2013-06-24

「死をどう迎え、葬儀をどうする」

 6月22日の土曜日は日本福音ルーテル大阪教会を会場にして、「関西一日神学校」が行われた。招かれて、このテーマでお話しさせていただいた。土曜日にもかかわらず、関西の各教会から70名を超える方々にお集まりいただき、しかも大変熱心にきいていただいた。この問題の関心の高さを思わされた。会場でも、また個人的にもご質問をいただき、全てに十分お応えしてお話しすることはかなわなかったけれども、とても豊かな学びを私自身がいただいた時間だった。

 午前と午後に、それぞれ90分二コマというたっぷりとした時間をいただいたので、午前中の枠では、「私たちの死の現実と信仰」を考えるつもりで、「I. 死にゆくこと、看取ること」と題してお話しさせていただいた。一人称の死、つまり自分自身の死と向かい合うということと、「二人称の死」としての愛する者の死を看取る経験をどのように信仰において捉えていくのか。日本の宗教文化、そして現代という時代の中に生きる私たち自身の課題に迫ることを試みた。死に向かい合う魂の問題を問い、全ての人に見いだせるスピリチュアルな課題、ニーズを掘り起こしながら、キリスト教が伝えるべきものが何か、十字架と復活のキリスト二おける救いの約束と希望を学んだ。
 また、午後の枠は「葬儀」ということを考えるために「II. キリスト教の葬儀」としてお話しさせていただいた。これまで同じようなテーマで学ぶ機会があっても、なかなか90分まるまる話させていただくことがないので、たっぷりとキリスト教の葬儀についておはなしさせていただいた。喪の大切さを考えながら、実際的なことも含めてキリスト教葬儀というものについて学ぶことができた。また、「葬」ということは決して牧師の業ではなく教会での出来事であるので、教会が普段から、何を学び、準備すべきかということについても、少し具体的な提案もさせていただいた。

 関西は、父、正己が人生の終わりの時間を過ごさせていただいたところ。多くの教会でお手伝いをさせていただいた。そして、多くの方々に祈られ、支えていただいてきた。教会の方々へは、葬儀以来、それぞれの教会に私が招かれた時にはご挨拶もさせていただいたけれども、なかなか機会もなかったので、今回は皆さんにご報告もかねてお話することができたことは、私個人としても良い時間をいただいたことに本当に感謝したい。また、父が最後のときまで大切にして生きてきた「教会」に対する思いを、私自身も思い起こしながら、皆さんにお分かちさせていただいた思いもある。キリストにある赦し、慰め、希望に生かされるものでありたい。

 葬儀といえば、先だってBSで放映されたこともあって、映画「おくりびと」が思い出される方も多いだろう。あの本木君演ずる小林大悟の納棺の儀式の美しさにいやされ、生前には長くほどけることのなかった死者と遺されたものとの間のわだかまり、もつれた糸がゆっくりと解けていく、その「時」に魅了された方も多いに違いない。
 実際には、納棺師を依頼するなど滅多にないのが普通。あのような見事な業にお目にかかることは少ない。しかし、逆にいえば、臨終から葬儀、火葬など全ての葬の行程に牧師が寄り添い、祈りを持っていることは、いやしに満ちた日本のキリスト教の葬儀の特徴だろう。
 本木君のような美しい納棺の儀式は出来なくとも、牧師は司式者として場を整え、祈りの言葉、みことばの力によって、癒しのミニストリーを務めあげるもの。その所作もまた洗練された「ことば」においても、ある種の「美しさ」が「葬」という最も深い混沌の闇に神様のみ業を映し出すものとして求められるように思う。牧師はそういう司式者でありたいものだ。





2013-06-05

ルターセミナー 徳善発題を受けて

 この6月3日から5日まで、ルーテル学院大学ルター研究所の主催で、「牧師のためのルターセミナー」が三浦にて行われ、28名の参加者が与えられた。
2017年、私たちは宗教改革500年を迎える。ルター研究所では、この牧師セミナーでは  「宗教改革500年とわたしたち」このテーマのもとに今年から5回のシリーズで「ルター研究」を深めることとした。いま、私たちが「ルター」を学ぶということがどういう意味を持っているのかを問い、また確認しつつ、現代の教会と社会に向けてその成果を発信していきたい。その第一回目が今年のセミナーだ。

(この参加者は例年の約1.5倍。ルーテルのみならず、ナザレンから、また日基教団からも参加者が与えられたことも特筆すべきだろう。教派を超えて、学びと交わりを深める事が出来たことも、この「牧師のための」というセミナーにふさわしいし、それに加えて宗教改革500年に関連したテーマにもふさわしいことだったと思う。)

 このセミナーの第一の発題は、ルター研究所の初代所長で、ながく私たちを導いてくださってきた徳善義和先生で、「ルターの現代的意義を問えば」と題し約1時間の講演をいただいた。それに引き続き私たちは意見交換、討議を行い、これからの私たちのルター研究、あるいは、ルーテル教会の課題を見いだしていこうとした。
 発題そのものはすでに完全原稿にしていただいている。おそらく秋には、他の発題とともに『ルター研究 第11巻』として出版されるはずであるが、発題のあとの私たち参加者の討議も含めて、私がうけとった「生もの」をここに記録したい。故に、これは発題の正確な記録ではない事をお断りしたい。私が聞き、受け取ったものであって、言葉遣いも含めて、先生の発題とは別物である事をご理解しておいていただきたい。
(写真のスタンプは参加者の方からの提供)

 この徳善先生の発題では、ルターがあの時代の中でキリストの福音のために教会の改革を呼びかけた批判原理を、どのように現代のルター神学のなかで捕まえて、時代の課題に取り組むのかという問題提起をいただいた。
 ルター自身の歴史性、ルター研究の歴史性をしっかりとふまえ、ルターの宗教改革を捉える。そうして、今を生きている私たちが現代においてルターを研究し、ルターからまなぶということそのものを批判的に検証する必要がある。つまり、ルターを自分の神学的主張を肯定するために参照するのでは、ルターの改革の意図を生かす事にならない。むしろ、あのドイツの16世紀という時代を批判的に捉えた宗教改革の「批判原理」をもって、現代を生きる自らを検証する。そうした作業を経てこそ、現代という脈絡のなかでルターを継承するということを意義あるものとすることができるのであり、教会の歴史的な責任性を担うことが出来るということだ。
 ルーテル教会がルーテル教会として、ルターの現代的意義を問う時には、ルターの批判的原理のもとで、自らを顧み、今の自分たちはこれでいいのかと問う事の出来る教会でなければならないということだろう。ルターをまつりあげるのではないし、ルターに帰るのでもない。ルターを相対化しつつ、しかし、そこから学ぶ私たちがルターを超えて、この歴史のなかで、明日に向けて新しい一歩を記すことが必要なのだ。

 徳善先生が、まず宗教改革の基本原理という視点の中で取り上げられたテーマは宗教改革的な福音原理の確認の必要性であり、ルターにおけるその展開を「みことば」、「洗礼」、「聖餐」「鍵の権能」、「奉仕者」、「祈り」「十字架」という教会の持つべき七つしるしに見て紹介された。つまり、教会が教会であるという事のために最低限必要な事は何か。一般に、アウグスブルク信仰告白の第7条から福音の純粋な説教と福音に従った聖礼典の正しい執行ということだけが言われてきているかも知れないが、ルターは教会が負っている務め、その働きが何であるのかということを、この教会の「しるし」として述べている。そうした「しるし」を私たちの教会はどのように今持っているのか。その事が問われているということだろう。これらについては、また、改めて考察をしたい。

 これらを前提にして、ルターは人間の生の三分野に(家政 oeconomia、社会 politia、教会 ecclesia)おける諸課題へと取り組むべきことを繰り返し語っているという。徳善先生は、ルターの荒野の誘惑に関する説教やキリストの降誕に関する説教などにおいて、人間がこの三分野において、誘惑や悪魔的な力と戦う者である事を語っているという。つまり、パンの欲望、世俗権力への欲望、宗教権力の欲望との戦いである。家政、社会、教会という三つの区分において、人間は究極的には神の主権と支配のもとにありながら、人間の肉の思いがあらゆる機会を捉えてこれを乱用するのだから、こうした生の諸側面においてキリスト者がキリスト者として向かい合い、担っていくべき課題があることを示された。
 具体的に改革の時代のなかで公にされたルーテル教会のアイデンティティーを形作る事となった改革の告白文書、アウグスブルク信仰告白や小教理問答などが、あの時代に個人的な信仰生活の領域、社会的・政治的な脈略、さらに教会の改革と一致などのその諸領域にどのような意味を持つ者であったかという事を確認しつつ、現代のなかで必要な新たな理解・解説をもっていくことが必要だろうということも確認した。信仰告白文書は、歴史的な告白文書であり、そこに確かにルーテルのアイデンティティーを確認できるものだと思うが、それに新たな私たちの歴史的場所での告白ということが生まれてかまわない。「今、ここ」という状況の中で、私たちの教会が神の前で自らを確認し、公に告白することが求められ、また必要だといわれる事態があるなら、歴史的な一致信条に固執するのではなく、自らの告白を加えていく可能性があるのではないか。

 そして、そこで考えるべき具体的課題は何かについては、私たち自身が改めて「現代」という脈絡のなかで考えるべきことを提案された。参加者の討議の中で出てきたことも含めて、考えられてきたところを以下にまとめてみたい。
 すなわち、「個人の信仰生活」について、また今日の「エキュメニズム」を含む「教会のあり方」についてはもちろん、社会の諸問題への実践的、「倫理的な課題」に対する責任性を自覚し、ルーテル教会、またそこに生きる私たち自身が、自ら問いかけられているものとしてどのようにその課題を見据え、取り組んでいくのか。また、今日、「宗教的なもの、スピリチュアリティー」というような課題が人間にとってどういう意味をもっているのかという問いや必要が言われているのであれば、そこにキリスト教はどのように貢献し、またルター派として発言していくことが出来るのか。これも一つの責任をもっていくべきことであろう。教会に救いを求めてくる方々が複雑化した社会のなかで抱える心の課題への取り組みも、教会としての必要な関わりもあろう。
 いずれにしても、あの宗教改革の時代にキリストの福音を揺るがし、それを曇らせる、様々な働きを社会のなかにも、個人の信仰生活の中にも、そして教会そのものの中にも見いだしたルターが、神と悪魔との戦いの戦線に信仰をもって臨んだとするならば、いまの私たちの「敵」とはなにか。そうしたことを時代の中に感じとり、「非人間化する力」と相対する必要がある。(もちろん、「原子力」の課題もここ具体的な問題の一つだろう。私は常々「核」の問題こそが現代の偶像であり、また悪魔的力とかんがえてきたのだけれども、その事にどう向かい合い、何を語るのかということが今こそ問われているに違いない。)
 16世紀とは異なった今日という文脈のなかで、私たちは誰と共に立ち、何に向かって戦い、何を問い、何を語るものとしてルーサランたらんとするのか。そうした「告白的課題」の前にあることを深く自覚させられた。
 ルターの現代的意義を問うならば、自らが問われるものとなる!