2021-06-15

「いま、教会の牧会は~ COVID-19の只中で見ていること~」

第4回臨床牧会セミナー(第55回教職神学セミナー)報告  (DPCニュースレター掲載)

全体主題「いま、教会の牧会は~ COVID-19の只中で見ていること~」

 

過去3回の同セミナーは三鷹の神学校キャンパスに於いて二泊三日のプログラムを持って実施してきたが、今年はオンラインでの取り組みとした。28日・15日・22日(月)の午後、2時間半ほどの時間で、講演とグループ討議を合わせた形でのプログラム。直面している牧会の課題を考える場となった。

ここでは、講師の講演をきっかけにどんな学びがなされたかをまとめて報告したい。

(報告:石居基夫)

 

 

【第1日目】

講師には、日本基督教団吉祥寺教会牧師で、現在日本ルーテル神学校で「牧会学」を担当されている吉岡光人先生をお迎えした。「新しい牧会様式」をテーマとして、昨年からの新型ウイルス禍が、どのように教会、特に牧会の状況に影響をもたらしているのか整理し、その課題とそこに見出されている可能性について発題いただいた。

感染症の特質として、人と人が会うこと、集まること、会話すること、食事を共にすることなどが避けられることになった。いずれも教会の活動の中心的な活動に自粛が求められたことで、大きなチャレンジを受けてきた。

当然に、礼拝や集会を通常の形で持つことが困難になったのであるが、その中で、日本中の教会で、制限された活動形態をとりながら、同時に礼拝、特に説教をオンラインで配信するなど新しい動きと可能性が生まれてきている。

こうした教会活動のオンライン化は、デジタル格差と言われる課題を生み出してもいるのだが、これまでのWebの伝道的な取り組みとは異なり、教会員のために新しく整えられたことによって、今まで教会に来ることができなかった方々を礼拝に結び合わせたり、家庭の中に礼拝が入り込むことで新しい伝道や証が起こっていくということも経験されている。

ただやはり、信徒の方々が孤立化し、あるいは経済的にも生活の面でも大きな困難が襲っていること、それが精神的にも家族の関係の中にも様々な課題をもたらしているのも事実だ。

いずれにしても、こうした状況は、単に感染症による一過性のことではなく、現代社会の根本的問題が炙り出されてきたものだと指摘された。都市化して、さらにメディアやA Iなどによって人々の生活や関係のあり方、いや人間そのものが変化しているという視点から、改めて教会とは何か、礼拝、説教とは何かという本質的な問いが生まれている。そして、なんといっても人と人とが実際にふれあい、共にあるということの重要性、そこでこそ福音が証され、分かち合われ、生かされていく恵みがあることが確認されてきていることなどが話し合われてきた。そうした脈絡の中、サクラメントの理解など神学的な課題は、教会の本質論とも深く結びついて新しい言葉で語られるべき重要な課題となっていることが浮かび上がってきたように思う。

 

【第2日目】

2日目の講師には日本福音ルーテル教会の関連である社会福祉法人デンマーク牧場福祉会(静岡県袋井市)こひつじ診療所で精神科医として働く武井陽一医師を迎えた。テーマは「見よ、今や恵みの時、見よ、今こそ救いの日〜豊かなる大地に守られながら、一人ひとりに寄り添って〜」。

まず、最初に武井先生ご自身がイエス・キリストにある救いの約束、終末への信頼から、困難と暗闇が続いているように感じられる現実の中にあってもなお希望の中に信仰の歩みが与えられている喜びの証しをいただきながら、デンマーク牧場の設立の理念と実践を紹介された。広い敷地に豊かな自然が広がり、そして羊や牛などの動物たちとともにあるデンマーク牧場で、私たちは神の被造物として生きるその本来の恵みを感じさせられる。そこに自立援助ホーム、就労支援、児童養護施設、特別養護老人ホームなどが広く展開されている。武井先生は一人ひとりと向かい合い働く中に第三者の眼差し、すなわち神とイエスさま、また天国にある人たち、さらにはさまざまな困難と課題の中に生きている方々の眼差しを感じることの大切さを語られ、また逆に私たちがいま誰を思い、祈るのかという課題の中にあることを示された。

現代を共に生きる人々とその苦しみへの深い関心を持つことが、全ての人に開かれた私たち自身の在り方を生み出し、また、それぞれの人がそこに安心して生きていく居場所を作っていく。私たちはコミュニケーションの破壊と自分の特定な関心事への依存の中で、主体的な自由を生きられなくなっている現実があるのかもしれない。神と人と自然を愛し、その深い関係のなかで厳しさと恵みとに出会いつつ、「自分の弱さを受け入れ、心を開きあう」関係が築かれていく。デンマーク牧場での、一人ひとりに働きかける実践的格闘に学ぶことは多いと感じられた。

 

【第3日目】

この日の講師は、日本ルーテル教団鵠沼めぐみルーテル教会教職である梁熙梅先生。教会の女性たちの視点から話していただきたいというリクエストに応えて「コロナ禍の中の教会の在り方~マルタたちの居場所 イエスのキッチン~」という発題をいただいた。

最初期の教会は、家のエクレシアとして始まっていく。例えばヨハネ福音書では、マルタが兄弟ラザロの亡くなったときにイエスを迎え、その深い悲しみの中で直接に主に問い、終末また死と復活について主と対話したと記されている。その時代から今に至るまで「もてなし」、「癒し」、「共同の食事」など教会の大切な働きを支えてきたのは女性たちであり、それが伝統的役割であったことはわけだが、その古い家父長制の中にあっても女性もまた主に問い、みことばを聞いて、預言者として働いてきたことなどが説き起こされた。

今、礼拝、集会など教会の活動が全てオンライン化することで、女性たちが担ってきたこれまでの多くの活動は制限を受け、相互の交わりが失われていくような現実が確かにある。しかし、女性たちはこの只中で電話や訪問などによってお互いを訪ね、助け合い、また牧師を支えて、コロナ禍にも拘らず、実は相互牧会を実現している。

礼拝の中止やオンラインでの配信という実態がありつつも、社会の中に置かれている教会の役割は、このような暗い状況の中だからこそ、礼拝の恵みとしての死と復活の福音を示し、希望の光を灯していくべきと、本質論から問い直された。

本来「礼拝」は礼拝としてだけ存在するのではなくて、それを中心とした教会の全ての働き、招き、集まって、共にみことばを聞き、そして働き、生きるというその脈絡の上にあることでこそ実現される福音宣教なのだと確認された。そして、その「礼拝」そのものも、「交わり」、「奉仕」、「教育的な働き」という日々の教会生活によって豊かにされ、しっかりとその恵みが受け取られてきたのだし、そのほとんどを実は女性たちが支えてきたということを覚えられるべきではないか。

男性か女性かということが問題の核ではないけれど、この視点を持って見ることで、改めて深く「教会の本質」が捉え直されてきたように思う。

 

それこそオンラインでの開催ということで、出会えない寂しさもあったが、日本全国から参加をいただいたことは恵の一つ。地方の教会と都市部の教会との違いなどについても改めて気付かされることも多かった。今後さらに深めていく課題に気づかされたセミナーだった。感謝して、三日間の臨床牧会セミナーのまとめとしたい。