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2018-11-10

日本ルター学会 2018年度学術大会

発表:「宗教改革500年とエキュメニズム」
昨年の10月31日の宗教改革500年は、今までにないエキュメニカルなセッティングで宗教改革を記念することとなった。もう、宗教改革記念という言い方以上にエキュメニズムと宣教を覚える日として記念することの方が、これからの歴史に向けての大切な一歩になると個人的には考えている。

発表は、今までも確認してきたことで目新しいものはない。特にこの50年のカトリックとルーテルの国際的対話に経緯の紹介という性格を持つ。ルターの福音理解が、今日どのように受け止められているのかということの確認の意味を持つだろうか。
かつて、教会が結果としてたもとを分かつことになった改革の二つの原理が、500年の時を経て、ようやく、その真の意味で働いて、一致の原理になっていることを考えてみた。

以下が大会のプログラム
日時 20181110() 午後130分~5
場所 日本福音ルーテル東京教会

研究発表
 13:30-14:00「宗教改革500年とエキュメニズム」 石居基夫 氏
 14:00-14:30「現代におけるルターの聖餐論」 立山忠浩 氏
 14:30-15:00「新メランヒトン全集について」 菱刈晃夫 氏
休憩15
 15:15-16:00
合同ディスカッション
「宗教改革500周年記念号ルターの主要著作を読む『ルターと宗教改革』7号をめぐって」

2018-06-27

ポスト「宗教改革500」を 生きる教会

 今年、宗教改革500年をおえてあらたな歩みが始まる。そのことを自覚的に取り組もうとする教会が多い。
 日本福音ルーテル教会が日本のカトリック教会と共同で記念の時を刻むことが出来たことは、決してあたりまえのことではない。欧米では多くのところでこの記念を同じように過ごしたところもあるが、宗教改革という歴史を持たないアジアの地域で、この取り組みは今ひとつ自覚的な取り組みになりにくかっただろう。日本では、1984年から両教会の対話委員会が開かれてきていて、洗礼の相互承認も共同での翻訳や出版活動などを行ってきていた。そういう背景の中、欧米でやっているからとか、大きな記念の年だからというのではなく、なぜこのことに取り組むのか、何を目的とするか。そうしたことを丁寧に話し合いながら成し遂げたものだった。
 つまり、こうした歩みはルーテルとカトリックの両教会が単に仲良くなろうというということではなく、現代世界への福音宣教のためということがはっきりと確認されてきたことだった。
 だとしたら、その記念は決して過ぎてしまえばそれで終わりということではなく、新たな教会の歩みのスタートとなるべきものだろう。もちろん、カトリックとの間での話し合いからさらなる共同・協働などについてもこれから新しい歩みが始まっていくだろう。けれども、やはり自らをどのような教会としていくのか。そのことへの取り組みが是非とも必要。


各地域、また教会でも、そのことを自覚した学びがなされてきている。
私も、このテーマでは今年二回目の講演となる。学びを重ね、また各地域での考えや実践を丁寧につくりあげていくこと、情報を共有することなどとても大切なことと考える。
 近く、この宗教改革500年の取り組みの全体の報告書、日本福音ルーテル教会の東教区ビジョンセンターでの連続講演会の記録なども出来上がってくる。こうしたものを改めて学びながら、これからのわたしたちキリスト教会、ルーテル教会の歩みを宣教の脈絡のなかで豊かに味わい、造り出していくものでありたいのだ。
 


2018-05-05

2018 牧師のためのルターセミナー

日本ルーテル神学校のルター研究所では、
今年も「牧師のためのルターセミナー」を開催する。


 今年は、「500年からの出発」(ポスト・R500)をテーマにこれからのわたしたちの神学と教会について学びを深める。
 いろいろな意味で時代は大きな節目を迎えている。社会も教会も、新しい時代の波に飲み込まれそうになっていて、大きな問いの只中にある。
 宗教改革500年とは一体何であったか。そして、カトリックとルター派のエキュメニカルな交わりは何を意味し、これからのキリスト教界(日本)はどのような役割を生きるのか。今だからこそ、深く問い直していきたいのだ。
 「わたしたちのこれから」をどのように造り、生きていくのか。何について取り組んで、何を次の世代に引き継いでいくのか。共に集って、本音で語り合いたい。

 日程:2018年6月4日(月)〜6日(水)
 場所:東山荘

 今年は所員の発表ばかりでなく、むしろ牧会の現場でルターに学んできた牧師たち、また卒業して間もない若手牧師の卒論の取り組みなども共有していくプログラムを用意している。今、わたしたちは何を問題としているのか、なにをどのようなことばによって語るのか。ざっくばらんに、しかし、牧師としての時代を生きる責任と悩みの中で、今ルター神学を問い直していきたいのだ。

 今まで、足が遠のいていた先生方にも是非ご参加いただきたい。

参加申し込みは、ルター研究所の以下のメールアドレスに。

Luther-studies@luther.ac.jp 

(氏名、所属教会、連絡方法を明記して申し込んで欲しい。)



2017-11-29

「共同記念」の苦労と喜び

日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会の共催で、宗教改革500年共同記念の行事が、11月23日祝日にカトリックは長崎の浦上教会において無事開催された。
五百年目にして、このように相互理解と交わり、そして共同・協働が可能になったことは、なによりも真の「対話」を重ねて来たことによると思う。



以下のURLにて、当日のシンポジウム、そして共同記念の礼拝を視聴できる。

https://www.youtube.com/watch?v=CkLUSYOPZoA

全国から600名近くのルーテルの信徒があつまり、同様にカトリックから長崎を中心として600名が参加されて1200名を超える方々が浦上の会堂を埋めた、その様子だけでもご覧いただければと思う。

この共同記念は、簡単に実現したわけではない。日本のカトリックとルーテルとで30年に渡り対話を重ね、洗礼の相互承認、そして『カトリックとプロテスタント、どこが同じでどこが違う』の出版や、『義認の教理に関する共同宣言』、『争いから交わりへ』の翻訳・出版を行い、2004年、また2014年と過去2度にわたる合同での礼拝を実現してきたことが、この企画を実現するための下地だ。カトリックの高柳俊一先生、ルーテルの徳善義和先生らが牽引してくださってきた神学的な対話ための委員会も、すっかり世代交代したと言ってよいだろう。委員会は、この企画のための準備委員を選び、企画原案をつくりながら委員会へと報告し、それぞれの教会レベルでの決定へと進めた。
今回の企画は、委員会での企画ではなく、教会レベルのものすることにこそ意義がある。しかし、委員会レベルにおいてさえ、両教会の間には大きな温度差も存在した。まして教会レベルでの取り組みとすることがどれほど困難なことだったか。
カトリックにとっては宗教改革を「記念」すること自体にそもそも意義を見出すことはできないし、日本という状況で言えば、そもそも乗り越えたり、克服したりしなければ成らないような「争い」も経験しているわけではない。この企画の意義とは一体何か?ということは国際レベルの委員会がリードをしてくれて文書を出した後でさえ、自分たちのものと成らなかった。
それでも、改めてこの宗教改革500年の時だからこそ、私たちが取り組むべき意義があることを見出していく。
一つは第二バチカン以降の両教会が重ねて来た対話と一致のための歴史を16世紀の分裂の歴史に対する責任として両教会が世に示していくべきではないかということが深められた。宗教改革ということが年号と出来事の暗記ものとしての歴史に成ってしまうのではなく、むしろ、私たちがその歴史に責任を負って生きる者であること証言していくべきなのだと理解されたことだった。
二つ目は、平和のメッセージを出す責任を理解したことだ。唯一の戦争被爆国、そして3・11での原発事故を踏まえて、非核という喫緊の問題に直面して、平和を単に国際関係の問題としてだけでなく、神のつくられた被造世界への責任として理解するとき、私たちが日本で、カトリックもルーテルも一人のキリストに結ばれて今、世界に発信するべきことがあるのではないかということだった。
この二つのことを踏まえて、ようやく動き出すこととなるのだ。
それでも、これが動いていくプロセスには、大きさもそうだがあらゆる意味で両教会には組織的な差があったために、準備にあたるものの苦労は、実は作業的なことばかりではなかった。総論でよしと成っても、各論、つまり実際はどこでどうするのかということが具体化しなければ成り立たない。これには、さらなる苦労が重なることと成った。
 つまり、「長崎」という場所が唯一カトリックとして取り組む土壌として浮上して、企画は軌道に乗せられたのだ。しかし、さて、ルーテルの側では「長崎」には小さな教会が一つあるのみで、しかも現在は専従の牧師をおいていない。この差のなか、出来ることは東京で準備していくことだったが、この取り組みを日本のキリスト教の歴史に対する一つの責任とも理解してきたし、自認するからには、このギャップは実は本当に大きなチャレンジと成ってくるのだ。
 それでも、執行部、事務局長は身を粉にして足しげく「長崎通い」をして一つひとつ理解を求め、この地でのカトリックの深さと大きさに圧倒されつつ、この地でとりくむことが出来ることの意義を、本当に深く知っていくことと成った。
 そうした積み重ねが、ようやく具体的な形になって希望が見えてくるのは、今年の春から初夏にかけてだ。そこからさらなる詰め、現場での実際を可能にする準備は直前一ヶ月でも終えられなかったのだ。それでも「長崎」現地の浦上の方々の大きな理解と協力を得て、これが実現していく。
 改めて、今回、この取り組みができたこと、大きな喜びのなかに味わっている。
 
 当日の感動は、さらに、深いものとなった。シンポジウム、礼拝のそれぞれの企画の布告とともに、また別に記したい。
 今は、まず、これを終えたことで、この歩みができたことを、神様の恵みとしてただひたすら感謝する。

2017-11-19

11・23 宗教改革500年 共同記念礼拝 

 この11月23日、長崎でのカトリックとルーテル両教会が宗教改革500年を共同で記念する。そのメインは、共同記念礼拝だ。カトリック浦上教会に約1500人が集うこととなる。
 礼拝の主題は「すべての人を一つにしてください」。


 説教者は、日本福音ルーテル教会総会議長立山忠浩牧師と日本カトリック司教協議会会長高見三明大司教の二人。
 神のみことばによって導かれた一致と協働であることを覚え、福音を聞き、和解と平和の恵みを分かち合い、そうして分断された現代の世界へ神の恵みを伝えるよう祈りを合わせていく礼拝としたい。


 この礼拝に与った一人ひとりが、この世界の平和と一致を祈り、また新しい未来に向かって主の働きのなかに自らを捧げ、委ねていくことを具体的に表していくような礼拝となればと願っている。集められた祈りを執り成し祈り、共に主に仕え、明日の世界に希望をつないでいく。きっと、そんな礼拝となることだろう。

礼拝は、以下のサイトで同時配信される。

https://www.youtube.com/channel/UCs8_-OJJpWCurq3l4gFVA1Q/live


 

2017-11-18

11・23シンポジウム「平和を実現する人は幸い」


宗教改革500年、ルーテル・カトリック両教会による、共同記念が11月23日に行われる。



午前中はシンポジウム、午後は礼拝。
シンポジウムのテーマは「平和を実現する人は幸い」。
シンポジストは、三名(組)による。
はじめに、「長崎からの声」として橋本勲司祭と深堀好敏氏。深堀氏は、今年の8月9日の平和祈念式典で平和への誓いを被爆者を代表してはなされた方だ。ご高齢なので、当日の出席が心配されるが、橋本司祭がサポートしてくださって、長崎・浦上のキリシタン弾圧と被爆体験の苦難の歴史体験を踏まえたなかから、信仰と平和への願い、取り組みの証しをお話しいただける。
その次は、石居が担当させていただき、私たちが平和を願いつつそれを実現することがなかなか出来ないでいる私たち自身の「罪」の問題を取り上げる。キリスト教に限らず、宗教というものの陥りやすい過ちについて、気づいていくことの大切さを考えたい。そして神の恵みの働きの中に生かされていくルターの信仰に学び、また、このエキュメニカルな交わりの成果にたちつつ、いま何ができるのかを考えていきたい。
最後に、カトリックの光延一郎神父にエキュメズムという視点から平和に取り組むことを深くお話いただく。特に「カトリック性」が全体を一つのものとして捉える視点であることから、現代のように多様化し、また深い分裂や争いの絶えない世界の中でのこれからのキリスト教の責任を説かれる。あらたな宗教改革を生きるべきことをお話いただく。

宗教改革500年は、単なる過去の記念ではない。それがなんであるか、ということを深く問いつつ、今の私たちが何をするのか、その改革を新たに自らのものとするべきことを捉えることだろう。
シンポジウムも礼拝も、参加できなくても、ネットを通じて配信される。是非、それぞれの場所で参加いただければと願う。



2017-05-07

ルターとエキュメニズムの前進

 日本福音ルーテル教会・東教区宣教ビジョンセンターは、今年宗教改革500年を記念して、テーマ「ルター、その光と影」を掲げて毎月一回ずつ全10回の講演を企画した。その第三回目に、担当が与えられた。「何か話して」と依頼され、「なんでもします」と応えたものの、なかなか準備の時間もなかろうと、今年のローマ・カトリックとの企画について話してくれたらいいからと、お題を頂戴した。


 ここ数年、日本福音ルーテル教会とローマ・カトリック教会とのエキュメニズム委員を担当し続けてきたので、今、日本で取り組まれているカトリックとルーテルの対話とその成果についてお話しするには、材料に事欠かないし、今年の秋の大きな共同の記念企画には、はじめから関わってきているので、その取り組みの進展をお分かちできることは、秋に向けて、絶好の好機となる。
 気軽に受けていたが、いざ、改めてお題を見て、唸る。

「ルターとエキュメニズムの前進」

さすがに、このテーマには準備が必要だ。ルターが今日のエキュメニズムの進展ということにどのような関係があるのか。ルターは、むしろ教会に分裂をもたらしたのではないかという「汚名」まで着せられるのではないか。エキュメニズムの進展とは20世紀の産物であって、ルターその人との「直接の関係」はない。

しかし、問題はそこから先にある。ルターこそ、今日のエキュメニズムの原則を示したのではないか。宗教改革とは何かということを問えば問うほど、実はエキュメニズムとの関係に示唆を与えられるのだ。

ルターに学ぶものは、ルーテル教会を形成するのではなく、「一つの、聖なる、公同の、使徒的教会」を絶えず歴史の中に問い直すものとなるべきなのだ。
そのこころは…

明日の発表の後にここにもアップしたい。




2017-01-04

「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑵

〈本文から〉
●感謝の心をもって
 この共同声明をもってわたしたちは、宗教改革500年を覚える年の始まりに当たり、ルンドの大聖堂において共同の祈りを捧げるこの機会のゆえに神に喜びをもって感謝していることを表明いたします。カトリックの人々とルーテルの人々との間にもたれた、実り多いエキュメニカルな対話の50年がわたしたちにとって多くの違いを乗り越える助けとなり、わたしたちの相互理解と信頼を深めてきました。同時にわたしたちは、しばしば苦難や迫害の中で苦しんでいる隣人に対する共同の奉仕をとおして互いにより近しい者となりました。対話と分かち合った証しとをとおしてわたしたちはもはや他人同士ではなくなりました。むしろわたしたちは、わたしたちを結び付けるものがわたしたちを分かつものよりも大きいことを学んできました。
       

〈学び〉
 この「共同の祈り」がもたれるということは、先に記したようにこの50年間の両教会の代表によって積み重ねられてきた粘り強い取り組みがなければ、決して実現できなかったものだ。それまでも、もちろん互いの神学的主張についてはそれぞれに研究対象であったが、どちらかと言えば批判的傾向が強かったと言えるだろう。しかし、この対話の時期に入ってからは、お互いをより深く学び、認め合うものであった。
 折しもルーテル教会の大切な信仰告白である「アウグスブルク信仰告白」450年やルター生誕500年などのきりの良い時がこの50年の歩みの中に重なっていて、それでなくてもルターやルーテル教会について神学的検証が起こることが必然でもあった。その時期に、この両教会間の対話がなされることは特別な恵みであったといってよいかもしれない。

 50年に渡る「エキュメニカルな対話」は今までのところでは五つの期に分けられている。第一期(1967〜72):この次期に、今一度、それぞれの教会の福音理解を友にしていることを確認した。その果実が1972の「福音と教会(マルタレポート)」。
 第二期(1973〜84):聖餐、一人のキリストのもとにあること、教会の職務などのトピックを取り上げる。
 第三期(1986〜1993):「教会と義認」をテーマに対話を重ねる。
 第四期(1995〜2006):第三期をうけて、1999年「義認の教理に関する共同宣言」と、2006年の「教会の使徒性」を成果とする実りある対話がなされた。
 第五期(2009〜):2017年を両教会で迎えるための準備をかさねてきた。2013年に「争いから交わりへ」の文書が出され、両教会の歴史の中の過ちを告白し、これからの両教会の宣教の責任とまた教会一致への歩みを宣言している。

 つまり、この対話においては実践的な協力という側面よりもむしろはっきりと神学的課題を正面に据えてきたものだということがわかる。言葉をかえるなら、自分たちの信仰の内実、とりわけ福音の理解ということでの一致を確認するための歩みだったといってよいだろう。しかし、その一致を求める対話の中でこそ、それぞれの信仰の具体的な姿、内容が共有され、自らの伝統を寄りよく理解することにも、またそこでの特徴や課題についても気づかされていくものとなったといってよいだろう。そして、相手の姿の中に新しい発見も導きも見出していくことにもなった。
 エキュメニカルな対話は教会を豊かに実らせているように思う。

 そして、こうした対話とともに、より具体的な世界の課題で協力し合う、実践的交わりももちろんあったのだ。具体的な協力関係がお互いを本当によく理解し合う原動力になったことも確かなことだといわなければならない。



「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑴




 2016年10月31日、スウェーデンのルンドで行われたカトリック教会とルーテル世界連盟の「共同の祈り」の礼拝において、2017年の宗教改革500年を共同で覚えるに当たっての声明文が公にされた。この声明はフランシスコ教皇とユナン連盟議長が書名をして発表されたのだ。少しずつ、この声明文を読んで学んでみよう。

 はじめに、この記念礼拝でのテキストとされたヨハネ福音書が記される。

〈本文から〉 
   「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。
   ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができ
   ないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶこ
   とができない。」(ヨハネによる福音書15章4節)




〈学び〉
 みことばを記すことにはじまる声明。みことばによってこそ導かれるという基本的な姿勢をしめしているといってよいだろう。これは、この宗教改革500年の記念ということに留まらず、近年のエキュメニカルな交わりの基本を示している。それぞれの教会の神学的な主張からはじまるのではなく、伝統に縛られるのではなく、みことばによってこそ導かれるべきなのだという意味を示している。

 さて、このヨハネ15章の箇所が示されることで、カトリック教会もルーテル教会も等しくキリストに結ばれ、キリストに生かされ、豊かな身を結ぶものであるようにと主に呼びかけられている存在として認め合っていることが示されている。

 当然のことのように思われるかも知れないが、決してそうではない。宗教改革者マルティン・ルターはカトリック陣営と論争した末に自説を撤回することのなかったために断罪された。その信仰に連なるルーテル教会はもちろん、カトリック教会からたもとを分かつこととなったプロテスタント教会は、カトリックから見れば教会として認められない異端とされてきたわけだ。逆にルターをはじめプロテスタント教会は、聖書に基づく福音主義を掲げて、カトリック陣営、特に聖書の解釈の正当性を独占するような教皇主義を徹底的に攻撃をした。中世から近代への歴史の中では両方の勢力は政治的な意味での対立と重なり西欧世界においては争いと対立が繰り返されてきた。

 そうした対立は、近代国家の成立の歴史とともに比較的穏やかになっていくけれども、基本は変わらない。そうした関係を決定的に変えたのが、カトリック教会の大転換だったといってよいだろう。1962年から65年まで開かれた第二バチカン公会議は、カトリックのみならず世界のキリスト教会に大きな影響を与える会議となった。カトリック教会は、この四年にわたる公会議で、現代世界のなかに新しい教会の姿を求めて大きな舵を切ったのだ。その中で、1964年にエキュメニズム教令を公にしてプロテスタント教会にも真理が示されていることを否定しないこととなった。難しく言うとカトリック教会の包括主義的な立場(最終的に救いについての確かな真理があるのはカトリック教会に他はないのだけれども、部分的には他の場所においても神の普遍的真理を示すものがあることを否定せず、それを認めていこういうこと)をしめしている。しかし、実質的に大切なことは、中世の時のようにルーテル教会を「断罪する」という考えを改めて、兄弟としての教会と認めていく可能性を示したということだ。

 そこからはじまる対話の歴史こそ、みことばによって導かれたものだ。その歴史があって、カトリックの立場からも、ルーテル教会が確かにキリストに連なるものと認められるようになったといってよいのだろう。ルーテル側からすればはじめから一つの教会を飛び出すことが目的の改革の呼びかけであったわけでもなく、こうした積み重ねられる対話によって、福音が明らかに示されていく教会の本来の姿として示されていく道筋にカトリック教会も立っていると認められることだっただろう。一つのキリストに連なる枝、互いに違いを認めつつ、その働きを尊重し、世界に向かって福音を示していくキリストの体としての教会を教派を超えて連なり宣教の働きを担うものとますますなっていくように、みことばが招いているのだ。

 だからこそ、今、改めてこのみことばに聞くことが示されている。教会はたとえ教派が異なっても、キリストに連なるものとして認め合えることがなによりも大切なのだ


2016-10-28

宗教改革500年、ルーテルとカトリック「共同の祈り」

ルーテル教会とカトリック教会とが合同で宗教改革記念の礼拝、「共同の祈り」を行う。

  (ライブ中継は、次のURLで)
    http://www.lund2016.net/media/livestream/
 
宗教改革500周年を一年後に控えて、今年、2016年の10月31日にルーテル世界連盟発症の地、スウェーデンのルンド(ルンド大聖堂とマルメアリーナ)にて記念式典があり、フランシスコ教皇(カトリック教会)、ムニブ・ユナン牧師(ルーテル世界連盟議長)、そしてマーティン・ユンゲ牧師(LWF事務局長)の共同司式にてこの礼拝が行われる。
                 
                              (ルンドの大聖堂)

 両教会の合同礼拝は、1999年の同じく10月31日に『義認の教理に関する共同宣言』の調印の時に続くものだ。対話は続き、この合同の礼拝をもつために『争いから交わりへ」を公式発表し、さらに準備が重ねられてこの日を迎える。
 20世紀エキュメニズムの大きな流れが、とりわけ1964年にカトリック教会が「エキュメニズム教令」を発布して加速度的に進展してきた結果が、両教会の新しい時代を切り開く画期的な決断へとつながって、今回の合同礼拝が行われる。16世紀に宗教改革が起こり、互いの教会をアナテマを伏して断罪しあった歴史を、「和解と平和」のメッセージの中に塗り替える。この礼拝を受けて、来年の500周年は、世界中でこのメッセージを共有するようにと促されるだろう。
 日本においての企画は、間もなく公式に発表される。楽しみにしたい。
 

 

2016-03-20

〈アウグスブルク信仰告白〉再考

 昨年の12月にルター研究所から出版された『ルター研究別冊 宗教改革500周年とわたしたち 3』。テーマはアウグスブルク信仰告白だ。
 1530年に、アウグスブルクで開かれた神聖ローマ帝国の帝国議会において公に表されることとなった宗教改革陣営の最初の信仰告白文書だ。メランヒトンによって起草され、ルターによってはじめられた宗教改革的信仰が簡潔に、そして福音主義に立つことを明白にに示されている。だから、いわば宗教改革的教会、つまりプロテスタント教会にとっての記念碑的信仰告白だといえよう。しかし、この国会、そしてまたメランヒトンが誠実に取り組んだのは、ルター派の創設などではなく、むしろ教会の一致のため出会ったと言ってよいだろう。この信仰告白であれば、ローマ側もまた福音主義に立つものも、共に同じキリストの教会として告白できるものであり、教会の分裂を避けることができる。そのような願いが込められた著述なのだ。
 このアウグスブルク信仰告白の新しい翻訳が昨年10月に出版された。あらためて今日のエキュメニズムの文脈において、これを読んでみたいのだ。


   http://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/76539

ルター研究所では、この出版の準備に平衡して昨年はこのアウグスブルク信仰告白について改めてそれぞれの視点から研究発表をして、論文集にまとめあげている。


http://shop-kyobunkwan.com/4863768168.html

内容は以下のとおり。
・まえがき
・三つのE──来たるべきエキュメニズムのプログラム  江口再起
・アウグスブルク信仰告白のギリシャ語訳──翻訳に至った事情とその後の経緯 鈴木浩
・公同の宣教に参与する──アウグスブルク信仰告白とミッシオ・デイ  宮本新
・アウグスブルク信仰告白に見る信仰義認とエキュメニズム  石居基夫
・『アウグスブルク信仰告白』と『和協信条』の聖餐論──エキュメニカル的対話の促進
  と課題について  立山忠浩
・『アウグルブルク信仰告白』 五、七、八条に見る教会とその職務──歴史的またエキュ
  メニカルな考察  江藤直純
・『アウグスブルク信仰告白』 第十六条の「正しい戦争を行う」について  鈴木浩
・<書評> 『争いから交わりへ』(教文館 二〇一五年) 一致に関するルーテル=
       ローマ・カトリック委員会:著  高井保雄

私の論文では、このアウグスブルク信仰告白がもっとも明瞭にしなければならなかったし、また事実そうであった「信仰義認」の神学的主張が、16世紀においては教会の分裂の決定的な要因となったこと、しかし、今日のエキュメニカルな時代においては、その同じ「信仰義認」の神学的軸こそが、エキュメニズムを支え、動かしていく要となっていると論じる。そのようにして、本来アウグスブルク信仰告白が目指した、エキュメニカル(教会一致のため)の目的は500年の時を経てみのりを見せていると、論じるものだ。ご一読を。




2015-05-09

JATE 日本神学教育連合会 総会

 毎年、この時期に琵琶湖のほとりに出かける機会が与えられている。「日本神学教育連合会」(Japan Association of Theological Education)という、少し堅い名前の団体の総会が同志社大学のリトリートセンターで行われるのだ。全国にある、プロテスタント教会、カトリック教会の神学教育機関、つまり牧師さんとか神父さんを育てる神学校とか大学の神学部などの連盟だ。教派は違うけれども、それぞれに日本でのキリスト教の宣教を担う教職養成の責任にある人たちが集うユニークな集まり。


 現在加盟している学校は17校、これにオブザーバーとして2校が参加している。大きなミッション系大学の神学部であったり、また教派神学校であったりと様々だが、互いに今日の日本の教会の現実を背負いながら、教育と研究に従事する立場にあって、共通する問題や課題に向かい合っていることを確認し、自ずと共感し合えるものがある。教会の宣教の困難さや、少子高齢化する教会の現状。若い人たちの信仰についての意識。神学教育を担う後継者養成の問題など。
 閉会のデヴォーションでは、キリストが私たちのためにそのいのちを注ぎ、友とし、新しい神のみ業に参与させてくださる恵みについてのみことばを取り次いでいただいた。感謝!
 このJATEは、さらに韓国の神学校連盟、台湾の神学教育の連盟などと北東アジアの神学校の連盟を組織していて、国際的な交わりを構成している。ここ数年はこの国際的な交わりが有名無実になってきていたが、今、再開の方向を模索しはじめている。韓国の神学校連盟が再開に積極的なプロポーズをしてきたのだ。
 日本の教会も神学校も今は自分の足下ばかり見つめている。財政的にも人材的にも苦しい。けれど、神の宣教のみ業がこのアジアに、また世界にどんな大きな流れを生み出しているのか、またその流れの中に私たちが位置付いているのか、私たちはもっと大胆に飛び込んで味わってみてもいいように思った。
 


2015-05-08

2015年度 牧師のためのルターセミナー


今年も下記の要領でルター研究所主催の「牧師のためのルターセミナー」がひらかれる。
教派を問わず、ルターについて、宗教改革について学びたいと思われるかたは、是非ご参加ください。今回は、特に「アウグスブルク信仰告白」を題材にしますが、ルーテルにおけるエキュメニズムに関わる議論がなされそうです。
実際にも豊かな交わりが与えられ、牧会のことや宣教のことも語り合うこともできますし、リフレッシュできると思います。



日程:2015年6月1日(月)午後3時から6月3日(水)正午まで
 会場:まほろばマインズ三浦(京浜急行三浦海岸駅すぐ近く)
 主題:「宗教改革500年とわたしたち」(第三回)……『アウグスブルク信仰告白』
 費用:2万5千円(宿泊、食事、資料代込み)

原則として全期間の参加をお願いしますが、部分参加を希望される方はご相談ください。
                                                         
1) 発題と討論
1.CAに見る信仰義認とエキュメニズム          ……石居 基夫 
2.CA5、7、8条にみる教会とその職務         ……江藤 直純
3.CA16条における「正しい戦争を行う」の諸問題    ……鈴木 浩 
4.CAと和協信条                    ……立山 忠浩 
5.エキュメニズムの未来                 ……江口 再起
6.信仰告白と宣教……公同の宣教に参与する        ……宮本  新

2) 書評『争いから交わりへ』(バチカン・LWF共同文書)
 ……高井 保夫
 
3) 宗教改革500周年をめぐる討論        ……参加者全員
                   
*「まほろばマインズ三浦」までのアクセスはホームページで検索してください。
*参加申し込みは直接、ルター研究所(鈴木)まで
 

2015-02-23

『争いから交わりへ』

 ルーテル世界連盟(LWF)とカトリック教会が2017年の宗教改革500年を共に記念するために、両教会の世界規模の合同委員会が議論を重ね、昨年その成果を一つの形として文書にし発表した。1999年に両教会は「義認の教理に関する共同宣言」を公に調印して、キリスト教界にエキュメニズムの新しい時代の到来を示したが、さらに具体的に両教会の協働が合同の礼拝をもって続けられるように、宗教改革500年が覚えられることは本当に画期的なことだ。その基礎となる文書なだけに、この書がいち早く日本語に翻訳出版された意義は大きい。


http://www.kyobunkwan.co.jp/publishing/archives/16965

翻訳チームの一人として加えられたが、元訳を鈴木浩先生がいち早くつくってくださり、それをもとに、カトリック教会と日本福音ルーテル教会からの代表が半年以上をかけて出版に向けて翻訳を丁寧に造り上げた。
 本来、1517年の宗教改革は、M・ルターが「贖宥の効力に関する95ヶ条の提題」を公にして、いわゆる「免罪符」(贖宥券が正しいが、免償符でもよい)の問題をきっかけにカトリックに対して改革を呼び掛けた教会運動だった。けれども、結果的にはそれまでのカトリック教会の一致を分つことになったわけだから、プロテスタント教会にとっては自分たちのアイデンティティーを示す記念、祝いの気持ちを持つかもしれないが、カトリック教会からすればこれは少しも喜ばしいことではない。だから、この日は一緒に「祝う」(celebration)はできない。「記念する」(commemoration)という言葉遣いだ。
けれど、いずれにしても、福音を世に伝えるとう使命と喜びを確認し、歴史的な断罪を改めた両教会が協働・共同する世界への宣教のコンテキストを意識して取り組まれていることは本当に意義深いことだ。
 この文書は、両教会がそれぞれの歩みを神学的に検証しつつ、新しい世紀への教会の在り方を示そうとしていると言ってよいだろう。
 神学生には必読の書。

内容は下に目次を紹介する。
ルターの宗教改革的神学主張が、カトリックとルーテルの双方からの視点を合わせつつ評価を加えて確認されている。詳しく検証される必要があるが、こういう文書が共同で出せるというところが今の新しい時代を象徴するできごとだと思う。そして、なにより大事なことは、新しい時代にむけたエキュメニカルな責務を明らかにしていることだと言えるだろう。



第一章
エキュメニカルでグローバルな時代に宗教改革を記念する(4−15)
第二章
マルティン・ルターと宗教改革を見る新たな視点(16−34)
第三章
ルターの宗教改革とカトリック側からの反応に関する歴史的描写(35−90)
第四章
ルーテル教会とローマ・カトリック教会の対話に照らして見た
マルティン・ルターの神学の主要テーマ(91−218)
第五章
共同の記念に召されて(219−237)
第六章
五つのエキュメニカルな責務(238−245)

2014-10-24

カトリック・聖公会・ルーテル 合同礼拝

 2014年11月30日(日)待降節第一日曜日の午後5時から、カトリック教会と日本聖公会、そして日本福音ルーテル教会の合同礼拝が行われる。これは、カトリック教会が第二バチカン公会議(1962〜65)において公にした「エキュメニズムに関する教令」からちょうど50年目に当たるということで、カトリック教会がかねてエキュメニカルな対話を重ねてきている二つのプロテスタント教会に呼びかけ、協働の準備委員会を組織することで実現の運びとなったものだ。


こうした教会間の交わりは、単に仲良くしているということや協力をするということを超えて、本来、キリストの教会として一つであることをどのように見える形で実現していけるのかということを追い求めるエキュメニズム(教会一致運動)のなかでつくられてきている。
 16世紀のルターの宗教改革を皮切りとして、それまでローマ・カトリック教会という一つの教会であったものが分裂をし、それぞれ信仰的な主張と、歴史的・地理的・政治的要因から別々の教会として存在するようになった。ローマ・カトリック教会はただ一つ、キリストの教会は自分たちのみで、他は異端として退け、基本的にはプロテスタント教会はキリストの教会とは認められて来なかった。しかし、20世紀の半ば、第二バチカン公会議においては、そうした過去のカトリック教会の見解を大きくかえることがたくさん表明されたが、プロテスタント諸教会に対しても「」とよんで、この存在を認め、交わりを持ち、信仰を確認し合う様々な取り組みをするようになったのだ。
 エキュメニズム教令は、いわば現在のキリスト教会のエキュメニズムを考えるときに画期的な文書であり、またこれによって、具体的な教会の交わりや話し合いがつくられてきたのだ。
 日本でも、この交わりが具体化してこれまでも幾つもの成果を生み出している。世界のルーテルとカトリックの間では、1999年10月31日に「義認の教理に関する共同宣言」が調印され、同時にアウグスブルクの教会で合同の礼拝が行われた。それから5年後2004年にその「共同宣言」の日本語翻訳版が出版されたが、その際に四谷のイグナチオ教会のマリア聖堂でカトリックと日本福音ルーテル教会との合同礼拝が行われ、300人の会場があふれて入れないほどになった。2008年、カトリックと日本聖公会も『マリア――キリストにおける恵みと希望』の邦訳刊行を記念して、合同礼拝をおこなった。実は同年、日本聖公会と日本福音ルーテル教会の間でも『共同の宣教に召されて』という、これは欧米でのルーテルと聖公会の合意文書の翻訳のものが出版されて合同礼拝が行われている。
 そうした日本でのエキュメニカルな運動が具体的な二教会間では進められてきたのだが、今回は、初めて三教会合同での礼拝となる。
 この三教会の合同の礼拝は、世界でも例はない。日本の教会がそれぞれに積み重ねてきた対話と礼拝の実績が大きな力になって実現したものだ。
 世界のエキュメニカルな交わりと礼拝という側面では、1982年のリマ文書、及びリマ式文の成立ということが最も大きな出来事で、その時にはカトリックも含めて多教派間での交わり、礼拝も世界では行われたかもしれない。しかし、合同礼拝はそれほど多くは実現しなかったのが実際のところだろう。その後は、二教派間の交わりは世界各地ですすんできたけれども、それ以上には広がってきていない。そういう実情のなかで、今回の三教会合同の礼拝は非常に意義深いものだといえよう。
 礼拝の説教はルーテルの徳善義和牧師。日本のみならず世界でルター研究並びにエキュメニカルな対話において長くご貢献くださっている先生にお願いすることができた。
 礼拝に先立ち、シンポジウムも行われる。カトリックの光延一郎先生、聖公会の西原廉太先生、そしてルーテルからは石居基夫がシンポジストとしてこのことの持つ意味を学ぶ。司会は江藤直純先生。
 

2013-08-18

聖公会ールーテル合同礼拝 2013

 2013年9月14日の土曜日、日本聖公会と日本福音ルーテル教会とのエキュメニカルな交わりと宣教協力の具体化のために、合同の礼拝をいたします。
 2008年のペンテコステに聖公会とルーテルの国際的な対話の諸文書が翻訳出版され、その記念として合同礼拝が聖公会の聖アンデレ教会で行われました。それから、早いもので5年が経ちます。委員会レベルの対話では聖餐に関する学び、実践的な交わりを重ねています。また、両教会の神学校でも継続的な交わりを持っています。しかし、より具体的に、そして実際的な宣教の協力を考えてゆくためには、より多くの交わりを各地域で展開して行く必要があると考えて来ました。

今回は、日本福音ルーテル教会の東京教会を会場にして、合同の礼拝を行います。こうした積み重ねが、それぞれの地域に教会での交わり、合同礼拝などの取り組みを生み出してゆければよいと考えられています。
 2017年に宗教改革500年記念の年を迎えますが、ルーテルとカトリック、ルーテルと聖公会、そして聖公会とカトリックそれぞれの対話・協働の働きが重ねられているので、この年には3教会の合同の礼拝も行えたらと願っています。おそらく、そのための具体的な取り組みが来年度には実現することになるでしょう。
 21世紀を迎えて、国とか文化を超えた交流が常識となる一方で、経済的な格差問題を軸に分裂・分断、対立・争いが絶えることなく繰り返されています。キリスト教の中から、今の時代にむけて一致・協力、平和などのメッセージを具体的に示してゆくためにもエキュメニズム(教会一致運動)の責任は大きい訳ですが、そのためにもこの合同礼拝の取り組みが、一つのステップを踏んで行くものと考えたいのです。

2013-07-02

『対決から交わりへ』…宗教改革500年をカトリックと合同で

LWFとカトリック教会の国際対話委員会は、義認の教理に関する共同宣言の後、この宗教改革500年をともに「記念(commemorate)」するために準備を重ねてきているが、その特別な行事をともに守るための基本的な合意と方針が一つの文書にまとめられた。

それが From Conflict To Communion 『対決から交わりへ』の文書だ。この訳語が良いかどうかも確認していくひつようがあるが、とりあえず、このように訳しておこう。
少なくとも「communion」という時には、教会の中で単に「交わり」ということが意味される以上に信仰的な一致と共同を成り立たせる関係が意識されてきたし、それはあの信仰者のキリストにおける交わりであり、救いをともにいただく「聖餐の交わり」と結びついて理解されてきた言葉だ。もちろん、未だ両教会のあいだに聖餐の交わりは実現していないし、500年の記念という年を迎えてもなかなか難しいだろう。けれども、それに向かっているのだという意識を強く表した文書のタイトルといえよう。それだけに、この文書の持つ意味は大きい。

既に二年ほど前にこの100ページあまりの文書は委員会において決定されていたようだが、ようやくこの6月17日に正式にカトリック教会とLWFの両教会から公表され、同時に出版、そして、ウェブ上でもPDFファイルで公開された。もちろん、無料でダウンロードできる。下は、LWFによるダウンロードのためのURLだ。

http://www.lutheranworld.org/content/conflict-communion-0

公表が遅れた理由が何によるのかは分からない。しかし、いずれにしてもそれだけ、この文書の持つ「意味」が大きいということを示唆するものではないだろうか。

この文書、日本のカトリック教会と日本福音ルーテル教会のエキュメズム委員会が中心になって、いずれ翻訳されることになろう。ただ、こうした話題を委員会の翻訳作業を待っていては、両教会でこのニュースを受け取り、本当にこの2017年を特別な年として記念する事の準備をするのに遅れをとる。是非、原文ででもみていただける事をお勧めしたい。

基本的には、これまで、特に第二ヴァチカン公会議(1962−65)以降、カトリック教会は諸教会との対話を重ねてきたが、その成果は様々な形となってルーテル教会とのあいだにも大きな新しい関係を結ぶことになってきたわけだが、その一連の流れを確認しつつ、今の時代にともにこの年を憶えるということの意義を確認した文書である。

1999年の10月31日に「義認の教理に関する共同宣言」がカトリックとLWFとで共同調印されて世界に公にされ、大きな共同礼拝を持ったことは記憶にも新しい。たどれば、1980年にはアウグスブルク信仰告白450年、1983年にはルター生誕500年を期に両教会はルターの信仰とまたその神学的関心について、イエス・キリストを証するものとして認め、またカトリック、プロテスタントの遺憾に拘らず、この人物もまたそのメッセージも無視することは出来ないことを確認してきた。

いま、この2017年をともに「記念する」ということは、現代という脈絡の中でルターの宗教改革の出来事を捉え直し、またその意味を深く学ぶことで、あの宗教改革という歴史的な出来事が、現代おけるキリスト教会全体に意味があることを受け止めていこうとするものであることが確認されている。

特に、「2017年の500年記念」ということは三つの脈絡の中で特別な意義があるものとされている。(以下は、原文の翻訳ではなく、私が読みながら考えている所なので、そのようにご理解いただきたい)

1. 現代のエキュメニカルな時代のおける最初の周年記念であるということ。
もちろん、ここでいう「周年記念」百年を単位にしての事であるけれども、1917年との明らかな違いということに着目してしている。繰り返すが、第二ヴァチカン以降、ルーテルとカトリックだけではなく諸教会の対話が進み、具体的な成果もあげてきた。リマのようなマルチラテラルな成果もそうだが、バイラテラルな一対一の教会間でも成果を重ねてきている。そうした流れの中で、この500年という年があるということだ。

2. 次に、グローバルな時代における最初の周年記念であるということ。
これは、やはり20世紀の後半から21世紀になって、グローバル化が進み、地球規模で一つの世界として情報化もすすみ、また経済や政治的にも、また環境的な課題においても東西。南北が一つとなってものを考える時代になっているということであろう。いろいろな宗教世界の存在や対立についても心いためるところが大きいし、また宗教的多元主義も、こうしたグローバルな時代だからこそ生まれてきたものでもある。キリスト教というものが相対化されるのがこの時代の現実でもある。この時代に宗教という視点において、キリスト教会の歴史的な「宗教改革」という問題を捉え、そして、この500年を「共に」するということの意義が確認されているのだろう。

3. そして、あたらしい宗教的運動がおこってきていることと、同時に世俗化の進展ということの両方を体験していること。
現代の複雑さを思わされるが、一方では科学的なものの見方と物質的文明の徹底した世界において、人間の様々な分野での宗教的な役割ということは世俗的な事柄の中で取り扱われるようになってきたし、そうしてより効率的で合理的な世界を求めてきたのかも知れない。しかし、そうした世界の中に改めて宗教的なものの重要性やスピリチュアルな世界への関心も高まり、そうした取り組みが新たな形をとってあらわれていているということでもあろう。キリスト教会のなかでいえば、ペンテコスタルな運動やカリスマテティックなものが世界的に大きな運動になってきていることもあげられる。そういう時代のなかでのキリスト教会の大きなメッセージを示す機会となっているということがかんがえられているのだろう。

歴史的な意義を、教会の脈絡というよりも、より大きな現代の脈絡の中で捉えるからこそ、カトリックとルーテルが「共に」この時を記念するということの特別さを知ることが出来るのだ。

これからも、この文書一つひとつ読みすすめながら、関心のあるテーマを、それぞれにお分ちしたいと思う。

http://luther2017.blogspot.jp/2013/06/500.html


2012-03-30

NCC総会礼拝

2012年3月26・27日の二日間、日本聖公会聖アンデレ教会において、日本キリスト教協議会の第38回総会が開かれた。
総会二日目の朝の礼拝を信仰職制委員会・委員長の私と神学・宣教委員会の大宮溥委員長と二人で担当するよう依頼され、大宮先生と年頭に打ち合わせ、準備をさせていただいた。

礼拝は、テゼ共同体の祈りと賛美を用いて、「一つになって」というテーマにさせていただいた。
震災と原発の事故によって被災の人々はばらばらにされ、その生涯が切り裂かれる経験の中におかれていることを私たちもまたともに経験している。そして、一般の社会の中で「絆」や「つながり」が求められ、助け合い、支えあうことが改めて見つめなおされている。それは、今回の被災によって特にクローズアップされた問題だけれども、現代の日本社会が特に20世紀後半から直面させられてきた問題なのだ。神と人との間が私たち自身の罪によって切り裂かれるとき、人と人、人と被造物が分裂し、その深い痛みを負わされている。この分裂の中にあって、結び合い、一つとなることを祈っていきたかった。

また、実際に被災された方々を憶えること、また特に生と死の境を異にせざるを得ず切り裂かれた痛みを憶え、主から慰めと力が与えられるように祈りたいということ、そして、この現実の中で、だれもキリストによって見いだされないものはないと信じ、祈りを合わせていきたいと願った。

そして、NCCがキリストのミニストリーの中に生かされるものとして、こうした切り裂かれている現実の中で信仰の一致と協働を主の恵みのうちに証しするものでなければならないし、そうありたいと思い、このテーマを持たせていただいた。(そして、一番私自身が大切に思っていたことは、この現実に責任のある私たちの罪の告白だった。)

大宮溥先生にはローマ書8章18-30節から御言葉を取り次いでいただき、「共に生きる」と題して説教をいただいた。NCCのおかれている「今」を深く考えさせられ、また励まされた説教をいただいた。

加盟の各教会、団体の代表者にろうそくを灯して、聖卓の前に進み出ていただき、祈りを合わせ、神様からの赦しと祝福をいただく、感謝の部を設けさせていただいた。

教会が聖公会の聖アンデレ教会であったので、あのアンデレが五つのパンと二匹のさかなを持った少年を主の前に連れてきたように、私たちがそれぞれに持っているものは役に立つとも思われないようなわずかであっても、それを主が受け取られ、神への感謝とともに祝福し、用いられるときに大きな働きに生かされていくものであることを象徴的に表させていただいた。


NCC、日本キリスト教協議会は、日本のプロテスタント諸教会の教派を超えたエキュメニカルな働きを担うものである。エキュメニカルな働きの一つの軸は信仰の一致ということである。歴史の中で、それぞれの状況の中で生まれてきたプロテスタント諸教会は、しかし、同じキリスト教会なのだ。その信仰を一つの信仰として、互いに理解を深めキリストに従う一つの交わりとして自らを表していくことができることを目指している。
今一つの働きの軸は、この世界の中で信仰に基づいて他者のために奉仕をする、実践的な働きについての協働である。
こうしたNCCの働きは、日本にあるばかりではなく、世界中に存在する。世界規模の団体としてはWCC、世界教会協議会がある。日本のNCCはこのWCCの働きを受けながら、日本におけるプロテスタン教会諸派が一致と協働のために話し合い、活動を担っていくものとなっている。キリスト者としての多様な活動、運動がこのNCCを軸にして生み出されてきた。

しかし、この新しい21世紀を迎えて、NCCはその組織そのもののあり方について大きな曲がり角に立っている。加盟の教会、団体をはじめ、各委員会が今改めて自らのあり方について考えなければならないのだと、痛感させられた総会だった。

そうであればこそ、本当に主の前に立つものであること、憶えたいと思い、この礼拝を企画させていただいた。
主の恵みに生かされたい。


2012-03-12

3・11 カトリック・NCC合同祈祷集会


いつの間にか、梅が咲いて、春の足取りを思い起こさせてくれている。
一年前も、同じように春をたくさん感じ始めた3月11日、午後2時46分。
東日本大震災が東北を襲った。続く津波の脅威は、すべてを根こそぎさらっていった。制御のきかなくなった原発からは放射能が流れだした。

あの日から一年。
カトリック教会とNCC(日本キリスト教協議会)の合同主催によって「東日本大震災一周年にあたり追悼と再生を願う合同祈祷集会」が全国で持たれた。
東京では、四谷麹町の聖イグナチオ教会にて行われた。

礼拝の式文は次の通り。
http://ncc-j.org/uploads/photos/25.pdf

会堂にいっぱいの人が集まり、岡田武夫大司教と輿石勇NCC議長との合同司式で執り行われ、岡田司教から御言葉をいただいた。

礼拝の終わりに現地での活動報告。被災のお一人ひとりに寄り添うことの大切さと難しさ、しかし、主の働きがもたらされるために用いられることについて深く深く思いめぐらし、浅薄な自分の祈りが導かれた。
ともに祈ること。教派を超え、宗教を超えて、この日にささげられた祈り。この祈りから、私たち自身が整えられ、神の働きのなかに生かされていく。そうありたい。





2012-03-01

「カトリック諸宗教対話」から考える

カトリックとNCCとの間で毎年開かれる対話集会、その第29回の集会が2月28日に四谷のイグナチオ教会ヨセフホールで開かれた。
今年のテーマは、「『カトリック教会の諸宗教対話の手引き』について」。
2009年に出版された、同書の解説をいただきながら、今日のカトリック教会が他宗教についてどのような姿勢を持っているのか、また、具体的な現実のかかわりの中でどういう問題があるのかなど、キリスト教会と他宗教との関わりということについて、大わ変興味深い発題をいただいた。

 

http://www.cbcj.catholic.jp/publish/other/jissen/jissen.html

信徒の信仰生活では、当然のことながら、親せきや地域のかかわりの中で必然的にキリスト教以外の宗教に関わることがある。どのように対応するべきか、非常に具体的な問題について、カトリック教会が指針というか、手引きを明らかにしているのだ。
発題は、フランコ・ソットコルノラ司祭と園田善昭司祭。本の内容にそって解説をいただく形式ではあったが、ソットコルノラ司祭が基本的な神学的な取り組みについて話され、園田司祭は具体的な問題にかかわっての発題だった。
具体的課題は、たとえば冠婚葬祭で他宗教とかかわる場合のことあるいは地域のお祭りや正月のお飾りなど、日本の生活習慣の中にある宗教性とのかかわりの中でクリスチャンとしてどのように対処すべきかというもので、これは大いに役立つ。

第二バチカン以降の他宗教への新しい対応の在り方をわかりやすく解説された。
カトリックの基本的な考え方は、包括主義といえよう。他宗教にも真理の契機があることを認めつつも、キリストがない限り、救いは教会以外にはない。結局は唯一の真理と救いはカトリックにあるので、他宗教の中にも良いものは認めるけれども、回心がおこならない限り救いはあり得ない。けれども、他宗教との対立はさけ、忍耐強く対話を続ける。
しかし、結局対話において、変わるべきは常に相手側であって、教会には変わる必要はないというのが基本的な考えであるようだ。

けれども、他宗教のなかに、カトリック(キリスト教)よりも優れたものはないのか。
たずねると、
実践のなかでは、カトリックの真理への接近に大いに役立つもので、自分たちの伝統の中にはなかったり、あるいは時代とともに見失われてきたものもあるので、現在の宗教間対話がカトリックにいろいろなよい影響を与えることはあるという答え。

でも、ここからが問題なのだ。たとえば実践において、仏教の禅において、自らを無とするやり方がある。仏教にはキリストがないし、十字架の贖いがないわけだから救いは求められないけれども、この実践には、自らを無にして神様の御心に満たされる方法を示唆されるという。たとえば、キリスト教におけるケノーシスとも重なるという。
これなら、実践的ななにか。方法論の援用ということにとどまりそう。

でも、園田司祭の発言は非常に微妙な展開を見せた。
つまり、他宗教にみとめるべきことが単に実践的な問題だけなのか。キリストの真理が最終的・決定的なものであることをゆるがせにせずとも、キリスト教、カトリックがその真理についてただ一つの絶対的な理解を今すでに持っているということが言えるのか。神学の中に真理理解の発展ということがあるとするなら、現在の神学の言葉は部分的なものでしかない。つまり、歴史の中で相対的なのだ。キリストの真理をすべて言葉にしつくし、絶対的な表現を持っているとはいえない。絶対的でないのであれば、相対的な理解にとどまる。ならば、もしかすると他宗教の真理理解に、部分的であるとしてもより優れたものがないとは限らないのでは・・・と。
これは、大変微妙な発言。カトリック的インクリューシヴィズムは、歴史主義において相対化されてくるようにも思えるのだ。
ここをもう少しお聞きしたかったところだが、限られた時間を思い、これを掘り下げることはできなかった。しかし、園田司祭が、他宗教との長い対話のなかから、注意深く発言されたその言葉は、なかなか重たいものだ。キリスト教の相対性を語るとしても、キリストの絶対性は疑うことはない。それでも、謙遜に、しかし、確かな信仰を生きながら、真摯に信仰を異にする人々と向かい合う知性を思わされた。