2017-11-29

「共同記念」の苦労と喜び

日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会の共催で、宗教改革500年共同記念の行事が、11月23日祝日にカトリックは長崎の浦上教会において無事開催された。
五百年目にして、このように相互理解と交わり、そして共同・協働が可能になったことは、なによりも真の「対話」を重ねて来たことによると思う。



以下のURLにて、当日のシンポジウム、そして共同記念の礼拝を視聴できる。

https://www.youtube.com/watch?v=CkLUSYOPZoA

全国から600名近くのルーテルの信徒があつまり、同様にカトリックから長崎を中心として600名が参加されて1200名を超える方々が浦上の会堂を埋めた、その様子だけでもご覧いただければと思う。

この共同記念は、簡単に実現したわけではない。日本のカトリックとルーテルとで30年に渡り対話を重ね、洗礼の相互承認、そして『カトリックとプロテスタント、どこが同じでどこが違う』の出版や、『義認の教理に関する共同宣言』、『争いから交わりへ』の翻訳・出版を行い、2004年、また2014年と過去2度にわたる合同での礼拝を実現してきたことが、この企画を実現するための下地だ。カトリックの高柳俊一先生、ルーテルの徳善義和先生らが牽引してくださってきた神学的な対話ための委員会も、すっかり世代交代したと言ってよいだろう。委員会は、この企画のための準備委員を選び、企画原案をつくりながら委員会へと報告し、それぞれの教会レベルでの決定へと進めた。
今回の企画は、委員会での企画ではなく、教会レベルのものすることにこそ意義がある。しかし、委員会レベルにおいてさえ、両教会の間には大きな温度差も存在した。まして教会レベルでの取り組みとすることがどれほど困難なことだったか。
カトリックにとっては宗教改革を「記念」すること自体にそもそも意義を見出すことはできないし、日本という状況で言えば、そもそも乗り越えたり、克服したりしなければ成らないような「争い」も経験しているわけではない。この企画の意義とは一体何か?ということは国際レベルの委員会がリードをしてくれて文書を出した後でさえ、自分たちのものと成らなかった。
それでも、改めてこの宗教改革500年の時だからこそ、私たちが取り組むべき意義があることを見出していく。
一つは第二バチカン以降の両教会が重ねて来た対話と一致のための歴史を16世紀の分裂の歴史に対する責任として両教会が世に示していくべきではないかということが深められた。宗教改革ということが年号と出来事の暗記ものとしての歴史に成ってしまうのではなく、むしろ、私たちがその歴史に責任を負って生きる者であること証言していくべきなのだと理解されたことだった。
二つ目は、平和のメッセージを出す責任を理解したことだ。唯一の戦争被爆国、そして3・11での原発事故を踏まえて、非核という喫緊の問題に直面して、平和を単に国際関係の問題としてだけでなく、神のつくられた被造世界への責任として理解するとき、私たちが日本で、カトリックもルーテルも一人のキリストに結ばれて今、世界に発信するべきことがあるのではないかということだった。
この二つのことを踏まえて、ようやく動き出すこととなるのだ。
それでも、これが動いていくプロセスには、大きさもそうだがあらゆる意味で両教会には組織的な差があったために、準備にあたるものの苦労は、実は作業的なことばかりではなかった。総論でよしと成っても、各論、つまり実際はどこでどうするのかということが具体化しなければ成り立たない。これには、さらなる苦労が重なることと成った。
 つまり、「長崎」という場所が唯一カトリックとして取り組む土壌として浮上して、企画は軌道に乗せられたのだ。しかし、さて、ルーテルの側では「長崎」には小さな教会が一つあるのみで、しかも現在は専従の牧師をおいていない。この差のなか、出来ることは東京で準備していくことだったが、この取り組みを日本のキリスト教の歴史に対する一つの責任とも理解してきたし、自認するからには、このギャップは実は本当に大きなチャレンジと成ってくるのだ。
 それでも、執行部、事務局長は身を粉にして足しげく「長崎通い」をして一つひとつ理解を求め、この地でのカトリックの深さと大きさに圧倒されつつ、この地でとりくむことが出来ることの意義を、本当に深く知っていくことと成った。
 そうした積み重ねが、ようやく具体的な形になって希望が見えてくるのは、今年の春から初夏にかけてだ。そこからさらなる詰め、現場での実際を可能にする準備は直前一ヶ月でも終えられなかったのだ。それでも「長崎」現地の浦上の方々の大きな理解と協力を得て、これが実現していく。
 改めて、今回、この取り組みができたこと、大きな喜びのなかに味わっている。
 
 当日の感動は、さらに、深いものとなった。シンポジウム、礼拝のそれぞれの企画の布告とともに、また別に記したい。
 今は、まず、これを終えたことで、この歩みができたことを、神様の恵みとしてただひたすら感謝する。

2017-11-19

11・23 宗教改革500年 共同記念礼拝 

 この11月23日、長崎でのカトリックとルーテル両教会が宗教改革500年を共同で記念する。そのメインは、共同記念礼拝だ。カトリック浦上教会に約1500人が集うこととなる。
 礼拝の主題は「すべての人を一つにしてください」。


 説教者は、日本福音ルーテル教会総会議長立山忠浩牧師と日本カトリック司教協議会会長高見三明大司教の二人。
 神のみことばによって導かれた一致と協働であることを覚え、福音を聞き、和解と平和の恵みを分かち合い、そうして分断された現代の世界へ神の恵みを伝えるよう祈りを合わせていく礼拝としたい。


 この礼拝に与った一人ひとりが、この世界の平和と一致を祈り、また新しい未来に向かって主の働きのなかに自らを捧げ、委ねていくことを具体的に表していくような礼拝となればと願っている。集められた祈りを執り成し祈り、共に主に仕え、明日の世界に希望をつないでいく。きっと、そんな礼拝となることだろう。

礼拝は、以下のサイトで同時配信される。

https://www.youtube.com/channel/UCs8_-OJJpWCurq3l4gFVA1Q/live


 

2017-11-18

11・23シンポジウム「平和を実現する人は幸い」


宗教改革500年、ルーテル・カトリック両教会による、共同記念が11月23日に行われる。



午前中はシンポジウム、午後は礼拝。
シンポジウムのテーマは「平和を実現する人は幸い」。
シンポジストは、三名(組)による。
はじめに、「長崎からの声」として橋本勲司祭と深堀好敏氏。深堀氏は、今年の8月9日の平和祈念式典で平和への誓いを被爆者を代表してはなされた方だ。ご高齢なので、当日の出席が心配されるが、橋本司祭がサポートしてくださって、長崎・浦上のキリシタン弾圧と被爆体験の苦難の歴史体験を踏まえたなかから、信仰と平和への願い、取り組みの証しをお話しいただける。
その次は、石居が担当させていただき、私たちが平和を願いつつそれを実現することがなかなか出来ないでいる私たち自身の「罪」の問題を取り上げる。キリスト教に限らず、宗教というものの陥りやすい過ちについて、気づいていくことの大切さを考えたい。そして神の恵みの働きの中に生かされていくルターの信仰に学び、また、このエキュメニカルな交わりの成果にたちつつ、いま何ができるのかを考えていきたい。
最後に、カトリックの光延一郎神父にエキュメズムという視点から平和に取り組むことを深くお話いただく。特に「カトリック性」が全体を一つのものとして捉える視点であることから、現代のように多様化し、また深い分裂や争いの絶えない世界の中でのこれからのキリスト教の責任を説かれる。あらたな宗教改革を生きるべきことをお話いただく。

宗教改革500年は、単なる過去の記念ではない。それがなんであるか、ということを深く問いつつ、今の私たちが何をするのか、その改革を新たに自らのものとするべきことを捉えることだろう。
シンポジウムも礼拝も、参加できなくても、ネットを通じて配信される。是非、それぞれの場所で参加いただければと願う。



2017-11-06

今、宗教改革をおぼえることの意義



(写真は2016・10・31ルンドでのLWFと
                       カトリック教会の共同の祈りの礼拝)

☆宗教改革とは
 16世紀の教会改革運動:ドイツのルターによって始められ、カルヴァン、ツヴィングリなどによるスイスの改革運動や、イングランドにおける英国国教会の改革の取り組みなどに広がりをもつ。この一連の改革運動は神学者同士の単なる教義学的論争ではなく、全ての信徒の信仰生活と教会、そして社会全般に大きな影響を与えるものとなった。

☆激動の世界の中で生きる人々に
 近代に向かう中世末の16世紀。大航海時代と新大陸発見に世界の広がり、活版印刷術という新しいメディアの登場と各地域における産業と資本主義の胎動は、政治的・宗教的に固定化した中世社会の崩壊をもたらし、一人ひとりがどう生きるのか問われる時だった。
 ペストや飢饉が、ヨーロッパ全体に死の恐れと不安をもたらし、「メメント・モリ」、「死の舞踏」ということばに象徴される精神的・霊的危機状況をもたらした。真剣に神を求める時代であったし、その神に人間が取って代わろうとする近代の夜明け前でもあった。
 宗教改革とは、この激動の時代の苦悩を生きる人々によって、キリストの福音が今一度問い返されていったことだと言える。ルターは時代の人として、聖書に取り組み、それまでの教会のことばによっては伝えられない福音の根源的な意味を、「十字架の神学」、「信仰義認」のことばによって民衆のなかに伝えていくこととなった。

☆福音の鮮明なる宣言
 中世における聖人を称え、立派な信仰者となることを目指す敬虔な信仰は、神の救いを人間の素晴らしさのなかに押し込めてしまいかねなかった。その人間の功績すべてに神の恵みを見ているといっても、このスコラ神学のことばは、結局神のはかりに適わない人々を救いから遠ざけているようなものだった。しかし、本当は、人はあまねく神から遠い「罪人」に過ぎない。だからこそ、キリストがその罪人のわたしのもとにおいでくださった。ルターは、その神の救いの働きに信頼するだけだという。
 神が見えないところ、弱さ、みすぼらしさ、絶望の只中(十字架)に、神がいたもうことを信じる信仰だけが、反対の層のもとに隠された神を知る。ルターは、この福音を鮮やかに、力強く、喜びをもって語ったのだ。

☆エキュメニカルな交わりなか、主の宣教のために継続する改革
 宗教改革500年の記念は特別である。第二バチカン公会議後の50年に及ぶ対話が、過去の対立と争いを乗り越え、新しい時代に向けて宣教の協働を求めつつ、ローマ・カトリック教会とルーテル教会は一致と交わりの道を歩み始めている。かつて袂を分かつことになった宗教改革が、福音理解を深める霊的な賜物と理解されている。16世紀の分裂の鍵「義認の教理」が、21世紀には交わりの回復のしるしなのである。
 この歴史の中にある限り、教会は何時でも改革されなければならない。神は、同時代に生きる人たちの苦悩に寄り添い、キリストの福音を分かち合うように求められている。人間の飽くことなき欲望が、世界に分断と争いをもたらし、また自然を破壊していく。この現代に、互いに助けあう愛と平和、そして被造世界の保全のために罪人である私たち一人ひとりが召されているのだ。みことばによって、私たち自身が神の愛に満たされ、赦され、新たに生かされて、自らを絶えず新たに悔い改めていく勇気を持つべきということだろう。

 宗教改革を憶えることの意義は、ここにこそある。

(11月3日に行われた日本福音ルーテル教会東海教区と名古屋キリスト教協議会共催の「宗教改革500年記念大会」に寄せて書かせていただいた文章です。)