2009-05-29

ルターセミナーについて

毎年6月に行われるルター研究所主催の「牧師のためのルターセミナー」が、今年も三浦で行われる。
今年のテーマは「洗礼」である。
 教団で「聖餐」の問題、とくに陪餐資格の問題が論議をよんでいる(現実には、それぞれの立場に立ったところでの主張がなされているということで、議論できないでいる現実こそが問題なのだが)が、この「聖餐」の議論は本来は「洗礼」の問題と深い関係のなかでこそ問われるべきものだ。ルター研の同じセミナーではすでに2年前に「聖餐」については取り上げてもいるので、今回はこの「洗礼」というもう一つの礼典について深く問い直していくことになったものだ。
 「聖餐論」にしても「洗礼論」にしても、日本のようにキリスト教人口が全人口の1パーセントであるというコンテキストをとらえてこそ、問題として改めて論じられる価値がある。つまり教会が宣教する教会である限り、そこに来る人々にはキリスト教に接することが初めての経験であり、ノンクリスチャンであるということを当然のこととして考えるべきであるのに、教会の神学も実践もそうした経験を遥か千七百年位前、ローマの公認宗教となり、国教となったこととともに失っていった西欧の教会から学び、まねることでしかなかったために、改めて自覚的にこの現実に対する対応の用意がないのに驚いているという状況なのだ。
 その問題は本来、信仰の道筋の中で問われなければならない問題である。だから、当然に長い歴史の中で整えられた信仰の教え、教義的な枠組みのおいて確認されるべきことなのだ。しかし、現代はもうひとつの問題として、人間が長くある種の前提としてア・プリオリに認める神とか信仰とか真理ということばが意味を失ってきているという現代に特有の問題を同時に抱えていることを考えなければならない。つまり、今日改めてキリスト教の教理的な課題をとらえなおすというときの問題の様相をしっかりと分析しとらえなおしていくときにこそ、こうした問題へのとりくみが生き生きとして私たちの信仰の糧となるのだ。
 今年のセミナーのスケジュールは以下の通り。

https://docs.google.com/Doc?docid=0AVbecUkt2EkoZGhidGRuNXpfM2cyNmg4cWdk&hl=en

2009-05-20

やまぼうし



キャンパスのテニスコート脇にある‘やまぼうしの木’。
茂った緑の葉の上に、ひかえめに白い花をつけている。秋に真っ赤なイチゴ色をしたサッカーボールのような実をつけるので、いつごろ花が咲くのかと思っていたら、もういつの間にか白い十字架のような花をつけていた。ウメや桜など春にさく木の花はとうに終わって、‘はなみずき’も終わり、梅の実が膨らんでいる以外は、‘ていかかずら’がにおい、バラが鮮やかな色やアジサイのつぼみの様子などが気になって背の低い所に目が向いていた。うっかり、見逃すところだった。
 神様のめぐみは気がつかないうちに、働くものなのだ。何かに気を取られれば、すでに働いているそのめぐみを見逃してしまう。でも、私たちが見逃しても、神様は何ものも見逃されない。一つひとつに神様のいつくしみが注がれる。
(あなたを見逃しているのでしたら、私を許してください。でも、あなたを決して見逃さないお方がおられることはたしかです。)

2009-05-18

天然空洞木


 アボリジニの民族楽器、ディジュリドゥ。現地の言葉ではイダキという。ユーカリの木の中を白アリが食べた後空洞になっているものを、切り出しただけの筒状の楽器で、切り口に直接口を当て、金管のように唇を振動させて吹く。
 大学の上村先生のご紹介で、この楽器の演奏者が今日の夕方にチャペルで短い演奏を披露してくださった。ちょうど、今日は私の授業でもアボリジニを紹介するビデオを見たところだったので、導きを感じて、同じ時間の授業の学生を皆連れて演奏を聞かせていただいた。演奏者はKNOBと名乗られる日本の方。

http://www.knob-knob.com

アボリジニはオーストラリアの原住民族で、一時期絶滅寸前に追い込まれたが、保護政策などで現代的な生活と伝統とを融合させた独特な文化を今も大事に保っている。
アニミズムかトーテミズムの宗教的世界観が人間と自然との調和を持てるように働く。その宗教の祭りや踊りなどのときに演奏される楽器の一つがイダキである。
 深い息が、万物に宿る霊との交流を現出させるかのように、低く響くときに、神秘的な力強さを聞く者の心に届ける。
 キリスト教の信仰では、神の霊、聖霊はへブル語ではルーアッハ、ギリシャ語ではプネウマと呼ばれ、風とか息ということばとおなじである。そうした目に見えないけれども、確かな力を持つ存在が、いのちの根底にあることを、共通に感じていることなのだろうと思う。
 この楽器が、精霊の響きをただ、空っぽの筒によってもたらすというのは、本当に興味深い。私たちも空っぽになって、はじめて神様の息吹きが新しい響きを持つようになるのかもしれない。
 
 (あなたのいのちが、神様の息吹によって、新しく生かされますように)

2009-05-14

「包括的臨床死生学研究所」と「コミュニティ人材養成センター」


百周年を迎えるうちの大学が、今年新しく二つの事業を開設した。一つは「臨床死生学研究所」、もうひとつは「コミュニティ人材養成センター」。神と人とに仕える働き人の養成を使命としている本学が、人間の根源的な問題としての「死」の問題に取り組むということと、仕える人を育てるという働きを足もとの地域共同体の中で具体的に担っていく事業の展開基盤を作っていくということだ。
 昨日、その創設記念会が開かれた。小さな学内で準備されてきた新しい取り組みは、その都度いろいろな形で報告もされてきたし、自分もその準備の過程で全く関わらなかったわけでもないのだけれども、改めてはじめられた取組みの姿を知って、心打たれるものがあった。自分の大学の取り組みを持ち上げるのは気が引けるが、財政的にも人的資源にも限りがある本学がその持てるものを用いて、なそうとしていることの重要性を改めて考えたことだった。江藤神学校校長が神学校の百年をたどりながら、ルーテル教会が教育と福祉に力を入れてきたこと、その上で一人ひとりのいのちを守り育む使命を担ってきたことわかりやすく示された。このだ学が、その教会の大きなミッション(使命)の中で働き人の養成を担ってきたことを再確認させられた。また、白井幸子教授は臨床死生学についてのプレゼンテーションをされ、このミッションがどんな問題に真向い、取り組もうとしているのかということを深く考えさせられたことだった。すべての人が必ず死と向かい合う。その事実をとらえつつ、すべての人の命、心、生活を支えていくために、机上の学問ではなく、臨床としての研究がなされていくことの深い意義を思わされた。この「包括的臨床死生学研究所」をもつ高い志をどのように実現させていくのかその責任を思うところであった。
 そして、そういう本学の様々な取り組みが新しい地域社会を作っていくために、プログラムをあたらしいかたちで提供しようという「コミュニティ人材養成センター」もぜひ軌道にのせていきたいものである。小さな大学の地道な取り組みが、よき実りを持つように自らの在り方を改めて襟を正して考えている。

2009-05-09

悼む人  ~その2~

私自身はこの小説を小説としておおいに魅力を感じるけれども、静人の「悼み」に全面的に共感するものではない。ただ、深い問題提起がなされているという認識でいる。

静人が、死者を悼む、悼まずにはいられなくなったわけは、実ははっきりとしているわけではない。ただ、いくつかの箇所で静人自身、あるいは母親の巡子の口を通して語られるところから推察されるのである。一番のきっかけは、親友の死を忘れないはずの自分が、一度その命日を忘れたことだと思われる。忘れられないはずだし、そう誓った自分が、実際には忘れてしまった。そのことへの深い罪責意識が働いているのだろう。あるいは、そのほかに思い返すと、祖父の死や身近な人たちの死、幼いころの自分の部屋から見ていたヒヨドリの雛の死。そうした幾つもの「死」との出会いの体験から、彼の「悼み」に向かう初めの動機が生まれている。さっきまで生きられいた「いのち」が失われた。そのことを気にも留めないでいたり、忘れていく自分がいた。それでよいのか、それで生きていけるのかとの思いが静人を悼みへと向かわせた。あまりにナイーブではあるにしろ、誠実な心を感じるし、「死者」を忘れていくこと、過ぎ去ったものとすることは、逆にいえば、自分もまた忘れ去られるという虚しさを肯定することでもある。そのことは、自らが生きていくことを否定することにもつながるともいえるか。

けれど、実際に思えば、身近なところでの死との出会いと、全然見も知らない人の死の問題、その人を悼むということとがそんなにすぐに結びついてくるのだろうかと、不思議でならない。ただ、静人がその「悼み」を重ね、そこでさまざま人と出会うときに、彼の中でまったく新しい使命のようなものが生まれてきているということはあり得る。ただ、静人はこの「悼み」を続けるために、その遺された人々との交わり、共感にも制約を作っている。あまり深くその遺族感情に引き込まれなように距離を保とうとしているのだ。そうでなければ、このような「悼み」を続けられないという静人自身のことも想像に難くない。だから、静人の自己制約には説得力がある。ただ、あまりに自分の感情を押し殺していることが、また、静人の異常なストレスになっていることもよくわかる。
けれども、そうした残されたものとの距離を保つことが、ほんとうに「悼み」という行為を続ける彼自身のなかであり得るのかというところに不自然な印象を残すのは否めない。どうして、何のかかわりもない人のことを悼むことができるというのだろうか。

柳田邦男が、息子の脳死を目の当たりにして過ごした11日間をつづる『犠牲 サクリファイス』という作品がある。

その中で、柳田は「二人称の死」ということを語っている。死一般を語るとき、それは自分とっては誰でもない誰かの死でしかなく、三人称の死を問題にしているという。それに対して、自分自身の死は一人称の死だ。しかし、愛する者の死は、そのどちらでもない、二人称の死。自分にとっての特別なかかわりの中にあるものの死として経験される。柳田はジャーナリスト作家として、脳死を研究し、それを死としてとらえていた。しかし、今その脳死状態にある息子を目の前にして、それを死と認めることができない。「死」を三人称で語ることと二人称で経験することとはまったく違うものだと述懐する。
そのとおりだと思う。愛する者の死であるからこそ、特別なものなのだ。ところが、この「悼む人」で静人はもともと自分にはかかわりのない誰かの死をニュースで知って、その場所に出かけ、その人を悼むという。いうなれば三人称の死を悼むということだ。そして、その人を特別な存在として覚えていくという。その人はどのように特別な人になるのだろうか。二人称の死と三人称の死の中間というのだろうか。三人称の死を、二人称の死として引き込んでいくのだろうか。しかし、ともに生きた関係ではない誰かをそのようにひきこんでくることはどうしてもできないのではないか。
唯一、そこに橋渡しをするものを見つけるならば、その死者の死を二人称の死として受け止めている残された人たちとの交流を通してのみ、その悼みの真実さがうまれよう。けれども、静人はそこにやや冷たいとさえ思われる、線引きをしているようだ。これはいったいどう理解したらよいのか。
静人は、それゆえにか、実際の家族や友人たちにしか許されていない特別な関係とは違う自分の位置というものにこだわっているかのようでさえある。しかし、逆にいえば、本当に身近な存在として生きたものには、その人にしかない特別な死者との関係がある。そこに踏み込んではいけないし、そんなことは他人のすることでもないと認識しているということだろう。そうであれば、なおのこと静人がこの「悼み」をつづける意味、その動機が全く見えなくなるのだ。

ただ、もしかすると、この静人という主人公を通して、忘れられていく死者、その人との本当につながりをもった人たちは、その死者、その人の人生、いや、そのひととのかけがえのない関係、それを忘れてはならないのだというメッセージがしめされているということかもしれない。つまり、静人のような存在を通して、本当に生きている間に深い関係の中にあった死者と、残されたものはいまその関係をどう生きているのかという問いかけをすることこそがこの小説の一つの目的なのかもしれないのだ。そういう問題提起として、実際に読む者のこころを揺さぶることは確かだ。

2009-05-08

ダッハウ



 3月の研究会の参加は、自分にとってのはじめてのドイツ行きの機会でもあって、もし時間さえあればいろいろな場所に行ってみたかったのだが、大学の新年度も始まってしまうので十分それもかなわなかった。それでも、せっかくのチャンス、せめて飛行機の着くミュンヘン近郊で尋ねるところはないかと友人に聞くと、それならと紹介されたのがダッハウの強制収容所だった。
 ナチズムのユダヤ人迫害についてはたくさんの本があるし、自分もフランクルの『夜と霧』をはじめ何冊かの本でよく知っていたから、ぜひ訪れてみたいと考えていたところだった。強制収容所といえばアウシュヴィッツはあまりに有名だが、ダッハウは各地に作られたキャンプの初めの一つで、これがいわばモデルになったという場所。ミュンヘンからは電車とバスで小一時間というところだろうか。写真はその収容所の入口である。かつては、ここまで鉄道が敷かれ、この入口のところまで貨車でつくと、大勢のユダヤの人たちがすぐにこの扉をくぐらされ、登録と検査を受けてすべての物を奪われて、二度とここから出ることができなかったのだと、そう思うだけで何か重たい空気に包まれる場所だった。折しも雪模様であったから、暗い雲の下に立って心も体も凍えるような時間になった。
 『悼む人』の中に、大勢の人の命がうばわれる戦争の惨劇を経験したジャーナリストが「静人」の悼みを揶揄するような場面があったが、この場所にきて、いったい一人ひとりのいのちを悼むなどということはたしかに不可能だというのが実感される。しかし、同時にここで奪われたいのちにどんな風に向き合うものであり得るのかと問いただされるのもまた事実だ。
 

2009-05-07

『悼む人』

ところで、このドイツ行きの最中、一冊の小説と出会った。昨年の直木賞受賞作品で天童荒太の『悼む人』である。しばらく前に友人から紹介され、気にしていたのだが、このドイツでの研究発表が日本人の死生観を問題にしている以上、今の日本でいったいどんなふうに「死」の問題が描かれているのかということを見ておきたくて、出発の直前一週間もないくらいの時に、近くの本屋まで走って求めたものだ。結局、読み始めたら、論文の仕上げをしながらも片時もこれから目が離せなくなるほどに、惹きつけられることになった。こんなに夢中になって小説を読んだのは久しぶりで、おそらく遠藤周作の『深い河』以来のことだったような気がする。最後はドイツ行きの飛行機の中で読み上げたが、その余韻は11日間の長旅の後まで続いたものだから、この小説の力強さを思わずにはいない。(もっとも、自分自身の関心とダッハウでの体験が重ねられた結果ではあるのだが・・・)

主人公の「静人」が、身近な人ばかりではなく、ニュースや新聞で報じられる「死者」を、それが事件であれ事故であれ、記録しながら、その人の亡くなった場所へ赴いていって「悼む」という行為を繰り返す。こう書いてみても、それが何ともおさまりの悪い、奇妙な行動としてしか書くことができないが、小説のなかでも全くそうで、他人からはさまざまに見られ、また言われることになる。しかし、静人にはそうしないではいられなくなった事情がある。また、小説は、この本人をめぐって、さまざまな人生を生きる人間の姿が浮き彫りにされ、「死」を扱いながらむしろ「生」ということを深く考えさせる内容だといってよい。全体を通し、作者の天童氏は、いわゆる宗教という色合いは極力避けながら、それでも、この「死と生」の問題にむきあう真摯な姿勢をもって、徹底した取材をおそらく重ねながら、じっくりと書き込まれたものだと思う。迫力の筆遣いに、読む者はぐいぐいと引き込まれてしまう。

古くて新しい問題を見事に取り上げて、現代の日本社会のなかにある「死」をめぐるスピリチュアルなニーズを浮き彫りにしていると思う。かつて死は日常の家族の生活の中に必然的におこるものとして受け止められてきたはずだが、現代では、その死はほとんど隠されたものとなっている。しかし、また逆に様々な悲惨な事故や事件によって死はありふれたものともなっている。そういう今私たちが直面している死のあり様は、死者が絶えず忘れ去られていくものでしかないことを否応なく示している。生きていた者が死ぬ。それは当り前のことでもあるけれど、しかし、あまりにも早い生者の社会の時間のなかでその死の重みが受け止められきれないで流されていく。そういう社会は、逆にいえば「生」そのものもほんとうに軽いものになってしまっているのではないか。それが人間の「生と死」なのか。そういう問いかけが通奏低音になっているといえようか。

そして、この小説は、もうひとつ、生きるということの中で本当に必要な「和解」というもうひとつのテーマを持っているように思う。生きることは、その人その人がぎりぎり選び取り、引き受けるたった一つのことが現実となって生きられる以外にないのだが、そこには限界もあれば、人を傷つけないではすませられない問題を抱え込まざるを得ない。傷つけられたものはまた、誰かにその傷を引きうつすかもしれない。そんな生のかなしさは、わかりあえないままに人を分裂させるものでもある。しかし、そうなのか。切り裂かれた関係はもう決して修復されないのか。癒されないのか。しかし、本当に生きること、そして、死にきることのためには、もう一度、この人間関係の深い傷がどこかで抱きしめられなければ、そこにまなざしが注がれなければならないのだと、この作品は語ってくる。



2009-05-06

Motoo Ishii: "Dialogue between Luther’s thought on 'communio sanctorum' and Japanese traditional spirituality"

上記タイトルの私の第二セミナーでの研究発表は、以下のURLから公開されたものにアクセス可能。


http://www.lutheranworld.org/What_We_Do/DTS/TLC_Augsburg/Papers/Ishii.pdf

数年来取り組んできた日本人の死生観とキリスト教信仰の関係を問う課題を、今回はルターの「聖徒の交わり」という概念とのかかわりで論じるという方法をとった。自分なりにはなかなか面白いものになったという自負もある。日本語の論文に書き直して今年度の大学の紀要に載せるつもりでいる。

LWF Theological Consultation in Augsburg


3月25日から31日まで、ドイツのアウグスブルグでルーテル世界連盟主催で神学部門の国際研究会議が開かれた。世界30カ国を超える国々から120名以上もの神学者と教会の代表者が集まった。
今回のテーマは "Theology in the Life of Lutheran Churches" で、もはや西欧社会以上にその宣教と教会の広がりがみられるようになった21世紀のルーテル諸教会が、それぞれ異なる文化や社会、その宗教的な背景をもつ中で、ルター派としての神学をどのように保ち、また展開するのかという課題を取り上げた。これは、ここ数年にわたって取り組んできたLWFの神学・研究部門の取り組みを一度まとめ上げつつ、さらに今後の研究を進めていく足掛かりとするものだったといえよう。
 会議は全体会と分科会とを交互に行う方式で、分科会は4つ。第一は "Interpreting the Bible in a Global Lutheran Communion" 、第二に "Creation, Redemption and Eschatology" 、次に "Worsip and Other Christan Practices"、第四に "The Public Vocation opf Churches in Society" であった。私は第二グループのセミナーに参加した。
 議論は活発に行われ、伝統的な西欧の神学叙述と新しい教会のコンテキストにおける神学的な展開とは時には共鳴しつつも、激しいぶつかり合いも見せるという議場の緊張感はなかなか他の神学研究会では味わうことのできないものだったのではないかと思う。
 とりわけ世俗化した二一世紀の社会と、またアジアやアフリカの文化・宗教を背景にした神学的な取り組み、エコロジカルな危機やエイズなどの現実の問題へ直面した中で、教会が新しい言葉をどのようにそれぞれの教会の会衆とまたその教会の置かれている社会の人々にむけて具体的に語るのかということに真摯な姿勢は、時に哲学的・思弁的な議論に入り込んでいく神学にはげしく問いかけるものであったように思う。

2009-05-05

石居研究室から

キャンパスには、さくらんぼも色づいて、そろそろ春から初夏へと移り変わるころ・・・  
 大学も神学校も新しい年度を迎えて一月が経ち、学生たちも落ち着いて、学びと研究に取り組む季節になったと思う。何より教員として自分こそが少しずつ研究を形にしていかなければと考えているところ。今年3月のドイツで開かれたLWFの神学コンサルテーションに、初めて参加、研究発表の機会を与えられた。大きな学びとなった。そこでの様子を少しづつ整理しておく必要を感じている。また、それ以外にも、日頃の神学的デンケンをメモしたり、あるいは時に自由な思いをつづるなどしてみたいと思いこのブログを利用することにした。
 公開するかどうかは今後考えるとして、当面はあなたのために書きたいと思う。