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2019-05-07

絵本「わたしたちだけのときは」

カナダの先住民族に対する同化政策のもと、クリー語を話した人々がことばも装いも自分たちが自分たちである当たり前のことが奪われた。その中で子どもたちがどのようにして自らのアイデンティティ、誇りや尊厳を守ってきたのか。この小さな絵本は、歴史の中に隠されながらも自らが自らであることを生きる権利が奪われていく辛さと、その中で生きることの本当の喜びを守るべきことを教えている。

         デイヴィッド・アレキサンダー・ロバートソン(著), ジュリー・フレット(イラスト)

世界のいたるところ、そしておそらく歴史上いつも繰り返されてきたことかもしれない。支配被支配の構造の中で苦しみを余儀なくされてきた人々がある。
性別、生まれ、肌の色、部族・民族、言葉・文化・宗教の違い。障害や病気、貧富の差、教育の違い。そうしたものが、差別と抑圧の原因となり、生きることの喜びと尊厳を奪われることが起こるのだ。
力がないから仕方がない、と、そういってしまえば、人間が本当に人間として「共に生きる」価値を失う。数の論理で多数を占めるものが世界のあり方を決めるのは、決して平等でもないし、民主主義でもない。難しいことかもしれない。けれども、諦めずに求めていくべきことがある。守るべきものがある。



2017-12-18

『咲いていること』

 
小さな絵本の紹介です。クリスマス用に小さなプレゼントを紹介して欲しいとリクエストがありました。もう、少し前の出版なのですが、すてきな絵本です。ご紹介します。

                   

 『咲いていること』
 一つひとつの頁に、一粒の種が花を咲かせる小さな物語が描かれています。小さな花の小さな物語は、「ただ、そこに咲くだけ」の出来事をたんたんと語ります。その場所に招かれて、そこに咲くこと。種は自分で選ぶことも決めることもできないのですが、それが誰かの慰めや、いやしになるようにと与えられた、その種の存在の意味として受け止められていくのです。とくべつ、何かをするわけではありません。気づかれないままに終わるかも知れない一輪の花なのです。それでも、そこにいのちを咲かせます。
 
 渡辺和子さんの「おかれた場所に咲きなさい」や、松尾芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」の物皆自得にも通じるものがあるでしょうか。みことばの種のことかもしれませんし、私たちのいのちの不思議のことかもしれません。ルターのベルーフ(召命)の考えもみることも出来るでしょう。
 でも、むしろ、この語られた物語をしずかに味わってみていただければ、それでいいのです。子どもから大人まで、だれにとっても読みやすい絵本です。読みながら、きっとこころの奥にひびいてくるものがあるに違いありません。自分自身の、魂の奥に、何かが語りかけられるでしょう。

 イエス様は、誰にも気づかれないような宿屋の厩にお生まれになられました。誰にも顧みられることの無い人々の友となるお方。神のまなざしと愛の御手が誰に向けられているのかを示すように、世界の片隅においでになられたのでした。そのいのちは、人々に慰めと癒し、そして喜びをもたらす存在です。
 この絵本のメッセージとも重なってきますね。
 クリスマスのストーリーではありませんが、クリスマスのプレゼントにしてよい作品の一つではないかと、ご紹介します。

 私の先輩牧師でもあり、敬愛する友、立野泰博牧師の作品です。絵は平岡麻衣子さん。ザメディアジョンから2009年の初版です。
 
 日野原重明先生が推薦の辞を帯に書いていらっしゃいます。

2017-04-03

おふぃす・ふじかけ賞をいただいて


 拙著『キリスト教における死と葬儀:現代の日本的霊性との出逢い』がおふぃす・ふじかけ賞というものをいただいた。この賞は、聖学院大学教員のクリスチャンで臨床心理士の藤掛明先生が、ご自分のブログで2015年から立ち上げられた企画で、今年が第三回目になる。過去一年の間に出版されたキリスト教カウンセリング関係の書物を取り上げて、ご本人いうところの「独断と偏見」をもって「もっとキリスト教カウンセリング本に注目しよう!」とお勧めの本を選定して授与される。

 今年の受賞作、私のもの以外には、
蔡香氏の『よい聴き手になるために』(いのちのことば社)、
そして「発掘賞」に『恵みのとき』( 晴佐久昌英氏  サンマーク出版 2005年)
が選ばれている。

 出版業界の現状は厳しく、特にもキリスト教関係の本はなかなか売れないということだが、それでも、この分野でも出版される本はそれなりの数にのぼるだろう。それらに目を通されて、おひとりでこうした賞を出されるということのご苦労を思ったりもする。しかし、多くの本が世に出るだけに、何を読んだらいいのかと思うとき、先生の取り組みに導かれることができると思ってもいたのだった。
 私自身もこうしてブログを書いていて、キリスト教入門や神学生向けに本を紹介することも行っているので、なかなか新刊本に目を通せないでいる自分を恥ずかしく思い、見習わなければと思っていたところだった。
 そんななか、思いもしない受賞の知らせを受けた。今年は特にカウンセリング関係の良書が多く出版されていたそうだから、私の本などがお目にとまったこと自体、大変光栄だと思う。
 実際、牧会とかカウンセリングといったことばがタイトルにあるわけでもないし、私の専門も実践神学というわけではないので、拾っていただいたこともいささか気恥ずかしいくらいだ。ただ、この本そのものは、雑誌「Ministry(ミニストリー)」や本のひろばの別冊で書かせていただいたものに加え、神学校やいろいろな教会でともに学ばさせていただいたところを書き綴ってきたものを中心に編んだもので、実際の教会の牧師が看取ることから葬儀、そしてその後とつづく本人と家族へ寄り添うことを考えて、具体的な問題に触れながら書かせていただいた。ご推薦いただいたわけで、すこしでもお役に立つものが書けたのなら、本当にうれしい限りだ。

 現代は、社会全体が大きく、加速度的に変わっていくなかに、一人ひとりが投げ出されていて、人間同士の関係の在り方もその大きな変化の波に飲み込まれている。それぞれにストレスを抱え、大きな重荷や困難、痛みを負っている人たちが、癒される場も時間もないままに、それでも日々を生きていかなければならないということが現実であろうか。かえって、互いに傷つけてしまうことも多いのだろう。それだけに、藤掛氏が勧めてくださっているような、牧会、またキリスト教カウンセリングの実践的な示唆が現場で求められているのだと思う。
 昨年の春、千葉の佐倉の教会で事件となったことが報道されたが、私たちの牧会の現場では決してあり得ない話でなく、いつ起こっても不思議でないほどに、同じような課題に直面していることだろう。それだけに、牧師、教会がいろいろな意味で牧会の力をつけていかなければならないし、また外部の専門機関との連携も必要となってきているのだ。
 一昔前だったら埋もれていたかも知れないような「闇」を、クリスチャンであろうとなかろうと、実は抱え込んでいることが深刻な課題として表面化してきているのだ。DV、モラハラ、引きこもり、希死念慮などは何時でも私たち自身の問題であると、知らされているのではないだろうか。今回書かせていただいたのは、おもに死と葬儀、看取りと悼みということをテーマにしていたので、あまりそうした問題に触れることはなかったけれども、実はその背景には高齢社会、介護の現実、家族の崩壊という問題があって、そうした「深い闇」の土壌こそが見出されていなければならないのだと承知している。
 
 長くなったが、そうした今日の私たちの社会、また教会における牧会やカウンセリングのニーズは高い。その意味でも、(私のものは別にしても)この藤掛氏が紹介してくださる書は私たちにとって大切な道しるべとなるように思う。私たちの神学校にあるデールパストラルセンターの牧会研究会や臨床牧会セミナーなどの働きも、こうしたニーズに応えるものでありたいとおもっている。

過去2年間の受賞作は、以下のとおり。

2015年度の受賞作:
『牧会相談の実際』(藤掛明・小渕朝子・村上純子編著、あめんどう)、
『死と向き合って生きる』(平山正実著、教文館)、
『自死遺族支援と自殺予防』(平山正実・斎藤友紀雄監修、日本キリスト教団出版局)、『牧会の羅針盤』(関谷直人著、キリスト新聞社)。

2016年度の受賞作:
樋野興夫著『こころにみことばの処方箋』(いのちのことば社)、
工藤信夫著『真実の福音を求めて』(いのちのことば社)、
向谷地生良著『精神障害と教会』(いのちのことば社)、
上林順一郎監修『教会では聞けない「21世紀」信仰問答Ⅱ』(キリスト新聞社)、
土井健司編『自死と遺族とキリスト教』(新教出版社)
この年から、加えて「発掘賞」として、過去の出版物から選ばれた。
賀来周一著『キリスト教カウンセリングの本質とその役割』(キリスト新聞社)

……………
ちなみに、記録として、この間にいただいた書評なども、ここにおいておきたい。
それぞれに、お読みいただきご評価いただいたこと、感謝にたえない。

本のひろば 2016年11月号
http://www.bunsyo.or.jp/pdf/2016_11.pdf

「礼拝と音楽」2016年Autumn 171号

クリスチャントゥデイ 2017年1月6日

2016-12-05

ルター『クリスマス・ブック』

ルターの著作の紹介。
R.ベイントン編、中村妙子訳の『クリスマス・ブック』。

ルターによる短いクリスマスにちなんだ説教集だ。
説教は①受胎告知、②マリアのエリサベツ訪問、③降誕、④羊かいたち、⑤ヘロデ、⑥博士たち、⑦宮もうでの七編。これに、ルターが作り、家族で歌った、「天つ空より」よりの讃美歌が収録されている。
ルターの伝記『我、ここに立つ』の著者として知られるベイントン博士の手による編集。

ひたすら聖書に聴いていくルターの信仰と説教の力を充分に味わうことができる。
また、それぞれの説教にはルターの時代のデューラーやショーンガウアーの挿絵(版画)が入っているのも楽しい。
     

新教出版の新書版で1958年に出版されたが、繰り返して再版された。また、大人のための絵本のようなかたちで、ルター生誕500年を記念して1983年に出版されたものは挿絵も大きく、親しみをもってゆっくりと読むことができる。おすすめだが、手に入るのか??

2016-10-26

Principles of Lutheran Theology 『ルター派神学の諸原理』

                   

ルター派神学の諸原則と訳したらいいだろうか。
著者は、シカゴのルーテル神学校で長く組織神学を教え、ルター派神学の牽引されたカール・ブラーテン。エキュメニズムにおいても重要な役割を果たしてきた。
そして、ロバート・ジェンソンとともにあのキリスト教教義学(Christian Dogmatics)二巻本の編集責任をとった一人だ。

初版は1983年。私の神学校時代の「ルター神学特講」の授業(たぶんこの授業名だったと思う。担当教員は石居正己。)でのテキストだった。

2007年の改訂第二版となって、以下の8つを主要な原理として論じる。

1.聖書原理
2.信条原理
3.エキュメニカル原理
4.三位一体原理
5.キリスト中心原理
6.礼典原理
7.律法と福音原理
8.二王国原理

ルター神学の特徴としてこの8つの原理を挙げ、ルター神学の歴史の中でそれぞれがどのように発展し、どのような意味を持つものとなっているのかを明らかにしたもの。そして、それらを改めて現代の脈絡のなかで問い直している。
180頁ほどのコンパクトな本だが、読み応えはあるし、ルター神学の特質についての深い学びになる。
宗教改革500年を前に、神学生にはもちろん、牧師たちに是非手にとって、学んで欲しい一冊だ。

2016-10-19

ルターの祈り

かつて(1976年)聖文舎で出されたものルター選集第一巻の復刻。
石居正己の翻訳による『ルターの祈り』(リトン社)
(ちなみに、ルター選集は、第二巻がルターの説教、第三巻がルターのことば、そして、第四巻がルターの説教2だった。)


推奨4冊には入っていないけれど、似た装丁で出版されている。というよりも、これが2010年に復刻版として出版されていたので、これにあわせるように新しい3冊の出版となったのだ。だから、実は推奨5冊??というわけではないけれども、手にとりやすく、学びやすいものだ。

ルターは祈りの人とも言われるが、彼にとって、信仰とは祈りそのものだといってよいのだ。そのルターが祈った祈りそのものが収録されている。

内容は以下のとおり

単純な祈りの仕方
魂の神との対話
礼拝の中での祈り
みことばとその務め
罪人への恵みを願って
さまざまな時の祈り

解説・ルターの祈りについて

是非、一読を。

2016-10-18

宗教改革500年記念の推奨4冊

日本福音ルーテル教会が宗教改革500年を記念して、それぞれの教会で、学校・施設でルターその人と、その信仰・神学についての学びを深めていくために推奨4冊を挙げてこの出版事業を展開している。この10月1日の『「キリスト者の自由」を読む』をもって、この4冊全ての出版が終わっている。

一冊目は、実は2012年に岩波新書として出版された徳善義和著『マルティン・ルター』だ。これは、ルターという人物を知るのにもっとも手軽で確かな書物と言ってよいだろう。岩波からの出版ということで、教会外の方にもわかりやすく、読みやすい。


以下の三冊は、ルーテル学院のルター研究所によって編まれたもので、いずれもリトン社から出版されている。それぞれにすでに手にとってくださった方もあるかと思うが、改めて紹介しておきたい。いずれも、ルターの神学、そしてルーテル教会の信仰を学ぶのに欠かすことの出来ない三冊だ。


『エンキリディオン 小教理問答』
いわゆるルターの小教理問答書。洗礼準備などでよく用いられている青もしくは黄色の表紙の薄い冊子のものは、一部掲載がなされていない部分がある。全文を訳されたものが手にとりやすくなった。エンキリディオンは必携とでもいったらよいか。私たちがキリストの福音に生かされる信仰について簡潔に教えるものだから、洗礼の時ばかりでなく、繰り返し、読み、確認するようにとルターはこれを書いている。

『アウグスブルク信仰告白』
1530年、アウグスブルクで行われた神聖ローマ帝国議会で読まれたもので、ルターの宗教改革に賛同する信仰的立場を表明したものといってよいだろう。執筆はメランヒトン。意図は、当時危険なものとされたルター派陣営の信仰的立場は、伝統的なキリスト信仰にあるものであることを表明しつつ、「信仰義認」の福音理解とそれに基づく教会・信仰者の在り方を簡潔に言い表している。

『「キリスト者の自由」を読む』
「キリスト者の自由」は、1520年後に宗教改革の三大著作といわれるようになる主要な改革的信仰を著したものが書かれるが、その中の一つだ。日本でも世界でも、おそらくルターの著作の中で『小教理問答』に続いて最も親しまれてきたものと言って間違いない。短いけれども、キリストによって生かされる信仰者の生を、非常にわかりやすく示されている。これをルター研究所の所員たちが、現代の脈絡のなかで読みながら何を学ぶことが出来るかと簡単に解説したもの。

出来れば、宗教改革500年を迎えるこのときに是非教会でも、個人でも手にとって、これらを学んでいただけるとよいと思う。

注文はアマゾンでも可能かとは思うが、できれば、お近くのキリスト教書店からお求めいただくと書店を支援することにもなる。
また、リトン社の三冊は直接出版元に注文することが出来る。教会ごとにまとめて注文いただくとよいだろう。

リトン社
電 話:045-433-5257
FAX:045-402-1426



2016-10-17

『「キリスト者の自由」を読む』

日本福音ルーテル教会の宗教改革500年を記念した特別企画、推奨4冊の最後の出版となる『「キリスト者の自由」を読む』(ルター研究所編、リトン社)が10月1日付けで出版された。

                   

 この本では、ルターの著作のなか最も多くの人に読まれ、愛されてきた『キリスト者の自由」(1520)を取り上げているが、新訳ではない。紹介したものはすでに公にされている徳善義和先生の抄訳にとどめている。この本は、むしろ、ここに著されたルターの神学的主張が何か、ルターが生きる中で何を問い、信仰の中でその答えを求めていったのかを確かめつつ、それが現代に生きる私たちにどのような意味を持っているのかという考察をまとめていったものだ。執筆は、ルター研究所所員が分担執筆を行っている。

 取り上げたテーマは
・自由
・律法と福音
・信仰義認
・全信徒祭司性
・信仰と行為
・愛の奉仕

(ちなみに、私も「全信徒祭司性」を担当させていただいた。)
加えて、信徒の方にも加わっていただいた座談会も収録している。
単に、宗教改革の記念的著作を読むということではなく、現代の社会と教会に生きる私たちを考えるうえでも、是非、これを用いて学んでいただければと思う。

ご注文は、以下の出版社に願いたい。
リトン
電 話:045-433-5257
FAX:045-402-1426

また、本文の訳と詳細な注解は徳善義和先生の『キリスト者の自由ー訳と注解』(教文館、2011)を是非お求めいただきたい。https://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2013/09/blog-post_23.html

2016-07-30

『星の王子さま』

サン・テグジュペリの名作。大学のとき、フランス語のテキストだった。

                  
 三つの火山とバオバブの木、一つのばらの花が咲いている小さな星の王子様。このばらがいろいろと王子を悩ますので、旅に出ることにする。さまざまな星に出かけていき、その星の住人たちと話しながら、新しい発見をする旅のなか、地球に到着する。
 そこに火山もばらも見つけた王子様は、自分の星がひどくつまらなく感じられてくる。でも、そこに新しい出会いがあって、王子様はそれまでと世界の見方が一変する。
 出会ったのは、一匹のキツネ。このキツネとのやり取りはこの作品で最も有名な箇所だ。是非読んでほしい。
 キツネは「仲良くなること」、「ひまつぶし」といわれるような、何かを目的にした成果を求める時間ではない、ただ、その人とともに過ごす時間、その人のために費やす時間を重ねることで、その相手は他の存在と比べることの出来ない、かけがえのない存在となることを教える。それはまた、自分をかけがえのないものとすることでもあるのだ。そして、そうやって人と過ごすことで、人にはその人にしか見えない特別な意味の世界が広がってくることを教える。王子さまと仲良しになったキツネは、別れを悲しんで涙が流れる。悲しみが結果するなら、仲良くなんかならなければよかったのか。いいや、そのかけがえのない出会いによって、黄金色にかがやく麦畑は、キツネにとってこの王子様を思い出させる特別な意味を持つようになる。つまり、この関係を生きたことが、世界の存在の意味をかえるのだ。
 大切なものは…という有名なことばだけでなく、一読して、それぞれに考えてみてほしい。意味ある世界もかけがえのない自分も、関係によって、うまれてくるのだ。何かについて優秀だからでもないし、すばらしいものをつくれたからでもない。歴史や社会で活躍できたからでもない。その存在を共にすること。その人と生きること、その人のために生きること。互いが、互いをもつことでこそ、各々のかけがえのなさがそこに実感される。
 
 

2014-02-25

大木英夫『終末論』

神学生へ、おすすめの一冊。神学を学ぶということの面白さを味わうだろう。

大木英夫の『終末論』。現在、既に絶版?のようだが、中古ならなんとか手にはいるだろう。本書は90年代になってからの出版だが、「終末論」は70年代に繰り返し議論され取り上げられたテーマの一つだ。

終末論 (精選復刻紀伊国屋新書)

近代の合理主義・啓蒙主義下で生まれ展開をして来た自由主義神学、また史的イエス研究の展開は、人間理性のなかで宗教(キリスト教)の意義をとらえ直そうというチャレンジであった。カントの影響を強く受けながら展開されていく神学思想のなかで「終末論」がどのように理解されて来たか。さらにはバルトの危機神学へ、そして、その批判的継承者としてのモルトマンへと流れていく神学潮流の中に、「終末論」がどのように変遷して来たのかを鮮やかに示してくれる。
 終末論は、単なる教義学の一項目なのではなく、神学の構造、性格を決定する枠組みであるということに目を開かれる。

 近代神学の歴史を学ばないといささか難しいかも知れないが、むしろ、この本を繰り返し読むことで理解が深まるので、是非取り組んでいただきたい本だ。


2014-02-24

『聖卓に集う』

ルーテル教会の礼拝を実践的に学ぶためには、ぜひとも手もとに置いておきたい一冊。



日本福音ルーテル教会、日本ルーテル教団が現在用いている「青式文」は1996年に出版されたが、この出版に至る前十数年間は試用版が用いられていた。いわゆる「白式文」だ。その編纂に関わられたのが前田貞一牧師。最終的な「青式文」が決定されていく時にはその委員の役割からはなれられてもいたため、前田先生の思いとは別に「白」から「青」への微妙な変更がなされている。しかし、「青式文」ができてもその公式の解説などは委員会の仕事とはならなかったので、現在の式文の包括的な解説と実践的説明を求めるとすれば、これを読むのが最も良い。先生の礼拝学の深い見識と牧師としてのご経験が盛り込まれ、礼拝について深く学ぶことができる。
 私自身、神学校で前田先生に礼拝学を教わったのだが、ちょうど私が神学生となって実習をさせていただいた東京池袋教会で初めは協力牧師として、後には主幹牧師として直接に教会でお世話になった。先生からは、沢山のものを受け取り、学ばせていただいた。主日の礼拝のなかで、先生が式文を用いた礼拝の意味やそこで養われる信仰・敬虔について具体的に教えてくださったことは忘れることはない。
 現在、近い将来の式文改定へむけての準備に加わっているが、その時にいつでも現在の式文を振り返り、学ぶことができるのは、この一冊があるからだ。前田先生の貴重なお働きに感謝している。
 ルーテルの神学生は手もとに置いておくべき一冊だ。

2014-02-21

『神の元気を取り次ぐ教会』

ルーテル教会の引退牧師である、石田順朗先生の新しい書き下ろし本。

「主日説教が、聖書研究会でのような講解的説話で終わってしまうのではなく、また、キリスト教教理の連続的講話に尽きるのでもなく、伝達された説教の余韻が残るかどうかです。会衆各自の日常生活のリズムや、信徒たちの交わりに、説教が生きるかどうかです。すなわち、地域会衆の存続に、「いま・ここで」、意味深く共鳴するかどうかということです。」(本文、第11章より)

 みことばによってこそ、私たちの信仰がつくられ、私たちの心は熱くされ、慰められ、生かされる。そのようにみことばを聞きたい。そのようにみことばを分かち合いたい。そのようにみことばを取り次ぎたい。


「神の元気を取り次ぐ」こと。書名に記されたこのユニークな表現は、福音によって信仰に導かれ、その福音を分かち合う牧師へと召しを受け、長くその働きを担ってこられた筆者石田順朗先生が、今こそ教会の使命としてどうしても確認したかったものだといえるだろう。
 進歩した科学技術がこんなにも私たちの日常を便利で快適なものにし、世界の新しい可能性を示しているのに、人々は孤立し、社会全体は先行きの不透明さに大きな不安を抱いている。教会もまた宣教に行き詰まり、子どもたちの姿が少ない現実の中で明るい未来を描けず、元気がない。
 けれども、本当の元気は私たちの内からはけっしてわき上がっては来ない。筆者は、それはただ「神の元気」から来ると確認する。「神の元気」とは、神から被造物に与えられる「いのちの息吹」のことと聖書は示しているのだ。このいのちの息吹は、神の言葉として私たちに向けて語りかけられ、私たちを生かす力として働く。
 ご自身が説教によって「元気をもらった」という原体験を長い信仰生活を通し確認し、また説教者として人々がそれによって生かされ、導かれるのを目の当たりにしてこられた筆者だからこそ、その真実を率直に示してくださっている。確かに説教が、人を元気にし、世界に神の御心実現していく。
 その説教がどのように準備され、分かち合われ、伝えられてきたのか。教会の暦や聖書日課、聖礼典や礼拝のことなどについてやさしく説明を加え、細やかな配慮のなかに神のみことば、「神の元気」が用意され分かち合われて来た教会の知恵を教える。その知恵によってこそ、信仰者がこの歴史的世界のなかでどう生きるべきかを確かに受け取っていくのだといえるのだろう。

 9.11、3.11という二つの大きな出来事を体験してきた現代には沢山の課題がある。その現代を生きるキリスト者に与えられている恵みと使命を「神の元気」において私たちは分かち合うものと教えられる。(「るうてる」2月号掲載)
 
 この本も、神学生、特にルーテルの神学生の必読書の一冊。けれど、神学生だけではなく、むしろ教会に集う多くの方々に読んでいただきたいと思う。教会で語られるみことば・説教が分かち合われるためにどのように整えられているのかを知ることで、私たちの信仰のあゆみが暦の中で導かれていくことを豊かに受け取ることができよう。

2014-01-28

神学生必読書 ペールマン『ナザレのイエスとは誰か』

 神学生の時、信仰の課題、神学問題の要は「キリスト論」だと考えたことがある。結局、私たちの信仰は、あの人間イエスを「キリスト」と告白するという奇跡の中に、すべての秘儀があるのだという直観だった。しかし、その後その直観を確かな言葉をもって紡ぐことが出来ていない。それは、自分の生涯の課題かとも思う。
 さて、神学生の時に課題図書として紹介された本の一つにペールマンの『ナザレのイエスとは誰か』がある。ペールマンが神学生のゼミで学生に取り組ませるための資料としてまとめたものだろう。いわゆるキリスト教神学におけるキリスト理解の叙述を展開するというものではなくて、キリスト教以外、ユダヤ教の視点、無神論者の視点、哲学者の視点などからイエスがどのように捉えられているのかという具体的な資料を提示し、それを読んでどう考えるのか、と読者自身に問いかけるような設定になっている。もちろん、ペールマンなりの分析と見解も短く添えられているのだけれど、それは、「イエスはこう理解されるべき」という教義的な教えではなくて、こういう考え・捉え方があるが、その理解に収まり得るかと、反語的に問いかけていくような叙述だ。



神学生には是非読んで、考えてほしい一冊。
 改訂された新版『イエスとは誰か?』には、遠藤周作も取り上げられている。この項にはいささか食い足りない感じが否めなかったが、しかし、海外に遠藤がこのように知られているということには、なかなか考えさせられるところがある。その意味でもこの新版を手にしてもらっても良いだろう。

2013-12-06

アウグスブルク信仰告白とその解説

 宗教改革者のルターの信仰理解を簡潔に述べ、教会が様々な特色を持ったり、違いを持っていたとしても、キリストの教会として一つの交わりをもってお互いに認め合うために最低なにが告白されなければならないか。

             


徳善義和先生による解説は、おそらく神学校の「信条学」の講義ノートがもとになったものだろう。充実したその内容は、神学生にとってはルーテル教会の神学の基本の基を学ぶには最適だ。ルーテル教会の信仰理解と言うことばかりではなく、その成り立ちを考えてもエキュメニカルな神学の基礎として今日改めて評価をしながら、新しい歩みを築いていく基礎ともなろう。
 1980年がアウグスブルク信仰告白450年だった。その前年にこの新書判が発行されている企画にも意欲を感じないではいられない。1983年のルター生誕500年を経て、ローマ・カトリック教会との対話はさらに深まり、1999年の「義認の教理に関する共同宣言」の調印にまで進んだ。宗教改革500年を目前にして、今一度この信仰告白の研究と評価が求められよう。
 ルーテルの神学生には、もちろん必読中の必読書。既に手に入る状態ではないから、古書店で見つけたら、躊躇せず買ってほしい。再販が企画されるべきか。むしろ、データにして、アップし、共有できるようにしておくと良いのだが…。

『牧会者ルター』

 ルターによる宗教改革の神学は、一人の信仰者としてのルター自身が、人生の歩みの中で福音によって生かされていくその試練・格闘の経験から出発している。神学的な論争は、主として当時のローマの教会とスコラ神学、また熱狂主義的運動に向けられているが、その神学の根っこは牧会的であり、実践的な魂の配慮に満ちている。
 そんなルターの牧会者として姿、またその神学を人生の様々な視点において浮き彫りにし、今日の私たちの信仰生活にも直接いきてくる神のことばに立つルターの信仰と神学を伝える一冊。石田順朗先生による『牧会者ルター』。聖文舎によって出版されていたものが2007年に教団出版から復刻されている。

                

神学生は必読の書。牧師の本棚にも必ずおいておきたいもの。

2013-11-30

『教会とはだれか』

神学生への推薦図書
石居正己の『教会とはだれか』。

                 


現代の日本の教会における宣教というコンテキストの中で、最も必要な神学的考察の一つの結実を著した書。ルター神学に立ち、「教会」という一つの視点を軸に書かれた良書。
礼拝、説教、サクラメント、罪の告白と赦し、職制、宣教、奉仕、教育。極めて実践的かつ本質的な教会理解を丁寧に論述する。信仰者としての私たち一人ひとりが、キリストの体であり、すなわち教会として生かされ、遣わされていることに気づかされる。

正己は専任として大学と神学校での教育にたずさわっている間は、なかなか書物をまとめることがなかったが、引退後、長年の神学研究をまとめて幾つかの本を書くことを計画した。その一冊目がこの本。引退してからも、実際には神戸の神学校や京都地区の牧会委嘱などが続き、十分な著作の時間をとることは難しかったようでもある。この本は引退後約10年の時を経て、ようやくまとめられたものだ。

神学校でも、何度も学習会や授業で取り上げられている。神学生には必読書の一つとして推薦したい。

2013-11-22

隅谷三喜男 『日本の信徒の神学』

日本人としてキリスト教を信仰する。そこでどんな問題に出逢っているのか。信徒にとって切実な課題を信仰の道筋の中で考える。日本の神学の世界は、どうしても西欧の神学の翻訳的な取り組みから抜け出せないところが多い。

隅谷氏の取り組みは意味深い。


               

第一部は、日本人とキリスト教という少し大きい視点から、10編ほどのエッセイがまとめられている。日本人がどういう宗教性をもっているか、またそういう日本人がどのようにキリスト教と出逢い、その信仰にどんな日本的な特徴が見られるのか、そうした問題に向き合って、歴史的なことから現代の問題にまでわたって自由に語り出される。
第二部も、〈日本の信徒〉の「神学」というタイトルで括られたやや短めの10編のエッセイをまとめている。視点は「信徒」が信仰を持って生きるその日常生活、具体的な生きられる信仰の姿に絞られた問題意識を語られる。信徒がどういう問題に出逢っているのか、そこでどんな風に信仰をいきるのか。生きるべきか。社会学的な分析の視点をもって、今日の日本の教会と神学に問題提起を行っている。
「神学」というものが生きられる信仰に奉仕するべきものとするなら、こうした「信徒」の視点は何よりも大切であるし、また「神学」が決して専門家集団の役に立つのかどうか分からないように難しい議論だけに終始するものであってはならないということを知らされる。
神学生は必読の書の一冊。

2013-11-19

『ルターの祈り』

1976年、当時の聖文舎から出版された『ルターの祈り』がリトンから復刊された。
信仰とは何かという問いに、最も単純にそれが祈りであると答えるルター。そのルターが折に触れて祈り、また人に教え、示した祈りが集められたものだ。


いっぱんに「祈り」と言えば、何かを願うこと、祈念すること、強く思うことと言った意味で用いられているかもしれない。しかし、キリスト教における「祈り」は神との対話である。ルターはその対話の相手である神に徹底して信頼を寄せ、その神のまなざしの中に自分が何者であるかを深く受け止めつつ、直面する問題についての助けを求めている。そして、究極的には神の憐れみと愛に生かされていく信仰を求めていると言えるだろう。
一つひとつの祈りのことばに目をとめると、その祈りが祈られた状況に思いをめぐらせる事が出来る。宗教改革者、あるいは偉大な神学者と言うより、一人の信仰者として素直な信仰のことばに教えられることは多い。

2013-11-11

フロマートカ『神学入門ープロテスタント神学の転換点』

プロテスタント神学を学ぶのであれば、20世紀神学をまなばない訳にはいかない。しかし、この20世紀神学を学ぶには19世紀自由主義神学を知らなければならない。



いわゆる危機神学とも呼ばれたバルトを筆頭とした20世紀初めの神学潮流は、カント以降の理性主義・合理主義を背景とした近代的知性に宗教、すなわちキリスト教信仰の存在意義を「人間」主体において位置づけた自由主義神学の大きな崩壊とそれへのアンチの姿勢のなかで形成されて来た。その神学の転換を見つめ、あの第一次世界大戦で傷ついた人々、また牧師や神学者のなかで、どんな神学的営為が営まれたのか尋ねるには絶好の一冊だと言えるだろう。
 ルターやカルヴァン、ツヴィングリあるいはウェスレー、クランマー。プロテスタント神学の祖に学ぶことは多い。しかし、現代神学の課題にしっかりと向かい合うためには、二千年に及ぶ神学の歴史はもちろんだが、とりわけ私たちの神学の足場を知るべきだろう。21世紀。これからの神学を切り開くために、20世紀神学の大きな転換を学ぶことは欠かせない。そのための入門書として、是非一読をすすめたい。

2013-11-01

ティリッヒ『永遠の今』 神学生の必読書④

 パウル・ティリッヒの三つの説教集のうち最後に出版されたもの。出版後、比較的早く日本にも翻訳が紹介されたものだ。

永遠の今 (1965年) (新教新書)

永遠の今

 パウル・ティリッヒは、組織神学三巻の著作をもって、やや難解な存在論的な神学を展開したことで知られる。その哲学的な言葉遣いは、おそらく関心を持つ私たちの気持ちを萎えさせるかも知れない。しかし、彼の神学は、私たち人間の生きる状況を深く掘り下げ、本来あるべき姿と実際の姿の差異を本質に対する実存の窮境であると見定めながら、そこに問われると問いに聖書のメッセージがどのように答えているのかを深く尋ねる。その相互の関係を「相関の方法」と呼び、新しい神学の形を提示したのだ。
 19世紀自由神学の流れと新しい20世紀の神学的な営為を結びつけようとしたと言ってよいだろうか。シュライアマッハ以来のキリスト教を人間の宗教性の中に位置づけ、意味付けなら、合理主義・理性主義の近代の流れなかで信仰の価値を求めて来たあり方に対して、K・バルトはその欺瞞と人間に対する楽観主義に反対し、神のことばに出発点を置く神学を改めて掲げた。おそらくティリッヒは、そうした歴史の流れをふまえつつも、人間が本当に神のメッセージの前に立つということが起こるためには、メッセージを受け取る私たちのなかに、本当にそのメッセージが必要であるということを掘り下げておく必要があるし、また、必ずその答えを求める人間実存があることを捉えていなければメッセージは届かないという問題意識が彼独特の神学を形成させている。
 今、21世紀を迎えた私たち、改めて、この「相関の方法」を深く学ぶ必要があると思う。難解な神学という印象だが、じっくりと説教集を読むことで、深く教えられることがある。既に絶版だが、古本で手に入れたい。神学生は必読。