2013-03-26

「宗教改革500年と私たち」

2017年に、宗教改革500周年の記念の年を迎える。


                     (写真はヴィッテンベルク城教会)
もちろん、その記念の年にも様々な記念行事がなされる予定で、そのための計画は始まっている。世界レベルでも、ルーテル教会とカトリック教会の合同の礼拝が企画されているし、そのために様々な研究や出版があることだろう。日本でもルーテル教会での記念行事、またルーテル・カトリック・聖公会などのでの合同の企画も立てられる予定だ。
ルーテル学院大学のルター研究所も記念特集の『ルター研究』を出版する予定といくつかの記念講演会なども予定している。しかし、何よりも500年だからとか、区切りのいい年だからということだけではなく、現代の私たちにとって、ルターとか宗教改革ということがどういう意味を持っているのかということを丁寧に考えていきたい。そういう思いから、研究所では、毎年6月に行っている「牧師のためのルターセミナー」を、今年2013年から17年までの五回をつかって集中した継続研究を行っていきたいと考えている。
まず、第一回のことしは、全体のテーマとして「宗教改革500年と私たち」というテーマを掲げ、鈴木浩所長はじめ各所員がこの500年の意味を学ぶということで取り組むことになった。
ルターという特定の個人、神学ということにとどまらず、このテーマはキリスト教世界、プロテスタント教会、近代、市民社会、エキュメニズムなど様々な課題へと広がる大きな水脈を持っている。所員はそれぞれ掘り下げるテーマを検討中だ。
今年のセミナーでのテーマは、すでに原案レベルではあがってきているが、4月の半ばには正式に各所員が絞り込んでレジュメを用意する予定だ。決まり次第ご報告したい。
ちなみに、私は「プロテスタント信仰と『個』の問題」を取り上げてみたいと考えている。中世の終わり、新しい時代への大きなうねりの中でルターという個人が宗教改革と結びつく神学研究を取り組んだのは、時代が「個」を新しい形で呼び出したからに他ならない。もちろん、西欧の近代的個の確立とは未だ異なることだが、信仰における「個」がどのように立ち現れてきたのか。そのあたりを深く学んでみたいと思っている。
「個」が新しい形で、そしてむしろ「孤」として見いだされる現代に、この信仰の「個」の概念が何を語るのか。そんなことを深めてみたいと思っている。



2013-03-12

アメリカ・ルーテル教会の式文・讃美歌集 Evangelical Lutheran Worship


昨日の日本福音ルーテル教会東地区教師会研修会で分かち合わせていただいた、式文に関しての学びのなかで、アメリカの新しい式文についてご報告させていただいた。その内容の一部を、ここに報告したい。

2006年秋に出版されたEvangelical Lutheran Worship (ELW)は、グリーンブックと呼ばれて親しまれたLutheran Book of Worship(LBW)の出版後30年を経て編纂された新しい礼拝式文・讃美歌集である。

http://www.elca.org/Growing-In-Faith/Worship/Resources/ELCA-Worship-Books/ELW.aspx



このELW編纂には、いくつかの重要な理由があった。
第一に、宣教というコンテキストに基づいた教会と礼拝の理解が深まったことである。アメリカのルーテル教会は、スカンジナビアの国々やドイツなどのもともとのルーツとなる古い伝統を今でも大切に残しているところは多い。しかし、その古い伝統にとどまるのではなく、今日のアメリカに沢山入ってきているアジア・アフリカ・ラテンアメリカといった異なる文化的・宗教的伝統の背景を持つ多くの人々を教会に迎えること、そして、音楽を中心としたその芸術的要素を取り入れ、讃美歌はもちろん、礼拝そのものに豊かな多様性を実現したいと考えられたことである。こうした新しい宣教的状況は、また、必ずしも「新しい移民」ということばかりではない。むしろ、現代のアメリカでのキリスト教離れ、若い世代が教会で育たないばかりか、今までのように嬰児洗礼を前提と出来ないなかで非キリスト者の成人もふえているという現状もあるだろう。かつてのようなキリスト教国アメリカが他の国に宣教師を送るということ以上に、自らの足下に宣教が必要だと言う意識が高まっている。
第二に、アメリカのルーテル教会がこの数十年に切り開いてきたエキュメニカルな交わりと神学的な対話は、具体的にそれぞれの教会との教会間の交わりと協力関係を実践的にも生み出してきたことである。他の教会のなかに保たれ、育まれた礼拝の伝統から学び、逆に、改めてルーテル教会としてのみ言葉と聖礼典の理解に基づいた自らの礼拝の理解を深めることになった。80年代にはWCCの信仰職制を中心にリマ文書・式文が作られたが、これが洗礼・聖餐を中心とした礼拝について改めて理解を深めてくるきっかけになったのである。具体的には、ELCAは現在6つの他教派教会とフルコミュニオンの関係にある。特に、アメリカ聖公会との交わりは強く、CCM(Called to Common Mission)という両教会間の合意には特別な神学的課題があって、ルーテル教会にとっては特にその礼拝についての理解にも影響を及ぼしていると考えられる。こうした状況は、今回の式文改訂における重要なファクターと言えるだろう。
第三に、現代という文脈の中で、礼拝のなかでの言葉の問題に取り組む必要があった。時代の流れの中でその時代に適応した生きた言葉を用いていくという意味でもあるが、三位一体の理解と言葉、ジェンダーの理解と言葉というように神学的にも再考されていくオン・ゴーイングな課題があるのである。そうした状況の中で、ルーテル教会として主の福音を実践的に聖書的・教会的表現として宣教していくために、多様な理解・意見がある中でどのようなことばをもつのかは、大変難しい課題となってきていたといえるだそう。その中でどんな風に皆が合意できるか、一定の指針を示す必要があったといえよう。
最後に、信徒の礼拝への参与についての考えと実践が求められ、また必要となってきているということも挙げられる。様々な信徒の賜物が礼拝に用いられ、牧師がリードする礼拝なのではなく、皆で神の礼拝を喜び祝うことを新しい運動としているということでもあろう。音楽や絵画など様々な芸術が礼拝を豊かにするものとして取り入れていく流れがおこってきた。また音響機器の発展とその多様性や、教会をめぐるメディア機器の変化などは、今まで教会の発信するメッセージが届かなかったり、興味を持てなかった人たちにもリーチできるようになってきている。礼拝に集められ、養われ、派遣されていく人々の生きる現実への深いコミットメントが、このELWを生み出す力であったと考えられるのである。

この改訂の作業は、一朝一夕で出来るものではなかった。中心となる神学とその神学をもってどのように実践的課題に対応するか、極めて具体的な問題を神学の専門家と教会の牧師、そして信徒も一緒になって考え、確認をしていく長いプロセスがあった。1997年に The Use of Means of Grace という礼拝の神学の具体的な指針が示された。これは、その後ELWがつくられていくための基本的な神学と実践の指針がまとめられたものだ。後に、これを含めて改めて礼拝を包括的に考え、刷新運動を実現していくための原則、Principles for Worship が2002年に出版される。そして、Renewing Worshipと呼ばれた一連のマテリアルが学びのための手引きとリフレクションを集める用紙とセットで出版され各教会に与えられていった。つまり、この新しい式文の作業プロセスそのものが各教会への新しい礼拝運動として意味付けられる工夫があったと言ってよいだろう。そうしたプロセスをふまえていっておよそ10年を費やして、この新しい式文が編纂されていったのである。

                


ELWの特徴は沢山あるが、三つだけ紹介したい。まず、聖餐礼拝の式文として、10の異なるセッティングを用意しているということである。式次第の枠組みに違いはないが、その中で祈られ、語られる言葉、用いられる音楽においても、さまざまな違いを持たせている。こうして、今の教会の多様性への対応を試みている。
もう一つの特徴は、洗礼を私たちの信仰のよりどころとしてはっきりと意識した礼拝を作っているということである。具体的に、通常の聖餐礼拝のなかに「洗礼の感謝」という式があり、一人ひとりがこの水とみ言葉とによって救いに入れられたことを思い起こすように勧められ、神への感謝が表わされるのである。
派遣においても一つの特徴がある。派遣の言葉として、「平安のうちに行き、主に仕えましょう」「神に感謝」という司式者と会衆の応答があったが、この「主に仕えましょう」の部分で、「喜びの知らせを分かち合いましょう」「キリストがともにいます」「貧しい人々を覚えましょう」という三つの言葉が用いられるようになった。礼拝から会衆をこの世へと派遣する、この式文の礼拝理解をよく表している。
ELWはこれによって全ての教会を統一しようということではなく、むしろ多様な現代の状況の中にある教会の礼拝のために豊かなリソースを提供するという意識を持ってつくられている。実践的にはこの多様性が混乱のもとにもなりうるという懸念はあるが、式文を提供するということに一つの実践神学的意志が明瞭なことは、確かに評価されるものである。

2013-03-01

2013 卒業聖餐礼拝

卒業式を一週間後にひかえ、今日2月28日に、神学校では卒業聖餐礼拝が行われた。大学と合同で執り行われる卒業式とは違って、説教と聖餐によって神の礼拝に与る。10年ほど前から、神学校独自のものとして行われるようになった。この礼拝において、卒業する学生たちはそれぞれの教会の働きを通して、人々と主のみことばを分かち合い、ともに生かされる恵みを生きるように派遣されていく。
繰り返しになるようだけれども、今年、5名の卒業生が与えられ、4名が日本福音ルーテル教会へ、そして1名が日本ルーテル教団の牧師となっていく。


久しぶりに大勢の卒業生を送り出すことになったが、20代前半のものから50代後半のものまで、個性豊かな一人ひとりが、神様の呼び声に応え、その時の自分を主に委ねながら歩んできた。
この礼拝での江藤直純校長の説教では、今年相次いで天に召された、牧会・伝道者としての先達たちがあったことに触れ、彼らがその生涯を通して仕えた信仰を継承して、次の世代へと引き継いでいくようにと、仕えてくださった主に自らもまた仕えていくことに、大きな励ましを与えられた。