2020-09-08

「いのち」の尊厳を考える〜スピリチュアリティ の視点から〜

先日、ルーテル・医療と宗教の会に招かれ講演を担当させていただいた。
5月開催の予定だったものが、COVID-19の感染拡大の影響を受けて延期されたものだったが、結局オンラインでの開催となった。
牧師としてキリスト教の立場をはっきりと出していわゆる「終活」について、また死と葬儀について、現代日本の脈絡の中でお話しすることは多くあるのだけれど、今回は少しだけ視点は広げて、特定の宗教によらない「スピリチュアリティ」の視点を示しながらのお話しとさせていただいた。



会場は、生まれ育った日本福音ルーテル武蔵野教会をお借りしてのライブ講演であったけれど、さすがに目の前にカメラとモニターを置いて、配信関係の方以外の聞き手のない中での講演というのは、緊張するものだった。カメラに目線を合わせないといけないのだけれど、どうしてもモニターを見てしまう。(世にいうユーチューバーなる方々はすごいなあと感心。)

これまでの日本の終末期医療の現場でスピリチュアリティの研究をくださった方々の成果などに学びつつ、自分なりに宗教者、牧師としての立場から考えてきたことを踏まえてお話しさせていただいた。どうしても限られた時間の中で、一通りのお話をしようと思うので、平坦な語り口になってしまったかもしれない。

従来のスピリチュアリティの研究は、当事者の死と向かい合う実存的な苦しみ、痛みにどのように対応するべきなのか支援のあり方を具体的な臨床において研究してきたものだと思う。その豊さに学びつつ、しかし、今回の講演では、そういう視点からだとスピリチュアリティ の領域はどうしても患者・当事者の実存的なニーズを中心に考えられるものとなってしまうことへの問いかけをしてみたかった。

スピリチュアルなこと(信仰的な問題と重ねるならば)は、実は私たちの問いや必要ということであるばかりではなく、むしろ、神からの働きかけや問いの前に立つということでもあって、人間が中心であることよりもむしろもっと違った大いなるもの(Something Great)からの働きかけの中に自らを置くことから来る畏れや深い癒しの体験でもあるはずなのだ。そうしたことが、宗教者だからこそ、はっきりと語るべきと考えてきた。医学や心理学、あるいは福祉でも、実証的で科学的な議論の積み重ねによって議論がなされるし、またそうでなければ、具体的な問題に対処する実践を提供できないだろう。けれど、「いのち」の問題はいつでももっと神秘的だ。誕生することが I was born.と受け身で語られるように、いのちはいつでも、私たちの選択や自由になるものではなく、与えられるもの、生かされるもの。息を引き取るお方がおられるので、死が訪れる。

そうしたいのちの神秘性を、「存在(いのち)=関係」の視点を持って考えてきた。細胞単位の生命現象は初めから終わりまで一個体の物質的な運動とエネルギーの循環の中に観察される。科学的実証的な理性は、受精の瞬間からこの個体としての運動において命を見ることだろう。しかし、人間である私たちは、「わたし」という存在の中でいのちを生きる。その「わたし」のQuality of Life と言われるところのLifeは、生命であるけれど、生活であり、人生でもある。その中心は抽象的な人間なのではなく、個別具体的な「わたし」であることは間違いない。しかし、この「わたし」は様々な関係の中でこそ、その存在の豊さを生きているのだ
他者との関係、特にも愛するものとの関係、家族や親族、地域共同体の関係の中でその「いのち」の活動が与えられ、保たれているのだ。そして、そうしたつながりの中でこそ、かけがえのない「わたし」を与えられている。あるいは、自然世界、例えば動物や植物などのいのちの循環、さらには水や大地、空気といういのちの源泉になるものとの深いつながり、山とか海とか川とか森などの自然環境こそが具体的な共同生活や文化の土台になっている。さらに言えば、そうした「わたし」のいのちのつながりを観想し、理解し、その本質をとう形而上学的な試みも、またそうした様々なつながりの中に感性働かせて永遠の汝と呼ばれるような超越的存在との関係に生かされる思いを深めることもある。そういう様々なつながりと関係性の中で理性も、感性も、豊に用いて「わたし」の存在を受け止めている。それが人間としての「わたし」なのだ。
だから、そういう「わたし」をめぐる大きなコンテキスト、脈絡とつながり、関係へとパースペクティブを開いていく。そこにスピリチュアルな視点の豊かさがあると考えるのだ。
そうした視点が、医学や看護、心理、あるいは福祉とともにその人の「いのち」を受け止め支える実践の中にこそ、その人がその人として生きるいのちの尊厳を守っていくばがひらけてくるのではないか。必要な支援を生み出していく、あるいはそれを受け取っていくことが可能となるように思われるのだ。いずれ限界をもつ私たちは、守りきらないし、助けられないという現実に立ちすくむ。その時にこそ、この大きなコンテキストの中にある私たちのいのちの豊さを深く味わい、共に生かされていくような視点を持つことが必要なのではないかということが、今回の講演でお伝えしたかったことなのだ。



2020-08-03

「戦争体験者の上映と対話」に参加して

8月になって最初の日に、お誘いを受けて、長津田のみどりアートパークホールで、戦争体験の語り部から話を聞く機会を得た。一つは中国残留孤児の体験、もう一つはヒロシマの被爆体験だ。当時の写真や本人の体験をもとに描かれた絵などがスライド形式で映される中で聞くと、時代背景も身近に感じることができ、話も聞きやすいものだった。ヒロシマ体験の語り部の方は、残念ながら体調もあり、90歳を超える年齢をおしての参加は見合わされた。直接会場でお会いすることはできなかったけれども、映像に合わせたお話は十分にメッセージとして伝わってきた。

もちろん、それぞれのご苦労は、短い時間にとても語り尽くされるものではない。それでも、是非ともそれぞれに伝えたいという思いでお話しくださったことだ。一方で、聞く側の私たちには、ある意味で今や多くの一般的な情報が既に与えられているだけに、直接にお聞きする機会だからこその何かを期待する思いもあったように思う。
それぞれの思いが合わさりながら、与えられたこの機会は、ただこの時だけのかけがえのない場として成立したように、私には思われた。語られた内容はもちろんだが、むしろ、この場に自分がいたというその立場から、印象に残ったことを記録しておきたい。

まず一つは、語り継ぐことに、私たち自身が確かに招かれたという思いを抱かされたことだ。このヒロシマ体験の語り部の方は、記したようにおいでになれなかったのだが、ご本人と共に活動してきたサポーターの方がご本人に代わって多くの質問にお応えくださった。おそらく、ご本人とは親子以上の歳の差があろうけれど、ここ数年、イベントなどを共にされ、身近にいつも接してこられてきたことでヒロシマの被爆の様子だけでなく、ご本人のヒロシマ体験以前・以後の人生の歩みについても、よく知っておられた。そして、この代理を努めた方はもともと平和教育への深い関心から、ヒロシマ、ナガサキの出来事の学びや語り部の方々との交流があったことも力強いメッセージになった。期せずして、この方が代理としての働いてくださったおかげで、次第に語り部の方たちを失っていく「これから」においても、私たちはこの語り継ぐ働きにどのように連なるものとなりうるかということを学ぶことができたように思うのだ。
会場にも平和教育に携わっている小学校教員も複数参加していたこと(おそらく、こうしたことはよくあることのようだった)で、その会場とのやりとりにも自然と、今の私たちが何をできるのか、どう次の世代に伝えていくのかという課題を意識させるものとなったように思う。実際、ヒントを求める発言もあり、集まった人たちの中には、この機会に連絡を取り合うようにして話が広がっていくような気配も見ることができた。こうした企画が密かに期待する「これから」へのネットワーク、繋がりが結ばれているようにも思えた。そうして、私たちは、今、それぞれに、何かを受け取ったものとして、「これから」への使命の一端を担うことへと招かれたように思うのだ。

もうひとつ、語られることばやストーリーの裏側に秘められた「問題」をどのようにことばにしていくのかという大きな試みの中に、私たち自身が立たされているという思いだった。この戦争体験の分かち合いには、ただその「時」のことだけでなく、その前後の人生そのものが伝わるような話が語られて、当時の日常のなかにあった慎ましい幸せ、そして夢や希望と現実の苦労が見えてきていた。それだからこそ、戦争がもたらす深い痛みは浮き彫りにされる。そういう語り方がなされるようになっていたと思う。けれど、そこから先に私たちが、踏み込んでいく痛みを、どうやって初対面の私たちが共有してことばにしていくのか、その問題に突き当たっていると思われたのだ。一つは、中国残留孤児として生きてこられた苦労、悲しみの体験とそれでもそこで養い育ててくれた養父母があったことへの感謝の思いが語られていたが、なぜ、その中国を後にして日本に家族を連れて帰ってきたのか、その帰国後の苦労も含めて、本当は丁寧にお聞きしなければならない問題がそこにあったはず。質問もそのことに向けられたが、いろいろな意味で聞きたいこととお答えいただくこととの間には距離があった。信頼がなければ、ことばは共有できないし、また愛がなければ決してことばは生まれてこない。現実を生きてこられたお一人の、あるいはその家族の痛みや苦しみ、希望や夢をどうして興味本位のようにして問うことことができるだろう。どうして、語ることが可能だろうか。ヒロシマ体験後、結婚という形を取らずにも男性との間に3人お子どもを生み育ててきたそのことについて、「籍を入れられなかった」ままであったことを問うことも、同じように、その選び取らざるを得なかった一人の人生をことばにすることの痛みにどのように自ら向かい合うのかということがなくて、どうしてその事実だけが確認される必要があるのだろうか。それでも勇気を持って語っていかなければ、何も伝わらないと、かなり踏み込んでの証言が紡ぎ出されている。しかし、その集まりには本当に様々な背景の中でそこに居合わせている人たちがあって、短いやりとりでは、どうしても問う川にも問われる側にも、思いを分かち合いきれない中途半端さが残ってしまう。いきおい、ぞんざいなやりとりしか成立しない。それでは、ことばにする意味がないし、ことばになっていかないのだ。語られるストーリーの裏にまだ隠された痛み、生きる現実社会の歪みや闇は語り出されない中に眠っている。それをことばにすることを私たち皆がどう作り出していくのか。そのことばによって何に向かい合おうというのか。そういう問いとの出会いを、こうした集まりの只中にあって経験しているのだと、感じられたのだった。

新しいICT社会。情報はただ受け取るばかりではなく、誰でもが発信できるし、やりとりもできる時代だ。けれど、私たちはことばによって、どのようにつながるのだろう。何をするのだろう。容易に意見を表明することもできれば、批判することもできる。けれど、私たちが持つことばは、本当は人と人とを結び付けるもののはずなのだ。愛と信頼を生み出すこと、そのために語りあい、話し合う対話こそが人間を人間たらしめる。投げ出したまま、吐き出したままになることばが人を傷つけ、苦しめ、いのちさえ奪いかねないようなことが多い中、改めて「対話」を生み出していく大切さを思わされる企画であったと思う。
(Sさんの司会が、会場をしっかりとリードしていくなあと、安心できました。そういう対話のファシリテートはだいじですね。)

COVID19ウィルス禍で、様々な困難がる中、講演をお引き受けくださったことも企画する方々にも多くの困難があったことだろう。それでも、あえてこの時を逃してはいけないと企画をしてくださったことに敬意と感謝を伝えたい。企画にオカリナ演奏で空気を和らげてくださったお二人にも、感謝申し上げたい。

今年の8月は、有意義なスタートだった、、、と思う。

2020-06-10

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ④

【伝統的神学と】
こうした神学の課題に取り組むとき、私は、二つのことを考えるべきだと思っている。
まず初めに、従来の伝統的神学にしっかりと学ぶ必要がある。そして第二に、これと相矛盾するようにも見えるが、伝統的な神学に対して、私たちはいつでも批判的であるべきだということだ。この二点についてここで詳しくは論じることは必要ないだろう。神学はどの時代にも、その向き合う現実の中で、神の福音を聞き取り、現実に抗しても実現すべき福音宣教のために言葉を紡いできた。だから汲み取るべき神学的格闘の成果が伝統的神学の中にある。しかしまた、こうした神学的営為はいつでもその時代の子でもあって、歴史的限界性をもつのだ。その時代の人間のことば、人間の考え、文化の限界性の中に置かれている。だから、いつでも相対化されるべきだし、批判的検証を必要とする。
だから、より古いものが純粋であると断ずることもできないし、新しいものが優れているわけでもない。しかし、長い歴史に耐えてきた教義には、鍛えられた神学の重みがある。丁寧にその教理をめぐる歴史的議論を確認していくなら、私たちは新しい議論などが果たして可能なのだろうかとさえ思う。だからこそ、しっかりと学ぶ。


それでも、大事なことは、この大きな時代の転換点の中で、神学的にも実践的にも、既製の何かをもって対応しようとすることの危険について知っておくことである。新しい時代が到来している中で、権威的に何か一つを絶対化して主張をしようとすると、それは必ず他を裁く傾向を持ち始める。しかし、私たちの信仰もどのような神学も、歴史的限界性を完全に克服することはできない。だから、新しい何かが起こってくることを、軽々に判断してしまうことは避けるべきだと思う。むしろ、そうした事態をしっかりと確認しながら、実践的取り組みを神学的に検証していくことが必要だなのだ。そうして、長い神学の歴史の中に重ねるに値する、一つの言葉を見出すことができれば幸いだ。

【Lex orandi, lex credendi 祈りの法は、信仰の法】
この間、私たちの教会の総会議長は、例えばインターネットを使った礼拝の配信のみならず、様々に利用されてきたネット会議や集会など、新しい「つながり」を、「新しい領域の創造」であり、「人間の持つ可能性の豊かさ」という言い方で積極的に捉えている。礼拝とはこういうものだとか、教会とはこうだという「あるべき論」で語り出すと窮屈になり、特定の人たちやその実践を「神学」によって周辺に追いやってしまうことになりかねない。
現実に対応した多様な実践は、どうして、なんのために生まれてくるのか。それはどんな効果をもたらしたのか。その実践の課題や問題は何か。広い議論を作って検証していく時間が必要だと思う。人々が、どのように礼拝に招かれ、これに集い、みことばに与かり、聖徒の交わりが作られて、また日常に、つとめに派遣されているか。礼拝のダイナミックスは、教会のダイナミックスだから、より大きな視点をもって、そこに生まれていることを丁寧に見ていきたいと思う。
「祈りの法は、信仰の法」と言われる。実践の中でこそ、私たちの信仰の内実がよりはっきりと鍛えられてくるだろう。実践を確認しながら、今度はことばを鍛える。祈りと信仰、実践と神学、その相互のダイアローグはやがて定式化するかもしれないし、時代の中で淘汰されていくのかもしれない。慌てずに、ここからの行き先は主に委ねつつ、しっかりと議論を重ねていきたいものだ。

【イエス・キリストを問いつつ】
もちろん、どれほど時代が変わったとしても、人間の救いが、イエス・キリストの十字架と復活においてもたらされたというキリスト教の根本が変わることはない。だから、人間が何者であるのか、なぜ救いが必要なのか、どうして救われていくのか、ということについての根本がイエス・キリストであるということは変わることがないのだ。ただ、もちろん、そのことについての私たちの理解が深まっていかなければならない。いや、イエスとは誰か?その問いをキリストと告白することのうちに見出してきた信仰を今一度、私たち自身が問い直していくのではないか。
そして、おそらくそれはこのキリスト論的な議論の中で、私たちは私たち自身と救いについて、今一度この信仰が何かということを告白的に語ることばを見出すことになるのだ。さらにいうならば、人間の身体性や弱さ、罪や病や死という否定的に考えられる人間性を、むしろ「救い」という言葉の中に抱き取ってきた十字架の神学の深さを、キリストの体と言われてきた教会という脈絡の中で再考すべきなのだと思っている。これまでの神学が、その時代にどうして福音を受け取るためにその言葉を選び、どんな問題に格闘し、議論をしてきたのかに学びつつ、もう一度、それらをひっくり返して、私たちの現実の中で、私たちが鍛えられた神学の言葉として紡ぎ出さなければならないのだと思うのだ。
今、教会は神学すべきとき。実践的に自らの信仰を捉え直しつつ、教会を問い、礼拝を新に受け止め、私たち一人ひとりが生かされていく姿を自ら言葉の中に写しとり、検証していきたいものだ。きっと、この経験は私たちにとって次の時代を拓くものとなる。主に仕え、このもっとも小さき人たちに仕える神学こそ、終末の希望に歩み続けるものだと、そう思う。

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ③

大柴議長は、その談話において、ボンヘッファーの「交わりの生活」をひきながら、教会において集まることができることを当たり前のことではないこと、それがいかに恵みに満ちたものであるかを深く覚えるように示し、たとえ物理的な距離があっても霊的なつながりと交わりに生きることができることを確認するように促している。

このウィルス禍の中、私たちは厳しい状況に置かれてきたことは確かなのだが、その中で信徒一人ひとりが霊的な自覚と成長の機会を与えられてきたようにも思うのだ。それは、教会がその地域に教会として与えられていることを深く問いつつ、またその自覚を促すものであったと思う。繰り返しになるが、この礼拝をはじめとする活動自粛は、決して教会に集まる者たちだけのためではなく、地域社会に対する責任を自覚したものであったし、信徒一人ひとりは導かれて、絶えず病の中、いのちの危険の中にある人たち、医療・福祉従事者、また社会的に弱い立場にあり、感染の不安や恐れの中にある人々のことを祈り続けてきたはずだからだ。また、小さな働きではあるかもしれないが、地域社会の中で現実の困難を生きる一人一人を支える働きは営まれてきた。関連施設ではもちろん、牧師も信徒もこの一人を放ってはおけないと手を差し出してきたし、逆にしっかりと捕まえられて、励まされたりもした。
しかし、それだからこそ、この状況の中、私たちの教会が今どういう姿であるのか、何を生きているのか、確かなことばをもって語っていかれるように、改めて問われていると思う。

【問われる「福音」宣教】
ポスト・コロナの時代は、確かに大きなチャレンジを受けることだろう。しかし、それはある意味で、このウィルスの脅威がなくてもやがて訪れるべきであった事態が加速度的に進むという類のことではないだろうか。
もちろん、しばらくは具体的に教会の中でのソーシャルディスタンスをどう取るかとか、消毒や手洗い、マスクなどの慣行が求められるなどのこともある。コロナとともにどう教会は活動するかという新しい様式が必要だ。しかし、あらわにされた問題は、こうした新しい様式がひと段落した後においても、そして、例えばこのウィルス問題が発生しなかったとしても、どちらにしてもいずれ教会が正面から向かい合わなければならない課題であったと思う。
少子高齢化ということだけでなく、現代日本における宣教の困難は、旧態然とした教会のありようが、現代を生きる人々の苦悩に福音を届けることに追いつかないで来たということではないだろうか。私たちは、生活のあり方、働き方、娯楽の持ち方などあらゆる文化・文明が大きく、そして急速に変わる節目に生きているのだ。


【教会の基盤の変化】
教会は、それぞれの地域社会の中で宣教の働きを担うように立てたられている。神のみことばによって信仰へと呼び出され、恵と愛の力に生かされて、相互の交わりに支えられつつ、さらに地域社会への宣教を生きるものである。信徒は、この間に自分たちが集えないという現実の中で、コミュニティとしての教会であることへの渇望を新たに覚えたことだが、同時にまたその教会が地域社会の中に置かれていること(派遣されているということ)に意識が向けられてきただろう。
ところが、21世紀に入ってからの、人間の限界を超えるようなICTAIの劇的な進歩とその利用の広がりは、単に産業の問題としてではなく、一般市民の生活のあらゆるレベルにおいて、いわゆるグローバル化という現実をもたらしてきた。そうすると、世界の一地域や特定社会、あるいは国の問題は、そこに止まることがなく、須く地球規模の問題となる。まさに一地域で発生した感染症が世界規模のパンデミックになるのが現実である。インターネットを使うことで、地球の裏側とのコミュニケーションだって、わずかなタイムラグを思うだけで、ほぼ同時双方向のやりとりが可能となった。
そういう現代世界で、地域教会とかコミュニティとしての教会といっても、そもそも「地域」とか「コミュニティ」という言葉で表してきたことの意味が根本から問い直されているのだ。実際に、また私たち日本の教会においては、教会のある地域ということと信徒の生活圏とは必ずしも一つではないという実情がある。特に都会の教会では、遠距離を通う教会信徒の交わりは、地域社会とは直接に関わることの希薄なコミュニティを形成していることが多いわけだ。
そうした実情を考えると、現代世界の中で私たちは、何をもって私たちのコミュニティとしての性格を生き、どのように地域社会への宣教を担うのかということには大きな課題がある。(しかし、また可能性もある!)

【社会の課題の中で】
また、この感染症は、いつの時代でもそうであったように、貧困層に非常に大きな被害をもたらしている。現代の格差世界で、誰のいのちが守られて、どういう人たちのいのちが切り捨てられているのか。そうした問題があらわになっている。貧困の世界的な構造、グローバリズムの歪みの中から生まれてきた自分ファースト、排他主義の広がりは世界中で差別と暴力をもたらしている。そして、それは私たちの生活の只中にさえ根を張っていて、見えない貧困が蝕み、親子の間にも学校の中でも暴力が陰湿に支配しているのではないか。嘘やごまかしで、力の強いものが不正を行い、利を独占して、支援の仕組みの中でさえ、奪い取ることが横行している。
あるいはジェンダーの問題、結婚や離婚、家族という私たちの人生に深く関わるこれまでの概念と価値は揺らいでいて、一元的な理解に固執するよりも、多様なあり方を認め合い、共存していくことへと誰もが積極的な責任を担っていかなければならない。世帯ごとに一括りにされていく現状は、おそらく深刻な課題を家族という伝統的な単位の中に抱えている現実に合わないだろう。にも拘らず、社会の仕組みはやはり保守的で、必要な支援が個々に行き渡らず、かえって苦しい現実を背負わされている実情が見えてくる。

【問われている神学】
こうした急速な世界の変化の中にあって、伝統的なキリスト教の神学や教会のあり方が対応できていないのが実情だろう。だから、誰に向かって何を伝えるのかということに、自信も方法も見失っているのではないか。福音信仰が誰のためのものになっているのかということだ。今、この世界が一つに結び合う時代だからこそ、その只中で困窮する人、悲しんでいる人、病の人、DVや虐待の現実を抱える家族、幼い子どもたち、高齢の方々、生まれや肌の色、文化や宗教などの違いによって差別されている人たち、ジェンダーやエスニックマイノリティーであるために見失われている人たちなど、全ての人たちのいのちと尊厳を守り、共に生きるための教会、神学であり得ているのか、と問われている。
改めて、この現実の中で、私たちに突きつけられている事柄は、この現代世界に対する「福音」の理解とそれをどのように分かち合うのかということに対する根源的な、そして極めて実践的な神学問題であるのだと思うのです。

2020-06-09

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ②

教会、牧師、信徒は何を受け取っているか。

教会がどのように変わったかというと、いまだコロナ禍真っ只中なので、それを論じることは早計だろう。ここ4月から礼拝に集えないということは非常に大きな経験だ。しかもこの季節。聖週間もあり、イースター、そして主の昇天、ペンテコステと続く大事な数週間の礼拝を教会に集えずに過ごしたということになる。このような経験が、信徒の中になにをもたらしているのか。
もちろん、集会も行えないし、バザーなどの行事も行うことができない。当然、教会の活動ということはそういう意味で言えば全体として冷え込んでいる。教会の経済的な問題も含めて、これからの教会のあり方に様々な影響を与えることは間違いない。


               

【苦悩と熟慮】
主日の礼拝を自粛する。およそ教会の歩みの中で経験したことのない判断をどのようにしていくのか。社会の情勢の中、牧師も信徒も苦しんだに違いない。礼拝の中止などということがそもそもあり得るのかと、問わなかった教会はおそらくないといって良いだろう。どのようにしたら、礼拝を続けることができるか。教会そのものに消毒や換気、社会的距離を作るなどの物理的工夫、礼拝の簡素化、聖餐式を行わないことや賛美歌を無くすといったソフトの面での調整などすぐに取り組まれたと思う。しかし、いずれにしても遠くから集まる信徒たちの状況を考えれば、感染の危険がどこにあるかわからない。しかも、個人に自粛を求めても、教会が礼拝を行う限りは絶対に休むことをしない信徒の気持ちがある中で、牧師も役員も苦悩し、熟慮した上で、自分たちの教会のあり方を決めていったことだ。もちろん、中止ということだけでなく、役員とか、特に近隣の方のみの出席する礼拝をまもった教会もある。けれど、これほど礼拝について、教会員の現実について、役員会は話し合い、こんなに祈ったことはないと思うほどに時間を費やしたことだろう。この経験が、これからの教会の歩みに力になるに違いない。

【牧 会】
ただ、そうした現実の中において、牧師にとって、そして信徒にとっても牧会という視点が改めて非常に大きくなってきたと言えるように思う。これまでにまして、牧師は信徒との距離について考えてきたことだろう。毎週礼拝に集うことで、顔を合わせているだけでも、お互いに受け取ったり、渡したりするものがあって、牧師は牧会のひとつにしてきたはずだ。もちろん、それだけで済むことではないのだが、忙しい都会の教会においても、兼任体制で複数の教会に牧師が責任を持つことの多くなっている地方教会においても、週日に牧会的交わりの機会を持つことがほとんどできなくなっている中、礼拝に集う、そして午後の交わりを過ごすということが数少ない牧会の場となっていた現実がある。
ところが、礼拝に集まるということができなくなってみると、改めて信徒一人ひとりとのつながりについて、牧師たちは心を砕いてきたはずだ。もちろん、牧師が訪問をすることも難しい現状だから、手紙や電話、メールなどを使って繋がりを確かめてきただろうし、新しいところでSNSを使っての相互の交わりを実現してきたことだろう。配信されるものが、説教であれ、週報であれ、それをひたすら読むことが、信徒の日課にもなってきただろう。こうしたやり取りに、牧師は細やかな祈りによって、信徒と出会ってきているようにも思う。
もちろん、そうした取り組みに限界がある。全く触れ合うことができずに過ごしている信徒同士、牧師と信徒との関係がある。だからこそ、再会の時が切望される。そういう私たちが教会を再認識しているのだ。

【礼 拝】
 礼拝については、オンラインによる配信ということが多くの教会で取り組まれた。これまでも礼拝や説教の配信に取り組んできた教会もあるが、数で言うと本当に限られたものに過ぎなかった。しかし、今は、主日礼拝に集えないという現状に合わせ、多くの教会でインターネットを利用してそれぞれ自宅にとどまる信徒を支える礼拝、また説教の配信が取り組まれている。ただ、それは教会に集うことができない者たちも、それぞれの場で主の霊的な臨在に繋がれ、結ばれたひとつの主の体にあることを覚えることができるようにとみことばが届けられるものとしての利用ということぐらいに留まって理解されている。インターネットを利用できない方々には、説教原稿と一人で祈り過ごすための手引きなどがとどけられているから、紙媒体で説教を届ける牧会の働きに準じた理解だといって良いのだろう。議長談話では、このインターネットでの取り組みを礼拝と呼ぶとか、そこでの聖餐の可能性などを論じることは控えられている。むしろ、一人ひとりの黙想や家庭での礼拝に益するものとして届けられているのだ。そうでありながら「一人自宅で礼拝を守っていても、それは天地を貫く「公同の教会」につながる主の日の礼拝です」(「牧会書簡」411)と、大いに一人で過ごす信徒にキリストに連なる慰めと励ましを語ってもいるのである。
実際、そうしたネットを用いた複数の教会の同時礼拝、あるいは連携の中で届けられる聖餐の設定辞が有効かどうかは、実はこのウィルスの問題が起きてくる以前から、地方教会における複数兼任の体制の現実の中ですでに取り上げられていたアジェンダの一つでもあった。礼拝が、主の招きによって集い集まり、共にみことば(説教と聖餐)に与り、祈りあい、証を分かち合って、また派遣されていくという動的なものであること、また実際の人間の身体的な限界性や有限性を抱えても共に生かされていく礼拝のリアリティによって、教会のコミュニティの形成があるということは、おそらく誰にでもわかることだろう。しかし、様々に制約された現実とそうした現実の中にメディア・テクノロジーがもたらす新しいコミュニケーションの時代、私たちは、一人ひとりを生かす神のみことばの奉仕の力に信頼しつつ、これまでの礼拝に新しく開かれた可能性をむしろ積極的に考えていく時なのかもしれない。しかし、いずれにしても、早計に断定的に語る言葉を置かない慎重さは、現実の対応の中では大切なことだと思う。

【信仰と霊性】
しかし、こうした状況の中で、実は信徒一人ひとりには、教会の本質を問い、自らを捉え直していくきっかけを受け取っているように思う。元気で活動できることで教会の一員として生きる喜びのようなものを受け取ってきた信徒たちが、しかし教会にいくことができないという規制の中で、実は集えないでいる一人ひとりのことへと深く心を寄せるようになってきたのではないかと思うのだ。そして、互いに安否を確認しつつ、会員相互の牧会的祈りが祈られてきた。
また、静かに世界の中にある自らを省みて、会うことのできないでいる信仰の友を思い、また今の世界の苦しみや悲しみに心を置いて、みことばを聞き、黙想し、祈る。そういう時を、それぞれの信仰者が大切に思い主日の朝を過ごされた。礼拝に集い、諸集会を行い、奉仕をし、諸々の活動に元気に参加するということだけでものを見ていたかもしれない自らの信仰生活の姿を問い直し、沁み渡るような信仰を思うようになったのではないか。私自身も、主日の朝早く、みことばに黙想し、祈り、生かされる恵みを受け取ってきた。
もちろん、現実の教会での交わりが薄くなり、教会生活の意識が遠くなり、自らの信仰の弱さを実感する者もあるだろう。そういう状況もまた、私たち自身に神と信仰を問うきっかけであると思って良いだろう。神が一人ひとりを忘れることは決してないのだから。
ただ、ネット上に溢れるようになったたくさんの説教に触れながら、いつしか信徒が自分に心地良いもの、思いを満足させてくれる説教を求めていくような傾向が起こっていないか、注意が必要かもしれない。説教は、喜びも悲しみもキリストを通して分かち合う聖徒の交わりの中、牧師も信徒も共に主の語りかけるみことばに聴くことによって紡がれてくるものだ。もし、私たちが自分を満足させる説教にのみ耳を傾ける消費者になっていってしまったとしたら、信仰も教会も崩れてしまいかねないと思う。
だから、こうした厳しい現状の中で、私たちは、牧師も信徒も、新たなチャレンジを受け取っているといって良いだろう。このウィルス感染そのものは身体的な問題ではあるけれど、それを通して同時に霊的な試練を様々に経験しているのかもしれない。だからこそ、私たちは、主のみことばに生かされる恵みをしっかりと確認し、また分かち合う宣教の働きへの使命を受け取っていくべきなのだろう。

続く・・・

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ①

いつの間にか紫陽花の咲く頃となった。鳥たちのさえずりを聞きながら、朝の光を深呼吸する。




今年、新型コロナウィルス感染拡大のもたらしている世界史的な出来事は、おそらく誰の記憶にも残り、また記録されていくことだろう。問題に向かい合いながら、私たちが何を考え、何をしてきたのか。どのような「言葉」が語られたのか。語られなかったのか。おそらく、こうしたことが、あらゆるところで検証されるべきなのだと思う。
教会もまた例外ではない。いや、「ことば」を何より大切にしてきたキリスト教会は、今こそ、私たち自身をしっかりと見つめ、記録しながら、神学をすべき時だと理解する。
この学びの現場は、2020年の日本福音ルーテル教会である。


教会とは何か、礼拝とは何か、信仰は何を受け取って、何を考えているのか。そして、どのような世界を実現しようとするのか。私たち自身の言葉を鍛えるべきだと思う。




まず、新型コロナウィルスの感染拡大の状況の中での、日本福音ルーテル教会がどのように対応してきたのか、全体教会として記録しておきたい。
おそらく、国内感染の増大が見られ、全国の小中学校、高等学校の一斉休校の要請が言われるようになった2月下旬頃から、いくつかの教会で礼拝の持ち方、特に聖餐式の配餐方式などに工夫が始まり、礼拝後の交わりや集会についても注意するような対応が取られ始めたと記憶する。3月に入ると感染拡大の状況に合わせて聖餐式の自粛なども含めて諸々の対応は広まってきて、各地域や教区ごとにその情報を共有、確認する動きが始まってきたといって良いだろう。
325日東京都知事の記者会見で「感染爆発の重大局面」ということが言われた、翌26日に、大柴譲治総会議長よる「議長談話」が全国の教会に発信された。



そこでは「すべての命(いのち)を守ること」という原則が示され、同時に地域社会における教会の責任と使命が確認をされ、私たちがその使命に尽力しつつ主のみこころを求めることが示されている。その方針に従い、それぞれの地における主日礼拝の持ち方について、オンラインなどの方法をとることも含め、礼拝堂に集まる形に拘らない、柔軟な対応が工夫されるべきこと、また、牧会の状況の中で、緊急にかつ大勢の人が集まることが想定される葬儀の持ち方についての慎重な対応を求める指針が示された。それ以降、4月9日5月2日と緊急事態宣言の発出や延長などに合わせて、総会議長は議長談話を各教会に向けて発信している。繰り返し、礼拝に集まることや集会の自粛を強く要請しつつ、医療や福祉の現場にあって援助に従事される方、また病気の方とその家族、生活上の不安や困難を余儀なくされている方々や、孤独の中にある方などのために祈りあうことを勧め、私たちの牧者である主に導かれて「一つの霊的な主のからだ」である教会に皆が結ばれていることへの信頼にたった牧会的な談話を発信た。
そして、5月6日には、緊急事態宣言が解除された場合に「新しい生活様式の中での礼拝」をどのように準備する必要があるかということを細部に渡って示し、再開にあたってはそうした対策をするとともに、その対策をしたことの上での再開であることを明示する責任を語っている。


こうした対応は、全国の教会に対し、礼拝を自粛するという感染症に対する単なる対処方針を示すものではなかった。何よりも主の教会として、神ご自身が仕えてくださる礼拝の本質を確認しながら、教会が教会であることを、集う者たちのためだけのものと考えるのではなく、それぞれの地域社会に対する責任と使命のうちに自覚することを促している。その上で、神を求め、また信頼しつつ、それぞれの教会に自主的な取り組みをするよう要請しているのだ。
すなわち、日本福音ルーテル教会では、一律に律法的にこうすべきであるとか、そのようにせよと強制的な対応が作られたのではなく、それぞれ教会の実情と宣教の現実に合わせた各個教会の主体的判断が求められたということになる。

各教会は、それゆえにそれぞれに与えられた地域社会とそこに集う信徒、またその家族や生活に心を寄せながら、牧師と役員とを中心として独自の判断をしていくこととなった。ほとんど全ての教会で、信徒を集める礼拝を中止したかと思うが、礼拝堂や教会を完全に閉じることを余儀なくされた教会もあれば、会堂はオープンにして祈りの場として提供し、牧師が来会者に牧会を行えるように整えたところもあった。そうして、それぞれの現実にあった教会のあり方を実現してきている。

緊急事態宣言は、521日に一部を残して解除され、525日には残されていた東京近郊と北海道を含めて完全に解除された。これに伴い、全国の教会はそれぞれ段階的に教会での礼拝や集会を再開し始めている。ただ、東京では62日に「東京アラート」を発令したため、都内の教会では慎重な対応が続いているといって良いだろう。

続く・・・

2020-04-18

ナガミヒナゲシに思うこと

ナガミヒナゲシ
駐車場やちょっとした空き地にオレンジ色の綺麗な花を咲かせている。ここ10年ほどで日本中至る所に広がっているので、名前こそ知らなくても、気づかれた方も多いだろう。「これ雑草なの?」「植えたのかと思った」という人もいる。



ググればすぐわかるが、60年ほど前に東京で初めて観察された帰化植物だ。原産は地中海沿岸だが、今や世界中に広がっている。一果実に千粒を超す小さな種子が内包されていて、一本生えたら10万の種子をばら撒くと言われるほどに、繁殖力が強い。しかも、他の植物よりも圧倒的に強い生命力なので、瞬く間に日本中に広がっているのだ。

数年前から、キャンパスの中にもチラチラと見かけるようになった。ちょうど4月くらいから花をつけ始めるので、見つけると根こそぎ引っこ抜くことにしている。というもの、同じ時期に花をつけるカラスノエンドウ、野芥子、鬼田平子、和たんぽぽ、ヒメジオンなどがキャンパスに自生しているからだ。いずれも、キャンパスの中でいわゆる雑草として刈り取られる運命にあるのだけれど、小学生の時からこのキャンパス近辺で育った自分には、これらの雑草はいわばお友達。それらを押しやっていく外来種を野放しにしてはおけなかった。今年も、毎朝、一本、二本と見つければ、引き抜いている。

なんの疑問も持たないというわけでもなかった。ご近所にはすでに広がっていく様子を眺めつつ、ここにもあるなあと目を楽しませてもらってはいるのだけれど、ここだけは守りたい。君たちに入って欲しくないのだよと、引き抜くのは私のエゴではないのかと。

このなんとなく思っていた疑問が、今年はやけに胸に広がる。というのも、これはいわゆる特定外来生物には指定されていないということを知ったことと、実は今の新型コロナウィルスのパンデミックの状況の中で、現代社会の問題とは何かと考えさせられているからだ。
従来の自然を大事にすると言いながら、ある意味で自然に生えてきたものを駆除するのは人間の意図的なことだ。自然じゃないってことでしょうと、まあ言われても、この外来種は自然にはやってこなかったはずと答えただろう。
それは、ちょうどこのウィルス禍がどうして世界的広がりをこんなに急速に展開するのかということと重ねられる。現代の人間のグローバルな往来とあらゆる「もの」が商品として流通する世界が、自然のままなら機会のほとんどなかった植物の世界的な繁殖を可能にしているのだ。そして、武漢にとどまるべき「新型ウィルス」があっという間に世界の病気として広まる。
つまり、そういう現代世界の現実を背景にしているのは、ナガミヒナゲシもCOVID19もも同じことということだ。

その現象の中、このウィルス禍への対応に見出されるのは排他主義だ。感染拡大を抑えるために様々な経済活動が自粛、制限され、それに応じた補償が議論される時、その背後に誰がこの補償をえるのかという分断と切り捨て。普段の収入がどういう状況か、生活保護を受けている人はその補償の資格を初めから持っていないとか、日本国籍を保有するものだけだとか。同じ地域社会の中にともに生きるているということについて、どのように考えるのか。いつも同じことが繰り返し議論されるが、誰も区別なくこの禍の中に置かれているにもかかわらず、何かを排他主義的に切り捨てていこうとする。日本だけではなく、世界のいろいろなところで見られる状況がある。どうしても難民や路上生活者など社会的弱者はここでも支援から遠いものとされ、後回しにされている。
そんな問題を考えていたら、私がナガミヒナゲシを引き抜くことはこれと同じではと、急に心苦しくなったのだ。何を切り捨てているのか・・・

でもなあ。それなら放っておいて、もともとの自生種が追いやられていくのを放っておくのは果たして、どうなのか?人間がわざわざもたらさなければ、追いやられることもなかったのに、あっという間に新参者に駆逐されるとしたなら?
なんとも複雑な問いの中で、それでも一本一本と抜いていく私って・・・

どうやら、このナガミヒナゲシ、特定外来生物に指定されないのには理由があるようだ。つまり、周辺植物を阻害するアレロパシーはそれほど強くないのかもしれないということのようだ。
もしかしたら共生の道があるのかも。

でも、それはやっぱり長い長い時間をかけていくことなのか。
私の短いいのちに見る価値で判断しようなど、なんと愚かなことよ。
それでも、目の前の草花たちを大事にしたいと思ってしまう執着は、
愛ではなくて煩悩、慈悲でなく罪なのかも。。




2020-03-07

揺れる教会〜〜新型コロナウィルス感染拡大の只中で


新型コロナウィルスの感染拡大を防止するという目的で、政府は要請という言葉で、緩やかにしかしはっきりと国民生活の中に自粛を求め、それによって小・中・高の学校の休校のみならず、幼稚園から大学に至るまで臨時の対応へと押し流されているかに見える。
そうした中で、教会でも週日の祈祷会や集会を取りやめたり、また聖餐式のあり方を工夫したり、これをやめたり、さらに主日礼拝そのものを休止するとか教会施設を閉鎖する、など様々な対応が生まれてきている。



もちろん、そうした潮流に懸念の声も多くある。そもそも、その判断が何に基づいているのかと問うものもあれば、教会の使命や本質論から礼拝の中止を嘆くものもある。
私自身もいろいろと思うことがある。けれど、自分の言葉は一度飲み込んだ。まず、聞かないといけない。どういう判断がなされたのか。どんな対応を本当に教会として考えているのか。
それぞれが声を上げ、議論する。いいことだと思う。皆が考えてみたらいい。
でも、多様で良いと思うのだ。こうしなければならないという外面的なことで縛ってみても何にもならない。むしろ、この時にこそ、御言葉にきき、祈り、共に信仰の共同体として生きるということを各教会で考えるべきだと思う。そうして、礼拝の意味も、聖餐の豊かさも、信仰とは何かも、改めてそれぞれが学び、受け取っていく。
一つひとつについて教会は、牧師も信徒も、どう対応するか、そんなに軽々に判断していないし、揺れていると思う。そういう揺れや問い続ける心が大切なのだし、その中で話し合いながら、現代において、自分たちが教会に集うこと、礼拝にあずかることの恵みを今一度確かめるようにして工夫をしたらいい。大事なことは、この時こそ、不安な信徒一人ひとりを孤立化させないように、そして牧師たちもそれぞれがいろいろなことを考えて、手立てを作ること、支え合うことだと思う。
集う信徒の年齢層や地域性によっても異なる思いがそこに見出されるだろうし、悩みがあるのだ。そういう具体的なことを牧師たちは考えている。教団が号令かけてしまって、全国津々浦々で一律のやり方などを決めたり、神学的権威(そんなものはどこにも認められていない時代かもしれないが)がこうすべしと大上段に構えては、本当に必要な宣教、御言葉の喜びと平和を分かち合うこと、教えと学びを深めていくこと、一人ひとりに仕えていくこと、癒しととりなし祈ること、他者のために苦難を負うこと、そうして共に生きていくことの実際は無視されてしまうように思う。(まあ、必要以上の混乱を避けるように教団が決断すべきこともありうるけれど)むしろ、それぞれの地で、牧師と信徒が格闘していることに耳を傾け、祈り支え合う。そして、それぞれのあり方や判断を確認したり、その苦しさを支援する。そういう教団、教会でありたいものだ。どのような時にも、キリストはあなたのそばに あって、それぞれ、一人ひとりを見捨てず、裁かず、悔い改めと恵みのいのちへと導かれるのだから。
今の時代は複雑だし、本当に多様な可能性がある。それだからこそ、この時にこそ、それぞれの地域にたてられ、遣わされている自分の教会の性格を診断しながら、皆でこれからの自分たちの教会や礼拝のあり方、社会との関係、宣教のあり方を見直してみてはどうだろう。

2020-02-27

教職授任按手式礼拝


教職授任按手は、3月20日九州は博多教会で行われる教区総会において行われることとなった。当初の予定は、3月1日に日本福音ルーテル教会宣教百年記念会堂(東京教会)においておこなれることになっていたが、今般の新型コロナウィルスの感染拡大の不安が広がる中で諸々のイベント・行事が見直されていることを背景にして、決断された。



按手を受けるのは、森下真帆。
新年度から同じ北九州、小倉教会、直方教会への赴任が決まっている。九州教区の教職者と信徒たちの集まる教区総会での按手は、ふさわしいあり方の一つだ。
新任牧師の誕生のために、是非、祈ってほしい。


2020-02-26

2020年度 牧会研究会

2020年度も日本ルーテル神学校・デールパストラルセンターは牧会研究会を開催します。
月の第二金曜日の午後1時半から2時間の研究会を1年間、10回のプログラムで準備しています。場所は、新大久保にある、日本福音ルーテル東京教会の会議室。

予定は、下記の通りです。教会、また関連施設に働く牧会者の皆様に実践的な課題にを共に学び、分かち合う時間とさせていただいています。
特に、今年度は、堀肇先生に牧会カウンセリングに重点をおいた5回の講座をお願いしています。心理学を実践的に応用したカウンセリングについて学ぶことができます。きっと、牧師先生方がすでにもっていらっしゃる経験的な知と技術を今一度客観的に捉え直し、分かち合う力を高めることにお役に立てると思います。




  
410日「日本の牧会のこれまでと課題」(関野和寛)
58日「家族療法の応用牧会カウンセリング講座1」(堀肇)
612日「人間のパーソナリティ(気質)に基づくカウンセリング」(ジェームス・サック)
710日「発達心理学の応用牧会カウンセリング講座2」(堀肇)
911日「牧会者の危機~失敗と挫折から~」(石居基夫)
109日「交流分析の応用牧会カウンセリング講座3」(堀肇)
1113日「霊的同伴のあらまし」(齋藤衛)
18日「フランクル心理学の応用牧会カウンセリング講座4」(堀肇)
212日「スピリチュアル・ペイン(心の痛み)とそのケア」(ジェームス・サック)
313日「キリスト教的愛と心理療法牧会カウンセリング講座5」(堀肇)

費用:全10回で二万円。

お問い合わせ、お申し込みは下記まで。
E-mail: dpc@luther.ac.jp

2020-02-10

第54回 教職神学セミナー

第54回教職神学セミナー
日時:2020年2月10日〜12日
会場:日本ルーテル神学校
主題: 「明日の教会のために~わたしたちの教会・神学・神学教育」

21世紀も、もう20年を過ぎようとしている今日、世界は急速な変化を経験していて、政治・経済・文化などあらゆる領域において、今までの常識や考え方が問い直される時代。デジタルな時代に私たちの関係の作り方も生活も大きく変わってしまって、私たちがどのようにこの現実に向き合っていくのか、大きな課題の前に立っている。
教会も例外ではない。福音の宣教は普遍的なものではあっても、その時代と社会に生きる人々に確かな神の恵みを分かち合い、キリストの体としての働きを生きることが問われているのだ。
時代の節目ともいうべきこの時だからこそ、私たちは明日の教会に備えるために、今、私たち自身を問い直したい。





210日(月)
15001530 開会礼拝
【セッション①】 イントロダクション:ルーテル教会の宣教とミニストリー(職務)
15301620 基調講演:石居 基夫 
             明日の教会のために〜私たちの教会、神学、神学教育(今、何が問題なのか)
16301800 特別講演①:西原廉太  
  ルーテル教会・聖公会の教会間対話から学ぶルーテル教会の豊かさ
                   ~夕食・休憩~
19002000 講演:永吉秀人、滝田浩之  JELC7次総合方策における教会」
20002030 トークセッション:

211日(火)
900 915 デボーション
【セッション②】 「明日の教会像」
9151045 講演(1):江口 再起 「ルターの教会論の基本」
            講演(2):立山 忠浩 「ルーテル教会の説教と牧会」
1100-1145  トークセッション 
        ~昼食・休憩~ 
【セッション③】 現代世界と宗教の役割
13301500 特別講演②:橋爪 大三郎  
        変わる世界の宗教とルター派」

15301615 「わたしの教会形成」 参加者発題 
16151700 トークセッション

212日(水)
900 915 デボーション 
9151000  「わたしの教会形成(2)」 参加者発題 
100010:30 トークセッション
【セッション⑤】 まとめ
10451130   講演:宮本 新  ()「これからの神学と神学教育」
11301200 トークセッション 
~昼食・散会~
13101410  派遣聖餐礼拝  

2020-02-09

2019年度 神学校の夕べ

今年も卒業生を送り出す、「神学校の夕べ」が行われます。

日時:2月23日 午後4時から
場所:日本福音ルーテル教会 宣教百年記念会堂 (東京教会)
主題:召命


今年の卒業生は一人。森下真帆(JELC東京教会出身)。
高校卒業後、ルーテル学院大学で学び、キリスト教と出会い、信仰を与えられた彼女が、こうして牧師をなっていく学びを終えられ新しい旅立ちをされること、嬉しく思います。
今を生きる青年にとって、信仰の出来事って、どういうことなのか、きっとお集まりくださった方にも伝わると思います。
どうぞ、おいでください。

翌週の3月1日に按手を受け、4月からは九州は小倉教会、直方教会に働きます。