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2025-03-20

「地下鉄サリン事件」から30年

 日本の宗教史の中で最も大きな問題を提示した事件の一つと言って良いだろう。20世紀末、しかも阪神淡路大震災のあった1995年の3月20日、オウム真理教の教団員によって起こされた「地下鉄サリン事件」。

この事件は、教団についての社会的評価を決定づけることとなって、これ以降に「カルト」という言葉と共に、新興宗教のみならず伝統的宗教も含めて宗教全般にわたって、日本社会におけるアウェー感が広まったと言ってもいい。その時から30年が経つ。私たち、とりわけ宗教者と数えられるような者は、この事件から何を学び、考え、また自らを省みるか。あの教団と事件を担った人たちと同世代との認識の中で、私自身は本当に色々なことを考えさせられてきたと思っている。


三年前の旧統一協会の宗教二世が起こした首相暗殺事件と自民政権と教団の結びつきが問題になったことは、「宗教」への風当たりを再び強めたようにも思う。

そして、こうしたカルト教団の持つ問題は、その内部にあっては認識されにくく、外からは見えにくいものだ。何かの事件を通じて、切り開かれたところではじめて見出されてくる。「洗脳」「マインドコントロール」など、言葉による暴力や修行などに隠された肉体的な暴力も、自らのうちにも向けられるし、他者にも向けられる。それによって傷つけられた心も体も、その人の生活、人生の上に暗い影を落とし続けている。教団の外の社会に生きる人に向けられたテロは、この「暴力」の恐ろしさを嫌というほど見せつけた。

しかし、その「問題」とは一体何なのか。教団の外の一般社会にはその「問題」はないのか。教団だから存在する「問題」なのか。私たちは、ただあの教団が問題、間違っている、悪なのだと断じて、その外の社会が良いものだ、正しいものであるかのようなステレオタイプに捉えるのだとしたら、ある意味ではカルトの論理と変わらないことになってしまう。私たちの社会の「問題」、人間が集まって生きる中での「力」がもたらす「問題」にどのように向き合うものであり得るのだろう。

7年前に教団幹部の死刑が執行された際、「オウム真理教を考える」を9回に渡ってこのブログで記した。実は、その時には全くその存在を知らなかった映画をつい最近みた。あの地下鉄サリン事件の後で教団に密着した森達也監督のドキュメンタリー映画「A」。こんな映像がよく撮れたものだと本当に感心したし、それを観ないままで自分はあれを書いていたことが悔やまれた。この映画をみて、改めて、私たちの社会において「宗教」がなぜ存在し、またなぜ弾圧されるのかという問題に深く思いを向けることとなった。この映画は続編がある。だから、それらは全て観てみたい。その上で、改めて自分の考えを記してみたい。

今日は、30年の時間を改めて心に留めながら、私自身を省みて、まだまだ言葉にならないままの祈りを捧げている。



2024-02-24

第58回教職神学セミナー「キリストを伝えるーキリスト教と公共世界」




ルーテルの「教職神学セミナー」がこの2月13日、14日と4年ぶりに対面で行われた。会場はルーテル市ヶ谷センター会議室。ウイルス禍前は2泊3日はとって、ゆっくりと学びと交わりを深めたが、今回は久しぶりの対面ということで1泊2日の集中プログラムとなった。





テーマは「キリストを伝えるーキリスト教と公共世界」。

私は基調講演「ルターと公共世界」を担当させていただき、前座としてセミナー全体のイントロダクションをさせていただいた。

そして続いて、ゲストスピーカーにお招きした福嶋揚先生から特別講演「資本新世のキリスト教〜資本主義の神学」をいただいた。福嶋先生のお話は、ご自身もおっしゃっていらしたが、かなり大胆でラディカルなプレゼンテーションであったと思う。現在の資本主義世界の先をどのように私たちの未来として描いていくのかということに関わって刺激的な問題提起をいただいた。福嶋先生の講演についても改めて私なりの受け止めと感想をのちに記したい。

2日目は盛り沢山でまず李明生先生に説教者のための聖書研究ということで「隣人愛が向かう先はどこか -新約諸文書から-」で講演、また現場からということで白川道生先生に特別講演➁「今、ここにある公共性~教会に顕在する、公の場~」、そして最後は宮本新先生「公共世界における宣教~カサノヴァの公共宗教論を手掛かりに」という講演でまとめをしていただいた。


とりあえず、私がお話しした「ルターと公共世界」のレジュメを以下に置いておく。

大きく4つのまとまりで限定したお話をしたので、できれば今後このブログで、それぞれでお話ししたポイントをまとめ、また時間の関係で話すことができなかったことを補って私自身のこのテーマでの学びを整理しておきたいと思うが、ここではレジュメのみ。


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2024・02・13                                                                            ルーテル 教職神学セミナー

ルターと公共世界

日本ルーテル神学校 石居基夫

1.  はじめに

(1)公共世界とは

公共(Public)⇔ 私事(Private) ← 近代・市民社会の形成とともに

他者と共に生きる領域 全構成員の共通の関心と課題、基本的人権、

他者性、多様性、差異性、中立性、公平性、自由、民主主義 ☞ 福祉

 

(2)神学の射程として

「公共」の神学 「公共」のために 「公共」を問う cf.稲垣

教会も信仰者も日常的に生きている基盤としての「公共世界」の問題

国家の支配、資本主義経済の世界支配(グローバリズム)による「公共」の危機

危機をもたらす「力」の持つ宗教性(偶像・マモン)を問題として

   

 

2. 私たちの問題

(1)ルーテルの包括的宣教における「公共」

教会における伝道と共に、幼保、教育、福祉の働きを展開 

ルーテル学院←「神の民」育成、福祉・心理の対人援助へ

法人会連合⇔各法人の将来に向けて ルーサラン・キリスト教主義とは

 

(2)公共世界に向けて

戦争と平和、宗教と国家(靖国、天皇制)←20世紀後半の課題

被災地支援、臨床宗教師、スピリチュアルケア←21世紀、とりわけ3・11以後に

原発、沖縄、多様性、生命倫理、環境倫理 

 

 

3.ルター

(1)神の二様の支配と悪魔的勢力との戦い  cf. U. ドゥフロウ

    律法:(神の左手の支配、世俗的支配、国家)

       この世の平和、正義、公平を実現する⇔  悪魔的諸力 

                         (罪、悪魔、死、律法・神の怒り)

   福音: (神の右手の支配、霊的支配、教会)   

         キリストの義が与えられ、赦しに生かされる

 

 

 

(2)神の世俗的支配における「三つの機関(秩序と立場)」 社会教説 cf. 倉松功

   国家(politia):教会(ecclesia):家政(oikonomia)

   すべてのキリスト者がそれぞれの秩序に立場をもち、召命(ベルーフ)を生きる

  教会はみことばによって預言者的に参与し、また具体的な奉仕者を派遣する

 

(3)全信徒祭司と協働

   すべての信仰者が神の御業への参与・協働に生きる

   創造の業 他者と共に生きる世界、必要な物、関係 ← 「小教理問答」使徒信条

   救済の業 隣人への奉仕(ディアコニア) ← 「キリスト者の自由と奉仕」

 

 

4.近代以降の枠組みから新しいカタチを描くために

(1)近代市民社会の形成と公共 の中でのキリスト教信仰

   宗教改革以後のキリスト教的一体世界の崩壊 

  近代国家は多様な信仰の共存を内包する⇔信仰は私的領域へ

  市民革命以後の市民による「公共社会」の自覚的形成と参与

 

(2)国家と資本主義の支配

   現代における国家と地域社会の「公共性」との矛盾 

   自由と平等の相剋、格差と犠牲の必然、

   産業革命後の資本主義経済の圧倒的支配

⇔人間性疎外と自然の搾取の論理

 

(3)現代日本の中で

   19世紀敬虔主義における宗教的個人主義をいかに超克するか。

     →ドイツ敬虔主義の脈絡におけるディアコニア運動の形成の批判的検証

     (シュペーナー、フランケ、ツィンツェンドルフ、ビュヘルン

       今日のいのちと尊厳、多様性を支え、ケアする営みを

神の恵の働きの中にもう一度捉えなおす

 

創造論と終末論のただなかで、救済論を軸にしながらも、包括的神学思考をする

  Politiaとoikonomiaの間に立つecclesiaの意味と可能性

  

            Cf.キリスト教自然神学の再考へ(稲垣久和、マクグラス、)

 

2023-10-22

パレスチナ問題についてのルーテル世界連盟の声明

ルーテル世界連盟は、ガザにおけるハマスとイスラエルとの軍事的衝突について以下のような声明を公にしています。


ルーテル世界連盟の声明


不十分なものですし、この文体が相応しいかと悩むところもありますが、 とりあえず翻訳してみましたので、遅ればせながら、ここに記しておきたいと思います。


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10月11日に発表された声明の中で、LWFはイスラエルとパレスチナの民間人に対する全ての当事者によるあらゆる攻撃を非難し、民間人と民間インフラが標的にされていることについて重大な懸念を表明し、人質の解放を要求し、国際人道法を遵守するよう全ての当事者に要請しました。



2023年10月11日

 

  ルーテル世界連盟の声明

 

ルーテル世界連盟(LWF)は、イスラエルとパレスチナにおける継続的な暴力の激化、特に民間人が標的となっていることに重大な懸念を抱いています。 LWFは、すべての当事者による民間人に対するあらゆる攻撃を明確に非難します。

 

LWFはハマスによるイスラエル国民に対する残忍な攻撃を強く非難します。 人質を取ることは容認されず、即時解放を求めます。

 

LWFはイスラエル軍に対し、国際人道法に従って行動し、交戦当事者ではない民間人の保護を優先するよう求めます。 一方の当事者による国際人道法違反が、他方の当事者による別の違反を正当化するものではありません。

 

ジュネーブ条約に定められた戦争規則は守られなければなりません。民間人を標的にすることは決して正当化されず、学校や病院などの民間インフラへの攻撃は容認することはできません。

 

ガザの人道状況は急速に悪化しています。 すでに数十万人が避難し、医療施設を含む基本的なインフラは破壊され、住民は逃げる場所がなくなっています。 避難を希望する民間人には安全な通行が保証されなければならず、援助が国民に届くよう人道回廊は遅滞なく開設されなければなりません。

 

LWFはイスラエルとパレスチナの両当局、そして国際社会に対し、ガザに閉じ込められ無力なパレスチナ民間人に緊急の救命支援を提供するため、国連や地域内の他の人道支援団体のアクセスを確保するよう要請します。

 

LWFは、この暴力の被害を受けたすべての人、悲しんでいる人々、恐怖の中で将来に希望を持たずに暮らしている人々とともにいます。

 

聖地の人々には平和が与えられるべきですが、それはイスラエル人とパレスチナ人の必要を満たし、聖地とその地域に長期的な安定をもたらす交渉によってのみ達成されるものなのです。

2018-06-27

沖縄「慰霊の日」に

6・23 沖縄 慰霊の日

今年(2018年)、この記念式に沖縄に住む一人の中学生の作った詩が、本人によって朗読された。
この記念日に、私たちが何を心にとめるのかということを、これほどまでにすなおに表現された感性に出会って、本当に嬉しかったし、心打たれた。

自分の「今・ここ」で生きる、その当たり前が、どんなに尊いか。その当たり前を本当に当たり前とすることの責任は、誰のものでもなく、私たち自身が何を選び取り、生きていくのかということにかかっている。その当たり前を感じる感性。それを生きる歓び、あるいは切なさ。悲しみも辛さもしっかりと感じること。そして、その日常の中に何が隠されているのか、深く視る知性。社会と歴史の痛みは、人間の生活に刻まれたものだ。それをしっかりと見つめる勇気。その上で、自分の「今・ここ」を明日の世界へとつなげていく決意。

こういう若い方がいる。そう思うだけで、私たちが大人として、「今・ここ」をどのようなものとして残そうとするのか。その責任を重く感じる。
憲法の問題、教育の責任、原発の課題。今、何を論じ、何を決めて行こうというのか。
私たちは、何を決意するのか。

https://twitter.com/motomotom141/status/1011225109346914304

全文を、ここに記録しておきたい。

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平和の詩「生きる」    沖縄県浦添市立港川中学校 3年 相良倫子

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
 
私は今、生きている。
 
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
 
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
 
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
 
私はこの瞬間を、生きている。
 
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
 
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
 
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
 
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
 
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
 
今を一緒に、生きているのだ。
 
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
 
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
 
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
 
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。

2014-07-23

デール記念講演シンポジウム 「スピリチュアルペインとそのケア」


今年4月、日本ルーテル神学校の付属機関としてデール・パストラル・センターが創設された。教会を力づけ、牧師の牧会力を向上させ、信徒の霊性を養うことを目的とした新しい研究・教育機関。パストラル、スピリチュアル、ソシアルの三つの分野で研究を進め、研修や具体的なニーズに応えていくプログラムを教会を中心としながら展開させていこう考えられている。
そのセンターの創立記念に行われるのが、このシンポジウムだ。

ウァルデマール・キッペス先生、窪寺俊之先生、そして賀来周一先生の三名が「スピリチュアルペインとそのケア」というタイトルでお話くださった後、会場の質問にも応えながらディスカッションを行う形ですすめられる。

生と死に直面する魂の痛み、葛藤、苦しみのうちにある一人ひとりにどう向かい合うのか。牧師として、キリスト者として、なにが出来るのか。援助というものの必要と限界を知りながら、「信仰」というものの果たす役割について改めて学んでみたいものである。

7月26日 土曜日 午後1時から4時まで
会場は日本福音ルーテル東京教会。
http://www.jelc-tokyo.org/i_map.html

入場は無料。内容は魅了。

是非、大勢に方においでいただければと思う。

また、報告を書きたい。

2014-05-10

教団「東日本大震災国際会議宣言文」について

次第に風化していくことへの危機感をいだきながら、忙しい日々への心の傾斜は、遺憾ともしがたく忸怩たる思いに駆られるばかり。震災から3年が過ぎても、私たちはあの「フクシマ」の深刻な原発事故を終息させることが出来ないばかりか、これから何世代も続く深い闇を抱えているのだ。

 日本基督教団は、今年の3月にフクシマで国際会議を開き、そこで現実と向かい合いながら深い学びをされたようだ。教団はおそらくその時に採択した宣言文を公にしている。

「東日本大震災国際会議宣言文」

⒈罪の告白、⒉祈り、そして⒊決意と呼びかけ の三部構成になっている。
「キリストのからだ」として生きる教会(信徒)がいま何に向かい合い、どんな思いを祈り、そして、どう生きていこうとするのか、ということについて、学びながら告白された文書であることが伝わってくる。

日本基督教団のこと…とせず、私たち日本のキリスト者はこの宣言に学び、この足場を自らのものとしてさらに確かめ、明日の一歩を踏み出すことを考えたいものだと思う。


2014-01-23

教会が社会的・政治的な問題に関わるとき その②

それでは、具体的に教会がその時に対応して、教会としての声明を出すということをどのようにしたらできるだろうか。教会が教会としての立場・見解を表すと言うことは、原則的に教会の総会において決議されたことにおいて表される。

(例えば、最近の例でいうと日本福音ルーテル教会は2012年の5月の総会で「一刻も早く原発を止めて、新しい生き方を! 日本福音ルーテル教会としての『原発』をめぐる声明」を決議している。反原発の声明では、同時期に日本聖公会も総会で声明を採決している。http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2012/07/blog-post_10.html )

しかし、例えば今回の首相の靖国参拝が突然なされたような場合、その時に応じて、教会が何かを声明として明らかにするとき、教会の総会を開いている余裕はない。
そうすると、教会は結局実際には時に対応した声明、意見というものを公にはできないのか。

現実には、多くの教会は、そうした場合のために常設の委員会や団体を持っていて、それが教会に代わって声明を公にしている。あるいは、教団を代表する人格(議長や司教、主教など)が声明を出すという具合だ。それで、後から必要ならば、教会の総会で報告承認、もしくは改めて決議をする。そうでなければ、委員会名の声明や個人名の声明ということに留まるということだ。

じゃあ、誰がどういう形でその役割を担うのかということが実際の問題になる。また、教会においてそれぞれの委員会ごと、あるいは個人や団体でもそこにはどういうレベルの違いがあるか。やはり総会で決議されるような場合は最も重たいものと考えられるだろうが、そうでないものについては、どういう序列、教会での重みの違いを認識すればいいのだろう。

日本福音ルーテル教会においては考えてみると、もしかしたら、信仰と職制委員会がそうした役割を総会から委託されていると理解して来た伝統があるかも知れない。この委員会の前身?が信仰告白委員会であったとも聞く。総会で直接選ばれた常置委員会だから、総会閉会中の責任を担う常議員会とは立場を異にしても、自らそうした意見・声明を発信する可能性もあると考える意見もある。
しかし、実際にはそうしたことが規則上なにも決まっていない。また、2002年度の総会で社会委員会が設置されてから、信仰と職制とその委員会役割についてのスミワケの意識が徹底してはいなかった。そして、社会委員会は規約によって委員会独自の活動ということができない仕組みになっていて、実際に必要なタイムリーな働きを担えては来ていない。だから、結局は議長や委員会、委員長がなにがしかのアクションを起こしうるということもはっきりとしていない。だれがいつどういう形で声明を出せるのか、どういう秩序があるのかが今の段階では明らかではないのだ。それが今の日本福音ルーテル教会の状況だ。そうだとすると、今のこの段階で、どこかの委員会が何かを言っても、その根拠も責任も明瞭ではないということになる。

今回、首相の靖国参拝のみならず、社会的政治的な動きに懸念すべきことが起こっているというなかで、信仰と職制委員会はこれに向けて声明を出そうと話し合い、首相にむけた声明案を検討するところまで準備した。しかし、教会の今の状況の中では、まず秩序を整えることが必要だということが改めて認識されたのだ。そこで、常議員会へその旨報告して、声明を発表することを控えたのだ。本当は、なにかアクションを起こすべきときだという強い認識があったが、しかし、結局、このままの状況で何かを発信しても、それは教会のどういうアクションとしても位置づけられない無責任な言いっぱなしのものになるのではかえって良くないだろうと判断されたのだ。

同時に、改めて考えさせられたことは、こうした声明などは、それを公にすればそれでよいというものではない。
声明は一方では、外に向かって表すものだが、同時に教会の中に対して自らの有り様を示すことにもなる。信徒の一人ひとりに向けて、私たちの教会の信仰的な考えからすると、こういう問題について、いま教会はこう考え、こういう訴えをしていくのだということを教会の信徒の人々に呼びかけ、考えてもらうという教育的な働きと言えるかも知れない。だから、教会は、こうした声明を受けて教会のなかでその問題をどう考えるのか学びや意見交換などがなされ、信徒の皆が個人としても市民として国民として考え行動ができるように働きかけることもまた大切なことだ。個人個人の考えを尊重すること、異なる考えがあることを認めること、それでもなお大事にすべきことを一緒に考えること。教会のなかでそうした話し合いがなされていくことをどうつくっていけるのか。それこそが声明を出していくと言うことを内実化する。

さらに言えば、具体的に一般の人々のなかにある考え、その背景にあるムード、問い。それにたいしどのように教会が向かい合い、そこにどんな言葉を持つのか。そうしたことも考えていく必要がある。

だから、この目下の課題について、今、日本福音ルーテル教会は委員会レベルでも声明はまだ出ない。こうした課題を確認し、その課題をしっかり受け止め、取り組む。その歩みを確認できたことはなによりも大切なことと思う。今更と言われるかも知れないが、こういうことをしっかりと考えていくこと、常に確認していくこと。それが責任あるあり方だと学んだ。
(今回、信仰と職制委員会に参加しながら、話し合われ、共有された問題意識をここに記録した。)


2014-01-12

教会が社会的・政治的な問題に関わるとき その①

 安倍首相の靖国神社参拝は、国家安全保障会議(日本版NSC)の創設、特定秘密保護法の強行採決、武器輸出三原則の緩和や沖縄米軍基地の辺野古移設による固定化など一連の動きと相まって、首相と現政権の進もうとする道行きの危うさを示していることに、多くの教会関係者が憂慮を表して来ている。すでに、別に書いたように、様々な教会が委員会名や教団のしかるべき部署・委員長などの名前で安倍首相に対する抗議声明を表している通りだ。http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2013/12/5201413.html

 私が、個人的に各教会の抗議声明について書いたものをSNSで紹介したとき、ある方が、こうした教会の反応が公にされると、同じ考えではない信徒にとっては、教会にいづらくならないか。キリスト教が皆そういう考えを持っていると一般の人たちから思われるのは迷惑なことではないかというような意味のコメントをいただいた。コメントは、おそらくご本人がすぐに削除されたので、もう見ることもできず、正確なことばではない。しかし、こうした声が出されたこと、そして、それがすぐに消されたことは見過ごすことのできないことだと私の心に刻まれた。

 信仰者が一人ひとり、政治的な課題について自らの考えを信仰的に表明しているかぎりは、同じ教会にあっても、それはその人個人の考えであって、それぞれ違う意見を持っているかも知れないということは、一般的に理解されることだろう。しかし、教会が一つの声明を出すという場合、外から見れば、その教会に属しているということが、その教会の見解を自分のものと信じる立場にあるという意味に受け取られるだろう。少なくとも、会員としては、その教会に属する自分がもしその教会の表明した見解に一致できない場合に、その教会との関係について悩むに違いない。実際には一人ひとりの考えや思想を教会が強制的に縛るということはあり得ない。けれども、一般的な意味から考えれば、自分の所属する教会が公にした意見を受け容れられないなら、その教会の考えとは違うということを何らかの形で表すことを真剣に考えさせることだと思う。
 
 あのコメントが私に伝えたかったこととは、そういう難しさを感じる信徒があるのだという真実だ。しかし、そのコメントが取り消されたということは、そういう一人ひとりの逡巡、戸惑いを表わしにくいということでもある。それだけ、それぞれの信徒の心の中にこうした割り切れないような、居心地のわるさのようなものが沈んでいるということだろう。

 だから、教会が信仰内容に直接関わることなら、教会を割ることがあっても言わなければならないけれど、社会的・政治的な問題に教会として声明を明らかにするということには慎重であるべきだという考えが一般的だ。教会の一致は福音理解によって一致するのであって、政治的な立場や思想上の違いによって、教会にいづらくなるということがあってはならないし、教会の一致が保たれないことになるとは考えにくいことだからだ。日本福音ルーテル教会は2008年の総会で教会が社会問題に関わって見解を表明するということに関して信仰と職制委員会の見解を決議している。こうした理解をもって、教会は、絶えず少数であったとしても異なる意見や考えを持つ人々について配慮をし、声明などを明らかにすることに慎重さが必要である、としている。

 しかし、一方で教会が教会としてはっきりとした態度表明をすべきときもある。第二次世界大戦下、ドイツでナチズムがユダヤ人迫害の政策を推し進める中、その国家政策に従うドイツ的キリスト者という運動を教会の中に作り出していった。そのとき、告白教会という少数の教会がこれに反対し、国家の政策に対して抵抗運動を展開したのだ。それでも、抵抗し切れずにはげしい弾圧をうけた。そしてナチスは力づくで世界戦略を展開したのだ。しかし、戦争が終わって教会は深い反省を持ち、ナチスに抵抗し切れず戦争の悲劇をもたらしたことへ深い罪責の告白をしている。前にふれたニーメラーは、自分たちが告白教会としてできうるかぎりの抵抗をしたのにも拘らず、その事態を止められなかった責任を、頑張ったけれど力及ばなかった言わず、止め得なかったことを「わたしの罪、わたしの罪、わたしの罪」と告白した。歴史に生きることへの責任意識だ。
 日本の教会にも、同様…とまでは言わないが似たような状況があって、戦時中プロテスタント諸教会が日本基督教団へ合同したこととその教団としての戦争協力に用いられてしまったという深い反省がある。そのことへの戦責の告白は、教団名において明らかにされることはなく、戦後12年経って、教団の議長名で公にされたに留まった。日本福音ルーテル教会は戦後すぐに教団から離脱していたために、この問題については積極的なコミットはできなかったし、しなかった。ただ、このことについては、それぞれの離脱したかどうかに拘らず、プロテスタント諸教会において(おそらく日本基督教団自体もふくめて)、忸怩たる思いがあるかも知れない。しかし、それhどうあろうと、少なくとも同じ過ちは繰り返してはならないということについては異論はないだろうと思う。
 だから、キリスト者は、まして教会は、戦争と平和、基本的人権に関わるような社会的問題に対して、特に社会のなかで弱い立場にある人々のことを自らのこと以上に考えて、信仰の故に特定の見解を表明するということがあり得る。いや、まさに時に応じて、信仰者個人個人のみならず、教会が教会として、信仰的な立場から一定の見解、声明を公にする必要がある場合があるのだ。

 日本のようにキリスト者人口が1パーセントに満たないマイノリティであることは、その意見表明にどれほど社会的な影響力があるのかと問われそうだ。しかし、影響力を持つことだけが、意見表明の意味ではない。自分がどこに立っているのか明らかにするべきときがある。教会がキリストの教会として、この世界への責任、隣人への責任を果たすために、声をあげていくべき時がある。それがどんなに小さな声であったとしても、キリストの教会であるために声にしていかなければならないことがあると思うのだ。
 (この主題については、続きを書く。)



2013-12-27

首相の靖国参拝に抗議! (更新8、2014・2・20)

安倍首相は、2013年12月26日に靖国神社への参拝を強行した。
 
 首相の説く「積極的平和主義」の実現を目指している一連の動きのなか、「やはり」と思ったが、この暴挙にも断固反対する。

 M. ニーメラーの後悔*を繰り返してはいけない。それぞれの時と所で、声をあげていくべきだと思う。

若い学生たちにも考えてもらいたいのだ。
 今の若い人たちは、政治に興味を持たないといわれる。しかし、本当にそうだろうか。情報の入り方が今までとは違う。SNSなどを通じても時事問題に結構いろいろな意見が挙げられて、受け取っているし、考えているのではないか。そういう中で、しっかりと自分の考えを持ってほしい。自分の頭とことばで生きてほしいと思っている。今なら、間に合う。二度と戦争をする国をつくってはいけない。それが、歴史のなかで多くの戦争のためにいのちを落とした人々の魂とともに、平和に向けて生きる、唯一の道ではないのか。

今回の、安倍首相の行動。
 
 もちろん、現在の外交上、国際世論の中、孤立化する最悪のタイミングであることもその理由としてあげられようが、何よりも、靖国は意図としても結果においてもアジア侵略をすすめた天皇制軍国主義による先の戦争の精神的な支柱であり、その戦争においてA級戦犯となったものを含む「英霊」がまつられている神社であることを考えなければならない。つまり、何か戦没者の慰霊の施設などではなく、はっきりと大日本帝国が国のために犠牲となるように国民を教育し、鼓舞し、強制する戦略のためつくられた宗教施設だった。
 確かに「靖国で逢おう」という合い言葉によって、多く若者が戦地に赴いた。それは美談として語られるべきものではない。赴かざるを得ないように洗脳されたと言ってよいし、そうしなければ、社会的に生きられない状況が作り出されていたのだ。いわば、そうした戦争推進のために英雄伝説を現実に描いてみせたのが靖国神社の実態といえるだろうか。
 今は、もちろん国家の施設などではなく、一宗教法人に過ぎない。
 この靖国を首相が参拝するということがどういうメッセージになるかは、自明のことだ。単に政教分離の原則に抵触するということばかりではなく、そのことも含めて、先の戦争を推進したイデオロギーに対しての肯定、復古を懸念されるのは当然だろう。かつて、小泉純一郎元首相は参拝を個人的な「心」の問題だと言い放った。安倍首相はこれによって「中国、韓国の人々を傷つけるつもりはない」という。首相である以上、そういうことばでごまかしは出来ないのではないか。
 過去の歴史認識の上にたって、何をしてはいけないかということが分からないというのなら一国の舵を取るものとしての資質の問題だ。しかし、おそらく、そんなことが分からないはずはない。その意味を理解して、なおこれを行っているから最悪なのだ。

 この道の行き着く先には、日本を再び戦争の出来る国としようとするあからさまな意図が見えている。特別秘密保護法の制定、首相の靖国参拝、沖縄の米軍基地辺野古移設決定とつづいた。すぐに愛国心を養う教育問題に介入する。改憲論を持ち上げ、9条をなし崩しにする。自衛隊を軍隊にする。やがて徴兵制もありか。これが、積極的平和主義という名前のもとに、一方では意図して国際的緊張を演出して、世論的にも右傾化を呼びこんで、大きな流れをつくる意図だろう。経済的な上昇気流がなお衰えを見せていない今のうちに、急速に舵をきった安倍首相の本音は、いったい、いつの「日本を取り戻す」ことなのかは明らかではないか。

カトリック教会は日本カトリック正義と平和協議会の名前で、いち早くこの安倍首相の行動に抗議声明を出している。(12月26日)
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/131226.htm

いずれNCCも抗議声明をだすだろう。
ここに今後の動きも更新していこう。
NCCは年末ですぐには動けないか?

日本バプテスト連盟は、以下の抗議文を理事長名で出した。(12月28日)
http://www.bapren.jp/uploads/photos/685.pdf

日本同盟基督教団も、「教会と国家」委員会名での抗議声明を出しました。(12月29日)
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=742

日本ホーリネス教団が、教団委員長並びに福音による和解委員会委員長の名前で抗議声明を出しました。(12月31日)
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=745

日本長老教会は社会委員会委員長名でいち早く12月26日の首相の参拝合わせてに抗議声明を出していました。(12月26日)
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=741

日本キリスト改革派教会は、教団と代表役員・大会議長の名前で抗議声明を出しています。(12月30日)(1月27日に確認)
http://www.rcj-net.org/statement/statement_against_prime_minister_2013Dec30.pdf

日本キリスト教協議会、NCCが議長書簡を首相宛に出したことを公にしました。
(1月27日) (1月29日に確認)
http://ncc-j.org/uploads/photos/117.pdf

日本YWCAは、首相の参拝と同日に抗議声明を出していました。(2月20日確認。遅くなったことお詫びします。)
http://www.ywca.or.jp/pdf/201312261.pdf

日本キリスト教会も、参拝の翌日、靖国神社問題特別委員会委員長名で抗議を明らかにしています。(2月20日確認、遅くなりました。)
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=746



*マルティン・ニーメラー牧師がナチズムの横暴に抗し切れなかった自らを悔いたことばとして、知られる。(下記参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%8C%E6%9C%80%E5%88%9D%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%82%92%E6%94%BB%E6%92%83%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D

2013-12-09

特定秘密保護法成立に反対する そして…

 2013年12月6日の参院本会議で、「特定秘密保護法」は可決され、成立した。
この法案の成立に関しては、それぞれの立場から反対の声は大きく、特にその成立に向けての性急な国会運営、審議不十分さ、そして数に任せた強行採決のあり方には与党に対する支持・不支持を超えて懸念が表明されている。
 キリスト教界からも、早くからこの法案が民主主義の根幹に関わる問題であることへの懸念、反対の意見が表明されてきた。この法によれば「安全保障」のため、あるいは「外国の政府および国際機関との交渉に不利益」になることなどを理由に国民が確かな情報得ることがゆるされず、かえってそれを知ろうとすれば処罰の対象となりえる。
 おそらく、そうした国家の大切な秘密があることは当たり前といえるのだろう。けれど、その「当たり前」はどういう意味で考える「当たり前」なのか。その前提が「国民の主権」に基づいているのか、そうでないのか。「基本的人権」にもとづいているのか、そうでないのか。そこが問題なのだと思う。この法案は、何がその秘密になるのか、その内容とその対象の決定、またそれを確認するチェック機能も曖昧なまま、政府の一存ですべてが決まっていくというところに異常さがある。だからこそ、歴史を知る者は、これが戦争への一歩となることを懸念し、「平和主義」に逆らう法案であると反対する声明が出されてきている。

 法案によれば、おそらく原発の事故によってもたらされている様々な危険、日本におけるアメリカの基地問題、近隣諸国との間にあるとされる領土問題とそれによってもたらされている緊張関係などについての情報が秘密とされる可能性がある。私たち国民が、今、非常に関心を寄せ、これらの諸問題を処する政府の対応に様々な意味で確かな情報に基づいて意見を表明して、日本の進む方向性を民主主義的な方法で決めていかなければならないと思うことがらについて、国民には情報が知らされず、秘密主義に基づいてすべてが動いていくことが多いに懸念される。

カトリック教会の日本カトリック司教協議会は常任司教委員会の名前で12月7日付けで強行採決に反対を表明している。
http://www.jccjp.org/jccjp/home_files/2013.12.7himituhogohouBp.pdf

日本聖公会は、正義と平和委員会が11月18日付けで法案の成立に反対している。
http://www.nskk.org/province/seimei_pdf/himitsu131118.pdf

日本バプテスト連盟は、靖国神社問題特別委員会名で12月2日付けで本法案の廃案を求めている。
http://www.bapren.jp/uploads/photos/681.pdf

日本キリスト教協議会は常議員会名で11月22日づけで法案への反対を表明している。
http://ncc-j.org/uploads/photos/106.pdf

また、教派を超えて牧師たちが署名によってこの法案への反対を表明するサイトも立ち上がっている。「特定秘密保護法に反対する牧師の会」
http://anti-secret-law-pastors.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html?spref=fb&m=1

 私自身もそれぞれの関係の中で、この法案に反対の立場を表しているつもりだけれども、個人のブログにおいても、これを明らかにしておきたい。
 そして、たとえこの法を廃案に導けなかったとしても、今から何が起こるのか、その一つひとつに目を見張らせていかなければならない。また、次の世代に向けて私たちにとって何を大切なこととしなければならないなのか、伝えていかなければならないと思う。しっかり知ること、そして、その確かな情報に基づいて考えること、判断すること、その意見を表明すること、責任を負うこと。しかし、意見の違う他者があることも認めること。そして、何よりも弱い立場にある人々を守るように行動すること。それはきっと日常の中でいつでも私たちが大切にしなければならないことだろう。その根幹が揺らぐことのない社会を作るのは、私たち自身だと思うのだ。決して、これが、戦争への一里塚だったなどということにしてはならないのだ。

(私たちルーテル教会は、教会として、あるいは個別の委員会においても意見の表明に至っていない。関係するであろうと思われる諸委員会から意見を表明するということについて十分に機能的になり得ていない向きがある。しかし、実際には個々の牧師、教会員の意識が低いと言う訳では決してない。それぞれの関係から声は上がっているし、行動にも参加している。ルーテルの者としては忸怩たる思いもあるが、教会は委員会や個人名であれ社会的問題に対応した意見表明をしていく必要は十分に確認されてきているし、かつては靖国の問題などにおいて実績もある。近くは、震災後の原発の問題についても意見を表明した。ただ、時事刻々と変化する課題に、タイムリーな発信がなされていない。今総会期の常議員会ではこの社会問題に関する教会の対応あり方の問題についても確認され、今後のためにどのような整備が必要であるかの検討がなされているとも聞いている。いずれにしても、情報化社会であって、今は様々に連携・連帯が作れるし、また個人的にも意見の表明は可能になっている。この時代だからこそ、どういう形で諸問題に対応する形を作れるか、しっかりと模索していく必要はある。)






2012-03-12

3・11 カトリック・NCC合同祈祷集会


いつの間にか、梅が咲いて、春の足取りを思い起こさせてくれている。
一年前も、同じように春をたくさん感じ始めた3月11日、午後2時46分。
東日本大震災が東北を襲った。続く津波の脅威は、すべてを根こそぎさらっていった。制御のきかなくなった原発からは放射能が流れだした。

あの日から一年。
カトリック教会とNCC(日本キリスト教協議会)の合同主催によって「東日本大震災一周年にあたり追悼と再生を願う合同祈祷集会」が全国で持たれた。
東京では、四谷麹町の聖イグナチオ教会にて行われた。

礼拝の式文は次の通り。
http://ncc-j.org/uploads/photos/25.pdf

会堂にいっぱいの人が集まり、岡田武夫大司教と輿石勇NCC議長との合同司式で執り行われ、岡田司教から御言葉をいただいた。

礼拝の終わりに現地での活動報告。被災のお一人ひとりに寄り添うことの大切さと難しさ、しかし、主の働きがもたらされるために用いられることについて深く深く思いめぐらし、浅薄な自分の祈りが導かれた。
ともに祈ること。教派を超え、宗教を超えて、この日にささげられた祈り。この祈りから、私たち自身が整えられ、神の働きのなかに生かされていく。そうありたい。





2012-01-31

阿蘇の風を




阿蘇山の外輪、俵山には風の力で発電するプロペラが回っている。雄大な山の合間を駆け抜ける風をとらえると、うなりをともなってまわる。そのプロペラの力強さを目の当たりすると、ただ、なにか茫然とその様子に引き込まれていきそうになる。

肌に優しく感じるのと違って、風のなかにひそんでいる無限のエネルギーへの驚き。



先日、ルーテル幼保連合の熊本地区の保育者研修会に招かれたときに、阿蘇の空港から案内をしていただいた。俵山からは、地獄温泉をはじめいくつかの立ち上る源泉のけぶりを向こうに望むことができたのだが、何よりもこの大きなプロペラの存在感に圧倒させられた。

遠い山にいならぶ姿を見るだけでも、不思議な感覚におそわれるけれど、足もとに立つことで、なにか悠かなるものと人間との触れあうことのとてつもなさを思うのだ。

巨大な人工物には、異様さを思わされもする。
こんなものをつくりだすのは、あくなき人間の欲望なのか、夢なのか。

けれども、あの原発に比べるならば、どれほど自然そのものへ優しいことだろう。
一瞬にして、空を海を川を土を変えてしまった、あの放射能の脅威をここにみることはない。

あのナウシカの「風の谷」の知恵を思う。「火の七日間」の後、あの腐海に沈む世界の片隅で、人がどうして生きていくのか。自然との共生を求める知恵は、確かにあまりに人工的ではあっても、自然に対する謙遜を知っている。

そして、
本当に優しいのは、そのどんな人間の思いをものともせずに、ただ流れていく風の力強さか。

すべてをつくりたもう主が私たちに託したもうことを、今一度、考える時だ。







2011-11-04

教派を超えて 支援の輪

震災後の被災地・被災者支援は、息の長い支援に新たな備えが必要とされています。
厳しい冬を迎えようとする今、それぞれのキリスト教関係の支援団体が、互いの活動を報告し合い、新たな連携、もしくは共同などを模索することになるのでしょうか。

カトリック、プロテスタント等教派を超えた交わりによってキリストのミニストリーに仕えていくことで、後後には日本のエキュメニズムにとっても意味のある働きとなると思います。しかし、何よりも大切なことは、二重にも三重にも弱い立場に置かれてしまっている大勢の方々への支援。

ルーテルとなりびと: 石巻キリスト教支援団体の連絡会議に出席しました:

http://ameblo.jp/jishin-support-uccj/entry-11066667043.html

http://walknskk.blog.fc2.com/blog-entry-137.html

http://caritasjapan.jugem.jp/

http://baptist.exblog.jp/

2011-04-05

「あれから・・・僕たちは」

「あれから 僕たちは何かを信じてこれたかな」

スガシカオの『夜空ノムコウニ』のはじまりの一節。国民的人気歌手グループがカバーして歌う声が時々テレビを通して流れてくる。
今まで聞き逃してきた、この歌の一節が突然に心いっぱいに響き始めた。

私たちが経験している事柄は、 単純に人生の挫折とか、大切なものが失ったということにとどまらないのだ。それは、「信じるということが失われた」という体験なのだ。

揺り動かし、押し流し、すべてが帰らない。
それまでのすべてが失われ、何も見いだせない。
ただ強いられた喪失は、今までを失ったにとどまらない。

「あれから・・・」

僕たちが経験している事態はこういう時なのだ。
かつてあの哲学者が見据えた事態も、同じ喪失感であっただろうか。

信じるものは いっさいなくなった。

生きてきたことを根こそぎ否定された経験は、私の根拠を見出せなくなる。
もしかしたら、この経験を私自身はもう何年も認めずにきたことかもしれない。


私の生に関わる意思の存在が、もし事実あるなら、私は否定されたものでしかないのではないか。そのような意思を私たちは私の信じるものとして 受け入れることはできないだろう。
しかし、もし、そのような意思の存在がないなら、私たちはやはり信じるものははじめからなかったと知らされるだけなのだ。

自分だけを信じることが もし出来るなら どれほど 幸せなことだろう。
しかし、この喪失を経験した自分のすべては失われたものでしかない。そこに何を信じる礎を見出せるだろうか。

ただ、そうした「私」になお語りかけるものがある。
その語りかけだけが自分をとらえ、呼び出し、生かすのだ。

そう、だからこそ、聞き続けたい。