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2025-02-10

2024年度 神学校の夕べ

今年は日本ルーテル神学校を一名の学生が卒業します。 
日時:2025年2月23日 日曜日 午後4時 
場所:日本福音ルーテル教会 宣教百年記念会堂 
卒業生:大和友子さん(出身教会:JELC大岡山教会)。

 四年間の学びをすべて終えられこの春に牧師として教会に遣わされます。
(赴任地は久留米教会、田主丸教会、二日市教会となりました。 )

 どうぞ、卒業生を覚えるこの神学校の夕べにお集まりいただければと思います。
また、お集まりいただけなくてもお祈りくださいますように。

* 当日、多くの方々がおいでくださいました。感謝。



第6回臨床牧会セミナー(第59回ルーテル教職神学セミナー)

今年も、臨床牧会セミナー(ルーテル教職神学セミナー)の季節となった。
今年度はリトリート。教職たちが自らのいのちのありようを神との関係の中に見つめ直し、新たな息吹に生かされることを願っての企画だ。 テーマは、「召命の再確認——「主がお入り用なのです」(ルカ19:31)」2月11・12日の両日を日本聖公会の施設「ナザレの家」で黙想の時を過ごす。 忙しさの中、ほとんど「仕事」と化している私たちの日々は、本来は、神に捧げ、人々に支えるものとしてそなえられたもの。教職として召されている私たちはいったいその恵みを忘れかけているのかもしれない。 もちろん、現代社会の中で、牧師もまた一人の労働者であるし、適切な働き方とその生活の保障が考えられなければならないことは言うまでもない。 けれども、教会の教職となるということは、やはりその働きにおいて与えられる特別な恵みを試練と共に知っているはずなのだ。 その喜びは、ただ、神との関係の中に見出されるのかもしれない。 それなのに、私自身もそうだけれど、なかなかその恵みを想う時が限られたものになってしまっている。 ルターは、忙しい時こそ祈ることにつとめたという。祈れない時は詩編をもって独り個室のこもるといった。 深い沈黙の中で、私は神のみ声にのみ呼び出され、その息吹に生かされるはずなのだ。

報告:
昨日、一昨日とナザレの家にてリトリートをいたしました。
恵まれたひと時でした。ファシリテーターには、聖路加大学、国際病院の成成鍾チャプレンをお迎えして基本的にはレクチオ・ディヴィナの作法に則る形で行われました。
(レクチオ・ディヴィナは、レクチオ(読書)、メディタチオ(黙想)、オラチオ(祈り)、そしてコンテンプラチオ(観想)の4つの段階を踏みながら神のことばを受け取り、またそれに生かされていく方法です。)

1日目、午後に集まって、オリエンテーションを行なってから黙想の実践に入りましたが、基本的には、この二日間は大沈黙として、参加者はお互いの間で自己紹介も含め一切話しをせず、神と自分との関係に集中した黙想の時間といたしました。
成先生はテキストから「子ロバ」に視点を当てながら、黙想のための4つのお話をされてそれぞれに15分ほどの黙想の時間を持ちました。その後には個人黙想と霊的同伴を実施。

二日目には、同じくテキストから3つの話をされ、それぞれに30分ずつ。また神の御用に用いられるという召命の出来事のたとえをマザーテレサのことばに触発されたヒントとなる短い5つのポイントをお分ちくださってまた30分ほどの黙想をいたしました。
午後にはまた個人黙想と霊的同伴を実施。
その後、大沈黙を解いて、それぞれに受け取ったものを分かち合いました。4人の神学生を含めて、教派を超えて20名以上の教職者たちが参加、全員が神の恵みと召しを新しく受け取るような聖なる時間をいただきました。
感謝します。




2024-02-17

神学校の夕べ 2023年度



今年、4年ぶりに4名の神学生が卒業していく。
それぞれに自分の人生の歩みにキリストの招きを聞き、何回も挫けそうになりながら、それでも主の霊によって導かれて、今年卒業して日本福音ルーテル教会の牧師として召されることとなった。
この2月25日の日曜日の夕方行われる「神学校の夕べ」では、卒業生たちが、それぞれにみことばに向かい合い、自分たちの心の響いている福音を会衆に伝えてくれる。
喜びと感謝を主に捧げつつ、彼らを励まし、祝いの言葉をいただければと願っている。
どうぞ、お集まりください。



 

卒業するのは、笠井春子(JELC田園調布教会出身)、河田礼生(JELC三鷹教会出身)、三浦慎里子(JELC室園教会出身)、ディビッド・ネルソン(JELC本郷教会出身)の4名。

今年、この神学校の夕べのために彼らが選んだテーマは「共に在ませ わが主よ」。

2月25日 午後4時から、日本福音ルーテル教会宣教百年記念会堂(JELC東京教会)




2020-02-10

第54回 教職神学セミナー

第54回教職神学セミナー
日時:2020年2月10日〜12日
会場:日本ルーテル神学校
主題: 「明日の教会のために~わたしたちの教会・神学・神学教育」

21世紀も、もう20年を過ぎようとしている今日、世界は急速な変化を経験していて、政治・経済・文化などあらゆる領域において、今までの常識や考え方が問い直される時代。デジタルな時代に私たちの関係の作り方も生活も大きく変わってしまって、私たちがどのようにこの現実に向き合っていくのか、大きな課題の前に立っている。
教会も例外ではない。福音の宣教は普遍的なものではあっても、その時代と社会に生きる人々に確かな神の恵みを分かち合い、キリストの体としての働きを生きることが問われているのだ。
時代の節目ともいうべきこの時だからこそ、私たちは明日の教会に備えるために、今、私たち自身を問い直したい。





210日(月)
15001530 開会礼拝
【セッション①】 イントロダクション:ルーテル教会の宣教とミニストリー(職務)
15301620 基調講演:石居 基夫 
             明日の教会のために〜私たちの教会、神学、神学教育(今、何が問題なのか)
16301800 特別講演①:西原廉太  
  ルーテル教会・聖公会の教会間対話から学ぶルーテル教会の豊かさ
                   ~夕食・休憩~
19002000 講演:永吉秀人、滝田浩之  JELC7次総合方策における教会」
20002030 トークセッション:

211日(火)
900 915 デボーション
【セッション②】 「明日の教会像」
9151045 講演(1):江口 再起 「ルターの教会論の基本」
            講演(2):立山 忠浩 「ルーテル教会の説教と牧会」
1100-1145  トークセッション 
        ~昼食・休憩~ 
【セッション③】 現代世界と宗教の役割
13301500 特別講演②:橋爪 大三郎  
        変わる世界の宗教とルター派」

15301615 「わたしの教会形成」 参加者発題 
16151700 トークセッション

212日(水)
900 915 デボーション 
9151000  「わたしの教会形成(2)」 参加者発題 
100010:30 トークセッション
【セッション⑤】 まとめ
10451130   講演:宮本 新  ()「これからの神学と神学教育」
11301200 トークセッション 
~昼食・散会~
13101410  派遣聖餐礼拝  

2020-02-09

2019年度 神学校の夕べ

今年も卒業生を送り出す、「神学校の夕べ」が行われます。

日時:2月23日 午後4時から
場所:日本福音ルーテル教会 宣教百年記念会堂 (東京教会)
主題:召命


今年の卒業生は一人。森下真帆(JELC東京教会出身)。
高校卒業後、ルーテル学院大学で学び、キリスト教と出会い、信仰を与えられた彼女が、こうして牧師をなっていく学びを終えられ新しい旅立ちをされること、嬉しく思います。
今を生きる青年にとって、信仰の出来事って、どういうことなのか、きっとお集まりくださった方にも伝わると思います。
どうぞ、おいでください。

翌週の3月1日に按手を受け、4月からは九州は小倉教会、直方教会に働きます。




2018-12-26

日本ルーテル神学校 神学一般コース 開設❗️

2019年度に、日本ルーテル神学校は新しくなります。
1909年に熊本の地は宣教師館の一室で始められた日本ルーテル神学校は、牧師養成とキリスト教の信徒リーダーを育てることを使命としてきました。近年は牧師養成のための神学校と信徒や専門職育成の大学教育というようにその教育のあり方を整えてきたように思います。特に福祉や心理の専門性をもって現代社会のさまざまな困難を生きる人たちを支えて行く働き人を育てる大学の使命を大きくしてきたと言っても良いでしょう。
 けれども、宣教の困難さと教会におけるさまざまな課題の中で、牧師としての献身者を得ることも難しいということも現実的問題です。教会の働きが弱まってきているのではないでしょうか。神学校は、こうした教会の課題にも応えて、神学とキリスト教の学びを多くの人々のために用いていただけるように準備をしてきました。


 【神学一般コース開設】
神学校は来年度、神学一般コースを開設します。従来の「牧師養成」はそのまま堅持いたします。しかし、それに加えて、信徒の方々やキリスト教に深い関心を持ってくださっている方々には、神学校の学びができるように2年間のプログラムを用意いたしました。正規の学生として、多様な学び方をしていただき、ご自分の信仰の歩みをこの機会としていただくことができます。教派を問わず、誰にでも学んでいただけるコースです。
もちろん、キリスト教への関心を持って、その歴史や聖書を学びたいというノン・クリスチャンの方にも学んでいただくこともできます。

【学費の値下げ】
神学校の授業料を値下げしました。今までの牧師養成のためのコースは年間25万円減額、また新しい神学一般コースは一年間39万円として設定し、学びやすくさせていただきました。
オルガン実技には別途費用が必要となりますが、図書館をはじめとする神学校、大学の施設や様々なプログラムへの参加、ルター研究所やデールパストラルセンターの催しなどもご利用いただけます。

【教会での奉仕のために】
神学校では、オルガンの実技も学ぶことができますから、礼拝や聖書、キリスト教の信仰についてさらに学びながら、オルガニストとして、あるいは礼拝や教会学校での働きに十分な備えをいただくこともできます。
教会関係の諸施設、福祉や幼稚園、保育園、また学校での働きをキリスト者として担っていこうという方にもキリスト教の人間理解やいのちについての深い学びは大きな力になると思います。
他の大学神学部などで学ばれた方で、牧師になるかどうかはまだ決められなくとも、もう少し神学を、例えば新約学や旧約学などの学びを深めたいとか、現代世界とキリスト教宣教について学びたいという方にも、学んでいただけます。

詳しくは、以下のURLへ

2018-02-13

2017年度 神学校の夕べ

今年も、「神学校の夕べ」で新しい卒業生を送り出す季節となった。

日時は、2018年2月25日 午後4時から
場所は、日本福音ルーテル教会宣教百年記念東京会堂(東京教会:新大久保)
テーマは「かけら」。


2017年度の卒業生は、多田哲さん(JELC豊中教会出身)、野口和音さん(JELC熊本教会出身)、東谷清貴さん(JELC松山教会出身)、森田哲史さん(JELC田園調布教会出身)の4名だ。
 4年前、それぞれの人生の歩みの中で、神様の呼び声を聞き、新しい歩みを牧師への召命として受け止めて神学校へ入学してきた。以来4年間、神学校での学びを深めてきたのだ。宣教の困難な時代、これからの教会を担う新しい人材を神様からいただけることは、本当に大きな恵みだ。しかし、その招きに応えていく一人ひとりにとっては、楽なことは何一つない。しかし、もちろん、この招きのなかで生かされていく喜びは、それに増して大きい。4年間の神学校の学び、教会での実習や研修のなかで、その喜びを味わいつつ、改めて主の召しを受け取り直して歩んできたことだろう。
 そして、彼らは、また新たに自身の生涯にわたる主の導きを実感していることだと思う。だから、彼らは皆、それぞれにこの主の召しに応える歩みの途上にあるといってもよいだろう。
 いま、神学校卒業の節目を迎えるが、主の召しを聴き続ける歩みが重ねられていくことになるのだ。彼らの証しする主の語りかけを、この夕べに聞いていきたい。
 
 そして、彼らのあらたな門出を祈りをもって祝していただければと、願っている。
 

2017-08-07

2017一日神学校 宗教改革500年「ルターのこころを現代に」

今年も例年のように一日神学校が計画されている。今年も、9月23日!土曜日・祝日。
しかし、例年とは違う。今年は宗教改革500年を記念する年だ。
  

 今からちょうど500年前、ドイツに生きた一人の修道士マルティン・ルターは時代を生きる人々に対し、神の恵みのことばを行き渡らせようと改革の呼び声をあげた。中世末、ペストの流行や飢饉などで死が蔓延する時代、そしてまた新しい産業の胎動が社会全体を大きく変えようとしている不安定な時代。恐れや不安が人々のこころを捉えていた。
 ルターは、一人ひとりが、神に生かされるいのちを生き生きと喜びをもって生きることができるように、共に支え合い、仕え合う世界の実現を望んだのだ。それは、単に宗教とか教会という枠の中の改革という事ではなく、公的な社会の中で教育や福祉を整えていく具体的な「かたち」を形成していく責任を自覚した取り組みとなっていく。この改革の運動が西欧全体に大きな影響を与え、苦難を伴うこともあったが、新しい時代を切り開いていく原動力となったといってよい。

 宗教改革500年目の今年、私たちの「一日神学校」は改めてこのルターのこころをうけとっていきたい。

 神の恵みを深く知り、世界のなかに、また人々のこころと生活のなかに、その恵みを守り実現していくことに、ルターはこころを砕いたのだから。私たちルーテル学院、大学と神学校は、そのルターの精神を引き継ぐことで、21世紀の現代を生きる人々の苦悩に応えていく使命をもっている。キリストの恵み、教えに学びながら、神と世界、人間といのちの理解を深め、この使命を実現していく取り組みを、この「一日神学校」でみなさんと共に確認させていただきたい。
 
 今年も、どうぞこの「一日神学校」においでください。
 

2017-06-20

神学校修養会 牧師になるとき、幼稚園の園長になる?

 日本ルーテル神学校では、毎年5月か6月に神学生修養会を企画している。
 今年のテーマは「教会と諸施設」、6月18〜20日に行われた修養会では特に幼稚園・保育園の働きについての学びをいただいた。



 現在、日本福音ルーテル教会は全国に48の幼稚園・保育園を設置している。教会が120程だから、半分とは言わないけれども三分の1以上の教会が幼稚園・保育園の関係を持っているという計算になる。そして、実際の現任教職が100名弱、出向を除けば80名あまりの教職数だとなると、二人に一人は幼稚園・保育園との関係を持つというような勘定になる。つまり、日本福音ルーテル教会の牧師となると、その生涯で幼稚園・保育園を全く経験しないということはめずらしいことなのだろう。もちろん、それぞれ一つひとつの園によって、牧師の関わリの仕方はさまざまだ。園長になるばあいもあれば、理事としての責任をもったり、あるいはチャプレンとしての働きのみであったり。それでも、牧師館にすむことになれば施設管理等の責任は免れないだろう。
 教会は信徒を中心とした教会の活動だが、幼稚園・保育園ともなれば一般社会に開かれた公的な事業である。しかも、生活を抱えた職員を複数雇用してその労務管理などの責任も負いながら、その職員に働いてもらって日々の事業内容としてのキリスト教保育の実現し、具体的な対象である子どもたちとその保護者に深い関わりを持つということになる。
 牧師となるための神学教育においては、理論的にも実践的にも教会の神学を学ぶ訳だし、牧師になることの召命ということは、おそらくそうした幼稚園・保育園に関わるということとは全く異なるものであろう。それでも、現実には、そうしてひとたび牧師になれば、教会を営む、あるいは福音に基づいた礼拝の説教や聖礼典の執行ということとば別に加えてこうした教会の責任の中におかれる事業体の責任をもっていくことが少なくないということだ。
 一昔前であれば、そうした事業体は、事業体を主に担い、運営していく信徒が中心を持ってきていたかも知れない。海外からの宣教師とその宣教師についていった志を持つ教会員によって担われるようにしてはじめられた幼稚園・保育園は少なくない。ところが、いまや幼稚園・保育園を長く支えてきた信仰者がその次の世代に引継ごうとしてもその引き継ぎができないという現実を抱えている。クリスチャンではない多くの職員のなかからその力を持つ人材を得ることができればまだいいが、それすら出来にくいという現実に直面してきている。そういう時代だ。だから、牧師に対する現実的な期待は高くならざるを得ない。
 
 実際、今年の春卒業した三人の新卒の牧師たちはいずれも幼稚園・保育園と関わりのある教会だった。新任で兼牧で、施設がある。そんなことはめずらしいことでもなくなり、避け得ないこととなっている。では、神学校はそれに応える教育を行えているのか。それは難しい。限られた時間のなかで牧師となるための教育は、それだけでかなりの時間を必要としているのだ。後は現場でオン・ザ・ジョブ・トレーニングとしてもらわねばならないのだ。
 けれど、そのためのオリエンテーションも必要だろう。神学校が牧師を育てる責任を持つという時に、現代社会のさまざまな課題に取り組む神学的な力を身につけさせていきたいが、やはり、今の自分たちの教会が展開している福祉、保育・教育という事業についての責任を考えなければならないだろう。
 今回、三人の講師の先生方を通して、この課題を学ぶ機会と出来たことは、非常に有意義だった。

 

2017-05-14

これからの神学教育を

日本神学教育連合会。
 全国で牧師・司祭など教職を養成する神学教育を担う大学の神学部、教派神学校の代表が年に一度集い、情報交換と交わりを深めている。いずれの教派であっても、少子高齢化した社会と教会の現実があり、また教会そのものの霊性も弱っていて、献身者がなかなか得られない。牧師の数が少なくなって、神学教育を担う人材も少なくなっているという現実もある。
 戦後のキリスト教ブームから高度経済成長期に右肩上がりの教会や社会の状況で体制を作ってきた神学教育の制度や組織の状況は大きく変わっていて、これを維持することに困難を生じている。すでに、現実に合わない制度疲労を起こしているのだ。
 ただ、そのような状況のなかで、それぞれに神学教育の使命を自覚し、教職養成ということばかりではなく、信徒育成、またキリスト教関連の諸施設(福祉や幼稚園・保育園など)での働き人を意識しながら教育の幅を広げて取り組んでいる。教会という枠組みや洗礼をうけたキリスト者ということに限らないで、社会のなかに必要な人材を育成する必要を見ている。キリスト教の公的役割を自覚して来ているとも言えよう。
 いずれにしても、それぞれの神学校の厳しい現実を分かち合いながら、今後どのように教派の枠をこえた協力体制を構築できるのかという現実的な問題がもっぱら話題に上ってきている。
 神学・神学教育の現実は、欧米からの翻訳的な方法ではなく、アジアという具体的な脈絡を意識しながら日本の現実に根をおろした姿を模索しているということでもあろうか。でも、アメリカではすでに教派をこえた神学教育は実現している。
 宗教改革500年、エキュメニカルな交わりを考えるときでもある。新しい、これからの神学教育の姿を求めていく必要を分かち合う時間となった。
  
(写真は1969年以前の鷺宮にあった日本ルーテル神学校。時代とともに神学校は姿を変える??)


2017-02-03

神学校の夕べ (2016年度卒業)

今年は、三名の卒業生。
例年のように、2月の最終日曜日に、下記にある通り「神学校の夕べ」を行い、卒業して牧師となって旅立つ者たちの「みことばの取り次ぎ」を受け、ともに彼らの門出を祝い、祈りたい。

 日時:2017年2月26日 午後4時から
 場所:日本福音ルーテル教会宣教百年記念東京会堂(東京教会)
 テーマ:「三つよりの糸は切れにくい」


 今年は、日本福音ルーテル教会出身の中島和喜さん、奈良部恒平さんと日本ルーテル教団出身の西川真人さんの三名が旅立っていく。
 あっという間の神学校の4年間。たくさんの授業に加えて、教会実習、臨床牧会教育、宣教研修などの実践的な学びを重ねてきた。それぞれに課題に向かい合ってきたし、また、召命感を揺さぶられる時もあっただろう。それでも、一つひとつの時に教会の多くの方々に祈られ、支えられてきたことを胸に、神の召しを深く受け止めてきた、誠実な神学生たちである。
 任地は、二月の半ば過ぎに明らかになる。わかり次第、ここでもお伝えしよう。

 一人でも多くの方々に、門出を祝っていただければ幸い!!


2015-05-26

2015年神学生修養会「教会と宣教」

今年の神学生修養会が、5月24日のペンテコステの夕から、26日の午後までの日程で行われている。テーマは「教会と宣教」。


 昨年は、三人の現役牧師を招いての修養会だったが、このテーマで、今年はお一人。立野泰博先生をお迎えした。熊本は大江教会で牧会の責任を負うばかりでなく、地元の九州学院でのお働き、東日本大震災の被災地支援、臨床宗教士養成のプログラム、あるいはまた実際のカフェ・ド・モンクの活動にと忙しい毎日。FBやBlogの欠かさぬ更新。全国各地での講演。絵本や紙芝居づくり。そうした一切合切を抱えたまま、なおその貴重な時間を神学生のために用いてくださった。

 大江教会が九州学院教会としての歴史的な性格と立地を持っているところで、どのように若い人たちと地域にひらかれた教会として新しい歩みを作っていかれているのか。
 教会の現状への確かな分析、地域における課題や可能性、教会員との雑談のなかでのヒアリング、確かなリサーチのなかで考え抜き、教会員にも一緒に考えていってもらえるようにワークショップを行う。そうして教会の宣教のヴィジョンを描いていく。そのヴィジョンを実現するのは牧師ではない。教会の人々の心に働きかけ、楽しくみんなでやる。協力が生まれていく。教会の見え方が違ってくる。結果が伴う。
 大胆な取り組みには、きっと色々な問題があるだろうが、すべては神さまの働きの中に用いられるものとの信頼があってこそのことだろう。
 種が豊かなみのりをもたらすためには、その石地を耕し、茨を除き、良い地としての畑にされる農夫のつとめがあればこそ。そんな信仰の姿に教えられるものはいっぱいあった。その農夫に仕える牧師と教会員こそが、まずよく耕され、柔らかくなって、蒔かれた種を成長させないとならないだろう。神学生もこの修養会でたくさん耕された。

 最終日は、先生ご自身の被災地支援の取り組み、そのご経験からお話をいただいた。「となりびと」から「寄り添い人」へ。大きな大きな被害のなかで被災者一人ひとりが、いのちの重みを知り、その生活が根こそぎ奪われ、家族を失い、地域を失い、コミュニティーを失って、どう生きるのか。そこに生きている人々が自分で生きていかなければならなくて、そこに何の力にもなれないという現実を多い知らされながら、なおそこで牧師としてその現場の苦悩に立ち尽くすこと。ここでも先生の経験、また先生が見て来られた多くの被災者、ボランティアの働きの数々から学ぶことができた。
 被災地支援に限らず、それぞれ召され、遣わされていくところで、牧師であることとはどういうことなのか、将来の牧師の卵、神学生たちは重い問いかけの中に投げ込まれたように思う。

 三日間、この修養会がほんとに恵まれた時間であったことを、感謝!

 
 


2015-05-09

JATE 日本神学教育連合会 総会

 毎年、この時期に琵琶湖のほとりに出かける機会が与えられている。「日本神学教育連合会」(Japan Association of Theological Education)という、少し堅い名前の団体の総会が同志社大学のリトリートセンターで行われるのだ。全国にある、プロテスタント教会、カトリック教会の神学教育機関、つまり牧師さんとか神父さんを育てる神学校とか大学の神学部などの連盟だ。教派は違うけれども、それぞれに日本でのキリスト教の宣教を担う教職養成の責任にある人たちが集うユニークな集まり。


 現在加盟している学校は17校、これにオブザーバーとして2校が参加している。大きなミッション系大学の神学部であったり、また教派神学校であったりと様々だが、互いに今日の日本の教会の現実を背負いながら、教育と研究に従事する立場にあって、共通する問題や課題に向かい合っていることを確認し、自ずと共感し合えるものがある。教会の宣教の困難さや、少子高齢化する教会の現状。若い人たちの信仰についての意識。神学教育を担う後継者養成の問題など。
 閉会のデヴォーションでは、キリストが私たちのためにそのいのちを注ぎ、友とし、新しい神のみ業に参与させてくださる恵みについてのみことばを取り次いでいただいた。感謝!
 このJATEは、さらに韓国の神学校連盟、台湾の神学教育の連盟などと北東アジアの神学校の連盟を組織していて、国際的な交わりを構成している。ここ数年はこの国際的な交わりが有名無実になってきていたが、今、再開の方向を模索しはじめている。韓国の神学校連盟が再開に積極的なプロポーズをしてきたのだ。
 日本の教会も神学校も今は自分の足下ばかり見つめている。財政的にも人材的にも苦しい。けれど、神の宣教のみ業がこのアジアに、また世界にどんな大きな流れを生み出しているのか、またその流れの中に私たちが位置付いているのか、私たちはもっと大胆に飛び込んで味わってみてもいいように思った。
 


2015-04-08

2015年度 入学始業聖餐礼拝

 日本ルーテル神学校、2015年度の入学始業聖餐礼拝が4月2日に行われた。
その礼拝での説教。
 『真理の霊によって生きる』ヨハネ14:15〜17


 新しい年度を迎え、神学校には3名の新入生が与えられました。また神学基礎コースにも2名の方が学びをはじめてくださることになりました。それぞれに主のみ声に聞いて、ここに集められたのです。改めて、その恵みと導きに感謝を祈りたいと思うのです。
 今年の、この入学式とオリエンテーションは、ちょうど受難週にあたりました。イエス様が十字架の死において、またご自身の復活によって、私たちに神の愛を表し、新たないのちを生きる道を開いてくださる。その出来事をたどっていく時です。
 特に今日は洗足の木曜ということでもあって、お読みいただいた聖書は、ヨハネの14章。この洗足の後に主が弟子たちに話された告別説教と言われている個所です。イエス様は、弟子たちと共にいることがもはや限られているというはっきりとした想いのなかで、弟子たちに語られている個所です。だから、ここには、弟子たちにどうしても伝え残しておきたいことがみことばに刻まれている。弟子たちが、そして私たちが信仰に生きるためのみことばです。
 繰り返し言われるのは、イエス様が神のものであったこと、父と子とが一つであったこと。そこに愛と従順があり、確かな繋がりがあったということですが、その一致によってイエス様が生きられたように、あなたがたも私キリストと繋がり、一つとなって、人を愛し、仕え合うようにと教えられる。それが神とキリストの一致に与って、キリストと一つになる信仰を生きるようにとすすめられているのです。キリストのみことばに聴き、愛に留まることで、弟子たちが確かな信仰のみのり、豊かな働きをもたらすものだという約束が語られているのです。
 なぜ、そのことを繰り返しいわれるのでしょうか。それは、ほかでもなく私たちが信仰を保つことができず、主を見失う時が来ることを、イエス様ご自身がご存知だからなのです。キリストの内の留まることができない、信仰が見えなくなる。
 福音書を書いたヨハネの時代の人々にとっては、おそらく迫害が一番大きなこととしてあったでしょう。しかし、あらゆる困難や危機、またそのなかに私たちを捕らえようとする誘惑、人間の思いが、信仰の根っこであるキリストに留まることを妨げる。そのことをイエス様はご存知なのです。だからこそ、繰り返し、信仰に留まるべきことを語っておられるのです。
 しかし、そう教えられるだけではありません。主は、その時の具体的な助けを約束してくださっています。主のもとに留まり続けるということ、それは主が私たちに命じられ、また望まれていることですが、私たちの力にあまることだと主は知っていらっしゃる。それが本当に可能なのは、私たちの力ではなく、私たちを捕らえ、生かす、神の助け、真理の霊によるのだ、だからこそ、主はキリストにつながって愛する戒めを守るように、繰り返し教えすすめながら、神の働きにのみ救いを求め、信頼するようにと招いておられるのです。

 そんなことは、私たちは分かっているつもりでしょうか。救いは恵みのみによる。信仰は神の働き。ルーテル教会で伝えられてきた信仰義認の教理は、鮮やかにそのことをしめしているのですから。でも、改めて、新年度を迎え、自分の召命を確認する時に、そこに私の出発点があると、深く心に受け止めたいのです。召命が尋ねられ、自分の信仰や取り組みを思う時だからこそ、私たちの信仰の源が主にのみあることを思い起こしたいのです。

 この3月に、ちょうど今年が七十周年にもなった3月10日東京大空襲と、4年目をむかえた東日本大震災のことが何度か、テレビや新聞で取り上げられました。多くの犠牲者を生んだこの二つの出来事は、一つは戦争の悲劇、もう一つは自然災害の脅威です。全く違う二つのできごとなのですけれども、なす術なく、多くのいのちが奪われていったことにおいて共通しているのです。そして、その不条理さは私たちにとってある決定的な信仰の問いを突きつけているのだと、わたしは思います。
 私たちが今日、宣教を考えるとき、そこにあるのはどのような言葉を持って信仰を分かち合えるのかという問題ですが、その答えは、この私たちの信仰への根源的問いを共有することを忘れたところには見いだされないように思う。
 もちろん、こうした不条理の問題は、あの旧約ヨブ記において示されているように、古くから取り上げられてきた問題です。けれども、今日のように、たとえば原子力の問題が象徴的にそのことをしめしているのですけれども、神の創造された世界、一切を無にしてしまうような危機の前に立っている現代の人間精神には、神を信ずるということについて、決定的な問いとなっているように思うのです。

 わたしは、今でもおぼえています。あの3・11のあと、しばらくして、テレビで人気歌手グループがうたった「夜空ノムコウ」という歌の歌詞が私たちの信仰の原風景をうたっているように感じられたのです。その歌は、こううたいだされるのです。「あれから、僕たちは何かを信じてこれたかな〜」。信仰の言葉は、あの時から虚しくなってしまったのでしょうか。
 あれから四年が経って私たち東京に生活するものにとっては、そのことは次第に忘れられていっているのかも知れません。けれども、被災された方々の多くは、仮設住宅で細々と寒さを凌ぎ生きる人たちがいる。ふるさとに帰ることのできなくなった人たちがいます。放射能汚染の問題に発病や死の不安を持つ人々がある。自分たちの畑でとれたものを子どもに食べさせて大丈夫なのかと恐れる母親たち、自分は将来結婚して子どもを産むことを望めるのかと心をふるわせる少女たちがある。
 私たちは、忘れようとしているのでしょうか。見ないようにして生きていないでしょうか。けれど、私たちはこの現実のなかにあるのです。

 原民喜という人をご存知かと思います。原爆小説『夏の花』を書いたことでご存知でしょう。もともと左翼の活動家でもあり、詩人としても作家活動をしていました。40歳の時に広島で被曝し、その経験をメモしたものをもとに小説を書いたそうです。原爆を題材にした多くの小説のなかでも最もすぐれたものの一つとして評価されています。
 たまたま、彼はその時にお手洗いにいたことで、あの原爆の威力から逃れ生き残ったのでしたが、その直後のあの広島に見いだされた惨状を克明に私たちの心に刻むことばが小説に記されています。その文章から、何もかもが吹き飛ばされ、燃えつくし、人々は影になって焼き付き、川に死に倒れ、あるいは生き延びても焼けただれ、顔は腫れ上がり、水を求めて彷徨う姿とうつろなまなざしが見えてくる。
 彼は、その人々をかき分けるようにして避難する。その中で、一瞬彼に起こった思いというか、感情を記しています。

「私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だといふ気持ちがした。長い間脅かされていたものが、ついに来るべきものが、きたのだった。さばさばした気持ちで、私は自分がいきながらえていることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、いま、ふと己がいきていることとその意味が、はっと私を弾いた。
 このことを書き遺さねばならない、と、私は心につぶやいた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相をほとんど知ってはいなかったのである。」

 この惨状のなかで、いきていることの一切の意味が見いだされないような状況の中で、かれは、生き残った自分に与えられた使命を感じるのです。天命として、この現実を書き遺す使命を、自分を弾くような衝撃とともに受け取ったのだというのです。その感覚は、少なくとも彼を捕らえ生かしたことだと思う。原民喜は小説家として、この使命を生きたのです。
 けれど、それだけではもしかしたら何かが足りなかったのかもしれません。彼は、「夏の花」を書いてから4年目の1951年3月13日に吉祥寺と西荻の線路に身を横たえたのでした。
 
 私たちが今の時代に、牧師としてたてられていく、その使命をどのように感じていますか。自分を弾くようにした感覚は、あなたを呼ぶ神様の声です。何をするように求められているのだろう。
 私は確認したい。あなたを捕らえた弾くような感覚は、あなたへの確かな救いの出来事なのです。そして、あなたに与えられた使命は、この惨状・この不条理を記録することだけではなくて、「ここに、主がいたもう」という救いのメッセージを分かち合うことです。
 それを可能にするのは、あなたを捕らえ、ここに導きたもうお方が、真理の霊であるという、ただそのことによっているのです。真理の霊。それは、嘘偽りなく、ごまかしもなく、この現実に向かい合って、その重荷を負って生きるための勇気と力、慰めであり、助けである神ご自身の働き、あるいは臨在なのです。そして、そのよりどころは、キリストの十字架にある。 
 キリストが十字架におかかりなって、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と、神が自分を見放したという叫びのなかに死にたもうこと。にも拘らず、その主が復活のいのちを示してくださったこと。その出来事が、あらゆる時にすべての信仰を支えるのです。一切が虚しくなってしまったのか、と思わされるその現実の中、その出来事があなたを捕らえているのです。その出来事が私たちを生かしているのです。その出来事が私たちの信仰をつくるのです。
 
 皆さんが、信仰の歩みの中で聞き取られた召命の言葉。それは、間違いなく皆さんを導いています。もちろん、その歩みがどのようにかたちを整えてくるかは、分かりません。牧師になることだけが答えなのではないのです。けれども、大切なことは、あなたに語りかける声がある。あなたを生かす真理の霊がある。あなたを助け、あなたを導き、あなたを用いたもう主がいたもうということです。そのことへの信頼をもって、私たちの直面する一つひとつの現実に誠実に向かい合っていきたいと思う。
 新年度、それぞれに召されてここに集っています。赦された歩みがどのように主によって整えられるのか、希望と期待をもちつつ、私たち自身もその恵みに応えていきたいと思うのです。

2015-03-12

神学基礎コース 2015年度から

日本ルーテル神学校に『神学基礎コース』を設けました。
 このプログラムは、教派を超えてキリスト教の人間理解やキリスト教死生学に関心のある方、信徒として聖書をもっと深く学びたい、少し神学について学んでみたいという方、あるいは牧師になるために神学校へ進もうかな〜と少し考えている方など、学びの意欲のある方に一緒に学んでいただけるようなプログラムを提供するものです。

 ルーテル学院大学の神学・キリスト教関連科目と神学校での神学基礎科目から神学校が選んだ科目群から年間30単位を上限として履修することができるようにしています。

 詳しくは、大学・神学校のHPをご覧ください。

http://www.luther.ac.jp/news/150311/index.html

 このコースをとる方には、神学校の教員が担当するホームルームで履修のガイダンスや学びについての手引きなども受けることができます。
 
 将来的には、教会とも連係を強め、さらに整えて、「信徒奉仕者・説教者」(オルガニスト、教会学校の教師なども含めて)の養成なども考えています。
 
 教会での信徒の方々に深く福音を味わっていただき、またいろいろなタラントを生かし、教会を強めていきたいのです。
 通常の授業を用いたプログラムですから、お仕事のある方には無理がありますが、なかなか別の時間を使って特別なプログラムをつくることが難しい現実があるので、今、神学校や大学で提供する授業をもって、いろいろな方の学びのニーズに御応えしたいというコースです。研究生の制度的枠組みの中で考えました。

関心のある方、お問い合わせください。

2015-02-23

神学校の夕べ 2014年度

2014年度神学校の夕べが昨日行われた。あらかじめのご案内にならず、報告となってしまったが、記録したい。


今年は、五人の卒業生を送り出す、神学校の夕べとなった。ポスターの順とは異なるが説教順に紹介したい。甲斐友朗(JELC賀茂川教会出身)、笠原光見(NRK中越教会出身)、関満能(JELC三鷹教会出身)、渡辺高伸(JELC雪谷教会出身)、渡邉克博(JELC東京教会出身)。5人のうち3人が都内の教会の出身であり、またNRKの学生が卒業になるということも重なって、およそ270名を超えた方々が祝福に駆けつけてくださった。また、遠く九州からお祝いに駆けつけてくださった方もあった。それぞれの地でも覚えていただき、祈りを合わせてくださって、祝ってくださっている方々があることにも感謝したい。

「賜物」という一つのテーマを選び、それぞれが別々の聖書箇所を取り上げてみことばを取り次いだ。自らの献身、召命の歩みから語りだされる説教は力強く、福音に生かされた恵みが伝わってきた。また、卒業してそれぞれ遣わされていく宣教へのあつい思いがあふれていた。
 それぞれの派遣教会も決まっている。甲斐さんは日本福音ルーテルシオン教会、笠原さんは日本ルーテル教団浦和教会、関さんは日本福音ルーテル水俣教会、八代教会、高伸さんは日本福音ルーテル新霊山教会、そして克博さんは日本福音ルーテル浜松教会、浜名教会。
 それぞれが刻んできた神学校と教会での学びと研鑽の歩みが、こうして主によって豊かにされ、新しい教会の歩みに重ねられていく幸いを、共に喜び、祝うことができた。
 個人的には、私も校長となって最初の神学校の夕べであって、この喜びを集まってくださった皆様とまた全国の教会の方々と分かち合えたことが、本当にうれしかった。
 祈り、支え、育て、また召してくださるのは、それぞれの教会、そして、そこに働いてくださる主ご自身であることを改めて心に受け止めている。感謝。



2014-09-14

2014年、一日神学校!

 来る9月23日、恒例の『一日神学校』が開催されます。
このポスターは、そのなかで行われる「こどもしんがっこう」のポスターです。


 今年の一神のテーマは「キリストの心をとなり人に〜新しいミッションの展開」としました。大学の大きな改革がなされた一年目。大学・神学校は何を目的としているのか。その使命を果たすべく、今の大学と神学校の姿をつくってきたことを、教会の皆さんにも、そして、社会のなかにもおつたえすることを考えました。

 開会礼拝!江藤直純学長が説教です。石居基夫が主司式を担当します。


 じつは、今年はルーテル学院が大学を設置して50年目にあたります。1909年に熊本で私塾のようにしてはじめられた神学校は、翌々年に一般青少年教育のためにはじめられた九州学院の中に位置づけられます。その後、1925年に東京の鷺宮に移転し日本中のルーテル教会への牧師養成を担う体制をつくりました。戦争中は一時期、教団の東部神学校に併合されましたが、戦後独立再開。64年に大学組織をおこなって、大学と神学校の6年教育で牧師を養成するようになりました。それから5年後の69年には現在の三鷹に移転し、教育体制を整えるようになりました。
 しかし、この大学としての歩みの中で、小さな教派が牧師養成ということだけで神学校・大学を経営することには困難も生じて、福祉教育をはじめるようになりました。少しずつ教育の幅を広げ、福祉に加え臨床心理も専門分野とするようになりました。
 福祉と臨床心理は、それぞれ学問分野としては全く異なるものですけれども、様々な困難を負う人々への支援のための専門職、その働きに関係する学問分野です。教会は早くから日本の中で社会福祉の施設を先駆的につくり、担っていましたし、そうした施設でも、また教会においても、様々な人たちの心の重荷に寄り添っていくはたらきを大切にしてきました。そのことをふまえて、牧師養成の大学・神学校はこの日本の社会の中に必要な働き人の養成、また学問的な貢献などを考え自分たちのなすべき使命ミッションをこの教育体制の中で考えてきたのです。
 今年は、大学を改革しました。3学科から1学科5コースの新しい教育の形をでここにある教育・研究の資源を用いていくように整えたのです。
 この小さな大学の目指していく教育を、少しでも知っていただければと思っています。
是非、「一日神学校」へおいでください。

2014-08-06

キリスト教のスピリチュアリティ

今年、日本ルーテル神学校では、「五感のクリスチャン・スピリチュアリティ」という公開講座をひらくことになった。ジェームズ・サック氏が担当してくださる。

http://www.luther.ac.jp/news/140801/index.html

キリスト教は「ことばの宗教」といわれることがある。信仰は、神のことばによって生かされる福音といえるだろうし、特にプロテスタント、ルター派の教会は「説教」、神の語りかけを共に聴くことの重要性を強調してきたといえるだろう。

けれども、同時にこのルター派においても、見えるみことばとも呼ばれる、サクラメント・聖礼典をもその「みことば」という概念の中に含み理解してきたことは意味深い。みことばが「聴かれる」ということにとどまらず、むしろ私たち人間がいきるという現実のなかにしっかりと味わわれ、染み渡っていくものとしてとらえられてきたのだ。

つまり、私たちが神のみことばに生かされ、その福音の喜び、恵みのうちに支え合い助け合うという生の現実は、単に信仰の知的な理解ということにとどまらない、私たちの生きる感覚すべてを通して分かち合われるべきものだと言ってもよいだろう。

私たちにとって、「ことば」は重要だ。しかし、同時にことば以上のことばが豊かにあることで「ことば」そのものが意味を持つのだし、また「ことば」はそうした経験を導き、整え、意味付ける。

「ことば」が、うまく機能しないようなときがある。ことばによっては、そのコミュニケーションが難しい場合がある。病気の時、あるいは小さな子ども、あるいは障がいを持つ場合、認知症のひととの関係。「ことば」がまったく意味をなさないということではないけれど、ことばを超えることば、ノン・バーバルなコミュニケーションが意味を持つ。ふれあうことや微笑むこと、相手を尊厳ある存在として、受け止める態度、雰囲気。そうしたことばにならないコミュニケーションもまた、キリストの福音の伝達、分かち合いの大切な一部なのだ。

世にスピリチュアリティを語るものは多い。けれども、キリストの福音を中心にすえたスピリチュアリティをとらえること、考えること、味わうこと、分かち合うことを深く取り上げているものはまだまだ少ないのではないだろうか。

この特別公開講座が、そうした状況に大きく貢献するものであると信じたい。


2014-05-16

2014年度 神学生修養会「教会と神学」

 例年、6月中旬に行われる日本ルーテル神学校の神学生修養会。今年は諸事情があって5月に実施した。テーマは「教会と神学」。キリストの恵みに生かされた弟子たちが、ペンテコステを経験してその喜びを宣べ伝えはじめたその時から、神学はいつでも教会の宣教の働きに仕えるように営まれてきた。だから、宣教の現場で生きて働く神学に触れることで、神学校での学びが将来牧師として働く自分自身の姿の中に生かされるものであることを確認したかった。



 JELC、NRKそれぞれから三人の若い牧師たちを招いた。藤木智広牧師、後藤由起牧師、関野和寛牧師。彼らが、牧師として宣教の現場でどんな課題を見てきたか、教会のなかでどんなチャレンジを受け、なにを試みてきたのか。その只中で様々な現実を乗り越え、突破していくために何を考えてきたのか。
 それぞれにさらに留学をしてきたり、神学的学び・研究を積み重ねようとしている三人が、そうした取り組みこそが神学としてどんなふうに確認されてくるかを聞くことができた。教会という現場にあるからこそ、教会のなかで役員をはじめとする会員とともに生き、働き、一緒に考えつつ歩み、そこで働く牧師としての責任とともに彼らの生の声を聞くことは本当に意義深いことだった。
 神学生は多いに学び、刺激を受けて、今すべきこと、出来ることに思いを新たにしてくれたと思う。神学教員として、神学をするものとして私自身も多いに学んだ。
 教会は、いつでも終末に向かう途上にある。かつての姿も、今の姿も決して理想的なものでも、絶対的な形でもない。福音が分かち合われるために、誰とともに生きているのか、何を大切にし、どんな現実のなかにある人へ仕えようとしているのか。問い直しつつ、固定した形にとらわれないで、新しい姿をまたかりそめの姿としてでも、むしろ確かな神の国への一歩を刻むと心得ればよい。キリストのからだとしての教会の、そんな歩みのために私たちがともに考え実践するところに、本当に生きた神学があるのだ。

 神学生には、その「神学する力」を神学校の学びのなかで身につけていってほしいし、神学校の教育はそうでなければと考えている。神学はいつでも、そうした現場での神学的格闘の積み重ねの中にあって、叙述されてきたのだ。そこから学ぶべきことは汲み尽くせないほどのものがある。現場で生かされる神学のために、いや、明日の教会の働きのために、二千年に及ぶ神学を歩みに、しっかりと学ぶものでありたい。

2014-04-22

 神学校の聖週間とイースター

 神学校では、今年も、聖週間の礼拝を寮のチャペルで毎日守り、そして、イースターヴィジルを三鷹教会と合同で行った。神学生は、この間もそれぞれ実習教会のプログラムにも加えていただき、イースターの喜びへと連なっていくこととなった。

(写真は、ヴィジルの礼拝での復活のロウソクと洗礼を覚えるための水と枝)
         
 イースターは、毎年日にちが変わること、そして年度の節目と重なることもあってそれぞれ違った味わいを頂くことでもある。今年はちょうど4月の第二週から三週ということで新年度の学び、実習のスタートと重なって忙しいけれども充実した密度の濃い時間を神学生が共に過ごすことができたのではないか。
 
 私自身も、久しぶりに洗足木曜の礼拝を担当させていただいた。神学生とともに祈り、また洗足の式で足を洗い合い、主が私たちに命じられた「互いに愛し合いなさい」とのみことばが、主ご自身の深い愛に包まれ、支えられ、生かされていく恵みのなかに語られたことを受け取ることができた。今、この場所を離れている仲間をも心に留めながら深い祈りへと導かれた。

 やはり共に集い礼拝に与り、祈りを合わせて、みことばに養われることでこそ信仰が支えられ、宣教へと遣わされる一人ひとりがたてられてくる。ただ神学生の学びと研鑽が行われるというのではなく、そうした信仰の共同体として神学校が与えられているということが何よりも大切なことと改めて思う。