2019-07-10

死者の声を聴く〜ドラマ『監察医 朝顔』の初回を見て

 少し遅くなった食事を食べながら、つけたテレビのドラマは、久しぶりに心を惹きつけた。主役は上野樹里の演ずる監察医、万木朝顔。彼女の演技は、かつて映画『スウィングガールズ』やテレビドラマ『ラストフレンズ』を見たこともあり、それだけでもこのドラマは面白そうと思ったが、その本当の力に引き込まれたのは、初回の後半だった。

 ストーリーの展開は、いわゆる刑事物の類で、不審な死亡事件の謎が検死によって見出される諸々の痕跡によって解明され、解決されていく展開で、もちろんその亡くなった人物をめぐる人間ドラマによって現代を生きる人々、つまり私たちの日常に隠れた様々な問題が浮き彫りにされてくるというものだ。
 上野演ずるところの朝顔は、遺体に語りかけ、その体に触れメスを入れることに許しを求めながら、教えて欲しい、聞かせて欲しいと願ってから検死を行う。そんな様子に、死者に対する深い敬意、人間とは何かということについてのドラマの姿勢も見えてくる。すでに亡くなって、言葉を奪われたままのその「人」は、もう実在しない。そこにあるのは「遺体」でしかないのだ。しかし、その死者の遺した体は語り出す。その声に聴き続けることでしか、真実にたどり着くことができない。『遺留捜査』とか『アンナチュラル』とも似た設定で、ドラマとしての構成は王道。時任三郎演ずる刑事万木平はその父親でもあり、その親子のやりとりも面白い。


 もちろん、それだけでも、ドラマの面白さは十分に味わえる。ま、ありきたりと言われれば、そうかもしれない。けれど、私がこのドラマに引き込まれたのは、その1時間枠を超える頃、初回延長時間に入ったところだった。このドラマの軸を受け持つ親娘、平と朝顔の背景が描かれる場面。
 事件解決となって、久しぶりに朝顔は父、平とともに母の実家の祖父を訪ねる。その道すがら、この二人の親子の背負う背景が見えてくる。それは、この朝顔の母、そして平刑事の妻はあの3・11の被災で行方不明となったままということだ。あの日あの時、たまたま母とともに母の実家に帰省した朝顔は、その道の途中で震災に遭遇。知り合いのおばあさんを案じた母がその様子を見にいき、朝顔を実家の祖父の元へと向かわせる。仲睦まじく、また思いやりのある母娘の、このやりとりが二人の最後の会話となった。津波以後見いだすことのできない母を探し求めて、最後は遺体安置所にも足を運ぶ。しかし、おそらく何も見出せないままなのだ。
 その後、朝顔は長く祖父の元を訪ねていない。いや、それができないままであるということが、ここで明らかになるわけだが、まさにその事実がこのドラマに深みを与えている。父と二人での旅に硬い表情の中、回想されるその日の様子にドラマを見ているものが事情を察する。しかし、いよいよ祖父の待つ地の駅に降り立つと、朝顔の様子はさらに硬くなる。動けない。動悸がはげしくなって、もう体を前に進めることはできないのだ。PTSDの症状ということだろう。結局、彼女は約束した祖父の元には行かれず、この駅から一人今来た道を引き返すことになった。
 父は、その娘が電車に乗り込むのを見送りながらいう。「一人で大丈夫か。ごめん、ダメなのは父さんの方なんだ。お母さんを探していないと…」具合の悪い娘を一人で帰らせても、この地に残る平には、どうしてもしなければ気のすまないことがある。続く場面では、刑事として持てる捜査技術で、海岸べりを徹底して妻の遺留品を探している平の姿が大写しになる。大事な妻を失った、その時、そばにいることができなかった、後悔とともに、平は妻の「何か」を見出そうと、必死に砂を洗い続ける。彼は、娘朝顔とは違い、八年間、繰り返しこの地を訪ねてそうして過ごしてきたのだ。
 この二人を描く描き方が特にも観る者の心を惹きつけたのだが、とりわけ上野演ずる朝顔の中のある「真実」が色々なことを汲み取らせる。(「惹きつけ」られたのは確かなのだけれど、実は、相当に動揺した。見ていてすぐに「これ放送して大丈夫?」という問いに囚われたと言ったほうがいい。描かなければ、伝わらない真実がある。でも、このドラマがいう通りに、まさに傷ついたままにある人々があるのだ。それをいきなりこうして突きつけられるのは、大丈夫?という感覚。八年たったから?でも八年たっても、というのがこのドラマなのだから。ちょっと、何か字幕ででも、注意喚起があってよかったのではないか。)
 震災の後、復興は進んでいるか。それすら、考えさせられるのだが、復興はその土地に生きた人々に何をもたらそうとしているのか。深く傷ついた人々、大切な家族を失った人々の心には、痛みがあり、過ぎ去らないままの「出来事」がある。過去なのに、もう戻ってくることのない過ぎ去ったはずのことなのに。過ぎ去ることのない痛み、苦しみ、そのどうにもならなさ。それは、その人にどのような時を生きさせるものとなっているのだろう。復興は、そのひとの新しい時間を作り出すものなのだろうか。埋め立てられ、変わっていくその土地の姿の中に、探し求めるものが、もう探せないものとなってしまうだけなのではないのか。いや、それでも作り出そうとする復興の姿は一体何を必要としているのだろう。

 朝顔は、いまだに解かれることのないこの「出来事」のゆえに監察医として生きる今を生きているのだろう。これがきっと、これからこのドラマの展開の中に、より鮮明に見られるものとなるのだろう。
 死者は、確かに「死者」であるに違いないだろう。でも、その「死者」とどう向き合っているのか。そう生きているのか。八年を超える年月を数えても、この喪失に答えを探し続ける人たちのあることを忘れてはならない。

 そして、それは、きっとあの大きな災害の中にだけ起こっているのではない。日常の中に埋もれ、流されていく私たちの確かな関係の、あの人もこの人もやがて時がきて、失われていく。その死者たちと私たちはどのように生きているのか。

 死者の声を聴く。このテーマがこのドラマにどんな深みを見せるものとなるのか。しかし、ドラマ以上に私たち自身が、何を汲み取っていくのか、試されているようにも思ったのだ。