午前と午後に、それぞれ90分二コマというたっぷりとした時間をいただいたので、午前中の枠では、「私たちの死の現実と信仰」を考えるつもりで、「I. 死にゆくこと、看取ること」と題してお話しさせていただいた。一人称の死、つまり自分自身の死と向かい合うということと、「二人称の死」としての愛する者の死を看取る経験をどのように信仰において捉えていくのか。日本の宗教文化、そして現代という時代の中に生きる私たち自身の課題に迫ることを試みた。死に向かい合う魂の問題を問い、全ての人に見いだせるスピリチュアルな課題、ニーズを掘り起こしながら、キリスト教が伝えるべきものが何か、十字架と復活のキリスト二おける救いの約束と希望を学んだ。
また、午後の枠は「葬儀」ということを考えるために「II. キリスト教の葬儀」としてお話しさせていただいた。これまで同じようなテーマで学ぶ機会があっても、なかなか90分まるまる話させていただくことがないので、たっぷりとキリスト教の葬儀についておはなしさせていただいた。喪の大切さを考えながら、実際的なことも含めてキリスト教葬儀というものについて学ぶことができた。また、「葬」ということは決して牧師の業ではなく教会での出来事であるので、教会が普段から、何を学び、準備すべきかということについても、少し具体的な提案もさせていただいた。
関西は、父、正己が人生の終わりの時間を過ごさせていただいたところ。多くの教会でお手伝いをさせていただいた。そして、多くの方々に祈られ、支えていただいてきた。教会の方々へは、葬儀以来、それぞれの教会に私が招かれた時にはご挨拶もさせていただいたけれども、なかなか機会もなかったので、今回は皆さんにご報告もかねてお話することができたことは、私個人としても良い時間をいただいたことに本当に感謝したい。また、父が最後のときまで大切にして生きてきた「教会」に対する思いを、私自身も思い起こしながら、皆さんにお分かちさせていただいた思いもある。キリストにある赦し、慰め、希望に生かされるものでありたい。
葬儀といえば、先だってBSで放映されたこともあって、映画「おくりびと」が思い出される方も多いだろう。あの本木君演ずる小林大悟の納棺の儀式の美しさにいやされ、生前には長くほどけることのなかった死者と遺されたものとの間のわだかまり、もつれた糸がゆっくりと解けていく、その「時」に魅了された方も多いに違いない。
実際には、納棺師を依頼するなど滅多にないのが普通。あのような見事な業にお目にかかることは少ない。しかし、逆にいえば、臨終から葬儀、火葬など全ての葬の行程に牧師が寄り添い、祈りを持っていることは、いやしに満ちた日本のキリスト教の葬儀の特徴だろう。
本木君のような美しい納棺の儀式は出来なくとも、牧師は司式者として場を整え、祈りの言葉、みことばの力によって、癒しのミニストリーを務めあげるもの。その所作もまた洗練された「ことば」においても、ある種の「美しさ」が「葬」という最も深い混沌の闇に神様のみ業を映し出すものとして求められるように思う。牧師はそういう司式者でありたいものだ。
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