2011-04-28

大学生への推薦図書⑤ プラトン 『ソクラテスの弁明』

ギリシャ哲学の古典、プラトンの作品。「汝自身を知れ」、「無知の知」などの言葉で知られるソクラテスの思想と活動の内容をよく伝える一冊だ。対話の中からより真実なものへと向って尋ねて求めていくソクラテスの手法に、理性をもって考えるということあり方について知らされる。
ギリシャ哲学が、世界の成り立ちを探ってきた自然哲学から、人間自身を問い、真善美を求める価値や生き方の問題へと転換していく出発点となったソクラテスを味わえる。




高校の「倫理」の授業で読んだのがはじめの出逢い。近年、哲学入門の授業を担当して改めて読み直した。古典として是非目を通してほしい。

2011-04-20

大学生への推薦図書④ V.E.フランクル『夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録』

筆者自身のアウシュビッツの経験を、精神医学者としての書き記したもの。人間が非人間的に扱われ、生きる希望を奪い取られ、人間ならざる者となっていく様が克明に観察される。その現実の只中で、なお人間として生きるために何が必要なのか、どんな可能性が人間にはあるのか。私たちの生きることの深みを探っていく道案内となる。



今も、授業では必ず取り上げる一冊。
霜山先生の翻訳は格調があるけれども読みにくいという方には、新訳が出ている。

2011-04-16

大学生への推薦図書③ 大塚久雄『生活の貧しさと心の貧しさ』

経済学者、大塚久雄の講演・対談などを集め編んだもの。出版から30年を経ても、現代を捉える視点は示唆に富んでいる。高度経済成長を遂げた日本社会の「精神的貧困」を目の当たりにして、生きることへの真摯なあり方を率直な言葉で語っている。別の著作には、「意味喪失の時代」について語ったものもあるが、この著作の中にも、そうした時代の中に生きる私たちにとって何が本当に求められるのか。あるいは、聖書が何を語っているのかということを丁寧に語りかけている。



この本も、大学生の時に手にとって読んだ。キリスト者として社会科学者として生きる筆者の誠実な言葉に目が開かれた経験を思い出す。矢内原忠雄、森有正、湯川秀樹、内田義彦らとの対談も読みごたえがある。

2011-04-15

大学生への推薦図書② 岡本夏木『子どもとことば』

「ことば」をもつということが、人間を人間たらしめるとさえいわれるが、いったい「ことば」とは何か。子どもの発達過程の中で「ことば」がどのように獲得されていくのか、それがどのように人格的存在としての人間の中で機能するのか。「ことば」への深い理解を、発達という視点から与えてくれる一冊だ。
人間が世界に関わる根源語は「我とそれ」「我と汝」の二つだと言ったのはマルティン・ブーバーだが、この本を読むと、そうした世界との関係のあいだに「人」がかいされて、関係が構築され、広がっていくものであるという「三項関係」をとらえる視点を教えられる。人間は、「他者」との関係を軸にして「わたし」を形成する存在なのだ。


教育を専攻していた時代に読んだもの。私自身の人間理解に大きな影響をもった一冊。

2011-04-13

H. G. ペールマン『現代教義学総説 新版』

教義学の教科書。
                

教義学各項目(神学、啓示、聖書、信仰、神、創造、人間、罪、キリスト、恵み、救いの手段、教会、最後の事物)について、A. 前提、B. 現代の論争、C. 要約という三つの視点でまとめられる。
A. の前提では、聖書的基礎を明らかにした上で、教理史における教義の議論が簡潔にまとめられ、項目に関する基礎的な理解をもつことが出来る。
B. では、現代神学の具体的な課題を取り上げることで、それぞれの教義学項目をめぐってなされている議論を把握できるのと同時に、更なる研究課題へのアプローチの手がかりを手にすることができる。
C. は短いまとめである。
ルター派の神学者の教義学教科書で、良いものが翻訳されていることは幸いなことだ。
神学生は必携で、出来れば2008年に新版として新たに出たものを手もとに置いてほしい。

(2013年11月22日 公開)



2011-04-07

大学生への推薦図書① 丸山眞夫 『日本の思想』

すでに古典の一つといってよいだろう。
日本人の思想の「雑居性」や「無限抱擁性」、また「タコツボ型文化」などの言葉は、日本人である私たちがどのような性質を持っているのかをさぐるのによい示唆を与えてくれる一冊だ。



私自身は、大学生の時に手にした。30年以上たった今も、折に触れて手に取って読み返す一冊である。

2011-04-05

「あれから・・・僕たちは」

「あれから 僕たちは何かを信じてこれたかな」

スガシカオの『夜空ノムコウニ』のはじまりの一節。国民的人気歌手グループがカバーして歌う声が時々テレビを通して流れてくる。
今まで聞き逃してきた、この歌の一節が突然に心いっぱいに響き始めた。

私たちが経験している事柄は、 単純に人生の挫折とか、大切なものが失ったということにとどまらないのだ。それは、「信じるということが失われた」という体験なのだ。

揺り動かし、押し流し、すべてが帰らない。
それまでのすべてが失われ、何も見いだせない。
ただ強いられた喪失は、今までを失ったにとどまらない。

「あれから・・・」

僕たちが経験している事態はこういう時なのだ。
かつてあの哲学者が見据えた事態も、同じ喪失感であっただろうか。

信じるものは いっさいなくなった。

生きてきたことを根こそぎ否定された経験は、私の根拠を見出せなくなる。
もしかしたら、この経験を私自身はもう何年も認めずにきたことかもしれない。


私の生に関わる意思の存在が、もし事実あるなら、私は否定されたものでしかないのではないか。そのような意思を私たちは私の信じるものとして 受け入れることはできないだろう。
しかし、もし、そのような意思の存在がないなら、私たちはやはり信じるものははじめからなかったと知らされるだけなのだ。

自分だけを信じることが もし出来るなら どれほど 幸せなことだろう。
しかし、この喪失を経験した自分のすべては失われたものでしかない。そこに何を信じる礎を見出せるだろうか。

ただ、そうした「私」になお語りかけるものがある。
その語りかけだけが自分をとらえ、呼び出し、生かすのだ。

そう、だからこそ、聞き続けたい。