2010-03-14

「日本の近代化とプロテスタンティズム」


この週末は、京都で研究会に出席しました。テーマは「日本の近代化とプロテスタンティズム」。日文研での共同研究である。文学・思想・文化・神学など様々な分野の専門家による学際的研究プロジェクトとなっている。
何をテーマとしようか、いろいろ考えたが、明治から大正期にかけての日本の近代化のなかで、キリスト者たちはどのような主体形成を行ってきていたのかということを考えてみたいと考えている。高倉徳太郎の「自我問題」を取り上げようかと考えているが、はたしてうまくいくかどうか。
その中でいわゆる「武士道的キリスト教」と評される明治の初代クリスチャンの性格がどのように位置づけられるのかを考えたい。夏までの時間で、すこしまとまった形の研究に仕上げたい。

研究会では、「近代」とはそもそも何かという根本的な問いをさらに深めることと、「武士道」とはそもそもなにかという本質的なキータームにある程度の共通理解をもとめる気持も表わされた。今後の研究の歩みをフォローしていきたい。

2010-03-11

「老いと死を生きる」


大学のチャペル裏にあるサクランボのなる桜は、一足早く満開。

昨日は、FEBCの録音で久しぶりにスタジオ入り。特別番組の「今日を問う」シリーズ「老いと死を生きる」のなかの一つを担当させていただいた。
自分が牧師として与えられた経験と「キリスト教死生学」の学びを通して、改めて受け取っていく神様のみことば、恵みを分かち合ウことができればと願っている。
誰もが迎える死、そしてそれに向かう老いの重荷。それでも、神様の恵みをいつでも新たにいただく「時」となりうる。すべては主にゆだねて、与えられたこの時を復活の希望を胸に歩むことができたなら・・・と祈りつつ収録。いつものように、代表であり、パーソナリティー役の吉崎恵子さんにお相手をしていただき、自然な形でお話しをしながら神様の働きを見出させていただいた。感謝。

番組については 以下のURLで確認いただける。
http://aging.febcjp.com/

2010-03-08

教職授任按手式


昨夕、日本福音ルーテル教会の教職按手礼拝が東京教会で行われた。今年は高村敏浩氏一人が按手を受け、牧師として新しい召しを受けた。赴任地は日本福音ルーテル岡山教会・松江教会・高松教会。三つの教会を兼任することになる。
牧師もまた一人の信徒であるし、また信徒は皆ひとしく宣教に召されているわけだけれど、それぞれの置かれている場所において、牧師はその教会の群れを整え、共に主のみことばに生かされていくように特別に仕えるものとされる。それはやはり特別なこと。教会の祈りが実り、日本福音ルーテルの331人目の牧師が生まれた。
北海道から九州まで、多くの教会の牧師信徒が集まり、アメリカからの彼の恩師も駆けつけた。感動的な按手式だった。
彼への按手を通して、集うもの一人ひとりに、牧師が生まれること、牧師を与えられること、牧師となること、牧師を支えることなどについて思いを深め、また祈りを分かち合えたことを信じている。

2010-03-04

「見える一致」をめざして


この柊南天は、市ヶ谷センターの建物わきにさいていた。

昨日は、聖公会とのエキュメニズム委員会が市ヶ谷センターで開かれた。2008年度に国際レベルでのアングリカンとルーサランの対話の成果(ポルヴォー宣言とCCM)が日本語に翻訳されて、出版記念の意味もあって両教会の合同礼拝をしたことでこの交わりがさらに深まってきている印象だ。集まっている委員もそれぞれが敬意を持ちつつ、この交わりから何か新しい宣教の展開が生まれるように願いつつ真剣に、しかし楽しく会議を持っている。
エキュメニズムは、教派をこえて一つのキリストの教会としての交わりができることを目指しているが、とりわけ重要なのは目に「見える一致」の一つの具体化である、聖餐の交わりを共に出来るということである。今の日本福音ルーテル教会と日本聖公会との間では、洗礼の相互承認は協約も結ばれているのだが、聖餐の完全な交わりには至ってはいない。「完全な交わり」という意味は、それぞれの教会で執行される聖餐の礼典を福音に基づき、真の教会において行われる礼典として認めることを意味している。
この交わりの実現において、一番大きな問題はルーテル教会で執行される聖餐の礼典の執行者の問題だといえよう。聖公会では、カトリックと同じように歴史的なエピスコペート(監督職)のもとにあって按手を受けたものがキリストの代理として、この地上の司祭として、礼典を執行するものと認められる。つまり、ルーテル教会、特に北欧系のように古いビショップの伝統がない場合には、そこで牧師職にあるといっても、歴史的な監督のもとにあると認められなければその礼典は有効とは考えられないことになる。その問題について、つまり監督の職務ということについての理解のあり方について議論が重ねられてきたのが国際レベルでの両教会の対話での大きな成果であったといってもよい。
今の日本での二つの教会は、正式にこのエピスコペについての議論に入っているわけではない。しかし、いずれにしても、実践的に両教会の交わりを地域の教会レベルで実現させながら、日本の宣教のために協力し合う関係をつくっていくことを願っている。この新しい対話と交わりの構築が日本の他の教派、あるいは世界のエキュメニズムの交わりに資するものとなるように一つ一つを実らせていきたい。

2010-03-01

神学校の夕べ

昨日、2月28日日曜日の午後4時から日本福音ルーテル教会を会場にして「神学校の夕べ」の礼拝と祝会がおおなわれた。日本ルーテル神学校の卒業生を送るための毎年恒例の行事だが、今年の卒業生は一人。高村敏浩氏。アメリカで神学的訓練を踏まえたうえで、日本の神学校で三年間の研鑽を加えての卒業。式は3月の5日で、翌3月7日に按手を受け、4月には岡山へ牧師として赴任する。良い素質をもった卒業生を送り出すことができることは神学校としてもうれしいことだ。来年は3人の神学生の卒業が予定されている。宣教が厳しい時代の中だからこそ、こうして卒業生を出し続けることができることは何よりも喜ばしい。


しかし、この機会に改めて思う。
神学校は、教会の宣教・牧会現場にある牧師との新しい協力と教育体制、ならびに他の神学校との強い協力関係のなかで集中した神学訓練を実現するシステムを構築する必要があると思う。神学校は百年の歴史を刻み、それこそ私塾のように宣教師館の一室から始まり、専門学校となり、また大学となって大きい成長を遂げたといってよいだろう。けれども、学校経営そのものが困難な状況の中で、現在の体制内での神学校のあり方を今一度考える必要に迫られている。教会も豊富に人材を生み出していく状況にはない。神学教育に専従するスタッフをどのように計画的に養成できるだろうか。現在の学校制度の枠組みにとらえられていくと膨大な資源(お金も時間も人も)を本来の神学教育・牧師養成以外のところに失っていくことになりかねないのだ。
たとえ現在の状況を維持するとしても、10年後の大学と神学校の姿がしっかりと描けるかどうか。神学教育・牧師養成が日本の教会の宣教の展開の一つの要と理解するなら、一刻も早く手を打たねばならないのではないか。