仏教の詩人といってもよい宮沢賢治の作品、『銀河鉄道の夜』。
いろいろな重荷を背負う孤独な少年主人公ジョバンニが、祭りの夜に体験する幻としての銀河鉄道。それは、生と死を結ぶ不思議な世界でもある。
丁寧に読み解くと賢治の死生観を伺うことが出来る。それは、何か死後の世界についての思弁ではなく、人間が死と隣り合わせの生を生きる不思議と、その孤独な生を生きいく深みにおいて、私たちが生きることの本当の意味を問うものである。
子どもの頃に読んだきりで、長く気になりながらも読まないままにおいたこの作品を久しぶりに読んだ。改めて読むと賢治がまるでキリスト者ではなかったかと思うほどにキリスト教的作品と見える。もちろん、「讃美歌」、「カトリックの尼さん」、「バイブル」、「ハレルヤ」、そして「十字架」などの要素がちりばめられているだけではなく、「ほんとうの幸い」を求め、それが「ほんとうにいいこと」をすることであり、「みんなの幸」になることをもとめつつ、そのために自らを犠牲とし、捧げるという作品の中心的メッセージにおいて、賢治が深くキリスト教に触れていることを示している。
けれども、作品の後半で、たったひとりの「ほんとうの神さま」について議論される場面がある。そこに至って、宮沢賢治がキリスト教や他の宗教の枠組、その教義的理解を超えて求め続けたものがあることに気がつかされる。だから、厳密にいえば、深くキリスト教的色彩を持つが故に、キリスト教そのものへの宮沢賢治の批判的な立ち位置にも気づかされるのだ。
この鉄道の幻の最後の場面で「ほんとうのさいわいは一体何だろう。」「僕わからない」とやり取りするジョバンニとカンパネルラ。「僕たちはしっかりやろうねぇ」とジョバンニはいう。そのジョバンニの決意こそ、賢治自身がおそらく誰かの死の悲しみを超えても生きていくために自らにおいた決意に他ならないのだろう。
しかし、そのための生きる力は、一体どこからくるものなのか・・・。
作品後半、ひとりの青年と男の子、女の子が登場する。彼らは、船が氷山にぶつかり、大きな海に投げ出され、溺れていのちを落としたことが回想されている。タイタニックの沈没事件を受けて賢治が描き出したもの。最後まで乗員が讃美歌306番をうたったというのは、タイタニックの時に、「主よ、みもとに近づかん」がうたわれたことに基づいたものだ。深い悲しみのなか、どうにもならない死や別れの経験のなかの祈り、信仰があらわされている。
返信削除そのこともあって、東日本大震災のあと、津波に飲み込まれた多くのいのちをおもいつつ、東北における深い痛みに宮沢賢治のこの作品が共鳴していると注目されているようだ。
こんにちは。3月11日後、津波の報道映像が
返信削除見られませんでした。半年程、建物や人々が流される夢を見て苦しみました。「たのむよー」という声で目が覚めた朝、自分がしっかり生きなければと災害を受けとめることができました。みこころがはたらいてくださるよう、毎日お祈りします。平安を!
匿名様。コメント、ありがとうございました。
削除書いてくださった、その一言でも胸が苦しくなります。目に焼き付いた光景にどれほどつらくいらっしゃるかと想い巡らしています。
そのなかでも、「生きること」へとすべてを受け止められるようになられていることを感謝します。主がともにおられます。
祈っています。