2014-08-06

キリスト教のスピリチュアリティ

今年、日本ルーテル神学校では、「五感のクリスチャン・スピリチュアリティ」という公開講座をひらくことになった。ジェームズ・サック氏が担当してくださる。

http://www.luther.ac.jp/news/140801/index.html

キリスト教は「ことばの宗教」といわれることがある。信仰は、神のことばによって生かされる福音といえるだろうし、特にプロテスタント、ルター派の教会は「説教」、神の語りかけを共に聴くことの重要性を強調してきたといえるだろう。

けれども、同時にこのルター派においても、見えるみことばとも呼ばれる、サクラメント・聖礼典をもその「みことば」という概念の中に含み理解してきたことは意味深い。みことばが「聴かれる」ということにとどまらず、むしろ私たち人間がいきるという現実のなかにしっかりと味わわれ、染み渡っていくものとしてとらえられてきたのだ。

つまり、私たちが神のみことばに生かされ、その福音の喜び、恵みのうちに支え合い助け合うという生の現実は、単に信仰の知的な理解ということにとどまらない、私たちの生きる感覚すべてを通して分かち合われるべきものだと言ってもよいだろう。

私たちにとって、「ことば」は重要だ。しかし、同時にことば以上のことばが豊かにあることで「ことば」そのものが意味を持つのだし、また「ことば」はそうした経験を導き、整え、意味付ける。

「ことば」が、うまく機能しないようなときがある。ことばによっては、そのコミュニケーションが難しい場合がある。病気の時、あるいは小さな子ども、あるいは障がいを持つ場合、認知症のひととの関係。「ことば」がまったく意味をなさないということではないけれど、ことばを超えることば、ノン・バーバルなコミュニケーションが意味を持つ。ふれあうことや微笑むこと、相手を尊厳ある存在として、受け止める態度、雰囲気。そうしたことばにならないコミュニケーションもまた、キリストの福音の伝達、分かち合いの大切な一部なのだ。

世にスピリチュアリティを語るものは多い。けれども、キリストの福音を中心にすえたスピリチュアリティをとらえること、考えること、味わうこと、分かち合うことを深く取り上げているものはまだまだ少ないのではないだろうか。

この特別公開講座が、そうした状況に大きく貢献するものであると信じたい。