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2024-02-24

第58回教職神学セミナー「キリストを伝えるーキリスト教と公共世界」




ルーテルの「教職神学セミナー」がこの2月13日、14日と4年ぶりに対面で行われた。会場はルーテル市ヶ谷センター会議室。ウイルス禍前は2泊3日はとって、ゆっくりと学びと交わりを深めたが、今回は久しぶりの対面ということで1泊2日の集中プログラムとなった。





テーマは「キリストを伝えるーキリスト教と公共世界」。

私は基調講演「ルターと公共世界」を担当させていただき、前座としてセミナー全体のイントロダクションをさせていただいた。

そして続いて、ゲストスピーカーにお招きした福嶋揚先生から特別講演「資本新世のキリスト教〜資本主義の神学」をいただいた。福嶋先生のお話は、ご自身もおっしゃっていらしたが、かなり大胆でラディカルなプレゼンテーションであったと思う。現在の資本主義世界の先をどのように私たちの未来として描いていくのかということに関わって刺激的な問題提起をいただいた。福嶋先生の講演についても改めて私なりの受け止めと感想をのちに記したい。

2日目は盛り沢山でまず李明生先生に説教者のための聖書研究ということで「隣人愛が向かう先はどこか -新約諸文書から-」で講演、また現場からということで白川道生先生に特別講演➁「今、ここにある公共性~教会に顕在する、公の場~」、そして最後は宮本新先生「公共世界における宣教~カサノヴァの公共宗教論を手掛かりに」という講演でまとめをしていただいた。


とりあえず、私がお話しした「ルターと公共世界」のレジュメを以下に置いておく。

大きく4つのまとまりで限定したお話をしたので、できれば今後このブログで、それぞれでお話ししたポイントをまとめ、また時間の関係で話すことができなかったことを補って私自身のこのテーマでの学びを整理しておきたいと思うが、ここではレジュメのみ。


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2024・02・13                                                                            ルーテル 教職神学セミナー

ルターと公共世界

日本ルーテル神学校 石居基夫

1.  はじめに

(1)公共世界とは

公共(Public)⇔ 私事(Private) ← 近代・市民社会の形成とともに

他者と共に生きる領域 全構成員の共通の関心と課題、基本的人権、

他者性、多様性、差異性、中立性、公平性、自由、民主主義 ☞ 福祉

 

(2)神学の射程として

「公共」の神学 「公共」のために 「公共」を問う cf.稲垣

教会も信仰者も日常的に生きている基盤としての「公共世界」の問題

国家の支配、資本主義経済の世界支配(グローバリズム)による「公共」の危機

危機をもたらす「力」の持つ宗教性(偶像・マモン)を問題として

   

 

2. 私たちの問題

(1)ルーテルの包括的宣教における「公共」

教会における伝道と共に、幼保、教育、福祉の働きを展開 

ルーテル学院←「神の民」育成、福祉・心理の対人援助へ

法人会連合⇔各法人の将来に向けて ルーサラン・キリスト教主義とは

 

(2)公共世界に向けて

戦争と平和、宗教と国家(靖国、天皇制)←20世紀後半の課題

被災地支援、臨床宗教師、スピリチュアルケア←21世紀、とりわけ3・11以後に

原発、沖縄、多様性、生命倫理、環境倫理 

 

 

3.ルター

(1)神の二様の支配と悪魔的勢力との戦い  cf. U. ドゥフロウ

    律法:(神の左手の支配、世俗的支配、国家)

       この世の平和、正義、公平を実現する⇔  悪魔的諸力 

                         (罪、悪魔、死、律法・神の怒り)

   福音: (神の右手の支配、霊的支配、教会)   

         キリストの義が与えられ、赦しに生かされる

 

 

 

(2)神の世俗的支配における「三つの機関(秩序と立場)」 社会教説 cf. 倉松功

   国家(politia):教会(ecclesia):家政(oikonomia)

   すべてのキリスト者がそれぞれの秩序に立場をもち、召命(ベルーフ)を生きる

  教会はみことばによって預言者的に参与し、また具体的な奉仕者を派遣する

 

(3)全信徒祭司と協働

   すべての信仰者が神の御業への参与・協働に生きる

   創造の業 他者と共に生きる世界、必要な物、関係 ← 「小教理問答」使徒信条

   救済の業 隣人への奉仕(ディアコニア) ← 「キリスト者の自由と奉仕」

 

 

4.近代以降の枠組みから新しいカタチを描くために

(1)近代市民社会の形成と公共 の中でのキリスト教信仰

   宗教改革以後のキリスト教的一体世界の崩壊 

  近代国家は多様な信仰の共存を内包する⇔信仰は私的領域へ

  市民革命以後の市民による「公共社会」の自覚的形成と参与

 

(2)国家と資本主義の支配

   現代における国家と地域社会の「公共性」との矛盾 

   自由と平等の相剋、格差と犠牲の必然、

   産業革命後の資本主義経済の圧倒的支配

⇔人間性疎外と自然の搾取の論理

 

(3)現代日本の中で

   19世紀敬虔主義における宗教的個人主義をいかに超克するか。

     →ドイツ敬虔主義の脈絡におけるディアコニア運動の形成の批判的検証

     (シュペーナー、フランケ、ツィンツェンドルフ、ビュヘルン

       今日のいのちと尊厳、多様性を支え、ケアする営みを

神の恵の働きの中にもう一度捉えなおす

 

創造論と終末論のただなかで、救済論を軸にしながらも、包括的神学思考をする

  Politiaとoikonomiaの間に立つecclesiaの意味と可能性

  

            Cf.キリスト教自然神学の再考へ(稲垣久和、マクグラス、)

 

2020-09-08

「いのち」の尊厳を考える〜スピリチュアリティ の視点から〜

先日、ルーテル・医療と宗教の会に招かれ講演を担当させていただいた。
5月開催の予定だったものが、COVID-19の感染拡大の影響を受けて延期されたものだったが、結局オンラインでの開催となった。
牧師としてキリスト教の立場をはっきりと出していわゆる「終活」について、また死と葬儀について、現代日本の脈絡の中でお話しすることは多くあるのだけれど、今回は少しだけ視点は広げて、特定の宗教によらない「スピリチュアリティ」の視点を示しながらのお話しとさせていただいた。



会場は、生まれ育った日本福音ルーテル武蔵野教会をお借りしてのライブ講演であったけれど、さすがに目の前にカメラとモニターを置いて、配信関係の方以外の聞き手のない中での講演というのは、緊張するものだった。カメラに目線を合わせないといけないのだけれど、どうしてもモニターを見てしまう。(世にいうユーチューバーなる方々はすごいなあと感心。)

これまでの日本の終末期医療の現場でスピリチュアリティの研究をくださった方々の成果などに学びつつ、自分なりに宗教者、牧師としての立場から考えてきたことを踏まえてお話しさせていただいた。どうしても限られた時間の中で、一通りのお話をしようと思うので、平坦な語り口になってしまったかもしれない。

従来のスピリチュアリティの研究は、当事者の死と向かい合う実存的な苦しみ、痛みにどのように対応するべきなのか支援のあり方を具体的な臨床において研究してきたものだと思う。その豊さに学びつつ、しかし、今回の講演では、そういう視点からだとスピリチュアリティ の領域はどうしても患者・当事者の実存的なニーズを中心に考えられるものとなってしまうことへの問いかけをしてみたかった。

スピリチュアルなこと(信仰的な問題と重ねるならば)は、実は私たちの問いや必要ということであるばかりではなく、むしろ、神からの働きかけや問いの前に立つということでもあって、人間が中心であることよりもむしろもっと違った大いなるもの(Something Great)からの働きかけの中に自らを置くことから来る畏れや深い癒しの体験でもあるはずなのだ。そうしたことが、宗教者だからこそ、はっきりと語るべきと考えてきた。医学や心理学、あるいは福祉でも、実証的で科学的な議論の積み重ねによって議論がなされるし、またそうでなければ、具体的な問題に対処する実践を提供できないだろう。けれど、「いのち」の問題はいつでももっと神秘的だ。誕生することが I was born.と受け身で語られるように、いのちはいつでも、私たちの選択や自由になるものではなく、与えられるもの、生かされるもの。息を引き取るお方がおられるので、死が訪れる。

そうしたいのちの神秘性を、「存在(いのち)=関係」の視点を持って考えてきた。細胞単位の生命現象は初めから終わりまで一個体の物質的な運動とエネルギーの循環の中に観察される。科学的実証的な理性は、受精の瞬間からこの個体としての運動において命を見ることだろう。しかし、人間である私たちは、「わたし」という存在の中でいのちを生きる。その「わたし」のQuality of Life と言われるところのLifeは、生命であるけれど、生活であり、人生でもある。その中心は抽象的な人間なのではなく、個別具体的な「わたし」であることは間違いない。しかし、この「わたし」は様々な関係の中でこそ、その存在の豊さを生きているのだ
他者との関係、特にも愛するものとの関係、家族や親族、地域共同体の関係の中でその「いのち」の活動が与えられ、保たれているのだ。そして、そうしたつながりの中でこそ、かけがえのない「わたし」を与えられている。あるいは、自然世界、例えば動物や植物などのいのちの循環、さらには水や大地、空気といういのちの源泉になるものとの深いつながり、山とか海とか川とか森などの自然環境こそが具体的な共同生活や文化の土台になっている。さらに言えば、そうした「わたし」のいのちのつながりを観想し、理解し、その本質をとう形而上学的な試みも、またそうした様々なつながりの中に感性働かせて永遠の汝と呼ばれるような超越的存在との関係に生かされる思いを深めることもある。そういう様々なつながりと関係性の中で理性も、感性も、豊に用いて「わたし」の存在を受け止めている。それが人間としての「わたし」なのだ。
だから、そういう「わたし」をめぐる大きなコンテキスト、脈絡とつながり、関係へとパースペクティブを開いていく。そこにスピリチュアルな視点の豊かさがあると考えるのだ。
そうした視点が、医学や看護、心理、あるいは福祉とともにその人の「いのち」を受け止め支える実践の中にこそ、その人がその人として生きるいのちの尊厳を守っていくばがひらけてくるのではないか。必要な支援を生み出していく、あるいはそれを受け取っていくことが可能となるように思われるのだ。いずれ限界をもつ私たちは、守りきらないし、助けられないという現実に立ちすくむ。その時にこそ、この大きなコンテキストの中にある私たちのいのちの豊さを深く味わい、共に生かされていくような視点を持つことが必要なのではないかということが、今回の講演でお伝えしたかったことなのだ。



2020-06-10

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ④

【伝統的神学と】
こうした神学の課題に取り組むとき、私は、二つのことを考えるべきだと思っている。
まず初めに、従来の伝統的神学にしっかりと学ぶ必要がある。そして第二に、これと相矛盾するようにも見えるが、伝統的な神学に対して、私たちはいつでも批判的であるべきだということだ。この二点についてここで詳しくは論じることは必要ないだろう。神学はどの時代にも、その向き合う現実の中で、神の福音を聞き取り、現実に抗しても実現すべき福音宣教のために言葉を紡いできた。だから汲み取るべき神学的格闘の成果が伝統的神学の中にある。しかしまた、こうした神学的営為はいつでもその時代の子でもあって、歴史的限界性をもつのだ。その時代の人間のことば、人間の考え、文化の限界性の中に置かれている。だから、いつでも相対化されるべきだし、批判的検証を必要とする。
だから、より古いものが純粋であると断ずることもできないし、新しいものが優れているわけでもない。しかし、長い歴史に耐えてきた教義には、鍛えられた神学の重みがある。丁寧にその教理をめぐる歴史的議論を確認していくなら、私たちは新しい議論などが果たして可能なのだろうかとさえ思う。だからこそ、しっかりと学ぶ。


それでも、大事なことは、この大きな時代の転換点の中で、神学的にも実践的にも、既製の何かをもって対応しようとすることの危険について知っておくことである。新しい時代が到来している中で、権威的に何か一つを絶対化して主張をしようとすると、それは必ず他を裁く傾向を持ち始める。しかし、私たちの信仰もどのような神学も、歴史的限界性を完全に克服することはできない。だから、新しい何かが起こってくることを、軽々に判断してしまうことは避けるべきだと思う。むしろ、そうした事態をしっかりと確認しながら、実践的取り組みを神学的に検証していくことが必要だなのだ。そうして、長い神学の歴史の中に重ねるに値する、一つの言葉を見出すことができれば幸いだ。

【Lex orandi, lex credendi 祈りの法は、信仰の法】
この間、私たちの教会の総会議長は、例えばインターネットを使った礼拝の配信のみならず、様々に利用されてきたネット会議や集会など、新しい「つながり」を、「新しい領域の創造」であり、「人間の持つ可能性の豊かさ」という言い方で積極的に捉えている。礼拝とはこういうものだとか、教会とはこうだという「あるべき論」で語り出すと窮屈になり、特定の人たちやその実践を「神学」によって周辺に追いやってしまうことになりかねない。
現実に対応した多様な実践は、どうして、なんのために生まれてくるのか。それはどんな効果をもたらしたのか。その実践の課題や問題は何か。広い議論を作って検証していく時間が必要だと思う。人々が、どのように礼拝に招かれ、これに集い、みことばに与かり、聖徒の交わりが作られて、また日常に、つとめに派遣されているか。礼拝のダイナミックスは、教会のダイナミックスだから、より大きな視点をもって、そこに生まれていることを丁寧に見ていきたいと思う。
「祈りの法は、信仰の法」と言われる。実践の中でこそ、私たちの信仰の内実がよりはっきりと鍛えられてくるだろう。実践を確認しながら、今度はことばを鍛える。祈りと信仰、実践と神学、その相互のダイアローグはやがて定式化するかもしれないし、時代の中で淘汰されていくのかもしれない。慌てずに、ここからの行き先は主に委ねつつ、しっかりと議論を重ねていきたいものだ。

【イエス・キリストを問いつつ】
もちろん、どれほど時代が変わったとしても、人間の救いが、イエス・キリストの十字架と復活においてもたらされたというキリスト教の根本が変わることはない。だから、人間が何者であるのか、なぜ救いが必要なのか、どうして救われていくのか、ということについての根本がイエス・キリストであるということは変わることがないのだ。ただ、もちろん、そのことについての私たちの理解が深まっていかなければならない。いや、イエスとは誰か?その問いをキリストと告白することのうちに見出してきた信仰を今一度、私たち自身が問い直していくのではないか。
そして、おそらくそれはこのキリスト論的な議論の中で、私たちは私たち自身と救いについて、今一度この信仰が何かということを告白的に語ることばを見出すことになるのだ。さらにいうならば、人間の身体性や弱さ、罪や病や死という否定的に考えられる人間性を、むしろ「救い」という言葉の中に抱き取ってきた十字架の神学の深さを、キリストの体と言われてきた教会という脈絡の中で再考すべきなのだと思っている。これまでの神学が、その時代にどうして福音を受け取るためにその言葉を選び、どんな問題に格闘し、議論をしてきたのかに学びつつ、もう一度、それらをひっくり返して、私たちの現実の中で、私たちが鍛えられた神学の言葉として紡ぎ出さなければならないのだと思うのだ。
今、教会は神学すべきとき。実践的に自らの信仰を捉え直しつつ、教会を問い、礼拝を新に受け止め、私たち一人ひとりが生かされていく姿を自ら言葉の中に写しとり、検証していきたいものだ。きっと、この経験は私たちにとって次の時代を拓くものとなる。主に仕え、このもっとも小さき人たちに仕える神学こそ、終末の希望に歩み続けるものだと、そう思う。

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ③

大柴議長は、その談話において、ボンヘッファーの「交わりの生活」をひきながら、教会において集まることができることを当たり前のことではないこと、それがいかに恵みに満ちたものであるかを深く覚えるように示し、たとえ物理的な距離があっても霊的なつながりと交わりに生きることができることを確認するように促している。

このウィルス禍の中、私たちは厳しい状況に置かれてきたことは確かなのだが、その中で信徒一人ひとりが霊的な自覚と成長の機会を与えられてきたようにも思うのだ。それは、教会がその地域に教会として与えられていることを深く問いつつ、またその自覚を促すものであったと思う。繰り返しになるが、この礼拝をはじめとする活動自粛は、決して教会に集まる者たちだけのためではなく、地域社会に対する責任を自覚したものであったし、信徒一人ひとりは導かれて、絶えず病の中、いのちの危険の中にある人たち、医療・福祉従事者、また社会的に弱い立場にあり、感染の不安や恐れの中にある人々のことを祈り続けてきたはずだからだ。また、小さな働きではあるかもしれないが、地域社会の中で現実の困難を生きる一人一人を支える働きは営まれてきた。関連施設ではもちろん、牧師も信徒もこの一人を放ってはおけないと手を差し出してきたし、逆にしっかりと捕まえられて、励まされたりもした。
しかし、それだからこそ、この状況の中、私たちの教会が今どういう姿であるのか、何を生きているのか、確かなことばをもって語っていかれるように、改めて問われていると思う。

【問われる「福音」宣教】
ポスト・コロナの時代は、確かに大きなチャレンジを受けることだろう。しかし、それはある意味で、このウィルスの脅威がなくてもやがて訪れるべきであった事態が加速度的に進むという類のことではないだろうか。
もちろん、しばらくは具体的に教会の中でのソーシャルディスタンスをどう取るかとか、消毒や手洗い、マスクなどの慣行が求められるなどのこともある。コロナとともにどう教会は活動するかという新しい様式が必要だ。しかし、あらわにされた問題は、こうした新しい様式がひと段落した後においても、そして、例えばこのウィルス問題が発生しなかったとしても、どちらにしてもいずれ教会が正面から向かい合わなければならない課題であったと思う。
少子高齢化ということだけでなく、現代日本における宣教の困難は、旧態然とした教会のありようが、現代を生きる人々の苦悩に福音を届けることに追いつかないで来たということではないだろうか。私たちは、生活のあり方、働き方、娯楽の持ち方などあらゆる文化・文明が大きく、そして急速に変わる節目に生きているのだ。


【教会の基盤の変化】
教会は、それぞれの地域社会の中で宣教の働きを担うように立てたられている。神のみことばによって信仰へと呼び出され、恵と愛の力に生かされて、相互の交わりに支えられつつ、さらに地域社会への宣教を生きるものである。信徒は、この間に自分たちが集えないという現実の中で、コミュニティとしての教会であることへの渇望を新たに覚えたことだが、同時にまたその教会が地域社会の中に置かれていること(派遣されているということ)に意識が向けられてきただろう。
ところが、21世紀に入ってからの、人間の限界を超えるようなICTとAIの劇的な進歩とその利用の広がりは、単に産業の問題としてではなく、一般市民の生活のあらゆるレベルにおいて、いわゆるグローバル化という現実をもたらしてきた。そうすると、世界の一地域や特定社会、あるいは国の問題は、そこに止まることがなく、須く地球規模の問題となる。まさに一地域で発生した感染症が世界規模のパンデミックになるのが現実である。インターネットを使うことで、地球の裏側とのコミュニケーションだって、わずかなタイムラグを思うだけで、ほぼ同時双方向のやりとりが可能となった。
そういう現代世界で、地域教会とかコミュニティとしての教会といっても、そもそも「地域」とか「コミュニティ」という言葉で表してきたことの意味が根本から問い直されているのだ。実際に、また私たち日本の教会においては、教会のある地域ということと信徒の生活圏とは必ずしも一つではないという実情がある。特に都会の教会では、遠距離を通う教会信徒の交わりは、地域社会とは直接に関わることの希薄なコミュニティを形成していることが多いわけだ。
そうした実情を考えると、現代世界の中で私たちは、何をもって私たちのコミュニティとしての性格を生き、どのように地域社会への宣教を担うのかということには大きな課題がある。(しかし、また可能性もある!)

【社会の課題の中で】
また、この感染症は、いつの時代でもそうであったように、貧困層に非常に大きな被害をもたらしている。現代の格差世界で、誰のいのちが守られて、どういう人たちのいのちが切り捨てられているのか。そうした問題があらわになっている。貧困の世界的な構造、グローバリズムの歪みの中から生まれてきた自分ファースト、排他主義の広がりは世界中で差別と暴力をもたらしている。そして、それは私たちの生活の只中にさえ根を張っていて、見えない貧困が蝕み、親子の間にも学校の中でも暴力が陰湿に支配しているのではないか。嘘やごまかしで、力の強いものが不正を行い、利を独占して、支援の仕組みの中でさえ、奪い取ることが横行している。
あるいはジェンダーの問題、結婚や離婚、家族という私たちの人生に深く関わるこれまでの概念と価値は揺らいでいて、一元的な理解に固執するよりも、多様なあり方を認め合い、共存していくことへと誰もが積極的な責任を担っていかなければならない。世帯ごとに一括りにされていく現状は、おそらく深刻な課題を家族という伝統的な単位の中に抱えている現実に合わないだろう。にも拘らず、社会の仕組みはやはり保守的で、必要な支援が個々に行き渡らず、かえって苦しい現実を背負わされている実情が見えてくる。

【問われている神学】
こうした急速な世界の変化の中にあって、伝統的なキリスト教の神学や教会のあり方が対応できていないのが実情だろう。だから、誰に向かって何を伝えるのかということに、自信も方法も見失っているのではないか。福音信仰が誰のためのものになっているのかということだ。今、この世界が一つに結び合う時代だからこそ、その只中で困窮する人、悲しんでいる人、病の人、DVや虐待の現実を抱える家族、幼い子どもたち、高齢の方々、生まれや肌の色、文化や宗教などの違いによって差別されている人たち、ジェンダーやエスニックマイノリティーであるために見失われている人たちなど、全ての人たちのいのちと尊厳を守り、共に生きるための教会、神学であり得ているのか、と問われている。
改めて、この現実の中で、私たちに突きつけられている事柄は、この現代世界に対する「福音」の理解とそれをどのように分かち合うのかということに対する根源的な、そして極めて実践的な神学問題であるのだと思うのです。

2020-03-07

揺れる教会〜〜新型コロナウィルス感染拡大の只中で


新型コロナウィルスの感染拡大を防止するという目的で、政府は要請という言葉で、緩やかにしかしはっきりと国民生活の中に自粛を求め、それによって小・中・高の学校の休校のみならず、幼稚園から大学に至るまで臨時の対応へと押し流されているかに見える。
そうした中で、教会でも週日の祈祷会や集会を取りやめたり、また聖餐式のあり方を工夫したり、これをやめたり、さらに主日礼拝そのものを休止するとか教会施設を閉鎖する、など様々な対応が生まれてきている。



もちろん、そうした潮流に懸念の声も多くある。そもそも、その判断が何に基づいているのかと問うものもあれば、教会の使命や本質論から礼拝の中止を嘆くものもある。
私自身もいろいろと思うことがある。けれど、自分の言葉は一度飲み込んだ。まず、聞かないといけない。どういう判断がなされたのか。どんな対応を本当に教会として考えているのか。
それぞれが声を上げ、議論する。いいことだと思う。皆が考えてみたらいい。
でも、多様で良いと思うのだ。こうしなければならないという外面的なことで縛ってみても何にもならない。むしろ、この時にこそ、御言葉にきき、祈り、共に信仰の共同体として生きるということを各教会で考えるべきだと思う。そうして、礼拝の意味も、聖餐の豊かさも、信仰とは何かも、改めてそれぞれが学び、受け取っていく。
一つひとつについて教会は、牧師も信徒も、どう対応するか、そんなに軽々に判断していないし、揺れていると思う。そういう揺れや問い続ける心が大切なのだし、その中で話し合いながら、現代において、自分たちが教会に集うこと、礼拝にあずかることの恵みを今一度確かめるようにして工夫をしたらいい。大事なことは、この時こそ、不安な信徒一人ひとりを孤立化させないように、そして牧師たちもそれぞれがいろいろなことを考えて、手立てを作ること、支え合うことだと思う。
集う信徒の年齢層や地域性によっても異なる思いがそこに見出されるだろうし、悩みがあるのだ。そういう具体的なことを牧師たちは考えている。教団が号令かけてしまって、全国津々浦々で一律のやり方などを決めたり、神学的権威(そんなものはどこにも認められていない時代かもしれないが)がこうすべしと大上段に構えては、本当に必要な宣教、御言葉の喜びと平和を分かち合うこと、教えと学びを深めていくこと、一人ひとりに仕えていくこと、癒しととりなし祈ること、他者のために苦難を負うこと、そうして共に生きていくことの実際は無視されてしまうように思う。(まあ、必要以上の混乱を避けるように教団が決断すべきこともありうるけれど)むしろ、それぞれの地で、牧師と信徒が格闘していることに耳を傾け、祈り支え合う。そして、それぞれのあり方や判断を確認したり、その苦しさを支援する。そういう教団、教会でありたいものだ。どのような時にも、キリストはあなたのそばに あって、それぞれ、一人ひとりを見捨てず、裁かず、悔い改めと恵みのいのちへと導かれるのだから。
今の時代は複雑だし、本当に多様な可能性がある。それだからこそ、この時にこそ、それぞれの地域にたてられ、遣わされている自分の教会の性格を診断しながら、皆でこれからの自分たちの教会や礼拝のあり方、社会との関係、宣教のあり方を見直してみてはどうだろう。

2020-02-10

第54回 教職神学セミナー

第54回教職神学セミナー
日時:2020年2月10日〜12日
会場:日本ルーテル神学校
主題: 「明日の教会のために~わたしたちの教会・神学・神学教育」

21世紀も、もう20年を過ぎようとしている今日、世界は急速な変化を経験していて、政治・経済・文化などあらゆる領域において、今までの常識や考え方が問い直される時代。デジタルな時代に私たちの関係の作り方も生活も大きく変わってしまって、私たちがどのようにこの現実に向き合っていくのか、大きな課題の前に立っている。
教会も例外ではない。福音の宣教は普遍的なものではあっても、その時代と社会に生きる人々に確かな神の恵みを分かち合い、キリストの体としての働きを生きることが問われているのだ。
時代の節目ともいうべきこの時だからこそ、私たちは明日の教会に備えるために、今、私たち自身を問い直したい。





2月10日(月)
15:00〜15:30 開会礼拝
【セッション①】 イントロダクション:ルーテル教会の宣教とミニストリー(職務)
15:30〜16:20 基調講演:石居 基夫 
             「明日の教会のために〜私たちの教会、神学、神学教育(今、何が問題なのか)」
16:30〜18:00 特別講演①:西原廉太  
  「ルーテル教会・聖公会の教会間対話から学ぶルーテル教会の豊かさ」
                   ~夕食・休憩~
19:00〜20:00 講演:永吉秀人、滝田浩之  「JELC第7次総合方策における教会」
20:00~20:30 トークセッション:

2月11日(火)
9:00〜 9:15 デボーション
【セッション②】 「明日の教会像」
9:15〜10:45 講演(1):江口 再起 「ルターの教会論の基本」
            講演(2):立山 忠浩 「ルーテル教会の説教と牧会」
11:00-11:45  トークセッション 
        ~昼食・休憩~ 
【セッション③】 現代世界と宗教の役割
13:30〜15:00 特別講演②:橋爪 大三郎  
        「変わる世界の宗教とルター派」

15:30~16:15 「わたしの教会形成」 参加者発題 
16:15~17:00 トークセッション

2月12日(水)
9:00〜 9:15 デボーション 
9:15〜10:00  「わたしの教会形成(2)」 参加者発題 
10:00〜10:30 トークセッション
【セッション⑤】 まとめ
10:45〜11:30   講演:宮本 新  (仮)「これからの神学と神学教育」
11:30〜12:00 トークセッション 
~昼食・散会~
13:10~14:10  派遣聖餐礼拝  

2018-10-11

秋の講演会〝ルターから今を考える” 

今年も、恒例となった、ルター研究所主催の秋の講演会が開かれる。
11月18日(日)14時〜 日本福音ルーテル大森教会を会場としての開催だ。



プログラムは次の通り
      ‣小田部進一「宗教改革から500年後の人間の自由と不安と希望」
      ‣レクチャーコンサート「神はわがやぐら」
                 レクチャー 加藤拓未氏 
        演奏 高橋のぞみ氏   


昨年は、宗教改革500年記念という節目であったが、エキュメニカルな交わりの中で、現代世界におけるキリスト教のあり方を問うようにして、この時を過ごしてきたと思う。
501年目を迎えて、私たちはさらに学びつつ、現代を生きる一人ひとりに福音の喜びを伝えていく使命をはたしていかなければならない。そうでなければ、500年が単なるお祭りにだしてしまうだろう。このプログラムを、学びの一助にしていただければと思う。

2018-07-16

「オウム真理教」を考える④


信徒一人ひとり、次第に教団の狂気に巻き込まれていく。

しかし、そもそもその「信徒」は何を求めていたのか。
そこには極めて真面目な動機があった。そして、彼らはその誠実な性格であったことで、今回の教団の狂気に気がつかないのだ。なぜ、気がつかないのか。彼ら自身の言葉によれば、「『自分の考え』というもの自体が自己の煩悩であり、けがれである、として自分の疑問を封じ込めるように」なったという。完全な思考停止だ。それこそ、かなり高い教育を受けてきたはずの信徒たちが教団の狂気に気がつかないようにされた原因なのだろう。

(2018・7・14 朝日新聞朝刊)


ただ、そのような彼らは、なぜ教団の扉の中へと入っていったのか。

彼らが教団に「真理」を求めていたかどうか、「それは留保したい」と、以前書いたが、そもそも「真理」ということがいかなるものか、という議論を差し置いてこのようにいうこと自体生産的ではない。言いたかったことは、おそらく彼らは論理的、普遍妥当性をもつ「真理」を求めるつもりではなかったのではないかということだ。問題はむしろ、もっと実存的な問いではなかっただろうか。

 なぜ、自分が生きているのか。生きる目的は何か。
 私が私であるとは一体どういうことなのか。

現代の学歴社会で成果をあげてきた彼らの多くは、問いには必ず一つの答えがある、と正解を求める学びを生きてきた。しかし、人生を生きるということには参考書も正解一覧もない。よい大学、よい会社を目指すことのために、人生の多くの問いに立ち止まることはゆるされなかっただろう。
しかし、80年代の終わりから90年代のはじめバブルの時代は、膨れ上がっていく欲望の個人主義の中で、時代は将来へ向けての不安に傾いていったように思う。大学を出て、社会の一員となって生きていた彼らは、この漠然とした不安を沢山の娯楽や消費生活の中に引き込まれながら自分のものとしていったのだ。
その中で、生きることへの問いは、具体的な自分たちの生活の明日をどのように、なんのために生きるのか、という極めて個人的で実存的な問いとなった。だから、社会が何かをいうのではなく、私がこのことをどう感じ、何を考え、どう行動するのか。その自分の生きる確からしさを求めていたように思うのだ。

今でいうところの、スピリチュアルな問い。スピリチュアルなニーズが、やはり彼らの教団へと向かわしめた最も大きな理由だろう。

価値観も多様化し、不安な時代に、「断言」する力強さ。麻原にはそれがあった。強い信念を持って生きることへ、揺るがぬ確かさを示されたときに、おそらく、彼らはそれに惹きつけられていったのではないか。

しかし、そこに疑問をもつことは許されなかった。それこそ、この教団の秘密だ。
自由に批判できない社会は、小さな組織でも国家のような巨大な組織であっても、全く同じように、悪魔の支配に身を譲り、思わぬ暴走が自らを危うくするばかりか、他者を、世界を崩壊させて行くような脅威となりうる。

彼らは、その悪を自らのうちに引き受けてしまう。しかし、彼らはそれが悪とは思えなかったのだ。麻原の考えを生きることが、すなわち、世界のためであり、人類のため、私のために最もよい、確かなことと信じていたのだ。


2018-07-11

「オウム真理教」を考える③

あらゆる宗教に起こり得る狂気は、まず教団の内部における権力による暴力的支配の問題だ。社会に対するテロは甚大な問題だが、隠されていてあらゆるところにはびこっているという意味ではこちらはこちらでタチが悪い。そして、その意味でいうと、公式的なその宗教の言葉には表されない、極めて具体的で個別的な問題として存在するという意味でも、この問題は難しい。

おそらく、純粋な形での何かを求める信徒とそれにふさわしい?修行と霊的ステージを提供する教祖および教団組織という関係は、容易に、今でいうハラスメント的な力関係に陥ったことが想像される。霊的権力者が支配する構図。信徒の思考停止なるものは、「宗教だから」ではない。このハラスメント構造の中で生き延びるための服従の論理がこれをもたらすのだ。そして、おそらく積極的にこの論理に生き始めた者が自らをやはり正当化する時に、この一定の思考形態の中にはまり込んで、積極的にこれを補強する思考のみが強化されるのだ。

これが始まると、この宗教教団は暴力の支配する団体に変貌する。
圧倒的な権力・権威が支配する構図は、それを認め、受容し、かえって助長する被支配者たちの関係が保たれるように相互依存の現象も作り出すだろう。

この恐ろしさは、もちろん、カルト教団に限ったことではない。クラスでも、家族でも、恋人同士、会社でも、大学のサークルでも、宗教組織でも、どこでも作られる。
しかし、一旦これが成立してしまうと、崩しがたい。むしろ、その「カタチ」の正当化が暴力をさらに生み出す。これによって、どんなにそこに良いものの要素があっても、その組織自体が悪の製造マシンになっていくのではないか。

「ポアする」という言葉で、罪をおかさせないという理由づけを持って殺人を正当化する論理は、人のいのちと尊厳性を無視して、抽象化された宗教的言語の歪んだ理解だ。けれど、それを気がつかせない、気づいても止めることを許さない霊的?権威が支配するとき、この教団が何を提供するものと堕していったかは明白だろう。

独裁が生み出す危険な暴走は、かつて学生運動(連合赤軍)にも現れただろうし、ナチスなどの国家支配の形もとる。悪魔の構造だ。どこにでも現れる。宗教という最も善に満ちていると信じられているところほど、その罠によってこの悪を招き入れることになりやすい。
カルト教団と呼ばれるものの反社会性の根っこは、ここにあるのではないか。






「オウム真理教」を考える②

彼らの求めたものは、言葉以上の「真理」であったのではないか?
(いただいたのは「真実」という言葉だった。記憶違い。この違いは重要だと思うので、改めて考えたい。)

問いかけに 私は少し戸惑いを覚えつつ、考えさせられている。
まさしくそうだと、思う。そうなのだ。彼らの求めたもの、彼らを捉えたものは「言葉」ではなかっただろう。
しかし、私のうちに起こった戸惑いは、「言葉」へのこだわりを私が持っているからなのだ。それは、捨てるべきものなのだろうか。
そして、もしそうだとしたら、いやそうでなかったとしても、彼らの求めたものが「真理」なのかということには、少しく留保をしておきたいように思う。

言葉とは何か。真理とは何か。

まるでヨハネ福音書に登場するピラトのように、私はこの問いかけの前に、どのように答えるのかと、自問しているのだ。

言葉が単に言葉であるということは、一体どういうことなのだろう。言葉以上のものを持たない、言葉というものを考えることが難しい。
だから、もし、彼らが言葉以上のものを求めたというのであれば、それは大変にわかりやすい。彼らは、単に言葉による知識を求めていたのではないのは明らかだ。

そして、それこそこのカルト教団が提供するものであったことは間違いない。
「修行」であり、それによって得られるとした「霊的ステージ」こそが、彼らの求めたものだっただろう。それを高めることは、彼らにとっては学歴社会で偏差値をあげるがごとくに、彼ら自身を駆り立てる原理だったと思うのだ。この霊的ステージが高まれば、そこには人間のの持つ一般的な能力を超える世界が開ける。今なら、さしずめゲームによってステージをクリアして行くと、次のステージが開けるのと似ているかもしれない。そのひらけてくる世界は、一般には理解され難いかもしれないが、それこそ彼らの求める新しい世界だ。ある種のエクスタシー。りんかい線を超えた境地が開かれるのを「体験」していく。修行の力。

もちろん、それに至るまでにも、彼らの中に経験される教団内の「人間関係」「信頼」「存在の肯定」なども、現代社会の中では簡単には経験できない、親密なそして厳しさの中で得られる真剣さを与えるものだったと思う。多くの信徒は、まるで父親に怒られるかのように真剣に向かい合ってくれる「尊師」の言葉を求めただろう。常に優秀で周囲の期待に応えることができてきた人々には特にもこんなに真剣な向かい合いを経験することは滅多になかったことだったに違いない。そして、おそらく皆が深い自己省察へと導かれただろうし、そこで厳しく自己否定への契機を受け取っただろう。そんなことは、経験したことがなかったことだ。これは、修行そのものへの道筋を作って行ったことだろう。

そして、新しい自分を作る。そうした人(信者)が増え、教えが広がって行くことで、必ず新しい社会も開けてくる。小さな物語は大きな物語の中に位置づいて行く。その実感。
極めて情緒的でもあるけれど、単純で明快なストーリーを語ってきたのではないか。
それは、その実体験こそは彼らの求めたものだったのではないかと思う。
生身に感じる確かさ。
それは「真理」を求めたものであったのか?

しかし、こうした体験のすべてをは言わなくとも、宗教は皆うちに持ってきたものだ。
「オウムが怖い」は、「宗教が怖い」となって当然ということだ。

では、何が違うのか。カルトとそうでない宗教と、何処が分岐点となるのか。その違いは、言葉によって確認されてこなければならないのだと、そう思っている。言葉を超える何かを示す。しかし、そこに語られる言葉が、その人にも世界にも何を作り出そうとしているのかを確かめる唯一の道なのではないのか。
言葉へのこだわりを、私はやはり捨てる事はできない。



2018-07-09

「オウム真理教」を考える 

オウム真理教の教祖、麻原彰晃こと松本智津夫と当時の教団幹部7名が、裁判によって確定していた死刑判決に基づいて、その刑が執行されたことが報道された。

死刑・・・ということが解決なのかと、そのことも大きな問いではあるが、また、なぜこのような執行の仕方なのかという疑問もあるのだけれど…

改めて、あのテロ事件を思い起こす。

1995年の3月20日。地下鉄サリン事件は、13人が死亡、6000人以上の大勢の犠牲者を出したということばかりではなく、組織的に企てられたテロ事件であって、その計画実行を行なっていった人々の存在が、私たちの非常に身近な存在であったことも大きなショックだった。また、この事件後の捜査や逮捕に続いて諸々の事件が明るみに出て、松本サリンや堤弁護士一家殺害など多くの凶悪犯罪がこの教団の仕業であると解明された。連日の教団関係の報道で、出てくるあの教団の幹部として名を連ねていたのは、私とほぼ同世代。おそらく、信者の殆どは、ほんのその数年前まではごく普通の市民生活を送っていたものであっただろう。受けてきた教育のレベルも高く、医者や科学者、弁護士、IT関係の技術者、多種多様な業種のエリートたちだったことは、私だけではなく、多くの人たちを驚かせたに違いない。

何が、彼らをあの狂信的なカルト教団へと駆り立てたのだったか。
洗脳、マインドコントロール。おそらくは、単純な心理的操作なのだけれど、それでも、その単純な道筋になぜ人は引き込まれたのか。
人々は何を求めていたのだろうか。私の関心は80年代から90年代へと移行する時代の中の私たちの心の有り様だ。しかも、その時代に20代後半から30代前半を生きていた私たちの問題なのだ。高度経済成長を子ども時代に過ごして、右肩上がりの世界を自分たちの将来に重ねていたのかもしれないが、次第に将来への不安が大きくなっていった時代でもあったように思う。ノストラダムスの予言を信じてはいなかったと思うけれど、世紀末に向かって行くあの時代の閉塞感や不安感が一つの背景でもあっただろうか。

心の時代、宗教の時代ということが80年代の終わりにはよく言われたものだった。某新聞社にはそうしたコラム欄があったことは印象的だ。何かを求める漠然とした時代。




あの教団そのものが、訴えたのは、現代を生きる「虚しさ」「空虚感」だったという。当時の勧誘パンフレットに載ったある女性信徒の入信のきっかけには、まさに当時のエリートOLが、経済的に、物質的に恵まれ、それなりの友人関係にも不自由のない生活でありながら、漠然と持つ「虚しさ」があったこと。それが埋められたのは、教団の教えだったと記されていた。

本当に教団が埋め合わせるものであり得たのかはわからないけれども、当時の人々の一定のスピリチュアルニーズの状況をよくあらわしているといえるだろう。時代の行きづまり感は、個人的な宗教性の開発へと向かったし、ある種の神秘主義的傾向を持っていただろう。西山茂氏や島薗進氏らが「新新宗教」と呼んで、70年代以降の宗教ブームを捉えているが、背後には、おそらく欧米のニューエイジの動きが影響を与えていたという。「精神世界」への関心が高まり、それが消費ニーズとなって高まりを見せる。霊能、オカルトの類を含みこみながら、哲学と宗教の広がりの中に、気功、ヨガ、神秘主義、タオイズム、アロマ、占い、運命学などを求める人々はやはり時代の子なのだ。

折しも、ベルリンの東西の壁が崩れていくのを目の当たりにしたのが、この時代だ。かつて自分たちよりも少し上の先輩たちがマルクス主義に傾倒して様々な学生運動にエネルギーを注いだようには、自分たちは生きてこなかったノンポリ・三無主義を自覚していても、冷静にあの偉大なイデオロギーの末路を感じて、自分たちの生きる現実を変える理想を持ち得なくなったことにぼんやりとした喪失感を持っていたようにも思う。

自分の死と生の意味やこの世界の向かうべき姿を描いてみせたあの教団、いや麻原のカリスマが、もしかしたら自分たちを大きく変えていく希望に映ったのだろうか。本当は、麻原自身の生育歴に落とした影が、多くの人を巻き込むような闇を作り出すことに過ぎなかったとしても。闇を光に錯覚させる仕掛けが、この時代に用意されていたということかもしれない。

宗教の意味やその恐ろしさも含めて、日本では宗教教育がなされてこなかったことも、こうした教団の教えへの批判的な眼差しを持ち得なかった原因であろうか。

しかし、より深刻なことは、そうした人々の心に、既存の各宗教は何も訴える力を持ち合わせていなかったということだ。確かな言葉を紡いで、私たちの心に響く生きる力を与えるのに、何が足りないのだろうか。あの時から、ずっとその課題を宿題としてきたのではないだろうか。
あの頃、すでに牧師となっていた自分は、同世代に何を伝えていたのかと、忸怩たる思いになる。
たとえ、マークシート方式で正解を選び取ることに飼いならされた世代であったとしても、丁寧な言葉が訴える力を持てないはずはない。
今を生きる私たち一人ひとりの深い魂の問題に、しっかりと向かい合う、そういう神学の言葉を鍛えていくべき時だと思っている。







2018-06-27

ポスト「宗教改革500」を 生きる教会

 今年、宗教改革500年をおえてあらたな歩みが始まる。そのことを自覚的に取り組もうとする教会が多い。
 日本福音ルーテル教会が日本のカトリック教会と共同で記念の時を刻むことが出来たことは、決してあたりまえのことではない。欧米では多くのところでこの記念を同じように過ごしたところもあるが、宗教改革という歴史を持たないアジアの地域で、この取り組みは今ひとつ自覚的な取り組みになりにくかっただろう。日本では、1984年から両教会の対話委員会が開かれてきていて、洗礼の相互承認も共同での翻訳や出版活動などを行ってきていた。そういう背景の中、欧米でやっているからとか、大きな記念の年だからというのではなく、なぜこのことに取り組むのか、何を目的とするか。そうしたことを丁寧に話し合いながら成し遂げたものだった。
 つまり、こうした歩みはルーテルとカトリックの両教会が単に仲良くなろうというということではなく、現代世界への福音宣教のためということがはっきりと確認されてきたことだった。
 だとしたら、その記念は決して過ぎてしまえばそれで終わりということではなく、新たな教会の歩みのスタートとなるべきものだろう。もちろん、カトリックとの間での話し合いからさらなる共同・協働などについてもこれから新しい歩みが始まっていくだろう。けれども、やはり自らをどのような教会としていくのか。そのことへの取り組みが是非とも必要。


各地域、また教会でも、そのことを自覚した学びがなされてきている。
私も、このテーマでは今年二回目の講演となる。学びを重ね、また各地域での考えや実践を丁寧につくりあげていくこと、情報を共有することなどとても大切なことと考える。
 近く、この宗教改革500年の取り組みの全体の報告書、日本福音ルーテル教会の東教区ビジョンセンターでの連続講演会の記録なども出来上がってくる。こうしたものを改めて学びながら、これからのわたしたちキリスト教会、ルーテル教会の歩みを宣教の脈絡のなかで豊かに味わい、造り出していくものでありたいのだ。
 


2018-05-06

クリスチャンのための終活セミナー

今年は、この手のテーマでお話しする機会が増えます。「終活」「死生観」。
今回は墓地委員会での講演会なので、講演の主題「復活信仰と埋葬」です。


 日本人にとっての「葬」、特に死者供養、遺骨やお墓についての思いを掘り下げつつ、キリスト者がどのようにその思いに向かい合うのか。近年は、直葬や家族葬などの新しい葬のカタチも見出されます。教会の学びや対応、説明はまだまだ十分ではありません。
この時をきっかけに、皆さんの学びと備えが少しずつでも進められると良いと思うのです。

     日時:2018年6月17日午後3時から4時半
     場所:日本福音ルーテル聖パウロ教会

     主催:日本福音ルーテル教会 東教区 墓地委員会

2018-05-05

2018 牧師のためのルターセミナー

日本ルーテル神学校のルター研究所では、
今年も「牧師のためのルターセミナー」を開催する。


 今年は、「500年からの出発」(ポスト・R500)をテーマにこれからのわたしたちの神学と教会について学びを深める。
 いろいろな意味で時代は大きな節目を迎えている。社会も教会も、新しい時代の波に飲み込まれそうになっていて、大きな問いの只中にある。
 宗教改革500年とは一体何であったか。そして、カトリックとルター派のエキュメニカルな交わりは何を意味し、これからのキリスト教界(日本)はどのような役割を生きるのか。今だからこそ、深く問い直していきたいのだ。
 「わたしたちのこれから」をどのように造り、生きていくのか。何について取り組んで、何を次の世代に引き継いでいくのか。共に集って、本音で語り合いたい。

 日程:2018年6月4日(月)〜6日(水)
 場所:東山荘

 今年は所員の発表ばかりでなく、むしろ牧会の現場でルターに学んできた牧師たち、また卒業して間もない若手牧師の卒論の取り組みなども共有していくプログラムを用意している。今、わたしたちは何を問題としているのか、なにをどのようなことばによって語るのか。ざっくばらんに、しかし、牧師としての時代を生きる責任と悩みの中で、今ルター神学を問い直していきたいのだ。

 今まで、足が遠のいていた先生方にも是非ご参加いただきたい。

参加申し込みは、ルター研究所の以下のメールアドレスに。

Luther-studies@luther.ac.jp 

(氏名、所属教会、連絡方法を明記して申し込んで欲しい。)



2017-09-08

日本ルター学会 宗教改革500年記念学術大会

宗教改革500年の年。ルターの宗教改革を記念しながら、現代を、プロテスタンティズムを、キリスト教を問い直すことがさまざまに取り組まれている。
 日本ルター学会も、当然にこれに取り組む。


金子晴勇先生の代表的研究は『ルターの人間学』といってよいだろう。西欧思想史の緻密な研究をもとに人間学、霊性の問題に切り込んでこられた。先生のライフワークとなったこの霊性研究の視点から、宗教改革の意義を問い直す講演は是非聞いておきたい。

また、シンポジウムは宗教改革史のなかでどちらかと言えば脇役となった人物研究を深めて来られた先生方に宗教改革を少し違った視野から捉え語っていただけることだろう。いままでにない、ルター像、宗教改革像が見えてくるに違いない。楽しみ。
 
 日時:2017年10月7日(土曜日)午後1時から5時まで
 場所:日本福音ルーテル東京教会 

是非、おいでください。



2017-08-28

ルター研 宗教改革500年「秋の講演と音楽の夕べ」

ルター研究所の秋の講演会
今年は、宗教改革500年記念として、「講演と音楽の夕べ」を企画している。
場所は、日本福音ルーテル東京教会、日時は、10月31日午後7時から
宗教改革記念日の夜に贈る、特別企画だ。例年はこの日に東教区の記念礼拝があるが、今年は礼拝のほうは11月4日の、これまた特別な企画で行われる。これは、別にご案内したい。とにかく、この記念日に、講演と音楽で改革の意義を深く味わいたい。


講演は二つ。竹原創一氏「95ヶ条の今日の意味」と鈴木浩所長「宗教改革の核心」
ルター研究の第一人者のお二人だ。
加えて音楽は、
J・S・バッハのカンタータ80。ムジカ・サクレ・トウキョウ(山田実指揮)。


2017-08-23

シンポ「宗教改革とポスト近代」

宗教改革500年を記念する行事が、この秋には目白押しだ。特にプロテスタント系の大学や学術会議、教会では、競っているわけではないだろうけれども、同種の講演会や集会が組まれている。

それぞれに興味深いし、特に海外から招くこととなっているその分野研究での世界的第一人者と呼ばれる先生方の講演会は、普段なかなか聴くことができないので、是非にこの機会を生かして学びを深めたいものだ。

しかし、やはり私たちはこの日本においてこの歴史的な節目を迎えているという特殊性の中から思索を深めるものでありたいと思う。その意味でも、各種の研究者らが協働で企画を考えたりシンポジウムが開かれたりしていることは、非常に重要だと思う。
日本基督教学会第65回学術大会(2017年9月29日〜30日・場所ルーテル学院大学・神学校)も、2日目午後のプログラムにおいて、特別な企画を組んでいる。

シンポジウム「宗教改革とポスト近代」(9月30日 14:00~16:30  )は、神学畑からだけでなく、より広い視野から宗教改革の意義をとらえ、今、この宗教改革500年を迎える意義を問うものだといってよいだろう。
 

シンポジスト:大澤真幸氏(社会学者)
       江口再起氏(ルーテル学院大学)
       深井智朗氏(東洋英和女学院大学)
       西原廉太氏(立教大学)

大澤真幸氏は学会員ではないし、キリスト者でもない。キリスト教を専門にしているかというとこれも違うと言ったほうがいい。しかし、キリスト教についての深い関心に裏付けられながら歴史、特に近代の問題を深く学んでおられる。
江口再起氏は、ルーテル教会の牧師としての勤められた後、キリスト教学、特に歴史と組織神学を専門としてこられた。『神の仮面』にも見られるようにルター神学を基に現代社会を深く考察されてきた。
深井智朗氏は改革派の神学的な立ち位置から近現代を問い、積極的に 著作を出してこられた。近著「プロテスタンティズム」は、保守的ルター派と第二世代のプロテスタンティズム の二重構造から近代を切り開いて見せる。
西原廉太氏は日本聖公会の司祭としてアングリカニズムの研究を深めつつ、現代世界 のエキュメニズムの研究と実践に大きな貢献をされてきている。教会の現実を踏まえつつ、教派を超えての交わりにキリスト教の豊かな広がりと可能性を求めている。
 

この方々に、今の課題を見定めていくために「近代」をどのように捉えるのか、またそこで宗教改革とは何かを語っていただけると思うだけで、わくわくする。私たちが時代の曲がり角で、改めて、キリスト教の可能性をみいだすことになるだろう。

宗教改革は中世末の出来事といってよいと思うが、ここは「近代」の黎明でこのすぐあとにヨーロッパの新しい時代がはじまる。近代を呼ばれるが、いわゆる「モダン」。20世紀末には、この「モダン」の世界状況は終焉を迎えたと考えられ、いまは「ポスト・モダン」の時代とも言われる。
では、モダンとは何か。未だ中世に属する宗教改革の契機の中に「モダン」を捉える何があるのか。それを超えるということは、何を意味しているのだろうか。



2017-05-14

これからの神学教育を

日本神学教育連合会。
 全国で牧師・司祭など教職を養成する神学教育を担う大学の神学部、教派神学校の代表が年に一度集い、情報交換と交わりを深めている。いずれの教派であっても、少子高齢化した社会と教会の現実があり、また教会そのものの霊性も弱っていて、献身者がなかなか得られない。牧師の数が少なくなって、神学教育を担う人材も少なくなっているという現実もある。
 戦後のキリスト教ブームから高度経済成長期に右肩上がりの教会や社会の状況で体制を作ってきた神学教育の制度や組織の状況は大きく変わっていて、これを維持することに困難を生じている。すでに、現実に合わない制度疲労を起こしているのだ。
 ただ、そのような状況のなかで、それぞれに神学教育の使命を自覚し、教職養成ということばかりではなく、信徒育成、またキリスト教関連の諸施設(福祉や幼稚園・保育園など)での働き人を意識しながら教育の幅を広げて取り組んでいる。教会という枠組みや洗礼をうけたキリスト者ということに限らないで、社会のなかに必要な人材を育成する必要を見ている。キリスト教の公的役割を自覚して来ているとも言えよう。
 いずれにしても、それぞれの神学校の厳しい現実を分かち合いながら、今後どのように教派の枠をこえた協力体制を構築できるのかという現実的な問題がもっぱら話題に上ってきている。
 神学・神学教育の現実は、欧米からの翻訳的な方法ではなく、アジアという具体的な脈絡を意識しながら日本の現実に根をおろした姿を模索しているということでもあろうか。でも、アメリカではすでに教派をこえた神学教育は実現している。
 宗教改革500年、エキュメニカルな交わりを考えるときでもある。新しい、これからの神学教育の姿を求めていく必要を分かち合う時間となった。
  
(写真は1969年以前の鷺宮にあった日本ルーテル神学校。時代とともに神学校は姿を変える??)


2016-11-13

『キリスト者の自由』における悪の問題   〜現代社会に生きる魂の問い〜

ルター研 「秋の講演会」での私の講演メモです。当当日配布のレジュメに書き足していたものです。                
  
『キリスト者の自由』における悪の問題 〜現代社会に生きる魂の問い〜

1.問題意識:「自由」とはなにか。
 中世の終わり、近代前夜の胎動の中、ルターは「キリスト者の自由」をいう。「自由」は近代を象徴するもの。けれども、ルターはキリスト者となってはじめて得られる「自由」を語る。キリスト者となることによって与えられる自由を語ることは、現代を生きる私たちにどのような意味があるのか。

(1)現代人の自由。
   不自由のない現代は「自由」を求めないか。
   ITプラトニズムの時代 。時空を超える。身体性を超える。自分を超える。
(2)「自由主義」の行き詰まり?
   「自由」は近代の指標の一つ。しかし、その原理が自由な競争世界を資本主義のも
   と展開し格差を産み出す。近代のもう一つの指標である「平等」が揺らぐ。
   排他主義、保護主義の台頭、力による支配を求める時代。
(3)「何をしてもよい」自由。善悪の判断が超えられている?
   自由な個人。自己責任を求める世界。個人の欲望を満たす消費社会。人間関係の希
   薄化は、社会の中での共通の価値観や倫理の感覚を弱くする。「良心」が薄らぐ。
   あからさまに、「なぜ人を殺してはいけないか」 が言葉になる。
私たちは、自由を満喫しているようだが、本当の意味で「自由」なものなのか。

2.ルターにおける自由と悪
 一般に中世において「自由」が語られてきたのは、人間の「自由意志」の問題。しかし、ルターが語るのは「魂の自由」。しかし、プラトニズムのように魂だけの自由を語るのではない。むしろ、信仰における魂の自由がこの世に肉を持って生きる新しい生き方、愛と奉仕に生きることを実現する。
(1)自由の問題
   アウグスティヌス以来の中世の伝統⇒ルネサンスにおけるあたらしい人間
   こうした人間中心的なオプティミズムは、人文主義へさらに近代へとつながってい
   く。人間賛歌と自由意志⇒エラスムス自由意志について:ルターとの論争。
(2)悪の問題
   ルターの奴隷的意志の強力な主張⇒すなわち、罪意識の徹底!
   「悪い欲望」 に囚われていること。いっさいの虚しさ。
(3)キリストの勝利
  キリストの十字架⇒逆説的な力。 
  魂はみことば(キリストの福音)において満ち足りる  
  
キリスト者は、確かに、この勝利に与っていて、完全に魂の安らぎを持っているが、魂だけの存在になるわけではない。だから、この世界においては「愛と奉仕」を積極的に生きる。しかし、そのことは、必然的に悪魔の支配にいつもさらされ続けるということでもある。そして、そのことからの完全な自由は死と復活のときまでは得られない。それゆえに、義人にして同時に罪人!


3.現代の「悪」の力とキリストにある自由
 罪・悪の支配と神の支配の二つの世界を同時に生きている。その同時性に耐え、なおかつキリストのみ業への参与をいきることが求められ、またそのように生かされているのがキリスト者であると言えるのだろう。
(1)罪と悪の具体的な支配のもとにある人間
  ① 人間共同体・自然関係
    功績主義・成果主義による関係の破壊
  ② 組織的・社会的構造的悪と個人 
    関係の抽象化と無責任 弱者とマイノリティへのしわ寄せ
  こうした悪の支配を象徴するような「核」の問題。「核」そのものは、絶対悪ということまでは言えないかも知れないが、これを用いる人間には、戦争利用にしろ、平和利用にしろ、これを確かにコントロールする力は無い。逆に、これによって支配されるだけということが現実ではないか。
 ただ、その現実を変えていくことには、理想を叫び、それを絶対善として求めるだけでは解決しない。むしろ、時間をかけてこの矛盾を抱きかかえる以外にないのかもしれない。
(2)一人ひとりの魂を包む暗やみ
  ① 関係の希薄と生きる意味の喪失
    あらゆる人間関係の希薄さ 隣人への無関心 
  ② 欲望の増殖と虚無
    経済活動はそれゆえほとんど重要な意味はなく、虚しい。
  ③ 「暗やみ」「鬼畜」 聖なるものの喪失
    暴力と破壊衝動 死の欲動、憎悪のエネルギー 
(3)「キリスト者の自由」
  矛盾を抱えている自分を受け入れ、「すべてを抱きしめて生きる」 ために 
 この現実のなかで、ただ「キリストとともに」 というルターの主張!
  ① みことばを受けることのなかで
    律法:「わたしたちのいっさいが無」
    福音:「わたしたちにひつような全てが与えられる」
    「すべてのものが働いて益となる」
  ② 無力さのなかで
    キリストと共に十字架を生きる 
    苦難を引き受けることと他者のための生へ

  一人ひとりが小さなキリストとして、このみことばを生き、とりなしと証
  しによって、みことばを分かち合う。
  悪の支配する現実に耐え、なお確かな安らぎを受けて、
  終末に約束された、神の国(支配)における正義と公平、平和を見通して
  神のみ業への参与へと応答する。  

2016-10-26

Principles of Lutheran Theology 『ルター派神学の諸原理』

                   

ルター派神学の諸原則と訳したらいいだろうか。
著者は、シカゴのルーテル神学校で長く組織神学を教え、ルター派神学の牽引されたカール・ブラーテン。エキュメニズムにおいても重要な役割を果たしてきた。
そして、ロバート・ジェンソンとともにあのキリスト教教義学(Christian Dogmatics)二巻本の編集責任をとった一人だ。

初版は1983年。私の神学校時代の「ルター神学特講」の授業(たぶんこの授業名だったと思う。担当教員は石居正己。)でのテキストだった。

2007年の改訂第二版となって、以下の8つを主要な原理として論じる。

1.聖書原理
2.信条原理
3.エキュメニカル原理
4.三位一体原理
5.キリスト中心原理
6.礼典原理
7.律法と福音原理
8.二王国原理

ルター神学の特徴としてこの8つの原理を挙げ、ルター神学の歴史の中でそれぞれがどのように発展し、どのような意味を持つものとなっているのかを明らかにしたもの。そして、それらを改めて現代の脈絡のなかで問い直している。
180頁ほどのコンパクトな本だが、読み応えはあるし、ルター神学の特質についての深い学びになる。
宗教改革500年を前に、神学生にはもちろん、牧師たちに是非手にとって、学んで欲しい一冊だ。