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2020-09-08

「いのち」の尊厳を考える〜スピリチュアリティ の視点から〜

先日、ルーテル・医療と宗教の会に招かれ講演を担当させていただいた。
5月開催の予定だったものが、COVID-19の感染拡大の影響を受けて延期されたものだったが、結局オンラインでの開催となった。
牧師としてキリスト教の立場をはっきりと出していわゆる「終活」について、また死と葬儀について、現代日本の脈絡の中でお話しすることは多くあるのだけれど、今回は少しだけ視点は広げて、特定の宗教によらない「スピリチュアリティ」の視点を示しながらのお話しとさせていただいた。



会場は、生まれ育った日本福音ルーテル武蔵野教会をお借りしてのライブ講演であったけれど、さすがに目の前にカメラとモニターを置いて、配信関係の方以外の聞き手のない中での講演というのは、緊張するものだった。カメラに目線を合わせないといけないのだけれど、どうしてもモニターを見てしまう。(世にいうユーチューバーなる方々はすごいなあと感心。)

これまでの日本の終末期医療の現場でスピリチュアリティの研究をくださった方々の成果などに学びつつ、自分なりに宗教者、牧師としての立場から考えてきたことを踏まえてお話しさせていただいた。どうしても限られた時間の中で、一通りのお話をしようと思うので、平坦な語り口になってしまったかもしれない。

従来のスピリチュアリティの研究は、当事者の死と向かい合う実存的な苦しみ、痛みにどのように対応するべきなのか支援のあり方を具体的な臨床において研究してきたものだと思う。その豊さに学びつつ、しかし、今回の講演では、そういう視点からだとスピリチュアリティ の領域はどうしても患者・当事者の実存的なニーズを中心に考えられるものとなってしまうことへの問いかけをしてみたかった。

スピリチュアルなこと(信仰的な問題と重ねるならば)は、実は私たちの問いや必要ということであるばかりではなく、むしろ、神からの働きかけや問いの前に立つということでもあって、人間が中心であることよりもむしろもっと違った大いなるもの(Something Great)からの働きかけの中に自らを置くことから来る畏れや深い癒しの体験でもあるはずなのだ。そうしたことが、宗教者だからこそ、はっきりと語るべきと考えてきた。医学や心理学、あるいは福祉でも、実証的で科学的な議論の積み重ねによって議論がなされるし、またそうでなければ、具体的な問題に対処する実践を提供できないだろう。けれど、「いのち」の問題はいつでももっと神秘的だ。誕生することが I was born.と受け身で語られるように、いのちはいつでも、私たちの選択や自由になるものではなく、与えられるもの、生かされるもの。息を引き取るお方がおられるので、死が訪れる。

そうしたいのちの神秘性を、「存在(いのち)=関係」の視点を持って考えてきた。細胞単位の生命現象は初めから終わりまで一個体の物質的な運動とエネルギーの循環の中に観察される。科学的実証的な理性は、受精の瞬間からこの個体としての運動において命を見ることだろう。しかし、人間である私たちは、「わたし」という存在の中でいのちを生きる。その「わたし」のQuality of Life と言われるところのLifeは、生命であるけれど、生活であり、人生でもある。その中心は抽象的な人間なのではなく、個別具体的な「わたし」であることは間違いない。しかし、この「わたし」は様々な関係の中でこそ、その存在の豊さを生きているのだ
他者との関係、特にも愛するものとの関係、家族や親族、地域共同体の関係の中でその「いのち」の活動が与えられ、保たれているのだ。そして、そうしたつながりの中でこそ、かけがえのない「わたし」を与えられている。あるいは、自然世界、例えば動物や植物などのいのちの循環、さらには水や大地、空気といういのちの源泉になるものとの深いつながり、山とか海とか川とか森などの自然環境こそが具体的な共同生活や文化の土台になっている。さらに言えば、そうした「わたし」のいのちのつながりを観想し、理解し、その本質をとう形而上学的な試みも、またそうした様々なつながりの中に感性働かせて永遠の汝と呼ばれるような超越的存在との関係に生かされる思いを深めることもある。そういう様々なつながりと関係性の中で理性も、感性も、豊に用いて「わたし」の存在を受け止めている。それが人間としての「わたし」なのだ。
だから、そういう「わたし」をめぐる大きなコンテキスト、脈絡とつながり、関係へとパースペクティブを開いていく。そこにスピリチュアルな視点の豊かさがあると考えるのだ。
そうした視点が、医学や看護、心理、あるいは福祉とともにその人の「いのち」を受け止め支える実践の中にこそ、その人がその人として生きるいのちの尊厳を守っていくばがひらけてくるのではないか。必要な支援を生み出していく、あるいはそれを受け取っていくことが可能となるように思われるのだ。いずれ限界をもつ私たちは、守りきらないし、助けられないという現実に立ちすくむ。その時にこそ、この大きなコンテキストの中にある私たちのいのちの豊さを深く味わい、共に生かされていくような視点を持つことが必要なのではないかということが、今回の講演でお伝えしたかったことなのだ。



2019-07-10

死者の声を聴く〜ドラマ『監察医 朝顔』の初回を見て

 少し遅くなった食事を食べながら、つけたテレビのドラマは、久しぶりに心を惹きつけた。主役は上野樹里の演ずる監察医、万木朝顔。彼女の演技は、かつて映画『スウィングガールズ』やテレビドラマ『ラストフレンズ』を見たこともあり、それだけでもこのドラマは面白そうと思ったが、その本当の力に引き込まれたのは、初回の後半だった。

 ストーリーの展開は、いわゆる刑事物の類で、不審な死亡事件の謎が検死によって見出される諸々の痕跡によって解明され、解決されていく展開で、もちろんその亡くなった人物をめぐる人間ドラマによって現代を生きる人々、つまり私たちの日常に隠れた様々な問題が浮き彫りにされてくるというものだ。
 上野演ずるところの朝顔は、遺体に語りかけ、その体に触れメスを入れることに許しを求めながら、教えて欲しい、聞かせて欲しいと願ってから検死を行う。そんな様子に、死者に対する深い敬意、人間とは何かということについてのドラマの姿勢も見えてくる。すでに亡くなって、言葉を奪われたままのその「人」は、もう実在しない。そこにあるのは「遺体」でしかないのだ。しかし、その死者の遺した体は語り出す。その声に聴き続けることでしか、真実にたどり着くことができない。『遺留捜査』とか『アンナチュラル』とも似た設定で、ドラマとしての構成は王道。時任三郎演ずる刑事万木平はその父親でもあり、その親子のやりとりも面白い。


 もちろん、それだけでも、ドラマの面白さは十分に味わえる。ま、ありきたりと言われれば、そうかもしれない。けれど、私がこのドラマに引き込まれたのは、その1時間枠を超える頃、初回延長時間に入ったところだった。このドラマの軸を受け持つ親娘、平と朝顔の背景が描かれる場面。
 事件解決となって、久しぶりに朝顔は父、平とともに母の実家の祖父を訪ねる。その道すがら、この二人の親子の背負う背景が見えてくる。それは、この朝顔の母、そして平刑事の妻はあの3・11の被災で行方不明となったままということだ。あの日あの時、たまたま母とともに母の実家に帰省した朝顔は、その道の途中で震災に遭遇。知り合いのおばあさんを案じた母がその様子を見にいき、朝顔を実家の祖父の元へと向かわせる。仲睦まじく、また思いやりのある母娘の、このやりとりが二人の最後の会話となった。津波以後見いだすことのできない母を探し求めて、最後は遺体安置所にも足を運ぶ。しかし、おそらく何も見出せないままなのだ。
 その後、朝顔は長く祖父の元を訪ねていない。いや、それができないままであるということが、ここで明らかになるわけだが、まさにその事実がこのドラマに深みを与えている。父と二人での旅に硬い表情の中、回想されるその日の様子にドラマを見ているものが事情を察する。しかし、いよいよ祖父の待つ地の駅に降り立つと、朝顔の様子はさらに硬くなる。動けない。動悸がはげしくなって、もう体を前に進めることはできないのだ。PTSDの症状ということだろう。結局、彼女は約束した祖父の元には行かれず、この駅から一人今来た道を引き返すことになった。
 父は、その娘が電車に乗り込むのを見送りながらいう。「一人で大丈夫か。ごめん、ダメなのは父さんの方なんだ。お母さんを探していないと…」具合の悪い娘を一人で帰らせても、この地に残る平には、どうしてもしなければ気のすまないことがある。続く場面では、刑事として持てる捜査技術で、海岸べりを徹底して妻の遺留品を探している平の姿が大写しになる。大事な妻を失った、その時、そばにいることができなかった、後悔とともに、平は妻の「何か」を見出そうと、必死に砂を洗い続ける。彼は、娘朝顔とは違い、八年間、繰り返しこの地を訪ねてそうして過ごしてきたのだ。
 この二人を描く描き方が特にも観る者の心を惹きつけたのだが、とりわけ上野演ずる朝顔の中のある「真実」が色々なことを汲み取らせる。(「惹きつけ」られたのは確かなのだけれど、実は、相当に動揺した。見ていてすぐに「これ放送して大丈夫?」という問いに囚われたと言ったほうがいい。描かなければ、伝わらない真実がある。でも、このドラマがいう通りに、まさに傷ついたままにある人々があるのだ。それをいきなりこうして突きつけられるのは、大丈夫?という感覚。八年たったから?でも八年たっても、というのがこのドラマなのだから。ちょっと、何か字幕ででも、注意喚起があってよかったのではないか。)
 震災の後、復興は進んでいるか。それすら、考えさせられるのだが、復興はその土地に生きた人々に何をもたらそうとしているのか。深く傷ついた人々、大切な家族を失った人々の心には、痛みがあり、過ぎ去らないままの「出来事」がある。過去なのに、もう戻ってくることのない過ぎ去ったはずのことなのに。過ぎ去ることのない痛み、苦しみ、そのどうにもならなさ。それは、その人にどのような時を生きさせるものとなっているのだろう。復興は、そのひとの新しい時間を作り出すものなのだろうか。埋め立てられ、変わっていくその土地の姿の中に、探し求めるものが、もう探せないものとなってしまうだけなのではないのか。いや、それでも作り出そうとする復興の姿は一体何を必要としているのだろう。

 朝顔は、いまだに解かれることのないこの「出来事」のゆえに監察医として生きる今を生きているのだろう。これがきっと、これからこのドラマの展開の中に、より鮮明に見られるものとなるのだろう。
 死者は、確かに「死者」であるに違いないだろう。でも、その「死者」とどう向き合っているのか。そう生きているのか。八年を超える年月を数えても、この喪失に答えを探し続ける人たちのあることを忘れてはならない。

 そして、それは、きっとあの大きな災害の中にだけ起こっているのではない。日常の中に埋もれ、流されていく私たちの確かな関係の、あの人もこの人もやがて時がきて、失われていく。その死者たちと私たちはどのように生きているのか。

 死者の声を聴く。このテーマがこのドラマにどんな深みを見せるものとなるのか。しかし、ドラマ以上に私たち自身が、何を汲み取っていくのか、試されているようにも思ったのだ。


2019-02-15

詩編と祈り 〜音楽のスピリチュアリティーとともに〜

「リラ・プレカリア(祈りの竪琴)」という奉仕活動があります。病床にある方、死に直面している方、また心身の癒しを必要とする方に、ハープと歌を通して祈りを届け、魂の癒しをもたらす働きです。日本で、キャロル・サック氏(米福音ルーテル教会宣教師)によってその活動が始められ、奉仕者養成の講座が12年間続けられて38名の奉仕者が育ち、全国の様々な場所でこの奉仕を続けています。



 この「祈りの竪琴」については、以下のHPに詳しく紹介されています。
       http://www.jela.or.jp/lyraprecaria/index.html

 リラ・プレカリアの奉仕者養成で、最も大切なことは、ハープや歌の技術レッスンではありません。この奉仕者自身が、目の前の一人の人の魂の深い苦しみや嘆きに寄り添い、祈る霊性を養うことです。宗教が何であれ、思い病にあることや死を目の間にする人間の心の奥底にある求め、魂の深みに気づくことがなければ、誰の魂の深みにも祈り持って寄り添うことはできません。

 奉仕者養成は、一つの節目を迎えました。けれども、その養成プログラムには様々な学びがあり、何かを継続することができないか。そんな願いがあちらこちらから届けられました。そこで、そのプログラムの中の一つを公開講座として多くの人々にこの霊性(スピリチュアリティ)を深めていただきたいと、そう願って一つの公開講座を作ることになりました。
 デール・パストラル・センターの「詩編と祈り〜音楽のスピリチュアリティーとともに」です。
 この講座については、以下のHPをご覧ください。
      http://www.luther.ac.jp/news/20190205-02.html

 この講座はキリスト教の長い歴史の中に用いられてきた詩編や礼拝の時の祈りの歌などを通して、人間が「神」と呼び、その信仰を形作ってきたキリスト教の世界に深く学びます。そのことを通して、私たち人間一人ひとりが持つ魂の深い息遣いを知っていくことでしょう。もちろん、学びをする方がどのような信仰をお持ちであっても、この講座を取っていただけますが、そうした内容であることはご理解いただき、学んでいただければと思います。ただ、いずれの信仰をお持ちでも、そうでなくても、私たちが宗教とか信仰といってきたものについての新しい気づきと自身の霊性に大きな養いが与えられることと思います。
 講座は、1期4回。全部で4期まであります。通しで取っていただくことも、バラバラでも構いません。ただ、一つの期はまとまったプログラムですので、そうご理解いただければと思います。
 定員があります。定員を超えてお申し込みがあった場合にはお断りすることがありますので、どうぞそのことも合わせてご理解くださいますように。

すでに、第1期については、定員を超えてお申し込みをいただきました。本当にありがとうございます。第II期につきましては、全く新たにお申し込みいただくことになります。





2018-08-13

「大切な人を看取るために」

ディアコニア講演会の企画。
「大切な人を看取るために」
日時:2018年9月2日午後2時から4時
場所:特別養護老人ホーム ディアコニア(静岡県袋井市山崎5902-167
主催:日本福音ルーテル新霊山教会
後援:社会福祉法人デンマーク牧場福祉会

私たちは、かつては大きな家族として何世代かが一緒に生活をともにして、老いや病でこの世の生涯を終えていく者たちを看取り、その死を受け止めてきた。そうして、今与えられている生の時間の限りあることも、またその時が来れば思いのままにならない不自由を経験しなけらばならないことがあることも、きっと自然に知ることだった。そうして、その命を生きる重みを知ってきたのだろう。
だから、いざ、自分の順番が来たときにも、自分の死を自然な中で受け取って来たし、看取ることも日常の中にそれを成し遂げて来たに違いない。
けれども、現代社会では様相は全く違っている。私たちにとって、私たち自身の「死」の姿は「病院」の中に委ねられ、隠されてきたのだ。死の覚悟もできていないし、看取るといっても、何をどうしたらいいのか、右往左往してしまう。
最期の時を、在宅で、あるいは施設や病院で過ごしていく家族に、私たちはどう向かい合うべきなのか。
ともに考え、学んでいきたい。


こうした、講演会の要請には、できるだけ応えていきたいと考えている。けれど、むしろそれぞれの現場での実践をともに研究したり、学んでいきたいと願っている。研究会のような形で、1年に一度でも企画したいということがあれば、ぜひに学ばさせていただければと、願っている。

2018-05-06

クリスチャンのための終活セミナー

今年は、この手のテーマでお話しする機会が増えます。「終活」「死生観」。
今回は墓地委員会での講演会なので、講演の主題「復活信仰と埋葬」です。


 日本人にとっての「葬」、特に死者供養、遺骨やお墓についての思いを掘り下げつつ、キリスト者がどのようにその思いに向かい合うのか。近年は、直葬や家族葬などの新しい葬のカタチも見出されます。教会の学びや対応、説明はまだまだ十分ではありません。
この時をきっかけに、皆さんの学びと備えが少しずつでも進められると良いと思うのです。

     日時:2018年6月17日午後3時から4時半
     場所:日本福音ルーテル聖パウロ教会

     主催:日本福音ルーテル教会 東教区 墓地委員会

2016-10-14

「死とその記念」における神の祝福

『礼拝と音楽』誌の最新号(171)に表題の拙文をのせていただいた。



 ライフサイクルにおける祝福という特集のなかに取り上げていただいたものだ。
別の雑誌では連載もさせていただいてきたし、関係する書籍を出版させていただいたこともあって、死の問題、また葬儀や記念会についての学びに招かれたり、書かせていただく機会も多くなった。
 今回書かせていただいたなかでは、「祝福された死」という視点と「生きられた生への祝福」という二つの側面を意識してみた。日本的文脈のなかで大切にされてきたいわゆる「死者儀礼」を受け止めながら、キリストの福音が何を応えていくのか問いつつ、記したもの。短いものだが、是非読んでいただければと思う。
  

2016-08-08

『遺体』に言葉をかけること 『遺体:明日への十日間』をみて

『遺体:明日への十日間』石井光太原作、君塚良一監督。西田敏行主演。

                                  

西田演ずる相葉常夫が主人公。現役を引退した相葉は、釜石での民生委員をしていたが、そのときあの3・11の地震と津波が起こる。その被災の最初の十日間が描かれている。
海辺の街は壊滅。助けに駆けつけても、誰もいない。見い出されるのは、亡くなった人たちだ。次々に遺体が安置所となった小学校の体育館に運び込まれる。海水と泥にまみれた瓦礫の中から見出された遺体がビニールシートにくるまれておかれていく。かつて葬儀社にいた相葉は遺体の扱いを知っているとボランティアになって、その場所に行ってひとつひとつの遺体を丁寧に扱い、きれいに並べるように指示をしていく。ビニールシートを毛布に変えて、まわりをきれいに整えるようにしていく。

 そこに家族が探しにくる。少し離れたところで自分たちは助かったけれど、家族を失った、探しに回る家族たち。一緒に逃げていたはずなのに、つないでいた手が引きちぎられて、津波にさらわれた娘をやっと見つけた母。現実は何と残酷なことだろう。生死の境を突然異にしてしまう。
 後悔。助けられなかったことの悔しさ、無力さ。圧倒する死の力に飲みこまれてしまったように、遺された人たちも力を失う。誰もがことばをのみこんで、黙々と作業をする。役場の職員も皆被災しているが、それでも懸命に仕事をする。人を助けることにならず、遺体を収容していくだけのこの仕事に、無力感だけが広がる。

 そのなかで、相葉が声をかけていく。遺体に話しかける。
 「ああ寒かったね。家族の人が来ましたよ。見つけてもらってよかったね。逢えてよかったね。」

 たった一つの言葉かけが、一つひとつの遺体に、その人その人の尊厳を取り戻していく。遺体は単なる死体ではなく、ご遺体となっていく。そこにいる人たちは皆、そのやりとりを聞いて、そこにいのちを落としていった一人ひとりの人としてのそのかけがえのなさをもう一度受け取っていくこととなる。
 遺族は、その必死に見い出したことに慰めを得る。

 人間の、その互いにかわす、一つの言葉かけは、人格的な交わりを取り戻すのだ。その交わりにこそ、人間の尊厳、人間のかけがえのなさを受け取る力がある。

 ならば、神のことばには、なお、その人のいのちを豊かにし、確かなものとする力があると信じられよう。


2016-06-11

キリスト教の死と葬儀〜現代の日本的霊性との出逢い〜

 今まで雑誌『Ministry』に発表して来たものを中心に、これまでキリスト教死生学として著してきたものをまとめて出版することとなった。


 私たちの死と葬儀について、実践的・臨床的な視点で教会の牧会を念頭にして書いてきた。死の問題は、私たち人間にとっては、普遍的な問題であるのと同時に、それぞれの文化的宗教的背景、また時代によっても異なる諸相を見せるものだ。伝統的な日本の宗教風土を持ちながらも、現代という科学・合理主義と非宗教化の時代に生きる私たちが直面している死にゆくこと、生き抜くことにおける課題を見据えながら、キリストの福音の持つ意味を深く考えてきたものだ。
 
 もう二十年前になるけれども、アメリカでの学びの機会を得た。まとめた論文は組織神学の分野で、日本人の死生観とルターの死と復活の理解とのコンペラティヴ・スタディだった。私にとって、6年間の牧会生活で教会の皆さんと共に多くの方を主のみもとへと見送ることとなった経験はかけがえのないもので、論文をまとめていく考察の原点になった。その論文そのものは、すこし堅いものなので、今回のように実践的な形でさらに考察を深めたものを皆さんにお読みいただけるようにできたことは、なによりもうれしいことだ。

 『悼む人』の天童荒太氏との対談もう六年ほどまえに雑誌の企画で実現したものだ。ルーテル学院にまで足をはこんでいただいたのだが、やや緊張していたこともあって、その対談内容よりも天童氏との出逢いそのものの方が印象に残っている。久しぶりに、たいへんピュアな魂と出逢った気がしている。あの『悼む人』を書くのに、自ら悼む人となったと言われたことばは重く感じたし、嘘のない祈りが、あの筆を運ばせたのだと、読者を虜にする文章に納得したものだ。

 牧師の牧会の働きのためにも、また、「死といのち」について教会で学び合うときにも、お役に立てたらと願っている。


2015-06-04

グリーフについての学び

 日本ルーテル神学校付属デールパストラルセンター(DPC)には、3つの部門がある。その一つソシアルの部門は、キリスト教信仰を基にしながら社会のなかに心と魂の深いニーズを持っている人々への具体的に奉仕していく部門で、特に現在は死別の悲しみの中にある子どもとその保護者、まわりの大人家族の悲嘆への取り組み(グリーフワーク)、その癒し(グリーフケア)に特化した働きを展開している。
 そのDPCのソシアル部門がひらく講演会を紹介したい。
 講師は、日本福音ルーテルむさしの教会牧師でDPCの運営委員でもある大柴譲治氏。大柴氏は神学校で牧会学を担当し、臨床牧会訓練のスーパーバイザーでもあるが、上智大学グリーフケア研究所客員所員もされている。


http://www.luther.ac.jp/news/150601/index.html

私たちは、もちろん、有限な存在で、やがて最期を迎えるものだ。だから、人は、いずれのときにか愛する人との別れを必ず経験しなければならないのだが、事故や災害、病気、あるいは自死など、何らかのことで思わぬときに死別を経験することになる。突然の死は、その人の喪失の悲嘆を大きくすることになる。いや、自分自身がそれによって全く失われてしまうのではないかとさえ思うような喪失を経験するのだ。その悲しみは、子どもであっても、大人であったも同じように深く深くその人を捕らえている。

どのように、その悲嘆を和らげることができるのだろうか。どうしたらその悲嘆から新しく立ち上がることができるのだろうか。
深い悲しみの中にある人の傍らで、私たちはなす術もなく、立ち尽くす。
立ち尽くすことから、何が始まるのか。

共に学んでいきたい。是非、おいでください。



2014-07-23

デール記念講演シンポジウム 「スピリチュアルペインとそのケア」


今年4月、日本ルーテル神学校の付属機関としてデール・パストラル・センターが創設された。教会を力づけ、牧師の牧会力を向上させ、信徒の霊性を養うことを目的とした新しい研究・教育機関。パストラル、スピリチュアル、ソシアルの三つの分野で研究を進め、研修や具体的なニーズに応えていくプログラムを教会を中心としながら展開させていこう考えられている。
そのセンターの創立記念に行われるのが、このシンポジウムだ。

ウァルデマール・キッペス先生、窪寺俊之先生、そして賀来周一先生の三名が「スピリチュアルペインとそのケア」というタイトルでお話くださった後、会場の質問にも応えながらディスカッションを行う形ですすめられる。

生と死に直面する魂の痛み、葛藤、苦しみのうちにある一人ひとりにどう向かい合うのか。牧師として、キリスト者として、なにが出来るのか。援助というものの必要と限界を知りながら、「信仰」というものの果たす役割について改めて学んでみたいものである。

7月26日 土曜日 午後1時から4時まで
会場は日本福音ルーテル東京教会。
http://www.jelc-tokyo.org/i_map.html

入場は無料。内容は魅了。

是非、大勢に方においでいただければと思う。

また、報告を書きたい。

2013-10-06

「看取りの心と場」

毎年開催される、ルーテル学院大学、コミュニティ人材養成センター主催の講座「いのちの倫理と宗教」。今年の主題は「看取りの心と場」です。

http://www.luther.ac.jp/news/130919/index.html

 「ホスピス」など終末期医療ということが注目されるようになって、死と向かい合うということが特別に意識されはじめたのは、80年代の終わり頃からでしょうか。90年代、山崎医師による『病院で死ぬということ』が出版され、某テレビ局アナウンサーが自らガン闘病を公にしたことも「死」と向かい合うこと、最期をどのように「生きる」のかという課題、その可能性を広く考えさせる事にもなったように思います。かつては、家で家族に見送られて死ぬことが当たり前だったかもしれませんが、現代は病院で最期を迎えるということが一般的であればこそ、そのあり方について改めて問い直すということになってきたのです。
 しかし、近年はまた逆に病院で死ぬという事ばかりが選択肢ではなく、ホスピス的なことも含めて在宅での終末期のケアを実現することや、住み慣れた施設のなかで最期をすごすというような取り組みも多く見られるようになって来ました。超高齢化社会は、すべての人を病院で看取るほどの余裕もないからこそ、今一度、生涯の終わりを日常の延長のなかで迎えられるような仕組みが考えられているという事かもしれません。
 そこで、こんにちは「看取り」ということも多様な「場」が考えら得れるということになってきました。そうしたそれぞれの「場」において、本人、家族の中にどういう心の状態が見られるのか。そのことにどのように寄り添い、また援助する事ができるのか。そういった問題を考えてみたいと思っています。
 講師には、医師であり牧師である黒鳥偉作氏、ホスピスでソーシャルワーカーとして働く吉松知恵氏を迎え、江藤直純神学校長と私、石居も加わって一緒に考えていきます。
11月18日までに申し込みを!



2013-08-14

『生者と死者をつなぐ』(森岡正博)ということ

 生命学を提唱し、「いのち」の問題に真摯に向かい合う森岡氏のエッセイ集。
 半数近くは、2010年度に書かれたものだが、半分は3・11を経験した私たちが「生きる」ということについて抱く深い問いと困難を正面にすえながら書かれたエッセイだ。
 
                    

 「誕生肯定」「哲学的アニミズム」など新しい概念を用いながら、これまで宗教的な言葉でのみ語られてきた「生きること」の深みにある問題への答えを模索する。森岡氏は、宗教を否定はしないがそれ以外の道で確かな言葉を、自分の頭で考えながら、紡いで行かなければならないという使命感にも似た思いを持っている。かねて「無痛文明」という言葉によって、現代社会の文明批判を展開して来た思いも改めて確認しつつ、私たちの世代が経験してきた「いのち」への問いに取り組んでいる。
 以前紹介した『宗教なき時代を生きるために』に記されているように、氏は決して宗教嫌いではない。しかし、敢て宗教を選ばない道を選んだと言う。だからこそ、「死」という現実を見据えながら、生きる意味を問い、死をこえた「いのち」の豊かさをみいだそうとする営みは「生者」と「死者」との交流、その共生の形を見いだす試みに至っている。「脳死」の問題に深く関わってきた氏の視点は、単なる科学的な生命活動や活動主体としての個人に留まるのではなく、他者との関係の中でこそ生きるものである人間の生の「まるごと」を見ようとする。
 はじめて示された「哲学的アニミズム」という視点は、未だ熟していないが、どんな風に結実してくるだろうか楽しみでもある。
 
 

2013-08-09

『想像ラジオ』(いとうせいこう)の描く世界

 想ー像ーラジオ。DJアークによる軽快なトークとやや古いナンバーを聞かせてくれる番組は、死者たちの、死に切れない魂が交流する世界を描き出す。3・11のあの被災者の断ち切られた生の現実に、あの時圧倒された私たちは、二年半を経て、「復興」という言葉の中で何をみているのか。いつの間にか何か大切なものを忘れていないか。そんな問いかけを「死者の声を聞く」というテーマをもって、想像の世界を描くことで発信した作品といえるだろうか。

                 

 生きとし生ける者、死という現実によって必ずこの世での生を終えなければならない。しかし、その「死」という現実に直面するのは、その死にゆく本人ばかりではない。私たち人間の特殊性は、「共に生きている」という一事にある。だから、関わりの中にある人々は、一人の死の現実に共に直面するのだし、共に部分的に死んでいく。別の見方をすれば、死んでいくものは、その一部の生をまた生きている人々のなかに遺していくのだともいえる。
 もちろん、かけがえのない一人の「いのち」の問題を軽々に他者との関係の中に解消してしまったら、その「個」の「生」の唯一性が軽んじられる危険がある。だから、その人、一人の「いのち」であるという客観性、その自然、その尊厳性を見失ってはならない。けれども、私たちが「関係的存在」としてあるという事もまた忘れてはならないのだと思う。そして、そうした関係のなかで、私たちは生から死という事実の重みを見つめながら、死者は既にないものとするのではなく、死者も共にあるという単純で素朴な私たちの感じ方を大切にしてよいのではないか。死んだ者を軽んじることは、結局は生きる者を軽んじることにもなる。
 そんな死者と共にあるという言い方が、「つまらない」感傷、執着や未練だとして、単なる思い出の中に閉じ込めずに、おそらく人間の文化は長い間その死者とともにある世界を日常としてきたのだろう。現代は、いつのまにか、この世界は生者のものだけになってしまったし、「個」人主義的になってしまったし、そうしていつのまにか「人間」を軽んじる世界になってしまったのではないか。
 この仏教でいえば、中有とか中陰という生者が死者の世界へ移っていく間の状態であろうか。日本の神道的な言い方では、死んだものの霊が新しく、また荒々しい「荒魂」状態から和らいだ「和魂」へと移行する間の時か。せいこう氏は作中で、「魂魄この世にとどまりて」という状態であると描く。
 ただ、こういう世界を描くことで、私たちの存在を深く見つめ直し、生きるということの奥深い「魂の問題」を捉えている。第二章のなかで、作者自身が登場人物を通して、このように死者の声を聞くという言い方が、本当に生きることの現実の問題に答えるのか、また死者とその死を深く受け止めようとしている家族の思いに土足で入り込んでいくことにならないか、など議論して見せてくれるのも重要だ。

 (その不思議な世界にたつ視点は、読むものをある意味では拒絶するだろう。5章立てになっているが、それぞれの描かれる世界がなにかということも、つながりや組み立ても分かりやすくはないかもしれない。でも、分かるということではなく、感じることから読み進むほうがふさわしい。小説としては、なかなかの完成度に感じた。姜尚中氏の『心』や2008年の天童荒太『悼む人』にも似た問題意識を感じたが、独特な手法は、好き嫌いが分かれるかも知れない。)
 
 「木村宙太が言ってた東京大空襲の時も、ガメさんが話していた広島への原爆投下の時も、長崎の時も、他の数多くの災害の折も、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか?しかし、いつからかこの国は死者をだきしめていることができなくなった。それはなぜか?」
 死者の声を聞く想像力こそが、未来の世界を拓く創造力となるという問題意識は、なめらかなDJアークの語りを包む悲しみのベールへの共感から生まれるのだと思う。


2013-08-04

『死を見つめて〜よりよく生きる』

ルーテル厚狭教会で『死を見つめて〜よりよく生きる』をテーマにお話をさせていただいた。「死」という普遍的テーマは、「生きる」ということを深く知る手がかりという性格を持っているが、どちらかと言えば、それについてわざわざ取り上げることは「タブー」とされて来た。しかし、近年は敢て積極的に語られるようになって来たと言ってよいだろう。そうした現代の「死」をめぐる文化を探り、死を見つめることから生を求める今日の日本人のスピリチュアリティーを探りながら、キリスト教信仰における生を深く考察してみた。特に十字架におけるキリストの死と復活が何を私たちの信仰のいのちに与えるのかということを考えてみた。
お集りいただいた方から、すばらしい証をいただき、私自身が教えられ、また導かれた思いを深くした集会だった。

以下、講演のレジュメ。
             
0. 死を知る人間
 宗教、哲学における普遍的テーマとしての「死」
 ソクラテス、プラトン
 パウロ、アウグスチヌス、ルター、パスカル、
 キェルケゴール、ハイデッガー、バルト

1. 「死ぬこと」を積極的に語る文化?
(1)死への備え
  「病院で死ぬということ」「葬式無用論」「平穏死」「エンディングノート」

(2)死を受け止めるスピリチュアリティ 
  「大河の一滴」「葉っぱのフレディ」「千の風になって」

(3)「死」から「生」を問いなおす
   映画『おくりびと』(滝田洋二郎監督)、天童荒太『悼む人』など


2. 現代における「生きること」の課題
   〜天童荒太『悼む人』(文藝春秋 2008)をヒントに 
(1)死者を忘れる=生が軽んじられること?
   「悼む人」が生み出された世界

(2)関係の希薄化
   誰を愛し、誰に愛され、誰に感謝されたか

(3)求められる和解
   関係の崩壊と心の傷


3. 生を支える三つの柱
  小澤竹俊『13歳からの「いのちの授業」』(大和出版 2006)をヒントに
(1)時間の柱
   過去から未来へ  (死と時間を超えて)

(2)関係の柱
   家族・友人  (神との関係)

(3)自由の柱
   自立と自律  (魂の自由)


4. 死を見つめること 
  姜尚中『心』(集英社 2013)をヒントに
(1)生きることの意味
   無意味な死と無意味な生?

(2)どこかが間違っている
   正しいことと間違っていること、白と黒、右か左かを弁別できるのか?

(3)自然と人間の知恵
   自然を支配し、コントロールできるか? 相克のなかで 


5. 信仰における生 
(1)愛された人間の生 
   神に愛されて、求められた生 
    (参照:フランクル『夜と霧』)

(2)赦しと悔い改めの生 
   キリストの愛によって、新しく生きる 他者のための生
    (ルター 「キリスト者の自由〜自由と愛に生きる」)

(3)人間も被造物もともに希望に開かれている
   終末の約束が今すでに (ローマ8:22)
   被造物に対する責任も (創世記2:15)

2013-07-27

姜尚中氏の『心』を読む

   
久しぶりに「小説」を読んだ。姜尚中氏の『心』。小説ではあるけれども、姜氏自身が一人の若い青年と出逢い、交流をするのだが、その青年を主人公としたストーリーである。姜氏とのメールのやり取りを軸として、この青年をめぐる出来事が描かれる。登場人物にはきっとモデルがあるのだろうが、全くのフィクション。ちょうど、「3・11」を挟んでのやり取りとなっていて、リアルタイムな話題はこの小説が何を訴えたいかということをよく表している。
 夏目漱石の『こころ』と同名のタイトルで、読み始めるとその手法においてもよく似ていることに気づかされる。漱石の『こころ』も「私」という一人の青年が「先生」と出会い、と「手紙」による交流によって小説を構成されている。最後の章は特に有名で「先生」自身の若い書生時代の人間関係が描かれ、漱石のエゴイズムの探求を示す一遍だ。
 姜氏の『心』では、漱石とは異なり、青年をめぐる人間模様に焦点が当たり、「先生」である姜氏のそれに戻ってくることはない。この青年が親友(「心友」)の突然の病死や東日本大震災での多く人々の「死」と向かい合うことで、「生」を深く捉えていく青年の「こころ」の成長を描く作品だ。
        

この作品のメッセージは「生きろ」ということだろう。
自然と人間、あるいはさらに人間の中の自然と自然をコントロールしようとする人間の知恵、それぞれの要素が深く絡み合っての相克を抱きかかえている現実。自分の自然な感情や思いに忠実であることに身を任せることも、またあれこれと心を配り、幸せを思い描いて妥協や打算も働く人間のこころの働きも、そのどちらかに偏った判断を下すことを避け、その複雑な人間の現実を抱きしめる。
死や生に向かい合う誠実さを持たねばならないが、その誠実さをも相対化して、したたかにしなやかに自分のありのままを、まず愛おしみ、全てを引き受けて生きろと…。

青年は、「死」のちからとの格闘を続け、姜氏とのやり取りを支えにしながら、人間の生きることの深みを捕まえていく。死と隣り合わせにあることへの恐れをはっきりと自覚したが故に、生きることのすばらしさと喜びのあることへと向かっていく力を身につけていく。

姜氏は、今の青年のこころに、どうしても伝えたいメッセージをこの小説に込めている。それは、今はかなわぬ、姜氏自身の「息子」への思いだろう。いや、その息子から受け取ったいのちへのメッセージだったに違いない。

小説として、必ずしも高い仕上がりとは言えないのかも知れないが、この小説のなかにはたくさん学びの「要素」もあるのだ。
大学生に是非読んでほしい。



2013-06-24

「死をどう迎え、葬儀をどうする」

 6月22日の土曜日は日本福音ルーテル大阪教会を会場にして、「関西一日神学校」が行われた。招かれて、このテーマでお話しさせていただいた。土曜日にもかかわらず、関西の各教会から70名を超える方々にお集まりいただき、しかも大変熱心にきいていただいた。この問題の関心の高さを思わされた。会場でも、また個人的にもご質問をいただき、全てに十分お応えしてお話しすることはかなわなかったけれども、とても豊かな学びを私自身がいただいた時間だった。

 午前と午後に、それぞれ90分二コマというたっぷりとした時間をいただいたので、午前中の枠では、「私たちの死の現実と信仰」を考えるつもりで、「I. 死にゆくこと、看取ること」と題してお話しさせていただいた。一人称の死、つまり自分自身の死と向かい合うということと、「二人称の死」としての愛する者の死を看取る経験をどのように信仰において捉えていくのか。日本の宗教文化、そして現代という時代の中に生きる私たち自身の課題に迫ることを試みた。死に向かい合う魂の問題を問い、全ての人に見いだせるスピリチュアルな課題、ニーズを掘り起こしながら、キリスト教が伝えるべきものが何か、十字架と復活のキリスト二おける救いの約束と希望を学んだ。
 また、午後の枠は「葬儀」ということを考えるために「II. キリスト教の葬儀」としてお話しさせていただいた。これまで同じようなテーマで学ぶ機会があっても、なかなか90分まるまる話させていただくことがないので、たっぷりとキリスト教の葬儀についておはなしさせていただいた。喪の大切さを考えながら、実際的なことも含めてキリスト教葬儀というものについて学ぶことができた。また、「葬」ということは決して牧師の業ではなく教会での出来事であるので、教会が普段から、何を学び、準備すべきかということについても、少し具体的な提案もさせていただいた。

 関西は、父、正己が人生の終わりの時間を過ごさせていただいたところ。多くの教会でお手伝いをさせていただいた。そして、多くの方々に祈られ、支えていただいてきた。教会の方々へは、葬儀以来、それぞれの教会に私が招かれた時にはご挨拶もさせていただいたけれども、なかなか機会もなかったので、今回は皆さんにご報告もかねてお話することができたことは、私個人としても良い時間をいただいたことに本当に感謝したい。また、父が最後のときまで大切にして生きてきた「教会」に対する思いを、私自身も思い起こしながら、皆さんにお分かちさせていただいた思いもある。キリストにある赦し、慰め、希望に生かされるものでありたい。

 葬儀といえば、先だってBSで放映されたこともあって、映画「おくりびと」が思い出される方も多いだろう。あの本木君演ずる小林大悟の納棺の儀式の美しさにいやされ、生前には長くほどけることのなかった死者と遺されたものとの間のわだかまり、もつれた糸がゆっくりと解けていく、その「時」に魅了された方も多いに違いない。
 実際には、納棺師を依頼するなど滅多にないのが普通。あのような見事な業にお目にかかることは少ない。しかし、逆にいえば、臨終から葬儀、火葬など全ての葬の行程に牧師が寄り添い、祈りを持っていることは、いやしに満ちた日本のキリスト教の葬儀の特徴だろう。
 本木君のような美しい納棺の儀式は出来なくとも、牧師は司式者として場を整え、祈りの言葉、みことばの力によって、癒しのミニストリーを務めあげるもの。その所作もまた洗練された「ことば」においても、ある種の「美しさ」が「葬」という最も深い混沌の闇に神様のみ業を映し出すものとして求められるように思う。牧師はそういう司式者でありたいものだ。





2013-05-16

『私たちの死と葬儀〜キリスト教の視点から』(本のひろば 特別号)

 キリスト教関連の新しい出版を紹介する「本のひろば」の特別号で、死と葬儀に関連して短く書かせていただいた。


 近年は、死や葬儀に関連する本が一般書店からも続々と出版されていて、学ぶことは多い。キリスト教の信仰をもって、私たちがこの現代の日本において「死」や「葬儀」という問題を考える時、大切にするべきことは何か。いったい、私たちは今の時代にどんな風に生きて、そして死んでいくものなのか。
 聖書そのものからキリスト教の死生観や死に関わる教義的な説明をする本も実はいくつも出版されてきているのだが、いろいろなものを読んで、学ぶための一助となればと思って書かせていただいた。一般的なことではなく、自分が死に直面していかざるを得ない。その現実とどう向かい合いながら、信仰を生き抜くのか。どのような希望と約束が与えられているのか、確認することが出来るように書いてみた。また、いくつかの参考にさせていただいてきた本も紹介している。ただ、紹介したい本はもっと沢山あるので、このブログを通しても改めて何冊か紹介していきたい。
 この冊子は一般に販売されるものではないので、キリスト教関係の書店などで、何か本をお求めいただき、お尋ねいただければと思う。(「本のひろば」は、30ページほどの冊子で、毎月発行され、年間の講読料1300円ほどである。)

2013-02-07

Ministry 16 「自死」と向き合う


雑誌「Ministry」第16号。今回の特集「『自死』と向き合う」の担当として関わらせていただいた。特集に担当として深く関わらせていただいたのは第7号の特集「みんなで葬儀!」についで二度目のことだが、前回にもましてこの特集を取り組むのに自らを問いただされたという思いが強い。
実際に、この特集の難しさは、まだ誌面作りに入る前、特集を決める会議のときから予想されたことだった。重たい課題で、取り上げるべきテーマと思っても、その取り上げ方にも、また何を語るのかということについてももう一つ踏み込めないような躊躇いが生まれる。「自死」というケースにいろいろな形で出逢い、関わってきた経験が、会議の中で分かち合われ、それだけでも心がいっぱいになっていくのに、逆にことばが薄れていく。一般化することの出来ない問題であるのと同時に、個別なことばがこれほどに重みを持つ課題はないと思われて、「一体どうやって取り組んだらいいのか。」「誰が何を言うのか。言い得るのか。」と、一度は特集を止める雰囲気にまでなりかけたように思う。

それでも、私たち編集にたずさわる者たちは、この「Ministry」が何も語らないでいいか?教会の今の現場に、悩み、立ち止まり、考え、苦しんでいる牧師と信徒の方々とともに、福音を分かち合うという、ただその一事について、訴えるべきことあるのではないのかと問いただされて、取り組むことになった。

実際に、いろいろな所で教会が「自死」者とその近親者に対して取った態度によって、つまずき、傷ついたという経験を聴くことが少なからずある。いわゆる「自死」に対する差別という「悲しい現実」。それは、「自殺は罪」という教会が抱えてきたことばから来る根深い課題なのだ。

それだからこそ、その現場で「福音」が語られ、ともに聴かれるように、私たちの特集が祈りをあわせよう。そんな心が、ことばもなく重ねられて、取り組むこととなったのだ。

ネットを使って多くの方々にアンケートの呼びかけ、ご協力もいただいた。様々な意見をいただいた。この特集そのものへの厳しい問いかけも、また逆に励ましもいただいた。
一つひとつの声には、それぞれの経験から来る思いが込められていることが伝わった。

それだけでも、この特集を組んだ意味を思わされたのだ。取り上げられてこなかった思い、語ることのできない悲しみ、悔しさ。そうしたものがたくさん教会の中に沈んでいる。耳をすまして、聖霊がどのようにうめきをもって取りなしをしてくださっているのか、聴いていきたい。そう思った。

限られた誌面。決して十分なものではないことはよく分かっているが、問いかけられた私たち自身をさらしながら、教会の中に、確かな「主のまなざし」を見いだし、キリストの福音の慰めと励ましとを分かち合えるようにと、記事を書き、編集をしていく皆が取り組んでくださったように思う。

多くの方に読んでいただきたいと、心から思う。


2012-07-15

『いのちと環境』

柳澤桂子氏が、生命科学者として放射能の危険について述べている。



いま、放射能についてあまたの本がでているけれども、読みやすく、また信頼性が高い一冊。いまさらながら、放射能の危険がどういうことなのか学び、確認したいなら、まず手に取りたい一冊だ。知らなかったでは済まされないからこそ、今一度私たちの頭を整理しよう。。
このいのちに対する、見えないしかし恐ろしい力を生み出す原子力は、戦争利用であろうと平和利用であろうと、もはやそんなものに人間は頼ってはならないと、はっきりとした態度を広げていくことが必要だ。


2011-12-12

熊沢義宣『キリスト教死生学論集』

キリスト教的視点に立って「いのちと死」について学んでみたいという人には、必読の書。
     
              

内容は二部構成で、前半第I部が「キリスト教死生学」、後半は「福祉の神学」についてと二つのテーマを深めているわけだが、どちらも神学的な人間理解のうえに成り立っている。
「キリスト教死生学」では、石原謙、金子勇男を手がかりにしながら、ルターの「死の理解」に深く学び、キリスト教における「死」の問題を教義学的に学ぶ試論に始まり、しかし、同時に現代の「心の病」の問題や生命倫理、あるいは「ターミナルケア」の課題など実践的にも深くまた幅広く考察されている。熊澤先生本人が病床にあって書かれたエッセイも含まれていて、人生の大問題としての「死」と向かい合う信仰者としてのまなざしに学ぶべきは多い。特に、「罪」と「死」の関係、また、その救いとしての十字架と神の愛について語られる言葉は、紋切り型の叙述ではなく、「いま、神学する」ということの意味を深く受け止めさせてもらえる。
「福祉の神学」は、長年の「ディアコニア」研究に裏打ちされた叙述で、キリスト教社会福祉とは、何かということを深く教える。「愛のボディーランゲージ」や「救いのパントマイム」といった表現のなかで、「福祉」が信仰に生かされた者が人間として共に生きる喜びを分かち合い、他者に奉仕する務めと理解される。さらに言えば、社会のなかで弱い存在は、その弱さ故に「宝」であり、人間世界を「競争社会」から「共存社会」へと変える特別な役割と価値を与えられ、祝福されていると論じる。
キリスト者として、「福祉」に生きることの基本を教えられる。

(書きかけのままにしてあったもの、書きあげて、公開しました。2013.9.05)