2014-12-08

臨床牧会セミナー:「それでも、主を見上げて〜牧会の光と闇〜」

第一回臨床牧会セミナー
   テーマ:「それでも、主を見上げて〜牧会の光と闇〜」
      (デール・パストラル・センター/日本ルーテル神学校主催)
 期間:2015年2月9〜11日
 場所:日本ルーテル神学校(三鷹キャンパス)で開催
 
 対象:教会の教職者(ルーテルに限らず、教派を超えて学びましょう)
 
 現代を生きる私たちには様々な困難があり、悲しみや痛み、苦しみが心をとらえてしまいます。教会で、社会で共に生きようとしても、その人間関係においてさえ、傷つき、私たち自身の破れを経験します。そうした、牧会の闇ともいうべき実情にも拘らず、私たちが養われ、生かされていく信仰の歩みを照らす光を確認し、牧会者として立つために、癒しと慰めと励ましを学び、分かち合うためのセミナーです。
 教派を超えて、牧師の皆さんに学んでいただけるセミナーですので、ご参加ください。
 

基調講演:「ルターと牧会」
     鈴木浩(ルーテル学院大学ルター研究所所長)
分科会:
①グリーフケア
(大柴譲治:日本福音ルーテルむさしの教会牧師、賛育会病院チャプレン、上智大グリーフケア研究会客員研究員、デール・パストラル・センター運営委員)
②教会と人間関係
(堀肇:鶴瀬恵みキリスト教会牧師、ルーテル学院大学非常勤講師、日本パストラルケア・カウンセリング協会事務局長、デール・パストラル・センター所員)
③牧師のメンタルヘルス
(石丸昌彦:精神科医、放送大学教授、日本基督教団柿ノ木坂教会員)、
④高齢者と教会
(賀来周一:日本福音ルーテル教会牧師、キリスト教カウンセリングセンター理事長、デール・パストラル・センター所員)
まとめ
石居基夫(日本ルーテル神学校校長、デール・パストラル・センター所長)

日程の詳細は、別にお知らせ致します。

2014-10-24

カトリック・聖公会・ルーテル 合同礼拝

 2014年11月30日(日)待降節第一日曜日の午後5時から、カトリック教会と日本聖公会、そして日本福音ルーテル教会の合同礼拝が行われる。これは、カトリック教会が第二バチカン公会議(1962〜65)において公にした「エキュメニズムに関する教令」からちょうど50年目に当たるということで、カトリック教会がかねてエキュメニカルな対話を重ねてきている二つのプロテスタント教会に呼びかけ、協働の準備委員会を組織することで実現の運びとなったものだ。


こうした教会間の交わりは、単に仲良くしているということや協力をするということを超えて、本来、キリストの教会として一つであることをどのように見える形で実現していけるのかということを追い求めるエキュメニズム(教会一致運動)のなかでつくられてきている。
 16世紀のルターの宗教改革を皮切りとして、それまでローマ・カトリック教会という一つの教会であったものが分裂をし、それぞれ信仰的な主張と、歴史的・地理的・政治的要因から別々の教会として存在するようになった。ローマ・カトリック教会はただ一つ、キリストの教会は自分たちのみで、他は異端として退け、基本的にはプロテスタント教会はキリストの教会とは認められて来なかった。しかし、20世紀の半ば、第二バチカン公会議においては、そうした過去のカトリック教会の見解を大きくかえることがたくさん表明されたが、プロテスタント諸教会に対しても「」とよんで、この存在を認め、交わりを持ち、信仰を確認し合う様々な取り組みをするようになったのだ。
 エキュメニズム教令は、いわば現在のキリスト教会のエキュメニズムを考えるときに画期的な文書であり、またこれによって、具体的な教会の交わりや話し合いがつくられてきたのだ。
 日本でも、この交わりが具体化してこれまでも幾つもの成果を生み出している。世界のルーテルとカトリックの間では、1999年10月31日に「義認の教理に関する共同宣言」が調印され、同時にアウグスブルクの教会で合同の礼拝が行われた。それから5年後2004年にその「共同宣言」の日本語翻訳版が出版されたが、その際に四谷のイグナチオ教会のマリア聖堂でカトリックと日本福音ルーテル教会との合同礼拝が行われ、300人の会場があふれて入れないほどになった。2008年、カトリックと日本聖公会も『マリア――キリストにおける恵みと希望』の邦訳刊行を記念して、合同礼拝をおこなった。実は同年、日本聖公会と日本福音ルーテル教会の間でも『共同の宣教に召されて』という、これは欧米でのルーテルと聖公会の合意文書の翻訳のものが出版されて合同礼拝が行われている。
 そうした日本でのエキュメニカルな運動が具体的な二教会間では進められてきたのだが、今回は、初めて三教会合同での礼拝となる。
 この三教会の合同の礼拝は、世界でも例はない。日本の教会がそれぞれに積み重ねてきた対話と礼拝の実績が大きな力になって実現したものだ。
 世界のエキュメニカルな交わりと礼拝という側面では、1982年のリマ文書、及びリマ式文の成立ということが最も大きな出来事で、その時にはカトリックも含めて多教派間での交わり、礼拝も世界では行われたかもしれない。しかし、合同礼拝はそれほど多くは実現しなかったのが実際のところだろう。その後は、二教派間の交わりは世界各地ですすんできたけれども、それ以上には広がってきていない。そういう実情のなかで、今回の三教会合同の礼拝は非常に意義深いものだといえよう。
 礼拝の説教はルーテルの徳善義和牧師。日本のみならず世界でルター研究並びにエキュメニカルな対話において長くご貢献くださっている先生にお願いすることができた。
 礼拝に先立ち、シンポジウムも行われる。カトリックの光延一郎先生、聖公会の西原廉太先生、そしてルーテルからは石居基夫がシンポジストとしてこのことの持つ意味を学ぶ。司会は江藤直純先生。
 

2014-10-10

ルター研 秋の講演会 2014

今年もルター研究所の秋の講演会が下記のように予定されている
日時:2014年11月9日午後4時〜
場所:日本福音ルーテル本郷教会
テーマ:「宗教改革500周年とわたしたち」第二回
講演は、ルター研究所所員のお二人。
高井保雄氏には、ルターの主要な著作の一つである「小教理問答」についての長年の研究から「教理問答とその時代」と題して講演をお願いしている。
また、ティモシー・マッケンジー氏には、500周年を直前にして、今から百年前はどのように宗教改革400周年をむかえたのか、その歴史資料研究から「日本の宗教改革400年記念…希望を与える記憶」と題して講演をお願いしている。

2014-09-14

2014年、一日神学校!

 来る9月23日、恒例の『一日神学校』が開催されます。
このポスターは、そのなかで行われる「こどもしんがっこう」のポスターです。


 今年の一神のテーマは「キリストの心をとなり人に〜新しいミッションの展開」としました。大学の大きな改革がなされた一年目。大学・神学校は何を目的としているのか。その使命を果たすべく、今の大学と神学校の姿をつくってきたことを、教会の皆さんにも、そして、社会のなかにもおつたえすることを考えました。

 開会礼拝!江藤直純学長が説教です。石居基夫が主司式を担当します。


 じつは、今年はルーテル学院が大学を設置して50年目にあたります。1909年に熊本で私塾のようにしてはじめられた神学校は、翌々年に一般青少年教育のためにはじめられた九州学院の中に位置づけられます。その後、1925年に東京の鷺宮に移転し日本中のルーテル教会への牧師養成を担う体制をつくりました。戦争中は一時期、教団の東部神学校に併合されましたが、戦後独立再開。64年に大学組織をおこなって、大学と神学校の6年教育で牧師を養成するようになりました。それから5年後の69年には現在の三鷹に移転し、教育体制を整えるようになりました。
 しかし、この大学としての歩みの中で、小さな教派が牧師養成ということだけで神学校・大学を経営することには困難も生じて、福祉教育をはじめるようになりました。少しずつ教育の幅を広げ、福祉に加え臨床心理も専門分野とするようになりました。
 福祉と臨床心理は、それぞれ学問分野としては全く異なるものですけれども、様々な困難を負う人々への支援のための専門職、その働きに関係する学問分野です。教会は早くから日本の中で社会福祉の施設を先駆的につくり、担っていましたし、そうした施設でも、また教会においても、様々な人たちの心の重荷に寄り添っていくはたらきを大切にしてきました。そのことをふまえて、牧師養成の大学・神学校はこの日本の社会の中に必要な働き人の養成、また学問的な貢献などを考え自分たちのなすべき使命ミッションをこの教育体制の中で考えてきたのです。
 今年は、大学を改革しました。3学科から1学科5コースの新しい教育の形をでここにある教育・研究の資源を用いていくように整えたのです。
 この小さな大学の目指していく教育を、少しでも知っていただければと思っています。
是非、「一日神学校」へおいでください。

2014-08-06

キリスト教のスピリチュアリティ

今年、日本ルーテル神学校では、「五感のクリスチャン・スピリチュアリティ」という公開講座をひらくことになった。ジェームズ・サック氏が担当してくださる。

http://www.luther.ac.jp/news/140801/index.html

キリスト教は「ことばの宗教」といわれることがある。信仰は、神のことばによって生かされる福音といえるだろうし、特にプロテスタント、ルター派の教会は「説教」、神の語りかけを共に聴くことの重要性を強調してきたといえるだろう。

けれども、同時にこのルター派においても、見えるみことばとも呼ばれる、サクラメント・聖礼典をもその「みことば」という概念の中に含み理解してきたことは意味深い。みことばが「聴かれる」ということにとどまらず、むしろ私たち人間がいきるという現実のなかにしっかりと味わわれ、染み渡っていくものとしてとらえられてきたのだ。

つまり、私たちが神のみことばに生かされ、その福音の喜び、恵みのうちに支え合い助け合うという生の現実は、単に信仰の知的な理解ということにとどまらない、私たちの生きる感覚すべてを通して分かち合われるべきものだと言ってもよいだろう。

私たちにとって、「ことば」は重要だ。しかし、同時にことば以上のことばが豊かにあることで「ことば」そのものが意味を持つのだし、また「ことば」はそうした経験を導き、整え、意味付ける。

「ことば」が、うまく機能しないようなときがある。ことばによっては、そのコミュニケーションが難しい場合がある。病気の時、あるいは小さな子ども、あるいは障がいを持つ場合、認知症のひととの関係。「ことば」がまったく意味をなさないということではないけれど、ことばを超えることば、ノン・バーバルなコミュニケーションが意味を持つ。ふれあうことや微笑むこと、相手を尊厳ある存在として、受け止める態度、雰囲気。そうしたことばにならないコミュニケーションもまた、キリストの福音の伝達、分かち合いの大切な一部なのだ。

世にスピリチュアリティを語るものは多い。けれども、キリストの福音を中心にすえたスピリチュアリティをとらえること、考えること、味わうこと、分かち合うことを深く取り上げているものはまだまだ少ないのではないだろうか。

この特別公開講座が、そうした状況に大きく貢献するものであると信じたい。


2014-07-23

デール記念講演シンポジウム 「スピリチュアルペインとそのケア」


今年4月、日本ルーテル神学校の付属機関としてデール・パストラル・センターが創設された。教会を力づけ、牧師の牧会力を向上させ、信徒の霊性を養うことを目的とした新しい研究・教育機関。パストラル、スピリチュアル、ソシアルの三つの分野で研究を進め、研修や具体的なニーズに応えていくプログラムを教会を中心としながら展開させていこう考えられている。
そのセンターの創立記念に行われるのが、このシンポジウムだ。

ウァルデマール・キッペス先生、窪寺俊之先生、そして賀来周一先生の三名が「スピリチュアルペインとそのケア」というタイトルでお話くださった後、会場の質問にも応えながらディスカッションを行う形ですすめられる。

生と死に直面する魂の痛み、葛藤、苦しみのうちにある一人ひとりにどう向かい合うのか。牧師として、キリスト者として、なにが出来るのか。援助というものの必要と限界を知りながら、「信仰」というものの果たす役割について改めて学んでみたいものである。

7月26日 土曜日 午後1時から4時まで
会場は日本福音ルーテル東京教会。
http://www.jelc-tokyo.org/i_map.html

入場は無料。内容は魅了。

是非、大勢に方においでいただければと思う。

また、報告を書きたい。

2014-05-16

2014年度 神学生修養会「教会と神学」

 例年、6月中旬に行われる日本ルーテル神学校の神学生修養会。今年は諸事情があって5月に実施した。テーマは「教会と神学」。キリストの恵みに生かされた弟子たちが、ペンテコステを経験してその喜びを宣べ伝えはじめたその時から、神学はいつでも教会の宣教の働きに仕えるように営まれてきた。だから、宣教の現場で生きて働く神学に触れることで、神学校での学びが将来牧師として働く自分自身の姿の中に生かされるものであることを確認したかった。



 JELC、NRKそれぞれから三人の若い牧師たちを招いた。藤木智広牧師、後藤由起牧師、関野和寛牧師。彼らが、牧師として宣教の現場でどんな課題を見てきたか、教会のなかでどんなチャレンジを受け、なにを試みてきたのか。その只中で様々な現実を乗り越え、突破していくために何を考えてきたのか。
 それぞれにさらに留学をしてきたり、神学的学び・研究を積み重ねようとしている三人が、そうした取り組みこそが神学としてどんなふうに確認されてくるかを聞くことができた。教会という現場にあるからこそ、教会のなかで役員をはじめとする会員とともに生き、働き、一緒に考えつつ歩み、そこで働く牧師としての責任とともに彼らの生の声を聞くことは本当に意義深いことだった。
 神学生は多いに学び、刺激を受けて、今すべきこと、出来ることに思いを新たにしてくれたと思う。神学教員として、神学をするものとして私自身も多いに学んだ。
 教会は、いつでも終末に向かう途上にある。かつての姿も、今の姿も決して理想的なものでも、絶対的な形でもない。福音が分かち合われるために、誰とともに生きているのか、何を大切にし、どんな現実のなかにある人へ仕えようとしているのか。問い直しつつ、固定した形にとらわれないで、新しい姿をまたかりそめの姿としてでも、むしろ確かな神の国への一歩を刻むと心得ればよい。キリストのからだとしての教会の、そんな歩みのために私たちがともに考え実践するところに、本当に生きた神学があるのだ。

 神学生には、その「神学する力」を神学校の学びのなかで身につけていってほしいし、神学校の教育はそうでなければと考えている。神学はいつでも、そうした現場での神学的格闘の積み重ねの中にあって、叙述されてきたのだ。そこから学ぶべきことは汲み尽くせないほどのものがある。現場で生かされる神学のために、いや、明日の教会の働きのために、二千年に及ぶ神学を歩みに、しっかりと学ぶものでありたい。

2014-05-10

教団「東日本大震災国際会議宣言文」について

次第に風化していくことへの危機感をいだきながら、忙しい日々への心の傾斜は、遺憾ともしがたく忸怩たる思いに駆られるばかり。震災から3年が過ぎても、私たちはあの「フクシマ」の深刻な原発事故を終息させることが出来ないばかりか、これから何世代も続く深い闇を抱えているのだ。

 日本基督教団は、今年の3月にフクシマで国際会議を開き、そこで現実と向かい合いながら深い学びをされたようだ。教団はおそらくその時に採択した宣言文を公にしている。

「東日本大震災国際会議宣言文」

⒈罪の告白、⒉祈り、そして⒊決意と呼びかけ の三部構成になっている。
「キリストのからだ」として生きる教会(信徒)がいま何に向かい合い、どんな思いを祈り、そして、どう生きていこうとするのか、ということについて、学びながら告白された文書であることが伝わってくる。

日本基督教団のこと…とせず、私たち日本のキリスト者はこの宣言に学び、この足場を自らのものとしてさらに確かめ、明日の一歩を踏み出すことを考えたいものだと思う。


2014-04-26

ルターセミナー 2014

今年も牧師のためのルターセミナーが企画・準備されている。

             




 昨年から、「宗教改革500年とわたしたち」を基本テーマとして、現代の文脈において500年前の宗教改革の意義・意味というものをもう一度捉え直していく取り組みとしている。所員の発題を絞り、参加者の問題意識を掘り起こしながら、共に学んでいく研究会としようと試みている。毎年、その所員の研究発表は『ルター研究』にまとめられて、秋には出版される。
 今年のサブテーマは「教理問答」だ。ルターの小教理・大教理は共にルーテル教会の一致信条集におさめられ、ルーテル教会の信仰の基本を示すものとなっている。実際「小教理問答」は、現代に至るまでルーテル教会の洗礼・堅信教育に欠かさず用いられてきたものだし、ルターの著作の中では「キリスト者の自由」とともに最も多くの人々に読まれてきた者だと言えるだろう。この500周年の記念事業の出版事業において、新しい翻訳と解説も出版が予定され、すでに準備が進んでいる。私たちの信仰を養う大切なテキストだが、しかし、それをもって何を私たちは自分の信仰の糧とするのだろうか。
 単に、教理的な理解を受け取るとか、500年前からの伝統を引き継ぐということよりも、ルターが時代のなかで、何と格闘し、何を見いだし、何を伝えようとしたのか。その取り組みそのものを感じながら、今ルーサランであること、あるいはキリスト教を信仰するということを現代の脈絡のなかで捉え直し、問い直していきたいのだ。
 今年は、私も研究発表を担当する。いささか準備の時間が取れずに心配だが、私の問題意識を掘り下げていきたいと考えている。
  (下の一覧には、「教理問答に見る諸関係の中の自己〜ルターにおける『私』」となっているがたぶん「ルターにおける『私』、その問題の所在〜教理問答に見る、諸関係の中の自己」というようになるかと思う。)

以下、鈴木浩所長からのご案内を紹介する。
 
………………………
牧師のためのルターセミナーのご案内

                       ルター研究所 所長 鈴木  浩

 主の御名を賛美いたします。
 「宗教改革500周年」(2017年)が近づいてきました。そこで、2017年まで「宗教改革500年とわたしたち」を統一テーマに5回のシリーズでセミナーを開催することにいたしました。今年のセミナーが第二回となります。
 どうか積極的にご参加ください。そして、ご一緒に宗教改革の意義を確認し、来たるべき「500周年」を有意義に迎える備えにしたいと思います。今回も時間にゆとりを持たせ、発題以上に討議の時間を多く取りました。活発な意見交換を期待しています。
 なお、このセミナーは「牧師のための……」となっていますが、毎回、信徒の方の参加があります。関心のお持ちの信徒の方々には、先生の方からご案内いただければ幸いです。
 
 日程:2014年6月2日(月)午後3時から6月4日(水)正午まで
 会場:まほろばマインズ三浦(京浜急行三浦海岸駅すぐ近く)
 主題:「宗教改革500年とわたしたち」(第二回)……ルターの教理問答
 費用:2万5千円(宿泊、食事、資料代込み)
    原則として全期間の参加をお願いしますが、部分参加を希望される方はご相談ください。→ hsuzuki1945@yahoo.co.jp

    
 1.発題と討論

  1.『大教理問答書』における神信仰             ……江口 再起
  2.教理問答の時代                     ……高井 保雄
  3.教理問答に見る諸関係の中の自己(ルターにおける「私」) ……石居 基夫
  4.1917年の宗教改革400周年(日本の諸教会の記念事業とその意義)                              ……ティモシー・マッケンジー
  5.『小教理問答』の「聖礼典における罪の赦しの問題」    ……立山 忠浩
  6.『エンキリディオン』の実践的意味と現場からの問題提起  
                    ……徳善 義和、大柴 譲治、渡邊 賢次
  
 2.説教黙想:司会 鈴木  浩
   説教黙想の対象テキストは、7月13日の福音書日課、マタイ10章16節から33節
  

*「まほろばマインズ三浦」までのアクセスはホームページで検索してください。
*申し込みは直接、ルター研究所(鈴木)まで

2014-04-22

 神学校の聖週間とイースター

 神学校では、今年も、聖週間の礼拝を寮のチャペルで毎日守り、そして、イースターヴィジルを三鷹教会と合同で行った。神学生は、この間もそれぞれ実習教会のプログラムにも加えていただき、イースターの喜びへと連なっていくこととなった。

(写真は、ヴィジルの礼拝での復活のロウソクと洗礼を覚えるための水と枝)
         
 イースターは、毎年日にちが変わること、そして年度の節目と重なることもあってそれぞれ違った味わいを頂くことでもある。今年はちょうど4月の第二週から三週ということで新年度の学び、実習のスタートと重なって忙しいけれども充実した密度の濃い時間を神学生が共に過ごすことができたのではないか。
 
 私自身も、久しぶりに洗足木曜の礼拝を担当させていただいた。神学生とともに祈り、また洗足の式で足を洗い合い、主が私たちに命じられた「互いに愛し合いなさい」とのみことばが、主ご自身の深い愛に包まれ、支えられ、生かされていく恵みのなかに語られたことを受け取ることができた。今、この場所を離れている仲間をも心に留めながら深い祈りへと導かれた。

 やはり共に集い礼拝に与り、祈りを合わせて、みことばに養われることでこそ信仰が支えられ、宣教へと遣わされる一人ひとりがたてられてくる。ただ神学生の学びと研鑽が行われるというのではなく、そうした信仰の共同体として神学校が与えられているということが何よりも大切なことと改めて思う。
 
 



2014-03-30

日本ルーテル神学校の新しい歩みへ

 2014年、日本ルーテル神学校は新しい教育をスタートさせる。
 大学が、これまでの3学科から1学科5コース制へと改めるおおきな改革を実現させた。それに伴って、
 神学校もまた、新しい歩みをはじめていく。

           

 もちろん、これまでの神学校での神学教育・牧師養成の伝統を全く違うものに変更するということではない。むしろ、目指されて来た伝道・牧会者、またキリスト教指導者の育成を、現実に即しつつ新しい時代へ向けて具体化していくための新たな展開を目指していく。

 まず、これまでは、大学と神学校の一貫した6年間を神学教育として位置づけていたが、大学はこの改革においていわゆる神学教育のカリキュラムを神学校にすべて移して、大学レベルで学ぶように、キリスト教の基礎と文化や社会との諸関係、そして「いのち学」を軸とした「人間理解」「人間論」の方に傾斜させたカリキュラムとしている。神学校は大学を卒業した基礎力に上に4年間の神学教育を専門的に実現する。
 もう少し説明するなら、神学校の神学教育の専門性は今まで以上の教育の質をもつが、まずは大学レベルの教育機関において、よく学んできておいてほしいということだ。牧師になるということは、キリスト教信仰の深い理解と高い指導力が求められることはもちろんだが、現代社会の様々な課題について学び、現代を生きる人間と社会の課題、いのちの問題などに深い理解をもっていなければならない。その幅広い教養と専門教育を大学において修得することで、神学への取り組みを深めてもらい、実際の教会の牧会に実践的な力を発揮してもらえるように考えたと言ってよいだろう。
 そのために、これまでのように大学の3・4年を神学校の1・2年として二重在籍とする制度はとらない。神学校は神学校の4年間で、教会での奉仕者、牧師を養成するべく、多様な教会のニーズにこたえ、社会への宣教を担うことのために、集中した専門的なプログラムとして今一度整えていくことになる。

さて、そのこと以上に大切なこと。
 神学校は、教会全体が神さまによって生かされ、宣教を新たに展開していくことができるように、教会の働きに仕えたい。その宣教は、「ルーテル」においては具体的には教会での「伝道」と共に、「教育」と「福祉」の分野において社会全体を神様のみ心の実現へと整え、様々な困難をもつ人々への奉仕の業を担うことによって展開してきた。九州は熊本に拠点をおいて、教育機関や福祉施設を生み出してきたのは「ルーテル」の宣教の働きである。
 だから、神学校は単に牧師を養成するということにとどまらないで、この具体的な宣教を支え、新たな時代にむけて展開していく指導的な力を持つ人々を養成する使命を持っているのだ。教育は学校に任せ、福祉は施設に任せるというのではなく、いずれも教会の大きな働き(宣教)の一つなのだから、そのことに理解と責任を持ち続けられるように神学教育の中に新しい質とプログラムとを実現させなければならない。そして、それは牧師や現場で働く信仰者への継続的な教育をどのようにつくることが出来るかということでもある。

 そのためには、神学校は、教会、あるいはそれぞれの宣教の現場(学校や施設、幼稚園・保育園など)と共に、現代の宣教の課題を共有し、協力しながら神学を深め、教育の質を実践的な意味でも深めていくことが大切なこととなるだろう。
 例えば、「教育や福祉施設でのチャプレンシーとはなにか。」そうしたことも、具体的な課題の一つのなる。現場から今一度学び、神学をしていく。そんな研究・教育の機関として神学校を整えたい。
 
 


2014-03-29

2014年度 新しい「ルーテル学院」の始まり

今年のルーテル学院大学・大学院、日本ルーテル神学校の入学式は4月1日、火曜日の午後2時から。

           いよいよ、新しいルーテル学院の始まりだ!


今年度、ルーテル学院大学は大きな改革をすることになった。今までのキリスト教学科、社会福祉学科、臨床心理学科の3学科から人間福祉心理学科のもとにキリスト教人間学コース、福祉相談援助コース、臨床心理コース、地域福祉開発コース、子ども支援コースの1学科5コースになる。

   http://www.luther.ac.jp/reorganization/

 三つの学科はそれぞれの教育・研究を展開することで、教会の牧師やキリスト教の指導者、社会福祉士や精神保健福祉士、あるいはカウンセリングの働き、さらに大学院をとおして臨床心理士など、様々なニーズをもつ人々を支えていく専門職養成を目指してきた。
 今回の改革では1学科にすることによって、それぞれの専門的カリキュラムを総合し、学際的な学びを可能にし、また総合的な力をもって学生一人ひとりが将来の進路・キャリアを目指して学びを形作っていくことができるように工夫を試みたものだ。実際に対人援助の現場においては、個別的な専門性によってその人の必要に答えていくことはもちろんだが、そのニーズをもっている人の立場に立つと、それぞれのそのニーズそのものは多岐にわたるし、複合的なニーズを抱えている。つまり、自分の専門のみの知識では対応することは出来ない。そして、多様な専門職との連係・協働のためには、学際的な学びをすることが必要となってきている。

 学生の立場になって考えれば、大学に入る時点で専門についての知識もイメージも充分に形成されているわけではない。関心がある学びを続けたら、いったいどういう仕事に結びついていくのかということには具体的な将来像を結べないでいることもある。大学で学びながら考えるものだし、自分の適性についても気づきが与えられるものだ。
 そこで、1学科5コース制の体制をつくり、コース選択を2年次までに決定するという方法をとることにした。キリスト教の人間理解を基本として、いろいろなニーズをもつ私たちの社会のなかで、対人援助の専門職としての自己形成・キャリア形成を可能にする。そんな教育を実現したい。それが、新しいルーテルの形を生み出している。

  「誰かのために働きたい!」「何かの役に立ちたい!」そんな思いを形にするのが、ルーテルの教育だと思う。

 



2014-03-23

イースターヴィジルを

毎年、日本ルーテル神学校は日本福音ルーテル三鷹教会との共催で、イースターヴィジルを祝う。今年も、4月19日(土)の夕6時から平岡仁子牧師司式、李明生牧師説教でこの礼拝がまもられる。


 伝統的には、受難節の間に洗礼の準備を行い、このヴィジルで洗礼を与えられ、最初の聖餐にあずかることとされた。パウロが示したように、洗礼が主の死と復活にあずかる出来事であるのだから、この十字架から復活へと向かう「時」にこうした伝統が守られるようになったことも至極当然なことだろう。
 聖木曜日の洗足礼拝、聖金曜日の受苦日礼拝、そしてこイースターヴィジルはキリスト教会の中で、もっとも大切にされてきた一連の礼拝だといってよい。洗足や受苦日は週日でも古くから日本でも守られてきたと思うが、ヴィジルの礼拝はそれほど定着しているわけではない。もちろん、伝統的な教会としてカトリックと聖公会ではよく祝われている。
それでも、すべての教会でではない。ルーテルでは、おそらくこの三鷹のチャペルで行われているのが唯一だと思う。
 関心のある方は是非一度おいでいただいて、式文もお持ちかえりいただけると良いのでは。

この礼拝については、以前詳しく紹介したので参照されたい。
http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2012_04_01_archive.html


2014-03-03

「ルターの礼拝改革と私たち」④

基調講演の最後の部分は、今日の礼拝改革の流れと、そこでの課題を考えた。礼拝は、現実の教会の宣教のコンテキストで具体的な課題がある中で、そこに必要な改革の目的を見いだしているからこそ、改革がなされていくものだ。初めにアメリカのルーテル教会での取り組みにおける課題を整理し、そして、いま私たちがどういう課題を見ているのかということを取り上げた。以下は、そのレジュメ。

4.私たちの礼拝改革へ
  ☆1920世紀 リタージカル・ムーブメント
  ☆現代の宣教の課題
   ELW アメリカルーテル教会の新しい式文改訂
   ①宣教というコンテキストに基づいた教会と礼拝の理解
   ②エキュメニカルな交わりと神学的な対話
   ③現代という文脈の中で、神学的な課題
   ④信徒の礼拝への参与についての考えと実践

現代日本に生きる私たちの教会は、どんな課題の前にあるか?

(1)自分のためだけではなく、宣教的な視点で
   次世代を考える
   日本の文化・社会のコンテキストに生きる人々への招き

(2)洗礼・聖餐の敬虔は日本においてどう生きるか。
   洗礼の意味
   聖餐式での具体的な課題 

(3)鍵の権能は
   罪の理解と赦しの宣言
   礼拝なかでの実践的な方法

(4)会衆に働き、会衆が働く礼拝
   礼拝への信徒の奉仕ということだけではなく
   礼拝を通した神の働きに生かされていく信仰

(5)教会の具体的な課題
   新しいメディア ⇄ 複数の教会を一人または複数の牧師によって
   小児陪餐・陪餐教育と初陪餐、堅信の実質的な意味
   聖週間の礼拝
   
(6)エキュメニカルな流れにおいて
   改訂共通日課の使用 (一致して「みことば」に聴く)
   具体的な交わり 共に礼拝をする

「ルターの礼拝改革と私たち」③

3.教会(聖徒の交わり)における礼拝
礼拝は、確かに神による私たち人間へのみことばによる救いのみ業である。しかし、神はそのご自身の奉仕において、人を用いられるのだ。教会はキリストのからだとして、この神の奉仕を自らのものとして負っている。だから、礼拝は神の奉仕である故に、信仰者が他者のために奉仕し、共にみことばの奉仕を分かち合い、取りなし合うものとされることであると理解されるべきだ。だから、具体的にはこの礼拝に集められた人々はそれぞれにこの神の礼拝の業に参与するものでもある。
(1)すべてを分かち合う・祈り合う
交わりについては最初の聖餐についての説教「キリストの聖なる神のからだの尊いサクラメントについて」のなかで強調されたものだ。キリストが貧しいものや苦しんでいる人々のすべてをご自分のものとされたことから、この交わりの中にあるものは、その苦しみや痛みを自分のものとして、祈り、行動する。つまり、この交わりの中で、キリストによって生かされる者たちは、互いにその喜びも悲しみも痛みも分かち合い、祈り合う。互いに重荷を負い合うものなる。そればかりか、世界中の困窮を自らのものとして祈り、取りなし、そして、この礼拝からそのものたちのために行動するものとされていく。それらは、この交わりの中心に私たちのために働くキリストご自身がおられ、私たちがそのキリストに結ばれ、キリストのからだとして用いられるからに他ならない。

(2)会衆としての礼拝への参与
ルターは礼拝において、具体的な会衆の参与を実現している。それまで、礼拝は聖職者のものだった。賛美も聖歌隊のみが歌うものであった。しかし、ルターは会衆の讃美歌を導入し、実際に多くの讃美歌を自らつくっている。ルターによれば、讃美歌は会衆の説教と言われる。神のみことばは歌うことでその人の口にのり、互いに聞き合うものとなる。また、礼拝を後にした後もそのみことばは歌として携えられる。こうして、みことばがその人のものとなり、その人はからだにみことばを刻み、憶え、そしてそれによって生かされることになるのだ。 
礼拝で、なにか役割を持つということだけが礼拝への会衆の参与なのではない。むしろ、礼拝全体において会衆が生かされ、みことばに生きる生き生きとした参与があることこそが礼拝の豊かさであると言ってよいだろう。
   
(3)他者のために
礼拝は、基本的に神の賜物として理解される。それがルターの礼拝理解の基本的な筋道だから、犠牲ということばはあまり用いられない。けれども、私たちが神からなにか受け取る為に捧げるべきものではないけれども、むしろ、いただいた恵みと賜物に対し、賛美・感謝を捧げることは当然のことである。私たちは、「われわれ自身とわれわれがもっているものすべて」をささげるのだ。実際、ルターもそのようにいい、私たちが何かを捧げるのではないが、キリストが私たちを取り上げ、感謝し、私たちをすべて神に捧げてくださるという意味で犠牲ということばが用いられるべきだという。
こうして、捧げられる私たちは、神の働きのために用いられる。ちょうど、取るに足りない二匹の魚と五つのパンが多くの人々を養ったように、私たち自身は、祝福され、多くの人たちの必要を満たすように用いられていくのだ。
だから、その意味で、集められた物質的な犠牲も、貧しく、困窮している人々のために用いるのである。

(4)新しい信仰者を得る
ルターは、礼拝に集う人々にとって、神の恵みがよく働くように礼拝が整えられるべきことを考えているが、同時に、「そこでこのような礼拝を、若者たちのために、また、たまたま来合わせた一般の人々のためにもつことは、最上である。」(『ドイツミサ』445
とのべる。つまり、礼拝を単にいま現在いる人々のためのものなのではなく、次の世代の人々の為にも、また初めてその礼拝に参加するような人々のためにこそ、整えられるべきとしているのだ。
礼拝の改革は、いま自分たちが満足していればそれで良いというものではない。むしろ、絶えず、新しい人々を招くために、まだ礼拝に来ていない人々がみことばによって生かされるように、これを整えることが必要ということだろう。

(5)地域にねざして
ルターはそれぞれの牧師に取り組みによって、礼拝が整えられるべきだとしていて、ルーテル教会の歴史においても決して標準的な、画一的礼拝様式をつくって来なかった。しかし、それはもちろん、礼拝がどうでも自由でよいというのではない。礼拝の基本的な神学が具体的な形を決定するものであることはいままで見て来た通りだ。その上で、工夫がそれぞれになされるべきである。それは、実際にその礼拝に集う人々のもつ文化のなかで洗練されるべきだと言ってもいい。
ただし、ルターは例えばドイツ語のミサをつくったといってもラテン語のミサをなくすことはしなかった。それは、世界中どこでも共通のことば、理解をもつことができるからだ。つまり普遍的なもの、そして、教会の一致、礼拝における交わりと理解を大切に考えていたからだといえよう。
礼拝は、それぞれの地域に根ざし、固有の文化を背景にしながらそこに生きる人々にみことばが理解され、受け取られるように工夫すべきであるのと同時に、普遍的なもの、時代や場所を超えた神の働きを共に受け取り、分かち合うエキュメニカルな交わりを実現し、またそれを先取的に、終末論的に実現していくものでもある。

   

2014-03-02

「ルターの礼拝改革と私たち」②

2.福音が働く具体的なかたち 

(1)説教、二つの聖礼典(洗礼、聖餐)
福音は、私たちにキリストの救いを約束し、今を生かす神の力に他ならないが、それは、具体的にみ言葉として働くもの。それは、みえないみ言葉とみえるみ言葉である聖礼典を通して私たちに働く。
①ルターは、「神の言が説教されなければ歌いも朗読も集まることもしないほうがましである」というほどに、礼拝の中心として神のことば、そして説教を位置づけている。説教は、単なる聖書の解説ではなく、私たちへの神の語りかけである。
②見えるみことばとしてのサクラメントもまた礼拝の中心。中世の教会は七つのサクラメントをもって生まれたときから死に至るまで信仰者の生涯を導く霊的ケアのシステムを用意した。ルターはこのサクラメントを定義し直し、イエスの命令と約束、そして具体的な物と結びついた形のものをサクラメントとした。しかし、そればかりではなく、例えばそれまで原罪の赦しのためとされてきた洗礼は、キリスト者の生涯にわたる神のゆるしと救いの始まりとされ、死と復活によって完成される終末論的理解をもって、全生涯にわたる神の確かな救いのサクラメントと理解された。この洗礼のサクラメントは信仰が私たち人間の業ではなく、神ご自身の働きとして私たちのうちに働き続ける恵みであることは、ルターにとっての救いの確かさを示すものと理解された。礼拝において、この恵みを確認できるとよい。
③聖餐については、中世のミサの改革として、もっとも大きな変化をもたらす物であったと言ってよい。司祭が人間の罪の償いのために繰り返し捧げるキリストの犠牲として理解されてきたミサ(聖餐)が、ルターにおいては、キリストご自身が私たちをゆるし、永遠の命へ生かすためにご自身を与えてくださる賜物として理解される。 ここで、私たち人間の側が捧げる行為の主体でなのではなく、神が私たちにキリストを与えてくださるという神の行為としてのミサの理解が示される。説教が非常に重んじられたとはいえ、主日の礼拝で聖餐が行われない礼拝をルターは考えていない。
具体的な形としては、聖餐の設定の言葉や祈りがこれまで司祭だけが神に対する言葉として祭壇に向かい語っていたものが、会衆に向けてはっきりと語られるようになることや、会衆がキリストのからだであるパンのみではなくキリストの血であるワインもいただく二種陪餐が実施されたこと、また、実体変化という説明をやめてただ、キリストの約束のことばに基づいたキリストの現在が理解されることや、この聖餐において教会の普遍的な聖徒の交わりが確認されることなど、ルターの聖餐理解は、実際の礼拝における実践的な改革となったし、また礼拝に集まる信仰者の敬虔に深く関わっている。
 
(2)悔い改めと罪のゆるし 
①ルターは、イエスがその宣教のはじめに「悔い改め」を命じられていることから初め懺悔もまたサクラメントに数えたほどに、サクラメントに準ずる大事なものとして、悔い改めと罪の赦しの宣言をキリスト者の信仰になくてはならないものと考えている。ルターの宗教改革の出発点とされる95ヶ条も贖宥券の効力の問題を論じながら、キリスト者の生涯が悔い改めの生涯であることを伝えている。また、洗礼の霊的意味はこの悔い改めとゆるしにおいて日々新たにされてくることを教えている。それゆえ、これが信仰者の生活の中に与えられることは重要である。
②神のみことばの本来の働きは福音であって、人を救い・生かすのであるが、好みことばは律法と福音という二様の働きをもって私たちに働く。その時、律法は私たちの罪を明らかにし、責め立て、福音に生きるよう導くのである。それゆえ、私たちがこのみことばに出逢う礼拝において、悔い改めと罪の赦しをいただくことは何よりも大切なことである。ルターは、当時のミサの習慣もあって、公的礼拝のなかで具体的に懺悔とゆるしの宣言をもつ式文を用意していない。しかし、公的な告白の式文は改革の進む中で考えられるようになったと言ってよい。
③ルターは、教会のしるしとして「鍵の権能」を大切なものと数えている。それは、教会のしるしであり、特に教会の職務として牧師の権能とされているわけではない。それゆえ、牧師がその働きを具体的な形で担うことはあり得るし、またそのために牧師は召され立てられると言ってよいが、この鍵の権能によって、一人ひとりの信仰者を罪から解き、むしろキリストに結ぶことが教会のわざとしてまもられることを考える道筋は大切なことだと理解される。
こうしたことを合わせ考えると、今日、この罪の悔い改めと赦しの宣言をどのように保ち、実践的に一人ひとりに恵みとして働く道をつくるかということは礼拝を考えるために重要なことだと理解される。

(3)教育的意味
ルターは、礼拝において「最も大きくて、最も重要な部分は、神の御言を説教し、教えることである」(『ドイツミサ』428)という。神のみことばは一人ひとりに対する語りかけに違いないが、そのみことばが確かにその人の人生に意味あるものとして切結ばれる為には、聞くものが深くそのみことばの意味に導かれる必要がある。礼拝は、それに参与するものに様々なあり方で教育的に働く。繰り返し歌われる式文の言葉、祈り、朗読される聖書、歌われる讃美歌。ルターは、「ドイツ語の礼拝では、素朴で平易なよい教理問答が必要である」(同424)と言っている。教理問答は、単に洗礼の準備会でのみ用いられるものではない。また、一つの形になったものだけをいうのではない。むしろ、みことばに向かい合う者の問いに、平易に答えるというそのやり取りこそが真の教育と言えるだろう。説教を含めて、礼拝のなかにその教育的意味が実現することが考えられることはみことばを一人ひとりに届ける為にもっとも重要なことであり、必要なことと憶えたい。

(4)その他 福音に仕えるために
神のみことばによる救いの働きが、たしかに人々に分かち合われるように、ルターは、そのことを非常に大切に考えている。それが当時の礼拝の「形」を整えていくことになる。例えば、聖書をドイツ語に翻訳することはそのための大切な働きの一つだ。それまで、聖書はラテン語に翻訳されたものしかなかったが、ルターはワルトブルク城にかくまわれている間にドイツ語への聖書翻訳を完成させている。また、礼拝そのものにおいても、それまでラテン語のみで行われていたミサをドイツ語によって民衆に分かるようにしたことは、礼拝が誰の為のものであるのかということをもっとも明瞭に示したと言ってよい。
さらに、ルターの書いたドイツ・ミサを読んでいくと、礼拝のなかにあった祭壇の配置に対し、聖餐を人々と共にいわうように聖卓を配置すること、さらにその礼拝空間のなかで、司式者がどこにたち誰の方を向くのかという所作、さらに言えば式服が華美になり過ぎることを戒めることなど、礼拝の基本的な考え(神学)が具体的な形になっていくように工夫されていった。

 



    

2014-02-25

大木英夫『終末論』

神学生へ、おすすめの一冊。神学を学ぶということの面白さを味わうだろう。

大木英夫の『終末論』。現在、既に絶版?のようだが、中古ならなんとか手にはいるだろう。本書は90年代になってからの出版だが、「終末論」は70年代に繰り返し議論され取り上げられたテーマの一つだ。

終末論 (精選復刻紀伊国屋新書)

近代の合理主義・啓蒙主義下で生まれ展開をして来た自由主義神学、また史的イエス研究の展開は、人間理性のなかで宗教(キリスト教)の意義をとらえ直そうというチャレンジであった。カントの影響を強く受けながら展開されていく神学思想のなかで「終末論」がどのように理解されて来たか。さらにはバルトの危機神学へ、そして、その批判的継承者としてのモルトマンへと流れていく神学潮流の中に、「終末論」がどのように変遷して来たのかを鮮やかに示してくれる。
 終末論は、単なる教義学の一項目なのではなく、神学の構造、性格を決定する枠組みであるということに目を開かれる。

 近代神学の歴史を学ばないといささか難しいかも知れないが、むしろ、この本を繰り返し読むことで理解が深まるので、是非取り組んでいただきたい本だ。


2014-02-24

『聖卓に集う』

ルーテル教会の礼拝を実践的に学ぶためには、ぜひとも手もとに置いておきたい一冊。



日本福音ルーテル教会、日本ルーテル教団が現在用いている「青式文」は1996年に出版されたが、この出版に至る前十数年間は試用版が用いられていた。いわゆる「白式文」だ。その編纂に関わられたのが前田貞一牧師。最終的な「青式文」が決定されていく時にはその委員の役割からはなれられてもいたため、前田先生の思いとは別に「白」から「青」への微妙な変更がなされている。しかし、「青式文」ができてもその公式の解説などは委員会の仕事とはならなかったので、現在の式文の包括的な解説と実践的説明を求めるとすれば、これを読むのが最も良い。先生の礼拝学の深い見識と牧師としてのご経験が盛り込まれ、礼拝について深く学ぶことができる。
 私自身、神学校で前田先生に礼拝学を教わったのだが、ちょうど私が神学生となって実習をさせていただいた東京池袋教会で初めは協力牧師として、後には主幹牧師として直接に教会でお世話になった。先生からは、沢山のものを受け取り、学ばせていただいた。主日の礼拝のなかで、先生が式文を用いた礼拝の意味やそこで養われる信仰・敬虔について具体的に教えてくださったことは忘れることはない。
 現在、近い将来の式文改定へむけての準備に加わっているが、その時にいつでも現在の式文を振り返り、学ぶことができるのは、この一冊があるからだ。前田先生の貴重なお働きに感謝している。
 ルーテルの神学生は手もとに置いておくべき一冊だ。

2014-02-21

『神の元気を取り次ぐ教会』

ルーテル教会の引退牧師である、石田順朗先生の新しい書き下ろし本。

「主日説教が、聖書研究会でのような講解的説話で終わってしまうのではなく、また、キリスト教教理の連続的講話に尽きるのでもなく、伝達された説教の余韻が残るかどうかです。会衆各自の日常生活のリズムや、信徒たちの交わりに、説教が生きるかどうかです。すなわち、地域会衆の存続に、「いま・ここで」、意味深く共鳴するかどうかということです。」(本文、第11章より)

 みことばによってこそ、私たちの信仰がつくられ、私たちの心は熱くされ、慰められ、生かされる。そのようにみことばを聞きたい。そのようにみことばを分かち合いたい。そのようにみことばを取り次ぎたい。


「神の元気を取り次ぐ」こと。書名に記されたこのユニークな表現は、福音によって信仰に導かれ、その福音を分かち合う牧師へと召しを受け、長くその働きを担ってこられた筆者石田順朗先生が、今こそ教会の使命としてどうしても確認したかったものだといえるだろう。
 進歩した科学技術がこんなにも私たちの日常を便利で快適なものにし、世界の新しい可能性を示しているのに、人々は孤立し、社会全体は先行きの不透明さに大きな不安を抱いている。教会もまた宣教に行き詰まり、子どもたちの姿が少ない現実の中で明るい未来を描けず、元気がない。
 けれども、本当の元気は私たちの内からはけっしてわき上がっては来ない。筆者は、それはただ「神の元気」から来ると確認する。「神の元気」とは、神から被造物に与えられる「いのちの息吹」のことと聖書は示しているのだ。このいのちの息吹は、神の言葉として私たちに向けて語りかけられ、私たちを生かす力として働く。
 ご自身が説教によって「元気をもらった」という原体験を長い信仰生活を通し確認し、また説教者として人々がそれによって生かされ、導かれるのを目の当たりにしてこられた筆者だからこそ、その真実を率直に示してくださっている。確かに説教が、人を元気にし、世界に神の御心実現していく。
 その説教がどのように準備され、分かち合われ、伝えられてきたのか。教会の暦や聖書日課、聖礼典や礼拝のことなどについてやさしく説明を加え、細やかな配慮のなかに神のみことば、「神の元気」が用意され分かち合われて来た教会の知恵を教える。その知恵によってこそ、信仰者がこの歴史的世界のなかでどう生きるべきかを確かに受け取っていくのだといえるのだろう。

 9.11、3.11という二つの大きな出来事を体験してきた現代には沢山の課題がある。その現代を生きるキリスト者に与えられている恵みと使命を「神の元気」において私たちは分かち合うものと教えられる。(「るうてる」2月号掲載)
 
 この本も、神学生、特にルーテルの神学生の必読書の一冊。けれど、神学生だけではなく、むしろ教会に集う多くの方々に読んでいただきたいと思う。教会で語られるみことば・説教が分かち合われるためにどのように整えられているのかを知ることで、私たちの信仰のあゆみが暦の中で導かれていくことを豊かに受け取ることができよう。

2014-02-11

基調講演『ルターの礼拝改革と私たち』①

今日の基調講演のレジュメを起こして、講演内容を少しずつ紹介したい。

宗教改革は礼拝の改革として
 宗教改革は神学的問題にとどまるものではなく、実践的な教会の改革であって、また当時の人々のパイエティを変えた。具体的には礼拝の改革が中心であった。しかし、それまでのミサを廃止したわけではなく、改革したものだ。ルターは「最も重要で、最も有用な秘訣は、ミサにとって何が根本的、根源的なものか、何がそれに付加された無関係なものかをしることである」 という。当時の教会の礼拝(ミサ)において根本的なものに無関係で、またさらに言えば有害な要素が付け加わっていたのだ。だから、今一度、礼拝が本来あるべき根源的な姿を取り戻す必要があったということだろう。その改革はどのような原理、礼拝についての理解(神学)によったものなのか。

. 神の業としての礼拝 Gottesdienst
 礼拝は、神の奉仕。神にたいして私たち人間が捧げるという人間の業ではない。礼拝は「捧げる」というよりも「与る」とか「まもる」という言い方をする。つまり、神のわざ、救いの働きなのであって、人間のわざではない。その神のわざとしての礼拝とは次のような本質をもっている。
(1)神のわざ、それはみ言葉をとおして
   ①改革のなかで、たとえば聖餐が二種陪餐へと変えられる。それは、ただ、イエ 
    ス・キリストの約束、そして命じられた言葉に従ってなされること。改革は、神
    の言葉にその筋道が見いだされる。
   ②同時に、たとえば急進的なカールシュタットの改革を制止し、「唯一私たちの心
    における偶像を取り除くのはみことばの説教」であるという。み言葉が働き、私
    たち自身を変えていくという原則をもっていることも、大切なこと。

(2)福音の中心性
   ①福音の明瞭に示されること。これが礼拝にとって必要なこと。神による人間への
    救いの働きがゆがめられたり、隠されたりすることのなく示される。すなわち、
    宗教改革の神学によって確認された、神の恵みの働きのみによる救いがある。
   ②聖餐の理解ではっきりと示されたと言ってよいが、礼拝は犠牲ではなく、神によ
    る賜物として、すなわち人のわざではなく、神の救いのわざとして示される。 

(3)信仰者を創造する
   礼拝は、信仰を要求する。ex opera operantis という主張は、執行者の問題では
   なく、受領者の信仰に基づく有効性を主張している。信仰義認という言い方も同じ
   だが、それは、けっして信仰が前提条件ということではない。無条件的な神の救い
   のみ業であることは間違いない。しかし、その神のわざが、不信仰から信仰を創造
   するのであり、それがみことばによる礼拝。信仰とはなれては存在しないという意
   味。逆に言えば信仰者がそこに存在しないままで行われた私誦ミサなどへのするど
   い批判でもある。礼拝はそこに人がいて、み言葉が聞かれ、そのみ言葉の働きによ
   って、信仰がその人の内に創造され、生かすわざ。

2014-01-31

「献身の祈りの夕べ」

 今年の「神学校の夕べ」は、例年とはおもむきを変え卒業生を送り出すための祈りの夕べではなく、献身者が起こされるようにと願い祈る夕べとしての企画となりました。

今年は、ルーテル神学校始まって以来おそらくはじめてのことと思いますが、卒業生のない年となりました。今までも、1名の卒業生というようなことは何度もありましたが、卒業生が一人もいないという年は一度もなかったのです。
 これは、一大事!しかし、これは現実です。神学教育にたずさわる身として忸怩たる思いがあります。
 そして同時に、この事実に、神学生が育てられ、牧師とされていくことが、どれほど神の恵みと導きに支えられてのことであるかということを改めて思わされることです。神学校は、牧師養成を担っているのですけれども、この働きが私たちのわざによるのではないことを深く受け止めることとなりました。私たちの願いや計画を私たち自信がひた走り、そして、ことがなるというわけにはいきません。私たちの考えを打ち砕いても、ただ、神のみが人を召し、導き、養い育て、牧師として派遣されるのです。そして、その神のみ業によく仕えるよう教会は整えられ、神学校をはじめその働きを担うものが遣わされ、用いられていくばかりなのです。
 
 例年、神学校を卒業し牧師として旅立っていく者たちが、み言葉を取り次ぎ、在学生たちはその旅立ちを祝い、皆が主の招きを思い起こし、感謝のうちに祈りつつ、按手と派遣に備えるようこの「神学校の夕べ」の礼拝が守られてきました。ですから、例年学生たちが主体となって、この夕べを準備するのです。
 今年は、卒業生のいない中で、学生たちは是非この時にこそ、「召命・献身」の主のみわざ、そこに起こされてくる私たちの応答の奇跡を思い、その出来事を共々に確認し分かち合っていく礼拝をしたいとこの準備をしています。
 この夕べが、このような形で守られることは二度とない!ことと思います。そう信じつつ、この礼拝へと皆さんをお招きしたい…。
 
 

2014-01-28

神学生必読書 ペールマン『ナザレのイエスとは誰か』

 神学生の時、信仰の課題、神学問題の要は「キリスト論」だと考えたことがある。結局、私たちの信仰は、あの人間イエスを「キリスト」と告白するという奇跡の中に、すべての秘儀があるのだという直観だった。しかし、その後その直観を確かな言葉をもって紡ぐことが出来ていない。それは、自分の生涯の課題かとも思う。
 さて、神学生の時に課題図書として紹介された本の一つにペールマンの『ナザレのイエスとは誰か』がある。ペールマンが神学生のゼミで学生に取り組ませるための資料としてまとめたものだろう。いわゆるキリスト教神学におけるキリスト理解の叙述を展開するというものではなくて、キリスト教以外、ユダヤ教の視点、無神論者の視点、哲学者の視点などからイエスがどのように捉えられているのかという具体的な資料を提示し、それを読んでどう考えるのか、と読者自身に問いかけるような設定になっている。もちろん、ペールマンなりの分析と見解も短く添えられているのだけれど、それは、「イエスはこう理解されるべき」という教義的な教えではなくて、こういう考え・捉え方があるが、その理解に収まり得るかと、反語的に問いかけていくような叙述だ。



神学生には是非読んで、考えてほしい一冊。
 改訂された新版『イエスとは誰か?』には、遠藤周作も取り上げられている。この項にはいささか食い足りない感じが否めなかったが、しかし、海外に遠藤がこのように知られているということには、なかなか考えさせられるところがある。その意味でもこの新版を手にしてもらっても良いだろう。

2014-01-23

教会が社会的・政治的な問題に関わるとき その②

それでは、具体的に教会がその時に対応して、教会としての声明を出すということをどのようにしたらできるだろうか。教会が教会としての立場・見解を表すと言うことは、原則的に教会の総会において決議されたことにおいて表される。

(例えば、最近の例でいうと日本福音ルーテル教会は2012年の5月の総会で「一刻も早く原発を止めて、新しい生き方を! 日本福音ルーテル教会としての『原発』をめぐる声明」を決議している。反原発の声明では、同時期に日本聖公会も総会で声明を採決している。http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2012/07/blog-post_10.html )

しかし、例えば今回の首相の靖国参拝が突然なされたような場合、その時に応じて、教会が何かを声明として明らかにするとき、教会の総会を開いている余裕はない。
そうすると、教会は結局実際には時に対応した声明、意見というものを公にはできないのか。

現実には、多くの教会は、そうした場合のために常設の委員会や団体を持っていて、それが教会に代わって声明を公にしている。あるいは、教団を代表する人格(議長や司教、主教など)が声明を出すという具合だ。それで、後から必要ならば、教会の総会で報告承認、もしくは改めて決議をする。そうでなければ、委員会名の声明や個人名の声明ということに留まるということだ。

じゃあ、誰がどういう形でその役割を担うのかということが実際の問題になる。また、教会においてそれぞれの委員会ごと、あるいは個人や団体でもそこにはどういうレベルの違いがあるか。やはり総会で決議されるような場合は最も重たいものと考えられるだろうが、そうでないものについては、どういう序列、教会での重みの違いを認識すればいいのだろう。

日本福音ルーテル教会においては考えてみると、もしかしたら、信仰と職制委員会がそうした役割を総会から委託されていると理解して来た伝統があるかも知れない。この委員会の前身?が信仰告白委員会であったとも聞く。総会で直接選ばれた常置委員会だから、総会閉会中の責任を担う常議員会とは立場を異にしても、自らそうした意見・声明を発信する可能性もあると考える意見もある。
しかし、実際にはそうしたことが規則上なにも決まっていない。また、2002年度の総会で社会委員会が設置されてから、信仰と職制とその委員会役割についてのスミワケの意識が徹底してはいなかった。そして、社会委員会は規約によって委員会独自の活動ということができない仕組みになっていて、実際に必要なタイムリーな働きを担えては来ていない。だから、結局は議長や委員会、委員長がなにがしかのアクションを起こしうるということもはっきりとしていない。だれがいつどういう形で声明を出せるのか、どういう秩序があるのかが今の段階では明らかではないのだ。それが今の日本福音ルーテル教会の状況だ。そうだとすると、今のこの段階で、どこかの委員会が何かを言っても、その根拠も責任も明瞭ではないということになる。

今回、首相の靖国参拝のみならず、社会的政治的な動きに懸念すべきことが起こっているというなかで、信仰と職制委員会はこれに向けて声明を出そうと話し合い、首相にむけた声明案を検討するところまで準備した。しかし、教会の今の状況の中では、まず秩序を整えることが必要だということが改めて認識されたのだ。そこで、常議員会へその旨報告して、声明を発表することを控えたのだ。本当は、なにかアクションを起こすべきときだという強い認識があったが、しかし、結局、このままの状況で何かを発信しても、それは教会のどういうアクションとしても位置づけられない無責任な言いっぱなしのものになるのではかえって良くないだろうと判断されたのだ。

同時に、改めて考えさせられたことは、こうした声明などは、それを公にすればそれでよいというものではない。
声明は一方では、外に向かって表すものだが、同時に教会の中に対して自らの有り様を示すことにもなる。信徒の一人ひとりに向けて、私たちの教会の信仰的な考えからすると、こういう問題について、いま教会はこう考え、こういう訴えをしていくのだということを教会の信徒の人々に呼びかけ、考えてもらうという教育的な働きと言えるかも知れない。だから、教会は、こうした声明を受けて教会のなかでその問題をどう考えるのか学びや意見交換などがなされ、信徒の皆が個人としても市民として国民として考え行動ができるように働きかけることもまた大切なことだ。個人個人の考えを尊重すること、異なる考えがあることを認めること、それでもなお大事にすべきことを一緒に考えること。教会のなかでそうした話し合いがなされていくことをどうつくっていけるのか。それこそが声明を出していくと言うことを内実化する。

さらに言えば、具体的に一般の人々のなかにある考え、その背景にあるムード、問い。それにたいしどのように教会が向かい合い、そこにどんな言葉を持つのか。そうしたことも考えていく必要がある。

だから、この目下の課題について、今、日本福音ルーテル教会は委員会レベルでも声明はまだ出ない。こうした課題を確認し、その課題をしっかり受け止め、取り組む。その歩みを確認できたことはなによりも大切なことと思う。今更と言われるかも知れないが、こういうことをしっかりと考えていくこと、常に確認していくこと。それが責任あるあり方だと学んだ。
(今回、信仰と職制委員会に参加しながら、話し合われ、共有された問題意識をここに記録した。)


2014-01-12

教会が社会的・政治的な問題に関わるとき その①

 安倍首相の靖国神社参拝は、国家安全保障会議(日本版NSC)の創設、特定秘密保護法の強行採決、武器輸出三原則の緩和や沖縄米軍基地の辺野古移設による固定化など一連の動きと相まって、首相と現政権の進もうとする道行きの危うさを示していることに、多くの教会関係者が憂慮を表して来ている。すでに、別に書いたように、様々な教会が委員会名や教団のしかるべき部署・委員長などの名前で安倍首相に対する抗議声明を表している通りだ。http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2013/12/5201413.html

 私が、個人的に各教会の抗議声明について書いたものをSNSで紹介したとき、ある方が、こうした教会の反応が公にされると、同じ考えではない信徒にとっては、教会にいづらくならないか。キリスト教が皆そういう考えを持っていると一般の人たちから思われるのは迷惑なことではないかというような意味のコメントをいただいた。コメントは、おそらくご本人がすぐに削除されたので、もう見ることもできず、正確なことばではない。しかし、こうした声が出されたこと、そして、それがすぐに消されたことは見過ごすことのできないことだと私の心に刻まれた。

 信仰者が一人ひとり、政治的な課題について自らの考えを信仰的に表明しているかぎりは、同じ教会にあっても、それはその人個人の考えであって、それぞれ違う意見を持っているかも知れないということは、一般的に理解されることだろう。しかし、教会が一つの声明を出すという場合、外から見れば、その教会に属しているということが、その教会の見解を自分のものと信じる立場にあるという意味に受け取られるだろう。少なくとも、会員としては、その教会に属する自分がもしその教会の表明した見解に一致できない場合に、その教会との関係について悩むに違いない。実際には一人ひとりの考えや思想を教会が強制的に縛るということはあり得ない。けれども、一般的な意味から考えれば、自分の所属する教会が公にした意見を受け容れられないなら、その教会の考えとは違うということを何らかの形で表すことを真剣に考えさせることだと思う。
 
 あのコメントが私に伝えたかったこととは、そういう難しさを感じる信徒があるのだという真実だ。しかし、そのコメントが取り消されたということは、そういう一人ひとりの逡巡、戸惑いを表わしにくいということでもある。それだけ、それぞれの信徒の心の中にこうした割り切れないような、居心地のわるさのようなものが沈んでいるということだろう。

 だから、教会が信仰内容に直接関わることなら、教会を割ることがあっても言わなければならないけれど、社会的・政治的な問題に教会として声明を明らかにするということには慎重であるべきだという考えが一般的だ。教会の一致は福音理解によって一致するのであって、政治的な立場や思想上の違いによって、教会にいづらくなるということがあってはならないし、教会の一致が保たれないことになるとは考えにくいことだからだ。日本福音ルーテル教会は2008年の総会で教会が社会問題に関わって見解を表明するということに関して信仰と職制委員会の見解を決議している。こうした理解をもって、教会は、絶えず少数であったとしても異なる意見や考えを持つ人々について配慮をし、声明などを明らかにすることに慎重さが必要である、としている。

 しかし、一方で教会が教会としてはっきりとした態度表明をすべきときもある。第二次世界大戦下、ドイツでナチズムがユダヤ人迫害の政策を推し進める中、その国家政策に従うドイツ的キリスト者という運動を教会の中に作り出していった。そのとき、告白教会という少数の教会がこれに反対し、国家の政策に対して抵抗運動を展開したのだ。それでも、抵抗し切れずにはげしい弾圧をうけた。そしてナチスは力づくで世界戦略を展開したのだ。しかし、戦争が終わって教会は深い反省を持ち、ナチスに抵抗し切れず戦争の悲劇をもたらしたことへ深い罪責の告白をしている。前にふれたニーメラーは、自分たちが告白教会としてできうるかぎりの抵抗をしたのにも拘らず、その事態を止められなかった責任を、頑張ったけれど力及ばなかった言わず、止め得なかったことを「わたしの罪、わたしの罪、わたしの罪」と告白した。歴史に生きることへの責任意識だ。
 日本の教会にも、同様…とまでは言わないが似たような状況があって、戦時中プロテスタント諸教会が日本基督教団へ合同したこととその教団としての戦争協力に用いられてしまったという深い反省がある。そのことへの戦責の告白は、教団名において明らかにされることはなく、戦後12年経って、教団の議長名で公にされたに留まった。日本福音ルーテル教会は戦後すぐに教団から離脱していたために、この問題については積極的なコミットはできなかったし、しなかった。ただ、このことについては、それぞれの離脱したかどうかに拘らず、プロテスタント諸教会において(おそらく日本基督教団自体もふくめて)、忸怩たる思いがあるかも知れない。しかし、それhどうあろうと、少なくとも同じ過ちは繰り返してはならないということについては異論はないだろうと思う。
 だから、キリスト者は、まして教会は、戦争と平和、基本的人権に関わるような社会的問題に対して、特に社会のなかで弱い立場にある人々のことを自らのこと以上に考えて、信仰の故に特定の見解を表明するということがあり得る。いや、まさに時に応じて、信仰者個人個人のみならず、教会が教会として、信仰的な立場から一定の見解、声明を公にする必要がある場合があるのだ。

 日本のようにキリスト者人口が1パーセントに満たないマイノリティであることは、その意見表明にどれほど社会的な影響力があるのかと問われそうだ。しかし、影響力を持つことだけが、意見表明の意味ではない。自分がどこに立っているのか明らかにするべきときがある。教会がキリストの教会として、この世界への責任、隣人への責任を果たすために、声をあげていくべき時がある。それがどんなに小さな声であったとしても、キリストの教会であるために声にしていかなければならないことがあると思うのだ。
 (この主題については、続きを書く。)



2014-01-04

第48回教職神学セミナー「礼拝改革―変えるべきものと守るべきもの」

 2014年2月に予定されている今年度の教職神学セミナーのテーマは「礼拝改革―変えるべきものと守るべきもの」だ。



2000年代に入ってから、日本でも「礼拝学」関連の本が次々と発行され、礼拝についての関心が再び高まってきている。それはまた、プロテスタントの各教派で様々な礼拝刷新、新式文の作成などの動きとも関係している。
 こうした傾向は、もともとは19世紀後半から20世紀のあいだにカトリックを中心として起こってくるリタージカル・ムーブメントの大きな流れの中から起こってくるものと考えられよう。その大きな成果は第二バチカンにおける典礼憲章(1963)にも結びつく。また、プロテスタント教会にも大きな影響を与えることとなっている。
 このリタージカルムーブメントの起こりは、はじめカトリックの中世的伝統の確かな継承ということにあったと言えるが、古代教会における諸々の文書の発見と研究が、やがてより古い伝統の回復へとなっていく。そのことが逆にエキュメニカルな礼拝改革運動へと展開していくことにもなったと言えよう。
 こうした礼拝改革の動きは、しかし、そうした「古代」の伝統の回復という衣をまといながら、むしろそのことの中で確かな「現代」への対応が進んでもいる。そして、そういう礼拝が私たちの信仰の内実に深く影響を与えていることを無視できないし、また逆にそれだからこそ、今回復や強調が必要な礼拝の実践ということもあるだろう。
 例えば、聖餐のパイエティというものの回復はその典型だ。礼拝の中心としての聖卓の回復が起こり、同時に信仰の交わりの祝いが回復される。それは、現代における宗教的個人主義の時代には、とりわけ大切な視点だと言ってよい。その流れの中で信仰の道筋や罪の自覚と赦しのパイエティにも変化が起こっていることも確認されよう。大変具体的な課題だからこそ、無自覚に流されるのではなく、その変化が何を意味しているのか確認が必要なのだ。
 そこで、こうしたエキュメニカルな礼拝改革の流れの中で、プロテスタンティズム、あるいはより具体的にルター派神学ということをどう捉え、またそのことから礼拝をどのように考えたら良いのかということが今一度確認される必要がある。そして、この礼拝改革の流れには、漫然と流されるのではなく、主体的に道筋を見いだしていかなければならないと思う。
 第48回教職神学セミナーでは「礼拝改革―変えるべきものと守るべきもの」とテーマを設定し、私たち自身の礼拝への取り組みそのものを問い直してみたい。
 2014年の2月10~13日、ルーテル4教会・教団の教職の継続教育プログラムとして行われる。