2013-12-19

闇の中の光は (クリスマス説教)

闇の中の光は(日本ルーテル神学校 クリスマス礼拝 12・17)

第一朗読 イザヤ9:1、5
福音朗読 ルカ2:1〜7

 アドヴェントは、クリスマス前の4週間の時、ヨーロッパではちょうど冬至に向かって日が短くなっていく中、闇が広がっていくその季節にあたります。義の太陽、世の光イエス・キリストの誕生、そしてまた再び来たりたもう主の約束を憶えるクリスマスに備える時を過ごします。
 毎日ロウソクをともし礼拝をする習慣から、日曜日ごとに毎週一本ずつ4本のロウソクをともしてアドヴェントを過ごすようになったのは、19世紀になってからといわれますから、そんなに古いことではないようです。しかし、アドヴェントそのものは、もともと主の顕現(公現)として祝われたクリスマスに洗礼式が行われるので、そのための準備がなされ、悔い改めと断食を守っていたことがその季節の過ごし方であったようです。クリスマスへの準備をし、礼拝を重ねながら、主が再びおいでになる救いの時に、ふさわしい者であるように自らの信仰を整えるために、この季節を過ごしました。
 冬の闇の中で、主のご降誕の時、そして、また来るべき世の救いを待ち望む季節を過ごしてきたのです。
 
 暗闇の中、救いを待ち望む。

 私たちを覆う暗闇。いったい、どんな暗闇のなかに私たちはたたずんでいますか。一体どんな闇に不安や恐れを感じているのだろう。一体、どんな闇が私たちを蝕んでいるでしょうか。

 聖書の記すクリスマスの出来事は、この闇の世界の広がりを大変印象深く背景にしながら、神の救いの輝きを記しています。神の栄光、しかしまた、その神に敵対する闇の力。その対比は、例えばヨハネ福音書が鮮やかに描いています。

「光は、暗闇の中で輝いている。」

 先ほど読んでいただいたイザヤ9章は、アッシリアに滅ぼされた神の民イスラエルの絶望を闇と呼び、その闇の支配にさらされたガリラヤの地に輝く光を救いのしるしとして預言しています。

 その暗闇は、神を受け容れることの出来ないもの、神の御心に逆らう力、また神から引き離す力なのです。そして、その力はいつでも、私たちを捉え、いのちを奪い、死の支配、闇の支配をもたらそうとしているのです。あのアダムを誘惑し、その息子カインをして弟アベルを殺すようにしむけたその力は、あの時を同じように私たちを捉えようと戸口で待ち構えているのです。
 その闇の力は、具体的、実効的に私たちに不安と恐れをもたらします。
 マタイ福音書は、主の誕生の知らせに際しユダヤのヘロデ大王が、その闇の力の虜になっていたことを伝えています。自らの地位や権力の座が脅かされる不安にかられ、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。闇の力が一人に権力者の心を蝕み、その地方一体に闇を深めたのです。ヨセフとマリアは幼子を抱き闇の中をエジプトへと逃げ、難民となったと記されています。
 一方、また福音書記者ルカは、主のご降誕が当時のローマ世界の人口調査の時であったことを記します。皇帝アウグストゥスが世界支配を徹底させ、税を重く課すために人口登録をさせたその時に、ヨセフとマリアはその登録のために長い旅を強いられました。彼らは長いたびの果てふるさとにたどり着いたにもかかわらず、そこに彼らを受け容れる宿はなく、ようやく厩に休む場所を得て、そこで主がお生まれになることになったと伝えています。
 貧しいヨセフとマリアには、世のにぎわいと忙しさの中で一夜の場所さえ与えられなかったのです。顧みられることがなく、あたたかな場所もゆっくりした広さもなく、動物のえさや糞尿のにおいの中におかれたのでした。街の人々は、その事に気遣うこともありません。闇はすべてを覆っているのです。

 マタイもルカも、主の誕生の時を大変具体的な歴史の一こまとして記しています。時の権力者が何をして、人々の生活の中に何をもたらしたのかということを伝えています。そこに闇の支配が広がり、人々に恐れと不安がもたらされ、弱く小さな者、貧しい者たちが顧みられることなく、そのいのちが奪われ、悲しみが広がっている。そうした当時の様子を伝えているのです。おそらく、その闇の力は、一人の権力者だけではなく、むしろ、そこで生きている一人ひとりをそっと虜にしているのです。だから、いのちが奪われたものがあり、だから、居場所を与えられないものたちがあったのです。

 闇は、いつの時代にも、私たちを押包もうと広がっています。
 いま、私たちは、どんな闇の中にあるのでしょう。誰のいのちがうばわれているのか。居場所が与えられないままなのは誰ですか。誰が不安と恐れの中におかれていますか。いま、どんな闇が何を秘密にし、なにをしようとしているのでしょう。私たちは、いま、この時に闇の広がりがあること知るのです。

 けれども、その闇の中にこそ、光が輝き、一人のみどりごが与えられ、新しい始まりをもたらしたと聖書は私たちにつたえるのです。そして、そのとき、ヨセフもマリアもそのいのちを守る勇気と力を与えられました。いえ、そのいのちが光として、彼らを生かし、導いたと言ってよいでしょう。そのいのちの輝きは、彼らにその暗闇の中にあっても長い旅を歩ませ、絶望ではなく希望を与え続けたのです。幼子にまみえたあの東方の学者たちは導かれて、権力に屈することはなかったのです。羊飼いたちは、自分たちと同じように動物のにおいにまみれた赤ん坊のイエス様の誕生に、神様の顧みが自分たちに及んでいることを知らされました。よろこびと賛美を表し、慰めと誇りをもってその羊飼いの生活にかえっていきました。

光は闇の中に輝いている。闇は、この光を覆い隠すことは出来ません。
それは、この光の確かな力なのです。

 私たちを蝕む闇の力は、世界の中に不安と恐れをもたらしています。しかし、同じ闇は、すでに私たちのうちに働いて、欲望と傲慢、ねたみやうらやみ、争い、利己心となってうごめいているのです。それが、私たちを主の御心から引き離すのです。それが私たちをむなしくするのです。それが私を滅びへと向かわしめているのです。

 しかし、それにも拘らず、神様はあなたを愛されます。それにも拘らず、この闇の只中に立ちすくむ私たちとともにおられることを神様は約束され、引き受けられることとされました。それにも拘らず、この悪しき思いに腐り、臭を放つ私の内なるまぶねに主はおいでになられたのです。それが神のみ子の誕生、神の受肉、クリスマスの出来事なのです。

闇の中に光が輝きます。

 そうして主が私たちにこそ宿り、いま私たちを新たにし、腐りいくものの上に朽ちることのないキリストの義を着せ、生かしてくださるのです。神様のまなざしに守られて、私たちの中に慰めとよろこび、深い安心が与えられるのです。愛せないでいる私が愛する者とされ、信じない私が信じる者とされ、死んでいた私たちが生かされるのです。恐れている私たちに勇気が与えられ、絶望の中に希望することが与えられるのです。自らの過ちを正し、神のみことばに聞いて立ち上がり、倒れているものに駆け寄り、苦しむものの傍らにあるように、私たちはキリストのいのちを生かされていくのです。

さあ、この暗闇の中、主のいのちの光を輝かしましょう。
「今日ダビデの街で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」のです。
闇の中の光は、私たちを新しくし、他者のためにこの光を輝かすように、私たちを召し、そして遣わすのです。

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