2020-09-08

「いのち」の尊厳を考える〜スピリチュアリティ の視点から〜

先日、ルーテル・医療と宗教の会に招かれ講演を担当させていただいた。
5月開催の予定だったものが、COVID-19の感染拡大の影響を受けて延期されたものだったが、結局オンラインでの開催となった。
牧師としてキリスト教の立場をはっきりと出していわゆる「終活」について、また死と葬儀について、現代日本の脈絡の中でお話しすることは多くあるのだけれど、今回は少しだけ視点は広げて、特定の宗教によらない「スピリチュアリティ」の視点を示しながらのお話しとさせていただいた。



会場は、生まれ育った日本福音ルーテル武蔵野教会をお借りしてのライブ講演であったけれど、さすがに目の前にカメラとモニターを置いて、配信関係の方以外の聞き手のない中での講演というのは、緊張するものだった。カメラに目線を合わせないといけないのだけれど、どうしてもモニターを見てしまう。(世にいうユーチューバーなる方々はすごいなあと感心。)

これまでの日本の終末期医療の現場でスピリチュアリティの研究をくださった方々の成果などに学びつつ、自分なりに宗教者、牧師としての立場から考えてきたことを踏まえてお話しさせていただいた。どうしても限られた時間の中で、一通りのお話をしようと思うので、平坦な語り口になってしまったかもしれない。

従来のスピリチュアリティの研究は、当事者の死と向かい合う実存的な苦しみ、痛みにどのように対応するべきなのか支援のあり方を具体的な臨床において研究してきたものだと思う。その豊さに学びつつ、しかし、今回の講演では、そういう視点からだとスピリチュアリティ の領域はどうしても患者・当事者の実存的なニーズを中心に考えられるものとなってしまうことへの問いかけをしてみたかった。

スピリチュアルなこと(信仰的な問題と重ねるならば)は、実は私たちの問いや必要ということであるばかりではなく、むしろ、神からの働きかけや問いの前に立つということでもあって、人間が中心であることよりもむしろもっと違った大いなるもの(Something Great)からの働きかけの中に自らを置くことから来る畏れや深い癒しの体験でもあるはずなのだ。そうしたことが、宗教者だからこそ、はっきりと語るべきと考えてきた。医学や心理学、あるいは福祉でも、実証的で科学的な議論の積み重ねによって議論がなされるし、またそうでなければ、具体的な問題に対処する実践を提供できないだろう。けれど、「いのち」の問題はいつでももっと神秘的だ。誕生することが I was born.と受け身で語られるように、いのちはいつでも、私たちの選択や自由になるものではなく、与えられるもの、生かされるもの。息を引き取るお方がおられるので、死が訪れる。

そうしたいのちの神秘性を、「存在(いのち)=関係」の視点を持って考えてきた。細胞単位の生命現象は初めから終わりまで一個体の物質的な運動とエネルギーの循環の中に観察される。科学的実証的な理性は、受精の瞬間からこの個体としての運動において命を見ることだろう。しかし、人間である私たちは、「わたし」という存在の中でいのちを生きる。その「わたし」のQuality of Life と言われるところのLifeは、生命であるけれど、生活であり、人生でもある。その中心は抽象的な人間なのではなく、個別具体的な「わたし」であることは間違いない。しかし、この「わたし」は様々な関係の中でこそ、その存在の豊さを生きているのだ
他者との関係、特にも愛するものとの関係、家族や親族、地域共同体の関係の中でその「いのち」の活動が与えられ、保たれているのだ。そして、そうしたつながりの中でこそ、かけがえのない「わたし」を与えられている。あるいは、自然世界、例えば動物や植物などのいのちの循環、さらには水や大地、空気といういのちの源泉になるものとの深いつながり、山とか海とか川とか森などの自然環境こそが具体的な共同生活や文化の土台になっている。さらに言えば、そうした「わたし」のいのちのつながりを観想し、理解し、その本質をとう形而上学的な試みも、またそうした様々なつながりの中に感性働かせて永遠の汝と呼ばれるような超越的存在との関係に生かされる思いを深めることもある。そういう様々なつながりと関係性の中で理性も、感性も、豊に用いて「わたし」の存在を受け止めている。それが人間としての「わたし」なのだ。
だから、そういう「わたし」をめぐる大きなコンテキスト、脈絡とつながり、関係へとパースペクティブを開いていく。そこにスピリチュアルな視点の豊かさがあると考えるのだ。
そうした視点が、医学や看護、心理、あるいは福祉とともにその人の「いのち」を受け止め支える実践の中にこそ、その人がその人として生きるいのちの尊厳を守っていくばがひらけてくるのではないか。必要な支援を生み出していく、あるいはそれを受け取っていくことが可能となるように思われるのだ。いずれ限界をもつ私たちは、守りきらないし、助けられないという現実に立ちすくむ。その時にこそ、この大きなコンテキストの中にある私たちのいのちの豊さを深く味わい、共に生かされていくような視点を持つことが必要なのではないかということが、今回の講演でお伝えしたかったことなのだ。