2014-02-25

大木英夫『終末論』

神学生へ、おすすめの一冊。神学を学ぶということの面白さを味わうだろう。

大木英夫の『終末論』。現在、既に絶版?のようだが、中古ならなんとか手にはいるだろう。本書は90年代になってからの出版だが、「終末論」は70年代に繰り返し議論され取り上げられたテーマの一つだ。

終末論 (精選復刻紀伊国屋新書)

近代の合理主義・啓蒙主義下で生まれ展開をして来た自由主義神学、また史的イエス研究の展開は、人間理性のなかで宗教(キリスト教)の意義をとらえ直そうというチャレンジであった。カントの影響を強く受けながら展開されていく神学思想のなかで「終末論」がどのように理解されて来たか。さらにはバルトの危機神学へ、そして、その批判的継承者としてのモルトマンへと流れていく神学潮流の中に、「終末論」がどのように変遷して来たのかを鮮やかに示してくれる。
 終末論は、単なる教義学の一項目なのではなく、神学の構造、性格を決定する枠組みであるということに目を開かれる。

 近代神学の歴史を学ばないといささか難しいかも知れないが、むしろ、この本を繰り返し読むことで理解が深まるので、是非取り組んでいただきたい本だ。


2014-02-24

『聖卓に集う』

ルーテル教会の礼拝を実践的に学ぶためには、ぜひとも手もとに置いておきたい一冊。



日本福音ルーテル教会、日本ルーテル教団が現在用いている「青式文」は1996年に出版されたが、この出版に至る前十数年間は試用版が用いられていた。いわゆる「白式文」だ。その編纂に関わられたのが前田貞一牧師。最終的な「青式文」が決定されていく時にはその委員の役割からはなれられてもいたため、前田先生の思いとは別に「白」から「青」への微妙な変更がなされている。しかし、「青式文」ができてもその公式の解説などは委員会の仕事とはならなかったので、現在の式文の包括的な解説と実践的説明を求めるとすれば、これを読むのが最も良い。先生の礼拝学の深い見識と牧師としてのご経験が盛り込まれ、礼拝について深く学ぶことができる。
 私自身、神学校で前田先生に礼拝学を教わったのだが、ちょうど私が神学生となって実習をさせていただいた東京池袋教会で初めは協力牧師として、後には主幹牧師として直接に教会でお世話になった。先生からは、沢山のものを受け取り、学ばせていただいた。主日の礼拝のなかで、先生が式文を用いた礼拝の意味やそこで養われる信仰・敬虔について具体的に教えてくださったことは忘れることはない。
 現在、近い将来の式文改定へむけての準備に加わっているが、その時にいつでも現在の式文を振り返り、学ぶことができるのは、この一冊があるからだ。前田先生の貴重なお働きに感謝している。
 ルーテルの神学生は手もとに置いておくべき一冊だ。

2014-02-21

『神の元気を取り次ぐ教会』

ルーテル教会の引退牧師である、石田順朗先生の新しい書き下ろし本。

「主日説教が、聖書研究会でのような講解的説話で終わってしまうのではなく、また、キリスト教教理の連続的講話に尽きるのでもなく、伝達された説教の余韻が残るかどうかです。会衆各自の日常生活のリズムや、信徒たちの交わりに、説教が生きるかどうかです。すなわち、地域会衆の存続に、「いま・ここで」、意味深く共鳴するかどうかということです。」(本文、第11章より)

 みことばによってこそ、私たちの信仰がつくられ、私たちの心は熱くされ、慰められ、生かされる。そのようにみことばを聞きたい。そのようにみことばを分かち合いたい。そのようにみことばを取り次ぎたい。


「神の元気を取り次ぐ」こと。書名に記されたこのユニークな表現は、福音によって信仰に導かれ、その福音を分かち合う牧師へと召しを受け、長くその働きを担ってこられた筆者石田順朗先生が、今こそ教会の使命としてどうしても確認したかったものだといえるだろう。
 進歩した科学技術がこんなにも私たちの日常を便利で快適なものにし、世界の新しい可能性を示しているのに、人々は孤立し、社会全体は先行きの不透明さに大きな不安を抱いている。教会もまた宣教に行き詰まり、子どもたちの姿が少ない現実の中で明るい未来を描けず、元気がない。
 けれども、本当の元気は私たちの内からはけっしてわき上がっては来ない。筆者は、それはただ「神の元気」から来ると確認する。「神の元気」とは、神から被造物に与えられる「いのちの息吹」のことと聖書は示しているのだ。このいのちの息吹は、神の言葉として私たちに向けて語りかけられ、私たちを生かす力として働く。
 ご自身が説教によって「元気をもらった」という原体験を長い信仰生活を通し確認し、また説教者として人々がそれによって生かされ、導かれるのを目の当たりにしてこられた筆者だからこそ、その真実を率直に示してくださっている。確かに説教が、人を元気にし、世界に神の御心実現していく。
 その説教がどのように準備され、分かち合われ、伝えられてきたのか。教会の暦や聖書日課、聖礼典や礼拝のことなどについてやさしく説明を加え、細やかな配慮のなかに神のみことば、「神の元気」が用意され分かち合われて来た教会の知恵を教える。その知恵によってこそ、信仰者がこの歴史的世界のなかでどう生きるべきかを確かに受け取っていくのだといえるのだろう。

 9.11、3.11という二つの大きな出来事を体験してきた現代には沢山の課題がある。その現代を生きるキリスト者に与えられている恵みと使命を「神の元気」において私たちは分かち合うものと教えられる。(「るうてる」2月号掲載)
 
 この本も、神学生、特にルーテルの神学生の必読書の一冊。けれど、神学生だけではなく、むしろ教会に集う多くの方々に読んでいただきたいと思う。教会で語られるみことば・説教が分かち合われるためにどのように整えられているのかを知ることで、私たちの信仰のあゆみが暦の中で導かれていくことを豊かに受け取ることができよう。

2014-02-11

基調講演『ルターの礼拝改革と私たち』①

今日の基調講演のレジュメを起こして、講演内容を少しずつ紹介したい。

宗教改革は礼拝の改革として
 宗教改革は神学的問題にとどまるものではなく、実践的な教会の改革であって、また当時の人々のパイエティを変えた。具体的には礼拝の改革が中心であった。しかし、それまでのミサを廃止したわけではなく、改革したものだ。ルターは「最も重要で、最も有用な秘訣は、ミサにとって何が根本的、根源的なものか、何がそれに付加された無関係なものかをしることである」 という。当時の教会の礼拝(ミサ)において根本的なものに無関係で、またさらに言えば有害な要素が付け加わっていたのだ。だから、今一度、礼拝が本来あるべき根源的な姿を取り戻す必要があったということだろう。その改革はどのような原理、礼拝についての理解(神学)によったものなのか。

. 神の業としての礼拝 Gottesdienst
 礼拝は、神の奉仕。神にたいして私たち人間が捧げるという人間の業ではない。礼拝は「捧げる」というよりも「与る」とか「まもる」という言い方をする。つまり、神のわざ、救いの働きなのであって、人間のわざではない。その神のわざとしての礼拝とは次のような本質をもっている。
(1)神のわざ、それはみ言葉をとおして
   ①改革のなかで、たとえば聖餐が二種陪餐へと変えられる。それは、ただ、イエ 
    ス・キリストの約束、そして命じられた言葉に従ってなされること。改革は、神
    の言葉にその筋道が見いだされる。
   ②同時に、たとえば急進的なカールシュタットの改革を制止し、「唯一私たちの心
    における偶像を取り除くのはみことばの説教」であるという。み言葉が働き、私
    たち自身を変えていくという原則をもっていることも、大切なこと。

(2)福音の中心性
   ①福音の明瞭に示されること。これが礼拝にとって必要なこと。神による人間への
    救いの働きがゆがめられたり、隠されたりすることのなく示される。すなわち、
    宗教改革の神学によって確認された、神の恵みの働きのみによる救いがある。
   ②聖餐の理解ではっきりと示されたと言ってよいが、礼拝は犠牲ではなく、神によ
    る賜物として、すなわち人のわざではなく、神の救いのわざとして示される。 

(3)信仰者を創造する
   礼拝は、信仰を要求する。ex opera operantis という主張は、執行者の問題では
   なく、受領者の信仰に基づく有効性を主張している。信仰義認という言い方も同じ
   だが、それは、けっして信仰が前提条件ということではない。無条件的な神の救い
   のみ業であることは間違いない。しかし、その神のわざが、不信仰から信仰を創造
   するのであり、それがみことばによる礼拝。信仰とはなれては存在しないという意
   味。逆に言えば信仰者がそこに存在しないままで行われた私誦ミサなどへのするど
   い批判でもある。礼拝はそこに人がいて、み言葉が聞かれ、そのみ言葉の働きによ
   って、信仰がその人の内に創造され、生かすわざ。