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2018-11-10

日本ルター学会 2018年度学術大会

発表:「宗教改革500年とエキュメニズム」
昨年の10月31日の宗教改革500年は、今までにないエキュメニカルなセッティングで宗教改革を記念することとなった。もう、宗教改革記念という言い方以上にエキュメニズムと宣教を覚える日として記念することの方が、これからの歴史に向けての大切な一歩になると個人的には考えている。

発表は、今までも確認してきたことで目新しいものはない。特にこの50年のカトリックとルーテルの国際的対話に経緯の紹介という性格を持つ。ルターの福音理解が、今日どのように受け止められているのかということの確認の意味を持つだろうか。
かつて、教会が結果としてたもとを分かつことになった改革の二つの原理が、500年の時を経て、ようやく、その真の意味で働いて、一致の原理になっていることを考えてみた。

以下が大会のプログラム
日時 20181110() 午後130分~5
場所 日本福音ルーテル東京教会

研究発表
 13:30-14:00「宗教改革500年とエキュメニズム」 石居基夫 氏
 14:00-14:30「現代におけるルターの聖餐論」 立山忠浩 氏
 14:30-15:00「新メランヒトン全集について」 菱刈晃夫 氏
休憩15
 15:15-16:00
合同ディスカッション
「宗教改革500周年記念号ルターの主要著作を読む『ルターと宗教改革』7号をめぐって」

2018-06-27

ポスト「宗教改革500」を 生きる教会

 今年、宗教改革500年をおえてあらたな歩みが始まる。そのことを自覚的に取り組もうとする教会が多い。
 日本福音ルーテル教会が日本のカトリック教会と共同で記念の時を刻むことが出来たことは、決してあたりまえのことではない。欧米では多くのところでこの記念を同じように過ごしたところもあるが、宗教改革という歴史を持たないアジアの地域で、この取り組みは今ひとつ自覚的な取り組みになりにくかっただろう。日本では、1984年から両教会の対話委員会が開かれてきていて、洗礼の相互承認も共同での翻訳や出版活動などを行ってきていた。そういう背景の中、欧米でやっているからとか、大きな記念の年だからというのではなく、なぜこのことに取り組むのか、何を目的とするか。そうしたことを丁寧に話し合いながら成し遂げたものだった。
 つまり、こうした歩みはルーテルとカトリックの両教会が単に仲良くなろうというということではなく、現代世界への福音宣教のためということがはっきりと確認されてきたことだった。
 だとしたら、その記念は決して過ぎてしまえばそれで終わりということではなく、新たな教会の歩みのスタートとなるべきものだろう。もちろん、カトリックとの間での話し合いからさらなる共同・協働などについてもこれから新しい歩みが始まっていくだろう。けれども、やはり自らをどのような教会としていくのか。そのことへの取り組みが是非とも必要。


各地域、また教会でも、そのことを自覚した学びがなされてきている。
私も、このテーマでは今年二回目の講演となる。学びを重ね、また各地域での考えや実践を丁寧につくりあげていくこと、情報を共有することなどとても大切なことと考える。
 近く、この宗教改革500年の取り組みの全体の報告書、日本福音ルーテル教会の東教区ビジョンセンターでの連続講演会の記録なども出来上がってくる。こうしたものを改めて学びながら、これからのわたしたちキリスト教会、ルーテル教会の歩みを宣教の脈絡のなかで豊かに味わい、造り出していくものでありたいのだ。
 


2017-11-19

11・23 宗教改革500年 共同記念礼拝 

 この11月23日、長崎でのカトリックとルーテル両教会が宗教改革500年を共同で記念する。そのメインは、共同記念礼拝だ。カトリック浦上教会に約1500人が集うこととなる。
 礼拝の主題は「すべての人を一つにしてください」。


 説教者は、日本福音ルーテル教会総会議長立山忠浩牧師と日本カトリック司教協議会会長高見三明大司教の二人。
 神のみことばによって導かれた一致と協働であることを覚え、福音を聞き、和解と平和の恵みを分かち合い、そうして分断された現代の世界へ神の恵みを伝えるよう祈りを合わせていく礼拝としたい。


 この礼拝に与った一人ひとりが、この世界の平和と一致を祈り、また新しい未来に向かって主の働きのなかに自らを捧げ、委ねていくことを具体的に表していくような礼拝となればと願っている。集められた祈りを執り成し祈り、共に主に仕え、明日の世界に希望をつないでいく。きっと、そんな礼拝となることだろう。

礼拝は、以下のサイトで同時配信される。

https://www.youtube.com/channel/UCs8_-OJJpWCurq3l4gFVA1Q/live


 

2017-11-18

11・23シンポジウム「平和を実現する人は幸い」


宗教改革500年、ルーテル・カトリック両教会による、共同記念が11月23日に行われる。



午前中はシンポジウム、午後は礼拝。
シンポジウムのテーマは「平和を実現する人は幸い」。
シンポジストは、三名(組)による。
はじめに、「長崎からの声」として橋本勲司祭と深堀好敏氏。深堀氏は、今年の8月9日の平和祈念式典で平和への誓いを被爆者を代表してはなされた方だ。ご高齢なので、当日の出席が心配されるが、橋本司祭がサポートしてくださって、長崎・浦上のキリシタン弾圧と被爆体験の苦難の歴史体験を踏まえたなかから、信仰と平和への願い、取り組みの証しをお話しいただける。
その次は、石居が担当させていただき、私たちが平和を願いつつそれを実現することがなかなか出来ないでいる私たち自身の「罪」の問題を取り上げる。キリスト教に限らず、宗教というものの陥りやすい過ちについて、気づいていくことの大切さを考えたい。そして神の恵みの働きの中に生かされていくルターの信仰に学び、また、このエキュメニカルな交わりの成果にたちつつ、いま何ができるのかを考えていきたい。
最後に、カトリックの光延一郎神父にエキュメズムという視点から平和に取り組むことを深くお話いただく。特に「カトリック性」が全体を一つのものとして捉える視点であることから、現代のように多様化し、また深い分裂や争いの絶えない世界の中でのこれからのキリスト教の責任を説かれる。あらたな宗教改革を生きるべきことをお話いただく。

宗教改革500年は、単なる過去の記念ではない。それがなんであるか、ということを深く問いつつ、今の私たちが何をするのか、その改革を新たに自らのものとするべきことを捉えることだろう。
シンポジウムも礼拝も、参加できなくても、ネットを通じて配信される。是非、それぞれの場所で参加いただければと願う。



2017-11-06

今、宗教改革をおぼえることの意義



(写真は2016・10・31ルンドでのLWFと
                       カトリック教会の共同の祈りの礼拝)

☆宗教改革とは
 16世紀の教会改革運動:ドイツのルターによって始められ、カルヴァン、ツヴィングリなどによるスイスの改革運動や、イングランドにおける英国国教会の改革の取り組みなどに広がりをもつ。この一連の改革運動は神学者同士の単なる教義学的論争ではなく、全ての信徒の信仰生活と教会、そして社会全般に大きな影響を与えるものとなった。

☆激動の世界の中で生きる人々に
 近代に向かう中世末の16世紀。大航海時代と新大陸発見に世界の広がり、活版印刷術という新しいメディアの登場と各地域における産業と資本主義の胎動は、政治的・宗教的に固定化した中世社会の崩壊をもたらし、一人ひとりがどう生きるのか問われる時だった。
 ペストや飢饉が、ヨーロッパ全体に死の恐れと不安をもたらし、「メメント・モリ」、「死の舞踏」ということばに象徴される精神的・霊的危機状況をもたらした。真剣に神を求める時代であったし、その神に人間が取って代わろうとする近代の夜明け前でもあった。
 宗教改革とは、この激動の時代の苦悩を生きる人々によって、キリストの福音が今一度問い返されていったことだと言える。ルターは時代の人として、聖書に取り組み、それまでの教会のことばによっては伝えられない福音の根源的な意味を、「十字架の神学」、「信仰義認」のことばによって民衆のなかに伝えていくこととなった。

☆福音の鮮明なる宣言
 中世における聖人を称え、立派な信仰者となることを目指す敬虔な信仰は、神の救いを人間の素晴らしさのなかに押し込めてしまいかねなかった。その人間の功績すべてに神の恵みを見ているといっても、このスコラ神学のことばは、結局神のはかりに適わない人々を救いから遠ざけているようなものだった。しかし、本当は、人はあまねく神から遠い「罪人」に過ぎない。だからこそ、キリストがその罪人のわたしのもとにおいでくださった。ルターは、その神の救いの働きに信頼するだけだという。
 神が見えないところ、弱さ、みすぼらしさ、絶望の只中(十字架)に、神がいたもうことを信じる信仰だけが、反対の層のもとに隠された神を知る。ルターは、この福音を鮮やかに、力強く、喜びをもって語ったのだ。

☆エキュメニカルな交わりなか、主の宣教のために継続する改革
 宗教改革500年の記念は特別である。第二バチカン公会議後の50年に及ぶ対話が、過去の対立と争いを乗り越え、新しい時代に向けて宣教の協働を求めつつ、ローマ・カトリック教会とルーテル教会は一致と交わりの道を歩み始めている。かつて袂を分かつことになった宗教改革が、福音理解を深める霊的な賜物と理解されている。16世紀の分裂の鍵「義認の教理」が、21世紀には交わりの回復のしるしなのである。
 この歴史の中にある限り、教会は何時でも改革されなければならない。神は、同時代に生きる人たちの苦悩に寄り添い、キリストの福音を分かち合うように求められている。人間の飽くことなき欲望が、世界に分断と争いをもたらし、また自然を破壊していく。この現代に、互いに助けあう愛と平和、そして被造世界の保全のために罪人である私たち一人ひとりが召されているのだ。みことばによって、私たち自身が神の愛に満たされ、赦され、新たに生かされて、自らを絶えず新たに悔い改めていく勇気を持つべきということだろう。

 宗教改革を憶えることの意義は、ここにこそある。

(11月3日に行われた日本福音ルーテル教会東海教区と名古屋キリスト教協議会共催の「宗教改革500年記念大会」に寄せて書かせていただいた文章です。)

2017-08-28

ルター研 宗教改革500年「秋の講演と音楽の夕べ」

ルター研究所の秋の講演会
今年は、宗教改革500年記念として、「講演と音楽の夕べ」を企画している。
場所は、日本福音ルーテル東京教会、日時は、10月31日午後7時から
宗教改革記念日の夜に贈る、特別企画だ。例年はこの日に東教区の記念礼拝があるが、今年は礼拝のほうは11月4日の、これまた特別な企画で行われる。これは、別にご案内したい。とにかく、この記念日に、講演と音楽で改革の意義を深く味わいたい。


講演は二つ。竹原創一氏「95ヶ条の今日の意味」と鈴木浩所長「宗教改革の核心」
ルター研究の第一人者のお二人だ。
加えて音楽は、
J・S・バッハのカンタータ80。ムジカ・サクレ・トウキョウ(山田実指揮)。


2017-08-23

シンポ「宗教改革とポスト近代」

宗教改革500年を記念する行事が、この秋には目白押しだ。特にプロテスタント系の大学や学術会議、教会では、競っているわけではないだろうけれども、同種の講演会や集会が組まれている。

それぞれに興味深いし、特に海外から招くこととなっているその分野研究での世界的第一人者と呼ばれる先生方の講演会は、普段なかなか聴くことができないので、是非にこの機会を生かして学びを深めたいものだ。

しかし、やはり私たちはこの日本においてこの歴史的な節目を迎えているという特殊性の中から思索を深めるものでありたいと思う。その意味でも、各種の研究者らが協働で企画を考えたりシンポジウムが開かれたりしていることは、非常に重要だと思う。
日本基督教学会第65回学術大会(2017年9月29日〜30日・場所ルーテル学院大学・神学校)も、2日目午後のプログラムにおいて、特別な企画を組んでいる。

シンポジウム「宗教改革とポスト近代」(9月30日 14:00~16:30  )は、神学畑からだけでなく、より広い視野から宗教改革の意義をとらえ、今、この宗教改革500年を迎える意義を問うものだといってよいだろう。
 

シンポジスト:大澤真幸氏(社会学者)
       江口再起氏(ルーテル学院大学)
       深井智朗氏(東洋英和女学院大学)
       西原廉太氏(立教大学)

大澤真幸氏は学会員ではないし、キリスト者でもない。キリスト教を専門にしているかというとこれも違うと言ったほうがいい。しかし、キリスト教についての深い関心に裏付けられながら歴史、特に近代の問題を深く学んでおられる。
江口再起氏は、ルーテル教会の牧師としての勤められた後、キリスト教学、特に歴史と組織神学を専門としてこられた。『神の仮面』にも見られるようにルター神学を基に現代社会を深く考察されてきた。
深井智朗氏は改革派の神学的な立ち位置から近現代を問い、積極的に 著作を出してこられた。近著「プロテスタンティズム」は、保守的ルター派と第二世代のプロテスタンティズム の二重構造から近代を切り開いて見せる。
西原廉太氏は日本聖公会の司祭としてアングリカニズムの研究を深めつつ、現代世界 のエキュメニズムの研究と実践に大きな貢献をされてきている。教会の現実を踏まえつつ、教派を超えての交わりにキリスト教の豊かな広がりと可能性を求めている。
 

この方々に、今の課題を見定めていくために「近代」をどのように捉えるのか、またそこで宗教改革とは何かを語っていただけると思うだけで、わくわくする。私たちが時代の曲がり角で、改めて、キリスト教の可能性をみいだすことになるだろう。

宗教改革は中世末の出来事といってよいと思うが、ここは「近代」の黎明でこのすぐあとにヨーロッパの新しい時代がはじまる。近代を呼ばれるが、いわゆる「モダン」。20世紀末には、この「モダン」の世界状況は終焉を迎えたと考えられ、いまは「ポスト・モダン」の時代とも言われる。
では、モダンとは何か。未だ中世に属する宗教改革の契機の中に「モダン」を捉える何があるのか。それを超えるということは、何を意味しているのだろうか。



2017-08-07

2017一日神学校 宗教改革500年「ルターのこころを現代に」

今年も例年のように一日神学校が計画されている。今年も、9月23日!土曜日・祝日。
しかし、例年とは違う。今年は宗教改革500年を記念する年だ。
  

 今からちょうど500年前、ドイツに生きた一人の修道士マルティン・ルターは時代を生きる人々に対し、神の恵みのことばを行き渡らせようと改革の呼び声をあげた。中世末、ペストの流行や飢饉などで死が蔓延する時代、そしてまた新しい産業の胎動が社会全体を大きく変えようとしている不安定な時代。恐れや不安が人々のこころを捉えていた。
 ルターは、一人ひとりが、神に生かされるいのちを生き生きと喜びをもって生きることができるように、共に支え合い、仕え合う世界の実現を望んだのだ。それは、単に宗教とか教会という枠の中の改革という事ではなく、公的な社会の中で教育や福祉を整えていく具体的な「かたち」を形成していく責任を自覚した取り組みとなっていく。この改革の運動が西欧全体に大きな影響を与え、苦難を伴うこともあったが、新しい時代を切り開いていく原動力となったといってよい。

 宗教改革500年目の今年、私たちの「一日神学校」は改めてこのルターのこころをうけとっていきたい。

 神の恵みを深く知り、世界のなかに、また人々のこころと生活のなかに、その恵みを守り実現していくことに、ルターはこころを砕いたのだから。私たちルーテル学院、大学と神学校は、そのルターの精神を引き継ぐことで、21世紀の現代を生きる人々の苦悩に応えていく使命をもっている。キリストの恵み、教えに学びながら、神と世界、人間といのちの理解を深め、この使命を実現していく取り組みを、この「一日神学校」でみなさんと共に確認させていただきたい。
 
 今年も、どうぞこの「一日神学校」においでください。