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2025-02-10

第6回臨床牧会セミナー(第59回ルーテル教職神学セミナー)

今年も、臨床牧会セミナー(ルーテル教職神学セミナー)の季節となった。
今年度はリトリート。教職たちが自らのいのちのありようを神との関係の中に見つめ直し、新たな息吹に生かされることを願っての企画だ。 テーマは、「召命の再確認——「主がお入り用なのです」(ルカ19:31)」2月11・12日の両日を日本聖公会の施設「ナザレの家」で黙想の時を過ごす。 忙しさの中、ほとんど「仕事」と化している私たちの日々は、本来は、神に捧げ、人々に支えるものとしてそなえられたもの。教職として召されている私たちはいったいその恵みを忘れかけているのかもしれない。 もちろん、現代社会の中で、牧師もまた一人の労働者であるし、適切な働き方とその生活の保障が考えられなければならないことは言うまでもない。 けれども、教会の教職となるということは、やはりその働きにおいて与えられる特別な恵みを試練と共に知っているはずなのだ。 その喜びは、ただ、神との関係の中に見出されるのかもしれない。 それなのに、私自身もそうだけれど、なかなかその恵みを想う時が限られたものになってしまっている。 ルターは、忙しい時こそ祈ることにつとめたという。祈れない時は詩編をもって独り個室のこもるといった。 深い沈黙の中で、私は神のみ声にのみ呼び出され、その息吹に生かされるはずなのだ。

報告:
昨日、一昨日とナザレの家にてリトリートをいたしました。
恵まれたひと時でした。ファシリテーターには、聖路加大学、国際病院の成成鍾チャプレンをお迎えして基本的にはレクチオ・ディヴィナの作法に則る形で行われました。
(レクチオ・ディヴィナは、レクチオ(読書)、メディタチオ(黙想)、オラチオ(祈り)、そしてコンテンプラチオ(観想)の4つの段階を踏みながら神のことばを受け取り、またそれに生かされていく方法です。)

1日目、午後に集まって、オリエンテーションを行なってから黙想の実践に入りましたが、基本的には、この二日間は大沈黙として、参加者はお互いの間で自己紹介も含め一切話しをせず、神と自分との関係に集中した黙想の時間といたしました。
成先生はテキストから「子ロバ」に視点を当てながら、黙想のための4つのお話をされてそれぞれに15分ほどの黙想の時間を持ちました。その後には個人黙想と霊的同伴を実施。

二日目には、同じくテキストから3つの話をされ、それぞれに30分ずつ。また神の御用に用いられるという召命の出来事のたとえをマザーテレサのことばに触発されたヒントとなる短い5つのポイントをお分ちくださってまた30分ほどの黙想をいたしました。
午後にはまた個人黙想と霊的同伴を実施。
その後、大沈黙を解いて、それぞれに受け取ったものを分かち合いました。4人の神学生を含めて、教派を超えて20名以上の教職者たちが参加、全員が神の恵みと召しを新しく受け取るような聖なる時間をいただきました。
感謝します。




2019-02-15

詩編と祈り 〜音楽のスピリチュアリティーとともに〜

「リラ・プレカリア(祈りの竪琴)」という奉仕活動があります。病床にある方、死に直面している方、また心身の癒しを必要とする方に、ハープと歌を通して祈りを届け、魂の癒しをもたらす働きです。日本で、キャロル・サック氏(米福音ルーテル教会宣教師)によってその活動が始められ、奉仕者養成の講座が12年間続けられて38名の奉仕者が育ち、全国の様々な場所でこの奉仕を続けています。



 この「祈りの竪琴」については、以下のHPに詳しく紹介されています。
       http://www.jela.or.jp/lyraprecaria/index.html

 リラ・プレカリアの奉仕者養成で、最も大切なことは、ハープや歌の技術レッスンではありません。この奉仕者自身が、目の前の一人の人の魂の深い苦しみや嘆きに寄り添い、祈る霊性を養うことです。宗教が何であれ、思い病にあることや死を目の間にする人間の心の奥底にある求め、魂の深みに気づくことがなければ、誰の魂の深みにも祈り持って寄り添うことはできません。

 奉仕者養成は、一つの節目を迎えました。けれども、その養成プログラムには様々な学びがあり、何かを継続することができないか。そんな願いがあちらこちらから届けられました。そこで、そのプログラムの中の一つを公開講座として多くの人々にこの霊性(スピリチュアリティ)を深めていただきたいと、そう願って一つの公開講座を作ることになりました。
 デール・パストラル・センターの「詩編と祈り〜音楽のスピリチュアリティーとともに」です。
 この講座については、以下のHPをご覧ください。
      http://www.luther.ac.jp/news/20190205-02.html

 この講座はキリスト教の長い歴史の中に用いられてきた詩編や礼拝の時の祈りの歌などを通して、人間が「神」と呼び、その信仰を形作ってきたキリスト教の世界に深く学びます。そのことを通して、私たち人間一人ひとりが持つ魂の深い息遣いを知っていくことでしょう。もちろん、学びをする方がどのような信仰をお持ちであっても、この講座を取っていただけますが、そうした内容であることはご理解いただき、学んでいただければと思います。ただ、いずれの信仰をお持ちでも、そうでなくても、私たちが宗教とか信仰といってきたものについての新しい気づきと自身の霊性に大きな養いが与えられることと思います。
 講座は、1期4回。全部で4期まであります。通しで取っていただくことも、バラバラでも構いません。ただ、一つの期はまとまったプログラムですので、そうご理解いただければと思います。
 定員があります。定員を超えてお申し込みがあった場合にはお断りすることがありますので、どうぞそのことも合わせてご理解くださいますように。

すでに、第1期については、定員を超えてお申し込みをいただきました。本当にありがとうございます。第II期につきましては、全く新たにお申し込みいただくことになります。





2019-02-13

神学校の夕べ 2018年度

今年も、4名の神学生を宣教の第一線に送り出すため、神学校の夕べが行われる。
     日時:2019年2月24日 午後4時から 
      於:日本福音ルーテル教会宣教百年記念会堂(東京教会)
       礼拝-燃える心-


今年の卒業生は、中島共生(JELC市川教会出身)、中川祐子(NRK北見教会出身)、小澤周平(JELCなごや希望教会出身)、そして筑田仁(JELC函館教会出身)の4名。規定の課程を全て終えて神学校を後にする。
 それぞれ、献身に至るまで様々な歩みを重ねつつ、神様の招きの声を聞くことになって神学校の門を叩いた。人生経験の豊かさを思う。それだけに教会での働きには自分の賜物を生かして、主に仕えることだろう。人生の深みでみ言葉に生きる力を分かち合ってくれることと信じている。
 ぜひ、この卒業生がどんな風にみ言葉を取り次ぐものと育ってきたのか、証人となっていただき、励ましをもらいたい。
 お集りいただければと願っている。

 それぞれの赴任地は、この神学校の夕べでお伝えした通り、
中川祐子氏はNRK新潟地区の招聘を受けて新発田教会へ赴任。
中島共生氏はJELC下関教会、厚狭教会、宇部教会。
小澤周平氏はJELC名古屋めぐみ教会。
筑田仁氏はJELC甲府教会、諏訪教会。

彼女・彼らのこれからの働きに祝福を祈っていただければ幸い。

2018-02-27

教職授任按手式礼拝 2018・3

日本福音ルーテル教会 教職授任按手式が3月4日の日曜日、午後7時から、日本福音ルーテル教会宣教百年記念東京会堂にて行われる。



今年、日本福音ルーテル教会で按手を受け、牧師となるのは3名。それぞれ、先の常議員会で任地も発表された。
多田哲さん(豊中教会出身)の赴任教会は東教区の日本福音ルーテル日吉教会。野口和音さん(熊本教会出身)は同じく日本福音ルーテル長野教会、そして松本教会。森田哲史さん(田園調布教会出身)は東海教区の日本福音ルーテル新霊山教会。

教会では、伝統的に教会の職務に当たるものが選び出され、派遣されて行く時には、先に任にあたってきた責任をもつ者たちが集い、その選ばれた者の頭に手を置いて祈り、聖霊による賜物を祈願し、教会の委託を示して祝福をしてきた。 この按手によって、それぞれの職務へと召され、用いられていくわけだ。

頭に手を置くことは、限られた人たちによるのだけれど、集うものたち皆が心を合わせて、彼ら一人ひとりを祝福し、祈っていただくことで、教職となっていく恵と使命を新たに心に受け取っていくことだろう。大勢の皆さんがおいでくださることを願っている。

http://jelc-news.blogspot.jp/2018/01/2018.html



2018-02-13

2017年度 神学校の夕べ

今年も、「神学校の夕べ」で新しい卒業生を送り出す季節となった。

日時は、2018年2月25日 午後4時から
場所は、日本福音ルーテル教会宣教百年記念東京会堂(東京教会:新大久保)
テーマは「かけら」。


2017年度の卒業生は、多田哲さん(JELC豊中教会出身)、野口和音さん(JELC熊本教会出身)、東谷清貴さん(JELC松山教会出身)、森田哲史さん(JELC田園調布教会出身)の4名だ。
 4年前、それぞれの人生の歩みの中で、神様の呼び声を聞き、新しい歩みを牧師への召命として受け止めて神学校へ入学してきた。以来4年間、神学校での学びを深めてきたのだ。宣教の困難な時代、これからの教会を担う新しい人材を神様からいただけることは、本当に大きな恵みだ。しかし、その招きに応えていく一人ひとりにとっては、楽なことは何一つない。しかし、もちろん、この招きのなかで生かされていく喜びは、それに増して大きい。4年間の神学校の学び、教会での実習や研修のなかで、その喜びを味わいつつ、改めて主の召しを受け取り直して歩んできたことだろう。
 そして、彼らは、また新たに自身の生涯にわたる主の導きを実感していることだと思う。だから、彼らは皆、それぞれにこの主の召しに応える歩みの途上にあるといってもよいだろう。
 いま、神学校卒業の節目を迎えるが、主の召しを聴き続ける歩みが重ねられていくことになるのだ。彼らの証しする主の語りかけを、この夕べに聞いていきたい。
 
 そして、彼らのあらたな門出を祈りをもって祝していただければと、願っている。
 

2016-10-19

ルターの祈り

かつて(1976年)聖文舎で出されたものルター選集第一巻の復刻。
石居正己の翻訳による『ルターの祈り』(リトン社)
(ちなみに、ルター選集は、第二巻がルターの説教、第三巻がルターのことば、そして、第四巻がルターの説教2だった。)


推奨4冊には入っていないけれど、似た装丁で出版されている。というよりも、これが2010年に復刻版として出版されていたので、これにあわせるように新しい3冊の出版となったのだ。だから、実は推奨5冊??というわけではないけれども、手にとりやすく、学びやすいものだ。

ルターは祈りの人とも言われるが、彼にとって、信仰とは祈りそのものだといってよいのだ。そのルターが祈った祈りそのものが収録されている。

内容は以下のとおり

単純な祈りの仕方
魂の神との対話
礼拝の中での祈り
みことばとその務め
罪人への恵みを願って
さまざまな時の祈り

解説・ルターの祈りについて

是非、一読を。

2015-07-19

主に信頼するいのち

ルーテル天王寺にて講壇奉仕。
「主に信頼するいのち」と題して、ルターの死生観に学ぶ講演・説教をさせていただいた。礼拝後の女性会での交わりでは、「日本人の死生観と聖書のメッセージ」を短く話したが、いつものように、会の後半は豊かに導かれて多くの方の証を伺うことができた。
それぞれに死と向かい合い、あるいはまた看取りを生きられて、思うところは主の恵みと支え。不思議な導き。信仰に生きる深い息吹を、今日も感じさせていただいた。こうして、牧師の方がかえって養われ、生かされていく。


この天王寺教会は、私が按手をいただいた礼拝堂。25年、牧師として召され、たてられ、用いられてきたが、それこそ、つくづくと神のみ業を思うばかり。
 主に信頼する歩みを重ねていこう。







2015-06-19

「日本人の死生観 〜そのスピリチュアルニーズとキリスト教〜」

 リラ・プレカリアは、「祈りのたて琴」として知られているが、アイリッシュ・ハープを用いて、必要とする人たちに祈りの音楽を提供する活動だ。高齢の方、重い病気の患者さんや心に傷を持った人たち、また災害にあったり、愛する人を失った方などに、寄り添いつつ、ハープと歌の音楽が永遠とその人をつなぐ。
 この活動をする人たちを養成する二年間プログラムをJELAが提供している。
 その中の一講座を公開して、一般の方々にも聞いていただいている。その公開講座の最終を受け持った。


 講演は「日本人の死生観〜そのスピリチュアルニーズとキリスト教〜」。今日の日本人は、私たちが「死」という問題にどのように向かい合っているのか。東日本大震災やISのテロなどの経験は、特別な出来事だけれども、現代を生きる私たちの魂の深い問題を照らす出来事でもあった。そんなことを説き起こしながら、具体的に、今、死と向かい合う魂にどのように寄り添い、援助できるのかを共に考えた。
 天童荒太の『悼む人』、いとうせいこう『想像ラジオ』、姜尚中『心』、若松英輔『魂にふれる』などを紹介しながら、現代の私たちが死んだ人の魂に向かい合い、死者の声を聞いていくことで、今を生きることの意味を受け取ることやあるいは今を生きる魂の深い痛みに寄り添う力も得ることができるのではないかと、そんなことも含めての話をさせていただいた。
 人間の理想的な姿ではなく、むしろ現実の破れや傷ついた関係を生きる私たちの悩み、苦しみ。やすらうことを失った放浪の魂の現実を、罪の問題として考察を試みてみた。
 ルカ15章の放蕩息子のたとえも用いて、神からのアプローチこそが、本当の救いの鍵になること。そのメッセージに生かされて、その福音を示すことば、そして、ことばではないことば(働き、奉仕)のなかにどこまでも私たちを捨てておかない、寄り添う神の愛を分かち合う鍵を分かち合うことができたかと思う。
 より具体的には、認知症の方々やその人と共に活きる私たちのスピリチュアリティーの問題にもふれた。
 

 

2013-11-19

『ルターの祈り』

1976年、当時の聖文舎から出版された『ルターの祈り』がリトンから復刊された。
信仰とは何かという問いに、最も単純にそれが祈りであると答えるルター。そのルターが折に触れて祈り、また人に教え、示した祈りが集められたものだ。


いっぱんに「祈り」と言えば、何かを願うこと、祈念すること、強く思うことと言った意味で用いられているかもしれない。しかし、キリスト教における「祈り」は神との対話である。ルターはその対話の相手である神に徹底して信頼を寄せ、その神のまなざしの中に自分が何者であるかを深く受け止めつつ、直面する問題についての助けを求めている。そして、究極的には神の憐れみと愛に生かされていく信仰を求めていると言えるだろう。
一つひとつの祈りのことばに目をとめると、その祈りが祈られた状況に思いをめぐらせる事が出来る。宗教改革者、あるいは偉大な神学者と言うより、一人の信仰者として素直な信仰のことばに教えられることは多い。

2012-09-08

一日神学校「ルターの詩編と祈り」


今年の一日神学校は、9月22日の土曜日。
久しぶりに講義を担当。今回のテーマは「ルターの詩編と祈り」
ルターにとって、聖書の中でも詩編は信仰のための特別な書。ルターが大学で初めて学生に講義を担当したときに選んだのがこの詩編であった。1512年から準備を始めて、翌13年から講義を行う。おそらく、もっとも身近で、親しんだ書であったろう。そして、この詩編との取り組みの中で、次第に当時彼が学んだ神学的な考えから宗教改革的な神学への転換がおこってくる。それは、なにか机の上で繰り広げられる神学研究等ではなく、彼の心の中の葛藤であったといえるだろう。ルターにとって、聖書との取り組みが、もっとも実存的な深みの中で繰り広げられたのはこの詩編という書物であったのだ。

彼の宗教改革的神学は、この詩編講義にその萌芽を見、やがてローマ書講義においてはっきりとした表現をとることになる。
今回は、ルターにとってなぜ詩編がそれほど重要であったのか。その秘密に迫ってみたい。「神のことば」によって生かされるルターの神学の深みに、「ことば」以上の「ことば」があったと改めて考えさせられている。








2012-03-30

NCC総会礼拝

2012年3月26・27日の二日間、日本聖公会聖アンデレ教会において、日本キリスト教協議会の第38回総会が開かれた。
総会二日目の朝の礼拝を信仰職制委員会・委員長の私と神学・宣教委員会の大宮溥委員長と二人で担当するよう依頼され、大宮先生と年頭に打ち合わせ、準備をさせていただいた。

礼拝は、テゼ共同体の祈りと賛美を用いて、「一つになって」というテーマにさせていただいた。
震災と原発の事故によって被災の人々はばらばらにされ、その生涯が切り裂かれる経験の中におかれていることを私たちもまたともに経験している。そして、一般の社会の中で「絆」や「つながり」が求められ、助け合い、支えあうことが改めて見つめなおされている。それは、今回の被災によって特にクローズアップされた問題だけれども、現代の日本社会が特に20世紀後半から直面させられてきた問題なのだ。神と人との間が私たち自身の罪によって切り裂かれるとき、人と人、人と被造物が分裂し、その深い痛みを負わされている。この分裂の中にあって、結び合い、一つとなることを祈っていきたかった。

また、実際に被災された方々を憶えること、また特に生と死の境を異にせざるを得ず切り裂かれた痛みを憶え、主から慰めと力が与えられるように祈りたいということ、そして、この現実の中で、だれもキリストによって見いだされないものはないと信じ、祈りを合わせていきたいと願った。

そして、NCCがキリストのミニストリーの中に生かされるものとして、こうした切り裂かれている現実の中で信仰の一致と協働を主の恵みのうちに証しするものでなければならないし、そうありたいと思い、このテーマを持たせていただいた。(そして、一番私自身が大切に思っていたことは、この現実に責任のある私たちの罪の告白だった。)

大宮溥先生にはローマ書8章18-30節から御言葉を取り次いでいただき、「共に生きる」と題して説教をいただいた。NCCのおかれている「今」を深く考えさせられ、また励まされた説教をいただいた。

加盟の各教会、団体の代表者にろうそくを灯して、聖卓の前に進み出ていただき、祈りを合わせ、神様からの赦しと祝福をいただく、感謝の部を設けさせていただいた。

教会が聖公会の聖アンデレ教会であったので、あのアンデレが五つのパンと二匹のさかなを持った少年を主の前に連れてきたように、私たちがそれぞれに持っているものは役に立つとも思われないようなわずかであっても、それを主が受け取られ、神への感謝とともに祝福し、用いられるときに大きな働きに生かされていくものであることを象徴的に表させていただいた。


NCC、日本キリスト教協議会は、日本のプロテスタント諸教会の教派を超えたエキュメニカルな働きを担うものである。エキュメニカルな働きの一つの軸は信仰の一致ということである。歴史の中で、それぞれの状況の中で生まれてきたプロテスタント諸教会は、しかし、同じキリスト教会なのだ。その信仰を一つの信仰として、互いに理解を深めキリストに従う一つの交わりとして自らを表していくことができることを目指している。
今一つの働きの軸は、この世界の中で信仰に基づいて他者のために奉仕をする、実践的な働きについての協働である。
こうしたNCCの働きは、日本にあるばかりではなく、世界中に存在する。世界規模の団体としてはWCC、世界教会協議会がある。日本のNCCはこのWCCの働きを受けながら、日本におけるプロテスタン教会諸派が一致と協働のために話し合い、活動を担っていくものとなっている。キリスト者としての多様な活動、運動がこのNCCを軸にして生み出されてきた。

しかし、この新しい21世紀を迎えて、NCCはその組織そのもののあり方について大きな曲がり角に立っている。加盟の教会、団体をはじめ、各委員会が今改めて自らのあり方について考えなければならないのだと、痛感させられた総会だった。

そうであればこそ、本当に主の前に立つものであること、憶えたいと思い、この礼拝を企画させていただいた。
主の恵みに生かされたい。


2012-03-12

3・11 カトリック・NCC合同祈祷集会


いつの間にか、梅が咲いて、春の足取りを思い起こさせてくれている。
一年前も、同じように春をたくさん感じ始めた3月11日、午後2時46分。
東日本大震災が東北を襲った。続く津波の脅威は、すべてを根こそぎさらっていった。制御のきかなくなった原発からは放射能が流れだした。

あの日から一年。
カトリック教会とNCC(日本キリスト教協議会)の合同主催によって「東日本大震災一周年にあたり追悼と再生を願う合同祈祷集会」が全国で持たれた。
東京では、四谷麹町の聖イグナチオ教会にて行われた。

礼拝の式文は次の通り。
http://ncc-j.org/uploads/photos/25.pdf

会堂にいっぱいの人が集まり、岡田武夫大司教と輿石勇NCC議長との合同司式で執り行われ、岡田司教から御言葉をいただいた。

礼拝の終わりに現地での活動報告。被災のお一人ひとりに寄り添うことの大切さと難しさ、しかし、主の働きがもたらされるために用いられることについて深く深く思いめぐらし、浅薄な自分の祈りが導かれた。
ともに祈ること。教派を超え、宗教を超えて、この日にささげられた祈り。この祈りから、私たち自身が整えられ、神の働きのなかに生かされていく。そうありたい。





2012-03-05

教職授任按手式礼拝 2012年3月

今日3月4日は、日本福音ルーテル教会の教職受任按手式礼拝。
竹田大地氏と乾和雄氏の二人が按手を受けられた。
神と教会からの委託が「手を置いて祈る」という行為に伴う聖霊の付与において、それぞれを教会の職務へと召し出す。厳かな儀式の中に、受按者の信仰が改めて神によってとらえられ、召し出される恵みの出来事にあずかった。

大勢の方々が集い、この喜びを分かち合うことができた。
西日本福音ルーテル教会の教職で、神戸ルーテル神学校の校長、正木牧人氏が駆けつけてくださった。お忙しい中、この近畿福音と西日本のルーテル教会の牧師養成を担う神学校校長がおいでくださったことはことのほか意義深いことだ。
今回按手を受けられた乾氏は三年と一学期の間、神戸の神学校で学ばれたのだ。中学の教頭を勤め上げた後、献身を決意、学ばれることになったが、神戸に住まいがあり、ご家庭の事情もあって神戸から離れずに研鑽をつまれることになった。ちょうど2002年に神学校の複線化が憲法上認められていたことを初めて利用されるケースとなったのだ。こうして、実際に牧師が育てられ按手を受けられたことは何にも代えがたい喜びである。最後の仕上げとして、7か月のインターンと臨床牧会訓練をしっかりと東京の神学校でおさめられてのこの日である。教会の祈りが重ねられて、実現したこの歩みの尊さはいかばかりも欠けたるところはない。

教会は宣教者を求めている。それが育てられる道の多様なあり方は教会にとって、勇気を与えるものであったし、実際によい証となっている。

今後、この制度が活用されていくとするならば、もう少し神学的な確認を積み重ねないとならないとも思う。特に神戸の神学校との更なる交流と神学的な話し合いがなされ、日本におけるルーテル教会の教職養成にともに力を合わせていくようにしたい。

神学校の明日を切り開くためにも、乾氏の足跡は非常に大きな意味を持ったことだと思う。

多くの祈りがこのお二人を支え、また歓迎し、ともに生かされていく喜びを分かち合い、受け取っていた。
主に感謝します。



2011-04-05

「あれから・・・僕たちは」

「あれから 僕たちは何かを信じてこれたかな」

スガシカオの『夜空ノムコウニ』のはじまりの一節。国民的人気歌手グループがカバーして歌う声が時々テレビを通して流れてくる。
今まで聞き逃してきた、この歌の一節が突然に心いっぱいに響き始めた。

私たちが経験している事柄は、 単純に人生の挫折とか、大切なものが失ったということにとどまらないのだ。それは、「信じるということが失われた」という体験なのだ。

揺り動かし、押し流し、すべてが帰らない。
それまでのすべてが失われ、何も見いだせない。
ただ強いられた喪失は、今までを失ったにとどまらない。

「あれから・・・」

僕たちが経験している事態はこういう時なのだ。
かつてあの哲学者が見据えた事態も、同じ喪失感であっただろうか。

信じるものは いっさいなくなった。

生きてきたことを根こそぎ否定された経験は、私の根拠を見出せなくなる。
もしかしたら、この経験を私自身はもう何年も認めずにきたことかもしれない。


私の生に関わる意思の存在が、もし事実あるなら、私は否定されたものでしかないのではないか。そのような意思を私たちは私の信じるものとして 受け入れることはできないだろう。
しかし、もし、そのような意思の存在がないなら、私たちはやはり信じるものははじめからなかったと知らされるだけなのだ。

自分だけを信じることが もし出来るなら どれほど 幸せなことだろう。
しかし、この喪失を経験した自分のすべては失われたものでしかない。そこに何を信じる礎を見出せるだろうか。

ただ、そうした「私」になお語りかけるものがある。
その語りかけだけが自分をとらえ、呼び出し、生かすのだ。

そう、だからこそ、聞き続けたい。