2024-04-13

2024年度 ルーテル学院 入学式メッセージ

 2024年4月2日 ルーテル学院大学・大学院、日本ルーテル神学校の入学式が行われた。



2025年度以降の学生募集停止を決定したため、これが大学・大学院と神学校の合同で行われる最後の入学式となった。

その入学式でのメッセージは、マルコ福音書16章6・7節。

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」


説教題:「新しい始まり」

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。ご家族・保護者の皆様にもお祝いを申し上げたい。

先日の説明会にもおいでいただいたことでしょう。先週、3月の終わりには、大学の重大な決定の突然の公表、お知らせもあって驚かれたことと思います。

それでも、皆さんには、この大学での学び、研究に、気持ちを新たにして、今日ここにおいでくださったことと思います。教職員一同、皆さんをお迎えできたことを、嬉しく思います。

 

この大学のニュースがHPで公表されたあと、SNS上ではさまざまに反響がありました。卒業生たちは、みな驚きと寂しさを隠さない。母校が無くなるのかと嘆きの声が届きます。そして、その卒業生たちの口にのぼってくるのは、いろいろなこの学舎での思い出でもありました。それは、卒業生一人ひとりの中にあるルーテル学院の存在感だと言って良いと思います。福祉施設で責任を負っていらっしゃる方たちがあり、病院や学校で心理職として働く人たちもいます。会社勤めで頑張っている方がおられる。カウンセリング業をされている方もある。研究職についている方もあるし、中には写真や演劇など芸術分野に進んでいる人もある。子育て真っ最中の人、親を看取り、自分もそろそろ老後に備えるという方。多くの卒業生たちが、ルーテルの日々を懐かしく心において、自分自身を振り返って、母校がなくなるのは寂しいと口々に声をあげている。

 

このキャンパスで教員との学び、実習先で入所者やクライエントさんと出会い、友人と過ごし、サークルを立ち上げ、ボランティアに出かけ、学園祭で盛り上がり、一緒に食べて飲んで語り合った日々が、それぞれの人生の歩みの原点となっているのがよくわかる。「ああ、うちの大学は、一人ひとりの人生の原点となるような経験をしていただけた大学、愛された大学なのだ」と改めて思いました。

私自身も40年ほど前に学んだ卒業生ですが、一学年30名、全学で120名に満たないほどでしたが、学生が皆で大学生活を作り上げていったような日々でした。

 

それでは、このルーテル学院の原点は何か。そこにはルーテル教会の宣教、ミッションがあると改めて思う。

本学は1909年、九州熊本の地でルーテル教会の牧師養成の神学校として始まった学校です。しかし、神学校が大学になったということは一つの側面に過ぎません。教会は、この神学校を作る7年前、1902年には佐賀県で最初の幼稚園をつくります。これは九州全体でたった4つしか幼稚園がなかった時代です。幼児教育が認識され始めるようになり、その後、小城、久留米、博多、箱崎と各地で幼稚園を建てていきます。また神学校の設立の2年後の1911年に九州学院を、そして1926年には九州女学院、今の九州ルーテルを設立する。教育事業を展開していきました。

そして同じ1920年代、これら教育事業とともにルーテル教会は熊本に慈愛園という社会福祉施設をつくりました。貧困の中に置き去りにされていく子どもたちや女性、高齢者のため、障がいを持つ人たちの施設も含め複合型の社会福祉施設を作っていく。関東大震災直後は、東京でも老人ホームと母子施設を作っていく。

ですから、ルーテル教会の日本での宣教は、ただ教会を建ててキリスト教を伝え信徒を増やすということではなかった。むしろ、社会において、すべての人が与えられたいのち、それぞれの人生を、喜びを持って生きることができるように神の恵みを分かち合うことを考えたわけです。そして具体的な困難な状況の中にある人々に、教育と福祉によってその必要ニーズに応えていく、社会を築いていくことを使命、ミッションとしてきた。

これが私たちルーテル学院の原点ですね。だから、今日、対人援助という専門においてこの大学の教育・研究を実現してきた。

 

でも、もう一歩進めて、このルーテルのミッション、使命はつまり宗教改革者マルティン・ルターの信仰に根ざすところにあると確認しておきたいのです。それは、聖書に証しされているイエス・キリストのいのちに生かされていくところにある。イエスは、聖書の時代、社会の中で貧しくされた大勢の人々、重い皮膚病を患う人、精神を病む人、女性、こども、死に直面する一人ひとりと出会い、寄り添い、神の恵みを共に生きるように働かれた。その人たちの生きる苦しさ、悲しみ、痛みは、今と同じように、本来共に生きるはずの人間社会の問題だったでしょう。だから、その社会そのものを問うようにイエスは宣教をしたわけです。そして、そのことのゆえに、当時の宗教的政治的権力によって十字架にかけられ命を奪われていったのです。

けれど、そのイエスの働き、問いかけにこそ真実があり、救いがある。このイエスの働き・いのちこそが希望なのだという告白が、キリスト信仰となっていったのです。

 

お読みいただいた聖書箇所は、マルコという人が書いたイエスの宣教の記録の最後のところです。イエスの復活の朝の出来事が記されている箇所。ちょうどおとといがイースター、イエスの復活を祝う礼拝が世界中の教会で守られ、多くの教会でこの聖書箇所が読まれたと思う。

イエスのいのちは、十字架の死において終わらないと、復活を伝える。他の福音書は、蘇ったイエスが墓に駆けつけた女性たち、あるいは弟子たちに直接に会って、語りかけられたとか、一緒に食事をしたと証言する。けれど、マルコはそのようには描かないのです。マルコは空っぽな墓だけを示し、死の中にイエスはいないと告げる若者の言葉を伝えている。

イエスのいのちの力を、現実の死と、そこに経験されている不安、虚しさと恐れとに対比させているのです。

そして、あなた方はガリラヤでイエスに会えるという。ガリラヤとは、かつてイエスが宣教を始められた場所。弟子たちとともに過ごし、大勢の病人や悪霊に取り憑かれた人を癒し、貧しい人、しいたげられた人たちに語りかけ、神の恵を分かち合い、ともに生きた場所。いわばイエスの宣教の原点なのです。

マルコはそのガリラヤに行けばイエスに会えるという若者の言葉で、福音書を締め括っていくのです。そうすることで、マルコはイエスの復活を、何か信じるべき宗教的観念にしてしまわないで、ただ、あのイエスのいのち、その生の姿、働きこそが、皆を新しく生かすのだと呼びかけ、またそのイエスのいのちの力へと招いているように思う。イエスの宣教そのものを辿ることで、この世界の現実があるにもかかわらず人間として生きる喜びと、何を大切にすべきかがわかるのだと伝えている。おそれと不安に震えている私たちに、この招きが語られた。

 

ルーテルの宣教も、この大学での学びも、この呼びかけへの応答だと思う。そんなイエスの働き、いのちの意味を深く問いつつ学ぶということ。いやむしろ、イエスによって私たち自身が、あるいは今この世界そのものが問われていくところにルーテルの人間理解と対人援助の学びは立っていると言っていい。

 

なぜ豊かな世界で貧困のために飢える人があるのか。なぜ戦争をし、大勢の子どもたちが犠牲になっているのか。どうして苦しんでいる人が見捨てられるのか。いのちと尊厳が奪われ、あらゆるところに苦しさがあるのか。お前は何をしているのか。

そういう問いかけの中で、世界を考え、私の生き方を見出していくところに、この大学でのキリスト教主義の歩みがある。

 

社会の方は、そんな問いに向かい合うより、現実によって全てを押し流そうとするでしょう。「しょうがないんだよ」って。でも、その仕方のないと思われるようなことも、変えられないことではありません。押し流す力に抗って、初めて事が動いていく。人権の問題、人種差別に対する考え、女性や子どもの権利、あるいは障がいを持つものも持たないものも共に生きるノーマライゼーションも20世紀の後半に取り組まれ、21世紀の今は、ハラスメント問題、ジェンダーのこと、ポリティカル・コレクトネスなど。まだまだだけど、前進してきたこともたくさんある。それは問い続ける力があるからです。

 

聖書は、問いかけるのです、私たちに。だから、このチャペルを中心としたルーテルでの学びはチャレンジです。私たち、皆さん自身も、きっとたくさん問いかけられることでしょう。同時に、今の世界の中に、このルーテルのような大学の学びとそこから出ていく私たちの存在と働きが、きっと問いかけとなっていくだろう。

そして、この問いかけこそが、私たちを、この世界を変えていくのだと思う。いや、変えていくような問いかけを生きていかれるように、この大学で学んでいってほしい。実践と研究はその問いによって鍛えられ、新しい支援を実現するのです。

 

 ルーテル学院へ、ようこそおいでくださいました。神の祝福と恵が皆さんの歩みを必ず導きます。自らを問いつつ、新しい世界を切り開いていくような学びを、共にしてまいりましょう。

 

さあ、「新しい始まり」です。 ご入学、おめでとうございます。

2024-02-24

第58回教職神学セミナー「キリストを伝えるーキリスト教と公共世界」




ルーテルの「教職神学セミナー」がこの2月13日、14日と4年ぶりに対面で行われた。会場はルーテル市ヶ谷センター会議室。ウイルス禍前は2泊3日はとって、ゆっくりと学びと交わりを深めたが、今回は久しぶりの対面ということで1泊2日の集中プログラムとなった。





テーマは「キリストを伝えるーキリスト教と公共世界」。

私は基調講演「ルターと公共世界」を担当させていただき、前座としてセミナー全体のイントロダクションをさせていただいた。

そして続いて、ゲストスピーカーにお招きした福嶋揚先生から特別講演「資本新世のキリスト教〜資本主義の神学」をいただいた。福嶋先生のお話は、ご自身もおっしゃっていらしたが、かなり大胆でラディカルなプレゼンテーションであったと思う。現在の資本主義世界の先をどのように私たちの未来として描いていくのかということに関わって刺激的な問題提起をいただいた。福嶋先生の講演についても改めて私なりの受け止めと感想をのちに記したい。

2日目は盛り沢山でまず李明生先生に説教者のための聖書研究ということで「隣人愛が向かう先はどこか -新約諸文書から-」で講演、また現場からということで白川道生先生に特別講演「今、ここにある公共性~教会に顕在する、公の場~」、そして最後は宮本新先生「公共世界における宣教~カサノヴァの公共宗教論を手掛かりに」という講演でまとめをしていただいた。


とりあえず、私がお話しした「ルターと公共世界」のレジュメを以下に置いておく。

大きく4つのまとまりで限定したお話をしたので、できれば今後このブログで、それぞれでお話ししたポイントをまとめ、また時間の関係で話すことができなかったことを補って私自身のこのテーマでの学びを整理しておきたいと思うが、ここではレジュメのみ。


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20240213                                                                            ルーテル 教職神学セミナー

ルターと公共世界

日本ルーテル神学校 石居基夫

1.  はじめに

(1)公共世界とは

公共(Public)⇔ 私事(Private)  近代・市民社会の形成とともに

他者と共に生きる領域 全構成員の共通の関心と課題、基本的人権、

他者性、多様性、差異性、中立性、公平性、自由、民主主義 ☞ 福祉

 

(2)神学の射程として

「公共」の神学 「公共」のために 「公共」を問う cf.稲垣

教会も信仰者も日常的に生きている基盤としての「公共世界」の問題

国家の支配、資本主義経済の世界支配(グローバリズム)による「公共」の危機

危機をもたらす「力」の持つ宗教性(偶像・マモン)を問題として

   

 

私たちの問題

(1)ルーテルの包括的宣教における「公共」

教会における伝道と共に、幼保、教育、福祉の働きを展開 

ルーテル学院←「神の民」育成、福祉・心理の対人援助へ

法人会連合各法人の将来に向けて ルーサラン・キリスト教主義とは

 

(2)公共世界に向けて

戦争と平和、宗教と国家(靖国、天皇制)←20世紀後半の課題

被災地支援、臨床宗教師、スピリチュアルケア←21世紀、とりわけ3・11以後に

原発、沖縄、多様性、生命倫理、環境倫理 

 

 

3.ルター

(1)神の二様の支配と悪魔的勢力との戦い  cf. U. ドゥフロウ

    律法:(神の左手の支配、世俗的支配、国家)

       この世の平和、正義、公平を実現する⇔  悪魔的諸力 

                         (罪、悪魔、死、律法・神の怒り)

   福音: (神の右手の支配、霊的支配、教会)   

         キリストの義が与えられ、赦しに生かされる

 

 

 

(2)神の世俗的支配における「三つの機関(秩序と立場)」 社会教説 cf. 倉松功

   国家(politia):教会(ecclesia):家政(oikonomia

   すべてのキリスト者がそれぞれの秩序に立場をもち、召命(ベルーフ)を生きる

  教会はみことばによって預言者的に参与し、また具体的な奉仕者を派遣する

 

(3)全信徒祭司と協働

   すべての信仰者が神の御業への参与・協働に生きる

   創造の業 他者と共に生きる世界、必要な物、関係 ← 「小教理問答」使徒信条

   救済の業 隣人への奉仕(ディアコニア) ← 「キリスト者の自由と奉仕」

 

 

4.近代以降の枠組みから新しいカタチを描くために

(1)近代市民社会の形成と公共 の中でのキリスト教信仰

   宗教改革以後のキリスト教的一体世界の崩壊 

  近代国家は多様な信仰の共存を内包する⇔信仰は私的領域へ

  市民革命以後の市民による「公共社会」の自覚的形成と参与

 

(2)国家と資本主義の支配

   現代における国家と地域社会の「公共性」との矛盾 

   自由と平等の相剋、格差と犠牲の必然、

   産業革命後の資本主義経済の圧倒的支配

⇔人間性疎外と自然の搾取の論理

 

(3)現代日本の中で

   19世紀敬虔主義における宗教的個人主義をいかに超克するか。

     →ドイツ敬虔主義の脈絡におけるディアコニア運動の形成の批判的検証

     (シュペーナー、フランケ、ツィンツェンドルフ、ビュルヘン

       今日のいのちと尊厳、多様性を支え、ケアする営みを

神の恵の働きの中にもう一度捉えなおす

 

創造論と終末論のただなかで、救済論を軸にしながらも、包括的神学思考をする

  Politiaoikonomiaの間に立つecclesiaの意味と可能性

  

            Cf.キリスト教自然神学の再考へ(稲垣久和、マクグラス、)

 

2024-02-17

神学校の夕べ 2023年度



今年、4年ぶりに4名の神学生が卒業していく。
それぞれに自分の人生の歩みにキリストの招きを聞き、何回も挫けそうになりながら、それでも主の霊によって導かれて、今年卒業して日本福音ルーテル教会の牧師として召されることとなった。
この2月25日の日曜日の夕方行われる「神学校の夕べ」では、卒業生たちが、それぞれにみことばに向かい合い、自分たちの心の響いている福音を会衆に伝えてくれる。
喜びと感謝を主に捧げつつ、彼らを励まし、祝いの言葉をいただければと願っている。
どうぞ、お集まりください。



 

卒業するのは、笠井春子(JELC田園調布教会出身)、河田礼生(JELC三鷹教会出身)、三浦慎里子(JELC室園教会出身)、ディビッド・ネルソン(JELC本郷教会出身)の4名。

今年、この神学校の夕べのために彼らが選んだテーマは「共に在ませ わが主よ」。

2月25日 午後4時から、日本福音ルーテル教会宣教百年記念会堂(JELC東京教会)




牧会研究会Plus「いのちにつながるコミュニケーション」

 デールパストラルセンター主催の牧会研究会は今年特別企画として、牧会研究会Plus「いのちにつながるコミュニケーション」を企画しました。

講師は三村修牧師 (日本基督教団佐渡教会牧師)です。三村先生はボセー・エキュメニカル研究所(世界教会協議会、スイス)での学びを出発点に、マーシャル・ローゼンバーグ氏により体系化された「非暴力コミュニケーション=共感的コミュニケーション」を学ばれ、この理論に基づいて、互いの「感情」や「必要」を大切にしつながりを育むコミュニケーションづくりを学ぶワークショップ、またメディエーション(仲裁)の練習と実践を、教会をはじめ各地で各世代に提供しておられます。

牧会者として、「共感的コミュニケーション」について実践的な学びができることは何よりも大きな恵みです。私たちは社会において、あるいは教会の交わりや家族の中にあっても、さまざまに痛みと緊張のある関係を経験しています。このワークショップを通して、自分自身の深い思いや相手の中に隠された感情に気づき、自分自身を改めて省み、他者との本当の出会いへと開かれていくことでしょう。何よりも私たちがともに神に愛された存在(いのち)として、お互いに喜びを分かち合うようにと召されていることに気付かされることでしょう。

このプログラムは以下の3回のシリーズです。そのうちの初めの2回はデールパストラルセンターの通常の牧会研究会の第2回と3回の講座として開かれているものです。このPlusのみの参加も可能ですし、通常の牧会研究会に加えた一泊の研修として参加いただくこともできます。


510()1330-1530(オンライン) いのちにつながるコミュニケーション①

614()1330-1530(オンライン) いのちにつながるコミュニケーション②

826()1330~ 27()1530 (一泊2日の対面)    

                      いのちにつながるコミュニケーション③

                                -和解の出来事に仕える

問い合わせ、お申し込みについては

日本ルーテル神学校附属研究所デール・パストラル・センター(E-mail:  dpc@luther.ac.jp )

にお願いいたします。




【対象者】教派にかかわらず各教会教職者、聖職者


【定員】20


【受講方法・費用】(下記費用にはワークショップに伴う宿泊・食費は含まれません)

 1. 以下の3つのパターンからお選びください。

 A.  年間10回の牧会研究会 オンライン講座のみを受講:¥20,000

 B.  Aに加えて牧会研究会Plusを受講:¥25,000

 C.  オンライン5月・6月とPlusのみを受講:¥9,000


 2.デール・パストラル・センター事務局までE-mailにて以下を記してお申込みください。

  受講パターン(ABC)、②お名前(ふりがな)、③教会名・教職位、

④ご住所、⑤E-mailアドレス、⑥連絡用のお電話番号

いただいた個人情報は厳重に管理し、研究会および今後のDPCからのご連絡にのみ使用します。


【申込期日】

315日(金) 

牧会研究会 2024

 今年も日本ルーテル神学校付属のデールパストラルセンターは、牧師を中心とした牧会の任をもつ方々のために牧会研究会を開催します。今年は牧会者である私たち自身を振り返り、また霊的な務めに召される中での自身の養いに向けたテーマで企画しています。




ポストコロナということで、昨年は全10回を対面にて行いましたが、遠隔地にある方々にはご参加いただけず、多くの方にハイブリッドでの開催についても問い合わせをいただきました。しかし、現実的には対面とオンラインを混在させることに技術的困難があり、今年の牧会研究会開催についてはオンラインのみの開催といたしました。以下のような講師による、全10回のプログラムです。どうぞ、ご参加くださいますように。

しかし、同時に対面でのかけがえのない学びを実現したいという思いもあり、牧会研究会Plusという対面でのプログラムを合わせてご紹介しています。上の10回と合わせての申し込みもいただけますし、また、このPlusの企画として2回のオンラインと一泊の対面での研修会として独立したプログラムとしてもご参加もいただけます。この牧会研究会Plusは、別にご案内いたしますので、そちらをご覧ください。

いずれも、問い合わせ、お申し込みについては

日本ルーテル神学校附属研究所デール・パストラル・センター(E-mail:  dpc@luther.ac.jp )

お願いいたします。

【講師】  成 成鍾 (日本聖公会東京教区司祭

      三村 修  (日本基督教団牧師)

      関野 和寛(DPC所員)

      石居 基夫(ルーテル学院大学学長、DPC所員)

      ジェーム・サック(日本ルーテル神学校教授、DPC所員)

 

【年間予定】各回13:30-15:30オンラインZoom

1回  412日  牧師のセルフケア  (ジェームス・サック)

2回  510日  いのちにつながるコミュニケーション①  (三村修)

3回  614日  いのちにつながるコミュニケーション②  (三村修)

4回  712日  クリスチャンでない人々の看取り  (関野和寛)

5回  913日  牧会者の心  (石居基夫)

6回 1011日  牧会者と霊性修練Ⅰ‐準備過程  (成成鍾)

7回 11月 8日  若手・新人牧師に必要な防衛-教会内批判者論理から  (関野和寛)

8回  110日  牧会者と霊性修練Ⅱ‐理論と実践  (成成鍾)

9回  214日  聖人君子からの脱却-インターナルシステム理論  (関野和寛)

10回 314日  牧会者と霊的同伴  (成成鍾)




【対象者】教派にかかわらず各教会教職者、聖職者


【定員】20


【受講方法・費用】(下記費用にはワークショップに伴う宿泊・食費は含まれません)

 1. 以下の3つのパターンからお選びください。

 A.  年間10回のオンライン講座のみを受講:¥20,000

 B.  Aに加えてPlusを受講:¥25,000

 C.  オンライン5月・6月とPlusを受講:¥9,000


 2.デール・パストラル・センター事務局までE-mailにて以下を記してお申込みください。

  受講パターン(ABC)、②お名前(ふりがな)、③教会名・教職位、

④ご住所、⑤E-mailアドレス、⑥連絡用のお電話番号

いただいた個人情報は厳重に管理し、研究会および今後のDPCからのご連絡にのみ使用します。


申込期日】

315日(金) 

2023-10-22

パレスチナ問題についてのルーテル世界連盟の声明

ルーテル世界連盟は、ガザにおけるハマスとイスラエルとの軍事的衝突について以下のような声明を公にしています。


ルーテル世界連盟の声明


不十分なものですし、この文体が相応しいかと悩むところもありますが、 とりあえず翻訳してみましたので、遅ればせながら、ここに記しておきたいと思います。


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1011日に発表された声明の中で、LWFはイスラエルとパレスチナの民間人に対する全ての当事者によるあらゆる攻撃を非難し、民間人と民間インフラが標的にされていることについて重大な懸念を表明し、人質の解放を要求し、国際人道法を遵守するよう全ての当事者に要請しました。



2023年10月11日

 

  ルーテル世界連盟の声明

 

ルーテル世界連盟(LWF)は、イスラエルとパレスチナにおける継続的な暴力の激化、特に民間人が標的となっていることに重大な懸念を抱いています。 LWFは、すべての当事者による民間人に対するあらゆる攻撃を明確に非難します。

 

LWFはハマスによるイスラエル国民に対する残忍な攻撃を強く非難します。 人質を取ることは容認されず、即時解放を求めます。

 

LWFはイスラエル軍に対し、国際人道法に従って行動し、交戦当事者ではない民間人の保護を優先するよう求めます。 一方の当事者による国際人道法違反が、他方の当事者による別の違反を正当化するものではありません。

 

ジュネーブ条約に定められた戦争規則は守られなければなりません。民間人を標的にすることは決して正当化されず、学校や病院などの民間インフラへの攻撃は容認することはできません。

 

ガザの人道状況は急速に悪化しています。 すでに数十万人が避難し、医療施設を含む基本的なインフラは破壊され、住民は逃げる場所がなくなっています。 避難を希望する民間人には安全な通行が保証されなければならず、援助が国民に届くよう人道回廊は遅滞なく開設されなければなりません。

 

LWFはイスラエルとパレスチナの両当局、そして国際社会に対し、ガザに閉じ込められ無力なパレスチナ民間人に緊急の救命支援を提供するため、国連や地域内の他の人道支援団体のアクセスを確保するよう要請します。

 

LWFは、この暴力の被害を受けたすべての人、悲しんでいる人々、恐怖の中で将来に希望を持たずに暮らしている人々とともにいます。

 

聖地の人々には平和が与えられるべきですが、それはイスラエル人とパレスチナ人の必要を満たし、聖地とその地域に長期的な安定をもたらす交渉によってのみ達成されるものなのです。

2023-09-07

パレスカトロジーの宴~死の向こう側の多元的世界へ~

桜美林の長谷川(間瀬)恵美子氏による研究企画で開催された「パレスカトロジーの宴」にパネリストとして招かれ、参加させていただいた。




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このパレスカトロジーのシンポジウム、午前と午後の二部制で、私自身は午後の研究のためのパネルディスカッションのパネリストとしての参加だった。パネラーは、他に安蘇谷正彦氏(神道)、大内典氏(仏教)で、私はキリスト教の立場ということで招かれたものだった。午後のディスカッションもそれぞれ大変興味深いものだった。限られた時間での発題ではあったし、お会いする先生方であったけれども、諸先生の奥深い研究には、個人的にもっと学びたいと思うきっかけをいただいた。
また、この発題も、午前中の饗宴を受けて、その印象を自由に話すという課題をいただいたので、その場で色々と考えつつの発言という形だった。私自身は、午前の饗宴も受け取りながら、何しろこうした芸術に触れる機会もあまりなく、それぞれの表現について話すほどの知識もあるわけではないため、大変舌足らずなものであったが、それでも、自由に話すということで、楽しい時間ともなった。

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とにかく、何よりも午前中の共演は、大変素晴らしいものだった。
饗宴は以下の通り
上村朋子(ピアノ)
桃井和馬(写真展示)恵泉女学園大学
雲龍(石笛他)シャナ
清水きよし「蝶」(パントマイム)
観世銕之丞 他「清経」(能楽)銕仙会
坂井佑円 「阿弥陀経」(仁愛大学准教授)
山田由希子(パイプオルガン)
それぞれに、今回のテーマにそった形で、いのちと死、死の向こう側ということを表現いただいた。

・はじまりは、前奏としてのピア演奏。ゆっくりと静かに流れる音は、私たちの日常のさまざまな思いや感情の変化に寄り添うものであった。礼拝で言うならば、前奏でありつつ、招きであり、また私たちの祈りを集めるような黙想の時を感じた。

・その流れの中、桃井和馬氏の写真がスクリーンに映し出される。戦争や暴力、飢饉、災害と現代におけるさまざまな「死」の現実が映し出され、見るものの心を揺さぶる。死ということ、さらに死後の世界などといえば、なおのこと抽象的で哲学的な思考実験のように考えてしまうところがあるが、私たちが現実に向き合う「死」が突きつけられた。深い悲しみや嘆き、怒り、切なさといった感情が湧き上がってくる。そして、そこに生物である人間の限りある命の終わりとしての「自然な死」ということが含まれているのだが、むしろ、その死が人間自身によってもたらされる「歴史における死」というものがはっきりと示されたと言ってもいい。激しく心動かされつつ。そのどれにも心をとどめていくことのできていない自分が佇んでいることも同時に示された。現代の生きる私たちがどのように生きているものなのか。その姿を示されてくるようであった。また、聖書に描かれる人間の最初の死は、カインによるアベルの殺害(兄弟殺し)であるということが、どんなにこの私たちの現実をよく見つめたものであったかということを思い起こさせた。カインのように突きつけられ問われても、「わたしは弟の番人でしょうか」とうそぶく。たとえ自分が加害者であったとしても、それを認めないどころか、他者について自分は関係ないと言い張る私たちの傲慢、自己中心性。そんなことも心に思い浮かんだ。


・実は、ここにはおそらく宗教というものに関しての本質的な問題が立ち現れるところだと思う。芸術(アート)は、いのちの始まりとか終わりということを含めて、神秘を捉え求めようとする営みでもあろう。

ちょうど、あのパントマイムで蝶が追い求められたが、私たちの命の営みは、何かその真実なものを求め続けるように営まれる。捕まえたようでいて、もっと美しいもの、価値あるものを求める。捕らえたはずのものも、その過程の中で死んだようになってしまうこと。蝶を捉えようとするのは、自分の主体的な営みなはずなのに、実は自分自身がその蝶に捉えられていたのかもしれないこと。そしてその真実な営みこそ、いのちの自由な羽ばたきを持っていて、私たちの有限性を超えて見せる。そんな表現を、感じた。


・実際、いのちや死の問題は、私たちが自分の人生を主体的に生きるという日常的感覚とは異なり、生かされている、与えられているというような受動的な感覚、被造物としての存在のあり方に気が付かされるという側面がある。そして、実際に宗教的な視点はそうした主体としての自分の存在(自我、エゴ)というところからの解放ということが救いとして生と死の二元的対立を超える状態へと導くというようなことが多い。その導きとして、ある種の感覚を研ぎ澄ますようにして(自分を捨てる、もしくは擬死体験のようなものも含めて)自分に働きかけるものとの出会うところが、いのちの源泉のように見出されていくことがある。宗教はそうしたものを見つめているところがあるし、また芸術も同様だということが今回の表現を通して考えさせられた。


・だから、この午前中の一つひとつの表現(パフォーマンス)の中に、生と死、日常と非日常、生者と死者などの豊な交換を受け取ることができた。表現は、いのちの営みの中の真実の言葉を含むが、それが表現される時、言葉を超えて表現されている。当初予定されていた「声明」に代わって、「阿弥陀経」念仏の表現をいただいた後、演者の坂井氏が少し解説をくださったが、その時に「念仏はわからないと言われるけれど、わからないということが大切でもある」と話された。もちろん表現されるところでの言葉は、言葉にするということによって、ギリギリそこで見出されているものが多くの人に、同じように伝えられていくとい利点がある。だから、この「わかる」ということもとても大切だ。だが、言葉は人間の理性の働きによって、事柄を他のものから分け、区別して、それを引き出し、限定していく。そのことでひとつの事柄がはっきりと見出されていくのだけれど、真実は、いつも言葉によっては捉えきれないし、言葉以上のものであるわけだ。だから、言葉によっては決して「わからないということをわかっていなければならない」ものだということをお話しいただいたのだと思う。言葉を超える真実へ、私たちがどのように迫ることができるのか。これだけでも大変大きな課題だが、芸術的表現というものが、そのための鋭意であることを思わされたのだ。


・言葉はそれを捉え得ようとするものの主体が、捉えているものを対象として、言葉によって表現する。けれど、実は言葉にならない前、主客未分化なところに私たちのいのちの真実、そしていのちと死を分ける二元論を超える場があると言ってもいい。芸術的な表現をいただくとき、私たちは、自分とその表現が、ただ、観られるものと観るものという主客の区別の中にはおらず、むしろ、その表現そのものの中に引き込まれている。そこに芸術的表現の力があることが感じられた。


・また、宗教はおそらくその起源の時から、ある種の芸術的な表現ということの中で、このいのちの根源とのつながりのようなものを共有してきたのではなかったかと思う。歌、音楽、踊りや舞、儀礼、儀式、そして絵画や物語などが具体的にそうした役割を担ってきたのだ。そして、その表現される時間と空間の中にリズムとテンポなどを通して、今を生きる主体としての私が開かれて、他者と共に根源的なものに触れる体験が与えられるのでしょう。


・表現の中の「声や息」のことについてはご一緒させていただいた大内先生からもお話があった。そのご研究にぜひ学んでみたい。息は、聖書の言葉ではルーアッハ、ネシャーマー(ヘブライ語)あるいはプネウマ、プシュケー(ギリシャ語)となるが、いずれも風や霊、いのちということを表す言葉。これがラテン語で表されたのがスピリトゥスで、今のスピリチュアリティの語源となる。宗教性、霊性というものが芸術的な表現というものと「いのち」というところで深く通じ合っているということは、ある意味で当然なことなのかもしれない。


・お昼の時間に講演者同士で少しお話をした時、バッハの演奏の話題も出た中、西欧の音楽は、音楽としての古代のものから現代音楽まで大きな変遷が見られる。一方、日本の音楽はその点、非常に古いものが保存されているように思うが、どうしてなのかと、尋ねた。すると、それは日本の音楽はそれぞれ貴族とか庶民とかというように共有するところが固定化されてきたからではないかというご示唆をいただいた。それを伺って、確かにバッハのオルガン音楽は、宗教改革以後の教会音楽の展開の中にあるということが思い浮かんだ。ルターの宗教改革以前は、教会の賛美は聖職者や修道士など、特定の人々に限られていたのだ。しかし、ルターは礼拝改革を行なって全ての信徒・会衆が神のみことばに与り、また賛美をしてそれを分かち合うように、会衆の歌う讃美歌を礼拝の中に取り入れ、自身もたくさんの讃美歌を作詞作曲した。だから、そのルーテル教会で会衆が礼拝で歌うその歌声を支えるようなオルガン伴奏が求められるようになったわけだ。バッハはルターから200年後のルーテル教会の音楽家だが、その教会カンタータをたくさん作曲するということの中で、あのようなバッハの素晴らしい音楽が生まれたわけだ。同時に、西欧の音楽も近代の初めの宮廷音楽から、より広い聴衆を集めてホールで聴くという大きな発展を遂げてきたことが思い起こさた。より大きな聴衆が共に音楽を楽しむ。楽しませる音楽が求められるようになる。楽器も含めて音楽のあり方が代わっていく。芸術の表現の形は、誰とそれを共にしていくのか、その広がりの中で変わってくるのだということが思われた。

・実際、パイプオルガンは、そのオルガンとして楽器が存在するというのではなく楽器の置かれるホール全体が楽器としての響きを作りだす。そしてそれはそこにいる人々の存在、その身体も含めてそこにひとつの音が、音楽が現れてくる。そうした表現の共有、あるいは表現の中に一体化する人々の存在ということがいつでも新しい表現を作り出していくということだろうか。古典的な表現方法にはその表現が生まれてきた根源、源を大切にしていく伝統がある。しかし、同時にそれがいつでも新しい表現となっていくところの芸術表現の豊かさがあるのだということも考えさせられたことだった。



以上、午前中のパフォーマンスを聞いて、思い巡らしたことをメモとして残しておくこととした。