2016-03-27

『わたしを離さないで』

イシグロカズオ 『わたしを離さないで』という小説。


臓器提供のために生まれ、生かされるクローン人間の存在をあつかうフィクション小説。この前まで金曜ドラマとして放映されていた。(http://www.tbs.co.jp/never-let-me-go/)ご覧になられた方もあるかもしれない。彼ら、彼女らは、その出生がクローン技術、そして、ただ必要とされる臓器提供の目的のために生かされているという存在で、人間であるのに、魂のない存在、人権を持たない存在とされている。そんな設定。映画化されたのは2010年。生命倫理の問題に深く関わるので、是非見たいと関心をもっていた。現実的に、そうした状況が生まれかねないし、あるいは、世界の貧困と格差社会の陰で、クローンではなくても臓器提供を目的に人のいのちが売り買いされることもある。だから、こうした問題を取り上げる中で、どんなふうに人間が考察されるのか、その描き方には大きな関心を抱いたのだ。
 けれども、この小説は、そのクローンの人たちの生を描きながら、いのちを生きる意味、人間存在として心をもつことの苦しさ、切なさを問いつづけていて、これは、クローン人間の問題なのではなく、実は、私たち人間がだれでもかかえる問題であることをしらされているようだった。私たちが生きることとは、かならず死に定められた生を生きるということなのだ。その限られた生を生きるということの意味は何か。かけがえのない私という存在は、どこにあるのか。そうした、私たちの魂についての深い問いを投げかけている作品といえるだろう。
 小説のなかでは、クローン人間は当たり前のようにその運命が受け止められているし、また、社会全体がクローンとはそのような存在であるということを至極当然としているので、その異常性についていけないところがある。つまり、感情移入しにくいのだ。それだけに、実は問題が深いということもある。ドラマでは、その辺りにも工夫をしているようだったが、違和感そのものが、ある意味で訴えるものでもあると思う。幾つか、気になるテーマとしてみえてきたものは、私たちの生における自由と支配、記憶と希望、教育、芸術、奉仕のもつ意味。
 なかなか、問いかけの大きさに比して、答の見えない、救いと慰めを得にくい作品でもある。それでも、だからこそ、実は真実味があるのかも知れない。すべてが見通せているわけではないけれど、そんななかで、ギリギリ私たちの紡ぐことばをもとめているようだった。「ありがとう」という関係を、私たちの現実のなかに持ち得るのか…。問いのままだ。私たち人間のその尊厳を、魂の証を、本当に愛するということがどうしてもできない私たちに過ぎないけれども、「にもかかわらず愛する」という関係の中に見つめようとしているように思われた。

2016-03-20

〈アウグスブルク信仰告白〉再考

 昨年の12月にルター研究所から出版された『ルター研究別冊 宗教改革500周年とわたしたち 3』。テーマはアウグスブルク信仰告白だ。
 1530年に、アウグスブルクで開かれた神聖ローマ帝国の帝国議会において公に表されることとなった宗教改革陣営の最初の信仰告白文書だ。メランヒトンによって起草され、ルターによってはじめられた宗教改革的信仰が簡潔に、そして福音主義に立つことを明白にに示されている。だから、いわば宗教改革的教会、つまりプロテスタント教会にとっての記念碑的信仰告白だといえよう。しかし、この国会、そしてまたメランヒトンが誠実に取り組んだのは、ルター派の創設などではなく、むしろ教会の一致のため出会ったと言ってよいだろう。この信仰告白であれば、ローマ側もまた福音主義に立つものも、共に同じキリストの教会として告白できるものであり、教会の分裂を避けることができる。そのような願いが込められた著述なのだ。
 このアウグスブルク信仰告白の新しい翻訳が昨年10月に出版された。あらためて今日のエキュメニズムの文脈において、これを読んでみたいのだ。


   http://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/76539

ルター研究所では、この出版の準備に平衡して昨年はこのアウグスブルク信仰告白について改めてそれぞれの視点から研究発表をして、論文集にまとめあげている。


http://shop-kyobunkwan.com/4863768168.html

内容は以下のとおり。
・まえがき
・三つのE──来たるべきエキュメニズムのプログラム  江口再起
・アウグスブルク信仰告白のギリシャ語訳──翻訳に至った事情とその後の経緯 鈴木浩
・公同の宣教に参与する──アウグスブルク信仰告白とミッシオ・デイ  宮本新
・アウグスブルク信仰告白に見る信仰義認とエキュメニズム  石居基夫
・『アウグスブルク信仰告白』と『和協信条』の聖餐論──エキュメニカル的対話の促進
  と課題について  立山忠浩
・『アウグルブルク信仰告白』 五、七、八条に見る教会とその職務──歴史的またエキュ
  メニカルな考察  江藤直純
・『アウグスブルク信仰告白』 第十六条の「正しい戦争を行う」について  鈴木浩
・<書評> 『争いから交わりへ』(教文館 二〇一五年) 一致に関するルーテル=
       ローマ・カトリック委員会:著  高井保雄

私の論文では、このアウグスブルク信仰告白がもっとも明瞭にしなければならなかったし、また事実そうであった「信仰義認」の神学的主張が、16世紀においては教会の分裂の決定的な要因となったこと、しかし、今日のエキュメニカルな時代においては、その同じ「信仰義認」の神学的軸こそが、エキュメニズムを支え、動かしていく要となっていると論じる。そのようにして、本来アウグスブルク信仰告白が目指した、エキュメニカル(教会一致のため)の目的は500年の時を経てみのりを見せていると、論じるものだ。ご一読を。




2016-03-14

牧会研究会

牧会研究会のご案内です。



日本ルーテル神学校の付属研究所、デール・パストラル・センターは、2016年度から「牧会研究会」を開催することになりました。
かつて、PGC(人間成長とカウンセリング研究所)の時代にも牧会事例研究会を開いていましたが、しばらくその後継がなかなか準備できずにきました。しかし、2015年の2月に臨床牧会セミナーを開き、やはりニーズは高いことを実感致しました。
そこで、少し準備に時間がかかりましたが、2016年度、日本福音ルーテル東京教会(新大久保)を会場にして行います。
毎月一回、第二金曜日午後1時半から3時半まで、全10回の研究会となります。
参加費は10回で2万円となります。
お問い合わせは Emailにてお願いします。E-mail:dpc@@luther.ac.jp
                      (実際には@を一つおとりください。)

牧会研究会各回テーマおよび担当者は、以下のとおりです。

第1回 4月 8日(金)
 【現代人へのストレスケア】
   現代人のストレス問題とケアの方法を考える (担当:堀 肇)

第2回 5月13日(金)
 【教会と一般社会集団の違いから見た牧会上の諸問題】
   教会という集団における人のあり方を探る  (担当:賀来 周一)

第3回 6月10日(金)
 【教会生活・牧会生活の疲れへのケア】
    教会生活の疲れの心理構造とケアを考える  (担当:堀 肇)

第4回 7月 8日(金)
 【スピリチュアルペインについて考える】
   「成熟した宗教性」のみが答えを持つ「苦悩」とは、そしてそのケアのあり方
                        (担当:賀来 周一)
 
第5回 9月 9日(金)
 【ライフ・サイクル上の課題へのケア】
   牧会におけるライフ・サイクル上の課題を考える (担当:堀 肇)

第6回 10月14日(金)
 【自死を巡る牧会上の問題】
   自死と信仰の問題および周辺関係者への牧会配慮 (担当:賀来 周一)

第7回 11月11日(金)
 【葬儀とグリーフケア】
   キリスト教葬儀とグリーフケアについて考える  (担当:堀 肇)

第8回 1月13日(金)
 【生きづらさを抱える人々へのケア】
   障がいを抱えて生きるための勇気と希望はどこから?  (担当:賀来 周一)

第9回 2月10日(金)
 【パーソナリティー障害への対応】
   教会におけるパーソナリティー障害圏の人々への対応  (担当:堀 肇)

第10回 3月10日(金)
 【こころの病を抱えて生きる人と教会】
   こころ病む人々への関わり方と「いやし」のかたちはどうあればよいか?
                            (担当:賀来 周一)

2016-03-06

「3・11を憶えて」 私たちの明日のために、ことばをさがしながら

 今日、夕方の報道ステーションという番組で、あの震災直後の少年野球チームの様子がドラマ仕立てで取り上げられた。あの震災の後、まだがれきが校庭をうずめていて、それぞれ被災した子どもたちも毎日の生活を立て直すことに精一杯のころ、すぐに子どもたちを元気づけたい、取り組まれた陸前高田の少年野球。子どもたちは、練習することだってたいへんだった。からだも心も萎縮して、なかなか思ったようにプレーできない。けれど、そんな自分たちが、本当にこの時だからこそ、しっかりと取り組んで乗り越えるって、心に決める。一試合一試合、勝ち進んで、ついに地区大会優勝で県大会に進む。そこにどんなに子どもを勇気づけたいとおもった大人たちの努力があったことか。

 その勝ち進んだ子どもたちが、親善試合を他所のチームと戦った。そのあと、懇親会で元気いっぱいの子どもたちがみな自分の将来の夢を語っていた。被災していない他所のチームの子どもたちが、大リーグやプロ野球への夢を語る。そのとき、この高田の子たちは何を夢として語ったか。ずーっとチームを指導し、励ましてきた大人たちは、「大きな夢を語れよ」とはげまして見守る。すると、子どもたちが口を開く。「被災した私たちを助けてくれた自衛官になりたい」、「家に住みたい」「仕事がしたい」、「はやく仕事について、親を助けたい」。大人たちは、子どもの心になにがあるのか、想像だにしていなかったと、その時の驚き、その真実をつたえていた。

 大人たちが子どもたちの心に元気をあげたいと、一生懸命取り組む中で、子どもたちは子どもたちなりに、そのときに生きる現実の中で、物事を見て、考えている。どんなに近くにいても、大人が勝手にその心を左右できるわけではないし、押しつけることもできない。子どもであろうと、大人であろうと、その時を生きる精一杯の尊さが、「大きな夢を語れよ」ということばにも、一人ひとりの子どもが紡いだ夢の姿にも見て取れる。そのことばを、ただいとおしく思った。

 あの時から五年、成長したこの子どもたちの今の夢は…あの時と同じだった。それはそれで尊いことだと、言えることもある。しかし、同時にこの五年間、私たちはこの子どもたちに新しいなにかを示してこなかったのだろうかと、ふと思うことでもある。けれど、いずれにしろ、これが現実なのだ。その現実の重さを私たちは復興ということの難しさとして認識する。

 私たちがともに担うべき復興は…。と、軽々しくはいえないのかと思う。それでも、私たちは、何をいま考えるのか。何を今の子どもたちに残すのか。何を伝えるのか。

  東日本大震災から五年。約2万の人々のいのちが奪われ、今も18万近くの方々が避難生活を強いられている現実、また私たちがかかえ続けている原発事故と放射能の問題。私たちはそれらにしっかりと目をむけ、またこころにとめなければならない。そして、明日を生きる子どもたちのために、次の世代の人々のために、いま、このときを私たちはどのように生きていくのか。何を選び取っていくのか。そのことを考えなければならない。

 被災地においても、今は、だれも、憐れみや同情を求めてはいない。それは、ある意味で失礼なことだろう。「手を差し伸べる、なんていったら、何様なのかということだ。彼らは自分たちを自分たちとして生きているのだから。それぞれの現実を生きる。かけがえのないものを。
 それでも、いや、それだからこそ、私たちは共に今のこのときを、ここで生きるものなのだから、本当に考えなければならない。尊厳ある一つひとつのいのちだから。今を生きる私たちとして。

 「共に」「いっしょに」ということばを使ってみたけれど、そのことの難しさを改めて思ってもいる。違うのだ。被災地の子どもたちと他所の子どもたちの描く夢の姿がことなるように、それぞれに向かい合い、背負っているものが。だから、切実に結実することばは、簡単には重ならない。それでも、それぞれをまず知ろう。私たちの明日に向けて、語り合うべきことばを探そう。深い魂の同行をもとめよう。

 日本福音ルーテル教会東教区は、本教会が三年間続けた支援を終えた後、今できる支援を展開してきた。小さなものでしかないけれども、その報告と共に、いまも大きな痛みをおい続ける人々の魂に触れながら、3・11を憶える礼拝をおこなう。



 あの震災当時から被災地に入って、現地の人々との深い信頼関係を築いて、その人々と一緒になってそこに留まり、寄り添うということを考え、実践して来られた伊藤文雄先生によることばは重い。ぜひ、この礼拝に与って、いのりの時をもちたいと思う。