2013-12-14

「今、神学するとは」によせて

今、神学するとは…

『福音と世界』2014年1月の特集のタイトルだ。

              

教派を超えた10名が、今日の神学、とりわけ日本における神学の課題や可能性について論じている。私も拙文を寄せるよう声をかけていただいたのだが、むしろ一人の読者としてこの特集の発行を楽しみにしていた。
 一人ひとり、限られた誌面のなかではあるけれど、自分の神学的視座を表現されていて、大変興味深く読むことができた。もちろん、現代の日本にあっての神学的課題を述べるということだから、全く独自のものが表現されているというより、たぶんにそれぞれの主張は重なってくる。日本の神学は、これまで欧米中心で、翻訳と解釈、その応用・適用という方法をとってきただろう。その時代を必ずしもすべてマイナスに捉えることではないけれど、そうした西欧、特にドイツと、後にアメリカに追随する神学が、日本人である私たちの信仰、その生活、あるいは現代の課題に本当に向かい合うものとなり得ているのかという反省が語られる。そして、アジア・日本という具体的な宗教的・文化的コンテキストをふまえつつ、今の私たちが直面している地球規模の環境問題や生命倫理の問題などに取り組む必要があるという課題を確認している。そのために自分たちの神学の基礎を今一度確認し、教会の内向きな神学ではなく、世界に対して積極的にその責任を担う神学の必要が述べられている。
 その神学がどのような性格のものであるか、どんな基礎を持つと考えられるのか、論考を寄せられた一人ひとりのその語りのなかに、個性的なその基礎構造のようなものが見えてくるように思う。

 しかし、そもそも「神学」という言葉に何を思うだろうか。
 ここ数年、それまでどこか忘れかけられていた「哲学」という学問がにわかに取り上げられ、たくさんの本が出版されている。『14歳からの…』といった若い世代へ訴えるもの、『ソフィーの…』というミステリー小説のようなものがそのブームを促しただろう。難しい哲学者の言葉を分かりやすく編集、解説を試みたものも予想以上に売れたようだ。哲学というものへの入門書、手引き類いは、古今の哲学者、その哲学をやさしく解題するというものばかりではなく、むしろ「哲学する」ということそのものへの招きとして書かれたものも少なくなかった。いったい誰が読むのだろうと思う哲学史における『普遍論争』のようなものさえ熱心に読まれたようだ。

 さて、それで「神学」は?
 キリスト教やその歴史、文化を解説する特集雑誌や新書はよく売れている。しかし、売れるものはどちらかと言えば、神学の専門家でない人、もっといえばクリスチャンでもない人たちによって書かれたものばかり。牧師や神学者が書いたものにはなにか警戒心が働くのか、入門的なものでもなかなか売れない。そもそもキリスト教信仰を前提にするものである「神学」は、「哲学」以上に近寄りがたいのだろう。
 そのことは、しかし、やはり「神学とは教会やキリスト教の人たちのものであって、自分たちには全く関係のないこと」と断じられているということでもある。信仰のない者には所詮関係のない話と思われてしまっている。それは、裏を返せば、キリスト教が現代の生に何を提示しているのか、何を語っているのか。その発信がなされていないということに違いない。路傍伝道をするかどうかは別にしても、今を生きる人々に訴える力を持たない私たちの「ことば」を今一度問い直す必要があると思う。本当は、クリスチャンに限定した神学などというものはないのだろう。その神学の必要を、誰にでも伝えられるように責任を感じていたい。
 
 取り上げるべき課題については、私自身は二つのことを例にして緊急の問題と呼んだ。一つは「核の支配」、今ひとつは「天皇制」。「核の支配」は、今回の原発事故によって、図らずもそのほつれがはっきりとして、関心が寄せられている。しかし、そんな懸念さえもなし崩しにしていこうとする「力」が働いている。また、天皇制の問題。これはまた、今の天皇・皇后が懸念される「力」を牽制するように発信されるものも見えたりして、なかなか直接的に論じることが躊躇われるほどだ。しかし、個人的なことがどうであるかではなく、「天皇制」というものの持っている根本的な問題に、しっかりと向かい合っておく必要がある。良くも悪くも、影響力を持つ宗教的な祭司としてたてられる「象徴天皇」の制度は、いざという時必ず担ぎ出されるに違いない。靖国問題も結びついている。国旗や国歌がそうである以上に、私たちに究極的な関わりを求めるシンボルは、国民を個人よりも全体の中に吸収させ、国家のために「コントロールのもとにおこう」とするだろう。すべてが「秘密」のうちに決まり、黙らされたまま誘導されることのないように、私たちは目を凝らし、必要な声をあげていなければならない。

 さて、こうした神学的な課題へ取り組む基礎として、私自身はかねて「いのち学」ということで取り組んでいる。今回のエッセイには書き切れなかったのだが、被造物全体とのつながりや、個人としてのいのちの尊厳などをしっかりと聖書的に基礎から捉え、今の私たちの「生」の危機を見つめ、生命倫理を含めた現代的な課題に応えていくための方法論といってもいい。日本人の宗教性を含めて、現代のいのちの問題を神学的に検証していく必要がある。

 今回は本当にわずか10名の小さな発題だった。しかし、課題を共有しているはずの人たちはたくさんいる。特に「神学者」と言わず、信仰の生に苦悩しつつ真摯にみことばに聞いて、自分たちの営みを問い続ける信仰者はたくさんいるのだ。その私たちは、どんなふうに連携し、ともに学び、神学の「ことば」をきたえていけるのか。
 せっかく教派をこえた論者の声が寄せられたのだ。その次の一歩も作れないだろうかと、密かに思っていたりする。

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