2014-03-03

「ルターの礼拝改革と私たち」③

3.教会(聖徒の交わり)における礼拝
礼拝は、確かに神による私たち人間へのみことばによる救いのみ業である。しかし、神はそのご自身の奉仕において、人を用いられるのだ。教会はキリストのからだとして、この神の奉仕を自らのものとして負っている。だから、礼拝は神の奉仕である故に、信仰者が他者のために奉仕し、共にみことばの奉仕を分かち合い、取りなし合うものとされることであると理解されるべきだ。だから、具体的にはこの礼拝に集められた人々はそれぞれにこの神の礼拝の業に参与するものでもある。
(1)すべてを分かち合う・祈り合う
交わりについては最初の聖餐についての説教「キリストの聖なる神のからだの尊いサクラメントについて」のなかで強調されたものだ。キリストが貧しいものや苦しんでいる人々のすべてをご自分のものとされたことから、この交わりの中にあるものは、その苦しみや痛みを自分のものとして、祈り、行動する。つまり、この交わりの中で、キリストによって生かされる者たちは、互いにその喜びも悲しみも痛みも分かち合い、祈り合う。互いに重荷を負い合うものなる。そればかりか、世界中の困窮を自らのものとして祈り、取りなし、そして、この礼拝からそのものたちのために行動するものとされていく。それらは、この交わりの中心に私たちのために働くキリストご自身がおられ、私たちがそのキリストに結ばれ、キリストのからだとして用いられるからに他ならない。

(2)会衆としての礼拝への参与
ルターは礼拝において、具体的な会衆の参与を実現している。それまで、礼拝は聖職者のものだった。賛美も聖歌隊のみが歌うものであった。しかし、ルターは会衆の讃美歌を導入し、実際に多くの讃美歌を自らつくっている。ルターによれば、讃美歌は会衆の説教と言われる。神のみことばは歌うことでその人の口にのり、互いに聞き合うものとなる。また、礼拝を後にした後もそのみことばは歌として携えられる。こうして、みことばがその人のものとなり、その人はからだにみことばを刻み、憶え、そしてそれによって生かされることになるのだ。 
礼拝で、なにか役割を持つということだけが礼拝への会衆の参与なのではない。むしろ、礼拝全体において会衆が生かされ、みことばに生きる生き生きとした参与があることこそが礼拝の豊かさであると言ってよいだろう。
   
(3)他者のために
礼拝は、基本的に神の賜物として理解される。それがルターの礼拝理解の基本的な筋道だから、犠牲ということばはあまり用いられない。けれども、私たちが神からなにか受け取る為に捧げるべきものではないけれども、むしろ、いただいた恵みと賜物に対し、賛美・感謝を捧げることは当然のことである。私たちは、「われわれ自身とわれわれがもっているものすべて」をささげるのだ。実際、ルターもそのようにいい、私たちが何かを捧げるのではないが、キリストが私たちを取り上げ、感謝し、私たちをすべて神に捧げてくださるという意味で犠牲ということばが用いられるべきだという。
こうして、捧げられる私たちは、神の働きのために用いられる。ちょうど、取るに足りない二匹の魚と五つのパンが多くの人々を養ったように、私たち自身は、祝福され、多くの人たちの必要を満たすように用いられていくのだ。
だから、その意味で、集められた物質的な犠牲も、貧しく、困窮している人々のために用いるのである。

(4)新しい信仰者を得る
ルターは、礼拝に集う人々にとって、神の恵みがよく働くように礼拝が整えられるべきことを考えているが、同時に、「そこでこのような礼拝を、若者たちのために、また、たまたま来合わせた一般の人々のためにもつことは、最上である。」(『ドイツミサ』445
とのべる。つまり、礼拝を単にいま現在いる人々のためのものなのではなく、次の世代の人々の為にも、また初めてその礼拝に参加するような人々のためにこそ、整えられるべきとしているのだ。
礼拝の改革は、いま自分たちが満足していればそれで良いというものではない。むしろ、絶えず、新しい人々を招くために、まだ礼拝に来ていない人々がみことばによって生かされるように、これを整えることが必要ということだろう。

(5)地域にねざして
ルターはそれぞれの牧師に取り組みによって、礼拝が整えられるべきだとしていて、ルーテル教会の歴史においても決して標準的な、画一的礼拝様式をつくって来なかった。しかし、それはもちろん、礼拝がどうでも自由でよいというのではない。礼拝の基本的な神学が具体的な形を決定するものであることはいままで見て来た通りだ。その上で、工夫がそれぞれになされるべきである。それは、実際にその礼拝に集う人々のもつ文化のなかで洗練されるべきだと言ってもいい。
ただし、ルターは例えばドイツ語のミサをつくったといってもラテン語のミサをなくすことはしなかった。それは、世界中どこでも共通のことば、理解をもつことができるからだ。つまり普遍的なもの、そして、教会の一致、礼拝における交わりと理解を大切に考えていたからだといえよう。
礼拝は、それぞれの地域に根ざし、固有の文化を背景にしながらそこに生きる人々にみことばが理解され、受け取られるように工夫すべきであるのと同時に、普遍的なもの、時代や場所を超えた神の働きを共に受け取り、分かち合うエキュメニカルな交わりを実現し、またそれを先取的に、終末論的に実現していくものでもある。

   

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