2018-07-09

「オウム真理教」を考える〜なぜカルトに?②

集会などにいくと、思ったほどには強制はない。
むしろ、自由な雰囲気で優しい気遣いで迎えられる。これが信頼関係を築く。
他でぞんざいに扱われていると、こうした丁寧、親身な対応に心は傾く。
現代社会で希薄になっている個人的な信頼関係こそ、カルトが最も上手に使う手口だ。
 (あ、もちろん異性が対応することが多い。その半分恋愛感情を誘うようなやり方は常套手段だと知っておこう。)

その信頼する相手からの頼みごとほど、断りづらいものは無くなる。だから、この信頼関係の構築には時間も労力も惜しまない。ひと月ふた月、半年と本当にじっくりと責めてくる。(むこうは一人で複数を相手にしながら、時間をかけても量産していくシステムだから、全く問題ない。)そういう関係を築きながら情報操作は始まっていく。正しい判断をするのは、正しい情報によるしか無いが、長い時間をかけて情報の片寄りをつくらされていくわけだ。
 勉強会や、集会は、そもそもこちらの関心事に沿っているのだが、そこに次第に深い誘導が始まる。例えば、平和の問題に関心があるからといって、何か特定の平和のための署名活動などに自分が主体的に関わるかどうかは、全然別の話なのだけれど、関心があるなら、少しでもそれに関わるといいと、誘導される。参加の仕方は自由。どこか街頭に立つこともあるかもしれないし、それぞれの生活の中での家族やサークルで、ちょっとした依頼で誰かの署名を集めることなどを求められれば、いやとは言えない。
一旦引き受けると、これに少しでも結果を結びつけようと努力する。真面目な人間ほどそうやって、自分が活動に熱心になっていく。
この活動が目指すものは、単に署名集めではない。大きな目標を掲げている。そんなことは、知ったものでもないのだが、一旦関わったこととなると、その目標の達成が少しでも進んでいくことに関心が生まれるし、喜びが生まれる。
Jリーグの応援と同じで、漠然とした応援よりも、ファンクラブにでも入れば、一回一回の試合の状況がきになるだろう。そういう所属感や一体感が形成される。
自分が熱心に関わればなおさらなので、ここにいつの間にか、はじめは自分のものではない活動の目標に自分自身が結び合わされていく。

自分が熱心に関わったことは、必ず正当化する。これが間違ったものであるはずはないと。こういう心理作戦は、見事に個人個人を教団の論理の中に必敗込んでいく仕掛けなのだ。


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