2013-12-27

首相の靖国参拝に抗議! (更新8、2014・2・20)

安倍首相は、2013年12月26日に靖国神社への参拝を強行した。
 
 首相の説く「積極的平和主義」の実現を目指している一連の動きのなか、「やはり」と思ったが、この暴挙にも断固反対する。

 M. ニーメラーの後悔*を繰り返してはいけない。それぞれの時と所で、声をあげていくべきだと思う。

若い学生たちにも考えてもらいたいのだ。
 今の若い人たちは、政治に興味を持たないといわれる。しかし、本当にそうだろうか。情報の入り方が今までとは違う。SNSなどを通じても時事問題に結構いろいろな意見が挙げられて、受け取っているし、考えているのではないか。そういう中で、しっかりと自分の考えを持ってほしい。自分の頭とことばで生きてほしいと思っている。今なら、間に合う。二度と戦争をする国をつくってはいけない。それが、歴史のなかで多くの戦争のためにいのちを落とした人々の魂とともに、平和に向けて生きる、唯一の道ではないのか。

今回の、安倍首相の行動。
 
 もちろん、現在の外交上、国際世論の中、孤立化する最悪のタイミングであることもその理由としてあげられようが、何よりも、靖国は意図としても結果においてもアジア侵略をすすめた天皇制軍国主義による先の戦争の精神的な支柱であり、その戦争においてA級戦犯となったものを含む「英霊」がまつられている神社であることを考えなければならない。つまり、何か戦没者の慰霊の施設などではなく、はっきりと大日本帝国が国のために犠牲となるように国民を教育し、鼓舞し、強制する戦略のためつくられた宗教施設だった。
 確かに「靖国で逢おう」という合い言葉によって、多く若者が戦地に赴いた。それは美談として語られるべきものではない。赴かざるを得ないように洗脳されたと言ってよいし、そうしなければ、社会的に生きられない状況が作り出されていたのだ。いわば、そうした戦争推進のために英雄伝説を現実に描いてみせたのが靖国神社の実態といえるだろうか。
 今は、もちろん国家の施設などではなく、一宗教法人に過ぎない。
 この靖国を首相が参拝するということがどういうメッセージになるかは、自明のことだ。単に政教分離の原則に抵触するということばかりではなく、そのことも含めて、先の戦争を推進したイデオロギーに対しての肯定、復古を懸念されるのは当然だろう。かつて、小泉純一郎元首相は参拝を個人的な「心」の問題だと言い放った。安倍首相はこれによって「中国、韓国の人々を傷つけるつもりはない」という。首相である以上、そういうことばでごまかしは出来ないのではないか。
 過去の歴史認識の上にたって、何をしてはいけないかということが分からないというのなら一国の舵を取るものとしての資質の問題だ。しかし、おそらく、そんなことが分からないはずはない。その意味を理解して、なおこれを行っているから最悪なのだ。

 この道の行き着く先には、日本を再び戦争の出来る国としようとするあからさまな意図が見えている。特別秘密保護法の制定、首相の靖国参拝、沖縄の米軍基地辺野古移設決定とつづいた。すぐに愛国心を養う教育問題に介入する。改憲論を持ち上げ、9条をなし崩しにする。自衛隊を軍隊にする。やがて徴兵制もありか。これが、積極的平和主義という名前のもとに、一方では意図して国際的緊張を演出して、世論的にも右傾化を呼びこんで、大きな流れをつくる意図だろう。経済的な上昇気流がなお衰えを見せていない今のうちに、急速に舵をきった安倍首相の本音は、いったい、いつの「日本を取り戻す」ことなのかは明らかではないか。

カトリック教会は日本カトリック正義と平和協議会の名前で、いち早くこの安倍首相の行動に抗議声明を出している。(12月26日)
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/131226.htm

いずれNCCも抗議声明をだすだろう。
ここに今後の動きも更新していこう。
NCCは年末ですぐには動けないか?

日本バプテスト連盟は、以下の抗議文を理事長名で出した。(12月28日)
http://www.bapren.jp/uploads/photos/685.pdf

日本同盟基督教団も、「教会と国家」委員会名での抗議声明を出しました。(12月29日)
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=742

日本ホーリネス教団が、教団委員長並びに福音による和解委員会委員長の名前で抗議声明を出しました。(12月31日)
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=745

日本長老教会は社会委員会委員長名でいち早く12月26日の首相の参拝合わせてに抗議声明を出していました。(12月26日)
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=741

日本キリスト改革派教会は、教団と代表役員・大会議長の名前で抗議声明を出しています。(12月30日)(1月27日に確認)
http://www.rcj-net.org/statement/statement_against_prime_minister_2013Dec30.pdf

日本キリスト教協議会、NCCが議長書簡を首相宛に出したことを公にしました。
(1月27日) (1月29日に確認)
http://ncc-j.org/uploads/photos/117.pdf

日本YWCAは、首相の参拝と同日に抗議声明を出していました。(2月20日確認。遅くなったことお詫びします。)
http://www.ywca.or.jp/pdf/201312261.pdf

日本キリスト教会も、参拝の翌日、靖国神社問題特別委員会委員長名で抗議を明らかにしています。(2月20日確認、遅くなりました。)
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=746



*マルティン・ニーメラー牧師がナチズムの横暴に抗し切れなかった自らを悔いたことばとして、知られる。(下記参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%8C%E6%9C%80%E5%88%9D%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%82%92%E6%94%BB%E6%92%83%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D

2013-12-24

ルター研究 別冊1号 

『宗教改革500周年とわたしたち 1』


http://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/72999

2013年の今年、宗教改革500周年(2017年)を4年後にひかえて、ルーテル学院大学のルター研究所(鈴木浩所長)は、このタイトル「宗教改革500周年とわたしたち」で毎年連続のセミナーを開くこととし、その第一回目を6月に開いた。その成果をまとめる形で、ルター研究も今年から毎年一冊ずつ別冊として連続発行される。

第一号の内容はつぎの通り。鈴木所長の「まえがき」に続いて、
①徳善義和
「問題提起:ルターの現代的意義を問えばー『宗教改革五〇〇年と私たち』を考えるために」
②江口再起
「ルター・プロテスタンティズム・近代世界ー宗教改革五〇〇年のために」
③江藤直純
「ルターの宣教の神学と今日のルター派の宣教理解(1)」
④ティモシー・マッケンジー
 「『ルーテル教会信条集(一致信条書)』の邦訳の歴史的背景と意義」
⑤高井保雄
 「ルター、エラスムス、エンキリディオン、悔い改め」
⑥徳善義和
「ルターの讃美歌考—『バプスト讃美歌集』(一五四五年)に見る」

六番目の徳善先生のルターの讃美歌集についての論考は、単に讃美歌についてというばかりではなく、礼拝について、また信徒の信仰教育や信仰生活についてルターがどのように考えていたかということに学ばされる。これはセミナーではなされたものではないが、プラス・アルファーとして加えられ、ルター宗教改革の礼拝に関わる側面を補った形ともいえる。
全体として読み応えがあるばかりではなく、これに刺激されていろいろな研究の可能性と必要を思わされるところだ。
ルーテルの牧師・神学生は是非手に取って目を通していただければと思う。そして、宗教改革の現代的な意義をそれぞれに宣教の現場から神学していただければと思う。
(来年のセミナーにも是非、大勢参加されたい。それについては、後日お知らせする。)


2013-12-19

闇の中の光は (クリスマス説教)

闇の中の光は(日本ルーテル神学校 クリスマス礼拝 12・17)

第一朗読 イザヤ9:1、5
福音朗読 ルカ2:1〜7

 アドヴェントは、クリスマス前の4週間の時、ヨーロッパではちょうど冬至に向かって日が短くなっていく中、闇が広がっていくその季節にあたります。義の太陽、世の光イエス・キリストの誕生、そしてまた再び来たりたもう主の約束を憶えるクリスマスに備える時を過ごします。
 毎日ロウソクをともし礼拝をする習慣から、日曜日ごとに毎週一本ずつ4本のロウソクをともしてアドヴェントを過ごすようになったのは、19世紀になってからといわれますから、そんなに古いことではないようです。しかし、アドヴェントそのものは、もともと主の顕現(公現)として祝われたクリスマスに洗礼式が行われるので、そのための準備がなされ、悔い改めと断食を守っていたことがその季節の過ごし方であったようです。クリスマスへの準備をし、礼拝を重ねながら、主が再びおいでになる救いの時に、ふさわしい者であるように自らの信仰を整えるために、この季節を過ごしました。
 冬の闇の中で、主のご降誕の時、そして、また来るべき世の救いを待ち望む季節を過ごしてきたのです。
 
 暗闇の中、救いを待ち望む。

 私たちを覆う暗闇。いったい、どんな暗闇のなかに私たちはたたずんでいますか。一体どんな闇に不安や恐れを感じているのだろう。一体、どんな闇が私たちを蝕んでいるでしょうか。

 聖書の記すクリスマスの出来事は、この闇の世界の広がりを大変印象深く背景にしながら、神の救いの輝きを記しています。神の栄光、しかしまた、その神に敵対する闇の力。その対比は、例えばヨハネ福音書が鮮やかに描いています。

「光は、暗闇の中で輝いている。」

 先ほど読んでいただいたイザヤ9章は、アッシリアに滅ぼされた神の民イスラエルの絶望を闇と呼び、その闇の支配にさらされたガリラヤの地に輝く光を救いのしるしとして預言しています。

 その暗闇は、神を受け容れることの出来ないもの、神の御心に逆らう力、また神から引き離す力なのです。そして、その力はいつでも、私たちを捉え、いのちを奪い、死の支配、闇の支配をもたらそうとしているのです。あのアダムを誘惑し、その息子カインをして弟アベルを殺すようにしむけたその力は、あの時を同じように私たちを捉えようと戸口で待ち構えているのです。
 その闇の力は、具体的、実効的に私たちに不安と恐れをもたらします。
 マタイ福音書は、主の誕生の知らせに際しユダヤのヘロデ大王が、その闇の力の虜になっていたことを伝えています。自らの地位や権力の座が脅かされる不安にかられ、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。闇の力が一人に権力者の心を蝕み、その地方一体に闇を深めたのです。ヨセフとマリアは幼子を抱き闇の中をエジプトへと逃げ、難民となったと記されています。
 一方、また福音書記者ルカは、主のご降誕が当時のローマ世界の人口調査の時であったことを記します。皇帝アウグストゥスが世界支配を徹底させ、税を重く課すために人口登録をさせたその時に、ヨセフとマリアはその登録のために長い旅を強いられました。彼らは長いたびの果てふるさとにたどり着いたにもかかわらず、そこに彼らを受け容れる宿はなく、ようやく厩に休む場所を得て、そこで主がお生まれになることになったと伝えています。
 貧しいヨセフとマリアには、世のにぎわいと忙しさの中で一夜の場所さえ与えられなかったのです。顧みられることがなく、あたたかな場所もゆっくりした広さもなく、動物のえさや糞尿のにおいの中におかれたのでした。街の人々は、その事に気遣うこともありません。闇はすべてを覆っているのです。

 マタイもルカも、主の誕生の時を大変具体的な歴史の一こまとして記しています。時の権力者が何をして、人々の生活の中に何をもたらしたのかということを伝えています。そこに闇の支配が広がり、人々に恐れと不安がもたらされ、弱く小さな者、貧しい者たちが顧みられることなく、そのいのちが奪われ、悲しみが広がっている。そうした当時の様子を伝えているのです。おそらく、その闇の力は、一人の権力者だけではなく、むしろ、そこで生きている一人ひとりをそっと虜にしているのです。だから、いのちが奪われたものがあり、だから、居場所を与えられないものたちがあったのです。

 闇は、いつの時代にも、私たちを押包もうと広がっています。
 いま、私たちは、どんな闇の中にあるのでしょう。誰のいのちがうばわれているのか。居場所が与えられないままなのは誰ですか。誰が不安と恐れの中におかれていますか。いま、どんな闇が何を秘密にし、なにをしようとしているのでしょう。私たちは、いま、この時に闇の広がりがあること知るのです。

 けれども、その闇の中にこそ、光が輝き、一人のみどりごが与えられ、新しい始まりをもたらしたと聖書は私たちにつたえるのです。そして、そのとき、ヨセフもマリアもそのいのちを守る勇気と力を与えられました。いえ、そのいのちが光として、彼らを生かし、導いたと言ってよいでしょう。そのいのちの輝きは、彼らにその暗闇の中にあっても長い旅を歩ませ、絶望ではなく希望を与え続けたのです。幼子にまみえたあの東方の学者たちは導かれて、権力に屈することはなかったのです。羊飼いたちは、自分たちと同じように動物のにおいにまみれた赤ん坊のイエス様の誕生に、神様の顧みが自分たちに及んでいることを知らされました。よろこびと賛美を表し、慰めと誇りをもってその羊飼いの生活にかえっていきました。

光は闇の中に輝いている。闇は、この光を覆い隠すことは出来ません。
それは、この光の確かな力なのです。

 私たちを蝕む闇の力は、世界の中に不安と恐れをもたらしています。しかし、同じ闇は、すでに私たちのうちに働いて、欲望と傲慢、ねたみやうらやみ、争い、利己心となってうごめいているのです。それが、私たちを主の御心から引き離すのです。それが私たちをむなしくするのです。それが私を滅びへと向かわしめているのです。

 しかし、それにも拘らず、神様はあなたを愛されます。それにも拘らず、この闇の只中に立ちすくむ私たちとともにおられることを神様は約束され、引き受けられることとされました。それにも拘らず、この悪しき思いに腐り、臭を放つ私の内なるまぶねに主はおいでになられたのです。それが神のみ子の誕生、神の受肉、クリスマスの出来事なのです。

闇の中に光が輝きます。

 そうして主が私たちにこそ宿り、いま私たちを新たにし、腐りいくものの上に朽ちることのないキリストの義を着せ、生かしてくださるのです。神様のまなざしに守られて、私たちの中に慰めとよろこび、深い安心が与えられるのです。愛せないでいる私が愛する者とされ、信じない私が信じる者とされ、死んでいた私たちが生かされるのです。恐れている私たちに勇気が与えられ、絶望の中に希望することが与えられるのです。自らの過ちを正し、神のみことばに聞いて立ち上がり、倒れているものに駆け寄り、苦しむものの傍らにあるように、私たちはキリストのいのちを生かされていくのです。

さあ、この暗闇の中、主のいのちの光を輝かしましょう。
「今日ダビデの街で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」のです。
闇の中の光は、私たちを新しくし、他者のためにこの光を輝かすように、私たちを召し、そして遣わすのです。

2013-12-14

「今、神学するとは」によせて

今、神学するとは…

『福音と世界』2014年1月の特集のタイトルだ。

              

教派を超えた10名が、今日の神学、とりわけ日本における神学の課題や可能性について論じている。私も拙文を寄せるよう声をかけていただいたのだが、むしろ一人の読者としてこの特集の発行を楽しみにしていた。
 一人ひとり、限られた誌面のなかではあるけれど、自分の神学的視座を表現されていて、大変興味深く読むことができた。もちろん、現代の日本にあっての神学的課題を述べるということだから、全く独自のものが表現されているというより、たぶんにそれぞれの主張は重なってくる。日本の神学は、これまで欧米中心で、翻訳と解釈、その応用・適用という方法をとってきただろう。その時代を必ずしもすべてマイナスに捉えることではないけれど、そうした西欧、特にドイツと、後にアメリカに追随する神学が、日本人である私たちの信仰、その生活、あるいは現代の課題に本当に向かい合うものとなり得ているのかという反省が語られる。そして、アジア・日本という具体的な宗教的・文化的コンテキストをふまえつつ、今の私たちが直面している地球規模の環境問題や生命倫理の問題などに取り組む必要があるという課題を確認している。そのために自分たちの神学の基礎を今一度確認し、教会の内向きな神学ではなく、世界に対して積極的にその責任を担う神学の必要が述べられている。
 その神学がどのような性格のものであるか、どんな基礎を持つと考えられるのか、論考を寄せられた一人ひとりのその語りのなかに、個性的なその基礎構造のようなものが見えてくるように思う。

 しかし、そもそも「神学」という言葉に何を思うだろうか。
 ここ数年、それまでどこか忘れかけられていた「哲学」という学問がにわかに取り上げられ、たくさんの本が出版されている。『14歳からの…』といった若い世代へ訴えるもの、『ソフィーの…』というミステリー小説のようなものがそのブームを促しただろう。難しい哲学者の言葉を分かりやすく編集、解説を試みたものも予想以上に売れたようだ。哲学というものへの入門書、手引き類いは、古今の哲学者、その哲学をやさしく解題するというものばかりではなく、むしろ「哲学する」ということそのものへの招きとして書かれたものも少なくなかった。いったい誰が読むのだろうと思う哲学史における『普遍論争』のようなものさえ熱心に読まれたようだ。

 さて、それで「神学」は?
 キリスト教やその歴史、文化を解説する特集雑誌や新書はよく売れている。しかし、売れるものはどちらかと言えば、神学の専門家でない人、もっといえばクリスチャンでもない人たちによって書かれたものばかり。牧師や神学者が書いたものにはなにか警戒心が働くのか、入門的なものでもなかなか売れない。そもそもキリスト教信仰を前提にするものである「神学」は、「哲学」以上に近寄りがたいのだろう。
 そのことは、しかし、やはり「神学とは教会やキリスト教の人たちのものであって、自分たちには全く関係のないこと」と断じられているということでもある。信仰のない者には所詮関係のない話と思われてしまっている。それは、裏を返せば、キリスト教が現代の生に何を提示しているのか、何を語っているのか。その発信がなされていないということに違いない。路傍伝道をするかどうかは別にしても、今を生きる人々に訴える力を持たない私たちの「ことば」を今一度問い直す必要があると思う。本当は、クリスチャンに限定した神学などというものはないのだろう。その神学の必要を、誰にでも伝えられるように責任を感じていたい。
 
 取り上げるべき課題については、私自身は二つのことを例にして緊急の問題と呼んだ。一つは「核の支配」、今ひとつは「天皇制」。「核の支配」は、今回の原発事故によって、図らずもそのほつれがはっきりとして、関心が寄せられている。しかし、そんな懸念さえもなし崩しにしていこうとする「力」が働いている。また、天皇制の問題。これはまた、今の天皇・皇后が懸念される「力」を牽制するように発信されるものも見えたりして、なかなか直接的に論じることが躊躇われるほどだ。しかし、個人的なことがどうであるかではなく、「天皇制」というものの持っている根本的な問題に、しっかりと向かい合っておく必要がある。良くも悪くも、影響力を持つ宗教的な祭司としてたてられる「象徴天皇」の制度は、いざという時必ず担ぎ出されるに違いない。靖国問題も結びついている。国旗や国歌がそうである以上に、私たちに究極的な関わりを求めるシンボルは、国民を個人よりも全体の中に吸収させ、国家のために「コントロールのもとにおこう」とするだろう。すべてが「秘密」のうちに決まり、黙らされたまま誘導されることのないように、私たちは目を凝らし、必要な声をあげていなければならない。

 さて、こうした神学的な課題へ取り組む基礎として、私自身はかねて「いのち学」ということで取り組んでいる。今回のエッセイには書き切れなかったのだが、被造物全体とのつながりや、個人としてのいのちの尊厳などをしっかりと聖書的に基礎から捉え、今の私たちの「生」の危機を見つめ、生命倫理を含めた現代的な課題に応えていくための方法論といってもいい。日本人の宗教性を含めて、現代のいのちの問題を神学的に検証していく必要がある。

 今回は本当にわずか10名の小さな発題だった。しかし、課題を共有しているはずの人たちはたくさんいる。特に「神学者」と言わず、信仰の生に苦悩しつつ真摯にみことばに聞いて、自分たちの営みを問い続ける信仰者はたくさんいるのだ。その私たちは、どんなふうに連携し、ともに学び、神学の「ことば」をきたえていけるのか。
 せっかく教派をこえた論者の声が寄せられたのだ。その次の一歩も作れないだろうかと、密かに思っていたりする。

2013-12-09

特定秘密保護法成立に反対する そして…

 2013年12月6日の参院本会議で、「特定秘密保護法」は可決され、成立した。
この法案の成立に関しては、それぞれの立場から反対の声は大きく、特にその成立に向けての性急な国会運営、審議不十分さ、そして数に任せた強行採決のあり方には与党に対する支持・不支持を超えて懸念が表明されている。
 キリスト教界からも、早くからこの法案が民主主義の根幹に関わる問題であることへの懸念、反対の意見が表明されてきた。この法によれば「安全保障」のため、あるいは「外国の政府および国際機関との交渉に不利益」になることなどを理由に国民が確かな情報得ることがゆるされず、かえってそれを知ろうとすれば処罰の対象となりえる。
 おそらく、そうした国家の大切な秘密があることは当たり前といえるのだろう。けれど、その「当たり前」はどういう意味で考える「当たり前」なのか。その前提が「国民の主権」に基づいているのか、そうでないのか。「基本的人権」にもとづいているのか、そうでないのか。そこが問題なのだと思う。この法案は、何がその秘密になるのか、その内容とその対象の決定、またそれを確認するチェック機能も曖昧なまま、政府の一存ですべてが決まっていくというところに異常さがある。だからこそ、歴史を知る者は、これが戦争への一歩となることを懸念し、「平和主義」に逆らう法案であると反対する声明が出されてきている。

 法案によれば、おそらく原発の事故によってもたらされている様々な危険、日本におけるアメリカの基地問題、近隣諸国との間にあるとされる領土問題とそれによってもたらされている緊張関係などについての情報が秘密とされる可能性がある。私たち国民が、今、非常に関心を寄せ、これらの諸問題を処する政府の対応に様々な意味で確かな情報に基づいて意見を表明して、日本の進む方向性を民主主義的な方法で決めていかなければならないと思うことがらについて、国民には情報が知らされず、秘密主義に基づいてすべてが動いていくことが多いに懸念される。

カトリック教会の日本カトリック司教協議会は常任司教委員会の名前で12月7日付けで強行採決に反対を表明している。
http://www.jccjp.org/jccjp/home_files/2013.12.7himituhogohouBp.pdf

日本聖公会は、正義と平和委員会が11月18日付けで法案の成立に反対している。
http://www.nskk.org/province/seimei_pdf/himitsu131118.pdf

日本バプテスト連盟は、靖国神社問題特別委員会名で12月2日付けで本法案の廃案を求めている。
http://www.bapren.jp/uploads/photos/681.pdf

日本キリスト教協議会は常議員会名で11月22日づけで法案への反対を表明している。
http://ncc-j.org/uploads/photos/106.pdf

また、教派を超えて牧師たちが署名によってこの法案への反対を表明するサイトも立ち上がっている。「特定秘密保護法に反対する牧師の会」
http://anti-secret-law-pastors.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html?spref=fb&m=1

 私自身もそれぞれの関係の中で、この法案に反対の立場を表しているつもりだけれども、個人のブログにおいても、これを明らかにしておきたい。
 そして、たとえこの法を廃案に導けなかったとしても、今から何が起こるのか、その一つひとつに目を見張らせていかなければならない。また、次の世代に向けて私たちにとって何を大切なこととしなければならないなのか、伝えていかなければならないと思う。しっかり知ること、そして、その確かな情報に基づいて考えること、判断すること、その意見を表明すること、責任を負うこと。しかし、意見の違う他者があることも認めること。そして、何よりも弱い立場にある人々を守るように行動すること。それはきっと日常の中でいつでも私たちが大切にしなければならないことだろう。その根幹が揺らぐことのない社会を作るのは、私たち自身だと思うのだ。決して、これが、戦争への一里塚だったなどということにしてはならないのだ。

(私たちルーテル教会は、教会として、あるいは個別の委員会においても意見の表明に至っていない。関係するであろうと思われる諸委員会から意見を表明するということについて十分に機能的になり得ていない向きがある。しかし、実際には個々の牧師、教会員の意識が低いと言う訳では決してない。それぞれの関係から声は上がっているし、行動にも参加している。ルーテルの者としては忸怩たる思いもあるが、教会は委員会や個人名であれ社会的問題に対応した意見表明をしていく必要は十分に確認されてきているし、かつては靖国の問題などにおいて実績もある。近くは、震災後の原発の問題についても意見を表明した。ただ、時事刻々と変化する課題に、タイムリーな発信がなされていない。今総会期の常議員会ではこの社会問題に関する教会の対応あり方の問題についても確認され、今後のためにどのような整備が必要であるかの検討がなされているとも聞いている。いずれにしても、情報化社会であって、今は様々に連携・連帯が作れるし、また個人的にも意見の表明は可能になっている。この時代だからこそ、どういう形で諸問題に対応する形を作れるか、しっかりと模索していく必要はある。)






2013-12-06

アウグスブルク信仰告白とその解説

 宗教改革者のルターの信仰理解を簡潔に述べ、教会が様々な特色を持ったり、違いを持っていたとしても、キリストの教会として一つの交わりをもってお互いに認め合うために最低なにが告白されなければならないか。

             


徳善義和先生による解説は、おそらく神学校の「信条学」の講義ノートがもとになったものだろう。充実したその内容は、神学生にとってはルーテル教会の神学の基本の基を学ぶには最適だ。ルーテル教会の信仰理解と言うことばかりではなく、その成り立ちを考えてもエキュメニカルな神学の基礎として今日改めて評価をしながら、新しい歩みを築いていく基礎ともなろう。
 1980年がアウグスブルク信仰告白450年だった。その前年にこの新書判が発行されている企画にも意欲を感じないではいられない。1983年のルター生誕500年を経て、ローマ・カトリック教会との対話はさらに深まり、1999年の「義認の教理に関する共同宣言」の調印にまで進んだ。宗教改革500年を目前にして、今一度この信仰告白の研究と評価が求められよう。
 ルーテルの神学生には、もちろん必読中の必読書。既に手に入る状態ではないから、古書店で見つけたら、躊躇せず買ってほしい。再販が企画されるべきか。むしろ、データにして、アップし、共有できるようにしておくと良いのだが…。

『牧会者ルター』

 ルターによる宗教改革の神学は、一人の信仰者としてのルター自身が、人生の歩みの中で福音によって生かされていくその試練・格闘の経験から出発している。神学的な論争は、主として当時のローマの教会とスコラ神学、また熱狂主義的運動に向けられているが、その神学の根っこは牧会的であり、実践的な魂の配慮に満ちている。
 そんなルターの牧会者として姿、またその神学を人生の様々な視点において浮き彫りにし、今日の私たちの信仰生活にも直接いきてくる神のことばに立つルターの信仰と神学を伝える一冊。石田順朗先生による『牧会者ルター』。聖文舎によって出版されていたものが2007年に教団出版から復刻されている。

                

神学生は必読の書。牧師の本棚にも必ずおいておきたいもの。