2016-02-28

「今、見えないものを曇りなき眼で」

Luther Nights「ルター ナイツ」に招かれた。

ライブハウスで音楽を聞きながら、食事を楽しみ、ワイングラスを傾け語り合うひととき。宗教改革500年を記念して、あのルターも大いに楽しんだ音楽とビール(お酒)をもって過ごす夜だって。二年前から企画されて、vol.0からはじまってこれがvol.3の集まり、つまり4回目。

キリスト教や宗教に関心はあるけれど、教会とかにはちょっと行きにくいし、クリスチャン(信仰者)が集まるなんていうと、なんだか自分には敷居が高い。一度行ったら、なんだかぬけられなくなったら?なんて思うと近づけないよね〜。きっとそういう人たちはたくさんいる。
逆に、洗礼をうけた自分は、いつのまにかクリスチャンと見られるところにいるんだけれど、いつから、クリスチャンじゃない人との間に溝ができたみたいになっているんだろう?なんにも違わないのにって思ってたりする。教会って、なんだかやっぱり窮屈だと思ってたり。話し相手がいないんだ〜なんて、なんか自分らしくいられないと感じていたり。

そんな私たちのありのままで、楽しく語らう時となるように、ライブハウスでの企画がつくられたのだと、勝手に私は思っている。音楽を通して、こころの深いところで、感じるものを、きっと共有できるだろう。教会から外に飛び出し、垣根は壊して、今を生きる「私たちのこと」を語り合えるといいと思う。真剣に、みんなで、楽しく! そのすべて真実なものの中に、私たちはきっと新しいことばを見いだすに違いないのだ。

今回は、特別に「この日」だからこその企画ということで、私の短いトークのテーマは、「今、見えないものを 曇りなき眼で」〜宮崎駿の問いかけを受けて3・11以後を生きる〜とした。

普段は90分話すから、20分のトークでどれだけ伝えられるか?

2016-02-12

『十字架の神学者であること』 G・フォルディ



 ゲァハルト・フォルディの著したこの本は、いわゆるルターの「十字架の神学」についての最もすぐれた解説なかの一つである。(他に、レーヴェニッヒ、またマクグラスの研究を挙げなければならないのはもちろんだが…)
 もともとは、ルターの「十字架の神学」は、彼の宗教改革的神学を明らかにする「ハイデルベルク討論(1518)」において示された「いかに神を知るのか」という啓示に関するルターのテーゼにその由来がある。(下に、その二つのテーゼは記している。)しかし、それはなにか客観的な「神学」があるというよりも、神学をすること、神学者であるとは、どういうことかを示している。そして、神学者といっても、ルターにとってそれは書斎にこもって難しい本とにらめっこしているというような意味なのではなく、信仰を持つものが誰でも、自分が何をどのように信じているのだろうと考える、それが神学であり、信仰者はみな神学者だということを意味している。だから、いうなれば信仰者というものが、信仰者である限り、何をどんなふうに信じるものなのかということ、その在り方について著したものといえるだろう。(ただ、その叙述そのものは中世の神学者、修道士たちを相手にして書かれたもので、いわゆる信仰入門書のようなものではない。)
 「ハイデルベルグ討論」には、神学的な命題が28、著されるが、そのなかでも19と20の提題が特に、その神学者としての在り方についてかたるのだ。

19 神の「見えない本質が」、「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない〔ローマ1:20〕
20 だが、神の見える本質と「神のうしろ」〔出エジプト33・23〕とが、受難と十字架とによって理解されると認めるものは、神学者と呼ばれるにふさわしい。

 ここに、ルターがイエス・キリストの十字架の受難と死においてのみ、救いの根拠を見るものであることを明らかにしているといえよう。しかし、さらにいえば、この討論のための28のテーゼ全体がいわゆる宗教改革的神学の確立を示しているといえるのだ。そして、フォルディはこの十字架の神学、十字架の神学者というものがどのような信仰にたつのかということを著したこの書を構造的にとらえて、みごとに解説をしている。

1-12のテーゼは、人間の働き(業)の性質とその価値について著し、
13-18は自由意志の問題。
19-24では、栄光の神学者と十字架の神学者の区別を書いて、
25-28 キリストにおける神の愛の働き、それがどのように信仰者に働くかということをしめすという。そして、大胆に中世のスコラ神学を批判して、福音とは何かを明瞭にしているというのである。
 この第1テーゼは神の律法について書かれ、そして、最後の第28テーゼは神の愛について書いている。正に、神の律法を中心とする考え方から神の愛(福音)へ信頼するように、神学がシフトさせられていく。
 ルターの「十字架の神学」を学ぶときの必読書である。


2016-02-03

教職授任按手式 2016



 今年は、一人の神学生が日本ルーテル神学校を卒業し、四月から新しい牧師として日本福音ルーテル教会に赴任することとなる。教職として召されていく、歩みのはじめに按手礼拝がある。
 
 今年、按手を受けるのは、秋久 潤(日本福音ルーテル大森教会出身)さん。
 高専から電通大、そして東工大の大学院と進み、日立建機につとめて将来を嘱望されたが、5年前の東日本大震災後のボランティア体験に深く魂を揺さぶられた。神の呼びかけを受け止め、神学校へ。4年間の研鑽を通して、私たちに本当に必要なものは、世界の不条理のなかに、なお神の恵みを知るたった一つの十字架の福音への信頼であることを確信し、宣教に生きる決意を新たにしている。

 こうして一人の牧師が誕生する。それはなんと恵みに満ちた出来事だろう。
 もちろん、神学校の4年間という短い時間の中で、学び、研鑽をしたからといって、それで牧師になれるわけではない。そこからはじまる教会での実際の牧会と伝道の生活のなかで、人と出会い、人々と共に生きる。たくさんの人たちの人生に伴いゆき、悲しみも喜びもともにする。その経験の只中で、神のことばの持つ意味が少しずつ知らされる。
 そのとき、私たちはあらためて信仰ということが何を私たち人間のなかに生み出すものであるのかを知る。人間ではどうにもならない現実を生きる私たちの中に、神の特別の働きがあることを知るだろう。積み重ねられていくその経験こそが、牧師としての人生の歩みを形づくってくれるのだ。神学校の4年間はその歩みをはじめる準備期間に過ぎない。

 新しい歩みへと神様の召しがある。主の御手が一人ひとりに差し伸べられて、その人は召されていく。
 按手礼拝…その恵みの出来事の証人となろう。

 総会議長、五つの教区の教区長らがそろって赤いストールをかけて、この按手を行うのも壮観だ。私たち自身が宣教への心を新たにいただける。

秋久牧師の赴任地は、東海教区、日本福音ルーテル小鹿教会、清水教会。
今年 4月1日からの就任。

按手の時の記録をここに残したい。