2011-03-27

神学の問題

アメリカの友人からメールが届いた。
震災のあった後すぐに安否を確認するためにメールが来たが、それから一週間して再度の確認。
今回は特に原発についてのニュースが心配されたことだった。
アメリカのみならず、世界中がレベル6に上がったこの危険に注目をしている。
昨日まで、その存在が何も意識されずに、当たり前のこととしてそのエネルギーを享受してきた私たちに、突然突きつけられた危険は、未曾有の犠牲をもたらす現実を私たちの前にさらしている。
このメールは、私を含めた神学校と神学生の安否を訪ねてくれたのだが、同時に、こうたずねてきた。

「神学生たちは、いま何を考えているか。」

神学生はと言っているけれど、日本における神学する者たちへの問いだ。
私たちは、何を考えているのだろうか。

神学すること。
この大きな二つの力。M9という破格なエネルギーをもった地震やいくつもの町をのみこんだ津波という自然の力。ひとたび制御することができなくなれば周囲数十キロにわたって何十年も汚染をもたらすだろう人工的な原子力。
この二つの力の脅威を一度に目の当たりにして、神学はどのような言葉をもつのか。
神によって創造された世界のなかで人間を脅かす自然の力と、その世界の中に人間によってもたらされることとなった破壊と暴力の力。この暴力はいったい何を意味しているのか。
神の全能、その支配の力を信ずる信仰は、この自然と歴史をどのように考えるのか。
歴史の問題は、かつて創造が完成へと向かう道程として描き出された。しかし・・

問いかけられた私たちは、私たち自身の言葉で考えなければならない。
60数年前の広島と長崎の被爆以上に、この「平和時」に自らの足元に訪れた問題を確かに神学しなければならないのではないか。
説教や牧会、コイノニアやディアコニアなど実践的課題は言うに及ばず。
単なる苦悩や不条理性の問いを超えた、神学的問題を包括的にとらえていく必要がある。
そのための神学の「カギとなるもの」は何か。それが見い出さなければならない。

2011-03-25

震災の支援

日本福音ルーテル教会が、震災の救援のための働きに取り組んでいる。現在、現地、被災した仙台の教会に4名の先遣隊を派遣、緊急の物資を搬入し、また現地の状況を確認している。必要な援助を必要とされているところにいかに届けることができるのか。私たちが担えること、貢献できることを把握しながら、長い支援体制を整えていくための働きである。
日々の情報は、以下のブログ「ルーテルとなりびと」で紹介されている。

http://lutheran-tonaribito.blogspot.com/

実践的な働き。
かつて、関東大震災のときルーテル教会はいち早く老人たちへの救援と、震災孤児たちの支援を行なってきた。それが後の東京老人ホームやベタニヤホームなどの福祉施設として成長し、今日に至っている。
教会がこの世におかれている使命をいま新たに自覚して、受け取り担う時だろう。

2011-03-23

春の訪れは


大学の東門にカンヒザクラが咲きました。
地震以後の対応で、大学は休校し少しずつ「通常」にもどっている。冷たい風が冬を呼びもどしたようだけれども、確かな春の兆しをあちこちに知ることができる。
春を思う余裕などどこにも見いだせない。心は騒がしく、気持ちは落ちていても、それでも確かな時のおとずれは、あの詩編の作者が深い闇の中で暁の確かさに神の恵みを思い起こしたように、私たちがなにを見るべきかを教えてくれるようだ。

恵みの確かさ。

けれど・・
その確かさ・・・を私たちはほんとうにうけとれているのか・・・
「神を恨みます」という言葉にこそ、真実の叫びを感じながら、なお主の救いを分かち合う言葉をどのように持ちえるのか。

四旬節、レントを迎えている私たちは、しかし、今年のこの季節に
今まで、繰り返された問いの前に立ち尽くしつつ、
主の受難の道行を思い、もう一度自らの信仰を確かめる言葉をもとめている。

多くの悲しみと苦しさをやはり他人ごとにしか感じられていない罪深さを思う自分。
同時に、連日の報道を体の奥をよじるようにして感じている自分。
この自分というものにとらわれたもどかしさを感じて、なおこの自分を与えられているということの意味を新たに見いだしたいのだ。

2011-03-09

按手式礼拝 (2011年春)

去る、3月6日、東京教会にて、教職受任按手式礼拝が行なわれた。
日本福音ルーテル教会は、市原悠史氏と浅野直樹氏の二人に按手を授け、牧師として教会の宣教と牧会の現場へと二人を派遣した。按手の重みを深く思うばかりであった。

牧師を志すものは自らが教会の様々な働きに仕えるべきことを考え、神学校での学びを研鑽を積んで教師試験、任用試験を受け、この按手を受けることになる。しかし、これは決して本人の資格や免許の獲得ではないし、また牧師という働きへの就職関門なのではない。
神の召しと、教会による委託の重みを、この按手礼拝において再確認をさせられる。

牧師は、いったいどうして牧師であるのか。
彼は、神のコールによってのみその任に当たるが、そのコールを今は教会を通して受け取るのだ。
だから、教会が牧師を召しだすといってもよい。
ならば、教会はいったいどのように具体的な一人ひとりを牧師として召しだしているのだろうか。
逆に、その人に与えられた神の召しを教会はしっかりと本人と共に受け取っているのだろうか。

今の現実の中で、牧師養成の現場にあって、牧師養成ということの本当の難しさを実感している。