2017-12-18

『咲いていること』

 
小さな絵本の紹介です。クリスマス用に小さなプレゼントを紹介して欲しいとリクエストがありました。もう、少し前の出版なのですが、すてきな絵本です。ご紹介します。

                   

 『咲いていること』
 一つひとつの頁に、一粒の種が花を咲かせる小さな物語が描かれています。小さな花の小さな物語は、「ただ、そこに咲くだけ」の出来事をたんたんと語ります。その場所に招かれて、そこに咲くこと。種は自分で選ぶことも決めることもできないのですが、それが誰かの慰めや、いやしになるようにと与えられた、その種の存在の意味として受け止められていくのです。とくべつ、何かをするわけではありません。気づかれないままに終わるかも知れない一輪の花なのです。それでも、そこにいのちを咲かせます。
 
 渡辺和子さんの「おかれた場所に咲きなさい」や、松尾芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」の物皆自得にも通じるものがあるでしょうか。みことばの種のことかもしれませんし、私たちのいのちの不思議のことかもしれません。ルターのベルーフ(召命)の考えもみることも出来るでしょう。
 でも、むしろ、この語られた物語をしずかに味わってみていただければ、それでいいのです。子どもから大人まで、だれにとっても読みやすい絵本です。読みながら、きっとこころの奥にひびいてくるものがあるに違いありません。自分自身の、魂の奥に、何かが語りかけられるでしょう。

 イエス様は、誰にも気づかれないような宿屋の厩にお生まれになられました。誰にも顧みられることの無い人々の友となるお方。神のまなざしと愛の御手が誰に向けられているのかを示すように、世界の片隅においでになられたのでした。そのいのちは、人々に慰めと癒し、そして喜びをもたらす存在です。
 この絵本のメッセージとも重なってきますね。
 クリスマスのストーリーではありませんが、クリスマスのプレゼントにしてよい作品の一つではないかと、ご紹介します。

 私の先輩牧師でもあり、敬愛する友、立野泰博牧師の作品です。絵は平岡麻衣子さん。ザメディアジョンから2009年の初版です。
 
 日野原重明先生が推薦の辞を帯に書いていらっしゃいます。

2017-11-29

「共同記念」の苦労と喜び

日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会の共催で、宗教改革500年共同記念の行事が、11月23日祝日にカトリックは長崎の浦上教会において無事開催された。
五百年目にして、このように相互理解と交わり、そして共同・協働が可能になったことは、なによりも真の「対話」を重ねて来たことによると思う。



以下のURLにて、当日のシンポジウム、そして共同記念の礼拝を視聴できる。

https://www.youtube.com/watch?v=CkLUSYOPZoA

全国から600名近くのルーテルの信徒があつまり、同様にカトリックから長崎を中心として600名が参加されて1200名を超える方々が浦上の会堂を埋めた、その様子だけでもご覧いただければと思う。

この共同記念は、簡単に実現したわけではない。日本のカトリックとルーテルとで30年に渡り対話を重ね、洗礼の相互承認、そして『カトリックとプロテスタント、どこが同じでどこが違う』の出版や、『義認の教理に関する共同宣言』、『争いから交わりへ』の翻訳・出版を行い、2004年、また2014年と過去2度にわたる合同での礼拝を実現してきたことが、この企画を実現するための下地だ。カトリックの高柳俊一先生、ルーテルの徳善義和先生らが牽引してくださってきた神学的な対話ための委員会も、すっかり世代交代したと言ってよいだろう。委員会は、この企画のための準備委員を選び、企画原案をつくりながら委員会へと報告し、それぞれの教会レベルでの決定へと進めた。
今回の企画は、委員会での企画ではなく、教会レベルのものすることにこそ意義がある。しかし、委員会レベルにおいてさえ、両教会の間には大きな温度差も存在した。まして教会レベルでの取り組みとすることがどれほど困難なことだったか。
カトリックにとっては宗教改革を「記念」すること自体にそもそも意義を見出すことはできないし、日本という状況で言えば、そもそも乗り越えたり、克服したりしなければ成らないような「争い」も経験しているわけではない。この企画の意義とは一体何か?ということは国際レベルの委員会がリードをしてくれて文書を出した後でさえ、自分たちのものと成らなかった。
それでも、改めてこの宗教改革500年の時だからこそ、私たちが取り組むべき意義があることを見出していく。
一つは第二バチカン以降の両教会が重ねて来た対話と一致のための歴史を16世紀の分裂の歴史に対する責任として両教会が世に示していくべきではないかということが深められた。宗教改革ということが年号と出来事の暗記ものとしての歴史に成ってしまうのではなく、むしろ、私たちがその歴史に責任を負って生きる者であること証言していくべきなのだと理解されたことだった。
二つ目は、平和のメッセージを出す責任を理解したことだ。唯一の戦争被爆国、そして3・11での原発事故を踏まえて、非核という喫緊の問題に直面して、平和を単に国際関係の問題としてだけでなく、神のつくられた被造世界への責任として理解するとき、私たちが日本で、カトリックもルーテルも一人のキリストに結ばれて今、世界に発信するべきことがあるのではないかということだった。
この二つのことを踏まえて、ようやく動き出すこととなるのだ。
それでも、これが動いていくプロセスには、大きさもそうだがあらゆる意味で両教会には組織的な差があったために、準備にあたるものの苦労は、実は作業的なことばかりではなかった。総論でよしと成っても、各論、つまり実際はどこでどうするのかということが具体化しなければ成り立たない。これには、さらなる苦労が重なることと成った。
 つまり、「長崎」という場所が唯一カトリックとして取り組む土壌として浮上して、企画は軌道に乗せられたのだ。しかし、さて、ルーテルの側では「長崎」には小さな教会が一つあるのみで、しかも現在は専従の牧師をおいていない。この差のなか、出来ることは東京で準備していくことだったが、この取り組みを日本のキリスト教の歴史に対する一つの責任とも理解してきたし、自認するからには、このギャップは実は本当に大きなチャレンジと成ってくるのだ。
 それでも、執行部、事務局長は身を粉にして足しげく「長崎通い」をして一つひとつ理解を求め、この地でのカトリックの深さと大きさに圧倒されつつ、この地でとりくむことが出来ることの意義を、本当に深く知っていくことと成った。
 そうした積み重ねが、ようやく具体的な形になって希望が見えてくるのは、今年の春から初夏にかけてだ。そこからさらなる詰め、現場での実際を可能にする準備は直前一ヶ月でも終えられなかったのだ。それでも「長崎」現地の浦上の方々の大きな理解と協力を得て、これが実現していく。
 改めて、今回、この取り組みができたこと、大きな喜びのなかに味わっている。
 
 当日の感動は、さらに、深いものとなった。シンポジウム、礼拝のそれぞれの企画の布告とともに、また別に記したい。
 今は、まず、これを終えたことで、この歩みができたことを、神様の恵みとしてただひたすら感謝する。

2017-11-19

11・23 宗教改革500年 共同記念礼拝 

 この11月23日、長崎でのカトリックとルーテル両教会が宗教改革500年を共同で記念する。そのメインは、共同記念礼拝だ。カトリック浦上教会に約1500人が集うこととなる。
 礼拝の主題は「すべての人を一つにしてください」。


 説教者は、日本福音ルーテル教会総会議長立山忠浩牧師と日本カトリック司教協議会会長高見三明大司教の二人。
 神のみことばによって導かれた一致と協働であることを覚え、福音を聞き、和解と平和の恵みを分かち合い、そうして分断された現代の世界へ神の恵みを伝えるよう祈りを合わせていく礼拝としたい。


 この礼拝に与った一人ひとりが、この世界の平和と一致を祈り、また新しい未来に向かって主の働きのなかに自らを捧げ、委ねていくことを具体的に表していくような礼拝となればと願っている。集められた祈りを執り成し祈り、共に主に仕え、明日の世界に希望をつないでいく。きっと、そんな礼拝となることだろう。

礼拝は、以下のサイトで同時配信される。

https://www.youtube.com/channel/UCs8_-OJJpWCurq3l4gFVA1Q/live


 

2017-11-18

11・23シンポジウム「平和を実現する人は幸い」


宗教改革500年、ルーテル・カトリック両教会による、共同記念が11月23日に行われる。



午前中はシンポジウム、午後は礼拝。
シンポジウムのテーマは「平和を実現する人は幸い」。
シンポジストは、三名(組)による。
はじめに、「長崎からの声」として橋本勲司祭と深堀好敏氏。深堀氏は、今年の8月9日の平和祈念式典で平和への誓いを被爆者を代表してはなされた方だ。ご高齢なので、当日の出席が心配されるが、橋本司祭がサポートしてくださって、長崎・浦上のキリシタン弾圧と被爆体験の苦難の歴史体験を踏まえたなかから、信仰と平和への願い、取り組みの証しをお話しいただける。
その次は、石居が担当させていただき、私たちが平和を願いつつそれを実現することがなかなか出来ないでいる私たち自身の「罪」の問題を取り上げる。キリスト教に限らず、宗教というものの陥りやすい過ちについて、気づいていくことの大切さを考えたい。そして神の恵みの働きの中に生かされていくルターの信仰に学び、また、このエキュメニカルな交わりの成果にたちつつ、いま何ができるのかを考えていきたい。
最後に、カトリックの光延一郎神父にエキュメズムという視点から平和に取り組むことを深くお話いただく。特に「カトリック性」が全体を一つのものとして捉える視点であることから、現代のように多様化し、また深い分裂や争いの絶えない世界の中でのこれからのキリスト教の責任を説かれる。あらたな宗教改革を生きるべきことをお話いただく。

宗教改革500年は、単なる過去の記念ではない。それがなんであるか、ということを深く問いつつ、今の私たちが何をするのか、その改革を新たに自らのものとするべきことを捉えることだろう。
シンポジウムも礼拝も、参加できなくても、ネットを通じて配信される。是非、それぞれの場所で参加いただければと願う。



2017-11-06

今、宗教改革をおぼえることの意義



(写真は2016・10・31ルンドでのLWFと
                       カトリック教会の共同の祈りの礼拝)

☆宗教改革とは
 16世紀の教会改革運動:ドイツのルターによって始められ、カルヴァン、ツヴィングリなどによるスイスの改革運動や、イングランドにおける英国国教会の改革の取り組みなどに広がりをもつ。この一連の改革運動は神学者同士の単なる教義学的論争ではなく、全ての信徒の信仰生活と教会、そして社会全般に大きな影響を与えるものとなった。

☆激動の世界の中で生きる人々に
 近代に向かう中世末の16世紀。大航海時代と新大陸発見に世界の広がり、活版印刷術という新しいメディアの登場と各地域における産業と資本主義の胎動は、政治的・宗教的に固定化した中世社会の崩壊をもたらし、一人ひとりがどう生きるのか問われる時だった。
 ペストや飢饉が、ヨーロッパ全体に死の恐れと不安をもたらし、「メメント・モリ」、「死の舞踏」ということばに象徴される精神的・霊的危機状況をもたらした。真剣に神を求める時代であったし、その神に人間が取って代わろうとする近代の夜明け前でもあった。
 宗教改革とは、この激動の時代の苦悩を生きる人々によって、キリストの福音が今一度問い返されていったことだと言える。ルターは時代の人として、聖書に取り組み、それまでの教会のことばによっては伝えられない福音の根源的な意味を、「十字架の神学」、「信仰義認」のことばによって民衆のなかに伝えていくこととなった。

☆福音の鮮明なる宣言
 中世における聖人を称え、立派な信仰者となることを目指す敬虔な信仰は、神の救いを人間の素晴らしさのなかに押し込めてしまいかねなかった。その人間の功績すべてに神の恵みを見ているといっても、このスコラ神学のことばは、結局神のはかりに適わない人々を救いから遠ざけているようなものだった。しかし、本当は、人はあまねく神から遠い「罪人」に過ぎない。だからこそ、キリストがその罪人のわたしのもとにおいでくださった。ルターは、その神の救いの働きに信頼するだけだという。
 神が見えないところ、弱さ、みすぼらしさ、絶望の只中(十字架)に、神がいたもうことを信じる信仰だけが、反対の層のもとに隠された神を知る。ルターは、この福音を鮮やかに、力強く、喜びをもって語ったのだ。

☆エキュメニカルな交わりなか、主の宣教のために継続する改革
 宗教改革500年の記念は特別である。第二バチカン公会議後の50年に及ぶ対話が、過去の対立と争いを乗り越え、新しい時代に向けて宣教の協働を求めつつ、ローマ・カトリック教会とルーテル教会は一致と交わりの道を歩み始めている。かつて袂を分かつことになった宗教改革が、福音理解を深める霊的な賜物と理解されている。16世紀の分裂の鍵「義認の教理」が、21世紀には交わりの回復のしるしなのである。
 この歴史の中にある限り、教会は何時でも改革されなければならない。神は、同時代に生きる人たちの苦悩に寄り添い、キリストの福音を分かち合うように求められている。人間の飽くことなき欲望が、世界に分断と争いをもたらし、また自然を破壊していく。この現代に、互いに助けあう愛と平和、そして被造世界の保全のために罪人である私たち一人ひとりが召されているのだ。みことばによって、私たち自身が神の愛に満たされ、赦され、新たに生かされて、自らを絶えず新たに悔い改めていく勇気を持つべきということだろう。

 宗教改革を憶えることの意義は、ここにこそある。

(11月3日に行われた日本福音ルーテル教会東海教区と名古屋キリスト教協議会共催の「宗教改革500年記念大会」に寄せて書かせていただいた文章です。)

2017-10-20

ルンドからナガサキへ

  宗教改革500年 ルーテル・カトリックによる共同記念

     「平和を実現する人は幸い」について





【新しいことばを】
 宗教改革五百年を迎えた今年、世界中いたるところでそれを記念する行事が催されているが、なかでもルーテル教会とカトリック教会の合同の記念は、特別な意味を持っているといってよいだろう。16世紀には分裂して、互いに断罪し、争う関係となった両教会が、時を得て、この歴史を受け止めつつ、未来に向かう一致と共同を示しているのだ。『争いから交わりへ』。このテーマこそ、五百年目にして歴史を語り直すための新しいことばとなった。
 昨年10月31日にスウェーデンのルンドで行われた「共同の祈り」の礼拝は、カトリックのフランシスコ教皇とムニブ・ユナンLWF議長による司式で行われ、今年の記念の意味が示されたのだった。第二バチカン以後50年かけた対話の成果が、新しい時代を作るものとなるように、キリスト教会の全体の一致への道筋を示したのと同時に、世界に対するキリスト教宣教の使命を受け取っていく礼拝であった。





【日本での取り組み】
 日本福音ルーテル教会と日本のカトリック教会は1984年から30年以上にわたる対話を重ね、神学的な相互理解を深めながら、洗礼の相互承認、共同での出版事業や礼拝などを実現してきた歴史をもつ。だからこそ、この宗教改革五百年も特別の意味あるものとしようと、数年前から準備を重ねて計画してきたのだ。「平和を実現する人は幸い」。これをテーマとして、今年11月23日に長崎は浦上天主堂にて、宗教改革500年の共同記念を行う。ルーテル側は教会の総会で、カトリックは司教協議会での決定を踏まえているので、この共同記念にはそれだけの重みがある。そして、これは単なる教会間の交わりの回復の喜びを超えて、今の世界と歴史のなかに両教会がキリストの教会として確かなメッセージを示していくことを目指しているのだ。対立から交わり、そして神と共にある共同・協働へという歩みそのものが、現代の世界に一つのメッセージになっていくと信じたい。

【時代の苦悩に応えて】
 現代世界は、一方には国と国、人々と人々が対立し、宗教的主張と対立を巻き込むようにして争い、殺し合う現実がある。また他方では、人間の文明が被造世界に大きな破壊と危機をもたらしているという現実もある。キリストの福音は、この世界の現実の只中に神の国の実現を告げ知らせる。そして、同時に、その恵みに応えていく人々の働きを産み出していく。唯一の戦争被爆国であり、世界中の注目と支援を集めることとなった東日本の震災と原発事故を経験した日本にあるからこそ、世界に向けて確かな福音の証しと平和への執り成しを祈る意味があるだろう。被造物全体の救いが求められ、キリストの教会はそのための使命をいただいている。
 16世紀の宗教改革は、時代の苦悩に対する福音の深い洞察とまた確かな信頼、そしてその宣教を教会のなかに呼び覚ますものだったといえよう。現代の中で、私たちが教派を超えて結び合うことを、この脈絡のなかに捉えたいのだ。





【ナガサキから】
 浦上は、奇しくも今年あの浦上四番崩れから150年の時を迎えている。キリシタン迫害の歴史には、人間の権力が霊的存在としての人間の魂に対する暴力が刻まれている。長崎では、それでも信仰は重ねられてきた。生きられた信仰がある。その「ナガサキ」が、しかし今度は、帝国主義にかられた国家のもたらした戦争の悲劇のなかで再び被曝を経験することとなったのだ。
 今年、ここにカトリック、ルーテルの信仰者が共に集い、私たちの歴史に深く心を置き、それにも拘らず主の恵みの導きがあったことを知り、共に神の平和の宣教のために祈りを合わせる。
 宗教改革500年は、単なるお祭りではない。この共同記念は神の出来事の一つの証しになると信じたい。私たち自身が、教派を超えてキリストに生きるものとして、その神のみ業に与りまた、その証人となる。
                   (ルター研究所発行「ルター新聞」69号より)

How to join
https://luther500.wixsite.com/commemo

おいでになれない場合には、以下のURLで 同時配信。ネットで参加ください。

https://www.youtube.com/channel/UCs8_-OJJpWCurq3l4gFVA1Q/live


2017-09-12

「フクロウの声が聞こえる」を聞いて

先週Mステで、オザケンとセカオワがコラボで新曲「フクロウの声が聞こえる」を披露。何だか知らないが、揺さぶってくれた。今も、むねに流れる。ことばにも音楽にも力があるけれど、なによりオザケンの歌の力に圧倒された。ひさびさに、なにかをもらった気がする。

渋谷系といわれた頃のオザケンをそんなに知っているわけではないけれど、おしゃれな新時代のバックミュージックのような軽快さを響かせていたと思う。そんなオザケンの新しい挑戦はきっと冒険だ。けれども、セカオワを圧倒する彼のパフォーマンス。楽曲の力を感じた。

もしかしたら、これだけの企画なのかもしれない。こんなコラボで作られた事情も私は知らない。オザケンの古いファンには受け入れられないのかも知れない。逆に、セカオワは、もともとそんなにたいしたことないということかも知れない。でも、この融合のなかで、オザケンの見せる魅力。

 発信する世界観。未来を夢見ることの出来ない時代に、新しい希望の扉を開けていこうとする。おもちゃばこをいたずらする子どものように、ことばを使って描こうとするのはなんだろう。真夜中に響くのは、確かに生きるフクロウの声。闇の深さにも、明日が見えてくる。本当と虚構、混沌と秩序、絶望と希望、残酷さと慈悲の両方を抱え込んでも、崩壊しないようなたくましさを求めているようだ。
 バブルがはじけた90年代に、現実の重苦しさをさっさと脱ぎ捨てて街中をかっこ良くすり抜けていくようなオザケンが、こんなふうに時代を受け止めて何かを見出したいと音楽することへの驚きなのかな。

 今を共有するオジサンとして、共感したということなのかも知れない。新しい何かを、こんな時代だからあきらめないで見出したい。そして、それをみんなで楽しく描き出したい。わくわくするような明日を、次の世代に残したい。アラカンとなって、本当はもう去り際を考えるべきだと思いつつ、後10年の現役をゆるされるとして、なにをするのかと問う自分に、勇気をもらったことだけは間違いない。

「オザケン」ファンでも、「セカオワ」ファンでもない。音楽事情通でもない全くの素人が、Mステを見て感じたままに。

2017-09-08

日本ルター学会 宗教改革500年記念学術大会

宗教改革500年の年。ルターの宗教改革を記念しながら、現代を、プロテスタンティズムを、キリスト教を問い直すことがさまざまに取り組まれている。
 日本ルター学会も、当然にこれに取り組む。


金子晴勇先生の代表的研究は『ルターの人間学』といってよいだろう。西欧思想史の緻密な研究をもとに人間学、霊性の問題に切り込んでこられた。先生のライフワークとなったこの霊性研究の視点から、宗教改革の意義を問い直す講演は是非聞いておきたい。

また、シンポジウムは宗教改革史のなかでどちらかと言えば脇役となった人物研究を深めて来られた先生方に宗教改革を少し違った視野から捉え語っていただけることだろう。いままでにない、ルター像、宗教改革像が見えてくるに違いない。楽しみ。
 
 日時:2017年10月7日(土曜日)午後1時から5時まで
 場所:日本福音ルーテル東京教会 

是非、おいでください。



2017-09-07

こどものグリーフケアのために

 だいじな人を亡くす喪失の悲嘆は、年齢に関係なく誰にでもあるものです。たとえその哀しみの様子が見えていなくても、心のふかいところに抱きかかえているものがある。そうした別れを経験した子どもたちのグリーフ(悲嘆)に目を注いで、注意深く寄り添うことが必要とされます。デール・パストラル・センターはそのグリーフケアの働きを長く続けてきています。
 
      (『わすれられないおくりもの』スーザン・バーレイより)

この秋も、この働きを担うファシリテーターの養成の講座を下記の要領で開きます。

 研修日時:2017年10月14日(土)・28日(土)10:00~17:00
 会 場 :ルーテル学院大学(東京都三鷹市大沢3-10-20)
 対象者 :定員10名
 参加条件:①及び②が研修の参加条件となります。
         ①18~55歳までの方で、子どもに寄り添う活動に参加する気力と
          体力をお持ちの方。
         ② 2日間の研修すべてに参加でき、グリーフ サポート活動(奇数月第
                             4土曜日、年6回)に関心のある方(交通費が支給されます)。

*研修後に実践活動(子どもの集まり)参加希望者には面接(一人10分程度)を行います。

 研修内容:
 1日目:自らの喪失に気づく。グリーフワークに関する基礎知識、子どもの死の理解と表
     現のし方等。
 2日目:子どもと接するための大切な技法とその練習。

 研修担当:ダギーセンターモデルの研修を受けたグリーフサポート研究会のメンバーが
      行います。

 参加費 : 6000円 (学生:2000円)*当日、受付にてお支払ください。

当日の持ち物:筆記用具、昼食や飲み物を各自持参。動きやすい服装でおいでください。
問い合わせ先:080-9682-7830  または  atsumari.g.7830@softbank.ne.jp
お申込み先 :atsumari.g.7830@softbank.ne.jpへ下記の内容をお届けください。
お申し込み期間:
        2017年9月1日(金)〜9月23日(土)

*締め切り後に担当者よりご連絡いたします。
                             
DPC 所長 石居基夫

2017-08-28

ルター研 宗教改革500年「秋の講演と音楽の夕べ」

ルター研究所の秋の講演会
今年は、宗教改革500年記念として、「講演と音楽の夕べ」を企画している。
場所は、日本福音ルーテル東京教会、日時は、10月31日午後7時から
宗教改革記念日の夜に贈る、特別企画だ。例年はこの日に東教区の記念礼拝があるが、今年は礼拝のほうは11月4日の、これまた特別な企画で行われる。これは、別にご案内したい。とにかく、この記念日に、講演と音楽で改革の意義を深く味わいたい。


講演は二つ。竹原創一氏「95ヶ条の今日の意味」と鈴木浩所長「宗教改革の核心」
ルター研究の第一人者のお二人だ。
加えて音楽は、
J・S・バッハのカンタータ80。ムジカ・サクレ・トウキョウ(山田実指揮)。


2017-08-23

シンポ「宗教改革とポスト近代」

宗教改革500年を記念する行事が、この秋には目白押しだ。特にプロテスタント系の大学や学術会議、教会では、競っているわけではないだろうけれども、同種の講演会や集会が組まれている。

それぞれに興味深いし、特に海外から招くこととなっているその分野研究での世界的第一人者と呼ばれる先生方の講演会は、普段なかなか聴くことができないので、是非にこの機会を生かして学びを深めたいものだ。

しかし、やはり私たちはこの日本においてこの歴史的な節目を迎えているという特殊性の中から思索を深めるものでありたいと思う。その意味でも、各種の研究者らが協働で企画を考えたりシンポジウムが開かれたりしていることは、非常に重要だと思う。
日本基督教学会第65回学術大会(2017年9月29日〜30日・場所ルーテル学院大学・神学校)も、2日目午後のプログラムにおいて、特別な企画を組んでいる。

シンポジウム「宗教改革とポスト近代」(9月30日 14:00~16:30  )は、神学畑からだけでなく、より広い視野から宗教改革の意義をとらえ、今、この宗教改革500年を迎える意義を問うものだといってよいだろう。
 

シンポジスト:大澤真幸氏(社会学者)
       江口再起氏(ルーテル学院大学)
       深井智朗氏(東洋英和女学院大学)
       西原廉太氏(立教大学)

大澤真幸氏は学会員ではないし、キリスト者でもない。キリスト教を専門にしているかというとこれも違うと言ったほうがいい。しかし、キリスト教についての深い関心に裏付けられながら歴史、特に近代の問題を深く学んでおられる。
江口再起氏は、ルーテル教会の牧師としての勤められた後、キリスト教学、特に歴史と組織神学を専門としてこられた。『神の仮面』にも見られるようにルター神学を基に現代社会を深く考察されてきた。
深井智朗氏は改革派の神学的な立ち位置から近現代を問い、積極的に 著作を出してこられた。近著「プロテスタンティズム」は、保守的ルター派と第二世代のプロテスタンティズム の二重構造から近代を切り開いて見せる。
西原廉太氏は日本聖公会の司祭としてアングリカニズムの研究を深めつつ、現代世界 のエキュメニズムの研究と実践に大きな貢献をされてきている。教会の現実を踏まえつつ、教派を超えての交わりにキリスト教の豊かな広がりと可能性を求めている。
 

この方々に、今の課題を見定めていくために「近代」をどのように捉えるのか、またそこで宗教改革とは何かを語っていただけると思うだけで、わくわくする。私たちが時代の曲がり角で、改めて、キリスト教の可能性をみいだすことになるだろう。

宗教改革は中世末の出来事といってよいと思うが、ここは「近代」の黎明でこのすぐあとにヨーロッパの新しい時代がはじまる。近代を呼ばれるが、いわゆる「モダン」。20世紀末には、この「モダン」の世界状況は終焉を迎えたと考えられ、いまは「ポスト・モダン」の時代とも言われる。
では、モダンとは何か。未だ中世に属する宗教改革の契機の中に「モダン」を捉える何があるのか。それを超えるということは、何を意味しているのだろうか。



2017-08-07

2017一日神学校 宗教改革500年「ルターのこころを現代に」

今年も例年のように一日神学校が計画されている。今年も、9月23日!土曜日・祝日。
しかし、例年とは違う。今年は宗教改革500年を記念する年だ。
  

 今からちょうど500年前、ドイツに生きた一人の修道士マルティン・ルターは時代を生きる人々に対し、神の恵みのことばを行き渡らせようと改革の呼び声をあげた。中世末、ペストの流行や飢饉などで死が蔓延する時代、そしてまた新しい産業の胎動が社会全体を大きく変えようとしている不安定な時代。恐れや不安が人々のこころを捉えていた。
 ルターは、一人ひとりが、神に生かされるいのちを生き生きと喜びをもって生きることができるように、共に支え合い、仕え合う世界の実現を望んだのだ。それは、単に宗教とか教会という枠の中の改革という事ではなく、公的な社会の中で教育や福祉を整えていく具体的な「かたち」を形成していく責任を自覚した取り組みとなっていく。この改革の運動が西欧全体に大きな影響を与え、苦難を伴うこともあったが、新しい時代を切り開いていく原動力となったといってよい。

 宗教改革500年目の今年、私たちの「一日神学校」は改めてこのルターのこころをうけとっていきたい。

 神の恵みを深く知り、世界のなかに、また人々のこころと生活のなかに、その恵みを守り実現していくことに、ルターはこころを砕いたのだから。私たちルーテル学院、大学と神学校は、そのルターの精神を引き継ぐことで、21世紀の現代を生きる人々の苦悩に応えていく使命をもっている。キリストの恵み、教えに学びながら、神と世界、人間といのちの理解を深め、この使命を実現していく取り組みを、この「一日神学校」でみなさんと共に確認させていただきたい。
 
 今年も、どうぞこの「一日神学校」においでください。
 

アニメ「君の名は。」 を見て…

 新海真の「君の名は。」。「秒速5センチメートル」や短編を見て、10代の感性!?をこんなにも率直に描けるのもすごいものだと思っていた。この新作の上映中の人気ぶりが気になって、何度か見に行きたいものだと思ったが、どうにも時間が作れずに断念。
やっと、DVDがリリースされたので、期末の試験期間が終わったその日に、約2時間を楽しみながら、なにか授業につかえるかなと、いろいろ考えながら見てみた。

 「いのち学」関連の授業では、身体と心(そして、たましい)の問題を取り上げている。キリスト教的には、身体からたましいは離れて存在しない。死んで、魂だけになって天国に行くというのは、もともとヘブライの思想にはない。そう考えるのは古代ギリシャ哲学、プラトニズムの伝統。この系譜は実はキリスト教の中にもおおいに影響を与えたし、近代デカルト以降の心身二元論にも影響している考え方だ。あるいは輪廻を考えるインド的思考も魂が自我に執着した影のようなものであったとしても、身体から離れたものとして存在すると考えている。人間のいのちを考えるとき、そうした心身二元論、魂だけの存在を積極的に考えることにどんな意味があるかと問う。
 (もちろん、キリスト教が魂を語ることに消極的なのではない。ただ、魂だけの存在ということにあまり積極的ではないということだけは確認したい。それは、この身体をもってのみ、その人がその人であるという神の創造の意図が働いていると理解するからだ。身体もこの世も、それが神の創造されたものであるという理解、そしてその肯定がなによりも現実への責任的存在としての人間存在を考える基礎なのだと。21世紀、この世界がウェブで結ばれ、時空を超える自由な魂の行き来を可能にしたとさえ思われる時代。私は、これを「ITプラトニズム」と呼んでいる。そんな時代だからこそ、じつはこの世界と身体を生きる意味を説くべきというのが私の思い。)
 すこし、この作品で考えたことをメモしておきたい。
 

 (ネタバレ・ストーリー) 
 高校生の‘三葉(みつは)’と‘瀧(たき)’は、偶然にもある日魂の入れ替わりを経験する。逆にいえば、年頃の男子と女子が身体の入れ替わりを経験するという、「いかにも」といった設定。東京の都会慣れした‘瀧’と岐阜の田舎育ちの‘三葉’。不思議な魂の入れ替わりは、単なる夢のように一日限りの出来事のようでもあったけれど、実際は繰り返されてそのうちにお互いにそれが夢ではなく、確かに魂の入れ替わがおこっているものと受け入れていく。もっともそれ自体も夢のようなものとして感じられていたかも知れない。入れ替わっている間の約束事も決めながら、それぞれが互いの人生に深く触れつつ、入れ替わったもう一つの人生を楽しんでいく。けれど、そうしているうちに、その入れ替わった相手に深い思いを抱くことになる。淡い恋…のはじまりを予感させる。が、その思いに自分たちが気づいたとき、その魂の入れ替わりがおこらなくなる。
 瀧は、どうしてももう一度三葉に合いたいと、自分が入れ替わっている間に見たその風景を絵に描き、それをたよりに彼女を訪ねにいこうと決心する。なかなか見つからないが、やがてその場所は3年前に彗星の割れた片割れが隕石となって落下した場所で町が一つ失われた場所だということが分かる。そして、その相手である三葉は、そこでいのちを落とした被害者の一人と知る。
 
 そのとき、はじめてこの二人の魂の入れ替わりが時空を超えるものだったことが知られるのだ。しかも、つまり、現実には死んだものの魂との交流であったと理解される。
 この切なくも不思議な物語は、ここで終わらなかった。瀧は三葉といまいちど魂の入れ替わりをもとめた。自分なら、この惨劇から彼女を救うことができる。いや、彼女だけではなくこの町の壊滅的な災害から町の人たちを避難させることができる。あの時にもどれば…。それをなんとしてもしなければと。
 
 果たして、魂の入れ替わりは起こり、計画は進められるが高校生が現実を動かすことなど遥かに難しく、あきらめかける。が、その最中、三葉と瀧は時空を超えた出逢いを奇跡の時間「たそかれ」に、経験する。そしてふたたびもとの身体に帰った三葉は、おそらく町長である父の力をもって町の救済を成し遂げる。ただその全ては映画には描かれない。しかし、あの被害にあった人々の記録はおそらく書き換えられて、奇跡的に助かったということになっている。そして、そんな魂の入れ替わりがあったことは、すぐに記憶からきえうせてしまう。

 ただこの二人の魂は、それでも相手を求めてふたたび奇跡の出逢いを成し遂げてこの映画は幕となる。

  


〜〜アニメ「君の名は。」を考える〜〜
 
 人の不思議な出逢い。巡り逢い、相手を深く求め、知り合っていくという奇跡。人が生きていく時にかけがえのない人と出会う。その出逢いの中でこそ、人は成長していく。いつもの新海氏のテーマがここでもストレートに語りだされる。

 恋愛の不思議には、誰にも覚えがあることだろう。そうした魂の出逢いの奇跡には、隠された、そして決して思い起されることのない魂の交換がある。この映画は、そんなロマンスを描いているようにも思われる。私たちが覚醒し、理性によって自分を秩序立てていることだけが、真実なものなのか。それはそうであっても、もっと豊かな、目に見えない「つながり」を人間の生の奥に見つめている。それがこのファンタジーが見るものを惹きつけるのだろう。

 けれど、この映画には、本当はもう一つのメッセージをもっている。というか、ストーリーの展開によって、見ているものは、そこへと誘われるのだ。
死者の霊との交わり。
 実は、この物語の深みはここにある。3年のタイムラグがある魂の入れ替わりという、隠されていた設定がこの確かな交わりが現実の世界ではけっして起こりえない二人の出逢いを造り出したのだった。
 三年前、彗星の破片隕石落下が彼女を含めた町そのものを消し飛ばしていた。この出逢いは、今は死者となっていた人の魂との交流であったという現実が、次第に輪郭を表してくるのだ。切なさと捕まえようのなさ。

 時空を超える魂の行き来は、人間の存在というものへの一つの考えかたであろう。事実、私たちはきっとコンピューターを媒介にしてこのウェブの世界のなかにそうした時空を超越するもの、永遠なるものをかいま見ている。だからこそ、こうした設定がリアルに迫ってくるのだと思う。

 この人の魂の交流の不思議に淡いストーリー。過去に戻って彼女らの町が救い出され、そして、その彼女との再会まで果たしてしまうという、ハッピーエンドは、大勢の人たちの満足を造り出したことだろう。これが驚異的な興行成績に繫がったことは間違いない。

 しかし、このハッピーエンドへと進ませたことは、いくらファンタジーといってもいただけなかったというのが個人的な感想だ。いや、ハッピーエンドが悪いわけではない。ただ一点。過去を書き換えたこと。これだけは、いただけなかった。

 ファンタジーなのだから、なんでも可能でいいのでは?
 そうかもしれない。

 けれど、やはり過去は変えられないし、死者は生きかえらない。
 いくら魂が時空を超えるからと言っても、現実の世界の過去を変えることは出来ない。ここは、どうしても超えてはならないのではないか。

 確かに、そうした原則がいとも簡単に超えられていくところが、この「SFファンタジー」というものなのだろう。今までもそうしたファンタジーはいくらでもあるのだ。タイムスリップもの。昔、アメリカのテレビドラマだったが、吹き替えで「タイムトンネル」という番組があったのを思い出す。二人の主人公が過去に行き来するSFだったが、そこでも歴史を書き換えてはならないということがお約束だったように記憶している。むしろ、時間旅行をしたために書き換えられそうになるその小さな違いを修正していくところがドラマ展開だったかと思う。もうさすがに幼少のことだったから憶えていないけれど…。あるいは、バック・トゥ・ザ・フューチャーは90年代の一大SFファンタジーのシリーズとなったのは記憶に新しいか…。
 
 とにかく、時間を超える行き来がもし可能なら、過去を書き換えたいと、思うのはごく当然の気持ちだろう。しかし、それは踏み込んではならないところなのだ。
なぜか。
 もしも過去が書き換えられたとして、そうなったとしたら、実際は、もはや書き換えられた過去は存在しないのだから、書き換えられえた事実もなくなるのであって、いっさいは全く異なった世界となるだけなのだ。それをハッピーエンドと呼ぶのは、その書き換えがあったということを知るファンタジーの読み手、ここでは映画を見ている者だけのものになる。そして、それは、実はすべてが虚しく消え去るだけなのだ。
 あるいは、ハッピーエンドというのは、その書き換えられる以前のひとりの人生のストーリーという本当に小さな一つの視点から見られたハッピーエンドでしかない。他の生きられた無数のストーリーの幸せは、この書き換えによって、見事にかき消されてしまうということになる。それは、果たしてハッピーなのだろうか。
 あるいは、もしそれが可能ということになると、実は過去はいつでも改められる可能性があって定まることがない。皆が、瀧や三葉のように過去を変えることにエネルギーを注ぎだしたらどうだろう。そうなると、もはや新しい時間を刻むことができないのだ。
 
 いや、そういうことを言うとファンタジーが成り立たないでしょうと、言われればその通りなのだけれど…。でも、過去の書き換えは、ファンタジーのなかであったとしても、禁じ手ではないかと思われるのだ。時空を超えるという交流とか出逢い、死者との交流をよしんば可能としても、してはならないこと。過去を書き換えるということは決して出来ないと知るべきなのだ。もっとも、敢えてそれをしてみせるのがファンタジー。そして、そうは出来ない現実を深く考えるように誘うものか。そうであればいいのだが、果たしてこの作品から、そうした問いまで届くかしら。

 むしろ、変えることのできない過去、生き返ることのないいのちのせつなさを抱きしめながら、それがありのままに受け止められて、あたらしいいのちの時間を刻んでいかれるようにファンタジーは描かれて欲しい。

 瀧は、生き返ることのない三葉のいのちをかけがえのないものとして、誰にも変わることのないその一つの命として、いとしく抱きしめて、それでもなお、自分自身の未来を描いて生きていかれるか。そのための力を得るようなストーリーこそがファンタジーに求められるのではないだろうか。

 この映画。彗星の破片が巨大隕石として落下して、町を飲み込んだ壊滅的惨劇をうみだしたという隠し球。しかし、それから8年の歳月がたったというところがラストの現在だ。
見ているものには、あの3・11の映像が二重写しになる。ならざるを得ないはずなのだ。そして、あの地震と津波で失われた命を思い、その魂とのつながりにかけがえのないいのちの切なさを思わずにはいられなかったはずなのだ。

 けれど、この現実は、決してあの時にまでもどってやり直すことは出来ないと、私たちは知っている。知っているけれど、あの失われた一人ひとりは、決して虚しく消えたわけじゃない。それぞれのつながりに生きて、その一人ひとりとの出逢いが、つながりが重ねられたはずなのだ。その絆、つながりが私たちのうちに憶えられるとき、そのいのちのかけがえのなさの真実が、より確かな意味を持つことになる。

 (憶えていた人が、もうひとりもいなくなるって?そう、だからこそ決して忘れることがないという永遠者の存在に、確かに導かれざるをえないのだが。)

 過去は変えられない。だから切なくも、もうかえらない。合うことは出来ない。しかし、それにも拘らず、そのいのち一つひとつへの私たちの感性が開かれるなら、その切実さをもって、私たちは生きている者たちだけではなく、死者もともに生きる明日を切り開くものとなる。
 誰もが、限られた時間を生きる。このいのちのかけがえのなさを、やり直すことのできない現実の中でこそ、私たちは知るのだ。
 
 安易に過去を変える誘惑に負けてしまうと、生きる時間はすべて虚しくならないだろうか。書き換えることのできない刻を刻むいのちの切なさ、切実さを、私たちはしっかりと抱きしめたいのだ。

 まあ、アニメはそれなりに面白かった。楽しめた。しかし、なんだか、逃げられた感じだったのだ。その何となく残った心の奥の寂しさのわけを、そっとたどってみただけなのだが…長くなってしまった。



2017-06-20

神学校修養会 牧師になるとき、幼稚園の園長になる?

 日本ルーテル神学校では、毎年5月か6月に神学生修養会を企画している。
 今年のテーマは「教会と諸施設」、6月18〜20日に行われた修養会では特に幼稚園・保育園の働きについての学びをいただいた。



 現在、日本福音ルーテル教会は全国に48の幼稚園・保育園を設置している。教会が120程だから、半分とは言わないけれども三分の1以上の教会が幼稚園・保育園の関係を持っているという計算になる。そして、実際の現任教職が100名弱、出向を除けば80名あまりの教職数だとなると、二人に一人は幼稚園・保育園との関係を持つというような勘定になる。つまり、日本福音ルーテル教会の牧師となると、その生涯で幼稚園・保育園を全く経験しないということはめずらしいことなのだろう。もちろん、それぞれ一つひとつの園によって、牧師の関わリの仕方はさまざまだ。園長になるばあいもあれば、理事としての責任をもったり、あるいはチャプレンとしての働きのみであったり。それでも、牧師館にすむことになれば施設管理等の責任は免れないだろう。
 教会は信徒を中心とした教会の活動だが、幼稚園・保育園ともなれば一般社会に開かれた公的な事業である。しかも、生活を抱えた職員を複数雇用してその労務管理などの責任も負いながら、その職員に働いてもらって日々の事業内容としてのキリスト教保育の実現し、具体的な対象である子どもたちとその保護者に深い関わりを持つということになる。
 牧師となるための神学教育においては、理論的にも実践的にも教会の神学を学ぶ訳だし、牧師になることの召命ということは、おそらくそうした幼稚園・保育園に関わるということとは全く異なるものであろう。それでも、現実には、そうしてひとたび牧師になれば、教会を営む、あるいは福音に基づいた礼拝の説教や聖礼典の執行ということとば別に加えてこうした教会の責任の中におかれる事業体の責任をもっていくことが少なくないということだ。
 一昔前であれば、そうした事業体は、事業体を主に担い、運営していく信徒が中心を持ってきていたかも知れない。海外からの宣教師とその宣教師についていった志を持つ教会員によって担われるようにしてはじめられた幼稚園・保育園は少なくない。ところが、いまや幼稚園・保育園を長く支えてきた信仰者がその次の世代に引継ごうとしてもその引き継ぎができないという現実を抱えている。クリスチャンではない多くの職員のなかからその力を持つ人材を得ることができればまだいいが、それすら出来にくいという現実に直面してきている。そういう時代だ。だから、牧師に対する現実的な期待は高くならざるを得ない。
 
 実際、今年の春卒業した三人の新卒の牧師たちはいずれも幼稚園・保育園と関わりのある教会だった。新任で兼牧で、施設がある。そんなことはめずらしいことでもなくなり、避け得ないこととなっている。では、神学校はそれに応える教育を行えているのか。それは難しい。限られた時間のなかで牧師となるための教育は、それだけでかなりの時間を必要としているのだ。後は現場でオン・ザ・ジョブ・トレーニングとしてもらわねばならないのだ。
 けれど、そのためのオリエンテーションも必要だろう。神学校が牧師を育てる責任を持つという時に、現代社会のさまざまな課題に取り組む神学的な力を身につけさせていきたいが、やはり、今の自分たちの教会が展開している福祉、保育・教育という事業についての責任を考えなければならないだろう。
 今回、三人の講師の先生方を通して、この課題を学ぶ機会と出来たことは、非常に有意義だった。

 

2017-06-14

ルターの宗教改革500年と福祉・教育

 宗教改革は、今から500年前、1517年10月31日、ルターが95ヶ条の提題をもって、当時の教会がキリストの福音を曇らせていないかと改革を呼びかけることにはじまる。前後して、ルターは聖書を基にして教会と信仰生活の教え、実践についての改革の考えを示していく。信仰者一人ひとりが福音の喜びに生かされるためには、その時の教会のあり方に疑問があったということだ。しかし、この改革の運動は単なる神学論争なのではなく、西欧のキリスト教社会全体に新しい市民社会の成立を準備するような大きな運動となった。

 ルターは教会を聖職者が働く組織ではなく、信徒一人ひとりがキリストのみことばに生かされるという全信徒祭司(万人祭司)の考えによって、教職も信徒も霊的に区別なく、信仰者が基本的に隣人に愛をもって執り成し、仕えるものとした。どのような職業、また立場も、家庭や社会において愛を持って生き、働き、隣人のために仕えることが、神に求められたベルーフ(召命)であると教えた。その意味で、いわゆる聖職者だけが聖なのではなく、皆それぞれの生活の中で聖いものとされ、神と人に仕えるものと考えたわけだ。キリスト教と世界、聖と俗とを分けるのではなく、まさにこの俗なる世界の只中に神の働きを信仰において表すようにと考えたといってもいいだろう。ルターは修道院を廃止した。

 そして、ルターは社会の具体的な課題として、実際に社会で困窮する貧困者の問題にいち早く着目して、そうした人々を共同基金によって援助する仕組みを整えるように市惨事会や領主に訴えていくこととなった。もともと福祉的働きは修道院によって担われていたわけだから教会の働きということでいえば新しさはないが、ルターは修道院という特別な霊的階級を認めず、むしろキリスト者一人ひとりがそうした働きを生きるものと考えた。それゆえ、社会全体の課題として社会的弱者を支援していくということが考えられるようになる。

 また、教育という点においても同様で、まだ子どもは小さな大人というくらいにしか考えられなかった時代に、ルターは子どもという存在の特別な意味を認めている。子どもは、男女の差別なく、聖書を自ら読むことと、神のみこころに従い、社会・家庭での良き市民として貢献するものとなるよう教育することが必要であり、社会はその教育を与える義務を持つことを明らかにしている。

 もちろん、こうした福祉や教育が西欧世界全体に整えられるのには時間も必要だし、近代市民国家の成立を待たなければならないこともある。けれども、少なくとも教会の宣教は、信徒一人ひとりが、神のみこころに生きて、社会の中で困窮する人を助け、また次世代を育てていく責任を社会の課題として受け止めていくように準備した。宗教改革は、単に礼拝や信仰の刷新ということに留まらず、教会として福祉や教育という働きを担うものであることを信徒一人ひとり自覚させたといえよう。

 ルターの宗教改革500年を迎える時、こうした教会の宣教が、今日の福祉や教育の原点となったことを確認することは意義深いことであろう。

2017-06-08

ルターとバッハ オルガンコンサート

 今年は、ルター宗教改革500年ということで、もろもろの行事が行われる。わけても、ルター宗教改革がもたらした文化・芸術の分野での企画は数は多くないが関心は高い。先だって東京と大阪の会場で行われたルーカス・クラナッハの「500年目の誘惑」も多いに関心を集めた。クラナッハがルターと同時代人というばかりではなく、ルターの友人として沢山の肖像画を描いていることはあまり知られていなかったかも知れないが、宗教改革の時代とその時代的・文化的背景や影響に触れることのできるものだ。もう一人、画家であり、多くの木版画で知られるアルブレヒト・デューラーもルターから多くを学び、福音を伝える聖画を残している。
 クラナッハやデューラーはルターと直接の親交があった芸術家たちだが、時代がくだってルターとは直接の面識はないが、それでもルターの著作に多くの学びを得た芸術家のひとりが、音楽家ヨハン・セバスチャン・バッハである。



 バッハといえば「音楽の父」とさえ呼ばれ、18世紀に最も活躍した音楽家のひとりでバロック音楽の巨匠だ。このバッハは、ドイツ、ライプツィッヒの聖トマス教会カントールであると知られているが、もちろんルター派の教会で幼い頃からルーテル教会の中で育ったのだ。ルターは教会の改革を神学的な側面で推し進めたばかりでなく、具体的な教会生活、わけても礼拝を大きく改革したのだが、会衆が礼拝そのものにおいて共にみことばに生かされていくように、会衆賛美歌を導入したことはよく知られている。いわゆるコラールと呼ばれるものだ。それまで、特別な訓練を受けた修道士、聖歌隊が礼拝での賛美を担当していたのだが、ルターは会衆こそがこの賛美歌を歌うことで、みことばを受け、共にそれを口にして礼拝から派遣されていくようにと、会衆歌としての讃美歌コラールを礼拝のなかに位置づけた。自ら作詞作曲もしているが、当時の民衆のなかで親しまれていた流行歌のようなメロディーにのせて神の福音を歌詞に歌うものが沢山つくられるようになった。それが、会衆の歌う賛美歌のはじまりだ。
 このコラールによって育ったルーテル教会育ちのバッハは、自らまた沢山のコラール編曲、作曲を行った。そして、彼は音楽家としてルターの福音理解に立って、それを音楽によって皆で神の恵みに生かされていくように作品をつくり続けたといってよいだろう。ルターの著作集を書斎においていたバッハは、折りに触れてルターと対話しつつ、神の深い恵みを音楽のなかに求め表している。その表現力に圧倒される。

 さて、そのバッハの音楽に触れる機会の一つとして、ルーテル学院は特別のオルガンコンサートを企画している。昨年、チャペルに与えられたパイプオルガンについての感謝とそのお披露目の意味も込めながら、企画している。
詳しいことは、下線の引いてある下のタイトルをクリック。曲名なども紹介している。申し込み方法も、ここで確認。

 宗教改革500年「ルターとバッハ オルガンコンサート」

ルーテル学院のオルガニスト湯口依子先生によるコンサートだ。
先着200名さまの要予約。

追加:素晴らしいコンサートでした。湯口先生に感謝。
   コンサートは二部構成で、前半はルターのコラール。後半はルターの教理問答に基
   づく選曲でした。

今回、短〜く、「ルターとバッハ」についてお話する機会を与えられて,少し整理しながら調べていくと、やはりオルガン芸術そのものがルター宗教改革によって生まれてきたということがよくわかった。
 会衆が教会に集い、賛美を歌う。このコラールの誕生が以後の教会音楽、そしえオルガン芸術に決定的な影響をあたえたのだ。つまり、会衆の賛美が当然となれば、これを支える伴奏を行うオルガンが必要とされたということだ。宗教改革から百年くらいかかって、次第にこうした会衆の歌うコラールとその賛美を支えるオルガンという対応がしっかりと位置付いてくる。シュッツ、シャイン、シャイトらが1600年代のオルガン芸術をコラールをもとに確立させてくる。そして、また会堂全体に響きわたり、会堂がが丸ごと楽器になるようなオルガンが作られるようになる。アルプ・シュニットガーらオルガンビルダーが登場する。そして、このオルガンが用いられて、礼拝のために賛美歌を支えるということと同時に、その賛美歌をアレンジして礼拝の前奏曲や後奏曲が作られたのである。
 やがて、パッヘルベル、ベーム、そいてブクステフーデらの世代が出てくることとなったのだ。このブクステフーデこそ、バッハの師といってよいだろう。
 ルターが宗教改革を行い、礼拝改革を行って、会衆みんなで歌うコラールを作らなければ、こんなに素晴らしいオルガンの楽曲もパイプオルガンさえも発達しなかった、ということようだ。



2017-05-14

これからの神学教育を

日本神学教育連合会。
 全国で牧師・司祭など教職を養成する神学教育を担う大学の神学部、教派神学校の代表が年に一度集い、情報交換と交わりを深めている。いずれの教派であっても、少子高齢化した社会と教会の現実があり、また教会そのものの霊性も弱っていて、献身者がなかなか得られない。牧師の数が少なくなって、神学教育を担う人材も少なくなっているという現実もある。
 戦後のキリスト教ブームから高度経済成長期に右肩上がりの教会や社会の状況で体制を作ってきた神学教育の制度や組織の状況は大きく変わっていて、これを維持することに困難を生じている。すでに、現実に合わない制度疲労を起こしているのだ。
 ただ、そのような状況のなかで、それぞれに神学教育の使命を自覚し、教職養成ということばかりではなく、信徒育成、またキリスト教関連の諸施設(福祉や幼稚園・保育園など)での働き人を意識しながら教育の幅を広げて取り組んでいる。教会という枠組みや洗礼をうけたキリスト者ということに限らないで、社会のなかに必要な人材を育成する必要を見ている。キリスト教の公的役割を自覚して来ているとも言えよう。
 いずれにしても、それぞれの神学校の厳しい現実を分かち合いながら、今後どのように教派の枠をこえた協力体制を構築できるのかという現実的な問題がもっぱら話題に上ってきている。
 神学・神学教育の現実は、欧米からの翻訳的な方法ではなく、アジアという具体的な脈絡を意識しながら日本の現実に根をおろした姿を模索しているということでもあろうか。でも、アメリカではすでに教派をこえた神学教育は実現している。
 宗教改革500年、エキュメニカルな交わりを考えるときでもある。新しい、これからの神学教育の姿を求めていく必要を分かち合う時間となった。
  
(写真は1969年以前の鷺宮にあった日本ルーテル神学校。時代とともに神学校は姿を変える??)


2017-05-07

ルターとエキュメニズムの前進

 日本福音ルーテル教会・東教区宣教ビジョンセンターは、今年宗教改革500年を記念して、テーマ「ルター、その光と影」を掲げて毎月一回ずつ全10回の講演を企画した。その第三回目に、担当が与えられた。「何か話して」と依頼され、「なんでもします」と応えたものの、なかなか準備の時間もなかろうと、今年のローマ・カトリックとの企画について話してくれたらいいからと、お題を頂戴した。


 ここ数年、日本福音ルーテル教会とローマ・カトリック教会とのエキュメニズム委員を担当し続けてきたので、今、日本で取り組まれているカトリックとルーテルの対話とその成果についてお話しするには、材料に事欠かないし、今年の秋の大きな共同の記念企画には、はじめから関わってきているので、その取り組みの進展をお分かちできることは、秋に向けて、絶好の好機となる。
 気軽に受けていたが、いざ、改めてお題を見て、唸る。

「ルターとエキュメニズムの前進」

さすがに、このテーマには準備が必要だ。ルターが今日のエキュメニズムの進展ということにどのような関係があるのか。ルターは、むしろ教会に分裂をもたらしたのではないかという「汚名」まで着せられるのではないか。エキュメニズムの進展とは20世紀の産物であって、ルターその人との「直接の関係」はない。

しかし、問題はそこから先にある。ルターこそ、今日のエキュメニズムの原則を示したのではないか。宗教改革とは何かということを問えば問うほど、実はエキュメニズムとの関係に示唆を与えられるのだ。

ルターに学ぶものは、ルーテル教会を形成するのではなく、「一つの、聖なる、公同の、使徒的教会」を絶えず歴史の中に問い直すものとなるべきなのだ。
そのこころは…

明日の発表の後にここにもアップしたい。




2017-04-08

デール記念講演 『寄り添い人となる——全信徒祭司の教会』

今年は、ルターの宗教改革から500年を記念する年となりますが、宗教改革の教会の一つの特徴として、教職と信徒の間に霊的な差を認めず、牧師を含む全ての信徒がキリストによって祭司として互いに仕え、とりなし、支えあう全信徒祭司性の考え方が挙げられます。




 病気の人を見舞ったり、災害の被災者を支援したり、教会では信徒も牧師もそうした困難をもっている方に寄り添い、祈り支える者となることが求められていますし、そうありたいと願うものです。
 けれども、実際のところ、いったいどのように寄り添う者となり得るのか、具体的なことの前に戸惑い、足踏みをしていることがおおいのかもしれません。
 信徒も牧師も、教会の働きとしての牧会を担うものであるように、必要な学びのプログラムがステファン・ミニストリーという取り組みになって作られてきました。今年の記念講演会では、このプログラムをつくられたケネス・ハーグ氏をお迎えして、全信徒祭司の教会とはどういうことなのか、共に学びたいと思っています。

      日時:2017年5月20日(土)10時半
      場所:日本福音ルーテル東京教会
      講演者:ケネス・ハーグ氏 (米ルーテル教会牧師、精神科医)
                              アミティ・ハーグ氏(信徒牧会者養成指導者)

 多くの皆さまにおいでいただき、共に学び、また共に新しい力に満たされていきたいと考え、ご案内申し上げる次第です。どうぞ、それぞれの教会でご紹介いただき、お誘い合わせの上、おいでいただければと思います。