私自身はこの小説を小説としておおいに魅力を感じるけれども、静人の「悼み」に全面的に共感するものではない。ただ、深い問題提起がなされているという認識でいる。
静人が、死者を悼む、悼まずにはいられなくなったわけは、実ははっきりとしているわけではない。ただ、いくつかの箇所で静人自身、あるいは母親の巡子の口を通して語られるところから推察されるのである。一番のきっかけは、親友の死を忘れないはずの自分が、一度その命日を忘れたことだと思われる。忘れられないはずだし、そう誓った自分が、実際には忘れてしまった。そのことへの深い罪責意識が働いているのだろう。あるいは、そのほかに思い返すと、祖父の死や身近な人たちの死、幼いころの自分の部屋から見ていたヒヨドリの雛の死。そうした幾つもの「死」との出会いの体験から、彼の「悼み」に向かう初めの動機が生まれている。さっきまで生きられいた「いのち」が失われた。そのことを気にも留めないでいたり、忘れていく自分がいた。それでよいのか、それで生きていけるのかとの思いが静人を悼みへと向かわせた。あまりにナイーブではあるにしろ、誠実な心を感じるし、「死者」を忘れていくこと、過ぎ去ったものとすることは、逆にいえば、自分もまた忘れ去られるという虚しさを肯定することでもある。そのことは、自らが生きていくことを否定することにもつながるともいえるか。
けれど、実際に思えば、身近なところでの死との出会いと、全然見も知らない人の死の問題、その人を悼むということとがそんなにすぐに結びついてくるのだろうかと、不思議でならない。ただ、静人がその「悼み」を重ね、そこでさまざま人と出会うときに、彼の中でまったく新しい使命のようなものが生まれてきているということはあり得る。ただ、静人はこの「悼み」を続けるために、その遺された人々との交わり、共感にも制約を作っている。あまり深くその遺族感情に引き込まれなように距離を保とうとしているのだ。そうでなければ、このような「悼み」を続けられないという静人自身のことも想像に難くない。だから、静人の自己制約には説得力がある。ただ、あまりに自分の感情を押し殺していることが、また、静人の異常なストレスになっていることもよくわかる。
けれども、そうした残されたものとの距離を保つことが、ほんとうに「悼み」という行為を続ける彼自身のなかであり得るのかというところに不自然な印象を残すのは否めない。どうして、何のかかわりもない人のことを悼むことができるというのだろうか。
柳田邦男が、息子の脳死を目の当たりにして過ごした11日間をつづる『犠牲 サクリファイス』という作品がある。
その中で、柳田は「二人称の死」ということを語っている。死一般を語るとき、それは自分とっては誰でもない誰かの死でしかなく、三人称の死を問題にしているという。それに対して、自分自身の死は一人称の死だ。しかし、愛する者の死は、そのどちらでもない、二人称の死。自分にとっての特別なかかわりの中にあるものの死として経験される。柳田はジャーナリスト作家として、脳死を研究し、それを死としてとらえていた。しかし、今その脳死状態にある息子を目の前にして、それを死と認めることができない。「死」を三人称で語ることと二人称で経験することとはまったく違うものだと述懐する。
そのとおりだと思う。愛する者の死であるからこそ、特別なものなのだ。ところが、この「悼む人」で静人はもともと自分にはかかわりのない誰かの死をニュースで知って、その場所に出かけ、その人を悼むという。いうなれば三人称の死を悼むということだ。そして、その人を特別な存在として覚えていくという。その人はどのように特別な人になるのだろうか。二人称の死と三人称の死の中間というのだろうか。三人称の死を、二人称の死として引き込んでいくのだろうか。しかし、ともに生きた関係ではない誰かをそのようにひきこんでくることはどうしてもできないのではないか。
唯一、そこに橋渡しをするものを見つけるならば、その死者の死を二人称の死として受け止めている残された人たちとの交流を通してのみ、その悼みの真実さがうまれよう。けれども、静人はそこにやや冷たいとさえ思われる、線引きをしているようだ。これはいったいどう理解したらよいのか。
静人は、それゆえにか、実際の家族や友人たちにしか許されていない特別な関係とは違う自分の位置というものにこだわっているかのようでさえある。しかし、逆にいえば、本当に身近な存在として生きたものには、その人にしかない特別な死者との関係がある。そこに踏み込んではいけないし、そんなことは他人のすることでもないと認識しているということだろう。そうであれば、なおのこと静人がこの「悼み」をつづける意味、その動機が全く見えなくなるのだ。
ただ、もしかすると、この静人という主人公を通して、忘れられていく死者、その人との本当につながりをもった人たちは、その死者、その人の人生、いや、そのひととのかけがえのない関係、それを忘れてはならないのだというメッセージがしめされているということかもしれない。つまり、静人のような存在を通して、本当に生きている間に深い関係の中にあった死者と、残されたものはいまその関係をどう生きているのかという問いかけをすることこそがこの小説の一つの目的なのかもしれないのだ。そういう問題提起として、実際に読む者のこころを揺さぶることは確かだ。
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