2017-11-06

今、宗教改革をおぼえることの意義



(写真は2016・10・31ルンドでのLWFと
                       カトリック教会の共同の祈りの礼拝)

☆宗教改革とは
 16世紀の教会改革運動:ドイツのルターによって始められ、カルヴァン、ツヴィングリなどによるスイスの改革運動や、イングランドにおける英国国教会の改革の取り組みなどに広がりをもつ。この一連の改革運動は神学者同士の単なる教義学的論争ではなく、全ての信徒の信仰生活と教会、そして社会全般に大きな影響を与えるものとなった。

☆激動の世界の中で生きる人々に
 近代に向かう中世末の16世紀。大航海時代と新大陸発見に世界の広がり、活版印刷術という新しいメディアの登場と各地域における産業と資本主義の胎動は、政治的・宗教的に固定化した中世社会の崩壊をもたらし、一人ひとりがどう生きるのか問われる時だった。
 ペストや飢饉が、ヨーロッパ全体に死の恐れと不安をもたらし、「メメント・モリ」、「死の舞踏」ということばに象徴される精神的・霊的危機状況をもたらした。真剣に神を求める時代であったし、その神に人間が取って代わろうとする近代の夜明け前でもあった。
 宗教改革とは、この激動の時代の苦悩を生きる人々によって、キリストの福音が今一度問い返されていったことだと言える。ルターは時代の人として、聖書に取り組み、それまでの教会のことばによっては伝えられない福音の根源的な意味を、「十字架の神学」、「信仰義認」のことばによって民衆のなかに伝えていくこととなった。

☆福音の鮮明なる宣言
 中世における聖人を称え、立派な信仰者となることを目指す敬虔な信仰は、神の救いを人間の素晴らしさのなかに押し込めてしまいかねなかった。その人間の功績すべてに神の恵みを見ているといっても、このスコラ神学のことばは、結局神のはかりに適わない人々を救いから遠ざけているようなものだった。しかし、本当は、人はあまねく神から遠い「罪人」に過ぎない。だからこそ、キリストがその罪人のわたしのもとにおいでくださった。ルターは、その神の救いの働きに信頼するだけだという。
 神が見えないところ、弱さ、みすぼらしさ、絶望の只中(十字架)に、神がいたもうことを信じる信仰だけが、反対の層のもとに隠された神を知る。ルターは、この福音を鮮やかに、力強く、喜びをもって語ったのだ。

☆エキュメニカルな交わりなか、主の宣教のために継続する改革
 宗教改革500年の記念は特別である。第二バチカン公会議後の50年に及ぶ対話が、過去の対立と争いを乗り越え、新しい時代に向けて宣教の協働を求めつつ、ローマ・カトリック教会とルーテル教会は一致と交わりの道を歩み始めている。かつて袂を分かつことになった宗教改革が、福音理解を深める霊的な賜物と理解されている。16世紀の分裂の鍵「義認の教理」が、21世紀には交わりの回復のしるしなのである。
 この歴史の中にある限り、教会は何時でも改革されなければならない。神は、同時代に生きる人たちの苦悩に寄り添い、キリストの福音を分かち合うように求められている。人間の飽くことなき欲望が、世界に分断と争いをもたらし、また自然を破壊していく。この現代に、互いに助けあう愛と平和、そして被造世界の保全のために罪人である私たち一人ひとりが召されているのだ。みことばによって、私たち自身が神の愛に満たされ、赦され、新たに生かされて、自らを絶えず新たに悔い改めていく勇気を持つべきということだろう。

 宗教改革を憶えることの意義は、ここにこそある。

(11月3日に行われた日本福音ルーテル教会東海教区と名古屋キリスト教協議会共催の「宗教改革500年記念大会」に寄せて書かせていただいた文章です。)

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