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2017-09-08

日本ルター学会 宗教改革500年記念学術大会

宗教改革500年の年。ルターの宗教改革を記念しながら、現代を、プロテスタンティズムを、キリスト教を問い直すことがさまざまに取り組まれている。
 日本ルター学会も、当然にこれに取り組む。


金子晴勇先生の代表的研究は『ルターの人間学』といってよいだろう。西欧思想史の緻密な研究をもとに人間学、霊性の問題に切り込んでこられた。先生のライフワークとなったこの霊性研究の視点から、宗教改革の意義を問い直す講演は是非聞いておきたい。

また、シンポジウムは宗教改革史のなかでどちらかと言えば脇役となった人物研究を深めて来られた先生方に宗教改革を少し違った視野から捉え語っていただけることだろう。いままでにない、ルター像、宗教改革像が見えてくるに違いない。楽しみ。
 
 日時:2017年10月7日(土曜日)午後1時から5時まで
 場所:日本福音ルーテル東京教会 

是非、おいでください。



2016-11-13

『キリスト者の自由』における悪の問題   〜現代社会に生きる魂の問い〜

ルター研 「秋の講演会」での私の講演メモです。当当日配布のレジュメに書き足していたものです。                
  
『キリスト者の自由』における悪の問題 〜現代社会に生きる魂の問い〜

1.問題意識:「自由」とはなにか。
 中世の終わり、近代前夜の胎動の中、ルターは「キリスト者の自由」をいう。「自由」は近代を象徴するもの。けれども、ルターはキリスト者となってはじめて得られる「自由」を語る。キリスト者となることによって与えられる自由を語ることは、現代を生きる私たちにどのような意味があるのか。

(1)現代人の自由。
   不自由のない現代は「自由」を求めないか。
   ITプラトニズムの時代 。時空を超える。身体性を超える。自分を超える。
(2)「自由主義」の行き詰まり?
   「自由」は近代の指標の一つ。しかし、その原理が自由な競争世界を資本主義のも
   と展開し格差を産み出す。近代のもう一つの指標である「平等」が揺らぐ。
   排他主義、保護主義の台頭、力による支配を求める時代。
(3)「何をしてもよい」自由。善悪の判断が超えられている?
   自由な個人。自己責任を求める世界。個人の欲望を満たす消費社会。人間関係の希
   薄化は、社会の中での共通の価値観や倫理の感覚を弱くする。「良心」が薄らぐ。
   あからさまに、「なぜ人を殺してはいけないか」 が言葉になる。
私たちは、自由を満喫しているようだが、本当の意味で「自由」なものなのか。

2.ルターにおける自由と悪
 一般に中世において「自由」が語られてきたのは、人間の「自由意志」の問題。しかし、ルターが語るのは「魂の自由」。しかし、プラトニズムのように魂だけの自由を語るのではない。むしろ、信仰における魂の自由がこの世に肉を持って生きる新しい生き方、愛と奉仕に生きることを実現する。
(1)自由の問題
   アウグスティヌス以来の中世の伝統⇒ルネサンスにおけるあたらしい人間
   こうした人間中心的なオプティミズムは、人文主義へさらに近代へとつながってい
   く。人間賛歌と自由意志⇒エラスムス自由意志について:ルターとの論争。
(2)悪の問題
   ルターの奴隷的意志の強力な主張⇒すなわち、罪意識の徹底!
   「悪い欲望」 に囚われていること。いっさいの虚しさ。
(3)キリストの勝利
  キリストの十字架⇒逆説的な力。 
  魂はみことば(キリストの福音)において満ち足りる  
  
キリスト者は、確かに、この勝利に与っていて、完全に魂の安らぎを持っているが、魂だけの存在になるわけではない。だから、この世界においては「愛と奉仕」を積極的に生きる。しかし、そのことは、必然的に悪魔の支配にいつもさらされ続けるということでもある。そして、そのことからの完全な自由は死と復活のときまでは得られない。それゆえに、義人にして同時に罪人!


3.現代の「悪」の力とキリストにある自由
 罪・悪の支配と神の支配の二つの世界を同時に生きている。その同時性に耐え、なおかつキリストのみ業への参与をいきることが求められ、またそのように生かされているのがキリスト者であると言えるのだろう。
(1)罪と悪の具体的な支配のもとにある人間
  ① 人間共同体・自然関係
    功績主義・成果主義による関係の破壊
  ② 組織的・社会的構造的悪と個人 
    関係の抽象化と無責任 弱者とマイノリティへのしわ寄せ
  こうした悪の支配を象徴するような「核」の問題。「核」そのものは、絶対悪ということまでは言えないかも知れないが、これを用いる人間には、戦争利用にしろ、平和利用にしろ、これを確かにコントロールする力は無い。逆に、これによって支配されるだけということが現実ではないか。
 ただ、その現実を変えていくことには、理想を叫び、それを絶対善として求めるだけでは解決しない。むしろ、時間をかけてこの矛盾を抱きかかえる以外にないのかもしれない。
(2)一人ひとりの魂を包む暗やみ
  ① 関係の希薄と生きる意味の喪失
    あらゆる人間関係の希薄さ 隣人への無関心 
  ② 欲望の増殖と虚無
    経済活動はそれゆえほとんど重要な意味はなく、虚しい。
  ③ 「暗やみ」「鬼畜」 聖なるものの喪失
    暴力と破壊衝動 死の欲動、憎悪のエネルギー 
(3)「キリスト者の自由」
  矛盾を抱えている自分を受け入れ、「すべてを抱きしめて生きる」 ために 
 この現実のなかで、ただ「キリストとともに」 というルターの主張!
  ① みことばを受けることのなかで
    律法:「わたしたちのいっさいが無」
    福音:「わたしたちにひつような全てが与えられる」
    「すべてのものが働いて益となる」
  ② 無力さのなかで
    キリストと共に十字架を生きる 
    苦難を引き受けることと他者のための生へ

  一人ひとりが小さなキリストとして、このみことばを生き、とりなしと証
  しによって、みことばを分かち合う。
  悪の支配する現実に耐え、なお確かな安らぎを受けて、
  終末に約束された、神の国(支配)における正義と公平、平和を見通して
  神のみ業への参与へと応答する。  

2016-10-19

ルターの祈り

かつて(1976年)聖文舎で出されたものルター選集第一巻の復刻。
石居正己の翻訳による『ルターの祈り』(リトン社)
(ちなみに、ルター選集は、第二巻がルターの説教、第三巻がルターのことば、そして、第四巻がルターの説教2だった。)


推奨4冊には入っていないけれど、似た装丁で出版されている。というよりも、これが2010年に復刻版として出版されていたので、これにあわせるように新しい3冊の出版となったのだ。だから、実は推奨5冊??というわけではないけれども、手にとりやすく、学びやすいものだ。

ルターは祈りの人とも言われるが、彼にとって、信仰とは祈りそのものだといってよいのだ。そのルターが祈った祈りそのものが収録されている。

内容は以下のとおり

単純な祈りの仕方
魂の神との対話
礼拝の中での祈り
みことばとその務め
罪人への恵みを願って
さまざまな時の祈り

解説・ルターの祈りについて

是非、一読を。

2016-10-18

宗教改革500年記念の推奨4冊

日本福音ルーテル教会が宗教改革500年を記念して、それぞれの教会で、学校・施設でルターその人と、その信仰・神学についての学びを深めていくために推奨4冊を挙げてこの出版事業を展開している。この10月1日の『「キリスト者の自由」を読む』をもって、この4冊全ての出版が終わっている。

一冊目は、実は2012年に岩波新書として出版された徳善義和著『マルティン・ルター』だ。これは、ルターという人物を知るのにもっとも手軽で確かな書物と言ってよいだろう。岩波からの出版ということで、教会外の方にもわかりやすく、読みやすい。


以下の三冊は、ルーテル学院のルター研究所によって編まれたもので、いずれもリトン社から出版されている。それぞれにすでに手にとってくださった方もあるかと思うが、改めて紹介しておきたい。いずれも、ルターの神学、そしてルーテル教会の信仰を学ぶのに欠かすことの出来ない三冊だ。


『エンキリディオン 小教理問答』
いわゆるルターの小教理問答書。洗礼準備などでよく用いられている青もしくは黄色の表紙の薄い冊子のものは、一部掲載がなされていない部分がある。全文を訳されたものが手にとりやすくなった。エンキリディオンは必携とでもいったらよいか。私たちがキリストの福音に生かされる信仰について簡潔に教えるものだから、洗礼の時ばかりでなく、繰り返し、読み、確認するようにとルターはこれを書いている。

『アウグスブルク信仰告白』
1530年、アウグスブルクで行われた神聖ローマ帝国議会で読まれたもので、ルターの宗教改革に賛同する信仰的立場を表明したものといってよいだろう。執筆はメランヒトン。意図は、当時危険なものとされたルター派陣営の信仰的立場は、伝統的なキリスト信仰にあるものであることを表明しつつ、「信仰義認」の福音理解とそれに基づく教会・信仰者の在り方を簡潔に言い表している。

『「キリスト者の自由」を読む』
「キリスト者の自由」は、1520年後に宗教改革の三大著作といわれるようになる主要な改革的信仰を著したものが書かれるが、その中の一つだ。日本でも世界でも、おそらくルターの著作の中で『小教理問答』に続いて最も親しまれてきたものと言って間違いない。短いけれども、キリストによって生かされる信仰者の生を、非常にわかりやすく示されている。これをルター研究所の所員たちが、現代の脈絡のなかで読みながら何を学ぶことが出来るかと簡単に解説したもの。

出来れば、宗教改革500年を迎えるこのときに是非教会でも、個人でも手にとって、これらを学んでいただけるとよいと思う。

注文はアマゾンでも可能かとは思うが、できれば、お近くのキリスト教書店からお求めいただくと書店を支援することにもなる。
また、リトン社の三冊は直接出版元に注文することが出来る。教会ごとにまとめて注文いただくとよいだろう。

リトン社
電 話:045-433-5257
FAX:045-402-1426



2016-10-17

『「キリスト者の自由」を読む』

日本福音ルーテル教会の宗教改革500年を記念した特別企画、推奨4冊の最後の出版となる『「キリスト者の自由」を読む』(ルター研究所編、リトン社)が10月1日付けで出版された。

                   

 この本では、ルターの著作のなか最も多くの人に読まれ、愛されてきた『キリスト者の自由」(1520)を取り上げているが、新訳ではない。紹介したものはすでに公にされている徳善義和先生の抄訳にとどめている。この本は、むしろ、ここに著されたルターの神学的主張が何か、ルターが生きる中で何を問い、信仰の中でその答えを求めていったのかを確かめつつ、それが現代に生きる私たちにどのような意味を持っているのかという考察をまとめていったものだ。執筆は、ルター研究所所員が分担執筆を行っている。

 取り上げたテーマは
・自由
・律法と福音
・信仰義認
・全信徒祭司性
・信仰と行為
・愛の奉仕

(ちなみに、私も「全信徒祭司性」を担当させていただいた。)
加えて、信徒の方にも加わっていただいた座談会も収録している。
単に、宗教改革の記念的著作を読むということではなく、現代の社会と教会に生きる私たちを考えるうえでも、是非、これを用いて学んでいただければと思う。

ご注文は、以下の出版社に願いたい。
リトン
電 話:045-433-5257
FAX:045-402-1426

また、本文の訳と詳細な注解は徳善義和先生の『キリスト者の自由ー訳と注解』(教文館、2011)を是非お求めいただきたい。https://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2013/09/blog-post_23.html

2016-05-13

牧師のためのルターセミナー 2016

今年も、牧師のためのルターセミナーの季節になった。


今年のテーマは「キリスト者の自由」。ルターの膨大な著書のなかで、おそらくもっともおおくの人々に読まれたものに数えられる。少なくとも日本では、石原謙訳で岩波から出されたものがいまでもよく売れているとおもわれる。キリスト者の「自由」という部分だけが書名にあげられるが、実際にかかれているのは「自由と奉仕」「信仰と愛」という二つがキリスト者となるということにおける一つの出来事として見いだされているのがこの書の中で捕らえられていることだといってよいだろう。
この名著を現代の脈絡のなかで、どのように読むのか。これが、今回のセミナーの課題だ。
是非、おいでください。

…………………………………
2016年度牧師のためのルターセミナーのご案内

教職各位
201652
ルター研究所 所長 鈴木  浩

 主の御名を賛美いたします。
 大きな地震に見舞われた熊本では大勢の人が被害を受けました。そのため、日本全体が依然として苦しみと悲しみの中に置かれていますが、このような時にこそ教会がその苦しみに深く連帯しつつ、希望の光を掲げることができればと念じています。
 さて、恒例の「牧師のためのルターセミナー」を以下の要領で実施いたします。ふるってご参加ください。今回は「宗教改革五〇〇周年とわたしたち」の四回目で、『キリスト者の自由』を取り上げます。

 日程:20166月6日(月)午後2時から6月8日(水)正午まで
 会場:マホロバマインズ三浦(京浜急行三浦海岸駅徒歩五分)のアネックス棟
 主題:宗教改革五〇〇周年とわたしたち……「キリスト者の自由」
 費用:2万5千円(宿泊、食事、資料代こみ)

 発題予定

 「ルターの自由概念……信仰と行為」          ……高井 保雄
 「ボンヘッファーと自由について」:
   「宗教改革なきプロテスタンティズム」を読む   …ティモシー・マッケンジー
                      
 「誰にも服さない君主であると同時に誰にでも服す僕」  ……鈴木  浩
 「律法と福音」                    ……立山 忠浩
 「受動的能動性」                   ……江口 再起     
 「『キリスト者の自由』と悪の問題」          ……石居 基夫
 「ルターにおける『善い行い』の再考」         ……江藤 直純



*「牧師のため」とありますが、信徒の方々の参加も大歓迎です。礼拝の報告の際に教会員の皆さまに周知いただければ幸いです。

2016-03-20

〈アウグスブルク信仰告白〉再考

 昨年の12月にルター研究所から出版された『ルター研究別冊 宗教改革500周年とわたしたち 3』。テーマはアウグスブルク信仰告白だ。
 1530年に、アウグスブルクで開かれた神聖ローマ帝国の帝国議会において公に表されることとなった宗教改革陣営の最初の信仰告白文書だ。メランヒトンによって起草され、ルターによってはじめられた宗教改革的信仰が簡潔に、そして福音主義に立つことを明白にに示されている。だから、いわば宗教改革的教会、つまりプロテスタント教会にとっての記念碑的信仰告白だといえよう。しかし、この国会、そしてまたメランヒトンが誠実に取り組んだのは、ルター派の創設などではなく、むしろ教会の一致のため出会ったと言ってよいだろう。この信仰告白であれば、ローマ側もまた福音主義に立つものも、共に同じキリストの教会として告白できるものであり、教会の分裂を避けることができる。そのような願いが込められた著述なのだ。
 このアウグスブルク信仰告白の新しい翻訳が昨年10月に出版された。あらためて今日のエキュメニズムの文脈において、これを読んでみたいのだ。


   http://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/76539

ルター研究所では、この出版の準備に平衡して昨年はこのアウグスブルク信仰告白について改めてそれぞれの視点から研究発表をして、論文集にまとめあげている。


http://shop-kyobunkwan.com/4863768168.html

内容は以下のとおり。
・まえがき
・三つのE──来たるべきエキュメニズムのプログラム  江口再起
・アウグスブルク信仰告白のギリシャ語訳──翻訳に至った事情とその後の経緯 鈴木浩
・公同の宣教に参与する──アウグスブルク信仰告白とミッシオ・デイ  宮本新
・アウグスブルク信仰告白に見る信仰義認とエキュメニズム  石居基夫
・『アウグスブルク信仰告白』と『和協信条』の聖餐論──エキュメニカル的対話の促進
  と課題について  立山忠浩
・『アウグルブルク信仰告白』 五、七、八条に見る教会とその職務──歴史的またエキュ
  メニカルな考察  江藤直純
・『アウグスブルク信仰告白』 第十六条の「正しい戦争を行う」について  鈴木浩
・<書評> 『争いから交わりへ』(教文館 二〇一五年) 一致に関するルーテル=
       ローマ・カトリック委員会:著  高井保雄

私の論文では、このアウグスブルク信仰告白がもっとも明瞭にしなければならなかったし、また事実そうであった「信仰義認」の神学的主張が、16世紀においては教会の分裂の決定的な要因となったこと、しかし、今日のエキュメニカルな時代においては、その同じ「信仰義認」の神学的軸こそが、エキュメニズムを支え、動かしていく要となっていると論じる。そのようにして、本来アウグスブルク信仰告白が目指した、エキュメニカル(教会一致のため)の目的は500年の時を経てみのりを見せていると、論じるものだ。ご一読を。




2016-02-12

『十字架の神学者であること』 G・フォルディ



 ゲァハルト・フォルディの著したこの本は、いわゆるルターの「十字架の神学」についての最もすぐれた解説なかの一つである。(他に、レーヴェニッヒ、またマクグラスの研究を挙げなければならないのはもちろんだが…)
 もともとは、ルターの「十字架の神学」は、彼の宗教改革的神学を明らかにする「ハイデルベルク討論(1518)」において示された「いかに神を知るのか」という啓示に関するルターのテーゼにその由来がある。(下に、その二つのテーゼは記している。)しかし、それはなにか客観的な「神学」があるというよりも、神学をすること、神学者であるとは、どういうことかを示している。そして、神学者といっても、ルターにとってそれは書斎にこもって難しい本とにらめっこしているというような意味なのではなく、信仰を持つものが誰でも、自分が何をどのように信じているのだろうと考える、それが神学であり、信仰者はみな神学者だということを意味している。だから、いうなれば信仰者というものが、信仰者である限り、何をどんなふうに信じるものなのかということ、その在り方について著したものといえるだろう。(ただ、その叙述そのものは中世の神学者、修道士たちを相手にして書かれたもので、いわゆる信仰入門書のようなものではない。)
 「ハイデルベルグ討論」には、神学的な命題が28、著されるが、そのなかでも19と20の提題が特に、その神学者としての在り方についてかたるのだ。

19 神の「見えない本質が」、「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない〔ローマ1:20〕
20 だが、神の見える本質と「神のうしろ」〔出エジプト33・23〕とが、受難と十字架とによって理解されると認めるものは、神学者と呼ばれるにふさわしい。

 ここに、ルターがイエス・キリストの十字架の受難と死においてのみ、救いの根拠を見るものであることを明らかにしているといえよう。しかし、さらにいえば、この討論のための28のテーゼ全体がいわゆる宗教改革的神学の確立を示しているといえるのだ。そして、フォルディはこの十字架の神学、十字架の神学者というものがどのような信仰にたつのかということを著したこの書を構造的にとらえて、みごとに解説をしている。

1-12のテーゼは、人間の働き(業)の性質とその価値について著し、
13-18は自由意志の問題。
19-24では、栄光の神学者と十字架の神学者の区別を書いて、
25-28 キリストにおける神の愛の働き、それがどのように信仰者に働くかということをしめすという。そして、大胆に中世のスコラ神学を批判して、福音とは何かを明瞭にしているというのである。
 この第1テーゼは神の律法について書かれ、そして、最後の第28テーゼは神の愛について書いている。正に、神の律法を中心とする考え方から神の愛(福音)へ信頼するように、神学がシフトさせられていく。
 ルターの「十字架の神学」を学ぶときの必読書である。


2015-10-23

2015 ルター研秋の講演会

ルター研究所は今年開所30周年。
秋の講演会は、30周年を記念して開所時の初代所長の徳善先生と第二代で現所長の鈴木先生のお二人に講演をいただく。
日時は11月8日午後4時から。日本ルーテル教団六本木教会が会場。
        


徳善義和先生には、これまでのルター研究所の歩み、特にルター研究と今日のルーテル教会の現状を重ねながら、私たちの神学的な課題、宣教の務めをお話いただきたく、「ルター研究所30年…ルターと今日のルーテル教会を考える」と題しての講演をお願いしている。
また、鈴木浩先生には、今年の牧師のためのルターセミナーでのテーマ、そして、宗教改革500年を記念して新しい翻訳で紹介することとなったアウグスブルク信仰告白を取り上げて、「アウグスブルク信仰告白と今日の課題」をタイトルにお話いただく。

乞うご期待。

2015-05-08

2015年度 牧師のためのルターセミナー


今年も下記の要領でルター研究所主催の「牧師のためのルターセミナー」がひらかれる。
教派を問わず、ルターについて、宗教改革について学びたいと思われるかたは、是非ご参加ください。今回は、特に「アウグスブルク信仰告白」を題材にしますが、ルーテルにおけるエキュメニズムに関わる議論がなされそうです。
実際にも豊かな交わりが与えられ、牧会のことや宣教のことも語り合うこともできますし、リフレッシュできると思います。



日程:2015年6月1日(月)午後3時から6月3日(水)正午まで
 会場:まほろばマインズ三浦(京浜急行三浦海岸駅すぐ近く)
 主題:「宗教改革500年とわたしたち」(第三回)……『アウグスブルク信仰告白』
 費用:2万5千円(宿泊、食事、資料代込み)

原則として全期間の参加をお願いしますが、部分参加を希望される方はご相談ください。
                                                         
1) 発題と討論
1.CAに見る信仰義認とエキュメニズム          ……石居 基夫 
2.CA5、7、8条にみる教会とその職務         ……江藤 直純
3.CA16条における「正しい戦争を行う」の諸問題    ……鈴木 浩 
4.CAと和協信条                    ……立山 忠浩 
5.エキュメニズムの未来                 ……江口 再起
6.信仰告白と宣教……公同の宣教に参与する        ……宮本  新

2) 書評『争いから交わりへ』(バチカン・LWF共同文書)
 ……高井 保夫
 
3) 宗教改革500周年をめぐる討論        ……参加者全員
                   
*「まほろばマインズ三浦」までのアクセスはホームページで検索してください。
*参加申し込みは直接、ルター研究所(鈴木)まで
 

2015-02-23

『争いから交わりへ』

 ルーテル世界連盟(LWF)とカトリック教会が2017年の宗教改革500年を共に記念するために、両教会の世界規模の合同委員会が議論を重ね、昨年その成果を一つの形として文書にし発表した。1999年に両教会は「義認の教理に関する共同宣言」を公に調印して、キリスト教界にエキュメニズムの新しい時代の到来を示したが、さらに具体的に両教会の協働が合同の礼拝をもって続けられるように、宗教改革500年が覚えられることは本当に画期的なことだ。その基礎となる文書なだけに、この書がいち早く日本語に翻訳出版された意義は大きい。


http://www.kyobunkwan.co.jp/publishing/archives/16965

翻訳チームの一人として加えられたが、元訳を鈴木浩先生がいち早くつくってくださり、それをもとに、カトリック教会と日本福音ルーテル教会からの代表が半年以上をかけて出版に向けて翻訳を丁寧に造り上げた。
 本来、1517年の宗教改革は、M・ルターが「贖宥の効力に関する95ヶ条の提題」を公にして、いわゆる「免罪符」(贖宥券が正しいが、免償符でもよい)の問題をきっかけにカトリックに対して改革を呼び掛けた教会運動だった。けれども、結果的にはそれまでのカトリック教会の一致を分つことになったわけだから、プロテスタント教会にとっては自分たちのアイデンティティーを示す記念、祝いの気持ちを持つかもしれないが、カトリック教会からすればこれは少しも喜ばしいことではない。だから、この日は一緒に「祝う」(celebration)はできない。「記念する」(commemoration)という言葉遣いだ。
けれど、いずれにしても、福音を世に伝えるとう使命と喜びを確認し、歴史的な断罪を改めた両教会が協働・共同する世界への宣教のコンテキストを意識して取り組まれていることは本当に意義深いことだ。
 この文書は、両教会がそれぞれの歩みを神学的に検証しつつ、新しい世紀への教会の在り方を示そうとしていると言ってよいだろう。
 神学生には必読の書。

内容は下に目次を紹介する。
ルターの宗教改革的神学主張が、カトリックとルーテルの双方からの視点を合わせつつ評価を加えて確認されている。詳しく検証される必要があるが、こういう文書が共同で出せるというところが今の新しい時代を象徴するできごとだと思う。そして、なにより大事なことは、新しい時代にむけたエキュメニカルな責務を明らかにしていることだと言えるだろう。



第一章
エキュメニカルでグローバルな時代に宗教改革を記念する(4−15)
第二章
マルティン・ルターと宗教改革を見る新たな視点(16−34)
第三章
ルターの宗教改革とカトリック側からの反応に関する歴史的描写(35−90)
第四章
ルーテル教会とローマ・カトリック教会の対話に照らして見た
マルティン・ルターの神学の主要テーマ(91−218)
第五章
共同の記念に召されて(219−237)
第六章
五つのエキュメニカルな責務(238−245)

2014-10-10

ルター研 秋の講演会 2014

今年もルター研究所の秋の講演会が下記のように予定されている
日時:2014年11月9日午後4時〜
場所:日本福音ルーテル本郷教会
テーマ:「宗教改革500周年とわたしたち」第二回
講演は、ルター研究所所員のお二人。
高井保雄氏には、ルターの主要な著作の一つである「小教理問答」についての長年の研究から「教理問答とその時代」と題して講演をお願いしている。
また、ティモシー・マッケンジー氏には、500周年を直前にして、今から百年前はどのように宗教改革400周年をむかえたのか、その歴史資料研究から「日本の宗教改革400年記念…希望を与える記憶」と題して講演をお願いしている。

2014-04-26

ルターセミナー 2014

今年も牧師のためのルターセミナーが企画・準備されている。

             




 昨年から、「宗教改革500年とわたしたち」を基本テーマとして、現代の文脈において500年前の宗教改革の意義・意味というものをもう一度捉え直していく取り組みとしている。所員の発題を絞り、参加者の問題意識を掘り起こしながら、共に学んでいく研究会としようと試みている。毎年、その所員の研究発表は『ルター研究』にまとめられて、秋には出版される。
 今年のサブテーマは「教理問答」だ。ルターの小教理・大教理は共にルーテル教会の一致信条集におさめられ、ルーテル教会の信仰の基本を示すものとなっている。実際「小教理問答」は、現代に至るまでルーテル教会の洗礼・堅信教育に欠かさず用いられてきたものだし、ルターの著作の中では「キリスト者の自由」とともに最も多くの人々に読まれてきた者だと言えるだろう。この500周年の記念事業の出版事業において、新しい翻訳と解説も出版が予定され、すでに準備が進んでいる。私たちの信仰を養う大切なテキストだが、しかし、それをもって何を私たちは自分の信仰の糧とするのだろうか。
 単に、教理的な理解を受け取るとか、500年前からの伝統を引き継ぐということよりも、ルターが時代のなかで、何と格闘し、何を見いだし、何を伝えようとしたのか。その取り組みそのものを感じながら、今ルーサランであること、あるいはキリスト教を信仰するということを現代の脈絡のなかで捉え直し、問い直していきたいのだ。
 今年は、私も研究発表を担当する。いささか準備の時間が取れずに心配だが、私の問題意識を掘り下げていきたいと考えている。
  (下の一覧には、「教理問答に見る諸関係の中の自己〜ルターにおける『私』」となっているがたぶん「ルターにおける『私』、その問題の所在〜教理問答に見る、諸関係の中の自己」というようになるかと思う。)

以下、鈴木浩所長からのご案内を紹介する。
 
………………………
牧師のためのルターセミナーのご案内

                       ルター研究所 所長 鈴木  浩

 主の御名を賛美いたします。
 「宗教改革500周年」(2017年)が近づいてきました。そこで、2017年まで「宗教改革500年とわたしたち」を統一テーマに5回のシリーズでセミナーを開催することにいたしました。今年のセミナーが第二回となります。
 どうか積極的にご参加ください。そして、ご一緒に宗教改革の意義を確認し、来たるべき「500周年」を有意義に迎える備えにしたいと思います。今回も時間にゆとりを持たせ、発題以上に討議の時間を多く取りました。活発な意見交換を期待しています。
 なお、このセミナーは「牧師のための……」となっていますが、毎回、信徒の方の参加があります。関心のお持ちの信徒の方々には、先生の方からご案内いただければ幸いです。
 
 日程:2014年6月2日(月)午後3時から6月4日(水)正午まで
 会場:まほろばマインズ三浦(京浜急行三浦海岸駅すぐ近く)
 主題:「宗教改革500年とわたしたち」(第二回)……ルターの教理問答
 費用:2万5千円(宿泊、食事、資料代込み)
    原則として全期間の参加をお願いしますが、部分参加を希望される方はご相談ください。→ hsuzuki1945@yahoo.co.jp

    
 1.発題と討論

  1.『大教理問答書』における神信仰             ……江口 再起
  2.教理問答の時代                     ……高井 保雄
  3.教理問答に見る諸関係の中の自己(ルターにおける「私」) ……石居 基夫
  4.1917年の宗教改革400周年(日本の諸教会の記念事業とその意義)                              ……ティモシー・マッケンジー
  5.『小教理問答』の「聖礼典における罪の赦しの問題」    ……立山 忠浩
  6.『エンキリディオン』の実践的意味と現場からの問題提起  
                    ……徳善 義和、大柴 譲治、渡邊 賢次
  
 2.説教黙想:司会 鈴木  浩
   説教黙想の対象テキストは、7月13日の福音書日課、マタイ10章16節から33節
  

*「まほろばマインズ三浦」までのアクセスはホームページで検索してください。
*申し込みは直接、ルター研究所(鈴木)まで

2013-12-24

ルター研究 別冊1号 

『宗教改革500周年とわたしたち 1』


http://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/72999

2013年の今年、宗教改革500周年(2017年)を4年後にひかえて、ルーテル学院大学のルター研究所(鈴木浩所長)は、このタイトル「宗教改革500周年とわたしたち」で毎年連続のセミナーを開くこととし、その第一回目を6月に開いた。その成果をまとめる形で、ルター研究も今年から毎年一冊ずつ別冊として連続発行される。

第一号の内容はつぎの通り。鈴木所長の「まえがき」に続いて、
①徳善義和
「問題提起:ルターの現代的意義を問えばー『宗教改革五〇〇年と私たち』を考えるために」
②江口再起
「ルター・プロテスタンティズム・近代世界ー宗教改革五〇〇年のために」
③江藤直純
「ルターの宣教の神学と今日のルター派の宣教理解(1)」
④ティモシー・マッケンジー
 「『ルーテル教会信条集(一致信条書)』の邦訳の歴史的背景と意義」
⑤高井保雄
 「ルター、エラスムス、エンキリディオン、悔い改め」
⑥徳善義和
「ルターの讃美歌考—『バプスト讃美歌集』(一五四五年)に見る」

六番目の徳善先生のルターの讃美歌集についての論考は、単に讃美歌についてというばかりではなく、礼拝について、また信徒の信仰教育や信仰生活についてルターがどのように考えていたかということに学ばされる。これはセミナーではなされたものではないが、プラス・アルファーとして加えられ、ルター宗教改革の礼拝に関わる側面を補った形ともいえる。
全体として読み応えがあるばかりではなく、これに刺激されていろいろな研究の可能性と必要を思わされるところだ。
ルーテルの牧師・神学生は是非手に取って目を通していただければと思う。そして、宗教改革の現代的な意義をそれぞれに宣教の現場から神学していただければと思う。
(来年のセミナーにも是非、大勢参加されたい。それについては、後日お知らせする。)


2013-12-06

アウグスブルク信仰告白とその解説

 宗教改革者のルターの信仰理解を簡潔に述べ、教会が様々な特色を持ったり、違いを持っていたとしても、キリストの教会として一つの交わりをもってお互いに認め合うために最低なにが告白されなければならないか。

             


徳善義和先生による解説は、おそらく神学校の「信条学」の講義ノートがもとになったものだろう。充実したその内容は、神学生にとってはルーテル教会の神学の基本の基を学ぶには最適だ。ルーテル教会の信仰理解と言うことばかりではなく、その成り立ちを考えてもエキュメニカルな神学の基礎として今日改めて評価をしながら、新しい歩みを築いていく基礎ともなろう。
 1980年がアウグスブルク信仰告白450年だった。その前年にこの新書判が発行されている企画にも意欲を感じないではいられない。1983年のルター生誕500年を経て、ローマ・カトリック教会との対話はさらに深まり、1999年の「義認の教理に関する共同宣言」の調印にまで進んだ。宗教改革500年を目前にして、今一度この信仰告白の研究と評価が求められよう。
 ルーテルの神学生には、もちろん必読中の必読書。既に手に入る状態ではないから、古書店で見つけたら、躊躇せず買ってほしい。再販が企画されるべきか。むしろ、データにして、アップし、共有できるようにしておくと良いのだが…。

『牧会者ルター』

 ルターによる宗教改革の神学は、一人の信仰者としてのルター自身が、人生の歩みの中で福音によって生かされていくその試練・格闘の経験から出発している。神学的な論争は、主として当時のローマの教会とスコラ神学、また熱狂主義的運動に向けられているが、その神学の根っこは牧会的であり、実践的な魂の配慮に満ちている。
 そんなルターの牧会者として姿、またその神学を人生の様々な視点において浮き彫りにし、今日の私たちの信仰生活にも直接いきてくる神のことばに立つルターの信仰と神学を伝える一冊。石田順朗先生による『牧会者ルター』。聖文舎によって出版されていたものが2007年に教団出版から復刻されている。

                

神学生は必読の書。牧師の本棚にも必ずおいておきたいもの。

2013-11-30

『教会とはだれか』

神学生への推薦図書
石居正己の『教会とはだれか』。

                 


現代の日本の教会における宣教というコンテキストの中で、最も必要な神学的考察の一つの結実を著した書。ルター神学に立ち、「教会」という一つの視点を軸に書かれた良書。
礼拝、説教、サクラメント、罪の告白と赦し、職制、宣教、奉仕、教育。極めて実践的かつ本質的な教会理解を丁寧に論述する。信仰者としての私たち一人ひとりが、キリストの体であり、すなわち教会として生かされ、遣わされていることに気づかされる。

正己は専任として大学と神学校での教育にたずさわっている間は、なかなか書物をまとめることがなかったが、引退後、長年の神学研究をまとめて幾つかの本を書くことを計画した。その一冊目がこの本。引退してからも、実際には神戸の神学校や京都地区の牧会委嘱などが続き、十分な著作の時間をとることは難しかったようでもある。この本は引退後約10年の時を経て、ようやくまとめられたものだ。

神学校でも、何度も学習会や授業で取り上げられている。神学生には必読書の一つとして推薦したい。

2013-10-02

神学生必読書。アウレン『勝利者キリスト』

神学生の必読書。
グスタフ・アウレンの『勝利者キリスト』。研究の基礎は贖罪論の類型論的研究だ。古典的贖罪論、法廷論的贖罪論、そして主観的贖罪論。キリスト教神学史をたどり、この三つのタイポロジーによって、キリストの十字架による贖罪理解の特徴を捉える研究だ。こうしたタイポロジカルな研究は、ルンド学派の特徴のひとつ。この研究をもとに、中世末の宗教改革者ルターの贖罪理解について、それが通常理解されて来た法廷論的な理解よりも、古典的なものによっていると主張し、大胆に切り込む。

勝利者キリスト―贖罪思想の主要な三類型の歴史的研究

もちろん、単純に古典タイプといっている訳ではない。そこにルターの独自の視点があることを明らかにしたアウレンの貢献が見られるのだ。
こうしたアウレンの見解に対し、同じルター研究の第一人者の一人アルトハウスは異なる見解を提示することになる。ルター理解を進めていくうえで、非常に重要な論争と言っても良いだろう。
 すでに80年以上前の研究だが、この研究の重要性は変わらない。ルター研究という意味でもこの書は勧められるけれども、タイポロジカルな研究が、神学の深みを探る醍醐味を教えるものでもあって、神学生には必読の一冊。

2013-09-27

ルター研 「秋の講演会」 2013

 10月20日、ルーテル学院大学ルター研究所主催で秋の公開講演会が開かれる。
日本福音ルーテル大岡山教会を会場として、午後三時半から開かれる予定だ。
               (場所=http://www.jelc-ohkayama.org/map.html
今年の総合テーマは『宗教改革500周年とわたしたち』。春に行われた研究所主催の牧師のためのルターセミナーと同じテーマで、これから2017年まで、毎年このテーマでセミナーと講演会を連続する。その第一回目ということになる。
 今年の講演者は、徳善義和先生と江藤直純先生のお二人。
徳善先生の講演タイトルは、「日本におけるルター研究の歴史」、
江藤先生の講演タイトルは「ルターの宣教の神学と今日のルター派の宣教理解」。



今年、つい先日、ルーテル学院大学の図書館の未整理資料から、歴史的な書物が発見された。1630年印刷のルター訳新旧約聖書。一般にメリアン聖書と呼ばれるものの本物。美しい挿絵入りで、これを見るだけでも楽しい。どんないきさつでこれが図書館に存在することとなったのかは、未だに謎のままだが、日本ルーテル神学校の図書館だからと、どなたかに寄贈いただいたものなのだろうか。小さな神学校・大学ではあるけれど、ルターに関することなら、日本ではここで一定の研究成果と資料、また見識とチャレンジを得ていくことが出来ると認められるものであってほしい、またそうありたいという祈りが、一つの形をとったものであるように思う。
 連続の講演会、今年から17年までなら5回にわたるが、現代の教会の宣教という課題に応える、あるいは、そこにチャレンジする講演が期待できるだろう。楽しみでもあり、責任も感じるところだ。ぜひ、おいでいただければと思う。




2013-09-23

神学生の必読書① 『キリスト者の自由 訳と注解』

神学生(ルーテル)に向けて、推薦する本を紹介していきたい。
その第一冊目は、徳善義和先生が書いてくださっている、マルティン・ルターの古典的名著である「キリスト者の自由」の翻訳と解説の書だ。

                                                                    

 本書は、はじめ新地書房という出版社から30年ほど前に『全訳と吟味』として出版されたものだ。後に、出版元がなくなって教文館から、もともとの副題であった「愛と自由に生きる」をタイトルにして再度出され、さらに構成を改めて2011年に今の形で出版されたのだったと思う。

 ルターは、当時のアカデミズム世界のラテン語でも神学的著作を続けたが、同時に信仰の事柄を一般の人々とも分かち合うためにドイツ語でも著した。幾つかの著作はその両方で出版されている。1520年に著した「キリスト者の自由」もラテン語、ドイツ語両方で書かれている。内容は基本的に同じものだけれども、言葉の違いは当然に異なるところがあるということだ。ルター本人がもともとどちらの言葉で考え、書き下ろしたのか。これには議論が分かれる。しかし、少なくとも、ルターが母語であるドイツ語で、また一般の人たちにも分かち合うことを考え、書いている場合に、より中心的なメッセージが伝わってくるということもあるだろう。自分たちの言葉で、神様の言葉に取り組む。これはルターの基本的な信仰の姿勢だった。だから、聖書のドイツ語翻訳にも取り組んだ。自分たちの生きている、その生活の只中で、その言葉で神様の言葉を受け取っていく。ここには、神学ということの一番大切なことがあると言ってよいだろう。

 日本でルターの「キリスト者の自由」と言えば、岩波からだされている石原謙氏の翻訳が長く親しまれている。しかし、出版後、佐藤繁彦氏がこれにはかなり多くの批判を展開したらしい。ドイツ語訳といっても、現代ドイツ語からではなく、ルターの時代のドイツ語として読む必要があると言う点とラテン語本文との比較検討、ならびにルター著作全体からその主意を読み取っていくことが必要だということが、佐藤氏の石原氏への批判だった。佐藤繁彦氏はルーテル神学校で長く教えられたルター研究の第一人者だ。これもまた考えさせられることだ。時代の中で、言葉も変わる。その時代のコンテキストを捉えなければ、神学は生きたものとならないのだ。
 
 徳善先生のこの翻訳は、もちろん、16世紀ドイツ語、日本で言えば室町時代の古文ということになるが、そこからの翻訳、またラテン語との比較研究によって、新たな理解も拾い上げられている。
 さらに、その注解の内容は、長い徳善先生の研究と神学校での講義から生まれたと聞いている。教会の宣教という神学の現場や今日の日本というコンテキストにあって、徳善先生が取り組んで来られた成果がこの注解には込められているように思う。

 私が神学生になった年に、最初のものが出版されたので、入学時にいただき、以来の私の座右の書といっても良い。後にFEBCで先生がこの内容を丁寧にお話くださる放送をされた時、お相手役もさせていただいた。(http://lib.febcjp.com/ty101_t/
 神学生には必読の書。4年生までに、この解説をくまなく読通して、理解を深めてから自らの神学的研鑽を確認し、卒論に取り組んでほしい。