2016-02-12
『十字架の神学者であること』 G・フォルディ
ゲァハルト・フォルディの著したこの本は、いわゆるルターの「十字架の神学」についての最もすぐれた解説なかの一つである。(他に、レーヴェニッヒ、またマクグラスの研究を挙げなければならないのはもちろんだが…)
もともとは、ルターの「十字架の神学」は、彼の宗教改革的神学を明らかにする「ハイデルベルク討論(1518)」において示された「いかに神を知るのか」という啓示に関するルターのテーゼにその由来がある。(下に、その二つのテーゼは記している。)しかし、それはなにか客観的な「神学」があるというよりも、神学をすること、神学者であるとは、どういうことかを示している。そして、神学者といっても、ルターにとってそれは書斎にこもって難しい本とにらめっこしているというような意味なのではなく、信仰を持つものが誰でも、自分が何をどのように信じているのだろうと考える、それが神学であり、信仰者はみな神学者だということを意味している。だから、いうなれば信仰者というものが、信仰者である限り、何をどんなふうに信じるものなのかということ、その在り方について著したものといえるだろう。(ただ、その叙述そのものは中世の神学者、修道士たちを相手にして書かれたもので、いわゆる信仰入門書のようなものではない。)
「ハイデルベルグ討論」には、神学的な命題が28、著されるが、そのなかでも19と20の提題が特に、その神学者としての在り方についてかたるのだ。
19 神の「見えない本質が」、「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない〔ローマ1:20〕
20 だが、神の見える本質と「神のうしろ」〔出エジプト33・23〕とが、受難と十字架とによって理解されると認めるものは、神学者と呼ばれるにふさわしい。
ここに、ルターがイエス・キリストの十字架の受難と死においてのみ、救いの根拠を見るものであることを明らかにしているといえよう。しかし、さらにいえば、この討論のための28のテーゼ全体がいわゆる宗教改革的神学の確立を示しているといえるのだ。そして、フォルディはこの十字架の神学、十字架の神学者というものがどのような信仰にたつのかということを著したこの書を構造的にとらえて、みごとに解説をしている。
1-12のテーゼは、人間の働き(業)の性質とその価値について著し、
13-18は自由意志の問題。
19-24では、栄光の神学者と十字架の神学者の区別を書いて、
25-28 キリストにおける神の愛の働き、それがどのように信仰者に働くかということをしめすという。そして、大胆に中世のスコラ神学を批判して、福音とは何かを明瞭にしているというのである。
この第1テーゼは神の律法について書かれ、そして、最後の第28テーゼは神の愛について書いている。正に、神の律法を中心とする考え方から神の愛(福音)へ信頼するように、神学がシフトさせられていく。
ルターの「十字架の神学」を学ぶときの必読書である。
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