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2021-08-16

デール記念講演会「たましいの安らぎ」藤井理恵氏

日本ルーテル神学校附属研究所デール・パストラル・センターでは2014年の設立以来、ケネス・デール先生のお名前を冠しての講演会を開催してまいりました。これは、困難な時代に生きる私たちが互いに支え合い、共に生きるために、何を考え、大切にしていくのか、ともに学ぶための講演会です。


残念なことにはCOVID19をはじめ諸般の事情により、2019年度と2020年度は開催がかないませんでした。

けれども、このたびこのような状況下ではありますが、今この時にこそ、お話をお伺いするにふさわしい講師をお迎えし、オンラインでの講演会を開催いたします。



淀川キリスト教病院ホスピスのチャプレンとして「死の現実と向き合う方々」に寄り添い働いておられる藤井理恵先生から、神の恵みが働くことによって与えられる「たましいの安らぎ」についてお話を伺います。先生は、昨年同じタイトルでの著書を出版されています。




2021年10月2日 午後1時半から3時半、Zoomを用いたオンライン講演会です。


急速に拡大する感染症は、私たちの日常を奪い、またいのちを奪う勢いをとめません。けれども、そのいのちを守り、また支え、祈ることもまた、休みことなく働いています。ひとりの人をケアすることが確かなたましいの安らぎに結びついていく実践がどのように紡がれていくのか。


牧会の現場にある牧師、隣人に寄り添う信徒、また大切な方をなくされ悲しみの中にたたずむ方にも、ぜひお聞きいただきたく、ご案内申し上げます。





専用申し込みにリンクするサイトは以下の通りです。

https://www.luther.ac.jp/lutheran/news/20210629-01.html


お申し込みをいただいた方に zoom参加に必要なID、パスコード、URLなどを差し上げます。





2021-03-22

10年目の3・11〜ドラマ「朝顔」を観て

 ドラマ「朝顔」は その第一シーズン放送開始した第一回目に取り上げた。


死者をして語らしめる。法医学者で監察医の朝顔の仕事は、さまざまな事件の被害者の解剖によって、その「死」に隠された真実を見出すこと。「死人に口なし」という一般的な考えを覆し、死者がその死の只中から何かを伝えていることを聞き取るのだ。見出された真実は、ただ事件解決につながるということだけではなく、被害者家族ら、その死を受け止める者が深い慰めを受け取ったり、その「死」によって断ち切られた何かを取り戻したりする。事件解決ものにありがちな…といえば、その通りだが、「遺体」となった死者自身が語るという、その手法に個人的に自分の関心が重なったのは間違いない。

しかし、ありきたりの事件解決ものとしてのドラマに奥行きを持たせているのが、主人公の万木朝顔の家族ドラマが、「事件」とは別に、しかし、それを反射しつつ「生」の重みを描いているところにある。とりわけその家族ドラマの背景にあの東日本大震災の被災の現実があることが、幾重にも「死」と「生」の深い結びつきを具体的に考えさせるものとなっているのだ。





朝顔は、震災によって母が行方がわからなくなり、10年経っても不明のままである。彼女は、母を失ったそのときの経緯から、母の死に自分の責任を感じてきたが、それはPTSDを伴うものとなって、母を失った地(祖父島田浩之の家)を長く尋ねられなかった。彼女の父、万木平(刑事でもある)は、そんな朝顔を気遣いつつ、しかし、彼は彼として行方不明となった愛する妻、里子を休暇のたびに探し続ける。もちろん、当初は生きた彼女を探し求めたが、すぐに遺体捜索に変わっている。探し続ける平の心は複雑だが、ただ妻を思ってその探し求めることがおそらく彼自身の「生」の支えなのだろう。朝顔の祖父、里子の父は、逆に平に遺体捜索を初めあまり快く思えない。平との関係に微妙な距離があるところが最初の描かれ方であった。一つ家族のメンバーは、それぞれに愛する人の「死」を受け止めようとしているのだが、同じ家族であってもそれぞれの関わりの中で、全く違った課題を抱えていて、それをわかりつつ、お互いにその固有の「きず」に触れることが難しい。生き残った者たちにはその意図は全くないけれど、それぞれの関係の中で愛する者を失った自らの「生」の格闘がお互いを傷つけているかもしれないことを恐れてもいる。こうして描かれ始めたドラマは1シーズン、2シーズンと進んでお互いの思いを率直に語り、またそうでなくても通わせつつ互いに癒やされてもいく。それでも、里子の喪失は、この家族一人ひとりの人生の大きなテーマであり続ける。

震災10年目を迎えることもあって、2シーズン3シーズンを連続して放映。久しぶりの大部なドラマ作りになっている。

やはり、この家族のドラマの方に比重を置いての作品となっている。里子の父浩之は自らの死へ向かい合い、平は認知症と向かい合う。その祖父と父の「生」の格闘を支えつつ、朝顔は新しい自らの家族を作りつつ、命をつないで生きることを見つめていく。

震災10年目を迎えるとき、復興そのものも遅々として進まぬ現実があるけれども、同時にその陰で、被災家族が格闘してきている長い悲しみを思わされている。このドラマはその一つの姿を描いているわけだけが、遺されたものの「生」が、愛する者の「死」の受容をテーマにしながらその傷を癒す時間と人間の絆の複雑さとしなやかさがこのドラマの豊かさとなった。

このドラマを通して、私たちが何を考えるのか、被災家族の痛みの姿に改めて迫るものとして描かれているように思った。

10年、確かにそれだけの時間は平等に過ぎていく。時間は積み重なっていく。けれども、実存的には、それぞれにこの時を受け止め、生きている。

忘れたくても忘れられない記憶。忘れたくなくても風化していく記憶。決して忘れないと抱いて生きている記憶がこぼれるように失われていく老いの現実。

これが命の証だと、遺体の、あるはその持ち物の一部でも、カケラでもいいから見つけたい。その人が待っていると探してあげたい。けれど、もし見出されたなら、どこかで生きているかもしれないという望みが消えてしまう悲しさ。そんなことはもう、とうにわかっている現実ではあっても、複雑な思いが今も抱かれ続けているのだろう。

やがて、それらの記憶は、思いは、切なさは、みな描き消えていくのだろうか。

震災、津波。その激しさを描くことはなかったけれど、その出来事を経験した家族の時間が描かれる。むしろ、この淡々と、しかし切なく流れる家族の時間が、災害を生きるということの一つの側面を描いてくれたように思われた。


付け足し:

一つひとつの事件解決においても、たくさんのいのちの終わりと遺された人々、そして、そこに生きている間には結ばれなかった新たな「絆」(コミュニケーション)が紡がれるところも本当に大切なメッセージでもあった。でも、ここでは触れない。


https://www.fujitv.co.jp/asagao2/cast-staff/index.html

2020-09-08

「いのち」の尊厳を考える〜スピリチュアリティ の視点から〜

先日、ルーテル・医療と宗教の会に招かれ講演を担当させていただいた。
5月開催の予定だったものが、COVID-19の感染拡大の影響を受けて延期されたものだったが、結局オンラインでの開催となった。
牧師としてキリスト教の立場をはっきりと出していわゆる「終活」について、また死と葬儀について、現代日本の脈絡の中でお話しすることは多くあるのだけれど、今回は少しだけ視点は広げて、特定の宗教によらない「スピリチュアリティ」の視点を示しながらのお話しとさせていただいた。



会場は、生まれ育った日本福音ルーテル武蔵野教会をお借りしてのライブ講演であったけれど、さすがに目の前にカメラとモニターを置いて、配信関係の方以外の聞き手のない中での講演というのは、緊張するものだった。カメラに目線を合わせないといけないのだけれど、どうしてもモニターを見てしまう。(世にいうユーチューバーなる方々はすごいなあと感心。)

これまでの日本の終末期医療の現場でスピリチュアリティの研究をくださった方々の成果などに学びつつ、自分なりに宗教者、牧師としての立場から考えてきたことを踏まえてお話しさせていただいた。どうしても限られた時間の中で、一通りのお話をしようと思うので、平坦な語り口になってしまったかもしれない。

従来のスピリチュアリティの研究は、当事者の死と向かい合う実存的な苦しみ、痛みにどのように対応するべきなのか支援のあり方を具体的な臨床において研究してきたものだと思う。その豊さに学びつつ、しかし、今回の講演では、そういう視点からだとスピリチュアリティ の領域はどうしても患者・当事者の実存的なニーズを中心に考えられるものとなってしまうことへの問いかけをしてみたかった。

スピリチュアルなこと(信仰的な問題と重ねるならば)は、実は私たちの問いや必要ということであるばかりではなく、むしろ、神からの働きかけや問いの前に立つということでもあって、人間が中心であることよりもむしろもっと違った大いなるもの(Something Great)からの働きかけの中に自らを置くことから来る畏れや深い癒しの体験でもあるはずなのだ。そうしたことが、宗教者だからこそ、はっきりと語るべきと考えてきた。医学や心理学、あるいは福祉でも、実証的で科学的な議論の積み重ねによって議論がなされるし、またそうでなければ、具体的な問題に対処する実践を提供できないだろう。けれど、「いのち」の問題はいつでももっと神秘的だ。誕生することが I was born.と受け身で語られるように、いのちはいつでも、私たちの選択や自由になるものではなく、与えられるもの、生かされるもの。息を引き取るお方がおられるので、死が訪れる。

そうしたいのちの神秘性を、「存在(いのち)=関係」の視点を持って考えてきた。細胞単位の生命現象は初めから終わりまで一個体の物質的な運動とエネルギーの循環の中に観察される。科学的実証的な理性は、受精の瞬間からこの個体としての運動において命を見ることだろう。しかし、人間である私たちは、「わたし」という存在の中でいのちを生きる。その「わたし」のQuality of Life と言われるところのLifeは、生命であるけれど、生活であり、人生でもある。その中心は抽象的な人間なのではなく、個別具体的な「わたし」であることは間違いない。しかし、この「わたし」は様々な関係の中でこそ、その存在の豊さを生きているのだ
他者との関係、特にも愛するものとの関係、家族や親族、地域共同体の関係の中でその「いのち」の活動が与えられ、保たれているのだ。そして、そうしたつながりの中でこそ、かけがえのない「わたし」を与えられている。あるいは、自然世界、例えば動物や植物などのいのちの循環、さらには水や大地、空気といういのちの源泉になるものとの深いつながり、山とか海とか川とか森などの自然環境こそが具体的な共同生活や文化の土台になっている。さらに言えば、そうした「わたし」のいのちのつながりを観想し、理解し、その本質をとう形而上学的な試みも、またそうした様々なつながりの中に感性働かせて永遠の汝と呼ばれるような超越的存在との関係に生かされる思いを深めることもある。そういう様々なつながりと関係性の中で理性も、感性も、豊に用いて「わたし」の存在を受け止めている。それが人間としての「わたし」なのだ。
だから、そういう「わたし」をめぐる大きなコンテキスト、脈絡とつながり、関係へとパースペクティブを開いていく。そこにスピリチュアルな視点の豊かさがあると考えるのだ。
そうした視点が、医学や看護、心理、あるいは福祉とともにその人の「いのち」を受け止め支える実践の中にこそ、その人がその人として生きるいのちの尊厳を守っていくばがひらけてくるのではないか。必要な支援を生み出していく、あるいはそれを受け取っていくことが可能となるように思われるのだ。いずれ限界をもつ私たちは、守りきらないし、助けられないという現実に立ちすくむ。その時にこそ、この大きなコンテキストの中にある私たちのいのちの豊さを深く味わい、共に生かされていくような視点を持つことが必要なのではないかということが、今回の講演でお伝えしたかったことなのだ。



2020-04-18

ナガミヒナゲシに思うこと

ナガミヒナゲシ
駐車場やちょっとした空き地にオレンジ色の綺麗な花を咲かせている。ここ10年ほどで日本中至る所に広がっているので、名前こそ知らなくても、気づかれた方も多いだろう。「これ雑草なの?」「植えたのかと思った」という人もいる。



ググればすぐわかるが、60年ほど前に東京で初めて観察された帰化植物だ。原産は地中海沿岸だが、今や世界中に広がっている。一果実に千粒を超す小さな種子が内包されていて、一本生えたら10万の種子をばら撒くと言われるほどに、繁殖力が強い。しかも、他の植物よりも圧倒的に強い生命力なので、瞬く間に日本中に広がっているのだ。

数年前から、キャンパスの中にもチラチラと見かけるようになった。ちょうど4月くらいから花をつけ始めるので、見つけると根こそぎ引っこ抜くことにしている。というもの、同じ時期に花をつけるカラスノエンドウ、野芥子、鬼田平子、和たんぽぽ、ヒメジオンなどがキャンパスに自生しているからだ。いずれも、キャンパスの中でいわゆる雑草として刈り取られる運命にあるのだけれど、小学生の時からこのキャンパス近辺で育った自分には、これらの雑草はいわばお友達。それらを押しやっていく外来種を野放しにしてはおけなかった。今年も、毎朝、一本、二本と見つければ、引き抜いている。

なんの疑問も持たないというわけでもなかった。ご近所にはすでに広がっていく様子を眺めつつ、ここにもあるなあと目を楽しませてもらってはいるのだけれど、ここだけは守りたい。君たちに入って欲しくないのだよと、引き抜くのは私のエゴではないのかと。

このなんとなく思っていた疑問が、今年はやけに胸に広がる。というのも、これはいわゆる特定外来生物には指定されていないということを知ったことと、実は今の新型コロナウィルスのパンデミックの状況の中で、現代社会の問題とは何かと考えさせられているからだ。
従来の自然を大事にすると言いながら、ある意味で自然に生えてきたものを駆除するのは人間の意図的なことだ。自然じゃないってことでしょうと、まあ言われても、この外来種は自然にはやってこなかったはずと答えただろう。
それは、ちょうどこのウィルス禍がどうして世界的広がりをこんなに急速に展開するのかということと重ねられる。現代の人間のグローバルな往来とあらゆる「もの」が商品として流通する世界が、自然のままなら機会のほとんどなかった植物の世界的な繁殖を可能にしているのだ。そして、武漢にとどまるべき「新型ウィルス」があっという間に世界の病気として広まる。
つまり、そういう現代世界の現実を背景にしているのは、ナガミヒナゲシもCOVID19もも同じことということだ。

その現象の中、このウィルス禍への対応に見出されるのは排他主義だ。感染拡大を抑えるために様々な経済活動が自粛、制限され、それに応じた補償が議論される時、その背後に誰がこの補償をえるのかという分断と切り捨て。普段の収入がどういう状況か、生活保護を受けている人はその補償の資格を初めから持っていないとか、日本国籍を保有するものだけだとか。同じ地域社会の中にともに生きるているということについて、どのように考えるのか。いつも同じことが繰り返し議論されるが、誰も区別なくこの禍の中に置かれているにもかかわらず、何かを排他主義的に切り捨てていこうとする。日本だけではなく、世界のいろいろなところで見られる状況がある。どうしても難民や路上生活者など社会的弱者はここでも支援から遠いものとされ、後回しにされている。
そんな問題を考えていたら、私がナガミヒナゲシを引き抜くことはこれと同じではと、急に心苦しくなったのだ。何を切り捨てているのか・・・

でもなあ。それなら放っておいて、もともとの自生種が追いやられていくのを放っておくのは果たして、どうなのか?人間がわざわざもたらさなければ、追いやられることもなかったのに、あっという間に新参者に駆逐されるとしたなら?
なんとも複雑な問いの中で、それでも一本一本と抜いていく私って・・・

どうやら、このナガミヒナゲシ、特定外来生物に指定されないのには理由があるようだ。つまり、周辺植物を阻害するアレロパシーはそれほど強くないのかもしれないということのようだ。
もしかしたら共生の道があるのかも。

でも、それはやっぱり長い長い時間をかけていくことなのか。
私の短いいのちに見る価値で判断しようなど、なんと愚かなことよ。
それでも、目の前の草花たちを大事にしたいと思ってしまう執着は、
愛ではなくて煩悩、慈悲でなく罪なのかも。。




2018-06-27

沖縄「慰霊の日」に

6・23 沖縄 慰霊の日

今年(2018年)、この記念式に沖縄に住む一人の中学生の作った詩が、本人によって朗読された。
この記念日に、私たちが何を心にとめるのかということを、これほどまでにすなおに表現された感性に出会って、本当に嬉しかったし、心打たれた。

自分の「今・ここ」で生きる、その当たり前が、どんなに尊いか。その当たり前を本当に当たり前とすることの責任は、誰のものでもなく、私たち自身が何を選び取り、生きていくのかということにかかっている。その当たり前を感じる感性。それを生きる歓び、あるいは切なさ。悲しみも辛さもしっかりと感じること。そして、その日常の中に何が隠されているのか、深く視る知性。社会と歴史の痛みは、人間の生活に刻まれたものだ。それをしっかりと見つめる勇気。その上で、自分の「今・ここ」を明日の世界へとつなげていく決意。

こういう若い方がいる。そう思うだけで、私たちが大人として、「今・ここ」をどのようなものとして残そうとするのか。その責任を重く感じる。
憲法の問題、教育の責任、原発の課題。今、何を論じ、何を決めて行こうというのか。
私たちは、何を決意するのか。

https://twitter.com/motomotom141/status/1011225109346914304

全文を、ここに記録しておきたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

平和の詩「生きる」    沖縄県浦添市立港川中学校 3年 相良倫子

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
 
私は今、生きている。
 
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
 
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
 
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
 
私はこの瞬間を、生きている。
 
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
 
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
 
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
 
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
 
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
 
今を一緒に、生きているのだ。
 
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
 
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
 
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
 
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。

2018-03-01

「アナと雪の女王」を観て

 もう数年前になるけれど「アナと雪の女王」大ヒットしたのは、「ありのままに」という主題歌のメッセージ性とその音楽的な浸透力によるといってよいかもしれない。現代社会を生きる人々にとって、この単純なメッセージに癒された人も多いということだろう。 
 しかし、この作品は単なるヒット作ということでは済まされないような話題作、問題作であったことも記憶にとどめておくべきだろう。なんと言っても、ディズニーの映画としては今までにあまり例を見ないような作りになっていたと思う。 それは、いわゆる「シンデレラコンプレックス」的ストーリー展開を打ち崩すものであったということだ。「白雪姫」「シンデレラ」「眠れる森の美女」「美女と野獣」などの代表作に見られるような、お姫様と王子様のハッピーエンドではないということだ。 



 
ストーリーの展開は、実はそうしたお姫様王子様の物語を意識的に裏切るように組み立てられている。本論に入ってからの前半の中心を彩る形のアナとハンスの恋愛物語は、王子ハンスの裏切りによって、その期待をひっくり返す。そして、その間に伏線を貼りながら、後半に展開するアナの危機を救うであろう相手役クリストフの存在も、彼の「真実の愛」のキスがアナのいのちを救う鍵かと、そのクライマックスを期待させながら、ギリギリでかわされる。その点においても、ディズニーのテッパンを見事に裏切る一作として、この映画の特別な意味を考えさせられるのだ。 

  主人公は二人姉妹。エルサとアナ。全編を貫く主役はおそらく妹アナで、ストーリー展開の軸となる。けれど、その背後でこの物語を成り立たしめるのは、姉エルサの王女としての成長がカギとなる。特殊な能力を持つエルサが、しかし、その現実を受容してほんとうに自分を生きるように成長する。 ストーリーの最後に「真実の愛」が、この姉妹の関係の中に描かれるわけだが、はじめから一筋なアナではなく、むしろエルサの成長というか改心こそがポイントになる。つまり、理想的な愛の形などというものがどこかにあるのではなくて、恐れながらも自分の相手を想う確かな思いにまっすぐに生きることができた時、その「真実性」が見出されてくるということでもあろうか。理想の王子様に包まれるところに愛の形があるのではないのだ。むしろ、相手のためだけをただ想い願うアナのとっさの行動と、それに応えて涙するエルサの深い想い。この愛によってこそ、全てを凍らせた世界が溶かされる。 
 これだけでも、いわゆる 理想として描かれる王子と王女のラブストーリーではなく、姉妹の愛の中に「真実の愛」を描きつつ、人間にとって生きることとは何かと問いかけるのだ。 
 その意味でいえば、エルサの魔法の魔法の力で生まれた雪だるまのオラフ(幼いときの姉妹が仲睦まじい頃作った雪だるまのイメージが重なっている)が、自らを犠牲にして溶けてなくなりながらもアナを救おうとする場面は、(エルサの隠された思いでもあるアナへの真実でもあろうか)大事なメッセージを持っているのだ。しかし、その愛を生きるオラフという存在(雪に過ぎない)のなんと儚いものかということも暗示的だ。人間の中に見られるのは、いつも狡猾な計算によって自己の利益を求める、はるかに打算的なものでしかないのだとも言える。しかし、この儚く、なきに等しい「真実」を忘れてはならないと作品は訴えるのだ。 

  さて、真の主人公でもあるエルサ。彼女は生まれながらに魔法の力を持っている。あらゆる物を凍らせる不思議な力だ。小さいうちは、無邪気な遊びの中にそうした隠された力があることが現れても、誰も気がつくことはないし、傷つくこともない。  ところが、ある時、感情が余ったか、その力が思わぬ形で妹アナを貫く。トロルの魔法を解く力を借りてアナは一命を取り止めるが、エルサの「魔法の力」は、他者を傷つけるものだと知られる。親は、それを隠すようにと命じるし、本人が最も驚きながら、その自分を隠すことが生きる術と心得る。交わりを断ち、閉篭もることで、誰も傷つけまいとする。誰からも望まれる「良い子」であるためには、それが唯一自分にできることと、エルサは、自分を押さえ込んでしまう。この特別な力の発露さえ起こらなければ何事もないはずなのだが、彼女の成長とともに、実はその力ははっきりと現れるようになるし、また、本人は、これをコントロールすることができない。

  そうして年月を過ごすが、両親を事故で失い、エルサはやがて後継として自立しなければならない年齢となる。ところが、他者との関係を最小限にすることでしか生きることはできないと思い込んできたエルサには、この一国の王女となるには壁が大きい。何とか、「魔法の力」が現れさえしなければと努力はするが、結局それが無駄なことと知ることになる。エルサの身体の成長は、「魔法の力」をも大きなものとしていたわけだが、隠し、抑え込むことで対処しようとしてきた彼女には、もはや手に負えるものではなくなってしまっていたのだ。

  エルサは、一人城を出て山に登り、そこに氷の城を作って全く一人で生きようとする。  この時に歌われるのが、「レット・イット・ゴー(ありのままに)」だ。人から離れてさえいれば、自分のありのままの感情もその魔法の力も自由に用いることができるとエルサの覚悟が示される。もちろんそうして関係を絶ったところに、本当の自由があるというのは幻想だ。むしろ、一切の関係を奪われているという不自由さのマントをまとっているのだ。
  この歌は、LGBTのカミングアウトの歌として解釈され用いられているそうだ。確かに、その視点は面白い。(エルサに生まれながらに与えられた特別な力はジェンダーの固有性と重ねられるのか。隠して生きることを強いられること、成長するにつれそれを隠すことはできなくなることなどなど考えさせられることは多い。)
 しかし、単純に自分のありのままの肯定ということが、このストーリーの結論ではないし、この歌もこの場面で歌われる意味と、映画のラストで歌われるところでは、同じことばが歌われたとしても、全く違った意味になることだけは知っておきたい。 
 例えば、このエルサの不思議な魔法が他者を傷つけるものだというそのことが、なぜ、エルサがエルサ自身であることを諦めなければならなかったのか。エルサは自らを隠すことでのみ、生きることが許されると思い込んできた。しかし、隠しようもない自らの命の発露を持ち得るために一人の城を築いてみせた。しかしその孤独もまた、自らが誰であることでもなくなってしまうことではなかったか。エルサがエルサであるということは、他者との関係によってそのかけがえのない ただ一人のエルサその人となり得るのだ。 

 愛すること、愛されることから遠ざかることでは、エルサはエルサとなり得ない。彼女の固く閉ざした扉を叩き続けた妹アナの存在は 何よりもエルサをエルサとして生かす象徴的な存在だったわけだ。そして、実はこうしてエルサがエルサ自身であることを失っていくことは、ただエルサだけの問題なのではない。エルサの深い孤独の剣は、アナのいのちさえも奪う呪いでもあったのだ。 

 物語は、初めに書いたようにこの二人の間の深い関係性の中で「真実」なる関わり(愛)へ呼び出されるカイロスに焦点が当てられているのだった。その真実を求め合う関係は、やはり傷つけることを避けられないこともあるだろう。けれど、もはや「良い子」であることではなく、真実の自分として傷つけ傷つけられても、その真実を求め続けることに覚悟を決めなければ生きられない。「レット・イット・ゴー」は、そうした新しい覚悟の中に歌い直されているように思う。

2017-12-18

『咲いていること』

 
小さな絵本の紹介です。クリスマス用に小さなプレゼントを紹介して欲しいとリクエストがありました。もう、少し前の出版なのですが、すてきな絵本です。ご紹介します。

                   

 『咲いていること』
 一つひとつの頁に、一粒の種が花を咲かせる小さな物語が描かれています。小さな花の小さな物語は、「ただ、そこに咲くだけ」の出来事をたんたんと語ります。その場所に招かれて、そこに咲くこと。種は自分で選ぶことも決めることもできないのですが、それが誰かの慰めや、いやしになるようにと与えられた、その種の存在の意味として受け止められていくのです。とくべつ、何かをするわけではありません。気づかれないままに終わるかも知れない一輪の花なのです。それでも、そこにいのちを咲かせます。
 
 渡辺和子さんの「おかれた場所に咲きなさい」や、松尾芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」の物皆自得にも通じるものがあるでしょうか。みことばの種のことかもしれませんし、私たちのいのちの不思議のことかもしれません。ルターのベルーフ(召命)の考えもみることも出来るでしょう。
 でも、むしろ、この語られた物語をしずかに味わってみていただければ、それでいいのです。子どもから大人まで、だれにとっても読みやすい絵本です。読みながら、きっとこころの奥にひびいてくるものがあるに違いありません。自分自身の、魂の奥に、何かが語りかけられるでしょう。

 イエス様は、誰にも気づかれないような宿屋の厩にお生まれになられました。誰にも顧みられることの無い人々の友となるお方。神のまなざしと愛の御手が誰に向けられているのかを示すように、世界の片隅においでになられたのでした。そのいのちは、人々に慰めと癒し、そして喜びをもたらす存在です。
 この絵本のメッセージとも重なってきますね。
 クリスマスのストーリーではありませんが、クリスマスのプレゼントにしてよい作品の一つではないかと、ご紹介します。

 私の先輩牧師でもあり、敬愛する友、立野泰博牧師の作品です。絵は平岡麻衣子さん。ザメディアジョンから2009年の初版です。
 
 日野原重明先生が推薦の辞を帯に書いていらっしゃいます。

2017-08-07

アニメ「君の名は。」 を見て…

 新海真の「君の名は。」。「秒速5センチメートル」や短編を見て、10代の感性!?をこんなにも率直に描けるのもすごいものだと思っていた。この新作の上映中の人気ぶりが気になって、何度か見に行きたいものだと思ったが、どうにも時間が作れずに断念。
やっと、DVDがリリースされたので、期末の試験期間が終わったその日に、約2時間を楽しみながら、なにか授業につかえるかなと、いろいろ考えながら見てみた。

 「いのち学」関連の授業では、身体と心(そして、たましい)の問題を取り上げている。キリスト教的には、身体からたましいは離れて存在しない。死んで、魂だけになって天国に行くというのは、もともとヘブライの思想にはない。そう考えるのは古代ギリシャ哲学、プラトニズムの伝統。この系譜は実はキリスト教の中にもおおいに影響を与えたし、近代デカルト以降の心身二元論にも影響している考え方だ。あるいは輪廻を考えるインド的思考も魂が自我に執着した影のようなものであったとしても、身体から離れたものとして存在すると考えている。人間のいのちを考えるとき、そうした心身二元論、魂だけの存在を積極的に考えることにどんな意味があるかと問う。
 (もちろん、キリスト教が魂を語ることに消極的なのではない。ただ、魂だけの存在ということにあまり積極的ではないということだけは確認したい。それは、この身体をもってのみ、その人がその人であるという神の創造の意図が働いていると理解するからだ。身体もこの世も、それが神の創造されたものであるという理解、そしてその肯定がなによりも現実への責任的存在としての人間存在を考える基礎なのだと。21世紀、この世界がウェブで結ばれ、時空を超える自由な魂の行き来を可能にしたとさえ思われる時代。私は、これを「ITプラトニズム」と呼んでいる。そんな時代だからこそ、じつはこの世界と身体を生きる意味を説くべきというのが私の思い。)
 すこし、この作品で考えたことをメモしておきたい。
 

 (ネタバレ・ストーリー) 
 高校生の‘三葉(みつは)’と‘瀧(たき)’は、偶然にもある日魂の入れ替わりを経験する。逆にいえば、年頃の男子と女子が身体の入れ替わりを経験するという、「いかにも」といった設定。東京の都会慣れした‘瀧’と岐阜の田舎育ちの‘三葉’。不思議な魂の入れ替わりは、単なる夢のように一日限りの出来事のようでもあったけれど、実際は繰り返されてそのうちにお互いにそれが夢ではなく、確かに魂の入れ替わがおこっているものと受け入れていく。もっともそれ自体も夢のようなものとして感じられていたかも知れない。入れ替わっている間の約束事も決めながら、それぞれが互いの人生に深く触れつつ、入れ替わったもう一つの人生を楽しんでいく。けれど、そうしているうちに、その入れ替わった相手に深い思いを抱くことになる。淡い恋…のはじまりを予感させる。が、その思いに自分たちが気づいたとき、その魂の入れ替わりがおこらなくなる。
 瀧は、どうしてももう一度三葉に合いたいと、自分が入れ替わっている間に見たその風景を絵に描き、それをたよりに彼女を訪ねにいこうと決心する。なかなか見つからないが、やがてその場所は3年前に彗星の割れた片割れが隕石となって落下した場所で町が一つ失われた場所だということが分かる。そして、その相手である三葉は、そこでいのちを落とした被害者の一人と知る。
 
 そのとき、はじめてこの二人の魂の入れ替わりが時空を超えるものだったことが知られるのだ。しかも、つまり、現実には死んだものの魂との交流であったと理解される。
 この切なくも不思議な物語は、ここで終わらなかった。瀧は三葉といまいちど魂の入れ替わりをもとめた。自分なら、この惨劇から彼女を救うことができる。いや、彼女だけではなくこの町の壊滅的な災害から町の人たちを避難させることができる。あの時にもどれば…。それをなんとしてもしなければと。
 
 果たして、魂の入れ替わりは起こり、計画は進められるが高校生が現実を動かすことなど遥かに難しく、あきらめかける。が、その最中、三葉と瀧は時空を超えた出逢いを奇跡の時間「たそかれ」に、経験する。そしてふたたびもとの身体に帰った三葉は、おそらく町長である父の力をもって町の救済を成し遂げる。ただその全ては映画には描かれない。しかし、あの被害にあった人々の記録はおそらく書き換えられて、奇跡的に助かったということになっている。そして、そんな魂の入れ替わりがあったことは、すぐに記憶からきえうせてしまう。

 ただこの二人の魂は、それでも相手を求めてふたたび奇跡の出逢いを成し遂げてこの映画は幕となる。

  


〜〜アニメ「君の名は。」を考える〜〜
 
 人の不思議な出逢い。巡り逢い、相手を深く求め、知り合っていくという奇跡。人が生きていく時にかけがえのない人と出会う。その出逢いの中でこそ、人は成長していく。いつもの新海氏のテーマがここでもストレートに語りだされる。

 恋愛の不思議には、誰にも覚えがあることだろう。そうした魂の出逢いの奇跡には、隠された、そして決して思い起されることのない魂の交換がある。この映画は、そんなロマンスを描いているようにも思われる。私たちが覚醒し、理性によって自分を秩序立てていることだけが、真実なものなのか。それはそうであっても、もっと豊かな、目に見えない「つながり」を人間の生の奥に見つめている。それがこのファンタジーが見るものを惹きつけるのだろう。

 けれど、この映画には、本当はもう一つのメッセージをもっている。というか、ストーリーの展開によって、見ているものは、そこへと誘われるのだ。
死者の霊との交わり。
 実は、この物語の深みはここにある。3年のタイムラグがある魂の入れ替わりという、隠されていた設定がこの確かな交わりが現実の世界ではけっして起こりえない二人の出逢いを造り出したのだった。
 三年前、彗星の破片隕石落下が彼女を含めた町そのものを消し飛ばしていた。この出逢いは、今は死者となっていた人の魂との交流であったという現実が、次第に輪郭を表してくるのだ。切なさと捕まえようのなさ。

 時空を超える魂の行き来は、人間の存在というものへの一つの考えかたであろう。事実、私たちはきっとコンピューターを媒介にしてこのウェブの世界のなかにそうした時空を超越するもの、永遠なるものをかいま見ている。だからこそ、こうした設定がリアルに迫ってくるのだと思う。

 この人の魂の交流の不思議に淡いストーリー。過去に戻って彼女らの町が救い出され、そして、その彼女との再会まで果たしてしまうという、ハッピーエンドは、大勢の人たちの満足を造り出したことだろう。これが驚異的な興行成績に繫がったことは間違いない。

 しかし、このハッピーエンドへと進ませたことは、いくらファンタジーといってもいただけなかったというのが個人的な感想だ。いや、ハッピーエンドが悪いわけではない。ただ一点。過去を書き換えたこと。これだけは、いただけなかった。

 ファンタジーなのだから、なんでも可能でいいのでは?
 そうかもしれない。

 けれど、やはり過去は変えられないし、死者は生きかえらない。
 いくら魂が時空を超えるからと言っても、現実の世界の過去を変えることは出来ない。ここは、どうしても超えてはならないのではないか。

 確かに、そうした原則がいとも簡単に超えられていくところが、この「SFファンタジー」というものなのだろう。今までもそうしたファンタジーはいくらでもあるのだ。タイムスリップもの。昔、アメリカのテレビドラマだったが、吹き替えで「タイムトンネル」という番組があったのを思い出す。二人の主人公が過去に行き来するSFだったが、そこでも歴史を書き換えてはならないということがお約束だったように記憶している。むしろ、時間旅行をしたために書き換えられそうになるその小さな違いを修正していくところがドラマ展開だったかと思う。もうさすがに幼少のことだったから憶えていないけれど…。あるいは、バック・トゥ・ザ・フューチャーは90年代の一大SFファンタジーのシリーズとなったのは記憶に新しいか…。
 
 とにかく、時間を超える行き来がもし可能なら、過去を書き換えたいと、思うのはごく当然の気持ちだろう。しかし、それは踏み込んではならないところなのだ。
なぜか。
 もしも過去が書き換えられたとして、そうなったとしたら、実際は、もはや書き換えられた過去は存在しないのだから、書き換えられえた事実もなくなるのであって、いっさいは全く異なった世界となるだけなのだ。それをハッピーエンドと呼ぶのは、その書き換えがあったということを知るファンタジーの読み手、ここでは映画を見ている者だけのものになる。そして、それは、実はすべてが虚しく消え去るだけなのだ。
 あるいは、ハッピーエンドというのは、その書き換えられる以前のひとりの人生のストーリーという本当に小さな一つの視点から見られたハッピーエンドでしかない。他の生きられた無数のストーリーの幸せは、この書き換えによって、見事にかき消されてしまうということになる。それは、果たしてハッピーなのだろうか。
 あるいは、もしそれが可能ということになると、実は過去はいつでも改められる可能性があって定まることがない。皆が、瀧や三葉のように過去を変えることにエネルギーを注ぎだしたらどうだろう。そうなると、もはや新しい時間を刻むことができないのだ。
 
 いや、そういうことを言うとファンタジーが成り立たないでしょうと、言われればその通りなのだけれど…。でも、過去の書き換えは、ファンタジーのなかであったとしても、禁じ手ではないかと思われるのだ。時空を超えるという交流とか出逢い、死者との交流をよしんば可能としても、してはならないこと。過去を書き換えるということは決して出来ないと知るべきなのだ。もっとも、敢えてそれをしてみせるのがファンタジー。そして、そうは出来ない現実を深く考えるように誘うものか。そうであればいいのだが、果たしてこの作品から、そうした問いまで届くかしら。

 むしろ、変えることのできない過去、生き返ることのないいのちのせつなさを抱きしめながら、それがありのままに受け止められて、あたらしいいのちの時間を刻んでいかれるようにファンタジーは描かれて欲しい。

 瀧は、生き返ることのない三葉のいのちをかけがえのないものとして、誰にも変わることのないその一つの命として、いとしく抱きしめて、それでもなお、自分自身の未来を描いて生きていかれるか。そのための力を得るようなストーリーこそがファンタジーに求められるのではないだろうか。

 この映画。彗星の破片が巨大隕石として落下して、町を飲み込んだ壊滅的惨劇をうみだしたという隠し球。しかし、それから8年の歳月がたったというところがラストの現在だ。
見ているものには、あの3・11の映像が二重写しになる。ならざるを得ないはずなのだ。そして、あの地震と津波で失われた命を思い、その魂とのつながりにかけがえのないいのちの切なさを思わずにはいられなかったはずなのだ。

 けれど、この現実は、決してあの時にまでもどってやり直すことは出来ないと、私たちは知っている。知っているけれど、あの失われた一人ひとりは、決して虚しく消えたわけじゃない。それぞれのつながりに生きて、その一人ひとりとの出逢いが、つながりが重ねられたはずなのだ。その絆、つながりが私たちのうちに憶えられるとき、そのいのちのかけがえのなさの真実が、より確かな意味を持つことになる。

 (憶えていた人が、もうひとりもいなくなるって?そう、だからこそ決して忘れることがないという永遠者の存在に、確かに導かれざるをえないのだが。)

 過去は変えられない。だから切なくも、もうかえらない。合うことは出来ない。しかし、それにも拘らず、そのいのち一つひとつへの私たちの感性が開かれるなら、その切実さをもって、私たちは生きている者たちだけではなく、死者もともに生きる明日を切り開くものとなる。
 誰もが、限られた時間を生きる。このいのちのかけがえのなさを、やり直すことのできない現実の中でこそ、私たちは知るのだ。
 
 安易に過去を変える誘惑に負けてしまうと、生きる時間はすべて虚しくならないだろうか。書き換えることのできない刻を刻むいのちの切なさ、切実さを、私たちはしっかりと抱きしめたいのだ。

 まあ、アニメはそれなりに面白かった。楽しめた。しかし、なんだか、逃げられた感じだったのだ。その何となく残った心の奥の寂しさのわけを、そっとたどってみただけなのだが…長くなってしまった。



2015-06-19

「日本人の死生観 〜そのスピリチュアルニーズとキリスト教〜」

 リラ・プレカリアは、「祈りのたて琴」として知られているが、アイリッシュ・ハープを用いて、必要とする人たちに祈りの音楽を提供する活動だ。高齢の方、重い病気の患者さんや心に傷を持った人たち、また災害にあったり、愛する人を失った方などに、寄り添いつつ、ハープと歌の音楽が永遠とその人をつなぐ。
 この活動をする人たちを養成する二年間プログラムをJELAが提供している。
 その中の一講座を公開して、一般の方々にも聞いていただいている。その公開講座の最終を受け持った。


 講演は「日本人の死生観〜そのスピリチュアルニーズとキリスト教〜」。今日の日本人は、私たちが「死」という問題にどのように向かい合っているのか。東日本大震災やISのテロなどの経験は、特別な出来事だけれども、現代を生きる私たちの魂の深い問題を照らす出来事でもあった。そんなことを説き起こしながら、具体的に、今、死と向かい合う魂にどのように寄り添い、援助できるのかを共に考えた。
 天童荒太の『悼む人』、いとうせいこう『想像ラジオ』、姜尚中『心』、若松英輔『魂にふれる』などを紹介しながら、現代の私たちが死んだ人の魂に向かい合い、死者の声を聞いていくことで、今を生きることの意味を受け取ることやあるいは今を生きる魂の深い痛みに寄り添う力も得ることができるのではないかと、そんなことも含めての話をさせていただいた。
 人間の理想的な姿ではなく、むしろ現実の破れや傷ついた関係を生きる私たちの悩み、苦しみ。やすらうことを失った放浪の魂の現実を、罪の問題として考察を試みてみた。
 ルカ15章の放蕩息子のたとえも用いて、神からのアプローチこそが、本当の救いの鍵になること。そのメッセージに生かされて、その福音を示すことば、そして、ことばではないことば(働き、奉仕)のなかにどこまでも私たちを捨てておかない、寄り添う神の愛を分かち合う鍵を分かち合うことができたかと思う。
 より具体的には、認知症の方々やその人と共に活きる私たちのスピリチュアリティーの問題にもふれた。
 

 

2014-07-23

デール記念講演シンポジウム 「スピリチュアルペインとそのケア」


今年4月、日本ルーテル神学校の付属機関としてデール・パストラル・センターが創設された。教会を力づけ、牧師の牧会力を向上させ、信徒の霊性を養うことを目的とした新しい研究・教育機関。パストラル、スピリチュアル、ソシアルの三つの分野で研究を進め、研修や具体的なニーズに応えていくプログラムを教会を中心としながら展開させていこう考えられている。
そのセンターの創立記念に行われるのが、このシンポジウムだ。

ウァルデマール・キッペス先生、窪寺俊之先生、そして賀来周一先生の三名が「スピリチュアルペインとそのケア」というタイトルでお話くださった後、会場の質問にも応えながらディスカッションを行う形ですすめられる。

生と死に直面する魂の痛み、葛藤、苦しみのうちにある一人ひとりにどう向かい合うのか。牧師として、キリスト者として、なにが出来るのか。援助というものの必要と限界を知りながら、「信仰」というものの果たす役割について改めて学んでみたいものである。

7月26日 土曜日 午後1時から4時まで
会場は日本福音ルーテル東京教会。
http://www.jelc-tokyo.org/i_map.html

入場は無料。内容は魅了。

是非、大勢に方においでいただければと思う。

また、報告を書きたい。

2013-10-06

「看取りの心と場」

毎年開催される、ルーテル学院大学、コミュニティ人材養成センター主催の講座「いのちの倫理と宗教」。今年の主題は「看取りの心と場」です。

http://www.luther.ac.jp/news/130919/index.html

 「ホスピス」など終末期医療ということが注目されるようになって、死と向かい合うということが特別に意識されはじめたのは、80年代の終わり頃からでしょうか。90年代、山崎医師による『病院で死ぬということ』が出版され、某テレビ局アナウンサーが自らガン闘病を公にしたことも「死」と向かい合うこと、最期をどのように「生きる」のかという課題、その可能性を広く考えさせる事にもなったように思います。かつては、家で家族に見送られて死ぬことが当たり前だったかもしれませんが、現代は病院で最期を迎えるということが一般的であればこそ、そのあり方について改めて問い直すということになってきたのです。
 しかし、近年はまた逆に病院で死ぬという事ばかりが選択肢ではなく、ホスピス的なことも含めて在宅での終末期のケアを実現することや、住み慣れた施設のなかで最期をすごすというような取り組みも多く見られるようになって来ました。超高齢化社会は、すべての人を病院で看取るほどの余裕もないからこそ、今一度、生涯の終わりを日常の延長のなかで迎えられるような仕組みが考えられているという事かもしれません。
 そこで、こんにちは「看取り」ということも多様な「場」が考えら得れるということになってきました。そうしたそれぞれの「場」において、本人、家族の中にどういう心の状態が見られるのか。そのことにどのように寄り添い、また援助する事ができるのか。そういった問題を考えてみたいと思っています。
 講師には、医師であり牧師である黒鳥偉作氏、ホスピスでソーシャルワーカーとして働く吉松知恵氏を迎え、江藤直純神学校長と私、石居も加わって一緒に考えていきます。
11月18日までに申し込みを!



2013-08-15

8月15日に 「平和」へ向けて生きる

多くの戦争犠牲者のことを憶え、平和への思いを新たにする日。

ここのところ、死者との交わりについて書かれたものを数冊続けて読んだ。
姜尚中氏の『心』、いとうせいこう氏の『想像ラジオ』、そして、森岡正博氏の『生者と死者をつなぐ―鎮魂と再生のための哲学』。いずれも、死者の声を聞こうとしている。それを求めている。あるいは、そのことが、生きることを問い直し、本当に大切なものを取り戻す一歩になると訴えているようだ。

 戦火のなかで、一体、どんな声が叫ばれたか。どんな思いが断ち切られたか。
 それは、私たちと同じ日常を生きていた一人ひとりの魂の声なのだ。

私たちは、今日、改めて、私たちは誰とともにこの生を生きているのか、思い起こしたい。それは、ただ「生きている」人々の事だけではなく、すでに「死んでいる」人々も含めて、私たちのいのちがどこからつながり、どんな思いや祈りを引き継ぎながら、生きているのかという意味で、私たちが、誰とともに生きているのか、問うてみるということだ。

お父ちゃんやお母ちゃん、じいちゃん、ばあちゃん。おじさん。おばさん。具体的なつながりの中で、思い起こしながら、この生を、「今、生きること」を受け取っていきたいのだ。

戦後63年、原爆を、戦争を知らない世代は、日本の公教育ではすっぽりと近・現代が抜け落ちていて、本当に戦争の恐ろしさを知らないで育って来た。しかし、3・11の大きな災害と事故は、大規模ないのちの危機について深く考えさせることになった。若い世代も、改めて大量のいのちが奪われる恐ろしさを感じはじめている。生きることの価値を今一度確かめようとしている。だからこそ、今、私たちは何を求めているのか、自分の問いをまず確かめよう。

世界規模の経済的危機が、おそらくナショナリズムを喚起している。権力者は格差社会の鬱憤を仮想の敵をつくる手法で、相も変わらず、こうしたムードをあおろうとしているかのようだ。国際的な関係の中で演出される危機。それは真実なのだろうか。

私たちは私たちの問いを確かめ、私たちの求めているものが何かを確認しよう。「いのち」から「平和」へと結びつけ、世界の人々、民族、文化、宗教が共に生きることへと、私たちの軸足を運ぼう。そのために私たちが聞くべき声はどこにあるのか。

そういえば、少しまえに、葬儀礼拝の問題を論文で取り上げた時、その一番最後に死者との連帯ということを書いたことを思い出した。石牟礼道子氏の『苦海浄土』をひきながら、死者の声を聞くことを、私もまた強く考えたのだ。

http://ci.nii.ac.jp/els/40006997569.pdf?id=ART0001236055&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1376519187&cp=

けれど、そこで私は単なる死者との連帯で終わるのではなく、キリスト者は、まずこの人間的な私たち自身、生きているものも既に召されたものも、主のとりなしと浄めが必要であることを忘れてはならないと記した。私たちの、生(なま)の思い、生(なま)の声はまた、あまりに人間的で、怒りや憎しみの連鎖と化すこともあり得るからだ。

そうだ。単に死者の声を聞くだけではない。その先に、何よりも確かな、主の声を聞く。あの十字架に死にたもうお方の声を聞かねばならない。あの十字架で私たちを死んでくださり、そして、復活のいのちへの道を示されたお方。その声に聞く。それは、決して他の大勢の死者の声をないがしろにすることではない。他でもなく私たち全てを死んでくださったお方なのだから。そこからが私たちの新しい、軸足の定まるところと心得たい。

平和を願い、私たちがそのために何を生きるか。そのことを、今日、あのお方と考える。

2013-08-14

『生者と死者をつなぐ』(森岡正博)ということ

 生命学を提唱し、「いのち」の問題に真摯に向かい合う森岡氏のエッセイ集。
 半数近くは、2010年度に書かれたものだが、半分は3・11を経験した私たちが「生きる」ということについて抱く深い問いと困難を正面にすえながら書かれたエッセイだ。
 
                    

 「誕生肯定」「哲学的アニミズム」など新しい概念を用いながら、これまで宗教的な言葉でのみ語られてきた「生きること」の深みにある問題への答えを模索する。森岡氏は、宗教を否定はしないがそれ以外の道で確かな言葉を、自分の頭で考えながら、紡いで行かなければならないという使命感にも似た思いを持っている。かねて「無痛文明」という言葉によって、現代社会の文明批判を展開して来た思いも改めて確認しつつ、私たちの世代が経験してきた「いのち」への問いに取り組んでいる。
 以前紹介した『宗教なき時代を生きるために』に記されているように、氏は決して宗教嫌いではない。しかし、敢て宗教を選ばない道を選んだと言う。だからこそ、「死」という現実を見据えながら、生きる意味を問い、死をこえた「いのち」の豊かさをみいだそうとする営みは「生者」と「死者」との交流、その共生の形を見いだす試みに至っている。「脳死」の問題に深く関わってきた氏の視点は、単なる科学的な生命活動や活動主体としての個人に留まるのではなく、他者との関係の中でこそ生きるものである人間の生の「まるごと」を見ようとする。
 はじめて示された「哲学的アニミズム」という視点は、未だ熟していないが、どんな風に結実してくるだろうか楽しみでもある。
 
 

2013-08-09

『想像ラジオ』(いとうせいこう)の描く世界

 想ー像ーラジオ。DJアークによる軽快なトークとやや古いナンバーを聞かせてくれる番組は、死者たちの、死に切れない魂が交流する世界を描き出す。3・11のあの被災者の断ち切られた生の現実に、あの時圧倒された私たちは、二年半を経て、「復興」という言葉の中で何をみているのか。いつの間にか何か大切なものを忘れていないか。そんな問いかけを「死者の声を聞く」というテーマをもって、想像の世界を描くことで発信した作品といえるだろうか。

                 

 生きとし生ける者、死という現実によって必ずこの世での生を終えなければならない。しかし、その「死」という現実に直面するのは、その死にゆく本人ばかりではない。私たち人間の特殊性は、「共に生きている」という一事にある。だから、関わりの中にある人々は、一人の死の現実に共に直面するのだし、共に部分的に死んでいく。別の見方をすれば、死んでいくものは、その一部の生をまた生きている人々のなかに遺していくのだともいえる。
 もちろん、かけがえのない一人の「いのち」の問題を軽々に他者との関係の中に解消してしまったら、その「個」の「生」の唯一性が軽んじられる危険がある。だから、その人、一人の「いのち」であるという客観性、その自然、その尊厳性を見失ってはならない。けれども、私たちが「関係的存在」としてあるという事もまた忘れてはならないのだと思う。そして、そうした関係のなかで、私たちは生から死という事実の重みを見つめながら、死者は既にないものとするのではなく、死者も共にあるという単純で素朴な私たちの感じ方を大切にしてよいのではないか。死んだ者を軽んじることは、結局は生きる者を軽んじることにもなる。
 そんな死者と共にあるという言い方が、「つまらない」感傷、執着や未練だとして、単なる思い出の中に閉じ込めずに、おそらく人間の文化は長い間その死者とともにある世界を日常としてきたのだろう。現代は、いつのまにか、この世界は生者のものだけになってしまったし、「個」人主義的になってしまったし、そうしていつのまにか「人間」を軽んじる世界になってしまったのではないか。
 この仏教でいえば、中有とか中陰という生者が死者の世界へ移っていく間の状態であろうか。日本の神道的な言い方では、死んだものの霊が新しく、また荒々しい「荒魂」状態から和らいだ「和魂」へと移行する間の時か。せいこう氏は作中で、「魂魄この世にとどまりて」という状態であると描く。
 ただ、こういう世界を描くことで、私たちの存在を深く見つめ直し、生きるということの奥深い「魂の問題」を捉えている。第二章のなかで、作者自身が登場人物を通して、このように死者の声を聞くという言い方が、本当に生きることの現実の問題に答えるのか、また死者とその死を深く受け止めようとしている家族の思いに土足で入り込んでいくことにならないか、など議論して見せてくれるのも重要だ。

 (その不思議な世界にたつ視点は、読むものをある意味では拒絶するだろう。5章立てになっているが、それぞれの描かれる世界がなにかということも、つながりや組み立ても分かりやすくはないかもしれない。でも、分かるということではなく、感じることから読み進むほうがふさわしい。小説としては、なかなかの完成度に感じた。姜尚中氏の『心』や2008年の天童荒太『悼む人』にも似た問題意識を感じたが、独特な手法は、好き嫌いが分かれるかも知れない。)
 
 「木村宙太が言ってた東京大空襲の時も、ガメさんが話していた広島への原爆投下の時も、長崎の時も、他の数多くの災害の折も、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか?しかし、いつからかこの国は死者をだきしめていることができなくなった。それはなぜか?」
 死者の声を聞く想像力こそが、未来の世界を拓く創造力となるという問題意識は、なめらかなDJアークの語りを包む悲しみのベールへの共感から生まれるのだと思う。


2013-08-04

『死を見つめて〜よりよく生きる』

ルーテル厚狭教会で『死を見つめて〜よりよく生きる』をテーマにお話をさせていただいた。「死」という普遍的テーマは、「生きる」ということを深く知る手がかりという性格を持っているが、どちらかと言えば、それについてわざわざ取り上げることは「タブー」とされて来た。しかし、近年は敢て積極的に語られるようになって来たと言ってよいだろう。そうした現代の「死」をめぐる文化を探り、死を見つめることから生を求める今日の日本人のスピリチュアリティーを探りながら、キリスト教信仰における生を深く考察してみた。特に十字架におけるキリストの死と復活が何を私たちの信仰のいのちに与えるのかということを考えてみた。
お集りいただいた方から、すばらしい証をいただき、私自身が教えられ、また導かれた思いを深くした集会だった。

以下、講演のレジュメ。
             
0. 死を知る人間
 宗教、哲学における普遍的テーマとしての「死」
 ソクラテス、プラトン
 パウロ、アウグスチヌス、ルター、パスカル、
 キェルケゴール、ハイデッガー、バルト

1. 「死ぬこと」を積極的に語る文化?
(1)死への備え
  「病院で死ぬということ」「葬式無用論」「平穏死」「エンディングノート」

(2)死を受け止めるスピリチュアリティ 
  「大河の一滴」「葉っぱのフレディ」「千の風になって」

(3)「死」から「生」を問いなおす
   映画『おくりびと』(滝田洋二郎監督)、天童荒太『悼む人』など


2. 現代における「生きること」の課題
   〜天童荒太『悼む人』(文藝春秋 2008)をヒントに 
(1)死者を忘れる=生が軽んじられること?
   「悼む人」が生み出された世界

(2)関係の希薄化
   誰を愛し、誰に愛され、誰に感謝されたか

(3)求められる和解
   関係の崩壊と心の傷


3. 生を支える三つの柱
  小澤竹俊『13歳からの「いのちの授業」』(大和出版 2006)をヒントに
(1)時間の柱
   過去から未来へ  (死と時間を超えて)

(2)関係の柱
   家族・友人  (神との関係)

(3)自由の柱
   自立と自律  (魂の自由)


4. 死を見つめること 
  姜尚中『心』(集英社 2013)をヒントに
(1)生きることの意味
   無意味な死と無意味な生?

(2)どこかが間違っている
   正しいことと間違っていること、白と黒、右か左かを弁別できるのか?

(3)自然と人間の知恵
   自然を支配し、コントロールできるか? 相克のなかで 


5. 信仰における生 
(1)愛された人間の生 
   神に愛されて、求められた生 
    (参照:フランクル『夜と霧』)

(2)赦しと悔い改めの生 
   キリストの愛によって、新しく生きる 他者のための生
    (ルター 「キリスト者の自由〜自由と愛に生きる」)

(3)人間も被造物もともに希望に開かれている
   終末の約束が今すでに (ローマ8:22)
   被造物に対する責任も (創世記2:15)

2013-05-16

『私たちの死と葬儀〜キリスト教の視点から』(本のひろば 特別号)

 キリスト教関連の新しい出版を紹介する「本のひろば」の特別号で、死と葬儀に関連して短く書かせていただいた。


 近年は、死や葬儀に関連する本が一般書店からも続々と出版されていて、学ぶことは多い。キリスト教の信仰をもって、私たちがこの現代の日本において「死」や「葬儀」という問題を考える時、大切にするべきことは何か。いったい、私たちは今の時代にどんな風に生きて、そして死んでいくものなのか。
 聖書そのものからキリスト教の死生観や死に関わる教義的な説明をする本も実はいくつも出版されてきているのだが、いろいろなものを読んで、学ぶための一助となればと思って書かせていただいた。一般的なことではなく、自分が死に直面していかざるを得ない。その現実とどう向かい合いながら、信仰を生き抜くのか。どのような希望と約束が与えられているのか、確認することが出来るように書いてみた。また、いくつかの参考にさせていただいてきた本も紹介している。ただ、紹介したい本はもっと沢山あるので、このブログを通しても改めて何冊か紹介していきたい。
 この冊子は一般に販売されるものではないので、キリスト教関係の書店などで、何か本をお求めいただき、お尋ねいただければと思う。(「本のひろば」は、30ページほどの冊子で、毎月発行され、年間の講読料1300円ほどである。)

2013-02-07

Ministry 16 「自死」と向き合う


雑誌「Ministry」第16号。今回の特集「『自死』と向き合う」の担当として関わらせていただいた。特集に担当として深く関わらせていただいたのは第7号の特集「みんなで葬儀!」についで二度目のことだが、前回にもましてこの特集を取り組むのに自らを問いただされたという思いが強い。
実際に、この特集の難しさは、まだ誌面作りに入る前、特集を決める会議のときから予想されたことだった。重たい課題で、取り上げるべきテーマと思っても、その取り上げ方にも、また何を語るのかということについてももう一つ踏み込めないような躊躇いが生まれる。「自死」というケースにいろいろな形で出逢い、関わってきた経験が、会議の中で分かち合われ、それだけでも心がいっぱいになっていくのに、逆にことばが薄れていく。一般化することの出来ない問題であるのと同時に、個別なことばがこれほどに重みを持つ課題はないと思われて、「一体どうやって取り組んだらいいのか。」「誰が何を言うのか。言い得るのか。」と、一度は特集を止める雰囲気にまでなりかけたように思う。

それでも、私たち編集にたずさわる者たちは、この「Ministry」が何も語らないでいいか?教会の今の現場に、悩み、立ち止まり、考え、苦しんでいる牧師と信徒の方々とともに、福音を分かち合うという、ただその一事について、訴えるべきことあるのではないのかと問いただされて、取り組むことになった。

実際に、いろいろな所で教会が「自死」者とその近親者に対して取った態度によって、つまずき、傷ついたという経験を聴くことが少なからずある。いわゆる「自死」に対する差別という「悲しい現実」。それは、「自殺は罪」という教会が抱えてきたことばから来る根深い課題なのだ。

それだからこそ、その現場で「福音」が語られ、ともに聴かれるように、私たちの特集が祈りをあわせよう。そんな心が、ことばもなく重ねられて、取り組むこととなったのだ。

ネットを使って多くの方々にアンケートの呼びかけ、ご協力もいただいた。様々な意見をいただいた。この特集そのものへの厳しい問いかけも、また逆に励ましもいただいた。
一つひとつの声には、それぞれの経験から来る思いが込められていることが伝わった。

それだけでも、この特集を組んだ意味を思わされたのだ。取り上げられてこなかった思い、語ることのできない悲しみ、悔しさ。そうしたものがたくさん教会の中に沈んでいる。耳をすまして、聖霊がどのようにうめきをもって取りなしをしてくださっているのか、聴いていきたい。そう思った。

限られた誌面。決して十分なものではないことはよく分かっているが、問いかけられた私たち自身をさらしながら、教会の中に、確かな「主のまなざし」を見いだし、キリストの福音の慰めと励ましとを分かち合えるようにと、記事を書き、編集をしていく皆が取り組んでくださったように思う。

多くの方に読んでいただきたいと、心から思う。


2012-07-30

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む

仏教の詩人といってもよい宮沢賢治の作品、『銀河鉄道の夜』。



いろいろな重荷を背負う孤独な少年主人公ジョバンニが、祭りの夜に体験する幻としての銀河鉄道。それは、生と死を結ぶ不思議な世界でもある。

丁寧に読み解くと賢治の死生観を伺うことが出来る。それは、何か死後の世界についての思弁ではなく、人間が死と隣り合わせの生を生きる不思議と、その孤独な生を生きいく深みにおいて、私たちが生きることの本当の意味を問うものである。

子どもの頃に読んだきりで、長く気になりながらも読まないままにおいたこの作品を久しぶりに読んだ。改めて読むと賢治がまるでキリスト者ではなかったかと思うほどにキリスト教的作品と見える。もちろん、「讃美歌」、「カトリックの尼さん」、「バイブル」、「ハレルヤ」、そして「十字架」などの要素がちりばめられているだけではなく、「ほんとうの幸い」を求め、それが「ほんとうにいいこと」をすることであり、「みんなの幸」になることをもとめつつ、そのために自らを犠牲とし、捧げるという作品の中心的メッセージにおいて、賢治が深くキリスト教に触れていることを示している。

けれども、作品の後半で、たったひとりの「ほんとうの神さま」について議論される場面がある。そこに至って、宮沢賢治がキリスト教や他の宗教の枠組、その教義的理解を超えて求め続けたものがあることに気がつかされる。だから、厳密にいえば、深くキリスト教的色彩を持つが故に、キリスト教そのものへの宮沢賢治の批判的な立ち位置にも気づかされるのだ。

この鉄道の幻の最後の場面で「ほんとうのさいわいは一体何だろう。」「僕わからない」とやり取りするジョバンニとカンパネルラ。「僕たちはしっかりやろうねぇ」とジョバンニはいう。そのジョバンニの決意こそ、賢治自身がおそらく誰かの死の悲しみを超えても生きていくために自らにおいた決意に他ならないのだろう。

しかし、そのための生きる力は、一体どこからくるものなのか・・・。





2012-07-02

くまとやまねこ

絵本は、子どもの読むものというのは必ずしも正しくない。むしろ、絵本という表現によっていろいろなテーマに迫る一つの形なのだ。
近年、「死」というテーマをいろいろな角度から取り上げる絵本が出版されるようになった。もちろん、それが子どものためのものということでは必ずしもない訳だけれども、子どもにも触れやすいものとして作られた作品は大人が子どもと一緒にその作品を通して、一緒に考えたり、話したりすることのできるものだと思う。



主人公のくまは、大の親友のことりが死んで、ふかい悲しみの中に過ごす。死んだことりを忘れて前向きに生きるように言われても、この悲しみをいやす力にはならない。ただ、時を過ごして、やまねこと新しいの出逢いの中で、くまはことりの死を死として受毛止めていく力を与えられる。死を否定するのではなく、死んだものがどれだけかけがえのない存在であるかということを分かち合うことが、できたからだろう。そうして、死んだことりはしんだものでありつつ、ともに生きるものとして受け止められ、くま自身の新しい歩みが見いだされていく。

静かな絵本だが、「死」の受容、グリーフワークの働きを伝える良書。







2010-11-17

『さよならエルマ おばあさん』

 この本は、Ministry誌でも紹介された。
エルマおばあさんにかわいがってもらっているスターキティという名の猫が、病気になったおばあさんの最期の一年を見守る記録という形で書かれた写真による記録絵本といえる。
おばあさん本人が自覚をして、「その時」に備えていく。表情、眼差し、愛する人々との関係がありのままに映し出されていく。エルマおばあさんの生きてきた人生を深く感じさせられるのと同時に、哀しいからこそ尊く、切ないからこそ祝福された私たちの限りある生の不思議を想う。


写真家の大塚敦子さんが、偶然の出逢いを通して知りあったエルマおばあさんを「看取り」ながら残した記録は、単なる写真ではなく、その向こうに深い愛の眼差しを感じることができるものだ。
様々なお話しや絵本でも「死」を取り上げるものが見られるけれども、生きられたいのちの重みを静かに受け取りつつ、「死んでいくこと」に寄り添うようにせまっていると思う。