2023-10-22

パレスチナ問題についてのルーテル世界連盟の声明

ルーテル世界連盟は、ガザにおけるハマスとイスラエルとの軍事的衝突について以下のような声明を公にしています。


ルーテル世界連盟の声明


不十分なものですし、この文体が相応しいかと悩むところもありますが、 とりあえず翻訳してみましたので、遅ればせながら、ここに記しておきたいと思います。


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1011日に発表された声明の中で、LWFはイスラエルとパレスチナの民間人に対する全ての当事者によるあらゆる攻撃を非難し、民間人と民間インフラが標的にされていることについて重大な懸念を表明し、人質の解放を要求し、国際人道法を遵守するよう全ての当事者に要請しました。



2023年10月11日

 

  ルーテル世界連盟の声明

 

ルーテル世界連盟(LWF)は、イスラエルとパレスチナにおける継続的な暴力の激化、特に民間人が標的となっていることに重大な懸念を抱いています。 LWFは、すべての当事者による民間人に対するあらゆる攻撃を明確に非難します。

 

LWFはハマスによるイスラエル国民に対する残忍な攻撃を強く非難します。 人質を取ることは容認されず、即時解放を求めます。

 

LWFはイスラエル軍に対し、国際人道法に従って行動し、交戦当事者ではない民間人の保護を優先するよう求めます。 一方の当事者による国際人道法違反が、他方の当事者による別の違反を正当化するものではありません。

 

ジュネーブ条約に定められた戦争規則は守られなければなりません。民間人を標的にすることは決して正当化されず、学校や病院などの民間インフラへの攻撃は容認することはできません。

 

ガザの人道状況は急速に悪化しています。 すでに数十万人が避難し、医療施設を含む基本的なインフラは破壊され、住民は逃げる場所がなくなっています。 避難を希望する民間人には安全な通行が保証されなければならず、援助が国民に届くよう人道回廊は遅滞なく開設されなければなりません。

 

LWFはイスラエルとパレスチナの両当局、そして国際社会に対し、ガザに閉じ込められ無力なパレスチナ民間人に緊急の救命支援を提供するため、国連や地域内の他の人道支援団体のアクセスを確保するよう要請します。

 

LWFは、この暴力の被害を受けたすべての人、悲しんでいる人々、恐怖の中で将来に希望を持たずに暮らしている人々とともにいます。

 

聖地の人々には平和が与えられるべきですが、それはイスラエル人とパレスチナ人の必要を満たし、聖地とその地域に長期的な安定をもたらす交渉によってのみ達成されるものなのです。

2023-09-07

パレスカトロジーの宴~死の向こう側の多元的世界へ~

桜美林の長谷川(間瀬)恵美子氏による研究企画で開催された「パレスカトロジーの宴」にパネリストとして招かれ、参加させていただいた。




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このパレスカトロジーのシンポジウム、午前と午後の二部制で、私自身は午後の研究のためのパネルディスカッションのパネリストとしての参加だった。パネラーは、他に安蘇谷正彦氏(神道)、大内典氏(仏教)で、私はキリスト教の立場ということで招かれたものだった。午後のディスカッションもそれぞれ大変興味深いものだった。限られた時間での発題ではあったし、お会いする先生方であったけれども、諸先生の奥深い研究には、個人的にもっと学びたいと思うきっかけをいただいた。
また、この発題も、午前中の饗宴を受けて、その印象を自由に話すという課題をいただいたので、その場で色々と考えつつの発言という形だった。私自身は、午前の饗宴も受け取りながら、何しろこうした芸術に触れる機会もあまりなく、それぞれの表現について話すほどの知識もあるわけではないため、大変舌足らずなものであったが、それでも、自由に話すということで、楽しい時間ともなった。

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とにかく、何よりも午前中の共演は、大変素晴らしいものだった。
饗宴は以下の通り
上村朋子(ピアノ)
桃井和馬(写真展示)恵泉女学園大学
雲龍(石笛他)シャナ
清水きよし「蝶」(パントマイム)
観世銕之丞 他「清経」(能楽)銕仙会
坂井佑円 「阿弥陀経」(仁愛大学准教授)
山田由希子(パイプオルガン)
それぞれに、今回のテーマにそった形で、いのちと死、死の向こう側ということを表現いただいた。

・はじまりは、前奏としてのピア演奏。ゆっくりと静かに流れる音は、私たちの日常のさまざまな思いや感情の変化に寄り添うものであった。礼拝で言うならば、前奏でありつつ、招きであり、また私たちの祈りを集めるような黙想の時を感じた。

・その流れの中、桃井和馬氏の写真がスクリーンに映し出される。戦争や暴力、飢饉、災害と現代におけるさまざまな「死」の現実が映し出され、見るものの心を揺さぶる。死ということ、さらに死後の世界などといえば、なおのこと抽象的で哲学的な思考実験のように考えてしまうところがあるが、私たちが現実に向き合う「死」が突きつけられた。深い悲しみや嘆き、怒り、切なさといった感情が湧き上がってくる。そして、そこに生物である人間の限りある命の終わりとしての「自然な死」ということが含まれているのだが、むしろ、その死が人間自身によってもたらされる「歴史における死」というものがはっきりと示されたと言ってもいい。激しく心動かされつつ。そのどれにも心をとどめていくことのできていない自分が佇んでいることも同時に示された。現代の生きる私たちがどのように生きているものなのか。その姿を示されてくるようであった。また、聖書に描かれる人間の最初の死は、カインによるアベルの殺害(兄弟殺し)であるということが、どんなにこの私たちの現実をよく見つめたものであったかということを思い起こさせた。カインのように突きつけられ問われても、「わたしは弟の番人でしょうか」とうそぶく。たとえ自分が加害者であったとしても、それを認めないどころか、他者について自分は関係ないと言い張る私たちの傲慢、自己中心性。そんなことも心に思い浮かんだ。


・実は、ここにはおそらく宗教というものに関しての本質的な問題が立ち現れるところだと思う。芸術(アート)は、いのちの始まりとか終わりということを含めて、神秘を捉え求めようとする営みでもあろう。

ちょうど、あのパントマイムで蝶が追い求められたが、私たちの命の営みは、何かその真実なものを求め続けるように営まれる。捕まえたようでいて、もっと美しいもの、価値あるものを求める。捕らえたはずのものも、その過程の中で死んだようになってしまうこと。蝶を捉えようとするのは、自分の主体的な営みなはずなのに、実は自分自身がその蝶に捉えられていたのかもしれないこと。そしてその真実な営みこそ、いのちの自由な羽ばたきを持っていて、私たちの有限性を超えて見せる。そんな表現を、感じた。


・実際、いのちや死の問題は、私たちが自分の人生を主体的に生きるという日常的感覚とは異なり、生かされている、与えられているというような受動的な感覚、被造物としての存在のあり方に気が付かされるという側面がある。そして、実際に宗教的な視点はそうした主体としての自分の存在(自我、エゴ)というところからの解放ということが救いとして生と死の二元的対立を超える状態へと導くというようなことが多い。その導きとして、ある種の感覚を研ぎ澄ますようにして(自分を捨てる、もしくは擬死体験のようなものも含めて)自分に働きかけるものとの出会うところが、いのちの源泉のように見出されていくことがある。宗教はそうしたものを見つめているところがあるし、また芸術も同様だということが今回の表現を通して考えさせられた。


・だから、この午前中の一つひとつの表現(パフォーマンス)の中に、生と死、日常と非日常、生者と死者などの豊な交換を受け取ることができた。表現は、いのちの営みの中の真実の言葉を含むが、それが表現される時、言葉を超えて表現されている。当初予定されていた「声明」に代わって、「阿弥陀経」念仏の表現をいただいた後、演者の坂井氏が少し解説をくださったが、その時に「念仏はわからないと言われるけれど、わからないということが大切でもある」と話された。もちろん表現されるところでの言葉は、言葉にするということによって、ギリギリそこで見出されているものが多くの人に、同じように伝えられていくとい利点がある。だから、この「わかる」ということもとても大切だ。だが、言葉は人間の理性の働きによって、事柄を他のものから分け、区別して、それを引き出し、限定していく。そのことでひとつの事柄がはっきりと見出されていくのだけれど、真実は、いつも言葉によっては捉えきれないし、言葉以上のものであるわけだ。だから、言葉によっては決して「わからないということをわかっていなければならない」ものだということをお話しいただいたのだと思う。言葉を超える真実へ、私たちがどのように迫ることができるのか。これだけでも大変大きな課題だが、芸術的表現というものが、そのための鋭意であることを思わされたのだ。


・言葉はそれを捉え得ようとするものの主体が、捉えているものを対象として、言葉によって表現する。けれど、実は言葉にならない前、主客未分化なところに私たちのいのちの真実、そしていのちと死を分ける二元論を超える場があると言ってもいい。芸術的な表現をいただくとき、私たちは、自分とその表現が、ただ、観られるものと観るものという主客の区別の中にはおらず、むしろ、その表現そのものの中に引き込まれている。そこに芸術的表現の力があることが感じられた。


・また、宗教はおそらくその起源の時から、ある種の芸術的な表現ということの中で、このいのちの根源とのつながりのようなものを共有してきたのではなかったかと思う。歌、音楽、踊りや舞、儀礼、儀式、そして絵画や物語などが具体的にそうした役割を担ってきたのだ。そして、その表現される時間と空間の中にリズムとテンポなどを通して、今を生きる主体としての私が開かれて、他者と共に根源的なものに触れる体験が与えられるのでしょう。


・表現の中の「声や息」のことについてはご一緒させていただいた大内先生からもお話があった。そのご研究にぜひ学んでみたい。息は、聖書の言葉ではルーアッハ、ネシャーマー(ヘブライ語)あるいはプネウマ、プシュケー(ギリシャ語)となるが、いずれも風や霊、いのちということを表す言葉。これがラテン語で表されたのがスピリトゥスで、今のスピリチュアリティの語源となる。宗教性、霊性というものが芸術的な表現というものと「いのち」というところで深く通じ合っているということは、ある意味で当然なことなのかもしれない。


・お昼の時間に講演者同士で少しお話をした時、バッハの演奏の話題も出た中、西欧の音楽は、音楽としての古代のものから現代音楽まで大きな変遷が見られる。一方、日本の音楽はその点、非常に古いものが保存されているように思うが、どうしてなのかと、尋ねた。すると、それは日本の音楽はそれぞれ貴族とか庶民とかというように共有するところが固定化されてきたからではないかというご示唆をいただいた。それを伺って、確かにバッハのオルガン音楽は、宗教改革以後の教会音楽の展開の中にあるということが思い浮かんだ。ルターの宗教改革以前は、教会の賛美は聖職者や修道士など、特定の人々に限られていたのだ。しかし、ルターは礼拝改革を行なって全ての信徒・会衆が神のみことばに与り、また賛美をしてそれを分かち合うように、会衆の歌う讃美歌を礼拝の中に取り入れ、自身もたくさんの讃美歌を作詞作曲した。だから、そのルーテル教会で会衆が礼拝で歌うその歌声を支えるようなオルガン伴奏が求められるようになったわけだ。バッハはルターから200年後のルーテル教会の音楽家だが、その教会カンタータをたくさん作曲するということの中で、あのようなバッハの素晴らしい音楽が生まれたわけだ。同時に、西欧の音楽も近代の初めの宮廷音楽から、より広い聴衆を集めてホールで聴くという大きな発展を遂げてきたことが思い起こさた。より大きな聴衆が共に音楽を楽しむ。楽しませる音楽が求められるようになる。楽器も含めて音楽のあり方が代わっていく。芸術の表現の形は、誰とそれを共にしていくのか、その広がりの中で変わってくるのだということが思われた。

・実際、パイプオルガンは、そのオルガンとして楽器が存在するというのではなく楽器の置かれるホール全体が楽器としての響きを作りだす。そしてそれはそこにいる人々の存在、その身体も含めてそこにひとつの音が、音楽が現れてくる。そうした表現の共有、あるいは表現の中に一体化する人々の存在ということがいつでも新しい表現を作り出していくということだろうか。古典的な表現方法にはその表現が生まれてきた根源、源を大切にしていく伝統がある。しかし、同時にそれがいつでも新しい表現となっていくところの芸術表現の豊かさがあるのだということも考えさせられたことだった。



以上、午前中のパフォーマンスを聞いて、思い巡らしたことをメモとして残しておくこととした。 

2023-08-14

ヘンリー・ナウエン『傷ついた癒し人』

 最初にこの本を手にした時は、まだ学生だったように思う。そして、そこに描かれていた文章にやや退屈な思いで目を落としたのだったのではないかと、当時の読書の力の足りなさだけが思い起こされて、恥ずかしい。


もちろん、正直に言えば、このタイトルが表すような真の牧会者、魂への慰めと力を与えるお方は、ただ十字架に受苦し、死にたもうたイエス以外にはないという、おさだまりの理解の中に閉じこもり、そのイエスと共に苦しみつつ「私」もまた一人の牧会者となるのだという覚悟も少なかったためであろう。そして、現代という時代を生きる自分も人々もどのような苦悩の中に投げ出され、生きているのかということに目が向かなかったのではないか。

ナウエンは1972年にこの著作を出版して、日本語に翻訳出版されたのが1981年だという。私の神学生時代にはまさにこの本が出版されえてまもない頃だったわけで、当然必読書の一つとして紹介されたわけだ。

けれども、ここに描かれたナウエンの、時代の魂を読み解く深い知恵、そしてその現実に生きる一人への牧会的働きへの探究の鋭さを丁寧に読み取ることができなかったのが悔やまれる。

久しぶりに、改めてご紹介を受けて、私も改めてこの新訳を手に取って、引き寄せられるように読み終えた。これをナウエンは50年前に書いたのかと思うと驚きだ。

是非とも、お読みいただきたい書。

今回改めて興味深く思ったのは、ナウエンが引用した現代についての研究で、ロバート・J・リフトン『終わりなき現代史の課題ー死と不死のシンボル体験』(原著History and Human Survival :Essays on the Young and the Old, Survivors and the Dead, Peace and War, and on Contemporary Psychohistory, Random House, 1970 )や、ディヴィッド・リースマン『孤独な群集』(1950)などの古典が、古典とは思えぬ鋭さをもって現代を切り開いてみせるところだ。それらに導かれつつ現代に生きる私たちの魂の問題を見事に描き出しながら、ナウエンはキリスト教的霊性をもってこの課題に誠実に向かい合うということを模索していく。

考えてみれば、この50年は、経済においては、オイルショック、バブル崩壊、リーマンショックと浮き沈みを繰り返し、東西の壁が崩壊し、グローバリゼーションによって世界は多極化・複雑化してきた。気がつけばアナログ社会はデジタル・AI世代に変わり、世界の中で人と人との関係が変わり、物流が変わって、生き方も大きく変化してきたのだ。70年代初めのこれらの研究が今もなお有効であるということは何を表しているのか、改めて考えさせられる。

もちろん、原著が第2版に改められた2009年に、その著作における表現が時代にそぐわないものとなったとして、とりわけジェンダーに関わるものを中心に丁寧に改められている。そこに、普遍的価値を持つものも時代的な限界の中で異なる表現のうちに閉じ込められるという現実があることを認識させられるわけだが、いずれにせよ、この著作の意義を失わせるものではない。

急速に変わっていく私たちの現実の中でも、ゆっくりとこの現実に晒されてきた私たち。助けが必要なのは、誰かなのではなく、私自身なのだ。問題の只中に自らがあることを自覚しつつ、他者に対して逃げずに向かい合う誠実さは、必ずや自らを傷つけずにはいないのだけれど、そこでこそ、共に生きることへの「わたしたち」の希望が見出されてくる。








2023-07-05

臨床牧会セミナー「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」4



基調講演の趣旨をようやくした内容を3回にわたって、このブログ上に掲載してきた。

実は当日の資料レジュメには、最後の部分で限られた講演の時間では話すことができないけれども、最初に共有すべい現実を詳しく考えることができるためにと以下の項目を挙げていた。実際に、講演の中でもその内容に関わってお話しした部分もあったし、今回その要旨をまとめるというために、ここで考える要素を少し加えて御指名した部分もあった。

ただ、今後私たち(キリスト教会・牧師たち)がこの現代の「暗闇」という事態を考える手がかりとなるように、そのレジュメに示した項目もブログ記事として残しておくこととしたい。

ご参考までに・・・・



4.現代の「暗闇」の特殊性 (ここからは講演では話さない)

(1)世界の状況

   新型コロナが炙り出した現代の暗闇 

格差世界 関係の希薄化 そして分断 (等質性世界・対立構造)

   ネット社会 新しいコミュニケーション 匿名化・非人格化

   商品と流通の変化 普遍的価値が席巻する 地域性の崩壊

   

(2)宣教の困難 ⇨ (自信喪失)

   ニューエイジの個人主義的宗教性 

   キリスト教世界の中での分断 社会派―福音派? リベラル−ファンダメンタル?

   キリスト教の普遍的価値への問い 絶対性の否定 (多様性が求められる世界)

   宗教そのものへの抵抗感・恐怖感

   

(3)各個教会の現実

   少子高齢化 担い手の不足 財政的課題 活動の停滞

教会員の保守的?傾向(教会の「伝統」)と社会(牧師の意識?)とのギャップ

ウチとソト?意識 ⇨ 差別構造の温存 認められない多様性 居場所ない部外者

 

(4)人間関係の困難

   牧師―牧師 ミニストリウムが非成立 (引退教職の難しさ)

   牧師―信徒 甘えの構造? 信頼関係の構築は?

   信徒―信徒 関係の希薄化 

 

(5)抱え込みすぎる牧師

牧師の兼牧・兼任 ⇨「牧師」の仕事化・効率化 

牧師の強すぎる使命感・責任感(生真面目のゆえ)、恥の意識と問題の隠蔽へ

   社会的リソースとの連携?の乏しさ 

2023-07-04

臨床牧会セミナー「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」3

3.牧師が求める助けとは

こうした教会の置かれている暗闇の深淵において、牧師は日々忙しく「仕事」に追われ、 「牧師である」というよりも「牧師としての働きをいかにこなすか」ということで身を粉にしている。求められることは多いが応えきれず、失敗を恐れ無難にこなすことに懸命となり、霊的にも満たされることがない。だから牧師はいつでも自分の働きも、また信仰そのものにおいても自信が持てないし、不全感を持っている。現場の牧師たちが、暗闇の中に悲鳴をあげているのではないか。

教会も神学校もその現実に応えようと苦慮し、こうしたセミナーや研究会を企画する。し かし、牧師たちの積極的な参加を得ることは難しい。牧師にとっては、再教育とか研修とか言 われると、多忙さに加えてこれ以上はできないと腰がひける。いや、そもそもこうした研修の場が、癒しや喜び、励ましを得ることよりも、何がしかの評価を受けるような感覚に陥るのではないか。研修やセミナーに参加することで自らの至らなさに気付かされる一方、そこで具体的な力や助けを得られるのかという思いもあろう。牧師としての正しい務めやあるべき姿を学ぶ中で、自分自身に否定的な評価を受け取ってしまうことさえあるかもしれない。

教会にはある種の規範が働いていて、信徒も 牧師も毎週の礼拝と教会と信仰生活を規則正 しく送り、祈りと奉仕に熱心であることが求められ、それを喜びとする明るく元気で聡明な奉仕者が評価される。弱さを見せられず、苦しく悲しい人が行きづらい場になっているのではないか。そして牧師もまたそのような価値意識や規範に縛られているのかもしれない。

だから、実際に、私たちは教会においても、あるいはこういう研修においても人の目を気にしないではいられないし、自分の問題や家族の問題といった暗闇を誰にも打ち明けることができずにいる。そこに、神の福音を分かち合う力は湧いてくるのだろうか。私たちは祈り合うことができていないのではないか。互いに深く霊的に助け合えないままになっているのではないか。本当に助けがほしい人が、この場に参加することができないのではないだろうか。

本当に必要とされているのは、現場の牧師たちに対する牧会的関わりであり、支援的スーパービジョンだろう。けれども、これまで教会にはそうした経験も乏しく、作られにくいのが実情なのだ。引退教職や経験豊富な先輩牧師がその知見から意見をする時、きっと若い牧師たちの助けになり、教会のニーズに応えるものとなるとの善意で発言されていることだろう。けれど、そのことが現場の責任を生きる牧師たちに 本当に必要な支援となっているのか、よくよく考えなければならない。助けたいという意図とは別に、牧師たちをある種の評価と管理抑圧の システムの中に身を置かしめているのかもしれないのだ。現代社会が私たちの中に染み付かせた問題かもしれない。

だとしたら、教会は本当に福音的諸関係の結び方、確かな支援となる関わりのための、知識と技術を身につけていかなければならないように思う。


自分にとって、何が問題なのか 何が必要なのか

私たちは、同じ時代に宣教と牧会の務めに生きるものとして、互いにこの管理抑圧的評価社 会という仕組みから解放され、真の福音に与り、確かな支援的関係を構築し実践していくことが必要なのだと思う。牧師も信徒も現実社会に、共に生きることの本当の喜びを味わえるよう に、自らのうちに信仰を息づかせるスピリチュアルワークが求められる。

もちろん、そうしたことがなかなか実現できないこの今の私たちの只中においてだって、神は働かれる。神の牧会はどんなときでも起こるはずであり、拙い私たちの働きや交わりにおいてただって間違いなく福音は働いている。

しかし、私たちの内なる暗闇に必要な助けを互いに差し出し合える関係を作ることが必要なのだ。霊的にも、神学的にも、実践的にも豊かなものを作り合えるそのような交わりを私たちが始められるかが問われている。そのことが、教会の宣教と牧会をこれからの社会に対して意味のあるものとするのではないか。

2023-07-03

臨床牧会セミナー「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」2

基調講演②



2.牧師の抱える現代の「暗闇」

私たちの経験している暗闇とは一体何か。 まず一つには現代の「生きづらさ」からくる問題の深刻さがある。2000 年代になってもたらされた急速な社会変化は、人間関係のあり方を変えてきた。成果と生産性が求められる評価社会は格差を作り、あらゆるところで余裕をなくし、人間関係を引き裂き、とりわけ社会的弱者に皺寄せがきている。虐待、DV、ハラスメント、差別やいじめなど、教会の中では屈折した在り方で隠されてきたかもしれないが、夫婦、親子といった諸関係が破綻していることも決して珍しいことではない。

牧会において、私たちはこれらの複雑で深刻 な問題に出会い、簡単には解決することのないままに抱え続けることになる。そしてこのよう なケースでは心理、福祉、法律、あるいは警察 といった外部機関の支援や連携が不可欠となってくる。重い課題に対しては、相応しい専門職との協働が必要なことは間違いない。

では、こうした現代の暗闇に関わる牧師職の 専門性とは何か。この現実に切り込んでいく 「神学」が十分に熟成されていないことが二つ目の問題として見えてくる。たとえば、性や結婚、家族という問題について、現代の多様性に向き合うための神学的な言葉を十分に持っているだろうか。日々格闘している牧会の現実、その諸課題を分析し、実践を批判的に検証し、そして再構築していくための神学が弱いのだ。 「ジェンダー・ジャスティス」とか「ポリティカル・コレクトネス」といった言葉が世俗/一般社会を組み替えていく言葉として力を持っているのに比して、具体的に今の私たちの教会や信仰の実践を問い、また支える神学の言葉が熟成されてきていないように思われる。

さらに言うならば、この神学の貧困ともいうべきその根底のところで、そもそも「暗闇」に生きる信仰そのものが問われている。これが三つ目の問題である。つまり、なぜキリスト教信仰なのか。それは、今の世界を生きることの中にどのような役割や意味を持っているのか。過去においては、先進的欧米の文化や人権・民主主義などの価値の源泉としてキリスト教が求められたかもしれないし、禁欲や他者への奉仕を謳う敬虔主義が意味をもっていたかもしれない。しかし、二つの世界大戦のみならず、環境問題、ジェンダー、人種差別の問題、植民地主義の問題などにおいて保守的役割さえも果たしてきた欧米のキリスト教は 20 世紀後半からその責任が問われ、限界性も指摘されてきた。 日本はそもそもプルーラリズム (多元主義世界だからキリスト教信仰はすわりが悪いが、改めて「信仰の権利問題」を実感してきているのではないか。

本来は、私たちの実感しているこれらの課題に、聖書もキリスト教の伝統もしっかりと向かい合う力があるのだが、それを受け取るスピリチュアルワークとしての信仰生活、教会生活が十分に営まれていない。

以上、私たちの「暗闇」の実情を三つの視点で考えてみた。

2023-07-01

臨床牧会セミナー「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」

 2015年の第一回から隔年で開催してきた臨床牧会セミナーも今期で5回を数える。今年のテーマは「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」とした。

その全体について報告はDPCニュースレター10号に載っているのでぜひご覧いただきたい。そして、そこに掲載されてもいるのだけれど、このセミナーでさせていただいた基調講演を、ここに直接読めるように転載をさせていただこう。長いので3回に分けて、転載したい。少し考察したものなど、それぞれに加えたり、修正をしたいと思っているところもある。とはいえ、新しいものではないので、ニュースレターでご覧いただいていれば、それに越したことはない。

また、当日の発表時にはレジュメのみを用意して語ることはなかった第二部がある。それについては、この連載の後にできる限り文字化してみようとも思っている。これは、全く新しいものとなるので、合わせて読んでいただけると嬉しい。

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基調講演:「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」

「光あるうちに光の中を歩め」。けれども現実は厳しい。牧会者として立たされながらも、 牧師自身が深い闇の中で立ちすくみ、助けを必要としていることを思う。他教派でも私たちの教会・教団でも、牧師たちがさまざまな理由から一時的に牧会の現場を離れざるを得なくなったり、退職となったりするケースも見られる。一律に語ることはできないが、宣教・牧会の現場の厳しさを思い、その「暗闇」を考えたい。

 

1.「暗闇の中」の牧会者〜教会の現実

私たちが宣教の務めに召されていること。それは、神の福音を宣べ伝え、分かち合うために 他ならない。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ 1:5)と言われるとおり、牧会とはこの世の普遍的な「暗闇の中」において光を灯す務めである。すなわち、牧会者は私たちの罪や悪の現実に向かい合う者である限り「暗闇の中」にあるのは当然のことなのだ。宣教も牧会も、その働きは神ご自身の御業であり、私たちはその 神の働きに用いられ、またその業に共に与るものである。どんなにその闇が深くとも、牧師は神の牧会を目の当たりにし、その証人とされていく。その意味で、暗闇の中にあったとしても、本来、牧会者ほど恵まれた者はない。

ところが、近年私たち牧師・教会を巡る状況は大きく変化してきていて、その闇が一段と深くなってきているのではないかと思う。たとえば、1990 年にはまだ牧師・宣教師の数は教会の数に比して多かったが、今では 3 分の2にとどまっている。このような牧師数の急激な減少のため、牧師たちは全国どこにおいても兼任・兼牧が避けられない。それによって牧会そのものが深刻な危機の中に立たされている。私たちは日曜日の礼拝と諸活動の中での関わりの中で牧会のために必要な情報を得たり、訪問に備えたりするのだが、多忙さはそれを妨げている。

加えて、年にも及んだCOVID-19 の影響は、それぞれの教会での活動、とりわけ食事を伴う交わりを失わせ、教会員の相互牧会の機会を減少させた。牧師は信徒の霊的ニーズをなかなか把握できず、そもそも距離を置くことが求められて、訪問は病院、施設、家庭を問わず困難になった。牧師と信徒が共に与る神の牧会そのものが成立しづらくなってしまったのである。

これは、確かに感染症による特別事態なのだが、同時に現代の私たちの生の現実が露わになっているということかもしれない。

今日「孤立する私」が常態化して、本来あるべき教会の「交わり」が成り立たず、信頼どころか関係そのものが失われている。もちろん、 それぞれの地域の各教会ではこれまでどおりの小さな教会の群れが守られており、そこで長く積み重ねられてきた関係は強固に私たちを 結び合わせている。けれど、決して新しい関係は切り結べないままにその交わりは次第に小さくなっていく。長くそれを担ってきた人たちがかろうじて活動を継続しているというのが実情で、世代交代は難しいし、新しい来会者はそれを担っていくほどには教会の交わりにコ ミットできず、おそらく期待もできない。

私たちがこの 3 年間に教会を守るために手にしたリモート/オンラインという手段は、ある意味で個々の信徒・求道者のニーズに応えていくものとなったかもしれないが、この「孤立する私」の現実を打破できたとは言えず、むしろ ますますそれが既成事実となってしまっているのかもしれない。

教会のこの現実は、そこで営まれる牧会の深刻さ、困難さとなっているわけだ。これが今の社会の闇の深さということかと思う。



                                                                                                                        2は次回に転載する。