2009-10-09

書評「神学とキリスト教学」

神学とキリスト教学―その今日的な可能性を問う

「本のひろば」にも掲載したが、この本について少し記しておきたい。

書名には「神学」と「キリスト教学」という二つの学問名が記されて、その学問の今日的可能性を探る内容と推察される。しかし、「はじめに」にあるように、本書が第一義的に「神学」を問うことを目的としたものであり、その問いの中で日本にあって独自の展開をしてきた「キリスト教学」の研究領域もしくは方法が、「神学」の新しい展開の可能性の要となること表す内容となっている。日本基督教学会関東支部、日本組織神学会、および聖学院組織神学研究センターが共催で今年(2009年)の3月に行ったシンポジューム「それは何であるのか―神学とは」における神代真砂実氏、川島堅二氏、西原廉太氏、深井智朗氏の発題と、司会の森本あんり氏のコメントを新たに論文の形にまとめたものである。

テーマは、ハイデガーが1955年におこなった講演「それは何であるか―哲学とは」のタイトルをもじったものである。哲学が「それは何であるか」という存在者の本質を問う学問であるとされているが、その哲学を哲学たらしめるもの、つまり、哲学そのものの基盤を問い返す奥深い講演である。だとすれば、このシンポジュームもまた、「神学」が「キリスト教学」とか「宗教学」との関係でどういう領域と方法論をもって区別されるか、ということを単に論じるのではなく、むしろ、そうした問いを超えて、「神学する」とは何かと、その基盤を問い返すものであったといえよう。それぞれの名で呼ばれる学問の領域で、論者たちが自ら何を、今、問う者であると自覚しているのか、「神学は何をするのか」という問いへの格闘がここに展開するのである。

神代氏は、「教会のための神学」といういわゆる伝統的神学の立場を確認しながら、その神学がどのようにその周りの他の世界に出会っていくのかというより広範なコンテキストとの関わりをキリスト教学、キリスト教文化学の研究領域の役割と位置付け、神学の公開性を論じる。川島氏は従来の宗教学の方法論に疑問を提出しながら、その社会的な役割として宗教の危険性を見抜く「予防学」的な働きを提起している。オーム事件において、果たし得なかった責任への自覚に基づいた議論を展開する。西原氏は、「キリスト教学」が日本的文脈の中で語られてきた歴史経緯をたどりつつ、「西欧的神学の自明性」のない(失った)ところでの、キリスト教の存在意義をより広い視野の中で明らかにしていく課題を見据えている。「キリスト教学」が新しい「神学」の枠組みを提示するものであるとみている。深井氏は、1900年前後にみられる「教会的神学」に対する「学問的神学」もしくは「文化科学としての神学」の運動は、本来対立的なものではなく、むしろ、教会がもつ公共性へと積極的にその神学の責任的領域を広げていく取り組みであることを論じ、「公共の神学」の必要を説く。森本氏は、こうした議論を受け、それに対する的確な批評を加えつつ、神学をする主体の実存的立ち位置の問題と、また信仰の枠組みの外にある人々との問いの共有における神学の可能性に一言する。いずれも、今自分たちが置かれているところで、「神学するということは何か」を真摯に問うものである。 
今日、いわゆるポスト・コロニアルの時代に、それぞれの地域・民族によって営まれてきた異なる文化・宗教のコンテキストの中で、キリスト教がどのようにその福音を分かち合えるのか。その答え方が福音内容をさえ規定してしまうような問いの中に神学は立っている。神学は単に教会に仕えるというばかりではなく、その教会が置かれている文脈そのものを分析し、説明し、問いかける。あるいは、逆に教会とか信仰、救いや神という言葉が、そもそも何を捉えているのか、それに応えていく責任を神に負っている。

本書を読みながら、ルター派の神学校と大学に身を置き、神学とキリスト教学を同時に担当する私は、「律法と福音」の枠組みや「問いと答え」の相関の方法を持ったティリィッヒ神学の可能性などに思いを巡らしつつ、今、日本の神学が新しい時代を生き始めていることを改めて実感させられている。