2013-07-27

姜尚中氏の『心』を読む

   
久しぶりに「小説」を読んだ。姜尚中氏の『心』。小説ではあるけれども、姜氏自身が一人の若い青年と出逢い、交流をするのだが、その青年を主人公としたストーリーである。姜氏とのメールのやり取りを軸として、この青年をめぐる出来事が描かれる。登場人物にはきっとモデルがあるのだろうが、全くのフィクション。ちょうど、「3・11」を挟んでのやり取りとなっていて、リアルタイムな話題はこの小説が何を訴えたいかということをよく表している。
 夏目漱石の『こころ』と同名のタイトルで、読み始めるとその手法においてもよく似ていることに気づかされる。漱石の『こころ』も「私」という一人の青年が「先生」と出会い、と「手紙」による交流によって小説を構成されている。最後の章は特に有名で「先生」自身の若い書生時代の人間関係が描かれ、漱石のエゴイズムの探求を示す一遍だ。
 姜氏の『心』では、漱石とは異なり、青年をめぐる人間模様に焦点が当たり、「先生」である姜氏のそれに戻ってくることはない。この青年が親友(「心友」)の突然の病死や東日本大震災での多く人々の「死」と向かい合うことで、「生」を深く捉えていく青年の「こころ」の成長を描く作品だ。
        

この作品のメッセージは「生きろ」ということだろう。
自然と人間、あるいはさらに人間の中の自然と自然をコントロールしようとする人間の知恵、それぞれの要素が深く絡み合っての相克を抱きかかえている現実。自分の自然な感情や思いに忠実であることに身を任せることも、またあれこれと心を配り、幸せを思い描いて妥協や打算も働く人間のこころの働きも、そのどちらかに偏った判断を下すことを避け、その複雑な人間の現実を抱きしめる。
死や生に向かい合う誠実さを持たねばならないが、その誠実さをも相対化して、したたかにしなやかに自分のありのままを、まず愛おしみ、全てを引き受けて生きろと…。

青年は、「死」のちからとの格闘を続け、姜氏とのやり取りを支えにしながら、人間の生きることの深みを捕まえていく。死と隣り合わせにあることへの恐れをはっきりと自覚したが故に、生きることのすばらしさと喜びのあることへと向かっていく力を身につけていく。

姜氏は、今の青年のこころに、どうしても伝えたいメッセージをこの小説に込めている。それは、今はかなわぬ、姜氏自身の「息子」への思いだろう。いや、その息子から受け取ったいのちへのメッセージだったに違いない。

小説として、必ずしも高い仕上がりとは言えないのかも知れないが、この小説のなかにはたくさん学びの「要素」もあるのだ。
大学生に是非読んでほしい。



2013-07-02

『対決から交わりへ』…宗教改革500年をカトリックと合同で

LWFとカトリック教会の国際対話委員会は、義認の教理に関する共同宣言の後、この宗教改革500年をともに「記念(commemorate)」するために準備を重ねてきているが、その特別な行事をともに守るための基本的な合意と方針が一つの文書にまとめられた。

それが From Conflict To Communion 『対決から交わりへ』の文書だ。この訳語が良いかどうかも確認していくひつようがあるが、とりあえず、このように訳しておこう。
少なくとも「communion」という時には、教会の中で単に「交わり」ということが意味される以上に信仰的な一致と共同を成り立たせる関係が意識されてきたし、それはあの信仰者のキリストにおける交わりであり、救いをともにいただく「聖餐の交わり」と結びついて理解されてきた言葉だ。もちろん、未だ両教会のあいだに聖餐の交わりは実現していないし、500年の記念という年を迎えてもなかなか難しいだろう。けれども、それに向かっているのだという意識を強く表した文書のタイトルといえよう。それだけに、この文書の持つ意味は大きい。

既に二年ほど前にこの100ページあまりの文書は委員会において決定されていたようだが、ようやくこの6月17日に正式にカトリック教会とLWFの両教会から公表され、同時に出版、そして、ウェブ上でもPDFファイルで公開された。もちろん、無料でダウンロードできる。下は、LWFによるダウンロードのためのURLだ。

http://www.lutheranworld.org/content/conflict-communion-0

公表が遅れた理由が何によるのかは分からない。しかし、いずれにしてもそれだけ、この文書の持つ「意味」が大きいということを示唆するものではないだろうか。

この文書、日本のカトリック教会と日本福音ルーテル教会のエキュメズム委員会が中心になって、いずれ翻訳されることになろう。ただ、こうした話題を委員会の翻訳作業を待っていては、両教会でこのニュースを受け取り、本当にこの2017年を特別な年として記念する事の準備をするのに遅れをとる。是非、原文ででもみていただける事をお勧めしたい。

基本的には、これまで、特に第二ヴァチカン公会議(1962−65)以降、カトリック教会は諸教会との対話を重ねてきたが、その成果は様々な形となってルーテル教会とのあいだにも大きな新しい関係を結ぶことになってきたわけだが、その一連の流れを確認しつつ、今の時代にともにこの年を憶えるということの意義を確認した文書である。

1999年の10月31日に「義認の教理に関する共同宣言」がカトリックとLWFとで共同調印されて世界に公にされ、大きな共同礼拝を持ったことは記憶にも新しい。たどれば、1980年にはアウグスブルク信仰告白450年、1983年にはルター生誕500年を期に両教会はルターの信仰とまたその神学的関心について、イエス・キリストを証するものとして認め、またカトリック、プロテスタントの遺憾に拘らず、この人物もまたそのメッセージも無視することは出来ないことを確認してきた。

いま、この2017年をともに「記念する」ということは、現代という脈絡の中でルターの宗教改革の出来事を捉え直し、またその意味を深く学ぶことで、あの宗教改革という歴史的な出来事が、現代おけるキリスト教会全体に意味があることを受け止めていこうとするものであることが確認されている。

特に、「2017年の500年記念」ということは三つの脈絡の中で特別な意義があるものとされている。(以下は、原文の翻訳ではなく、私が読みながら考えている所なので、そのようにご理解いただきたい)

1. 現代のエキュメニカルな時代のおける最初の周年記念であるということ。
もちろん、ここでいう「周年記念」百年を単位にしての事であるけれども、1917年との明らかな違いということに着目してしている。繰り返すが、第二ヴァチカン以降、ルーテルとカトリックだけではなく諸教会の対話が進み、具体的な成果もあげてきた。リマのようなマルチラテラルな成果もそうだが、バイラテラルな一対一の教会間でも成果を重ねてきている。そうした流れの中で、この500年という年があるということだ。

2. 次に、グローバルな時代における最初の周年記念であるということ。
これは、やはり20世紀の後半から21世紀になって、グローバル化が進み、地球規模で一つの世界として情報化もすすみ、また経済や政治的にも、また環境的な課題においても東西。南北が一つとなってものを考える時代になっているということであろう。いろいろな宗教世界の存在や対立についても心いためるところが大きいし、また宗教的多元主義も、こうしたグローバルな時代だからこそ生まれてきたものでもある。キリスト教というものが相対化されるのがこの時代の現実でもある。この時代に宗教という視点において、キリスト教会の歴史的な「宗教改革」という問題を捉え、そして、この500年を「共に」するということの意義が確認されているのだろう。

3. そして、あたらしい宗教的運動がおこってきていることと、同時に世俗化の進展ということの両方を体験していること。
現代の複雑さを思わされるが、一方では科学的なものの見方と物質的文明の徹底した世界において、人間の様々な分野での宗教的な役割ということは世俗的な事柄の中で取り扱われるようになってきたし、そうしてより効率的で合理的な世界を求めてきたのかも知れない。しかし、そうした世界の中に改めて宗教的なものの重要性やスピリチュアルな世界への関心も高まり、そうした取り組みが新たな形をとってあらわれていているということでもあろう。キリスト教会のなかでいえば、ペンテコスタルな運動やカリスマテティックなものが世界的に大きな運動になってきていることもあげられる。そういう時代のなかでのキリスト教会の大きなメッセージを示す機会となっているということがかんがえられているのだろう。

歴史的な意義を、教会の脈絡というよりも、より大きな現代の脈絡の中で捉えるからこそ、カトリックとルーテルが「共に」この時を記念するということの特別さを知ることが出来るのだ。

これからも、この文書一つひとつ読みすすめながら、関心のあるテーマを、それぞれにお分ちしたいと思う。

http://luther2017.blogspot.jp/2013/06/500.html