2017-06-14

ルターの宗教改革500年と福祉・教育

 宗教改革は、今から500年前、1517年10月31日、ルターが95ヶ条の提題をもって、当時の教会がキリストの福音を曇らせていないかと改革を呼びかけることにはじまる。前後して、ルターは聖書を基にして教会と信仰生活の教え、実践についての改革の考えを示していく。信仰者一人ひとりが福音の喜びに生かされるためには、その時の教会のあり方に疑問があったということだ。しかし、この改革の運動は単なる神学論争なのではなく、西欧のキリスト教社会全体に新しい市民社会の成立を準備するような大きな運動となった。

 ルターは教会を聖職者が働く組織ではなく、信徒一人ひとりがキリストのみことばに生かされるという全信徒祭司(万人祭司)の考えによって、教職も信徒も霊的に区別なく、信仰者が基本的に隣人に愛をもって執り成し、仕えるものとした。どのような職業、また立場も、家庭や社会において愛を持って生き、働き、隣人のために仕えることが、神に求められたベルーフ(召命)であると教えた。その意味で、いわゆる聖職者だけが聖なのではなく、皆それぞれの生活の中で聖いものとされ、神と人に仕えるものと考えたわけだ。キリスト教と世界、聖と俗とを分けるのではなく、まさにこの俗なる世界の只中に神の働きを信仰において表すようにと考えたといってもいいだろう。ルターは修道院を廃止した。

 そして、ルターは社会の具体的な課題として、実際に社会で困窮する貧困者の問題にいち早く着目して、そうした人々を共同基金によって援助する仕組みを整えるように市惨事会や領主に訴えていくこととなった。もともと福祉的働きは修道院によって担われていたわけだから教会の働きということでいえば新しさはないが、ルターは修道院という特別な霊的階級を認めず、むしろキリスト者一人ひとりがそうした働きを生きるものと考えた。それゆえ、社会全体の課題として社会的弱者を支援していくということが考えられるようになる。

 また、教育という点においても同様で、まだ子どもは小さな大人というくらいにしか考えられなかった時代に、ルターは子どもという存在の特別な意味を認めている。子どもは、男女の差別なく、聖書を自ら読むことと、神のみこころに従い、社会・家庭での良き市民として貢献するものとなるよう教育することが必要であり、社会はその教育を与える義務を持つことを明らかにしている。

 もちろん、こうした福祉や教育が西欧世界全体に整えられるのには時間も必要だし、近代市民国家の成立を待たなければならないこともある。けれども、少なくとも教会の宣教は、信徒一人ひとりが、神のみこころに生きて、社会の中で困窮する人を助け、また次世代を育てていく責任を社会の課題として受け止めていくように準備した。宗教改革は、単に礼拝や信仰の刷新ということに留まらず、教会として福祉や教育という働きを担うものであることを信徒一人ひとり自覚させたといえよう。

 ルターの宗教改革500年を迎える時、こうした教会の宣教が、今日の福祉や教育の原点となったことを確認することは意義深いことであろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿