オウム真理教の教祖、麻原彰晃こと松本智津夫と当時の教団幹部7名が、裁判によって確定していた死刑判決に基づいて、その刑が執行されたことが報道された。
死刑・・・ということが解決なのかと、そのことも大きな問いではあるが、また、なぜこのような執行の仕方なのかという疑問もあるのだけれど…
改めて、あのテロ事件を思い起こす。
1995年の3月20日。地下鉄サリン事件は、13人が死亡、6000人以上の大勢の犠牲者を出したということばかりではなく、組織的に企てられたテロ事件であって、その計画実行を行なっていった人々の存在が、私たちの非常に身近な存在であったことも大きなショックだった。また、この事件後の捜査や逮捕に続いて諸々の事件が明るみに出て、松本サリンや堤弁護士一家殺害など多くの凶悪犯罪がこの教団の仕業であると解明された。連日の教団関係の報道で、出てくるあの教団の幹部として名を連ねていたのは、私とほぼ同世代。おそらく、信者の殆どは、ほんのその数年前まではごく普通の市民生活を送っていたものであっただろう。受けてきた教育のレベルも高く、医者や科学者、弁護士、IT関係の技術者、多種多様な業種のエリートたちだったことは、私だけではなく、多くの人たちを驚かせたに違いない。
何が、彼らをあの狂信的なカルト教団へと駆り立てたのだったか。
洗脳、マインドコントロール。おそらくは、単純な心理的操作なのだけれど、それでも、その単純な道筋になぜ人は引き込まれたのか。
人々は何を求めていたのだろうか。私の関心は80年代から90年代へと移行する時代の中の私たちの心の有り様だ。しかも、その時代に20代後半から30代前半を生きていた私たちの問題なのだ。高度経済成長を子ども時代に過ごして、右肩上がりの世界を自分たちの将来に重ねていたのかもしれないが、次第に将来への不安が大きくなっていった時代でもあったように思う。ノストラダムスの予言を信じてはいなかったと思うけれど、世紀末に向かって行くあの時代の閉塞感や不安感が一つの背景でもあっただろうか。
心の時代、宗教の時代ということが80年代の終わりにはよく言われたものだった。某新聞社にはそうしたコラム欄があったことは印象的だ。何かを求める漠然とした時代。
あの教団そのものが、訴えたのは、現代を生きる「虚しさ」「空虚感」だったという。当時の勧誘パンフレットに載ったある女性信徒の入信のきっかけには、まさに当時のエリートOLが、経済的に、物質的に恵まれ、それなりの友人関係にも不自由のない生活でありながら、漠然と持つ「虚しさ」があったこと。それが埋められたのは、教団の教えだったと記されていた。
本当に教団が埋め合わせるものであり得たのかはわからないけれども、当時の人々の一定のスピリチュアルニーズの状況をよくあらわしているといえるだろう。時代の行きづまり感は、個人的な宗教性の開発へと向かったし、ある種の神秘主義的傾向を持っていただろう。西山茂氏や島薗進氏らが「新新宗教」と呼んで、70年代以降の宗教ブームを捉えているが、背後には、おそらく欧米のニューエイジの動きが影響を与えていたという。「精神世界」への関心が高まり、それが消費ニーズとなって高まりを見せる。霊能、オカルトの類を含みこみながら、哲学と宗教の広がりの中に、気功、ヨガ、神秘主義、タオイズム、アロマ、占い、運命学などを求める人々はやはり時代の子なのだ。
折しも、ベルリンの東西の壁が崩れていくのを目の当たりにしたのが、この時代だ。かつて自分たちよりも少し上の先輩たちがマルクス主義に傾倒して様々な学生運動にエネルギーを注いだようには、自分たちは生きてこなかったノンポリ・三無主義を自覚していても、冷静にあの偉大なイデオロギーの末路を感じて、自分たちの生きる現実を変える理想を持ち得なくなったことにぼんやりとした喪失感を持っていたようにも思う。
自分の死と生の意味やこの世界の向かうべき姿を描いてみせたあの教団、いや麻原のカリスマが、もしかしたら自分たちを大きく変えていく希望に映ったのだろうか。本当は、麻原自身の生育歴に落とした影が、多くの人を巻き込むような闇を作り出すことに過ぎなかったとしても。闇を光に錯覚させる仕掛けが、この時代に用意されていたということかもしれない。
宗教の意味やその恐ろしさも含めて、日本では宗教教育がなされてこなかったことも、こうした教団の教えへの批判的な眼差しを持ち得なかった原因であろうか。
しかし、より深刻なことは、そうした人々の心に、既存の各宗教は何も訴える力を持ち合わせていなかったということだ。確かな言葉を紡いで、私たちの心に響く生きる力を与えるのに、何が足りないのだろうか。あの時から、ずっとその課題を宿題としてきたのではないだろうか。
あの頃、すでに牧師となっていた自分は、同世代に何を伝えていたのかと、忸怩たる思いになる。
たとえ、マークシート方式で正解を選び取ることに飼いならされた世代であったとしても、丁寧な言葉が訴える力を持てないはずはない。
今を生きる私たち一人ひとりの深い魂の問題に、しっかりと向かい合う、そういう神学の言葉を鍛えていくべき時だと思っている。
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