それは必ず他を裁く傾向を持ち始める。しかし、私たちの信仰もどのような神学も、歴史的限界性を完全に克服することはできない。だから、新しい何かが起こってくることを、軽々に判断してしまうことは避けるべきだと思う。むしろ、そうした事態をしっかりと確認しながら、実践的取り組みを神学的に検証していくことが必要だなのだ。そうして、長い神学の歴史の中に重ねるに値する、一つの言葉を見出すことができれば幸いだ。

【Lex orandi, lex credendi 祈りの法は、信仰の法】
この間、私たちの教会の総会議長は、例えばインターネットを使った礼拝の配信のみならず、様々に利用されてきたネット会議や集会など、新しい「つながり」を、「新しい領域の創造」であり、「人間の持つ可能性の豊かさ」という言い方で積極的に捉えている。礼拝とはこういうものだとか、教会とはこうだという「あるべき論」で語り出すと窮屈になり、特定の人たちやその実践を「神学」によって周辺に追いやってしまうことになりかねない。
現実に対応した多様な実践は、どうして、なんのために生まれてくるのか。それはどんな効果をもたらしたのか。その実践の課題や問題は何か。広い議論を作って検証していく時間が必要だと思う。人々が、どのように礼拝に招かれ、これに集い、みことばに与かり、聖徒の交わりが作られて、また日常に、つとめに派遣されているか。礼拝のダイナミックスは、教会のダイナミックスだから、より大きな視点をもって、そこに生まれていることを丁寧に見ていきたいと思う。
「祈りの法は、信仰の法」と言われる。実践の中でこそ、私たちの信仰の内実がよりはっきりと鍛えられてくるだろう。実践を確認しながら、今度はことばを鍛える。祈りと信仰、実践と神学、その相互のダイアローグはやがて定式化するかもしれないし、時代の中で淘汰されていくのかもしれない。慌てずに、ここからの行き先は主に委ねつつ、しっかりと議論を重ねていきたいものだ。

【イエス・キリストを問いつつ】
もちろん、どれほど時代が変わったとしても、人間の救いが、イエス・キリストの十字架と復活においてもたらされたというキリスト教の根本が変わることはない。だから、人間が何者であるのか、なぜ救いが必要なのか、どうして救われていくのか、ということについての根本がイエス・キリストであるということは変わることがないのだ。ただ、もちろん、そのことについての私たちの理解が深まっていかなければならない。いや、イエスとは誰か?その問いをキリストと告白することのうちに見出してきた信仰を今一度、私たち自身が問い直していくのではないか。
そして、おそらくそれはこのキリスト論的な議論の中で、私たちは私たち自身と救いについて、今一度この信仰が何かということを告白的に語ることばを見出すことになるのだ。さらにいうならば、人間の身体性や弱さ、罪や病や死という否定的に考えられる人間性を、むしろ「救い」という言葉の中に抱き取ってきた十字架の神学の深さを、キリストの体と言われてきた教会という脈絡の中で再考すべきなのだと思っている。これまでの神学が、その時代にどうして福音を受け取るためにその言葉を選び、どんな問題に格闘し、議論をしてきたのかに学びつつ、もう一度、それらをひっくり返して、私たちの現実の中で、私たちが鍛えられた神学の言葉として紡ぎ出さなければならないのだと思うのだ。
今、教会は神学すべきとき。実践的に自らの信仰を捉え直しつつ、教会を問い、礼拝を新に受け止め、私たち一人ひとりが生かされていく姿を自ら言葉の中に写しとり、検証していきたいものだ。きっと、この経験は私たちにとって次の時代を拓くものとなる。主に仕え、このもっとも小さき人たちに仕える神学こそ、終末の希望に歩み続けるものだと、そう思う。

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ③

大柴議長は、その談話において、ボンヘッファーの「交わりの生活」をひきながら、教会において集まることができることを当たり前のことではないこと、それがいかに恵みに満ちたものであるかを深く覚えるように示し、たとえ物理的な距離があっても霊的なつながりと交わりに生きることができることを確認するように促している。

このウィルス禍の中、私たちは厳しい状況に置かれてきたことは確かなのだが、その中で信徒一人ひとりが霊的な自覚と成長の機会を与えられてきたようにも思うのだ。それは、教会がその地域に教会として与えられていることを深く問いつつ、またその自覚を促すものであったと思う。繰り返しになるが、この礼拝をはじめとする活動自粛は、決して教会に集まる者たちだけのためではなく、地域社会に対する責任を自覚したものであったし、信徒一人ひとりは導かれて、絶えず病の中、いのちの危険の中にある人たち、医療・福祉従事者、また社会的に弱い立場にあり、感染の不安や恐れの中にある人々のことを祈り続けてきたはずだからだ。また、小さな働きではあるかもしれないが、地域社会の中で現実の困難を生きる一人一人を支える働きは営まれてきた。関連施設ではもちろん、牧師も信徒もこの一人を放ってはおけないと手を差し出してきたし、逆にしっかりと捕まえられて、励まされたりもした。
しかし、それだからこそ、この状況の中、私たちの教会が今どういう姿であるのか、何を生きているのか、確かなことばをもって語っていかれるように、改めて問われていると思う。

【問われる「福音」宣教】
ポスト・コロナの時代は、確かに大きなチャレンジを受けることだろう。しかし、それはある意味で、このウィルスの脅威がなくてもやがて訪れるべきであった事態が加速度的に進むという類のことではないだろうか。
もちろん、しばらくは具体的に教会の中でのソーシャルディスタンスをどう取るかとか、消毒や手洗い、マスクなどの慣行が求められるなどのこともある。コロナとともにどう教会は活動するかという新しい様式が必要だ。しかし、あらわにされた問題は、こうした新しい様式がひと段落した後においても、そして、例えばこのウィルス問題が発生しなかったとしても、どちらにしてもいずれ教会が正面から向かい合わなければならない課題であったと思う。
少子高齢化ということだけでなく、現代日本における宣教の困難は、旧態然とした教会のありようが、現代を生きる人々の苦悩に福音を届けることに追いつかないで来たということではないだろうか。私たちは、生活のあり方、働き方、娯楽の持ち方などあらゆる文化・文明が大きく、そして急速に変わる節目に生きているのだ。


【教会の基盤の変化】
教会は、それぞれの地域社会の中で宣教の働きを担うように立てたられている。神のみことばによって信仰へと呼び出され、恵と愛の力に生かされて、相互の交わりに支えられつつ、さらに地域社会への宣教を生きるものである。信徒は、この間に自分たちが集えないという現実の中で、コミュニティとしての教会であることへの渇望を新たに覚えたことだが、同時にまたその教会が地域社会の中に置かれていること(派遣されているということ)に意識が向けられてきただろう。
ところが、21世紀に入ってからの、人間の限界を超えるようなICTAIの劇的な進歩とその利用の広がりは、単に産業の問題としてではなく、一般市民の生活のあらゆるレベルにおいて、いわゆるグローバル化という現実をもたらしてきた。そうすると、世界の一地域や特定社会、あるいは国の問題は、そこに止まることがなく、須く地球規模の問題となる。まさに一地域で発生した感染症が世界規模のパンデミックになるのが現実である。インターネットを使うことで、地球の裏側とのコミュニケーションだって、わずかなタイムラグを思うだけで、ほぼ同時双方向のやりとりが可能となった。
そういう現代世界で、地域教会とかコミュニティとしての教会といっても、そもそも「地域」とか「コミュニティ」という言葉で表してきたことの意味が根本から問い直されているのだ。実際に、また私たち日本の教会においては、教会のある地域ということと信徒の生活圏とは必ずしも一つではないという実情がある。特に都会の教会では、遠距離を通う教会信徒の交わりは、地域社会とは直接に関わることの希薄なコミュニティを形成していることが多いわけだ。
そうした実情を考えると、現代世界の中で私たちは、何をもって私たちのコミュニティとしての性格を生き、どのように地域社会への宣教を担うのかということには大きな課題がある。(しかし、また可能性もある!)

【社会の課題の中で】
また、この感染症は、いつの時代でもそうであったように、貧困層に非常に大きな被害をもたらしている。現代の格差世界で、誰のいのちが守られて、どういう人たちのいのちが切り捨てられているのか。そうした問題があらわになっている。貧困の世界的な構造、グローバリズムの歪みの中から生まれてきた自分ファースト、排他主義の広がりは世界中で差別と暴力をもたらしている。そして、それは私たちの生活の只中にさえ根を張っていて、見えない貧困が蝕み、親子の間にも学校の中でも暴力が陰湿に支配しているのではないか。嘘やごまかしで、力の強いものが不正を行い、利を独占して、支援の仕組みの中でさえ、奪い取ることが横行している。
あるいはジェンダーの問題、結婚や離婚、家族という私たちの人生に深く関わるこれまでの概念と価値は揺らいでいて、一元的な理解に固執するよりも、多様なあり方を認め合い、共存していくことへと誰もが積極的な責任を担っていかなければならない。世帯ごとに一括りにされていく現状は、おそらく深刻な課題を家族という伝統的な単位の中に抱えている現実に合わないだろう。にも拘らず、社会の仕組みはやはり保守的で、必要な支援が個々に行き渡らず、かえって苦しい現実を背負わされている実情が見えてくる。

【問われている神学】
こうした急速な世界の変化の中にあって、伝統的なキリスト教の神学や教会のあり方が対応できていないのが実情だろう。だから、誰に向かって何を伝えるのかということに、自信も方法も見失っているのではないか。福音信仰が誰のためのものになっているのかということだ。今、この世界が一つに結び合う時代だからこそ、その只中で困窮する人、悲しんでいる人、病の人、DVや虐待の現実を抱える家族、幼い子どもたち、高齢の方々、生まれや肌の色、文化や宗教などの違いによって差別されている人たち、ジェンダーやエスニックマイノリティーであるために見失われている人たちなど、全ての人たちのいのちと尊厳を守り、共に生きるための教会、神学であり得ているのか、と問われている。
改めて、この現実の中で、私たちに突きつけられている事柄は、この現代世界に対する「福音」の理解とそれをどのように分かち合うのかということに対する根源的な、そして極めて実践的な神学問題であるのだと思うのです。

2020-06-09

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ②

教会、牧師、信徒は何を受け取っているか。

教会がどのように変わったかというと、いまだコロナ禍真っ只中なので、それを論じることは早計だろう。ここ4月から礼拝に集えないということは非常に大きな経験だ。しかもこの季節。聖週間もあり、イースター、そして主の昇天、ペンテコステと続く大事な数週間の礼拝を教会に集えずに過ごしたということになる。このような経験が、信徒の中になにをもたらしているのか。
もちろん、集会も行えないし、バザーなどの行事も行うことができない。当然、教会の活動ということはそういう意味で言えば全体として冷え込んでいる。教会の経済的な問題も含めて、これからの教会のあり方に様々な影響を与えることは間違いない。


               

【苦悩と熟慮】
主日の礼拝を自粛する。およそ教会の歩みの中で経験したことのない判断をどのようにしていくのか。社会の情勢の中、牧師も信徒も苦しんだに違いない。礼拝の中止などということがそもそもあり得るのかと、問わなかった教会はおそらくないといって良いだろう。どのようにしたら、礼拝を続けることができるか。教会そのものに消毒や換気、社会的距離を作るなどの物理的工夫、礼拝の簡素化、聖餐式を行わないことや賛美歌を無くすといったソフトの面での調整などすぐに取り組まれたと思う。しかし、いずれにしても遠くから集まる信徒たちの状況を考えれば、感染の危険がどこにあるかわからない。しかも、個人に自粛を求めても、教会が礼拝を行う限りは絶対に休むことをしない信徒の気持ちがある中で、牧師も役員も苦悩し、熟慮した上で、自分たちの教会のあり方を決めていったことだ。もちろん、中止ということだけでなく、役員とか、特に近隣の方のみの出席する礼拝をまもった教会もある。けれど、これほど礼拝について、教会員の現実について、役員会は話し合い、こんなに祈ったことはないと思うほどに時間を費やしたことだろう。この経験が、これからの教会の歩みに力になるに違いない。

【牧 会】
ただ、そうした現実の中において、牧師にとって、そして信徒にとっても牧会という視点が改めて非常に大きくなってきたと言えるように思う。これまでにまして、牧師は信徒との距離について考えてきたことだろう。毎週礼拝に集うことで、顔を合わせているだけでも、お互いに受け取ったり、渡したりするものがあって、牧師は牧会のひとつにしてきたはずだ。もちろん、それだけで済むことではないのだが、忙しい都会の教会においても、兼任体制で複数の教会に牧師が責任を持つことの多くなっている地方教会においても、週日に牧会的交わりの機会を持つことがほとんどできなくなっている中、礼拝に集う、そして午後の交わりを過ごすということが数少ない牧会の場となっていた現実がある。
ところが、礼拝に集まるということができなくなってみると、改めて信徒一人ひとりとのつながりについて、牧師たちは心を砕いてきたはずだ。もちろん、牧師が訪問をすることも難しい現状だから、手紙や電話、メールなどを使って繋がりを確かめてきただろうし、新しいところでSNSを使っての相互の交わりを実現してきたことだろう。配信されるものが、説教であれ、週報であれ、それをひたすら読むことが、信徒の日課にもなってきただろう。こうしたやり取りに、牧師は細やかな祈りによって、信徒と出会ってきているようにも思う。
もちろん、そうした取り組みに限界がある。全く触れ合うことができずに過ごしている信徒同士、牧師と信徒との関係がある。だからこそ、再会の時が切望される。そういう私たちが教会を再認識しているのだ。

【礼 拝】
 礼拝については、オンラインによる配信ということが多くの教会で取り組まれた。これまでも礼拝や説教の配信に取り組んできた教会もあるが、数で言うと本当に限られたものに過ぎなかった。しかし、今は、主日礼拝に集えないという現状に合わせ、多くの教会でインターネットを利用してそれぞれ自宅にとどまる信徒を支える礼拝、また説教の配信が取り組まれている。ただ、それは教会に集うことができない者たちも、それぞれの場で主の霊的な臨在に繋がれ、結ばれたひとつの主の体にあることを覚えることができるようにとみことばが届けられるものとしての利用ということぐらいに留まって理解されている。インターネットを利用できない方々には、説教原稿と一人で祈り過ごすための手引きなどがとどけられているから、紙媒体で説教を届ける牧会の働きに準じた理解だといって良いのだろう。議長談話では、このインターネットでの取り組みを礼拝と呼ぶとか、そこでの聖餐の可能性などを論じることは控えられている。むしろ、一人ひとりの黙想や家庭での礼拝に益するものとして届けられているのだ。そうでありながら「一人自宅で礼拝を守っていても、それは天地を貫く「公同の教会」につながる主の日の礼拝です」(「牧会書簡」411)と、大いに一人で過ごす信徒にキリストに連なる慰めと励ましを語ってもいるのである。
実際、そうしたネットを用いた複数の教会の同時礼拝、あるいは連携の中で届けられる聖餐の設定辞が有効かどうかは、実はこのウィルスの問題が起きてくる以前から、地方教会における複数兼任の体制の現実の中ですでに取り上げられていたアジェンダの一つでもあった。礼拝が、主の招きによって集い集まり、共にみことば(説教と聖餐)に与り、祈りあい、証を分かち合って、また派遣されていくという動的なものであること、また実際の人間の身体的な限界性や有限性を抱えても共に生かされていく礼拝のリアリティによって、教会のコミュニティの形成があるということは、おそらく誰にでもわかることだろう。しかし、様々に制約された現実とそうした現実の中にメディア・テクノロジーがもたらす新しいコミュニケーションの時代、私たちは、一人ひとりを生かす神のみことばの奉仕の力に信頼しつつ、これまでの礼拝に新しく開かれた可能性をむしろ積極的に考えていく時なのかもしれない。しかし、いずれにしても、早計に断定的に語る言葉を置かない慎重さは、現実の対応の中では大切なことだと思う。

【信仰と霊性】
しかし、こうした状況の中で、実は信徒一人ひとりには、教会の本質を問い、自らを捉え直していくきっかけを受け取っているように思う。元気で活動できることで教会の一員として生きる喜びのようなものを受け取ってきた信徒たちが、しかし教会にいくことができないという規制の中で、実は集えないでいる一人ひとりのことへと深く心を寄せるようになってきたのではないかと思うのだ。そして、互いに安否を確認しつつ、会員相互の牧会的祈りが祈られてきた。
また、静かに世界の中にある自らを省みて、会うことのできないでいる信仰の友を思い、また今の世界の苦しみや悲しみに心を置いて、みことばを聞き、黙想し、祈る。そういう時を、それぞれの信仰者が大切に思い主日の朝を過ごされた。礼拝に集い、諸集会を行い、奉仕をし、諸々の活動に元気に参加するということだけでものを見ていたかもしれない自らの信仰生活の姿を問い直し、沁み渡るような信仰を思うようになったのではないか。私自身も、主日の朝早く、みことばに黙想し、祈り、生かされる恵みを受け取ってきた。
もちろん、現実の教会での交わりが薄くなり、教会生活の意識が遠くなり、自らの信仰の弱さを実感する者もあるだろう。そういう状況もまた、私たち自身に神と信仰を問うきっかけであると思って良いだろう。神が一人ひとりを忘れることは決してないのだから。
ただ、ネット上に溢れるようになったたくさんの説教に触れながら、いつしか信徒が自分に心地良いもの、思いを満足させてくれる説教を求めていくような傾向が起こっていないか、注意が必要かもしれない。説教は、喜びも悲しみもキリストを通して分かち合う聖徒の交わりの中、牧師も信徒も共に主の語りかけるみことばに聴くことによって紡がれてくるものだ。もし、私たちが自分を満足させる説教にのみ耳を傾ける消費者になっていってしまったとしたら、信仰も教会も崩れてしまいかねないと思う。
だから、こうした厳しい現状の中で、私たちは、牧師も信徒も、新たなチャレンジを受け取っているといって良いだろう。このウィルス感染そのものは身体的な問題ではあるけれど、それを通して同時に霊的な試練を様々に経験しているのかもしれない。だからこそ、私たちは、主のみことばに生かされる恵みをしっかりと確認し、また分かち合う宣教の働きへの使命を受け取っていくべきなのだろう。

続く・・・

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ①

いつの間にか紫陽花の咲く頃となった。鳥たちのさえずりを聞きながら、朝の光を深呼吸する。




今年、新型コロナウィルス感染拡大のもたらしている世界史的な出来事は、おそらく誰の記憶にも残り、また記録されていくことだろう。問題に向かい合いながら、私たちが何を考え、何をしてきたのか。どのような「言葉」が語られたのか。語られなかったのか。おそらく、こうしたことが、あらゆるところで検証されるべきなのだと思う。
教会もまた例外ではない。いや、「ことば」を何より大切にしてきたキリスト教会は、今こそ、私たち自身をしっかりと見つめ、記録しながら、神学をすべき時だと理解する。
この学びの現場は、2020年の日本福音ルーテル教会である。


教会とは何か、礼拝とは何か、信仰は何を受け取って、何を考えているのか。そして、どのような世界を実現しようとするのか。私たち自身の言葉を鍛えるべきだと思う。




まず、新型コロナウィルスの感染拡大の状況の中での、日本福音ルーテル教会がどのように対応してきたのか、全体教会として記録しておきたい。
おそらく、国内感染の増大が見られ、全国の小中学校、高等学校の一斉休校の要請が言われるようになった2月下旬頃から、いくつかの教会で礼拝の持ち方、特に聖餐式の配餐方式などに工夫が始まり、礼拝後の交わりや集会についても注意するような対応が取られ始めたと記憶する。3月に入ると感染拡大の状況に合わせて聖餐式の自粛なども含めて諸々の対応は広まってきて、各地域や教区ごとにその情報を共有、確認する動きが始まってきたといって良いだろう。
325日東京都知事の記者会見で「感染爆発の重大局面」ということが言われた、翌26日に、大柴譲治総会議長よる「議長談話」が全国の教会に発信された。



そこでは「すべての命(いのち)を守ること」という原則が示され、同時に地域社会における教会の責任と使命が確認をされ、私たちがその使命に尽力しつつ主のみこころを求めることが示されている。その方針に従い、それぞれの地における主日礼拝の持ち方について、オンラインなどの方法をとることも含め、礼拝堂に集まる形に拘らない、柔軟な対応が工夫されるべきこと、また、牧会の状況の中で、緊急にかつ大勢の人が集まることが想定される葬儀の持ち方についての慎重な対応を求める指針が示された。それ以降、4月9日5月2日と緊急事態宣言の発出や延長などに合わせて、総会議長は議長談話を各教会に向けて発信している。繰り返し、礼拝に集まることや集会の自粛を強く要請しつつ、医療や福祉の現場にあって援助に従事される方、また病気の方とその家族、生活上の不安や困難を余儀なくされている方々や、孤独の中にある方などのために祈りあうことを勧め、私たちの牧者である主に導かれて「一つの霊的な主のからだ」である教会に皆が結ばれていることへの信頼にたった牧会的な談話を発信た。
そして、5月6日には、緊急事態宣言が解除された場合に「新しい生活様式の中での礼拝」をどのように準備する必要があるかということを細部に渡って示し、再開にあたってはそうした対策をするとともに、その対策をしたことの上での再開であることを明示する責任を語っている。


こうした対応は、全国の教会に対し、礼拝を自粛するという感染症に対する単なる対処方針を示すものではなかった。何よりも主の教会として、神ご自身が仕えてくださる礼拝の本質を確認しながら、教会が教会であることを、集う者たちのためだけのものと考えるのではなく、それぞれの地域社会に対する責任と使命のうちに自覚することを促している。その上で、神を求め、また信頼しつつ、それぞれの教会に自主的な取り組みをするよう要請しているのだ。
すなわち、日本福音ルーテル教会では、一律に律法的にこうすべきであるとか、そのようにせよと強制的な対応が作られたのではなく、それぞれ教会の実情と宣教の現実に合わせた各個教会の主体的判断が求められたということになる。

各教会は、それゆえにそれぞれに与えられた地域社会とそこに集う信徒、またその家族や生活に心を寄せながら、牧師と役員とを中心として独自の判断をしていくこととなった。ほとんど全ての教会で、信徒を集める礼拝を中止したかと思うが、礼拝堂や教会を完全に閉じることを余儀なくされた教会もあれば、会堂はオープンにして祈りの場として提供し、牧師が来会者に牧会を行えるように整えたところもあった。そうして、それぞれの現実にあった教会のあり方を実現してきている。

緊急事態宣言は、521日に一部を残して解除され、525日には残されていた東京近郊と北海道を含めて完全に解除された。これに伴い、全国の教会はそれぞれ段階的に教会での礼拝や集会を再開し始めている。ただ、東京では62日に「東京アラート」を発令したため、都内の教会では慎重な対応が続いているといって良いだろう。

続く・・・

2020-03-07

揺れる教会〜〜新型コロナウィルス感染拡大の只中で


新型コロナウィルスの感染拡大を防止するという目的で、政府は要請という言葉で、緩やかにしかしはっきりと国民生活の中に自粛を求め、それによって小・中・高の学校の休校のみならず、幼稚園から大学に至るまで臨時の対応へと押し流されているかに見える。
そうした中で、教会でも週日の祈祷会や集会を取りやめたり、また聖餐式のあり方を工夫したり、これをやめたり、さらに主日礼拝そのものを休止するとか教会施設を閉鎖する、など様々な対応が生まれてきている。



もちろん、そうした潮流に懸念の声も多くある。そもそも、その判断が何に基づいているのかと問うものもあれば、教会の使命や本質論から礼拝の中止を嘆くものもある。
私自身もいろいろと思うことがある。けれど、自分の言葉は一度飲み込んだ。まず、聞かないといけない。どういう判断がなされたのか。どんな対応を本当に教会として考えているのか。
それぞれが声を上げ、議論する。いいことだと思う。皆が考えてみたらいい。
でも、多様で良いと思うのだ。こうしなければならないという外面的なことで縛ってみても何にもならない。むしろ、この時にこそ、御言葉にきき、祈り、共に信仰の共同体として生きるということを各教会で考えるべきだと思う。そうして、礼拝の意味も、聖餐の豊かさも、信仰とは何かも、改めてそれぞれが学び、受け取っていく。
一つひとつについて教会は、牧師も信徒も、どう対応するか、そんなに軽々に判断していないし、揺れていると思う。そういう揺れや問い続ける心が大切なのだし、その中で話し合いながら、現代において、自分たちが教会に集うこと、礼拝にあずかることの恵みを今一度確かめるようにして工夫をしたらいい。大事なことは、この時こそ、不安な信徒一人ひとりを孤立化させないように、そして牧師たちもそれぞれがいろいろなことを考えて、手立てを作ること、支え合うことだと思う。
集う信徒の年齢層や地域性によっても異なる思いがそこに見出されるだろうし、悩みがあるのだ。そういう具体的なことを牧師たちは考えている。教団が号令かけてしまって、全国津々浦々で一律のやり方などを決めたり、神学的権威(そんなものはどこにも認められていない時代かもしれないが)がこうすべしと大上段に構えては、本当に必要な宣教、御言葉の喜びと平和を分かち合うこと、教えと学びを深めていくこと、一人ひとりに仕えていくこと、癒しととりなし祈ること、他者のために苦難を負うこと、そうして共に生きていくことの実際は無視されてしまうように思う。(まあ、必要以上の混乱を避けるように教団が決断すべきこともありうるけれど)むしろ、それぞれの地で、牧師と信徒が格闘していることに耳を傾け、祈り支え合う。そして、それぞれのあり方や判断を確認したり、その苦しさを支援する。そういう教団、教会でありたいものだ。どのような時にも、キリストはあなたのそばに あって、それぞれ、一人ひとりを見捨てず、裁かず、悔い改めと恵みのいのちへと導かれるのだから。
今の時代は複雑だし、本当に多様な可能性がある。それだからこそ、この時にこそ、それぞれの地域にたてられ、遣わされている自分の教会の性格を診断しながら、皆でこれからの自分たちの教会や礼拝のあり方、社会との関係、宣教のあり方を見直してみてはどうだろう。

2020-02-27

教職授任按手式礼拝


教職授任按手は、3月20日九州は博多教会で行われる教区総会において行われることとなった。当初の予定は、3月1日に日本福音ルーテル教会宣教百年記念会堂(東京教会)においておこなれることになっていたが、今般の新型コロナウィルスの感染拡大の不安が広がる中で諸々のイベント・行事が見直されていることを背景にして、決断された。



按手を受けるのは、森下真帆。
新年度から同じ北九州、小倉教会、直方教会への赴任が決まっている。九州教区の教職者と信徒たちの集まる教区総会での按手は、ふさわしいあり方の一つだ。
新任牧師の誕生のために、是非、祈ってほしい。


2020-02-26

2020年度 牧会研究会

2020年度も日本ルーテル神学校・デールパストラルセンターは牧会研究会を開催します。
月の第二金曜日の午後1時半から2時間の研究会を1年間、10回のプログラムで準備しています。場所は、新大久保にある、日本福音ルーテル東京教会の会議室。

予定は、下記の通りです。教会、また関連施設に働く牧会者の皆様に実践的な課題にを共に学び、分かち合う時間とさせていただいています。
特に、今年度は、堀肇先生に牧会カウンセリングに重点をおいた5回の講座をお願いしています。心理学を実践的に応用したカウンセリングについて学ぶことができます。きっと、牧師先生方がすでにもっていらっしゃる経験的な知と技術を今一度客観的に捉え直し、分かち合う力を高めることにお役に立てると思います。




  
410日「日本の牧会のこれまでと課題」(関野和寛)
58日「家族療法の応用牧会カウンセリング講座1」(堀肇)
612日「人間のパーソナリティ(気質)に基づくカウンセリング」(ジェームス・サック)
710日「発達心理学の応用牧会カウンセリング講座2」(堀肇)
911日「牧会者の危機~失敗と挫折から~」(石居基夫)
109日「交流分析の応用牧会カウンセリング講座3」(堀肇)
1113日「霊的同伴のあらまし」(齋藤衛)
18日「フランクル心理学の応用牧会カウンセリング講座4」(堀肇)
212日「スピリチュアル・ペイン(心の痛み)とそのケア」(ジェームス・サック)
313日「キリスト教的愛と心理療法牧会カウンセリング講座5」(堀肇)

費用:全10回で二万円。

お問い合わせ、お申し込みは下記まで。
E-mail: dpc@luther.ac.jp

2018-12-17

「危機のただ中に立つ牧会 ~あなたを支えたい~」臨床牧会セミナー 2019

日本ルーテル神学校と付属研究所デールパストラルセンターの共催で
来年2月に 第三回となる臨床牧会セミナーを計画している。
日程は、2019212日(火)1500 ~ 14日(木)1200

主題は、「危機のただ中に立つ牧会 ~あなたを支えたい~」


牧会は、様々な人生の危機のただ中に立つお一人おひとりを、神の恵みにおいて支えることを使命としている。けれども、同時に、この牧会そのものが人間と人間のコンフリクトがおこる現場であり、思わぬ形で牧師が信徒を傷つけてしまったり、その逆のことが起こったりする。つまり、ある意味で牧会そのものが “危機の只中にある” ともいえるのだ。

 この牧会の働きを強めていくためには、具体的な課題を学ぶこととともに、働く牧師や教会にどのようなサポートが必要なのか、可能なのか。
ともに学ぶ機会としたい。

 教派を問わず、牧師の方々に、ぜひおいでいただきたいセミナーです。



基調講演:「ぶっ壊して、造り上げる牧会のダイナミクス」(仮)
 講師:関野和寛(日本福音ルーテル東京教会牧師、デール・パストラル・センター所員)

分科会:
   心の病
河村 従彦(イムマヌエル聖宣神学院院長、牧師・臨床心理士、本学大学院総合人間学研究科臨床心理学専攻修士課程修了
    ハラスメント
城倉 由布子(東京女子大学キリスト教センター宗教主事
    結婚・非婚・離婚
堀 肇(鶴瀬恵みキリスト教会牧師、ルーテル学院本学非常勤講師、キリスト教カウンセリングセンター講師、デール・パストラル・センター所員
    高齢者の課題
賀来 周一(日本福音ルーテル教会引退教職、キリスト教カウンセリングセンター理事長、デール・パストラル・センター顧問

開会礼拝/まとめ
   石居基夫(日本ルーテル神学校校長、デール・パストラル・センター所長)

  

2018-10-24

「申命記」を読む〜ルーテル「聖書日課」セミナー〜

聖書日課セミナー(10・22−24)


 三日間、軽井沢の地で、聖書日課セミナーを過ごした。
 ルーテル5教団で、共有する働き「聖書日課」の読者とともに、年に一度の集いが守られている。その集いに招かれて、「申命記」をともに学ぶことだった。聖書学の専門でもない私には、いささか荷の重いことでもあったけれど、改めて深い学びに導かれたことだった。
 モーセの告別の説教という形式でまとめられた申命記。
 でも、もちろんそれがいまの形にまとめられていくのは、イスラエルの民がたどった苦難の歴史の只中で、神を求め、信仰を確認する中でのことだった。とりわけ、アッシリアに北イスラエル王国が滅ぼされて、また南ユダ王国がバビロニアの脅威に晒され、やがてこの国も失われる。多くの人が土地を失い、生活を奪われ、いのちの危機に晒されて、信仰を失いかけていく。そういう時代に、神を生きるということがどんな恵みなのか、力なのか。懸命に綴りながら、その恵みに生きるという具体的な生活の姿を律法に表していったのだった。
 彩られるのは、カナンの地に入っていくイスラエルの民による戦いで、主なる神の聖戦という描かれ方。残忍なやり方を神の言葉と受け取るのには、大きな抵抗を感じるだろう。でも、なぜ、そのように描くこととなったのか。
 私たち人間の罪の現実の中で、神の恵みを受け取り、その計り知れないみ言葉の力を、告白的に記していく人間の信仰の歴史性、その限界を見定める必要がある。それでも、そのように描きながら、何を聞き取ろうとしてきたのか。その営みをこそ、私たちは人間の信仰の器として、申命記における神の啓示を知ることができるように思う。
 
 聖書の言葉を、現代に生きる私たちに今一度語りかける神の言葉として聞いていく、その学びをともにさせていただけたことだった。
 
 
 
 

2018-02-27

教職授任按手式礼拝 2018・3

日本福音ルーテル教会 教職授任按手式が3月4日の日曜日、午後7時から、日本福音ルーテル教会宣教百年記念東京会堂にて行われる。



今年、日本福音ルーテル教会で按手を受け、牧師となるのは3名。それぞれ、先の常議員会で任地も発表された。
多田哲さん(豊中教会出身)の赴任教会は東教区の日本福音ルーテル日吉教会。野口和音さん(熊本教会出身)は同じく日本福音ルーテル長野教会、そして松本教会。森田哲史さん(田園調布教会出身)は東海教区の日本福音ルーテル新霊山教会。

教会では、伝統的に教会の職務に当たるものが選び出され、派遣されて行く時には、先に任にあたってきた責任をもつ者たちが集い、その選ばれた者の頭に手を置いて祈り、聖霊による賜物を祈願し、教会の委託を示して祝福をしてきた。 この按手によって、それぞれの職務へと召され、用いられていくわけだ。

頭に手を置くことは、限られた人たちによるのだけれど、集うものたち皆が心を合わせて、彼ら一人ひとりを祝福し、祈っていただくことで、教職となっていく恵と使命を新たに心に受け取っていくことだろう。大勢の皆さんがおいでくださることを願っている。

http://jelc-news.blogspot.jp/2018/01/2018.html



2017-06-20

神学校修養会 牧師になるとき、幼稚園の園長になる?

 日本ルーテル神学校では、毎年5月か6月に神学生修養会を企画している。
 今年のテーマは「教会と諸施設」、6月18〜20日に行われた修養会では特に幼稚園・保育園の働きについての学びをいただいた。



 現在、日本福音ルーテル教会は全国に48の幼稚園・保育園を設置している。教会が120程だから、半分とは言わないけれども三分の1以上の教会が幼稚園・保育園の関係を持っているという計算になる。そして、実際の現任教職が100名弱、出向を除けば80名あまりの教職数だとなると、二人に一人は幼稚園・保育園との関係を持つというような勘定になる。つまり、日本福音ルーテル教会の牧師となると、その生涯で幼稚園・保育園を全く経験しないということはめずらしいことなのだろう。もちろん、それぞれ一つひとつの園によって、牧師の関わリの仕方はさまざまだ。園長になるばあいもあれば、理事としての責任をもったり、あるいはチャプレンとしての働きのみであったり。それでも、牧師館にすむことになれば施設管理等の責任は免れないだろう。
 教会は信徒を中心とした教会の活動だが、幼稚園・保育園ともなれば一般社会に開かれた公的な事業である。しかも、生活を抱えた職員を複数雇用してその労務管理などの責任も負いながら、その職員に働いてもらって日々の事業内容としてのキリスト教保育の実現し、具体的な対象である子どもたちとその保護者に深い関わりを持つということになる。
 牧師となるための神学教育においては、理論的にも実践的にも教会の神学を学ぶ訳だし、牧師になることの召命ということは、おそらくそうした幼稚園・保育園に関わるということとは全く異なるものであろう。それでも、現実には、そうしてひとたび牧師になれば、教会を営む、あるいは福音に基づいた礼拝の説教や聖礼典の執行ということとば別に加えてこうした教会の責任の中におかれる事業体の責任をもっていくことが少なくないということだ。
 一昔前であれば、そうした事業体は、事業体を主に担い、運営していく信徒が中心を持ってきていたかも知れない。海外からの宣教師とその宣教師についていった志を持つ教会員によって担われるようにしてはじめられた幼稚園・保育園は少なくない。ところが、いまや幼稚園・保育園を長く支えてきた信仰者がその次の世代に引継ごうとしてもその引き継ぎができないという現実を抱えている。クリスチャンではない多くの職員のなかからその力を持つ人材を得ることができればまだいいが、それすら出来にくいという現実に直面してきている。そういう時代だ。だから、牧師に対する現実的な期待は高くならざるを得ない。
 
 実際、今年の春卒業した三人の新卒の牧師たちはいずれも幼稚園・保育園と関わりのある教会だった。新任で兼牧で、施設がある。そんなことはめずらしいことでもなくなり、避け得ないこととなっている。では、神学校はそれに応える教育を行えているのか。それは難しい。限られた時間のなかで牧師となるための教育は、それだけでかなりの時間を必要としているのだ。後は現場でオン・ザ・ジョブ・トレーニングとしてもらわねばならないのだ。
 けれど、そのためのオリエンテーションも必要だろう。神学校が牧師を育てる責任を持つという時に、現代社会のさまざまな課題に取り組む神学的な力を身につけさせていきたいが、やはり、今の自分たちの教会が展開している福祉、保育・教育という事業についての責任を考えなければならないだろう。
 今回、三人の講師の先生方を通して、この課題を学ぶ機会と出来たことは、非常に有意義だった。

 

2017-03-11

2017年度 「パイプ・オルガン講座」

2017年度 日本ルーテル神学校 公開カリキュラム「パイプ・オルガン講座」のお知らせ

昨年、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校のチャペルには、念願の新しいパイプ・オルガンが設置されました。そこで、地元のキリスト教会のオルガニストの養成、また継続的な技術向上のための「パイプ・オルガン講座」を開催したいと考え、本学オルガニスト・非常勤講師のお二人の先生にご協力を頂き、2017年度からこのプログラムを提供させていただけるようになりました。


講師:湯口依子講師 (火曜・木曜 講座担当)(本学講師・チャペルオルガニスト) 
    東京芸術大学オルガン科卒、同大学院修了。ドイツ・ウエストファーレン州立 
     音楽学校卒。青山学院女子短大講師、桜美林中学高校オルガニスト。
   深井李々子講師 (水曜講座 担当)  (本学講師・チャペルオルガニスト)
     国立音楽大学オルガン科卒、フランス・ニース音楽院卒。
     東洋英和女学院大学生涯学習センター講師、キリスト教音楽院講師。
期間:2017年度 前期(4月~7月)・後期(9月~1月)
    (後期は前期からの継続者を優先、定員に余裕があれば後期からの受入可)
    初回 湯口講師希望者 4月10日(月)16時30分 オリエンテーション
       深井講師希望者 4月12日(水)13時 オリエンテーション、初回講座 
曜日:火曜、水曜、木曜の午後1時10分から4時20分までの時間
    (時間については、必ずしもご希望通りにお応えできるとは限りません)
講習:1回30分の個人レッスンで、前期・後期 各15回
    (本学パイプオルガンの利用はレッスンのみで練習はできません。)
募集:10名定員(湯口講師・深井講師 各5名、先着順)
条件:①教会のオルガニスト
   ②J.S.バッハ「インベンション2声」程度を弾ける者
     上記①、②のいずれかの条件を満たすこと
費用:レッスン料   前期、後期 それぞれ 60,000円
   オルガン使用料 前期、後期 それぞれ 5,000円
   (ただし、日本福音ルーテル教会、日本ルーテル教団の教会員及び本学卒業生は
             オルガン使用料を免除)
申込締切:3月31日(金)(定員10名に達し次第、募集を締め切ります。)
  
 以下のサイトから、フォームをダウンロードしてください。

     http://www.luther.ac.jp/news/170310/index.html

後期の追加募集のお知らせはこちらです。
水曜日のみですが、深井先生によるレッスンです。
8月31日が締め切りです。
  http://www.luther.ac.jp/news/20170731-01.html

2017-02-24

教職授任按手式 2017年

今年、日本福音ルーテル教会には二人の新しい牧師が誕生する。
 牧師となるのは次の二人。
  中島和喜(日本福音ルーテル市川教会出身)赴任地:札幌教会、恵み野教会
  奈良部恒平(日本福音ルーテル東京教会出身)赴任地:復活教会、高蔵寺教会

 2017年3月5日 午後7時から
 日本福音ルーテル教会 宣教百年記念東京会堂(東京教会)にて按手式が行われる。

神と人とに仕えるために召されて、4年間の神学校での学びを終え、教職試験、任用試験に合格した二人に、正規の委託を示し、また聖霊の特別の働きを求めつつ牧師として立っていく派遣のために、全体教会議長、副議長、各教区長、宣教師会長、教師会長たちが、新しく牧師となる者の頭に手を置いて祈る。




こうして、この二人が宣教の第一線に旅立つ。それぞれの地に立てられた教会を宣教の拠点として、みことばを宣べ伝え、人々とともに生き、伝道、牧会を担っていく。ここまでの歩みを支えてくださったのは、出身教会の牧師、教会員の皆さま、そして、実習・研修教会を通して出会った多くの方々の祈り。そして、人の思いを越えて働かれる神のみわざと信じる。

神学校を卒業するもう一人、

西川真人(日本ルーテル教団、杉並聖真ルーテル教会出身)は日本ルーテル教団の牧師となる。赴任地は北海道の旭川聖パウロルーテル教会と深川エマヌエルルーテル教会。

按手式礼拝は、3月26日、午後5時から 旭川聖パウロルーテル教会にて行われる。

三人の上に、さらなる主の恵みと祝福とを祈りたい。





2016-10-18

宗教改革500年記念の推奨4冊

日本福音ルーテル教会が宗教改革500年を記念して、それぞれの教会で、学校・施設でルターその人と、その信仰・神学についての学びを深めていくために推奨4冊を挙げてこの出版事業を展開している。この10月1日の『「キリスト者の自由」を読む』をもって、この4冊全ての出版が終わっている。

一冊目は、実は2012年に岩波新書として出版された徳善義和著『マルティン・ルター』だ。これは、ルターという人物を知るのにもっとも手軽で確かな書物と言ってよいだろう。岩波からの出版ということで、教会外の方にもわかりやすく、読みやすい。


以下の三冊は、ルーテル学院のルター研究所によって編まれたもので、いずれもリトン社から出版されている。それぞれにすでに手にとってくださった方もあるかと思うが、改めて紹介しておきたい。いずれも、ルターの神学、そしてルーテル教会の信仰を学ぶのに欠かすことの出来ない三冊だ。


『エンキリディオン 小教理問答』
いわゆるルターの小教理問答書。洗礼準備などでよく用いられている青もしくは黄色の表紙の薄い冊子のものは、一部掲載がなされていない部分がある。全文を訳されたものが手にとりやすくなった。エンキリディオンは必携とでもいったらよいか。私たちがキリストの福音に生かされる信仰について簡潔に教えるものだから、洗礼の時ばかりでなく、繰り返し、読み、確認するようにとルターはこれを書いている。

『アウグスブルク信仰告白』
1530年、アウグスブルクで行われた神聖ローマ帝国議会で読まれたもので、ルターの宗教改革に賛同する信仰的立場を表明したものといってよいだろう。執筆はメランヒトン。意図は、当時危険なものとされたルター派陣営の信仰的立場は、伝統的なキリスト信仰にあるものであることを表明しつつ、「信仰義認」の福音理解とそれに基づく教会・信仰者の在り方を簡潔に言い表している。

『「キリスト者の自由」を読む』
「キリスト者の自由」は、1520年後に宗教改革の三大著作といわれるようになる主要な改革的信仰を著したものが書かれるが、その中の一つだ。日本でも世界でも、おそらくルターの著作の中で『小教理問答』に続いて最も親しまれてきたものと言って間違いない。短いけれども、キリストによって生かされる信仰者の生を、非常にわかりやすく示されている。これをルター研究所の所員たちが、現代の脈絡のなかで読みながら何を学ぶことが出来るかと簡単に解説したもの。

出来れば、宗教改革500年を迎えるこのときに是非教会でも、個人でも手にとって、これらを学んでいただけるとよいと思う。

注文はアマゾンでも可能かとは思うが、できれば、お近くのキリスト教書店からお求めいただくと書店を支援することにもなる。
また、リトン社の三冊は直接出版元に注文することが出来る。教会ごとにまとめて注文いただくとよいだろう。

リトン社
電 話:045-433-5257
FAX:045-402-1426



2016-10-17

『「キリスト者の自由」を読む』

日本福音ルーテル教会の宗教改革500年を記念した特別企画、推奨4冊の最後の出版となる『「キリスト者の自由」を読む』(ルター研究所編、リトン社)が10月1日付けで出版された。

                   

 この本では、ルターの著作のなか最も多くの人に読まれ、愛されてきた『キリスト者の自由」(1520)を取り上げているが、新訳ではない。紹介したものはすでに公にされている徳善義和先生の抄訳にとどめている。この本は、むしろ、ここに著されたルターの神学的主張が何か、ルターが生きる中で何を問い、信仰の中でその答えを求めていったのかを確かめつつ、それが現代に生きる私たちにどのような意味を持っているのかという考察をまとめていったものだ。執筆は、ルター研究所所員が分担執筆を行っている。

 取り上げたテーマは
・自由
・律法と福音
・信仰義認
・全信徒祭司性
・信仰と行為
・愛の奉仕

(ちなみに、私も「全信徒祭司性」を担当させていただいた。)
加えて、信徒の方にも加わっていただいた座談会も収録している。
単に、宗教改革の記念的著作を読むということではなく、現代の社会と教会に生きる私たちを考えるうえでも、是非、これを用いて学んでいただければと思う。

ご注文は、以下の出版社に願いたい。
リトン
電 話:045-433-5257
FAX:045-402-1426

また、本文の訳と詳細な注解は徳善義和先生の『キリスト者の自由ー訳と注解』(教文館、2011)を是非お求めいただきたい。https://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2013/09/blog-post_23.html

2015-02-28

2015年 教職授任按手礼拝

今年2015年、日本福音ルーテル教会には4名の新しい牧師が誕生する。明日、3月1日は、そのための按手礼拝が日本福音ルーテル教会の宣教百年記念東京会堂で行われる。



今年、日本ルーテル神学校は5名の卒業生を送り出すが、そのうちの4名が日本福音ルーテル教会の牧師となる。それぞれ、1月に行われた教職試験と任用試験を合格し、2月の常議員会で任地を与えられた。甲斐友朗氏は日本福音ルーテルシオン教会、関満能氏は、日本福音ルーテル水俣教会・八代教会、渡辺高伸氏は日本福音ルーテル新霊山教会、渡邉克博氏は日本福音ルーテル浜松教会・浜名教会へと赴任する。

今年は、定年を迎えられた牧師が5名であったから、4名の卒業でも間に合わない計算だ。これから10年ほどは、牧師の大量引退時代。卒業はおそらく年平均で2.5名くらいだろうか。教会・神学校は共に協働して、次に牧師となる人材を育てなければならない。

日本ルーテル教団の神学生、笠原光見氏は3月8日に教団の神学院卒業式を迎え、4月からは日本ルーテル教団浦和教会へと赴任される。合わせて、祈りに覚え、支えていただければと思う。


2014-01-23

教会が社会的・政治的な問題に関わるとき その②

それでは、具体的に教会がその時に対応して、教会としての声明を出すということをどのようにしたらできるだろうか。教会が教会としての立場・見解を表すと言うことは、原則的に教会の総会において決議されたことにおいて表される。

(例えば、最近の例でいうと日本福音ルーテル教会は2012年の5月の総会で「一刻も早く原発を止めて、新しい生き方を! 日本福音ルーテル教会としての『原発』をめぐる声明」を決議している。反原発の声明では、同時期に日本聖公会も総会で声明を採決している。http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2012/07/blog-post_10.html )

しかし、例えば今回の首相の靖国参拝が突然なされたような場合、その時に応じて、教会が何かを声明として明らかにするとき、教会の総会を開いている余裕はない。
そうすると、教会は結局実際には時に対応した声明、意見というものを公にはできないのか。

現実には、多くの教会は、そうした場合のために常設の委員会や団体を持っていて、それが教会に代わって声明を公にしている。あるいは、教団を代表する人格(議長や司教、主教など)が声明を出すという具合だ。それで、後から必要ならば、教会の総会で報告承認、もしくは改めて決議をする。そうでなければ、委員会名の声明や個人名の声明ということに留まるということだ。

じゃあ、誰がどういう形でその役割を担うのかということが実際の問題になる。また、教会においてそれぞれの委員会ごと、あるいは個人や団体でもそこにはどういうレベルの違いがあるか。やはり総会で決議されるような場合は最も重たいものと考えられるだろうが、そうでないものについては、どういう序列、教会での重みの違いを認識すればいいのだろう。

日本福音ルーテル教会においては考えてみると、もしかしたら、信仰と職制委員会がそうした役割を総会から委託されていると理解して来た伝統があるかも知れない。この委員会の前身?が信仰告白委員会であったとも聞く。総会で直接選ばれた常置委員会だから、総会閉会中の責任を担う常議員会とは立場を異にしても、自らそうした意見・声明を発信する可能性もあると考える意見もある。
しかし、実際にはそうしたことが規則上なにも決まっていない。また、2002年度の総会で社会委員会が設置されてから、信仰と職制とその委員会役割についてのスミワケの意識が徹底してはいなかった。そして、社会委員会は規約によって委員会独自の活動ということができない仕組みになっていて、実際に必要なタイムリーな働きを担えては来ていない。だから、結局は議長や委員会、委員長がなにがしかのアクションを起こしうるということもはっきりとしていない。だれがいつどういう形で声明を出せるのか、どういう秩序があるのかが今の段階では明らかではないのだ。それが今の日本福音ルーテル教会の状況だ。そうだとすると、今のこの段階で、どこかの委員会が何かを言っても、その根拠も責任も明瞭ではないということになる。

今回、首相の靖国参拝のみならず、社会的政治的な動きに懸念すべきことが起こっているというなかで、信仰と職制委員会はこれに向けて声明を出そうと話し合い、首相にむけた声明案を検討するところまで準備した。しかし、教会の今の状況の中では、まず秩序を整えることが必要だということが改めて認識されたのだ。そこで、常議員会へその旨報告して、声明を発表することを控えたのだ。本当は、なにかアクションを起こすべきときだという強い認識があったが、しかし、結局、このままの状況で何かを発信しても、それは教会のどういうアクションとしても位置づけられない無責任な言いっぱなしのものになるのではかえって良くないだろうと判断されたのだ。

同時に、改めて考えさせられたことは、こうした声明などは、それを公にすればそれでよいというものではない。
声明は一方では、外に向かって表すものだが、同時に教会の中に対して自らの有り様を示すことにもなる。信徒の一人ひとりに向けて、私たちの教会の信仰的な考えからすると、こういう問題について、いま教会はこう考え、こういう訴えをしていくのだということを教会の信徒の人々に呼びかけ、考えてもらうという教育的な働きと言えるかも知れない。だから、教会は、こうした声明を受けて教会のなかでその問題をどう考えるのか学びや意見交換などがなされ、信徒の皆が個人としても市民として国民として考え行動ができるように働きかけることもまた大切なことだ。個人個人の考えを尊重すること、異なる考えがあることを認めること、それでもなお大事にすべきことを一緒に考えること。教会のなかでそうした話し合いがなされていくことをどうつくっていけるのか。それこそが声明を出していくと言うことを内実化する。

さらに言えば、具体的に一般の人々のなかにある考え、その背景にあるムード、問い。それにたいしどのように教会が向かい合い、そこにどんな言葉を持つのか。そうしたことも考えていく必要がある。

だから、この目下の課題について、今、日本福音ルーテル教会は委員会レベルでも声明はまだ出ない。こうした課題を確認し、その課題をしっかり受け止め、取り組む。その歩みを確認できたことはなによりも大切なことと思う。今更と言われるかも知れないが、こういうことをしっかりと考えていくこと、常に確認していくこと。それが責任あるあり方だと学んだ。
(今回、信仰と職制委員会に参加しながら、話し合われ、共有された問題意識をここに記録した。)


2014-01-12

教会が社会的・政治的な問題に関わるとき その①

 安倍首相の靖国神社参拝は、国家安全保障会議(日本版NSC)の創設、特定秘密保護法の強行採決、武器輸出三原則の緩和や沖縄米軍基地の辺野古移設による固定化など一連の動きと相まって、首相と現政権の進もうとする道行きの危うさを示していることに、多くの教会関係者が憂慮を表して来ている。すでに、別に書いたように、様々な教会が委員会名や教団のしかるべき部署・委員長などの名前で安倍首相に対する抗議声明を表している通りだ。http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2013/12/5201413.html

 私が、個人的に各教会の抗議声明について書いたものをSNSで紹介したとき、ある方が、こうした教会の反応が公にされると、同じ考えではない信徒にとっては、教会にいづらくならないか。キリスト教が皆そういう考えを持っていると一般の人たちから思われるのは迷惑なことではないかというような意味のコメントをいただいた。コメントは、おそらくご本人がすぐに削除されたので、もう見ることもできず、正確なことばではない。しかし、こうした声が出されたこと、そして、それがすぐに消されたことは見過ごすことのできないことだと私の心に刻まれた。

 信仰者が一人ひとり、政治的な課題について自らの考えを信仰的に表明しているかぎりは、同じ教会にあっても、それはその人個人の考えであって、それぞれ違う意見を持っているかも知れないということは、一般的に理解されることだろう。しかし、教会が一つの声明を出すという場合、外から見れば、その教会に属しているということが、その教会の見解を自分のものと信じる立場にあるという意味に受け取られるだろう。少なくとも、会員としては、その教会に属する自分がもしその教会の表明した見解に一致できない場合に、その教会との関係について悩むに違いない。実際には一人ひとりの考えや思想を教会が強制的に縛るということはあり得ない。けれども、一般的な意味から考えれば、自分の所属する教会が公にした意見を受け容れられないなら、その教会の考えとは違うということを何らかの形で表すことを真剣に考えさせることだと思う。
 
 あのコメントが私に伝えたかったこととは、そういう難しさを感じる信徒があるのだという真実だ。しかし、そのコメントが取り消されたということは、そういう一人ひとりの逡巡、戸惑いを表わしにくいということでもある。それだけ、それぞれの信徒の心の中にこうした割り切れないような、居心地のわるさのようなものが沈んでいるということだろう。

 だから、教会が信仰内容に直接関わることなら、教会を割ることがあっても言わなければならないけれど、社会的・政治的な問題に教会として声明を明らかにするということには慎重であるべきだという考えが一般的だ。教会の一致は福音理解によって一致するのであって、政治的な立場や思想上の違いによって、教会にいづらくなるということがあってはならないし、教会の一致が保たれないことになるとは考えにくいことだからだ。日本福音ルーテル教会は2008年の総会で教会が社会問題に関わって見解を表明するということに関して信仰と職制委員会の見解を決議している。こうした理解をもって、教会は、絶えず少数であったとしても異なる意見や考えを持つ人々について配慮をし、声明などを明らかにすることに慎重さが必要である、としている。

 しかし、一方で教会が教会としてはっきりとした態度表明をすべきときもある。第二次世界大戦下、ドイツでナチズムがユダヤ人迫害の政策を推し進める中、その国家政策に従うドイツ的キリスト者という運動を教会の中に作り出していった。そのとき、告白教会という少数の教会がこれに反対し、国家の政策に対して抵抗運動を展開したのだ。それでも、抵抗し切れずにはげしい弾圧をうけた。そしてナチスは力づくで世界戦略を展開したのだ。しかし、戦争が終わって教会は深い反省を持ち、ナチスに抵抗し切れず戦争の悲劇をもたらしたことへ深い罪責の告白をしている。前にふれたニーメラーは、自分たちが告白教会としてできうるかぎりの抵抗をしたのにも拘らず、その事態を止められなかった責任を、頑張ったけれど力及ばなかった言わず、止め得なかったことを「わたしの罪、わたしの罪、わたしの罪」と告白した。歴史に生きることへの責任意識だ。
 日本の教会にも、同様…とまでは言わないが似たような状況があって、戦時中プロテスタント諸教会が日本基督教団へ合同したこととその教団としての戦争協力に用いられてしまったという深い反省がある。そのことへの戦責の告白は、教団名において明らかにされることはなく、戦後12年経って、教団の議長名で公にされたに留まった。日本福音ルーテル教会は戦後すぐに教団から離脱していたために、この問題については積極的なコミットはできなかったし、しなかった。ただ、このことについては、それぞれの離脱したかどうかに拘らず、プロテスタント諸教会において(おそらく日本基督教団自体もふくめて)、忸怩たる思いがあるかも知れない。しかし、それhどうあろうと、少なくとも同じ過ちは繰り返してはならないということについては異論はないだろうと思う。
 だから、キリスト者は、まして教会は、戦争と平和、基本的人権に関わるような社会的問題に対して、特に社会のなかで弱い立場にある人々のことを自らのこと以上に考えて、信仰の故に特定の見解を表明するということがあり得る。いや、まさに時に応じて、信仰者個人個人のみならず、教会が教会として、信仰的な立場から一定の見解、声明を公にする必要がある場合があるのだ。

 日本のようにキリスト者人口が1パーセントに満たないマイノリティであることは、その意見表明にどれほど社会的な影響力があるのかと問われそうだ。しかし、影響力を持つことだけが、意見表明の意味ではない。自分がどこに立っているのか明らかにするべきときがある。教会がキリストの教会として、この世界への責任、隣人への責任を果たすために、声をあげていくべき時がある。それがどんなに小さな声であったとしても、キリストの教会であるために声にしていかなければならないことがあると思うのだ。
 (この主題については、続きを書く。)



2014-01-04

第48回教職神学セミナー「礼拝改革―変えるべきものと守るべきもの」

 2014年2月に予定されている今年度の教職神学セミナーのテーマは「礼拝改革―変えるべきものと守るべきもの」だ。



2000年代に入ってから、日本でも「礼拝学」関連の本が次々と発行され、礼拝についての関心が再び高まってきている。それはまた、プロテスタントの各教派で様々な礼拝刷新、新式文の作成などの動きとも関係している。
 こうした傾向は、もともとは19世紀後半から20世紀のあいだにカトリックを中心として起こってくるリタージカル・ムーブメントの大きな流れの中から起こってくるものと考えられよう。その大きな成果は第二バチカンにおける典礼憲章(1963)にも結びつく。また、プロテスタント教会にも大きな影響を与えることとなっている。
 このリタージカルムーブメントの起こりは、はじめカトリックの中世的伝統の確かな継承ということにあったと言えるが、古代教会における諸々の文書の発見と研究が、やがてより古い伝統の回復へとなっていく。そのことが逆にエキュメニカルな礼拝改革運動へと展開していくことにもなったと言えよう。
 こうした礼拝改革の動きは、しかし、そうした「古代」の伝統の回復という衣をまといながら、むしろそのことの中で確かな「現代」への対応が進んでもいる。そして、そういう礼拝が私たちの信仰の内実に深く影響を与えていることを無視できないし、また逆にそれだからこそ、今回復や強調が必要な礼拝の実践ということもあるだろう。
 例えば、聖餐のパイエティというものの回復はその典型だ。礼拝の中心としての聖卓の回復が起こり、同時に信仰の交わりの祝いが回復される。それは、現代における宗教的個人主義の時代には、とりわけ大切な視点だと言ってよい。その流れの中で信仰の道筋や罪の自覚と赦しのパイエティにも変化が起こっていることも確認されよう。大変具体的な課題だからこそ、無自覚に流されるのではなく、その変化が何を意味しているのか確認が必要なのだ。
 そこで、こうしたエキュメニカルな礼拝改革の流れの中で、プロテスタンティズム、あるいはより具体的にルター派神学ということをどう捉え、またそのことから礼拝をどのように考えたら良いのかということが今一度確認される必要がある。そして、この礼拝改革の流れには、漫然と流されるのではなく、主体的に道筋を見いだしていかなければならないと思う。
 第48回教職神学セミナーでは「礼拝改革―変えるべきものと守るべきもの」とテーマを設定し、私たち自身の礼拝への取り組みそのものを問い直してみたい。
 2014年の2月10~13日、ルーテル4教会・教団の教職の継続教育プログラムとして行われる。
 

2013-12-06

『牧会者ルター』

 ルターによる宗教改革の神学は、一人の信仰者としてのルター自身が、人生の歩みの中で福音によって生かされていくその試練・格闘の経験から出発している。神学的な論争は、主として当時のローマの教会とスコラ神学、また熱狂主義的運動に向けられているが、その神学の根っこは牧会的であり、実践的な魂の配慮に満ちている。
 そんなルターの牧会者として姿、またその神学を人生の様々な視点において浮き彫りにし、今日の私たちの信仰生活にも直接いきてくる神のことばに立つルターの信仰と神学を伝える一冊。石田順朗先生による『牧会者ルター』。聖文舎によって出版されていたものが2007年に教団出版から復刻されている。

                

神学生は必読の書。牧師の本棚にも必ずおいておきたいもの。