2016-07-30

『星の王子さま』

サン・テグジュペリの名作。大学のとき、フランス語のテキストだった。

                  
 三つの火山とバオバブの木、一つのばらの花が咲いている小さな星の王子様。このばらがいろいろと王子を悩ますので、旅に出ることにする。さまざまな星に出かけていき、その星の住人たちと話しながら、新しい発見をする旅のなか、地球に到着する。
 そこに火山もばらも見つけた王子様は、自分の星がひどくつまらなく感じられてくる。でも、そこに新しい出会いがあって、王子様はそれまでと世界の見方が一変する。
 出会ったのは、一匹のキツネ。このキツネとのやり取りはこの作品で最も有名な箇所だ。是非読んでほしい。
 キツネは「仲良くなること」、「ひまつぶし」といわれるような、何かを目的にした成果を求める時間ではない、ただ、その人とともに過ごす時間、その人のために費やす時間を重ねることで、その相手は他の存在と比べることの出来ない、かけがえのない存在となることを教える。それはまた、自分をかけがえのないものとすることでもあるのだ。そして、そうやって人と過ごすことで、人にはその人にしか見えない特別な意味の世界が広がってくることを教える。王子さまと仲良しになったキツネは、別れを悲しんで涙が流れる。悲しみが結果するなら、仲良くなんかならなければよかったのか。いいや、そのかけがえのない出会いによって、黄金色にかがやく麦畑は、キツネにとってこの王子様を思い出させる特別な意味を持つようになる。つまり、この関係を生きたことが、世界の存在の意味をかえるのだ。
 大切なものは…という有名なことばだけでなく、一読して、それぞれに考えてみてほしい。意味ある世界もかけがえのない自分も、関係によって、うまれてくるのだ。何かについて優秀だからでもないし、すばらしいものをつくれたからでもない。歴史や社会で活躍できたからでもない。その存在を共にすること。その人と生きること、その人のために生きること。互いが、互いをもつことでこそ、各々のかけがえのなさがそこに実感される。
 
 

2016-07-25

『90才の信仰エッセイ90』ケネス・J・デール著

 今年90歳を迎えられたデール先生は、今年その90歳のお祝いをかねて来日を果たされ、神学校付属のデール・パストラル・センターのデール記念講演でご本人としてお話しくださったことはすでにご報告した通りだ。
 先生は、この記念の年に信仰エッセイを書かれご出版なさいました。もちろん英語でお書きになられたのですけれども、先生の来日とご講演にあわせて急ぎ翻訳を完成させこれをおわけすることが出来た。


 デール先生がこれまでの長い信仰生活と、現在も続けられている神学の学びの中で、90歳となられたからこそ、心に抱き、またお伝えになられたいと願ってお書きになられた珠玉のエッセイ。一つのエッセイが一頁におさまる短い文章だけれども、神との関係に心を置きながら、この世界の様々な問題について祈りをもって書かれたことがよく伝わってくる。懐かしい、優しい先生のお声やまなざしが、今も確かに主の声に応えて、ご自分を主と隣人に仕えるものとして供えていらっしゃるお姿が思い浮かぶようなエッセイだ。

 内容は、次のような9章立てでそれぞれ約10ずつのエッセイ。
  Chapter1. 神の探求
      Chapter2. 神、この不可解なるもの
      Chapter3. イエス・キリストという道
      Chapter4. そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう?
      Chapter5. 人格的な出会い
      Chapter6. 自分の中にある霊と 聖なる霊との関係を大切にはぐくむ
      Chapter7. その時、どのようにすべきか
      Chapter8. まるでポプリのように
      Chapter9. 終わり近く






2016-07-23

1980年代の学生時代を振り返って ⑤

 1985年、この年に自分は神学校に入学する。当時はまだ神学大学の3年生への編入という形で、3・4年生をすごし、大学を卒業してから二年課程の神学校へ進むという制度だったが、とにかく牧師となるべく、神学を学はじめることになる。
 この年、神学校に入って学ぶことは、何もかもが新鮮でした。課題となる図書もたくさんではじから読んでも間に合わない。そもそも聖書語学、ギリシャ語もヘブル語も憶えることばかり、加えて必修のドイツ語に時間のほとんどが奪われていくのでした。はじめの大学では教育を専門としていたという理由で、迷いに迷ったけれどもフランス語をとってしまっていたことをどんなに悔しく思ったことか。でも、語学はとにかく時間を費やせば必ず身に付く。全く取り組まなかった中学・高校時代の英語の学びの反省を生かして、とにかくこれには何時でも全力で取り組んだ。なので、読みたい本はもちろん、読まねばならない本も少しも読む時間がない。問題意識をもってきたはずだったのに、とにかく与えられるものをこなすしかないということなのだと、改めて学ぶということの厳しさに直面した。
 当時の一つの衝撃は田川健三の『イエスという男』だった。新約聖書、そして、イエスをこのように読むということをはじめて経験した。とにかく新鮮だった。二千年前のイスラエル、その社会構造とそこに生きる人々について、徹底した時代考証がなされ、見事な分析が展開している。イエス・キリストという神さまではなく、人間イエス、その生身の姿が当時何を語り、何をしたのか。聖書に描かれているところは、キリスト教信仰によってキリストとして描かれているものだけれど、その描かれた姿のもとにどのような実存が生きられていたか。それが何を意味したか。
 わたしが小さい頃から教会で育てられてきたから、イエス様についてはきっとたくさんのことを聞いてきたけれど、こうした考察ははじめて耳にするようなことだった。わたし自身の頭のなかに描き出されていたイエス・キリストの姿を揺るがしたのだった。そして、人間の世界に、イエスが生きたというその現実のなかでこそ、このイエスを救い主と呼んだその告白を考えなければ、信仰はわからないということに気づかせてくれたのだった。面白かった。いろいろな意味で、目が開かれた。
 ただ、田川のそれは、自分がその世界をあとにしてきた教育学研究室のあの雰囲気を思い出させた。それは、マルクス主義的社会分析に強く影響されたものに見えて、逆に懐かしくも思えたのだ。そして、これではだめだったのではないか、と自分の信仰の足場をもういちど確認したいと、もがきはじめることになる。
 その時に、イエスをどう見るのかということを、徹底して考えさせられていく。ちょうど、それに参考になるように呼んだのは、H・G・ペールマンの『ナザレのイエスとは誰か』であった。ユダヤ教や他の宗教、哲学のそれぞれの分野にあるものたちが、どのようにイエスを考えるのかということを提示しながら、キリスト信仰はそのどれも一部に認めつつ、それらの主張を超えていくものとして、考えさせられていく。
 改めて神学の語ってきたことが何を言っているのか、学びを深めたくなったのだった。

1980年代の学生時代を振り返って ④

 1983年に尾崎豊のファーストアルバム『17歳の地図』とシングル『15の夜』が発売された。学校の校舎、規則、計算高い生き方、わかり合うことも、信じることも出来ない大人の世界の虚偽と建前を拒否して、決して器用に立ち回れない思春期の孤独、傷つきやすい、純粋な心が愛を求めて彷徨い、駆け出す。思春期の「反抗」を絵に描いたように歌い上げる彼のような心は、おそらく、子どもの世界と大人の世界に明白な線引きがまだ有効であったこの時期までは生きていたというべきだろう。
 ちょうど同じ年に、任天堂からファミコンが発売されて、子どもから若者までの多くの時間は瞬く間にゲームへとスライドしていった。わずかに残っていた活字に向かう契機があっという間にバーチャルな世界の画面へと流れてきえていく。ジャンプのドラゴンボールの連載は84年からだったが子ども向けのマンガ週刊誌からヤンジャンやビッグコミックなどのコミック週刊誌まで、若いサラリーマンの鞄の中に忍び込む。このころのスポーツ紙はまだ売れていたかも知れないが、大人がどんどん子ども化していく時代に突入したのが80年代だったように思う。
 ウォークマンのヘッドホンが公共の場のなかにさえ自分のプライベートな時間と空間を持ち込んで移動するようになっていくのが当たり前になったことも影響するのか。社会というものの存在よりも個人化した世界のパッチワークのように人が生活をすりあわせていく世界が立ち現われるようになる。

 それでも、そういう社会のなかで、大学を卒業すれば、汗を流して真面目に仕事をしていくものだったのだけれど、なぜか立ち止まってしまったのは、漠然とした不安からだったかもしれない。この時代に、自分が何をして生きるのかと、モラトリアムとの批判を覚悟しながら大学卒業後の二年間を大学院の聴講と神学校の聴講、受験準備にあてていた。世界というものを見渡す力はなかったけれども、漠然とした不安を持て余すようにして、自分のなすべきことを考えていたように思う。

 フランクルの『夜と霧』のなかで、「自分が人生に何を期待するかではなく、人生が自分に何を期待するか」という人生への観点変更ということが言われていて、まさに、自分が何をしてこの時代に応えていくのかと、牧師への道にたどり着いていったのだ。
 

2016-07-21

1980年代の学生時代を振り返って ③

 山口百恵の引退が1980年。今で言えば「百恵ロス」ということだろうけれど、同世代を生きてきた自分にとっては一つの時代が過ぎ去ったと、新しい歩みに促されるような出来事だった気がする。百恵は清純派アイドルなのに、歌う歌詞はすこしキケンな香りで、一般的な清純派イメージを崩しながら、思春期から大人の女性に成長する姿を楽しませたアイドル像だった。山口百恵を論ずるほどには通じているわけではないけれど、貧しい家庭に生まれて新聞配達のバイトまでして家族をささえるような少女だった彼女が、同じ世代の活躍に心揺さぶられて「スター誕生」に応募して、苦労しながら夢を実現していったときいていた。その姿は、時代が求めた一つの「偶像」であったのかも知れない。高度経済成長時代が終わり、浅間山荘事件やオイルショック後の、ある意味で重苦しい70年代に、夢を描き、幸せを求める人々の心とともにあったアイドルだった。その引退が「結婚の幸せ」であり、彼女がそれ以降全く芸能界から身をひく潔さも、一般の多くの人々の苦しみと希望を共にしてくれたということであったかもしれない。拍手喝采で、彼女の引退を見届けながら、自分たちはどこへ行くのかと、同世代を生きた多くの心は何かを求め、自分を見つめる。引退後の彼女の「結婚の幸せ」が、確かに幸せであってほしいと願いつつ、もはやその幸せには自分たちを重ねていくべきものはないと、突然不安になるような何かに直面していたのではなかったか。

 このころから、個人的にももう歌番組は年末以外はあまり見なくなったかもしれない。百恵をつくった千家和也・都倉俊一、阿木燿子・宇崎竜童の歌謡曲の時代が一つに区切りを迎えていたということでもあるかもしれない。

 と同時に、あの頃しきりにポスト・百恵が誰かということが話題となって、「アイドル」という存在について漠然と考えさせられたように思う。アイドルとはよくいったもので、それが「偶像」という意味であるとしるが、なるほどいわゆるアイドルは同世代を生きる者に擬似宗教的体験をさせるものだし、また、そのアイドルによって自分に慰めや力を受け取っていったとといってもいいほどに、自分を投影させる存在なのかもしれない。そこに登場するのが松田聖子だった。こちらについては、なおのこと上手くかけない。けれど、いつか少し書いてみよう。

 とにかく、時代はバブルの全盛期に入っていく。女子大生ブームもその頃だったかな。しかし、漠然とした将来への不安が立ちこめていく。そんな時代でもあっただろう。豊かさや便利さは私たちの生活のスタイルと経済を大きく変えていったように思う。この80年代にコンビニエンス・ストアが広がりはじめる。住宅街のなかにも点在していた小さな商店街は、地域のなかの大型スーパー(西友など)によって、存続が難しくなっていったが、それぞれの街角には消費のニーズがあり、宅配で成り立っていたお米や牛乳店、酒屋などがコンビニに転換していく。これは、あっという間に町並みを変えていったように思う。一足先に広まっていたファストフードとともに、マニュアルによる統一したサービスは機能的で合理的、消費社会の新しい接客のスタイルを造り出す。こういう生活がひろがっていったのはこの時代だった。
 80年代前半の教育学研究室での一つの話題は、高吸水性ポリマーによってもたらされた新しい使い捨ての紙おむつ話題だった。忙しい働くお母さんには画期的な便利さだったが、母子関係に大きな問題をもたらすのではないかと語られたのだ。つまり、このおむつは、おしっこやうんちをしても子どもが不快感を持たずに過ごし、親に訴え、「泣く」ことがなくなる。親は、自分の都合で定期的にチェックをして、取り替えればすむ。極めて便利な代物だが、これでは、親と子の関係が今までとは代わり、不快と快という赤ん坊にとって最も基本的な欲求の満足に親が関わるコミュケーションが失われいくことで、人間関係に根本的な変化が起こり、これは人格発達に大きな影響をもつのではないかといわれたのだ。

 便利さは人の生活に余裕をもたらし、あまった時間に人間的なコミュニケーションが豊かにされていくということが、まことしやかに語られていた。しかし、それは本当なのだろうか。その頃教育学のゼミで取り上げたのがミヒャエル・エンデの『モモ』(1973年にドイツで刊行、76年には日本語翻訳が岩波より)だった。時間泥棒の灰色の男たちが世界から時間を奪い、人間性を奪い取っていく。その世界にもう一度人間性を取り戻す少女モモの活躍が描かれる。時間をかけて、ひとの話に耳を傾け、その人を愛するモモが時間泥棒のシステムを崩壊させて、時間を解放させるという話だけれども、ちょうど世界の便利さのなかにゆったりとした新しい時間と人間性が謳われながら、実は忙しいだけの世界になり、人間関係が壊されていく現実をひしひしと感じたあの80年代に学ぶにふさわしい教材だったように思う。それほど、見える形で世界が変わっていった時代だったという気がする。



2016-07-19

1980年代の学生時代を振り返って ②

 神学校に入る決心は、実存的に遍歴があってのことだったから、一口で語ることはできない。
 けれど、一番簡単に言えば、教育学の大学院受験に挫折をしたからだ。この挫折は自分を見つめ直すきっかけになった。当時の自分には、あのアカデミズムの中で学的な取り組みをするということに自信が持てなかったということなのだ。学部の卒論を書きながら、子どもたちとの出逢いを生きたいという願いと、論文を書くという作業とはどうしても相容れない別々の道だと思われた。研究者には教育の現場はやはり遠いものとなってしまうのだということに耐えられないという思いが当時の自分の心に働いたのだと思う。人と出逢い、人と一緒に生きる。そういう中で自分の存在が研究を通してではなく、もっと直接的にふれあい、支え合うものでなければ自分の存在の意味がないと思われたのだ。まあ、そんな言い訳をしながら、自分の研究者としての将来像を描くことができなかったということだと思う。
 いずれにしろ、この院の受験失敗の挫折によって、自分が世界の現実と向かい合うためには、もう少し遠回りをしながら、自分をしっかりと見つめてみなければならないと思ったことは間違いない。
 そして、この自分ということを考えた時に、大学時代には教会に少しも真面目に通って来なかったにもかかわらず、自分のキリスト者としての自覚だけはやけに強く抱くことにもなっていた、この薄っぺらな自分の虚偽に一度しっかりと向かい合っておかないではいられなかった。それで、神学校で聴講をはじめることになる。そうすると、これは渇いた土が水を吸い込むように、自分の中に教えられる一つひとつがしみ込んでいくのを感じたものだ。ただ、同時に奥が深い世界であることにいささか腰が引ける思いでもあった。
それで、自分は何かしっかりとキリスト教について学ばなければと思いはじめ、内村鑑三を読み、矢内原忠雄、前田護郎などを読み、神学校の受験準備にも取り組んだのだった。

 そのころ、つまり、教育学から神学への転向を考えた時期、熱心に読んだものは、キェルケゴールだった。ヘーゲルからマルクスへと展開する流れに逆らう自分にはまず、この実存主義から学んでいかなければならないと思えたのは、自然なことだったのだろうか。僕自身としては、ごく単純に、このキェルケゴールの世界には自分自身のキリスト教信仰への大きなチャレンジがあると思えたのだった。かつて高校時代に倫理の授業で課題図書となった『死に至る病』を今一度読み、『あれか、これか』『おそれとおののき』『不安の概念』『愛について』などなど、このときもとにかく取り組んで読んでみることだけに集中した時間があった。まだ、神学校に入る前のことだ。ギリギリと自己を追いつめていくキェルケゴールの在り方が、自分の甘っちょろい信仰が問い返されていく感覚だっただろうか。取り付かれたように読み進んでいった。

 おそらく、その読書の影響なのか、信仰は決断だという理解をもっていた。神学校に入って、それがブルトマン流の実存主義的信仰理解に近いことを知ったが、同時にそれが自分の最大の欠点だということにも気づかされることになる。でも、それは神学を学び始めなければ決してわからなかったことだったように思う。
 信仰の事柄は、決断なのだと言い切ることが、じつは最も合理的なのだとそう思っていたのだ。キリスト者とそうでない者との間には、なんにも区別がない。神様は等しくだれにも救いを差し出しているし、すでに一人ひとりに救いは約束され、その人のものとなっている。しかし、それを知らなければ、まず、その価値を理解できないし、知ったとしてもその恵みを受け取ることは、同時にキリストに従うという新しい生き方を造り出すことになるので、その決断が伴わなければ、信仰とは言えない。決断がなくても救われているが救われたことを知って決断するところにこそ信仰がある。だから、決断こそが信仰だと。洗礼は決断を示しているし、聖餐はその決断の表明に他ならないと、そんな風に思っていたのだ。
 もちろん、こうした考えに至るには理由があった、洗礼を受けるか、うけないかということによって、救いの有無がきまるということがどうしても納得いかなかったのだ。なぜなら、洗礼の機会をもたない人もいるし、ましてキリスト教など存在しない時代、伝得られてもいない場所もある。間違って教えられた人だっているだろう。そうした個人的な偶然が、洗礼からその人を遠ざけるのだから、それで救いの有無がきまるのはあまりに不条理で、神の平等・普遍の原則に合わない。だから、救いこそは普遍でないといけない。だれもが救われている。ただ、その救いを知って、その救いに応える決断が信仰であって、信仰に生きるということは、救いへの応答なのだと。これはまことに理屈に合うと信じていたのだ。
 しかし、そうなるともはや洗礼も聖餐もそこにあるのは、もはや神の働きなのではなく、人間の決断となってしまい、そこに何ら救いの働きをみないことになり、そうなると、もう信仰や救いは限りなく人間の業の中にのみあることになってしまうのだ。そうなると、もはや十字架のイエスは模範とはなるが、恵みの賜物にはならない。十字架は必要ないことになる。まあ、われわれを決断へと促すためのささやかな演技のようなものなのに成り下がるのではないのか。こうした実存主義の弱点について気づかされるのは、神学校の学びを通してだった。

 神学校の専門的な神学の学びは、あまりに忙しい学びではあったが、改めて神学的なものの考え方をきたえられていくことになるのだ。 
 


2016-07-15

1980年代の学生時代を振り返って ①

 女優、桐谷美玲が携帯電話のCMで、一月の低額使用の値段を年代と引っ掛けて1980年台を垣間見せる。バブル期のディスコ、クラブのボディコンを懐かしく思う人もいるだろう。ちょうど80年代に学生時代を過ごした自分は、改めてあの時代を思い起している。1990年に按手を受けて牧師となった自分は、80年代を丸まる学生として生きたのだ。

 70年代の一番終りに大学という世界に入った自分は、今まで何も世界を知らずに生きてきたことを深く自覚させられたものだった。大学には立て看板が並び、まだわずかに残る学生運動の残り火のようなものが、お定まりの言葉で政治的関心をアジるような時代だった。ごくごく単純に、人間への関心と教育学部に進んだ兄の影響もあって教育学を学ぼうかと漠然と考えながら大学生活をはじめたものだった。大学に通って、はじめてこの日本に、今もなお差別・被差別の現実があるなどということを知ったのだった。事程左様に無知であった自分に、今の現実社会をありのままに見るという視野を広げてくれたのは大学という場であったことは間違いない。
 大学とは、就職のための準備とか、資格を得るための場所ではなく、四年間という時間が与えられ、学問の世界で「世界を視る」ということを学ぶ時間だと思ったものだ。まだまだみんなが大学に行くという時代ではなかったから、大学に進学するということについては、特別な責任のようなものを受け取ったのは、僕らの時代までだったかも知れない。
 そんな中で、史的唯物論、つまりマルクス主義が現代世界を見事に分析して見せるのも心地よかったのだろう、学生たちが自分たちの貧しさとそれでも大学教育を得られた特別な使命感を感じて使命感と自負心をくすぐられるようにして多くの意識ある学生は「民青」、もしくはその系統のサークルに身を投じていった。そんな学友が、高邁に政治的問題関心を僕に話しかけ、しきりに勧誘の触手を延ばしてきたが、そんな輩に限って勉強しないで、カンニングして単位を取ろうとする。真面目な先輩も数名はいたけれど、往々にして語ることがいつもだれでも同じになる人たちの仲間には入りたくもなかった。むしろ、彼らとは違うという意識を強くもっていたと思う。その自分を支えたのはキリスト教信仰であったのは間違いない。大学時代、教会にはほとんどいかなくなったのだが、実は自分がキリスト者であるという強い自意識を生きていたのだったと、今改めて思い出す。いずれにしても、それほどまでに、自分のまわりには、史的唯物論が奉じられていたのだった。
 大学の教授もまた、このマルクス主義的哲学思想とそれに基づいた世界革命を民主的な世界の中で実現することをこころの片隅に置きながら、教育の現場で子どもたちの生活と人格の教育、そして歴史的主体の育成を実現することを望みつつ実践と理論の研究を重ねていたように受け取った。政治的な関心も高く、美濃部都政後の「今」を憂い、教育と福祉の重要性を訴えていたし、また日教組や教育研究集会などに具体的な貢献をする熱心な取り組みには、僕も尊敬の心を深く抱き、研究者は常に実践とともになければ意味がないということを知らず知らず習い受けたように思う。

 けれども、この80年代の前半は、すでに70年安保から十年経ち、ノンポリ、しらけ、新人類と学生たちの一般的な潮流は実はかなりいい加減なものになりつつあったように思う。ハマトラ、丘サーファーといった姿が街中を歩いていた。みんな似たようなスニーカーを履いたり、スタジャン着たりして。学生の多くがディスコがよい、そして麻雀にパチンコに明け暮れて、後はサークル活動に興じるようなところがあった。それでも就職に困らない。青田買いといって就職の時期には会社から大学の研究室にいい人材を先んじて採用内定を持ち込んで、当時まだ高いパーソナルコンピューター支給の約束などもしてくれるような時代だった。だから、学生は「遊ぶために大学にいる」などと揶揄されることがしばしばであったのは、こうした現実があったためだろう。
 実は、こうした現象の奥にあるのは、若者が若者として世界に触れて、新しい理論や世界観をしっかりと自らのものしていくための信頼あるアカデミズムが存在しなかったということであるように思う。72年の浅間山荘事件はまだまだ子どもであった私自身の目にも焼き付いている。当時の学生を燃え立たせたマルクス主義とその革命実践の行きつく先が、あのような私的暴力の中で内部から崩壊していったのを目撃した世代には、世界を丸ごと捉えるような、あるいは自分の存在を根底から支えてくれるような信頼を学問の世界にもはや見出せなくなったということであったかもしれない。
 いまだに岩波を小脇に抱えるような大学生活を送る、典型的な文系学生となった自分などは、おそらく少し時代遅れの面白みのない、野暮ったい人間であったかと思う。信頼のおけなくなった学問をかじるより、豊かな現実をこそ楽しむべきという雰囲気が次第に広がっていったのが80年代の前半であったように思う。

 83年が東京ディズニーランドの登場ということも象徴的だが、ちょうどその時期に学問の世界に新しい風が吹きはじめる。それが浅田彰、中沢新一らの颯爽とした登場だったように思う。『構造と力』『チベットのモーツアルト』は、大学生協の書籍コーナーに山積みになり、瞬く間に売れていった。知の新しい潮流がここにはじまったような感じだった。けれど、これこそが新しい時代への生みの苦しみのはじまりであったかも知れないと今は思う。
 ヘーゲル『精神現象学』やマルクス『経済学哲学草稿』に食らいつきながら、哲学はわからないと音をあげていた自分には、哲学をわかりやすく?手玉に取るように見事に論じていく著者の力量に圧倒されたのを憶えている。
 しかし、そんなアカデミズムの天才などに惑わされるなというのが、僕らの教育学研究室の雰囲気ではあったように思う。教育実践に根ざした研究によって、この子どもたちに、困難な世界とまた限りある能力をもつ自分自身に耐え、したたかに生きる力を育てるために、何をどのように教えるのか。そういうことに賢明になっていた現場の教師たちとの話しあいには、浮ついた哲学議論は噛み合ないと言わんばかりだった。
 そのころの自分はといえば、なによりもアンリ・ワロンの心理学に没頭しながら、ヘーゲルもマルクスもかじり、チャン・デュク・タオの『言語と意識の起源』とか、ジュリア・クリスティヴァの『中国の女たち」、ルネ・ジラールやイヴァン・イリイチ、パウロ・フレイレなどを手当たり次第に読みながら、現実世界の内実を捉えること、人間が人間としての関係を生きるということは何か手探りをするように学んだものだ。でも、読んでいるうちに頭がついていかなくなって、何のために読んでいるのか、読んだら何が得られるのかもよくわからず、大海に溺れ、迷走を重ねていく。
 ただ、そうした時代を経て、自分が神学校へと向かう準備をしていたように思う。神学校への直接の動機にはいろいろな要素が複雑にからみあっているのだが、いずれにしても、このはじめの大学生の時期に、もがきながら読書をした経験が神学校での学びを教会という現場の中で自分のものとするまで考えるということの訓練となっただろうと思う。
 ものを読めば、すぐに影響されて新しい言葉に飛びついて、上滑りになっていったものだが、そこからもう一度自分に立ち返って読まなければ本当に読んだことにならないと思うようになったのだった。そして、ちょうど神学校へいこうという決心をするころに岩波が取り上げたのがグティエレスの『解放の神学』であったのは、自分の歩みを象徴する一つのしるしであったように思うのだ。