2019-07-10

死者の声を聴く〜ドラマ『監察医 朝顔』の初回を見て

 少し遅くなった食事を食べながら、つけたテレビのドラマは、久しぶりに心を惹きつけた。主役は上野樹里の演ずる監察医、万木朝顔。彼女の演技は、かつて映画『スウィングガールズ』やテレビドラマ『ラストフレンズ』を見たこともあり、それだけでもこのドラマは面白そうと思ったが、その本当の力に引き込まれたのは、初回の後半だった。

 ストーリーの展開は、いわゆる刑事物の類で、不審な死亡事件の謎が検死によって見出される諸々の痕跡によって解明され、解決されていく展開で、もちろんその亡くなった人物をめぐる人間ドラマによって現代を生きる人々、つまり私たちの日常に隠れた様々な問題が浮き彫りにされてくるというものだ。
 上野演ずるところの朝顔は、遺体に語りかけ、その体に触れメスを入れることに許しを求めながら、教えて欲しい、聞かせて欲しいと願ってから検死を行う。そんな様子に、死者に対する深い敬意、人間とは何かということについてのドラマの姿勢も見えてくる。すでに亡くなって、言葉を奪われたままのその「人」は、もう実在しない。そこにあるのは「遺体」でしかないのだ。しかし、その死者の遺した体は語り出す。その声に聴き続けることでしか、真実にたどり着くことができない。『遺留捜査』とか『アンナチュラル』とも似た設定で、ドラマとしての構成は王道。時任三郎演ずる刑事万木平はその父親でもあり、その親子のやりとりも面白い。


 もちろん、それだけでも、ドラマの面白さは十分に味わえる。ま、ありきたりと言われれば、そうかもしれない。けれど、私がこのドラマに引き込まれたのは、その1時間枠を超える頃、初回延長時間に入ったところだった。このドラマの軸を受け持つ親娘、平と朝顔の背景が描かれる場面。
 事件解決となって、久しぶりに朝顔は父、平とともに母の実家の祖父を訪ねる。その道すがら、この二人の親子の背負う背景が見えてくる。それは、この朝顔の母、そして平刑事の妻はあの3・11の被災で行方不明となったままということだ。あの日あの時、たまたま母とともに母の実家に帰省した朝顔は、その道の途中で震災に遭遇。知り合いのおばあさんを案じた母がその様子を見にいき、朝顔を実家の祖父の元へと向かわせる。仲睦まじく、また思いやりのある母娘の、このやりとりが二人の最後の会話となった。津波以後見いだすことのできない母を探し求めて、最後は遺体安置所にも足を運ぶ。しかし、おそらく何も見出せないままなのだ。
 その後、朝顔は長く祖父の元を訪ねていない。いや、それができないままであるということが、ここで明らかになるわけだが、まさにその事実がこのドラマに深みを与えている。父と二人での旅に硬い表情の中、回想されるその日の様子にドラマを見ているものが事情を察する。しかし、いよいよ祖父の待つ地の駅に降り立つと、朝顔の様子はさらに硬くなる。動けない。動悸がはげしくなって、もう体を前に進めることはできないのだ。PTSDの症状ということだろう。結局、彼女は約束した祖父の元には行かれず、この駅から一人今来た道を引き返すことになった。
 父は、その娘が電車に乗り込むのを見送りながらいう。「一人で大丈夫か。ごめん、ダメなのは父さんの方なんだ。お母さんを探していないと…」具合の悪い娘を一人で帰らせても、この地に残る平には、どうしてもしなければ気のすまないことがある。続く場面では、刑事として持てる捜査技術で、海岸べりを徹底して妻の遺留品を探している平の姿が大写しになる。大事な妻を失った、その時、そばにいることができなかった、後悔とともに、平は妻の「何か」を見出そうと、必死に砂を洗い続ける。彼は、娘朝顔とは違い、八年間、繰り返しこの地を訪ねてそうして過ごしてきたのだ。
 この二人を描く描き方が特にも観る者の心を惹きつけたのだが、とりわけ上野演ずる朝顔の中のある「真実」が色々なことを汲み取らせる。(「惹きつけ」られたのは確かなのだけれど、実は、相当に動揺した。見ていてすぐに「これ放送して大丈夫?」という問いに囚われたと言ったほうがいい。描かなければ、伝わらない真実がある。でも、このドラマがいう通りに、まさに傷ついたままにある人々があるのだ。それをいきなりこうして突きつけられるのは、大丈夫?という感覚。八年たったから?でも八年たっても、というのがこのドラマなのだから。ちょっと、何か字幕ででも、注意喚起があってよかったのではないか。)
 震災の後、復興は進んでいるか。それすら、考えさせられるのだが、復興はその土地に生きた人々に何をもたらそうとしているのか。深く傷ついた人々、大切な家族を失った人々の心には、痛みがあり、過ぎ去らないままの「出来事」がある。過去なのに、もう戻ってくることのない過ぎ去ったはずのことなのに。過ぎ去ることのない痛み、苦しみ、そのどうにもならなさ。それは、その人にどのような時を生きさせるものとなっているのだろう。復興は、そのひとの新しい時間を作り出すものなのだろうか。埋め立てられ、変わっていくその土地の姿の中に、探し求めるものが、もう探せないものとなってしまうだけなのではないのか。いや、それでも作り出そうとする復興の姿は一体何を必要としているのだろう。

 朝顔は、いまだに解かれることのないこの「出来事」のゆえに監察医として生きる今を生きているのだろう。これがきっと、これからこのドラマの展開の中に、より鮮明に見られるものとなるのだろう。
 死者は、確かに「死者」であるに違いないだろう。でも、その「死者」とどう向き合っているのか。そう生きているのか。八年を超える年月を数えても、この喪失に答えを探し続ける人たちのあることを忘れてはならない。

 そして、それは、きっとあの大きな災害の中にだけ起こっているのではない。日常の中に埋もれ、流されていく私たちの確かな関係の、あの人もこの人もやがて時がきて、失われていく。その死者たちと私たちはどのように生きているのか。

 死者の声を聴く。このテーマがこのドラマにどんな深みを見せるものとなるのか。しかし、ドラマ以上に私たち自身が、何を汲み取っていくのか、試されているようにも思ったのだ。


2019-06-01

「キリスト教の信仰(神との関係を生きること)と交流分析」


日本交流分析学会で、特別講演。自分の専門ではない学会で、冷や汗をかきながら、お話しさせていただいた。




⒈  信仰を生きるということ

キリスト教の信仰は、何かの信念を持つことや教義を理解し信じ込むことではなくて、生きる神と具体的対話、交流を生きることであると言って良い。その意味で、信仰者一人ひとりは、神からの語りかけに応答して自らの人生を生きるものであり、この神との関係の中に自己自身と世界を受容し、過去から未来に向かう自分自身の歩みを進めていくことになる。
この神関係において、赦しと慰め、癒しを与えられることを「救い」と呼ぶ。つまり、救いは単に天国における死後の平安を意味するのではなく、具体的に生きられる人生へ希望と勇気をもたらす。そして、神の御心としての正義や公平、平和などの価値を求め、自分のためばかりではなく、むしろ他者のために生きることを喜びとする人生を選び、その決断を為さしめていく根源的な力を神から受け取る。




⒉ 交流分析の手法から

この「救い」を生きる状態は、交流分析の基本的構え「I am OK. You are OK.」の状態を生きるということと重なるだろう。交流分析は、具体的な人間関係のあり方(ストロークのやりとり)の中で、こうした「構え」(position)を得ることを見る。その意味で言えば、神との交流もまた、交流分析的に見ることもできるだろう。
神の人間への語りかけには、二種類のことばがある。一つは律法のことばで、人間のなすべきことを命令することばである。もう一つは福音のことばで、これは、私たちに対する絶対的肯定のストロークである。神の本来的な語りかけは福音のことばであって、非本来的な律法のことばに勝り、信仰者一人ひとりを生かす究極的な語りかけとされる。

⒊ 具体的な交流とそれを超える神との交流

この神との交流は、礼拝や牧会などの信仰的な「場」を基礎としながら、具体的には他者を通して与えられるが、その他者である具体的な人間とのやりとりを超える超越的なものとして受け取られるものである。それゆえに、逆に言えば、交流分析において捉えられる具体的な人間関係の姿とその意味を、信仰の世界は一旦超越的な神との関係の中におくことで、新しい姿と意味へと転換するものともなりうるということかもしれない。
 
 ⒋ 神のことば(語りかけ)によって、支えられる人生脚本

 信仰は、イエス・キリストご自身を究極的な神からの語りかけ(ストローク)として受け取ることであり、信仰者は、自らの人生の物語に、この神の語りかけにより絶えず新しい人生脚本を描きこんでいくことと言えるのではないか。

2019-05-07

絵本「わたしたちだけのときは」

カナダの先住民族に対する同化政策のもと、クリー語を話した人々がことばも装いも自分たちが自分たちである当たり前のことが奪われた。その中で子どもたちがどのようにして自らのアイデンティティ、誇りや尊厳を守ってきたのか。この小さな絵本は、歴史の中に隠されながらも自らが自らであることを生きる権利が奪われていく辛さと、その中で生きることの本当の喜びを守るべきことを教えている。

         デイヴィッド・アレキサンダー・ロバートソン(), ジュリー・フレット(イラスト)

世界のいたるところ、そしておそらく歴史上いつも繰り返されてきたことかもしれない。支配被支配の構造の中で苦しみを余儀なくされてきた人々がある。
性別、生まれ、肌の色、部族・民族、言葉・文化・宗教の違い。障害や病気、貧富の差、教育の違い。そうしたものが、差別と抑圧の原因となり、生きることの喜びと尊厳を奪われることが起こるのだ。
力がないから仕方がない、と、そういってしまえば、人間が本当に人間として「共に生きる」価値を失う。数の論理で多数を占めるものが世界のあり方を決めるのは、決して平等でもないし、民主主義でもない。難しいことかもしれない。けれども、諦めずに求めていくべきことがある。守るべきものがある。



2019-04-05

石居正己の説教 「湖上を行かれる主」マルコ6:45〜52

 私の父、石居正己は日本福音ルーテル武蔵野教会の牧会時代(1959−1969)から、年末にその1年間の説教からいくつかを選んで説教集としてまとめ、ガリ版刷りで作ったものを関係の方、お世話になった方や教え子たちに送ることで、年始の挨拶に代えていた。
 三鷹で神学大学、神学校で教鞭をとっていた時代はわからない。しかし、蒲田教会にいた時(「六郷通信」?)、引退して宇治に行ったのち(「尖山報」)も、似たようなことをして多くの方に説教集を送りつけていたのだと思う。
 送られた方は、閉口したかもしれないが、しかし、本人の思っていた以上に、多くの方々に喜んでいただいてきたことも事実だと思う。父の死後も、随分そのことに触れて、息子である私が感謝の言葉を受け取ってきた。
 片付けをしていたら、父の亡くなる2010年の年始に作って送ってくれたものが出てきた。改めて読んでみたが、埋もれさせておくのは惜しいと思い、jpegにとってみたので、一部を紹介しておきたいとここに記録した。
 あぁ 、これが父の説教であり、また神学であったと、改めてその取り組みに学ばされるのだ。どこに出かけても、父に似ていると言われる自分だが、やはり聖書への深い取り組みは追いつけないままかと思うことしきり。






2019-03-01

2019年度 ルーテルの「パイプオルガン講座」

今年も、またオルガンの講座を開きます。

教会のオルガニストとして学びたい方、パイプオルガンに関心のある方。広く、この講座で学んでいただけるようにしています。
本学チャペルオルガニストお二人が講師となってくださいます。
    湯口依子講師 (火曜・木曜 講座担当)(本学講師・チャペルオルガニスト) 
       東京芸術大学オルガン科卒、同大学院修了。
       ドイツ・ウエストファーレン州立 音楽学校卒。青山学院女子短大講師、
       桜美林中学高校オルガニスト。

    深井李々子講師 (水曜 講座 担当)(本学講師・チャペルオルガニスト) 
       国立音楽大学オルガン科卒、フランス・ニース音楽院卒。
        東洋英和女学院大学生涯学習センター講師、キリスト教音楽院講師。

オルガンの講座と同時に、大学や神学校の公開講座で学んでいただくことで、教会の礼拝、聖書、信仰についての学びをしていただけると、きっと豊かな学びをデザインすることができるでしょう。





下記のURLから募集要項も、申し込み書もダウンロードすることができます。
http://www.luther.ac.jp/news/20190130-01.html


人が人を裁くこと〜〜映画「教誨師」を観て

大杉漣さんの最後の出演作品となったこともあって、どうしても観たい映画の一つだった。


 すでに刑が確定して収監されている死刑囚のうち、希望する者が、その「心情の安定に資する」という目的で面会を許されている宗教者と会うことができる。この宗教者が教誨師と言われるのだ。
 この映画は教誨師である一人の牧師佐伯保が、6名の死刑囚との面会をしていく、その様子をただ淡々と描いている。実は、ただそれだけの映画で、特にその死刑囚が犯した特定の犯罪の真相に迫るとか、死刑確定の背後に冤罪が隠されていることを告発するとか、そういう類のストーリーは全く描かれない。それぞれにおそらく殺人を犯した罪に問われて、死刑という判決を受けたであろう人たち。その収監されている彼らが彼ら自身の思い、思惑を抱いて教誨師と会う。その姿を描いているに過ぎない。




 教誨師は、彼らに犯した罪を悔い改めるように勧める。そういう務めを負っている。もちろん、刑務所としてそういうことを必ずしも期待されているわけでは無い。それでも宗教者としての務めとして、教誨師自身が受け取っているのだろう。実際、この映画の中でも佐伯牧師がそういうことを受刑者に促すような場面もある。そして、洗礼を受ける受刑者もある。しかし、この映画は、決してその宗教的改心のようなものが起こるということを描くことが目的でも無い。

 では、いったい、何を描いているのか。

 そこに描かれるのは、ごくごく普通の人たちなのだ。異常さと正常。受刑者と一般。それを区別する一線はどこにあるのか。少しだけどこかに思い込みや信念みたいなものがあったり、何となく弱さを含んだ人のよさ、優しさみたいなものがあったり、調子のいい言葉で自分の思いを吐き出したり、なんとか死刑執行を先送りできないかと画策してみたり。そういう一人ひとりのありのままの姿を描いている。現象としてそれを描くだけだから、その本人の心情は、推察するしかない。何を考えているのかは、私たち見ているものには決してわからない。ただ、淡々とそこに起こる人間を見る。そして思い巡らす。

 確かに、幾分変わっている人であり、また、傷つきやすい人だったり、悪賢く何かを画策しているようでもあり。しかし、思えば、それはどこにでもいる人間の姿なのだ。そのどこにでもいる人が、きっと、あるときに人の命を奪うという、そんなどうにもならなさの中に生きることになったのだ。
 そういう人間を、ただこの収監された閉じ込められた世界の中に描く。



 ただそれだけで、人間が人間をさばき、命を奪うというこの事態に問いを投げかけているように思う。
 罪を裁く。しかし、現実にはその罪を犯した人が、死刑を受ける。そんなことができるのか。この一人が死刑に処せられることと、私がここにいきていること。その間には、いったいどんな違いがあるのだろうか。

 牧師佐伯は、結局、この仕事の中で、自分自身と向き合うことになる。自分は何者なのかという問いを抱く。実は、この映画で一箇所だけ回想シーンが描かれている。それは佐伯教誨師のものだ。そこには、まだ少年時代といっていいほどの頃、ちょっとした経緯(いきさつ)があり、兄が自分を守るために人を殺める場面が描かれる。人が人を殺めるということは、許されないけれども、そういうことが人間の日常の中で起こる。兄を思うこと、自分の中に渦巻く後悔。あるいは、自分の中に潜んでいたはっきりとした殺意。兄の行為は、自分のしたことだったかもしれなかった。 
 自分もまた、人殺しに過ぎず、刑を受けるものであったかもしれない。人間とはそんなものなのだ。私とはそのようなものに過ぎないのではないのか。

 そんな私たちが 人をさばき、死刑に定める。その不遜な私たちの姿が透けて見えるのだ。どこで、あなたはその馬鹿げたありようをそのままにして、そこを立ち去り、自分だけ逃げ出してしまったのか。

 私たちは、立ち戻るべきところがあるのではないか。
 映画は、淡々と そう問いかけている。
 
 


2019-02-15

詩編と祈り 〜音楽のスピリチュアリティーとともに〜

「リラ・プレカリア(祈りの竪琴)」という奉仕活動があります。病床にある方、死に直面している方、また心身の癒しを必要とする方に、ハープと歌を通して祈りを届け、魂の癒しをもたらす働きです。日本で、キャロル・サック氏(米福音ルーテル教会宣教師)によってその活動が始められ、奉仕者養成の講座が12年間続けられて38名の奉仕者が育ち、全国の様々な場所でこの奉仕を続けています。



 この「祈りの竪琴」については、以下のHPに詳しく紹介されています。
       http://www.jela.or.jp/lyraprecaria/index.html

 リラ・プレカリアの奉仕者養成で、最も大切なことは、ハープや歌の技術レッスンではありません。この奉仕者自身が、目の前の一人の人の魂の深い苦しみや嘆きに寄り添い、祈る霊性を養うことです。宗教が何であれ、思い病にあることや死を目の間にする人間の心の奥底にある求め、魂の深みに気づくことがなければ、誰の魂の深みにも祈り持って寄り添うことはできません。

 奉仕者養成は、一つの節目を迎えました。けれども、その養成プログラムには様々な学びがあり、何かを継続することができないか。そんな願いがあちらこちらから届けられました。そこで、そのプログラムの中の一つを公開講座として多くの人々にこの霊性(スピリチュアリティ)を深めていただきたいと、そう願って一つの公開講座を作ることになりました。
 デール・パストラル・センターの「詩編と祈り〜音楽のスピリチュアリティーとともに」です。
 この講座については、以下のHPをご覧ください。
      http://www.luther.ac.jp/news/20190205-02.html

 この講座はキリスト教の長い歴史の中に用いられてきた詩編や礼拝の時の祈りの歌などを通して、人間が「神」と呼び、その信仰を形作ってきたキリスト教の世界に深く学びます。そのことを通して、私たち人間一人ひとりが持つ魂の深い息遣いを知っていくことでしょう。もちろん、学びをする方がどのような信仰をお持ちであっても、この講座を取っていただけますが、そうした内容であることはご理解いただき、学んでいただければと思います。ただ、いずれの信仰をお持ちでも、そうでなくても、私たちが宗教とか信仰といってきたものについての新しい気づきと自身の霊性に大きな養いが与えられることと思います。
 講座は、1期4回。全部で4期まであります。通しで取っていただくことも、バラバラでも構いません。ただ、一つの期はまとまったプログラムですので、そうご理解いただければと思います。
 定員があります。定員を超えてお申し込みがあった場合にはお断りすることがありますので、どうぞそのことも合わせてご理解くださいますように。

すでに、第1期については、定員を超えてお申し込みをいただきました。本当にありがとうございます。第II期につきましては、全く新たにお申し込みいただくことになります。





2019-02-13

神学校の夕べ 2018年度

今年も、4名の神学生を宣教の第一線に送り出すため、神学校の夕べが行われる。
     日時:2019年2月24日 午後4時から 
      於:日本福音ルーテル教会宣教百年記念会堂(東京教会)
       礼拝-燃える心-


今年の卒業生は、中島共生(JELC市川教会出身)、中川祐子(NRK北見教会出身)、小澤周平(JELCなごや希望教会出身)、そして筑田仁(JELC函館教会出身)の4名。規定の課程を全て終えて神学校を後にする。
 それぞれ、献身に至るまで様々な歩みを重ねつつ、神様の招きの声を聞くことになって神学校の門を叩いた。人生経験の豊かさを思う。それだけに教会での働きには自分の賜物を生かして、主に仕えることだろう。人生の深みでみ言葉に生きる力を分かち合ってくれることと信じている。
 ぜひ、この卒業生がどんな風にみ言葉を取り次ぐものと育ってきたのか、証人となっていただき、励ましをもらいたい。
 お集りいただければと願っている。

 それぞれの赴任地は、この神学校の夕べでお伝えした通り、
中川祐子氏はNRK新潟地区の招聘を受けて新発田教会へ赴任。
中島共生氏はJELC下関教会、厚狭教会、宇部教会。
小澤周平氏はJELC名古屋めぐみ教会。
筑田仁氏はJELC甲府教会、諏訪教会。

彼女・彼らのこれからの働きに祝福を祈っていただければ幸い。

2019-02-11

映画「ナディアの誓い」を観て

久しぶりに、本当に久しぶりに劇場で映画をみた。
心を捉える、ドキュメンタリーだった。
「ナディアの誓い」


 哀しみの果てを生きる そんな言葉が体を締め付けてくるような映画だった
ノーベル平和賞の受賞で、この女性ナディアの名前、ISによる虐殺と破壊、そして女性に対する性支配からのサバイバーでその現実を訴えてきた女性であることは知っていた?かもしれないが、やはり恥ずかしいことに何も知らなかったのだ。何もわからないままだったのだ。そして、そういうことなんだということが、ただただ、悲しいとその哀しみを深めていったのが、この映画を観た後に残っている私の思いだ。

 


 ナディアの哀しみの深みが、心を捉えている。それがこの映画の力だと言って良いだろうか。そして、こうした哀しみを生み出してきた私たち人間の恐ろしさ。
 2014年8月3日。イラク北部の小さな村に生きていたヤジディ教を信じていた少数民族が、ISISによって襲われた。暴力の支配。戦争とかテロといえば、何か政治的な大きな力を思うが、いじめも、ハラスメントも虐待も、DVも、みんな根っこは同じなのだ。私たち自身の中にそうした黒い力が渦巻いている。人のいのちも尊厳も奪い取って生きていく。そんな人間の残酷さに震撼としながら、このような哀しみの普遍性に気づかされる。そして、また、その哀しみを繰り返してはならないと、私たちは思うのだ。
 そう思う中で、改めてそうした思いが現実の世界を変えることの遥かなる遠さに押しつぶされそうになる。それでもなお立ち続けることの尊さ。ナディアがあの日まで将来美容師になる夢を描いて生きていた本来のナディアであることを取り戻すために、今、その証言者として生き続けるナディアとして生かされていく現実がある。そして、その本来の「ナディア」と呼ばれるものは決して戻らないという現実。その二重の現実を、それでも、希望を掲げて生き抜くのは、彼女がもはや、彼女自身ではなく、あのとき、生活を奪われ、家族を奪われ、尊厳を奪われ、自由を奪われ、命を奪われた大勢の声なきものたちの「声」として生きることになったからに他ならない。その「声」として生きることが、彼女の肩に乗っているのだ。「私は誰なのだろう」彼女はきっとこの現実を生きながら、「ナディア」である自分を新しい問いの中に受け止めていかなければならない。彼女は彼女でなくなるようにしながら、彼女自身を生きざるをない。何重にも悲しみを重ねて生きるのだ。
 だから、深い深い悲しみが、希望であるというアイロニーがここにある。

  

 ナディアは 彼女の深い心の傷を癒すためのカウンセリングを断っている。それは、同胞が皆同じ苦しみにあったのに、自分だけがカウンセリングを受けて楽になることはできないということだった。自分があの苦しみの只中で共にある同胞から離れることできなかったのだ。それが彼女の本心だろう。
 彼女は、もともと活動家であることは望んでいない。彼女はすでに失われてしまったのだが、あの地で生きた家族とともにあること、そこに生きた自分を抱きかかえていたのだ。その自分を取り戻したい。あの場所を取り戻したい。母に、高校の卒業証書を見て欲しかった、その思いを抱えていた。それだけだ。彼女はただ、自分が経験したことを話さないではいられなかったのだ。その証言が、ただそれだけが自分たちの家族の証なのだ。自分たちがあの地で生きた証なのだから。
しかし、そういう自分であろうすればするほど、彼女が生きることになるのは、活動家である自分なのだ。彼女が証言するのは、彼女の声によって、現実の中に正義をもたらして欲しいというただその思いなのだが、その思いはもはやその声を生きることによってのみ形を持ち、現実となると、示されるのだ。
 難民となってドイツに逃れていたが、そこで難民として生きることの苦しみは、なんと不条理なものだろう。なぜ、取り戻せない。
その不条理への悲痛な叫びを、声として世界に届けたい。救いを求めていたのだ。

 ところが、その願いは簡単にはもちろん叶えられないのだ。時間がかかる。このフィルムは具体的に、一つの歩みを記録する。ナディアが、国連総会の開会のスピーチをするということだ。それは世界の注目を集める。そうすれば、世界は、あのヤジディの世界に正義をもたらさねばと必ず連帯してくれるだろう。そうなれば、世界を変えることになる。
 そうかもしれない。しかし、その道ははるかに長い。
しかも、その自分の願いは、他の多くの願いの中の一つに過ぎないという現実が切実な彼女の思いを引き裂いていく。相対化されていく。たった一つの彼女の願いは、多くの中の一つなのだ。しかし、それでも、そのたった一つであることをわかってもらえるように働きかけていかなければ、「声」であることの意味がなくなるのだ。
 自分は、ここで、自分をしっかりと認めてもらわなければならない。そのためには世界中でこのことを伝える。しかし、メディアで求められるのは、美しい女性が悲惨な性奴隷とされたというそのセンセーショナルな出来事であって、どうしたら、そういう現実を変えられるのか、ということではないということにも気がつかされていく。
 そして、その事実を語ることは、なんと彼女にとっては屈辱の経験をフラッシュバックさせるものなのだ。そうして、あの屈辱はいつまでも彼女の中に繰り返される屈辱なのだ。尊厳を取り戻すための、声であり続けようとすることで、彼女は屈辱の中に立たねばならないという矛盾。

 結局、多くの人に共感を得ることができても、そのときに彼女の心に残るのは、やはり誰にもわかってはもらえないのだという深い悲しみでしかないのではなかったか。あのインタビュワーは、あのセレブリティは、どんなにしても第三者でしかないし、私の哀しみの外に居続ける。それだから、また支援しようという。支援できるのは、この哀しみの外にいるものだからなのだ。もちろん、その優しさに偽りはないだろう。そして、その連帯に、共感に感謝する。そうなのだ。そうでありながら、そこにある深い断裂を、彼女は知って行かざるを得ない。
 彼女が安心できるのは、彼女の同胞の哀しみに出会うときだ。
 一人の少年の叫ぶ歌声だ。その涙を流せる時だけが、彼女の本当の居場所なのだ。



 けれど、彼女は、それでも、その同胞たちの声とならねばならない。それは、同胞たちには、自分たちの境遇を救う、たった一つの希望なのだから。
 彼女は、その思いを受け止めている。受け止めざるを得ない。
 彼女に求められているものは、一体どれほど過酷な歩みなのだろうか。そこに起こっていることは、彼女を繰り返し、屈辱の中に突き落とすことでもある。それが、実りをもたらすことを信じていくしかない。
 しかし、その歩みが確かになれば、なるほど、その歩みが決して思っているような、望んでいるような世界の変革にはすぐには届かないという現実だけが残されることにもなる。すでにふるさとは荒れ果てた地となり、人々の命は帰らないのだ。
 この故郷にすぐには人は住むことができない。変えることはできない。

 故郷に帰ることができない彼らは、難民となって、どうやって生き得るのか。そのどれだけの人たちを世界は受け入れるのだろうか。
 果てしない、苦しみがより深く現実となって見えてくる。



 それでも。それでも、諦めてはならないのだ。彼女は、やはりそれでも「声」であり続ける。果てしなく、遠いことであっても、この道を歩んで、正義を求める。
その悲哀を生き抜く力を、彼女はどこから得るのだろう。

 逆に言えば、私たちは、彼女のその力も、また苦しみをも本当にはわかることはない。しかし、それでも、この映画にも力があり、私たちがそこから得るものに希望を紡ぐとすれば、私たちは、私たち自身の自らの深い悲しみを通して、痛みを通してのみ、彼女たちとともに生き得ることを見いだせるかどうかではないか。

 彼女が悲哀の中、断絶の中でも、それでもつかんでいる仲間の手があるのだ。それは、そういう哀しみの只中の連帯だろう。そのわずかな、苦しみの中の希望が、彼女を生かす力なのだと・・・そう思う。

 悲しみを生きる意味とその力を人間であるということの哀しみの只中に探している。まだ、探しているのだ。その答えを見出せたのか。私はそれを掴んでいるのか。そう問いかけながら、この映画を繰り返し、心に映している。

2019-02-07

2019年度 牧会研究会 「現代日本における牧会と牧会者」

 日本ルーテル神学校の付属研究機関デール・パストラル・センターでは、現場の牧師たちの牧会を支えようと牧会研究会を開催し、多くの教派の牧師先生と共に学び合う時をもって参りました。


 4年目を迎えます今年度は、「現代日本における渤海と牧会者」をテーマとして、デール・パストラル・センターの所員5名が、二コマずつを担当して以下のようなテーマで学びを深めていくことになりました。
それぞれの講師のもと、講義ばかりではなく、グループディスカッションやワークショップなどを取り入れて、学びを深めて参ります
※講師の予定が変わる可能性がありますが、予めご了承ください。

412日 「現代社会の孤独を考える ~ロンリネスからソリチュードへ」(堀 肇)
510日 「信徒の賜物を用いる ~教会の業としての牧会」(関野和寛)
614日 「ジェンダーについて ~多様性の時代に」(ジェイムス・サック)
712日 「役員会とスーパービジョン ~寄り添う力を作る」(関野和寛)
0913日 「現代日本文化のスピリチュアリティーと牧会 ~占い・迷信・前世」(石居基夫)
1011日 「グリーフ・ワーク ~愛する者を失ったとき」(ジェイムス・サック)
1108日 「牧師自身の霊的養い ~聖なる読書のすすめ」(斎藤 衛)
0110日 「一人となることの霊性 ~孤独・沈黙・出会い」(斎藤 衛)
214日 「ネット時代の牧会 ~Eメール、SNSメッセージなど」(石居基夫)
313日 「寄り添いについて考える ~援助から共にいることへ」(堀 肇)

【日 時】毎月第2金曜日午後130分〜330分(8月および12月は休会)
【場 所】日本福音ルーテル東京教会 1階集会室
      東京都新宿区大久保11414
【受講料】20,000円 (一年間 全10回分)
【定 員】1520
【講 師】
  堀  肇 (鶴瀬恵みキリスト教会牧師、ルーテル学院大学非常勤講師、キリスト教カウンセリングセンター講師、デール・パストラル・センター所員)
  関野 和寛(日本福音ルーテル東京教会牧師、デール・パストラル・センター所員)
  石居 基夫(日本ルーテル神学校校長、デール・パストラル・センター所長)
  ジェームズ・サック(日本ルーテル神学校教授、デール・パストラル・センター所員)
  斎藤 衛 (日本ルーテル神学校准教授、デール・パストラル・センター所員)